ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (四)
- ﹃パルザズ・プレイス﹄以前のラヴイルマルケ -Ⅹ ブルターニュ・ナショナリズムの高揚
栄
ーノ英
俊
ジャン・フランソワ・マリー・ルゴニーデック ラヴイルマルケの筆を通して先鋭的な形で現れたブルターニュのナショナリズムはt Lかしけっして彼一人のうちで醸 成されたものではなかった。それはたしかに極端に誇張されたものであったとはいえ'紛れもな-一八三〇年代後半にお けるパリのプルーン人サークルの雰囲気を反映してもいたのである。 ここで再び'この時代の「アシェランス・ジェネラル」の周辺に目を転じてみよう。なかでも一人の人物に焦点を当て なければならない。在野のブルトン語研究家'ジャン・フランソワ・マリー・モーリス・アガ1-・ルゴニーデック J e a n -F r a n 9 o i s -M a r i e -M a u r i c e -A g a t h e L e G o n i d e c で あ る 。 ブ ル タ ー ニ ュ の ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 覚 醒 は ' こ の 人 が パ リ の 地 を 踏 んだときにはじまるとも言えるからだ。まずは手短にその生涯を見よう(-)。 ルゴニーデックは一七七五年、レオン地方はル・コンケに生まれた。その前半生はけっして平穏なものではない(-)。生 ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (四)梁 川 英 俊 後わずか十七ケ月で母を亡-すと、父は彼を養子に出す。養父母は裕福で教育熱心だった。十二歳のとき寄宿生とlしてト レギエのコレージュに入った彼は、そこで同級生だったラヴイルマルケの父親と知-合う。だがこのコレージュはルゴニー デックが十七歳になろうとしていたとき'大革命によって閉鎖されてしまう。しかも「反革命」 のレッテルを貼られた彼 は 、 革 命 派 か ら 追 わ れ る 身 と な っ た ( 3 ) 。 大革命期のルゴニーデックの行動については「伝説」が多い。なかでも、一八九三年'ブレストの路上で逮捕され'ギ ロチンに架けられる寸前に友人によって救われたという話は、後年彼が好んで語るところであった。イギリスに渡-、あ る婦人の家で一年ばか-客となったという話もある?同名の人物を港で待っていた女中が人違いをしたというのがことの 顛末だが、真偽のほどは定かではない。モルビアンとコート・デユ・ノールで内戦に参加して重傷を負ったともいう。あ るいは再びイギリスに渡り'そこから名高いキブロンの遠征に参加したとも伝えられる(4)。しかし、この時期の彼の消息 で実際に資料によって確認されているのは、一八九三年に逮捕されてカレーの監獄に収監されたということだけで、翌年 釈放されてから一八九七年までの足跡は明らかではない(5)。 この革命期の混乱はまた彼がブルトン語研究に手を染めるきっかけも与えた。ルゴニーデックは'幼少期に話していた ブルトン語を、成人してからはほとんど忘れてしまっていた。素性を知られぬよう農民に紛れて暮らしていた彼は'ある 日出くわした憲兵からプルーン語で尋問される。彼は答えることができなかった。幸い一緒にいた子供の助けで危う-難 を逃れたが'このとき彼はもう一度プルーン語をや-直す決意を固めたというのである(6)。いずれにせよルゴニーデック のプルーン語研究が、こうしたきわめて個人的な動機から出発していたことは注目されていい。 一八〇五年、そんなルゴ土-デ.ックに「ケル-・アカデミー」の設立という願ってもない出来事が起こる。当時パリに いたルゴニーデックは'早速その会員として名を連ね、その年の六月八日'コ1-・デユ・ノール県の「ランレフ教会堂」
T e m p l e d e L a n l e f f に 関 す る 簡 単 な 発 表 を 行 い 、 翌 一 八 〇 六 年 に は ﹃ ケ ル ト ・ ブ ル ト ン 語 文 法 ﹄ G r a m m a i r e c e l t o -b r e t o n n e を刊行Lt その功績によってアカデミーの一年任期の秘書に任命されている。一八〇八年発行の﹃ケル-・アカデミー年 報 ﹄ に は 、 ブ ル ト ン 語 の レ オ ン 方 言 に よ る ﹃ 放 蕩 息 子 の た と え 話 ﹄ p a r a b o l e d e V E n f a n t p r o d i g u e を 発 表 、 翌 年 も 同 じ 雑 誌 に﹃ギリシャ語およびドイツ語に類似したプルーン語の語桑の一覧表﹄を掲載している。「ケル-・アカデミー」という とどうしても「ケルトマニア」のいかがわしいイメージが付きまとうが、ルゴニーデックの仕事はそうした似非学問とはっ き -と 一 線 を 画 す も の だ っ た ( 7 ) 。 し か し ' 彼 の パ リ 暮 ら し も 長 -な か っ た 。 「 海 軍 森 林 管 理 課 」 A d m i n i s t r a t i o n f o r e s t i e r e d e l a M a r i n e の 官 吏 で あ っ た ル ゴ ニーデックは、一八二一年のハンブルクを皮切-に、ナンシー、ナント'ムーランとつぎつぎとその任地を変える。一八 一八年、ようや-アングレームに安住の地を兄いだしたルゴニーデックは'そこで人生でもっとも多産な時期を迎えるこ と に な る 。 ﹃ ケ ル ト ・ ブ ル ト ン 語 辞 典 ﹄ D i c t o n n a i r e c e l t o -b r e t o n ( 一 八 二 一 年 ) ' ﹃ ブ ル ト ン 語 難 語 辞 典 抜 粋 ﹄ E x t r a i t d u g l o s s a i r e b r e t o n 一 八 二 三 年 ) 、 ﹃ 歴 史 的 カ テ キ ス ム ﹄ K a t e k i z h i s t o r i k ( 一 八 二 六 年 ) ' ﹃ プ ル ー ン 語 新 約 聖 書 ﹄ T e s t a m e n t N e v e z ( 一 八 二 七 年 ) と 成 果 は 矢 つ ぎ 早 に 発 表 さ れ た 。 なかでも、ここでと-に触れておきたいのが﹃新約聖書﹄ のプルーン語訳についてである。この翻訳を企画したのは' ロ ン ド ン の 「 英 国 な ら び に 諸 外 国 聖 書 協 会 」 B r i t i s h a n d F o r e i g n B i b l e S o c i e t y だ っ た ( 8 ) 。 聖 書 の 普 及 と 翻 訳 を 目 的 に 一 八 〇四年に設立されたこの団体は、ブルターニュが俗語訳の聖書をもたない稀な地方であることに注目した。一八一四年、 この協会からの依頼に'「フランス考古学協会」が翻訳者として推薦したのがルゴニーデックだった。しかし、この話は その後英仏関係が険悪になると立ち消えになってしまう。この計画を復活させたのが、デヴィッド・ジョーンズ師leRev. DavidJonesだった。師は一八二四年から一八二五年にかけてブルターニュを旅し、ルゴニーデックとも面会するが'帰 ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (四)
梁 川 英 俊 国 後 間 も な く 病 死 し て し ま う 。 後 継 者 と な っ た の は ' ウ ェ ー ル ズ 人 の ト ー マ ス ・ プ ラ イ ス 師 l e R e v . T h o m a s P r i c e だ っ た 。 ジ ョ ン ・ ヒ ュ ー ズ 師 l e R e v . J o h n H u g h e s の 著 書 ﹃ ブ リ テ ン 人 の 時 代 ﹄ H o r a e B r i t a n n i c a e ( 一 八 一 八 -一 八 一 九 年 ) を 通 し て'ウェールズがベラジウス派の影響を免れたのはブルトン人のおかげであったことを知った彼は、プルーン語版聖書の 出版こそがその恩義に報いる道だと考え、自らプルーン語を学び始める一万㌧資金調達のため積極的にウェールズの諸団 体に働きかけた。 もっとも実際に計画が動き出すと、両者の間にはさまざまな敵齢が生まれた。なによ-もウェールズはプロテスタント、 フランスはカトリックの国である。プライス師はプロテスタントの慣例に従ってギリシャ語版聖書を底本として翻訳する ことを望んだが、ルゴニーデックはカトリックの聖書を作るべ-ラテン語のウルガ-タ聖書やルメートル・ド・サシの仏 語訳聖書を参照して譲らなかった(9)。そのうえ、カンペールの司教からも横槍が入った。司教はルゴニーデックによる ﹃マタイ伝﹄ の翻訳を読み、その正確さは認めたものの、出版には難色を示した。高位聖職者は聖書の翻訳が民衆の手に 渡ることを快-思わないだろうというのがその理由だった(2)。 こうした貯余曲折はあったものの、ルゴニーデックのプルーン語版新約聖書は'一八二七年にともか-も陽の目を見る。 もっとも当初の意図とは異な-、印刷された千部のうち大半はウェールズで売られ、ブルターニュで普及することはほと んどなかった(‖)。しかし、それはルゴニーデックが続けて旧約聖書の翻訳に手を染めることを妨げるものではなかった。 一八三三年九月、勤め先の海軍森林管理課が廃止されると'ルゴニーデックは身に合わぬ官吏の仕事に別れを告げ'十 五年間住んだアングレームを離れてパリに出る。そして、これから死去するまでの五年間が'彼の短いが充実した第二の 人生となる。
首都のブルトン人コロニーの魂 さて'ここで思い出してみよう。ルゴニーデックがパリに来た一八三三年九月とは'どんなときであったか。それはま ず'ちょうどエミール・ス-ヴエストルが﹃両世界評論﹄ にブルターニュに関する最初の論考を発表したときであった。 しかも同年十一月にはミシユレによるブルターニュ論も発表され'また同じ頃には'ラヴイルマルケも故郷カンベルレを 出てパリに上って来ようとしていた(望 ルゴニーデックはまさに'首都でブルターニュをめぐる新しい動きが始まろうと していたそのときにパリに現れたと言ってもよかったのである。実際、彼の名はすでに首都のブルトン人の間では有名だっ た。早速'オーギユスト・ド・グルキエフの好意によって「アシユランス・ジェネラル」 に職を得た彼は、ほどなくパリ のプルーン人サークルの中心的な存在になる。わけても'ヴイクトワール通-のクルシー三兄弟の「屋根裏部屋」に寄-集った青年たちは彼を慕った。彼らはルゴニーデックを介して初めて真に故郷の言葉や文化を知-、徐々にそのプルーン 人としてのアイデンティティーに目覚めていく。 なかでも熱心だったのは、ラヴイルマルケとブリズーだった。と-に父親がコレージュでルゴニーデックの同級生だっ たラヴイルマルケは'誰よ-も彼に私淑Lt毎晩同じ時刻に彼の家を訪ねてはプルーン語の教えを乞うた(2)。彼はこう回 想する。「親切にもルゴニーデックは'そのときまで私が規則も知らずに話していた言葉を理論的に教えてくれたし、ま た私が当時出版しょうとしていた民衆歌のテキストにもたいそう興味を示して-れた。綴-字や単語や文章に不適切なと ころがあれば正してくれたし、表現を説明してくれたりもした。私が錯絡するいろんなヴァージョンに足を取られて身動 きできな-なると、脈絡を見つけ出して救って-れることもしばしばだった。私は ﹃パルザズ・プレイス﹄ の初版で、私 がどんなに彼に感謝しているかを述べた。三十年経ったいまも、その気持ちは少しも変らない(:)」。 一方、ラヴイルマルケよ-十二歳年上のブリズーも'熱心さという点では劣らなかった。それどころか'彼はルゴニー ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (四)
梁 川 英 俊 デック自身から精神的な後継者と目されてもいたのである。実際'﹃マリー﹄ でl躍評判となったこの拝情詩人は(ほ)'ル ゴニーデックと出会うことで'パリでブルトン語の詩人になる。それも故郷バ・ヴアンヌ地方のブルトン語ではない。ル ゴニーデックに教わったレオン方言によるプルーン語の詩人になるのである。一八三七年に出版された最初のブルトン語 の詩集は'十六ページばか-の小冊子で、﹃アルモリカの竪琴﹄TelennArvorと題されていた。ラヴイルマルケはこう証 言する。「ブリズーは好んでルゴニーデックに自分のプルーン語の詩を読んで聴かせた。しかも'彼に聴いてもらわずに は一篇の詩も作れなかった。﹃アルモリカの竪琴﹄ には'ルゴニーデックが手を加えた箇所が少な-ない(e)」。 ルゴニーデックは'ブリズーやラヴイルマルケにとって'まさに彼な-しては何も始まらないというような不可欠の存 在だったのである。もっとも、その教えを受けたのはこの二人にとどまらない。クルシー兄弟'なかでもブルターニュ関 係の著作を準備していたポルとアルフレッドも一再ならず彼に助言を仰いでいたし、﹃両世界評論﹄ の論考を執筆中のエ ミール・ス-ヴエス-ルも'しばしばルゴニーデックに不明の箇所を訊ねていた。最古のプルーン語テキスト﹃聖ノンの 生 涯 ﹄ B u h e z S a n t e z N o n n の 翻 訳 の 仕 事 も ' 最 後 の 頼 み の 綱 と ば か -に ル ゴ ニ ー デ ッ ク の も と に 持 ち 込 ま れ た L t わ ざ わ ざ故郷の方言で詩を作って見せに-るル・ジエビウ-神父 LeJoubiouxのような人もいた(誓さらに地方から手紙に よる教示の依頼もあった。なかでもトルード大佐C0-0ロe-Troudeは'一八二七年にアングレームでルゴニーデックと会っ て以来ブルトン語の虜となっていたがう その慧眼でしばしば彼を驚かせた。このエコール・ポリテクニック出の士官は' ル ゴ ニ ー デ ッ ク の 死 後 、 ﹃ フ ラ ン ス 語 プ ル ー ン 語 基 本 語 辞 典 ﹄ V o c a b u l a i r e f r a n g a i s -b r e t o n を は じ め と す る 師 の 遺 稿 の 出 版 に 尽 力 す る こ と に な る ( 2 ) 。 いつしかパリのブルトン人青年の間では、「ルゴニーデックに訊きに行こう」という合言葉ができていた(2)。ブリズー はルゴニーデックをのちに「首都のプルーン人コロニーの魂(S)」と評したが'それはけっして誇張ではなかったのである。
ブルターニュの宴 ところで、ブルターニュとその言語のために献身的に働いたとはいえ'ルゴニーデックはけっしてナショナリストでは なかった(S)。しかし彼と接触してブルトン人としてのアイデンティティーに目覚めた若者のなかには'その愛郷心を一気 にナショナリズムにまで高揚させる者もいた(誓彼らはしばしば過去のブルターニュの独立を過大評価し'安易にブルター ニュ対フランスという対立図式を振-かざした。ラヴイルマルケはさしずめその代表格だった(誓しかも彼らの昂まる故 郷への想いは'それを狭い同郷人のサークルのうちに留めてお-ことを許さなかった。師のルゴニーデックを'そして目 覚めはじめた新しいブルターニュを人々に知らさなければならないという使命感は、やがて彼らにそのナショナリズムを 外部に向けて発揚する場を求めさせるようになる。こうして企画されたのが「ブルターニュの宴」であった。 最初の宴は一八三六年に催された。もっともラヴイルマルケやブリズーが大いに宣伝に努めたにもかかわらず」 この会 はそれほど評判にはならず'残念ながら詳細は知られていない。ただブリズーがプルーン語で書いた最初の作品を読み上 げ た こ と が 伝 え ら れ て い る -ら い で あ る ( S ) 。 し か し ﹃ プ ル ー ン 人 の 歌 ﹄ K a n a o u e n n a r V r e t o n e d と 題 さ れ た そ の 歌 は ' ブ レスーの日刊紙﹃アルモリカン﹄L'Armoricainに掲載されたほか、俗謡刷-としても多数印刷され、ブルターニュ中で愛 唱 さ れ る こ と に な っ た ( 8 ) 。 一方'翌一八三七年二月に開かれた二度目の会は評判を呼んだ。招待客にはシャトーブリアンやラムネIなど首都に住 むブルターニュ出身の有名人が名を連ね、その豪勢な様子はナントの正統王朝派の新聞﹃エルミ-ヌ﹄ でも大き-報じち れた(誓開会の挨拶に立ったルゴニーデックはこう述べた。 私がこの会合の目的をきちんと理解しているとすれば、今日私たちをここに集わせているのは'プルーン人にとって ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (四)
梁 川 英 俊 なによりも貴い 「祖国」 への愛です。(--) 私はブルトン語が私たちの賞賛に値するものであることを示すべ- 'わ が人生の三十年以上を捧げてきました。(--) プルーン語を忘却や中傷者の悪意から救おうと欲し'学者たちに切り 描-べき新しい道があることを明らかにしました。(--)学問や文芸の泉に身を浸すべ-故郷の山々を出てパリに来 た勤勉な若者たちは'気晴らしの種にこと欠かぬこの都で'先祖たちの質朴な風習を散文や韻文で称揚すべ-その余暇 を捧げてお-ます。(--)私たちは'私たちに固有の言葉をいまだに保持していることを誇-に思おうではありませ んか。そうすれば'私たちが長-独立不帝の民であ-'優れて愛国的な民であ-'過去に誇るべき栄光をもつ民であり' つねにつぎの言葉を金言とする民であることもまた記憶されることでしょう。「プルーン人よ'永遠なれ」(」)。 その後宴会は'ブリズーやラヴイルマルケやポル・ド・クルシーなどによる乾杯や挨拶'そして数々の歌で盛-上がっ た 。 な か で も ラ ヴ イ ル マ ル ケ は 、 ﹃ ブ ル タ ー ニ ュ の 自 由 ﹄ L a L i b e r t e B r e t o n n e と 題 さ れ た つ ぎ の よ う な 自 作 の 頒 歌 を 披 露 し た 。 皆の衆、耳を傾けよ。-静粛に、 われわれは歌いたいのだ'フランスの真申で 歌いたいのだ 一篇の頒歌を'プルーン人のために かつて、先祖たちは陽気だったが'
いま'われわれは泣いている、 とまれ'兄弟たちよ、幸福はまた来る、 われわれはいまもプルーン人なのだから。 先祖たちは自由だったが'われわれは鎖につながれている、 しかしその鉄鎖を'いつか打ち砕-だろう' われらが体内にはなお彼らの血が流れる' われわれはいまもプルーン人なのだから。(--) そう、再び見ることだろう ア-ミンの紋章が われらが大隊の上に翻るのを。(--) そう、われわれもまた'先祖たちのように' 大いなる日にはこう言えるだろう。「ともに死のう」と(8)。 さて、一読して一年前に発表された﹃パルディスムの名残﹄を妨俳とさせるこの頃歌は、その歌詞が﹃エルミ-ヌ﹄紙 上 に 掲 載 さ れ る や 物 議 を 醸 し 出 し た ( S ) 。 ブ レ ス ー の 新 聞 ﹃ ア ル モ リ カ ン ﹄ L ' A r m o r i c a i n は 、 こ の 歌 の 内 容 を 「 か な り 奇 妙 だ」と論評した上で'戸惑いがちにこう書いた。「ド・ラヴイルマルケ氏はメルクールの子孫の誰かを君主に擁立してブ ルターニュ公国を建国したいのだろうか。これは些かウルーラ・プルーンではないだろうか。はっきり言って、われわれ ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (四)
梁 川 英 俊 の愛郷心はそれほどのものではない。もしそんなことは言っていないというならばt では鎖につながれているとはどうい うことなのか。どんな鉄鎖を打ち砕かねばならないというのか。しかも'本当にブルターニュが泣いているならば'われ われが今までそれに気づかなかったということがあるだろうか(S)」。 数日後'﹃エルミ-ヌ﹄はラヴイルマルケから寄せられたこんな返答を掲載する。「私の歌を奇妙だ (それ自体はなんの 変哲もないものですけど)とお思いになったということですが、正直に申し上げて私にはあなた方の攻撃の方こそ奇妙に 思えましたLt そもそも同郷人からこうした反応があるとは思ってもみませんでした。(--) 私はたんにブルターニュ のみならず'フランス全体にたいして'将来はよ-幸福でよ-順調でよ-自由な状態になって欲しいと思っているのです。 いまは苦しみと混乱ばかりがあ-ますが'空にはすでによ-よい未来を告げる少なからぬ予兆があ-ます。これこそ私が こ の 詩 で 言 い た か っ た こ と な の で す ( ; ) 」 。 ラヴイルマルケの本音はどこにあったのか。いずれにせよ確かなのは'この時期の彼のナショナリズムが'多-文学的 ロマンチシズムに浸された修辞上のものであったこと、その口調の過激さが必ずしも思想の過激さを意味するものではな かったということである。実際'その行動だけを見れば、ラヴイルマルケのうちに「反フランス」を志向するところはまっ た-ない。しかし'にもかかわらず、言葉の上のナショナリズムだけは一人歩きをする。この時代のラヴイルマルケを特 徴づけていたのは、こうした暖味な姿勢だったのである。しかも、事態はその傾向を弱めるどころかむしろ助長するよう に進んでいった。 ウェールズとの連帯へ 「ブルターニュの宴」 で参加者の尊敬を集めたルゴニーデックは、パリにあってもなかなかに多忙であった。「アシェラ
ンス・ジェネラル」 には九時から五時まで拘束され、帰宅後はブルトン人サークルの青年たちの面倒も見ていた。そのう え 彼 に は ま た ' 一 八 三 三 年 に 設 立 さ れ た 「 歴 史 学 院 」 I n s t i t u t H i s t o r i q u e や ケ ル ー ・ ア カ デ ミ ー 解 体 後 に 結 成 さ れ た 「 フ ラ ン ス 考 古 学 協 会 」 S o c i e t e d e s A n t i q u a i r e s d e F r a n c e を 始 め と す る 学 術 団 体 の 会 員 と し て の 義 務 も あ っ た ( 鷲 そうしたなかでも﹃旧約聖書﹄ のプルーン語訳は一八三五年には完成し'出版を待つばか-の状態になっていた。翻訳 の質の高さはプライス師も太鼓判を押してお-、ルゴニーデック自身も経済上の事情からできるだけ早い出版を望んでい た(鷲だが聖書協会が最終的に下した結論は出版の中止であった。内容があま-にカーリック的であけすぎることと'訳 文が古典的すぎて難解だいうのがその理由だった(S)。結果は残念なものに終わった(誓しかし翻訳をめぐって交わされた や-敬-は、民族・言語の起源を同じ-するこの二つの地方を著し-接近させた。たとえば、すでに一八三六年'ルゴニー デ ッ ク は 時 の 公 教 育 相 プ レ ・ ド ・ ラ ロ ゼ -ル P e l e t d e L a L o z e r e に ウ ェ ー ル ズ へ の 友 好 使 節 団 の 派 遣 を 要 請 し て い た ( 8 ) -残念ながらこの申し出は却下されたが、両者が対面するのに時間はかからなかった。 しかし皮肉なことに'ウェールズとの関係が深まるにつれ'ルゴニーデックの健康状態は悪化していった。しかもその 病状は'本人にも余命が幾許もないと悟らせるほどのものであった。こうしたなか'ルゴニーデックは万一の場合に備え て、l八三七年のプライス師宛の手紙で自分の後継者としてラヴイルマルケとブリズーの二人の名を挙げた(誓 これを受 けてt はどなく師のもとにはラヴイルマルケからの手紙が届-。以下'若々しい野心と好奇心に溢れたその文面の一部を 引こう。 私があの聖なるカンブリアの地であなたにお会いできたら, 、どんなに素晴らしいでしょう。そう、私はしばしばその ことを夢み'そこでわれらが愛しいブルターニュと同じ習俗や伝統を見出すのを想像しています。イングランドの侵入 ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (四)
梁 川 英 俊 は感じられますか。(--) コーンウォールではブリトン語を話しているのですか。ウェールズ語はと-にどの辺で使 われているのでしょうか。アルモリカのプルーン語のように幾つか方言があるのですか。いまでもウェールズ語で伝え ら れ て い る メ ル デ ィ ン M e r d h y n t メ ル デ ィ ン -エ ム リ ス M e r d h i n -e m r y s t タ リ エ シ ン ' ア ナ イ リ ン A n e u r i n t ヒ ヤ ワ ッ へ ンLlywac'h-henの歌はあるのでしょう凍。アーサー王とその騎士たち'円卓'聖グラールの詩はあるのでしょうか。 それとも私たちのところと同じように'ただ人々の記憶のなかに存在するだけでしょうか。われわれブルターニュのロ マンが語る騎士道の遺構のうち'カーリアン以外のものはあるのですか。またお国で綿密な調査をすれば'このアルモ リカにおけると同様、これまでに見つかっているこの種の歌や口頭伝承以外のものを収集することができるでしょう か ( 8 ) 。 まだ一面識もないウェールズ人に矢継ぎ早に質問を浴びせかけるこのラヴイルマルケの姿からは、未知の領野をまえに した若者の興奮がスーレ-ーに伝わって-る。プライス師もわざわざ回想録にこの手紙を引用している-らいだから余程 印象ぶかかったのだろう(8)。そして'ラヴイルマルケのこの積極的な態度は吉と出る。 まずは一八三七年暮'ルゴニーデックのもとにプライス師から、彼とラヴイルマルケとブリズーの三人を、自ら設立に 携 っ た 「 ウ ェ ー ル ズ 伝 統 保 存 協 会 」 C y m d e i t h a s C y m r e i g y d d i o n の 名 誉 会 員 と し て 迎 え た い と い う 連 絡 が あ る ( 讐 こ れ を 受 けて一八三八年の 「ブルターニュの宴」 では'ブリズーが謝辞を述べ、一七五八年にサン・カスIの砂浜で'フランスと イギリスの旗のもとに敵として対峠したこの二つの民族が、言葉や歌のうちにお互いの姿を認め'遂には武器を放-出し て抱擁を交わし合ったという逸話を紹介して'互いの末永い友好を誓った(聖。 しかもウェールズからの吉報はこれに止まらなかった。同じ「ウェールズ伝統保存協会」はいまひとつの申し出も伝え
てきた。それは'一八三八年十月にアペルガヴユニーで開催されるウェールズの国民的祭典「アイステズフォツド」 E i s t e d d f o d に ' ブ ル タ ー ニ ュ か ら の 代 表 団 を 招 待 す る と い う も の で あ っ た ( 鷲 これはラヴイルマルケにとって'まさに願ってもないような話だった。彼は予想以上に早-'夢にまで見たあのウェー ルズの地を実際に踏むことになったのである。しかし'英仏海峡を渡るラヴイルマルケの姿を追うまえに'ここでいま少 しフランスにおける彼の足跡を辿っておかなければならない。 ﹃メルランの墓を訪ねて﹄ ラヴイルマルケの旺盛な執筆活動は、﹃パルディスムの名残﹄以降も衰えることはなかった。さすがに過度のナショナ リズムは影を潜めたが、愛郷心の篤さは相変わらずだった。たとえば、一八三七年十月の ﹃エコー・ド・ラ・ジューヌ・ フ ラ ン ス ﹄ に 発 表 さ れ た ﹃ モ ン タ -ニ ユ ・ ノ ワ ー ル に て ﹄ D a n s l e s M o n t a g u e s N o i r e s に は 、 故 郷 の 民 族 楽 器 ボ ン パ ル ド の 音色を耳にしたときの興奮がこんなふうに書かれている。 この田舎風の楽器がどんなにぞ-ぞ-するような喜びを与えるかは、プルーン人でなければ分かるまい。故郷から離 れてその音色を思い出し、それを聴いていると思うだけで、いったい何度目に涙が浮かんだことだろう。生まれ故郷' その不運、その喜び、その歴史、その荒野、その砂浜、その善良で誠実な農民たちとその祭り'いまは触れることの叶 わぬ遥か遠い幸福の、哀し-暖味でぽんや-とした訳のわからぬ想いが千々に乱れて押し寄せて、私はもうこらえきれ ず に た だ 涙 に 暮 れ た も の だ っ た ( S ) 。 ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (四)
梁 川 英 俊 この﹃モンタ-ニユ・ノワールにて﹄では'ラヴイルマルケと思しき人物が山間の村に民衆歌の収集に訪れたときの様 子が措かれていた。祭-の最中、飲めや歌えの大騒ぎのなかで、冗談を飛ばしながら'馴染みの老人から﹃羊飼いの歌﹄ ChantdesPdtresなる民衆歌を書き取る語-手の様子は'実際の収集におけるラヴイルマルケの姿を妨俳とさせるものだっ た。もっとも、収集そのものを題材にした話ということならばすでにほかにもあった。同じ年の五月、﹃パリ評論﹄Revue d e P a r i s に 掲 載 さ れ た ﹃ メ ル ラ ン の 墓 を 訪 ね て ﹄ V i s i t e a u T o m b e a u d e M e r l i n で あ る 。 小 説 的 な 筋 立 て の な か で 民 衆 歌 を 紹 介するこのテキスIは、﹃パルザズ・プレイス﹄ の著者の意外なまでにロマン主義的な心性を垣間見させるという点で、 大 変 興 味 ぶ か い ( 3 ) 。 そこで語-手が訪れるのは'かつて中世騎士物語の舞台となった「プロセリアンドの森」である。幼い頃からこの森に まつわる数々の 「不思議」を聞いてきた彼は、ある日この森の「バラントンの泉」 の傍らにあるメルランの墓に詣でる。 テキスーはヴィヴィアンヌとのロマンスをはじめとするメルランに関する伝承を一通-紹介した後'こう述べる。「いま この場所では'こうした伝承はどのように考えられているのだろうか。私はそのことを知-たかった。土地の人はもうプ ルーン語も話さな-なっているが'それでもここの荒野にいる羊飼いにそれを訊いてみたかったのだ(S)」。 「ああ、いまでも一杯話しますよ。(--) メルランについても話しますよ」。問いかけた羊飼いの老婆はこう答える。 のみならず'老婆はメルランにまつわる土地の伝承はもちろんのこと、バランーンの泉の不思議にも言い及ぶ。「朝早く' 泉のほと-に白い服を着たきれいな御婦人が座っているっていうのですよ。彼女たちは大の子供好きで'子供がいな-な ると彼女たちが誘拐したのだとも噂された-もしましてね。私は妖精じゃないかと思うのだけど、聖女だっていう人もい るのですよ。まあ'そういうこともあるかもしれません。この泉は祝別されていますからね。去年みたいな早魅の年には' 近辺の村の人たちが皆行列を組んでやって来るのですよ。(--) 泉に来て、司祭様が十字架の下の方を水に浸けると'
それから一週間は雨が降らないときはないのです(S)」。この話は来訪者にひとつの伝承歌を思い出させる。テキストはそ の歌﹃ラ・コリック﹄LaKorikの全文を紹介し、それが「太古の昔に成立したものである」と確言する。 やがて羊飼いたちが小屋に戻ると'語-手もまた泉へと引き返す。そのとき'目の前に見覚えのある民族衣装を着たひ と-の女性が現れる。驚いて郷里を訊ねると'紛れもないブルトン語で「おっしゃることが解-ません」という返事。思 いがけぬ出会いに身を震わせて'改めてプルーン語で訊き返すと、女性はバス・ブルターニュ地方カンベルレ近郊のロテ アの出身であると言う。両親を亡-し、唯一の身寄-の叔母を頼ってこの地方に来たものの追い返されt やむを得ず日雇 の身になったのだという。彼女はわが身をこう嘆-。 ああ'故郷を離れて暮らすのがどんなに悲しいことかわかっていただけたら。ここでは誰も私の言うことがわからず' 私も皆が言うことがわか-ません。皆フランス語しか話さないのです。言葉や服装もよ-からかいの種になります。私 はロテアの農民の黒いコルセットをしたままで'街の女の子たちは首のまわ-に赤いハンカチを巻いているのです。だ から悲しくてならないのです。ほんとに、もし物乞いをしなければならな-なっても、故郷の村でや-たいのです。あ そこには私が洗礼を受けた教会もあるLt 母が先祖たちと眠っているのもあそこの墓地なのですから。もし私がここで 死んでも'遺骨は安らかならず'墓の中で慰めを得ることもないでしょう。 彼女はエプロンの端で涙を拭った。私ももらい泣きしていた(誓 二人はまるで旧知の仲でもあるかのように故郷のことを語-合う。ブルターニュの歌を集めていると打ち明ける語-辛 に ' 女 性 は 「 し ば ら -謡 っ た こ と が な い け れ ど 」 と 言 い な が ら 、 ﹃ ジ オ イ オ ス 侯 ﹄ L e S i r e d e J o i o z な る 歌 を 謡 っ て -れ る 。 ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (四)
梁 川 英 俊 そして、収集家は「十四世紀のパルディスムの一典型」たるその歌を'ほかならぬ「パルド・メルランの墓石の上」に座っ て筆写するのである。 ところで'ここで舞台となっている「プロセリアンドの森」は'地図上の名を「パンボンの森」といい'もともとなん の変哲もない普通の森にすぎなかった。それが「プロセリアンド」と同一視されるようになったのは'好古趣味が一世を 風廃した一八二〇年代に盛んになった地元の好事家の議論によるところが大きかった。「メルランの墓」 や「バラントン ● の泉」など中世騎士物語に由来する「遺跡」群も、もとはと言えばそこに端を発していた。つま-'ここでラヴイルマル ケが大真面目に受け取った事柄の大半は、実はなんら歴史的根拠のないロマン的な好古趣味の産物にはかならなかったの ● である(3)。しかし'ラヴイルマルケにその由来を疑う様子はない。それどころか'彼は「地名は過去の出来事のなにより も確実な証拠である(S)」とまで言う。一八三〇年代後半にこのテキストを書いているラヴイルマルケは、明らかに一八二 〇年代に成立した「創られた伝統」を素朴に信じ込んでいた(鷲 しかも'彼の筆致はまた虚実の境を意図的に暖味にするようなものだった。たとえば、ここで紹介される二つの逸話に しても、どちらも作-物の感を拭えない。老婆の話には書物の影がちらつき、ロテアの女性の存在はいかにも不自然であ る(S)。おそらく双方とも収集した民衆歌を効果的に紹介するために案出された舞台装置にすぎまいが、しかしそれを証明 する手立てがあるわけでもない。テキストはまるで現実が虚構に擦-寄るかのように進行する。そして'﹃メルランの墓 を訪ねて﹄全体を覆うこのロマン主義特有の暖昧さは'歌の年代決定にまつわる不確かさという問題も含めて、まるごと ﹃パルザズ・プレイス﹄ にも受け継がれてい-ことになるのである。
民衆歌集の出版へ その﹃パルザズ・プレイス﹄ の出版に向けたラヴイルマルケの仕事とは'たんに歌の収集や文献の渉猟だけにとどまら なかった。彼はまたさまざまな同郷人に自分の意図を説明し、収集への協力を依頼してもいた(g)。しかもその目的は'た だ歌集に載せる歌の種類やヴァージョンを増やすことにあっただけではない。そこにはまた'社会的に地位のある協力者 の存在によって歌集の信頼を高めたいという若い著者の思いも働いていた。 海軍士官エマール・ド・プロワに宛てたつぎのような手紙は'そうした意図を明白に物語っている。「どうか私に貴殿 の収集に敬意を払わせて-ださい。それは当然の権利なのです。私の読者にとっては (もし私に読者があるならば)、そ れは保証となるでしょう。さらにまた、それは私が貴殿のお心遣いにどんなに感謝しているかを示す唯一の方法でもある のです。(--) 権威と教養のあるそれな-の人物の意見によって補強されてはじめて、私の意見は説得力をもつので す(R)」。実際'﹃パルザズ・プレイス﹄ の註にはそうした協力者の名前が多数挙げられることになるだろう。ところで'同 じ手紙はまたこうも語っていた。 私はまた'ブルターニュに関するさまざまな想いや、どこかの考古学協会や'その協会が集めた民衆歌こそが'私の 本の編者であるべきだと思ったのです。そうすれば'それは一人の人間の本ではな-て、すべての人の本'真にナショ ナルな本になったことでしょう。残念ながらこの願いは叶わず、多-の場合'鼻先で扉を閉められるという悲哀を味わ うことにもな-ました。私が故郷に名誉をもたらすよ-ほかの目的をもっていないだけに、なおさらそれは幸いことで し た ( S ) 。 ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (四)
梁 川 英 俊 この記述は、ラヴイルマルケが歌集に託したナショナリスー的な思惑を明らかにする一方で'その思惑が必ずしも同郷 人のすべてに受け入れられるところではなかったことを示していた。実際'エマール・ド・プロワも歌集に自分の名前を 載せることには同意しなかった。彼らがなぜ拒否したのか'あるいはここでラヴイルマルケが語っている事柄の経緯がい かなるものであったのか、詳しいことは分からない(R)。しかし、いったんブルターニュを離れると、その意図はきわめて 好意的に迎えられた。そのうえ'ラヴイルマルケ自身がまたパリのさまざまな社交界や集会に顔を出して交友を広げ'自 分が進めている仕事を周囲に宣伝することにおさおさ怠-なかった。実際、こうした人脈形成における彼の才能には特筆 すべきものがあった。しかも仕事の評判は上々だった。 すでに一八三六年八月'古文書学校の先輩で歴史家・批評家として知られたジャン・ジョゼフ・プジユラlea苧lo Poujoulatはラヴイルマルケをこう激励していた。「ブルターニュの古い歌に専心して-ださい。( )あなたのブルター l言は開発する価値のある豊かな鉱山です。ぜひいい鉱脈を見つけて'それを掘-下げ'ごつそ-とダイアモンドを集め て-ださい(S)」。さらに'詩人のラマルチ-ヌもまた、一八三七年にこう感想を書き送っていた。「お送-いただいた詩で すが'興味深-拝読しました。自然さと優雅さに溢れていますね。お訳Lになった十五世紀のプルーン人詩人の詩を'と ても気に入っています。(--) この世紀の詩人たちがもつ素朴さがとてもよ-表現されています。これは今日では稀な 美質で'いくら評価してもしすぎることはあ-ません(S3)」。 いまひとり'歌集の計画に関心を示した人にサント・ブ-ヴSainte-Beuveがいた。彼とラヴイルマルケの出会いについ て は 、 少 し 触 れ て お -価 値 が あ る 。 こ の ﹃ ジ ョ ゼ フ ・ ド ロ ル ム の 生 涯 、 詩 お よ び 思 想 ﹄ V i e , p o e s i e s e t p e n s e e s d e J o s e p h Delormeの著者は'クール・ド・コメルスで偶々ラヴイルマルケの上階に住んでいた(誓 ラヴイルマルケはそれを知ると' ある日彼の部屋の扉の下に一枚の紙片を忍び込ませる。そこには「わが隣人ジョゼフ・ドロルムーサンー・ブ-ヴへ」
と記され、こんな詩が書かれていた。「私はこんなにも近-にいるのです、あなたの隠れ家のこんなにも近-に、/あな たの歌に感嘆Ltか-も心に沌みるものと感じているのです(--) /お願いです! どうぞ私に'私に扉を開けて-だ さい/このバス・ブルターニュのパルドのために!--(S3)」。 こうしてラヴイルマルケはこの十一歳年上の文学者と親交を結ぶ。サンー・ブ-ヴは一八三七年十月四日付の手紙で' ラヴイルマルケのことをすでに「昔からの友達」と呼び、時間ができたらいつかブルターニュへ行き'彼のプレシの実家 を訪ねて民衆の歌を聴きたいとまで告げている(S)。若きラヴイルマルケの如才なさと、人好きのするl面を物語るエピソー ドであるといえようか。 もっとも、ラヴイルマルケにとってなによ-も心強かったのは、おそら-歴史学の権威オーギユスタン・ティエリから 得られた支持であった。それは、彼がこのティエリをメンバーとする「フランス語フランス文学歴史委員会」Comitedela L a n g u e e t d e l a L i t t e r a u r e f r a n s a i s e s に よ っ て 自 分 の 歌 集 が 出 版 さ れ る こ と を 期 待 し て い た だ け に ' な お さ ら だ っ た 。 た と えば'一八三七年九月十八日付の手紙でこの歴史家はこう書いていた。 あなたがブルターニュの荒野で最近得られた収穫を拝受しました。大臣へのご依頼の件ですが、いまはいかなる決定 も下すことはできません。全員がバカンス中で、出版委員会が開催されることはもうあ-ませんし。また私自身田舎に おり、あなたの歌について誰かに話すわけにもいかないのですから。でもそれを大変素晴らしいと思っていることは' ここではっきりと申し上げておきましょう。ヴイクール・ユゴー氏も手渡された三つの歌を読み'私と同じように感心 し て お り ま す ( S ) 。 ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (四)
梁 川 英 俊 こ の 手 紙 か ら も 明 ら か な よ う に 、 オ ー ギ エ ス タ ン ・ テ ィ エ リ が ラ ヴ イ ル マ ル ケ に 示 し た 好 意 に は 一 方 な ら ぬ も の が あ っ た 。 実 際 ' こ の 著 名 な 歴 史 家 は 、 一 八 三 八 年 初 頭 に 新 版 ( 第 五 版 ) が 印 刷 中 で あ っ た 名 著 ﹃ イ ギ リ ス 征 服 史 ﹄ H i s t o i r e d e l a C o n q u e t e d e V A n g l e t e r r e 第 一 巻 の 「 証 拠 資 料 」 に ラ ヴ イ ル マ ル ケ に よ っ て 収 集 さ れ た 歌 を 引 用 し ( 讐 ' 「 私 に こ の 興 味 深 い 詩 の 断 片 の 存 在 を 教 え て -れ た の は 、 テ オ ド ー ル ・ ド ・ ラ ヴ イ ル マ ル ケ 氏 で あ る 。 こ の 詩 は 近 々 出 版 さ れ る ﹃ パ ル ザ ズ ・ プ レ イ ス ﹄ ( ブ ル タ ー ニ ュ の 民 衆 歌 ) と い う 書 物 に 収 録 さ れ る 予 定 で あ る ( C 。 ¥ I c o y 」 と コ メ ン -を 付 し も し た の で あ る 。 こ う し た 待 遇 が 駆 け 出 し の 学 者 に と っ て ど れ ほ ど 名 誉 な こ と で あ っ た か は ' わ ざ わ ざ 強 調 す る ま で も な い だ ろ う 。 一 八 三 八 年 四 月 、 ラ ヴ ィ ル マ ル ケ の 歌 集 は 「 歴 史 委 員 会 」 で 初 め て 検 討 の 対 象 に な る 。 シ ャ ル ル ・ ノ デ ィ エ は 詩 歌 の 真 正 性 に 疑 問 が あ -、 委 員 会 が 新 た な マ ク フ ァ ー ソ ン の 出 現 に 加 担 す る 恐 れ が あ る と 危 悦 を 表 明 し た が ' 南 仏 文 学 の 大 家 で ﹃ 現 代 ギ リ シ ャ の 民 衆 歌 ﹄ C h a n t s p o p u l a i r e s d e l a G r e c e m o d e r n e の 編 者 で も あ っ た 議 長 の フ ォ リ エ ル は ' そ れ を 「 ブ ル タ ー ニ ュ の 詩 的 精 神 の 見 事 な 記 念 碑 ( S ) 」 と 称 賛 し た 。 し か も ま た 彼 は ' 同 年 五 月 に 開 催 さ れ た 第 二 回 の 委 員 会 で も そ の 真 正 性 に 疑 い の 余 地 は な い と し 、 ぜ ひ 委 員 会 の 援 助 の も と に 出 版 す べ き だ と 主 張 し も し た の で あ る ( S ) 。 結 局 ' 正 式 な 決 定 は 持 ち 越 さ れ た が 、 フ ォ リ エ ル の よ う な 歴 史 学 の 権 威 か ら 後 押 し が 得 ら れ た こ と の 意 味 は け っ し て 小 さ -は な か っ た 。 大 家 の 後 押 し は あ る 。 準 備 し て い る 書 物 は 出 版 前 か ら そ の 意 義 を 認 め ら れ て い る 。 ウ ェ ー ル ズ 行 き を 控 え た 若 き ラ ヴ イ ル マ ル ケ に と っ て ' そ の 前 途 は 曇 -な -、 洋 々 と 拓 け た も の で あ っ た は ず で あ る 。
氾 ウェールズ探訪
ウェールズへの出発ブルターニュの代表団をアペルガヴエニーに招待しようと考えたのは'アレクシス・フランソワ・リオAlexis-Franccis Rioであった。一七九七年'ブルターニュはポール・ルイに生まれたこの人物は、﹃古代における人間精神の歴史に関す る 試 論 ﹄ ( 一 八 二 八 -一 八 三 〇 年 E s s a i s u r I ' h i s t o i r e d e V e s p r i t h u m a i n d a n s V A n t i q u i t e な ど の 著 作 で も 知 ら れ て い た が ' ヴアンヌのコレージュに在学中'「百日天下」 の際に王党軍の少年部隊を率いて手柄を上げ、十八歳でレジョン・ドヌー ル勲章を受けたという武勇伝の持ち主でもあった。一八一九年にパリに出て、歴史学の教授資格を取得し'しばらくルイ・ ルグラン校で教鞭をとったが'「パンション・バイイ」とも縁が深く一八二四年に「文学の会」で行った講演は大変な 評判を呼んだ。一万㌧彼はまたプルーン語の話者としてケル-文明にも並々ならぬ関心を寄せ'一八三一年にウェールズ 語 を 学 ぶ べ -渡 英 、 そ こ で ラ ナ ー ス ・ コ ー ト 出 身 の ア ポ ロ ニ ア ・ ジ ョ ー ン ズ A p p o l o n i a J o n e s な る 女 性 と 結 婚 L t 以 来 ウ ェ ー ルズに住んでいたのである(S)。ブルターニュの代表団のアイステズヴオツドへの招待は、このリオがプライス師とともに 設立した「ウェールズ伝統保存協会」 の五周年を祝って企画されたものだった。 旅行の計画が明らかになると、ラヴイルマルケは政府から国家使節としての資格を得るべ-、一八三八年四月'貴族院 議員のモンタランベール侯爵に会い、公教育相への仲介を依頼する(」)。四月三十日'早速'公教育相サルヴアンディ-Salvandyから六〇〇フランの手当金を出す旨の通達があ-'六月十四日には、さらにオックスフォードのジーザス・カレッ ジの図書館が所蔵する写本を閲覧するための許可が下-る。こうして早-も同月二十六日付の﹃アルモリカン﹄には、ラ ヴイルマルケが政府の使節としてイギリスへ行-と報じるニュースが囲み記事として掲載された(S). ラヴイルマルケにとってはすべてが上首尾だった。しかし、この交流のきっかけをつ-つたルゴニーデックの病状は、 旅行を目前にしてほとんど絶望的になっていた。出発を十七日後に控えた九月十二日、ポル・ド・クルシーはラヴイルマ ルケにこんな手紙を送る。「君が帰って-る頃には'ルゴニーデックはたぶんもう死んでしまっていることだろう。とい ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (四)
梁 ノ 英 俊 うのも'聞くところによると彼の状態は非常に悪- 'すでにアルフレッドは﹃モニーウール﹄LeMoniteurに載せる死亡 広告を書いているということだからだ 」。 こうしてブルターニュの代表団は'肝心のルゴニーデック抜きで出発することを余儀な-される。のみならず、彼に付 き添ってパリにいたブリズーもまた十月に入るとリオに手紙でこう告げてきた。「私はこの貴重かつ高名な人物の絶望的 な状態を見ると'とても出発する気にはなれないのです(」)」。こうして予定されていた代表団のうち、ふたりの'それも 中心的なメンバーが欠けてしまう。そのうえ'妻がウェールズ人であるという縁で参加を希望していた詩人のアルフォン ス・ド・ラマルチtヌもまた、旅行の取-止めを通知して-る(冒 結局、ブルターニュからの代表団はつぎの五名となった。まずラヴィルマルケ、オザナムの友人でモルビアン県サルゾ-の 出 身 の 詩 人 ジ ュ ー ル ・ ド ・ フ ラ ン シ ユ ヴ イ ル J u l e s d e F r a n c h e v i l l e 、 ラ マ ル チ -ヌ の 友 人 で カ ン ペ ー ル 在 住 の ル イ ・ ド ・ ジ ャ ク ロ ・ デ ユ ・ ボ ワ ル プ レ ー L o u i s d e J a c q u l o t d u B o i s r o u v r a y ' モ ン タ ラ ン ベ ー ル の 友 人 で 妹 が ル イ ・ ド ・ カ ル ネ 夫 人 t の ち に カ ン ペ ー ル 司 教 区 の 高 位 聖 職 者 と な る オ ー ギ エ ス ー ・ フ エ リ ッ ク ス ・ デ ユ ・ マ ラ ラ A u g u s t e -F e l i x d u M a r c ' h a l l a c ' h t ラヴィルマルケと同様カンベルレの旧家の出身であったアントワ-ヌ・モデユイAntoineMauduitである(誓うち三名が 二十代、最年長のジャクロでも四十三歳という若い集団であった(」)。 彼らはサン・マロでリオ夫妻と落ち合い、九月二十九日'同港を出発。途中ジャージー島に寄航した後'サザンプーン を経て'ウェールズへの玄関口ブリス-ルへと向かった。彼の地ではブルター1三からの代表団を迎えるべ-準備が進め られ'なかでもラヴイルマルケはフランス国王ルイ・フィリップ直々の派遣になる使者として特別の注目を集めていた(」)。 出発前'彼はリオからこんな手紙を受け取っている。「大臣たちよ-ウェールズについて一書を成すように指名されたラ ヴィルマルケ氏はメシアの如-待望されていますよ。自分こそが彼を世話するのだと'皆われ勝ちに争っています(」)」。
師の病という気懸かりはあったであろうが'ラヴイルマルケの心はおそら-まだ見ぬ国にたいする期待で満ち溢れてい たはずである。出発の前日、サン・マロから彼は父親にこう書き送っている。「天気は晴朗'海も穏やかで'一片の波も あ -ま せ ん ( e ) 」 。 ホール家での滞在 一行は、十月三日にブリスールに到着する。そこからフランシユヴイルとマララとモデユイはラナース・コ1-のリオ の自宅へ'ラヴイルマルケはジャクロとともにアペルガヴユニーへと向かった。初めて見るウェールズの風景は彼に鮮烈 な印象を与える。 私たちはようや-到着しました。今朝方セヴア-ン川を渡-、ウェールズの地に降-立ったのです。ここは美しい国 ですよ'お父さん。まるでブルターニュのように'山があ-'牧草地があ-'あちこちに小川が流れる谷があ-、森が あ-、開墾された畑があ-ます。ただ景色はもっと雄大で'風通しがよく、また変化に富んでいます。チェブス-Iの 古城の廃櫨よ-も素晴らしいものはほかにあ-ません(」)。そこからウェールズ全体を一望のもとに見渡せます。私たち が来たときは'ほんとに素晴らしい天気で、眼下に流れる水はきらきらと輝き、ところどころに雲の切れ端が浮かぶ空 は'隅から隅まで青-澄み切っていて、まさに見事な一幅の絵でした(S)。 十月四日、アペルガヴユニーに到着したラヴイルマルケは、ホスー・ファミリーのホール家によって前日から遣わされ ていた馬車に乗-込むと、彼らの居城ラノーヴア-城へと向かう(」)。ホール家はウェールズでも代表的な名家のひとつだっ ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (四)
梁 川 英 俊 た。のちに労働大臣とな-'英国国会議事堂の大時鐘「ビッグ・ベン」 のうちに不滅の名を残すことになるこの家の主人 サ ー ・ ベ ン ジ ャ ミ ン ・ ホ ー ル S i r B e 且 a m i n H a E は V 。 。 ) ' 夫 人 の レ デ ィ ー ・ ホ ー ル L a d y H a E と と も に ' 恭 し -フ ラ ン ス 国 王 の使者を迎える。「レディー・ホールの背格好は普通で'顔はアーモンド形、髪は濃いブロンドで、生き生きとした顔色 の'陽気で溌刺とした、飾-気のない'親切で善良な女性です。彼女は私たちを愛想よ-'鄭重に'ブリーン人風に迎え てくれました。まるで一世紀も前から知っているとでもいうように。予想とは全然違って'彼女はすぐに私たちを寛がせ て-れました。彼女の飾-気も遠慮もない態度は'その住居の様子とはずいぶん対照的でした。このお城はまるで宮殿で す 。 ( -) サ ー ・ ベ ン ジ ャ ミ ン は ず っ と 謹 厳 な 感 じ で す が 、 夫 人 に 劣 ら ず 親 切 な ひ と で す ( 5 0 ) 」 。 夫妻はウェールズの言語や文化の擁護者として知られていた。彼らはリオやプライス師とともに「ウェールズ伝統文化 協会」の創設に尽力したほか'協会が主催するアイステズヴオツドにも資金面での協力を惜しまなかった。わけてもレディー ・ホールは熱心で'一八二三年にホール家に嫁いで以来'もともとウェールズ語圏の出身ではなかったにもかかわらず自 らウェールズ語を学び、一八三四年のカーディフにおけるアイステズヴオツドでは'「ウェールズ語とウェールズの民族 衣装を保存する利点」を論じた英語とウェールズ語によるエッセイで賞を獲得したほどであった。 ラノーヴア-では'彼女の意向で、召使から小作人に至るまですべての人がウェールズ語で話し、民族衣装を身に着け ていた。彼女は歌や踊-や音楽、なかでも三弦ハープの演奏をとても大切にし、専属のハ-ビスIを雇ってもいた(警城 に到着したプルーン人の一行も、もちろんこのハープ演奏によって迎えられたのである。彼女はラヴイルマルケに強い印 象を残す。「莫大な財産をもっている (彼女の金利収入は五〇万フランです!) にもかかわらず、彼女は貧しい人たちに 近づき、気取らずに彼らと話した-笑った-します。(--) こうしたすべてが私を魅了するのです。と-わけ、自国と その言語・習俗にたいする熱意には打たれます。彼女はウェールズ語を見事に操-'それを子供たちにも教えています。
衣 装 も ウ ェ ー ル ズ 人 の そ れ で す 。 要 す る に 、 真 の ウ ェ ー ル ズ 女 性 な の で す ( ; ) 」 。 こうしてラヴイルマルケは、アイステズヴオツドの初日'十月九日の朝を迎える(S)。 アイステズヴオツド その日'アペルガヴユニーの「ジョージ・ホテル」GeorgeHoteこ別の公園には'千二'三百人は収容できる巨大なテン トが出現していた。アイステズヴオツドの開会式が行われるそこには'さまざまな旗や葉飾-が飾られ,柱のひとつひと つ に ヤ ド リ ギ の 房 が 掛 け ら れ て い た v o o J 。 そのテントに向かって、参加者たちの長蛇の列が続いていた。先頭を歩-パルドは手にウェールズを象徴である長ネギ をもち'続-ふたりのパルドは金色の斧をもっていた。後ろにはダリアの花でつ-られた巨大な王冠、さらに三人ずつパ ルドと各コンクールの受賞者がメダルを胸に続いた。アペルガヴュー丁の金物屋がつ-つた六フィートばかりの巨大な亜 鉛製の長ネギも登場した。歌手たちがハープを携えて現れ、後ろには「海を越えて、ブリーン人の境界を越えて」T,a M o r , T r a B r y t h o n t 「 彼 ら は 自 分 た ち の 言 葉 を 守 る だ ろ う 」 E u i a i t h a g a d w a n t な ど と 書 か れ た 職 を も っ た グ ル ー プ が 続 き 、 赤いドラゴンが措かれたウェールズの民族旗や英国国旗が翻っていた。四頭の灰色の馬に牽かれた無蓋馬車には、十二人 のハ-ビスーの一団がいた。ドルイドの旗の後ろには、委員会のメンバー、さらに後方には騎兵隊と何台もの馬車が続い た。行進は二マイルにも及び、馬車の数は六〇を下らなかった。この行列のなかで'ラヴイルマルケとジャクロは'大会 実 行 委 員 長 サ ー ・ チ ャ ー ル ズ ・ モ ー ガ ン s i r C h a r l e s M o r g a n や ホ ー ル 夫 妻 と と も に ' 四 頭 の 黒 い 馬 に 牽 か れ ' 緑 と 白 の リ ボンと銀色のネギに飾られた豪華な幌つき四輪馬車に乗-、沿道の人々の歓声に応えていた。 アペルガヴユニーの街の通-には'花と緑のアーチが設えられ'家々は花飾-で飾られた。街行-人は皆祭りの衣装を ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生(四)
梁 川 英 俊 身にまとい、帽子やボタンホールにナショナル・シンボルの長ネギをつけていた。裕福な人は銀色のネギを、そんな余裕 のない人は畑でとれた本物のネギを身につけていた。ヤドリギの枝を手にしている人もいた。月桂樹やクローバーをもっ ている人'クマツゾラの房をもっている人もいた。皆がウェールズ語を話していた。 ジョージ・ホテル前のテントのなかに設えられた演壇は花で飾られ、ダリアによって模られた王冠やハープがあった。 ブルターニュの代表団は壇上に土地の名士たちと並んで席を占め'委員長のモーガンは開会宣言のなかで、フランス国王 の派遣による使節の臨席に特別の敬意を表した。その夜'ホテルで開かれた晩餐会には、男性ばか-が三〇〇人も招待さ れた(g)。乾杯に際して'モーガンは会食者に向けてつぎのように語った。「アルモリカは私たちもとに代表団を派遣して -れました。ヨーロッパでもっとも騎士道精神に富む国の人々が'ヨーロッパでもっとも開明的な強国のひとつである国 の 君 主 が ' 私 た ち の 会 合 に 使 者 を 送 っ て -れ た の で す ( $ 5 ) 」 。 そこでその「使者」たるラヴイルマルケが行った挨拶は、思いがけず大きな反響を呼んだ。彼はまずフランス語で、ウェー ルズ人とプルーン人がもともとローマ人やサクソン人と戟ったひとつの民族であることに言及し、その証として先述した あのサン・カスIの戦いにおけるエピソードを引用した。しかし満場の喝乗は'そのあとに彼が﹃アイステズヴォツドの 歌 ﹄ C h a n t d e V e i s t e d d f o d な る 自 作 の 歌 を う た っ た と き に 訪 れ た 。 晩餐のとき、私は歌をうたいました。効果は自分でも驚-ほどでした。私はあま-の拍手喝乗にびつ--しました。 (--)本当に面白い偶然なのですが、私がこのお祭-のために作ったプルーン語の歌詞のなかに、ウェールズ人たち は自分たちの言葉と同じ語を見つけて歌詞を完全に理解したばか-か、その歌詞を乗せたブルターニュのメロディーの 方もまたウェールズでよ-知られた曲だったということが、これほど大受けした理由だったわけです(S)。
いずれにせよ'ラヴイルマルケにとってアイステズヴオツドの初日は'これ以上望みようもないほどの形で幕を閉じた のである。しかし'驚きはこれに止まらなかった。 翌日、レディー・ホールに腕をあずけ、ハープの音とともに登場した委員長のモルガンは'ラヴイルマルケを演壇に招 いて自分の右側に座らせ、勝者のパルドに冠を授けて-れと頼んだのである。しかもまた'彼はこの「フランス国王の使 者」にアイステズヴォツドに出席した記念として'かつてウェールズの王たちが賓客をもてなすときに使用していた「ヒ ルラス・ホルン」Hir-ashomと呼ばれる杯の複製を贈-さえした(cT)¥ ¥。。/。この思いがけない贈-物がどれほどラヴイルマルケ を喜ばせたかは言うまでもない。「私は贈-物にまわ-を絵で飾られた銀の杯をもらいました。角製で'内側は金でメッ キされていて'底にはウェールズの「ダイアモンド」がはめ込まれ、まわ-にはウェールズの詩人たちの詩句が刻まれて いるのです(ァ)」。・ その晩'「エンジェル・ホテル」Ange-Hote-で行われた舞踏会には'ウェールズの上流階級の人々が多数招待された。 ラヴイルマルケはそこにコルヌアイユ地方の民族衣装を着て登場し、満場の注目を浴びた。父への手紙にはこうある。 「素晴らしい舞踏会については言うべき言葉もあ-ません。私が着たブルターニュの民族衣装は、大変な評判でしたよ(5。」。 しかし'それがいかに素晴らし-とも、翌十一日にラヴィルマルケを待ちうけていた出来事に勝るものはなかった。.と いうのも、アイステズヴオツドの最終日であるその日の朝'ジョージ・ホテル前の公園でブリテン島のパルドたちによる ゴルセッズの儀式が行われ、そこで彼は「パルド・ニゾン」BarddNizonという名でパルドに任命されたからである。ラ ヴイルマルケは興奮を抑えきれぬ様子で父にこう書き送っている。 私はいまやパルド'それも正真正銘のパルド、「資格を受けたパルド」なのです。しかも五㌧ 六世紀の昔からいまに ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (四)
梁 川 英 俊 伝えられてきた古い儀式にのっとって迎えられたのです。抜き身の剣に向かって誓いを立てさせられ'右腕にイニシエー ションの「青いリボン」をつけさせられました。これがパルドの色なのです。私は自分の歌のおかげでこうした栄誉を 得ることができて'とても誇-に思っています。ふつう入会式は山の上の 「ドルメン」を前にしたスー-ン・サークル の真申で'午前中に、太陽がその運行の半ばに達する前に行なわれますが、これはなかなか見ものです。パルドの任命 は「ゴルセッズ」と呼ばれています。ス--ン・サークルから出て'金色の板でできた深紅色のビロードが張られた肘 掛椅子に座らされると、パルドたちの竪琴が入会者の栄誉を称えて一斉に響きわたるのです(S" パリのブルトン人青年の仲間うちで戯れに「パルド」と呼ばれ'サント・ブ-ヴに自ら「バス・ブルターニュのパルド」 と名乗った青年は、こうしてウェールズで「正真正銘のパルド」 になる。しかも彼はその入会演説をブルトン語で行い、 こう語った。「タリエシンやメルランのような不滅のパルドの後を継ぐ者として'いま私がその秘儀に参入を許されたこ 4 のストーン・サークルを離れるにあたって'私はえも言われぬ感激と一種宗教的な身震いを感じます。(--) ここでい ま一度、私はパルディスムの発展に一身を捧げることを、死ぬまで神と祖国と自由を愛することを誓います(8)」。 三日間にわたったアイステズヴオツドは'こうしてラヴイルマルケを一躍時の人にして幕を閉じた。しかもその活躍は' 海峡を越えて﹃アルモリカン﹄や﹃カンベロワ﹄などのブルターニュの地方紙で取-上げられたばか-か'﹃ガゼッー・ ド・フランス﹄、﹃ジェルナル・デ・デバ﹄、﹃モニーウール﹄'﹃ユニヴェール﹄といったパリの新聞でも大き-報じられた のである(S)。リオはラヴイルマルケの父につぎのように書き送った。「ご子息の活躍をお伝えしようとしたら、優に一冊 の本になることでしょう。こんなことはこの国では前代未聞のことです。ご子息のラノーヴア-滞在はこれ以上ないほど 素晴らしいものになりました。それほど彼は歓迎されたのですI。S)」。
「 ア ー サ ー 王 」 と 名 士 た ち ブルターニュの代表団は'大成功のうちに終わったアイステズヴオツドの後も数週間ウェールズに滞在して各地をまわ -、写本の調査という仕事を抱えたラヴイルマルケひと-を残して'十一月初旬にブルターニュに向けて旅立った。一方' 翌年の三月まで続いたラヴイルマルケのイギリス滞在は、古城での生活と名士たちとの避近に彩られた、アイステズヴオツ ドに劣らず華やかなものだった。以下、イギリスの名士録を目にするが如きその様子を駆け足で追おう。 ラヴイルマルケはまず'ベンジャミン・ホールに誘われるまま'アーサー神話ゆか-の地を訪ねる「巡礼行」に出発す る。「御伴は英国下院議員と全権公使です。つま-、ベンジャミン・ホール氏と昨年ヨーロッパ的な名声を獲得したブン ゼン氏M.Bunsenなのです。(--) 私たちはうららかな日差しのなかを、ニューポ1-から素連な蒸気船に乗-込みま した。船にはウェールズのパルドがひと-いて、旅のあいだずっと美しい民族歌を歌って-れました(g)」。 一行はその後'イギリス有数の学者プリッチヤード博士DrPrichardの家に迎えられ'翌日にはハーフォ-ド氏M. Harfordの豪華なプレーズ・キャッスル城を訪問'ティツィアーノやラファエロやミケランジェロが飾られた回廊を見物 した後'詩人バイロンの友人で遺言執行人でもあるジョン・ホブハウスJohnHobhouseの家に夕食に招かれる。「この人 はバイロン卿の親友だった人です。そこで私がどんな風にもてなされたか'ちょっと言葉に尽-せません(SO」。 数日後'一行はまずメルランがアーサー王の叔父ペンドラゴンのために建てたと伝えられるソールズベリー平原のス--ンへンジを訪れ、その後アーサー王の眠るグラストンベリーへと向かった。「アーサー王が埋葬されたのはグラストンベ リーです。私は彼の石棺を見ました。それは十二世紀に発見され、いまなお保存されているのです。私はスIIンヘンジ の祭壇の下で取.った土をもっています。グラスーンベリーの墓から取った土もです。聖泉の水もガラスの小瓶に入れまし た。最初の男の子にはアーサーと名づけて、この水で洗礼を受けさせたいですね。私が今日まで継承されてきた古い儀式 ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (四)
梁 川 英 俊 によってパルドになったのを忘れないで-ださい(g)」。 さて、十一月下旬に旅行から戻ったラヴイルマルケを待っていたのは'地元の名士たちからの招待の山だった。華やか な社交生活に夢中になって、文学の調査という本務を忘れはしないかとカンベルレの実家の家族が心配するのをよそに' 彼は城から城へと渡-歩-。「私はほとんどの時間を訪問に使っています。頭の上まで招待漬けという有様です(g)」。 十二月、ラヴイルマルケはシャ-ロッー・ゲスー夫人LadyCharlotteGuestのもとを訪れるべ-'プライス師とともに ド-ライスに出かける。今日﹃マビノギオン﹄Mabinogionの著者として知られる彼女は'当時二十七歳。ちょうどのち に﹃マビノギオン﹄としてまとめられるウェールズ伝承文学の英語版の出版を進めているところだった。若-して中世の 歴史や文学に熱中し、東洋への関心からペルシャ語も学んでいたこの女性に、ラヴイルマルケは感嘆の声を上げる。「彼 女は並外れた女性です。フランス人並にフランス語を読んだ-話した-できるばか-か'イタリア語にも堪能で'東洋の 言語への造詣も深いのです。そうした言葉を使って私にサインをして-れたので、いずれお見せすることができるでしょ う。しかしいちばん私の関心を惹-のは、ウェールズ文学に関する仕事です。いまウェールズの説話を見事な英語訳で出 し て い て 、 大 変 な 評 判 な の で す ( S ) 」 。 ゲス-夫人のもとでクリスマスと正月を過ごしたラヴイルマルケは'その後スウォンジーを訪れ、さらにボンティープー ルでレディー・ハンヴエリー・リーLadyHanburyLeighの家に寄宿、さらにカーリアンのアーサー王ゆかりの土地など を訪ね歩いた。結局、彼が写本の調査のためにオックスフォードを訪れたのは'ようや-二月になってからであった。ジー ザス・カレッジの校長フォークス師-eR㌢Fou-kesはラヴイルマルケの到着の夜'多-の碩学を招待して大晩餐会を開い た(m)。わずか数日というこの短い滞在のなかで'実際に写本を調査する時間がどれだけあったのかはわからない(U)。ただ' ウ ェ ー ル ズ 滞 在 中 に 知 -合 っ た ジ ョ ン ・ ジ ョ ー ン ズ 師 l e R e v . J o h n J o n e s な る パ ル ド の 助 け を 借 -て ' ﹃ ハ -ジ ス ト の 赤 本 ﹄