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『峯相記』小考 : 峯相山と伊和大明神と書写山と

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Academic year: 2021

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ではじめに ﹃峯相記﹄は中世南北朝期に成立したとされる、播磨の地誌 である。貞和四年、播磨国揖保郡峯相山総足寺を訪れた一人の 旅僧が、この寺に住む旧知の老僧と再会し、勧められるままに 逗留を決める。その夜から翌日にかけて、旅僧が尋ね、老僧が 答える、という形で、播磨に関するさまざまな出来事が綴られ ていく。その内容は、あるいは宗教のことであったり、歴史で あったり、また社会情勢であったりと多岐に渡り、中世播磨の 様相をうかがい知ることのできる貴重な文献である。本作品は、 江戸の頃にはすでに知識人たちの手によって解釈がすすめられ、 今日に至るまで、文学・史学・郷土史等、さまざまな分野で研 究されてきた。にも関わらず、その執筆意図や作者像など、い ま だ 不 明 瞭 な 部 分 も 多 い 。 近年、各務健司氏によって、改めて諸本の整理と系統付けが なされ韮 1 ) 、また、大山喬平氏が作品全体についての考察を行 い、国街と地域の関係を視野に入れつつ、﹃峯相記﹄を﹁日本に おける地域史叙述の先駆け﹂と位置づける論考を発表されてい

る ( 注 2 ) 。 さ ら に 、 郷 土 史 研 究 の 場 に お い て も 、 西 川 卓 男 氏 が ﹃ 峯 相記﹄の全編口語訳を発表されるなど窪立、本作品の研究は活 発 に な っ て き て い る 。 今回、本稿で取り上げるのは﹃峯相記﹄が載せる、峯相山鶏 足寺・書写山円教寺・一宮伊和大明神の縁起である。鶏足寺は ﹃峯相記﹄発信の場であり、書写山と伊和大明神は、当時の播 磨における寺社の筆顕である。このうち、鶏足寺と伊和大明神 については、山口真琴氏によって詳細な研究がなされ、これを 極端な﹁園街中心主義﹂の上に成り立った、﹁播磨ナショナリズ ムとしての寺社縁起﹂、と位置づけられているのだが(注 4 ) 、 こ れらもふまえつつ、三つの寺社縁起についての私見を述べてみ た い 。 ニ.毎相山麹足寺 ﹃峯相記﹄の本文は、九つの問答によって構成され、大山氏 はこの問答の内容を、第一間﹁生死出離の巻、その 1 ﹂ ・ 第 二 関 ﹁ 生 死 出 離 の 巻 、 そ の 2 ﹂ ・ 第 三 間 ﹃ 鶏 足 寺 の 巻 ﹂ ・ 第 四 問 ﹁ 所

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生 霊 場 の 巻 ﹄ ・ 第 五 閑 ﹃ 当 国 社 頭 の 巻 ﹂ ・ 第 六 問 ﹁ 鄭 郷 田 地 の 巻 ﹄ ・ 第 七 間 ﹁ 当 国 古 事 の 巻 ﹂ ・ 第 八 間 ﹁ 悪 党 蜂 起 の 巻 ﹂ ・ 第 九 問 ﹁ 元 弘以後の巻﹂と分類されている(注 5 ) 。 本 稿 で も 氏 の 説 に 従 い 、 以下、引用の際にはこれらの巻名を用いることにする。 その内容であるが、まず、冒頭で少し触れた、旅僧と老僧の 再会が描かれた後、それぞれ第一聞では日本圏内の仏教宗派の 開基者とその教義、第二聞では老僧と旅僧の出自が語られる。 次に、問答の場を常行堂に移した後、旅僧の﹃抑モ当山ハ建立 以後、星骨相幾程ヲ経テ候ゾヤ﹂という問いかけによって第三間 ﹃鶏足寺の巻﹂に移行するのだが、熔融市に関する記述は、この 峯 相 山 鶏 足 寺 の 縁 起 よ り は じ ま る 。 当寺ノ起リ遠キ哉、神功皇后三鶴ノ異国ヲ攻メ給ニシ時、 新輝国ノ質子王子ヲ取リ帰給へリ、王子云ク、渡海ノ問、 風波ノ簸ナ夕日域ニ付給パ、一伽藍ヲ連立セント、皇后 仏法ノ是非ヲ知給ハネパ、分明ノ勅答ナカリキ、筑紫ニ テ皇子降誕ノ後、帰洛ノ時、尚商戎ヲ怖レ絵フ故ニ副将 軍 男 貨 噂 ヲ 当 国 留 メ 置 キ 給 シ -一 、 彼 王 子 ヲ 預 ケ 奉 ラ ル 、 主子当山ニ挙登リ、草庵ヲ結テ一心ニ千手陀癒尼ヲ縞シ 給フ、数百年ヲ経給ヘリ、敏逮天皇御宇十年、野芹沢構 ヲ 加 へ 銭 斧 潤 飾 ヲ ソ ヘ テ 、 一 堂 ヲ 建 立 シ テ 王 子 入 滅 国 型 、 ( 略 ) 劃 剖 倒 叫 叫 剖 ゴ 4 神功皇居が新経征討の際に連れ帰った新癒の王子によって、 鶏足寺が建立されたというこの縁起は、﹃日本書紀﹄及び﹃播磨 国風土記﹄の神功皇后の三様征伐に関する伝承を核に成り立っ ている。多田圭子氏によれば、神功皇后に関する伝承は、平安 時代には特に広がりを見せず、むしろ記紀にはない形で発展し てくるのは、中世に入ってからだという(注旦。となれば本縁起 は、山口氏も指摘されているように、そう古い時代に成立した ものではないと恩われる。同氏はこの縁起について、﹁さながら 百済の豊明王による仏教公伝説に競うかのごとく、この鶏足寺 を 中 心 と し た 古 代 価 指 磨 仏 教 の 先 駆 的 な 正 統 性 を 跨 示 す る 意 図 ﹂ が見え、﹁まさにもうひとつの日本仏教のはじまりを喧伝するか のよう﹂な﹁鷺くべき鎗磨ナショナリズムへと評されている︿注 7 ) 。また、縁起中に登場する﹁新編王子﹂や﹁副将軍男食尊﹂ と、﹃指磨国風土記﹄との関わりについても言及されているのだ が、それについては後述の伊和大明神縁起の項で触れることに す る 。 -2-さ て 、 関 創 縁 起 の 後 に は ﹁ 神 護 慶 雲 ノ 比 ﹂ の 堂 舎 の 様 子 か ら 、 貞観に至って寺内に市が立ったこと、伴善男が当地に配流され たことなどが記され、次に、傍線部、空也と性空が鎗足寺を紡

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れ た 、 と い う 逸 話 が 記 さ れ る 。 この二人の館山には根拠となる文献が存在していて、まず﹃空 也篠﹄には、﹁樹劇園樹倒欄剖割創端、有一切経給。上入、住彼 道場、披閲数年。若有疑櫨師、夢有金人、常教文義。覚後間智行 之 倫 、 果 而 知 夢 。 ﹂ ( 注 8 } と あ る 。 こ の ﹁ 播 磨 国 揖 保 郡 有 峯 合 寺 ﹂ が峯相山鶏足寺を指すことはいうまでもない。石田義長氏は﹃空 也諒﹄中の記事に関連して、﹃峯相記﹄の記述にも言及されてい る 。 そ れ に よ れ ば 、 ﹃ 空 也 鎌 ﹄ の 記 す 一 切 経 の 被 関 に 関 し て は 、 あ り 得 る 話 と し つ つ 、 ﹃ 峯 相 記 ﹄ の 記 事 に は 、 延 長 二 年 ( 九 二 回 ) 時点の空也の年齢が二十二歳であることから、﹃若年の遍歴修行 者である一沙弥が、貴重な金泥の経巻をどうして写経すること ができたのか。あるいは、空也の出自が高貴の血筋であり、経 済的にも彼を支配する強力な背景があったとすれば、この記述 を真実ととることも可能かもしれないが、後年の京都市中での 乞食教化の姿からそれを想像することは困難である。﹂と、否定 的 な 意 見 を 述 べ ら れ て い る ( 注 旦 。 また、性空の健山に関しては、書写山の寺記﹃播磨園飾磨郡 円 教 寺 縁 起 等 事 ﹄ ( 以 下 、 ﹃ 縁 起 等 事 ﹄ と 略 す 。 ) 所 収 の 縁 起 に 該 当 す る 記 述 が あ る 。 ﹃ 兵 庫 県 史 史 料 編 ・ 中 世 四 ﹄ の 解 題 に よ れ ば 、 ﹃縁起等事﹄は﹁性空の滅後、同教寺の支配をめぐって国街僧 義算と性空直弟延照の閑に相論が生じた。(賂)この相論に際し て作成された寛弘七年(一

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九月十日付の﹁聖者門徒起 繍事﹂を主とし、それに性空の賂系、承久二年(一二ニ

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六 月の講堂修造勧進状などを加えたもの﹂だという。よって本舎 の成立は承久二年以降と考えられるのだが、問題の縁起は﹁聖 者門徒起諸事﹂の中に含まれており、縁起じたいはかなり早い 時期に成立していたものと思われる。この縁起は、他の書写山 縁起と全く異なる本文を有しており(注盟、それについては別途 考察が必要なのだが、正安二年(二ニ

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成立の書写山の寺 記 、 ﹃ 性 空 上 人 伝 記 遺 続 集 ﹄ ( 以 下 、 ﹃ 遺 続 集 ﹄ と 略 す 。 ) は ﹁ 縁 起云﹂として、たびたび﹃縁起等事﹄所収縁起を引用している ので、書写山の資料としては一定の信績がおけるものと判断す 九 % ﹃縁起等事﹄所収縁起によれば、性空は書写山に草庵を構え た後、背振山←伊与国←書写山

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伊与国と移り住み、さらに﹁三 ヶ年後依門徒泰恋、来坐当国峯相山鶏足寺、一一良之後、移坐此 山﹂という。﹃此山﹂とは書写山のことを指す。法華経を施入し たという記述はないものの、性空が一一反の間鶏足寺に鎗もった ことについては、ここに明記されている。しかし、先程述べた ように、﹃縁起等事﹄所収縁起の本文は独特のもので、管見のか ぎり、現存する他の書写山の寺伝及び文書類には、出寧相山鶏足 寺 の 名 を 見 い だ す こ と が で き な い 。 ここで記事の実否を問題にするつもりはないが、仮に二人の 館山が事実であったとしても、ここに挙げられている記事は外

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部の緒伝に基づいた創作であろう。その際に典拠になったのは、 ﹃ 空 也 篠 ﹄ ( に 準 ず る 諸 伝 ) あ る い は ﹃ 縁 起 等 事 ﹄ の 記 事 守 あ り 、 鶏足寺側はこれを縁起に取り入れる際、経典の施入という具体 的事項と、その時期を明記することによって、読み手に対する 信頼性を高めようとしたと考えられる。﹁年記等分明ナラ﹂ぬ寺 伝の多い鶏足寺にとって、空也と性空という名の通った宗教者 が逗留したという﹁事実﹂は、ぜひとも寺史の中に取り込まな ければならない記事だったのではないだろうか。 一 宮 伊 和 大 明 神 さて、鶏足寺を開いたのは新経から連れてこられた王子であ るが、その王子の身柄を預かった﹁副将軍男貴尊﹂もまた、矯 磨の地で神として飽られている。﹃峯相記﹄第五間﹃当国社頭ノ 巻﹂の冒頭には、繕磨八所大明神の筆頭、播磨一宮伊和明神の 縁 起 が 記 さ れ る 。 一宮伊和大明神者、泰章男尊第一ノ皇子、男巴尊、白山 妙理権現ト顕レ坐ス、愛ニ神功皇后三勝ヲセメ給シ時、 副将軍トシテ彼ノ戦場ニ肉ヒ坐ス、静鐙ノ後、皇后帰裕 ノ時、尚異賊勝ニ乗ル事アラパ、中国ノ緒神ヲ相倦テ貸 戦ベキ由、御約緒ヲ蒙リ、神勅ニ随テ、当国神戸ノ地ハ 四方山ヲ廻テ、河ノ流レ谷ノ口、無双要害タル関、此陣 ヲ 取 テ 後 、 曲 第 率 ノ 鉢 ヲ 顕 シ 坐 ス 、 其 後 数 百 年 ヲ 経 テ 後 、 師 安 元 年 、 伊 和 恒 郷 -一 託 シ テ 、 此 地 ニ 我 ヲ 崇 ベ シ ト 云 々 、 夢ニ驚テ居屋ノ西ノ野ヲ見ルニ、一宿ヲ経テ、数千本松 椙生並ベリ、群禽多飛来テ、近辺在家ヲ焼払ヒ、清浄地 ト成テ、大ニ白キ舗ルニツ北ニ向テ眠 H Y 居ケリ、其ノ跡 ニ 北 肉 ニ 神 殿 ヲ 造 リ 始 ム 、 ( 後 略 ) この縁起の内容が、先述の鶏足寺の縁起と重なっていること は明らかである。山口氏も指摘されるように、鶏足寺縁起の﹁副 将軍男貸噂﹂及び伊和大明神の祭神﹃大己尊﹂は﹁男己噂﹄と 同一一神であると考えられ、以下、本文の引用等特に必要でない かぎり、表記を﹃男己尊﹂に統一する。この縁起には﹃播磨神 戸在留からやはり数百年後というのは、先の新婦王子伽盤建立 の話とよく符号して、まさしくこのオホナムチ H 伊和大明神こ そがかの王子を預かったというにふさわしい設定﹂(注巴がなさ れているのだが、順序からいえば先に成立したのはこちらの伊 和大明神縁起のほうだろう。この縁起中の﹃師安元年﹂とは九 州年号の一つとされていて、日本の年号に照らし合わせると﹁欽 明天皇二十五年﹄にあたるのだが、実は伊和大明神の縁起には も う 一 説 あ っ て 、 ﹃ 橋 陽 万 宝 智 恵 袋 ﹄ 所 収 の ﹁ 播 州 伊 和 之 社 縁 起 ﹄ や﹃兵庫豚神社総﹄の載せる﹁正一位伊和大明神縁起﹂には、

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-4-成務天皇御字の関創とする縁起が記されている。こちらの縁起 では、男己尊に関しては﹃日本書紀﹄における男己尊の伝説を 記すのみで、当社は神功皇后が三緯征伐に向かう際、戦勝を祈 願した社であると主張している。﹃峯栂記﹄が﹁師安元年﹂関創 説を採ったのは、むろん鶏足寺縁起との関わりを考えてのこと だろうが、しかし、播磨国一宮である伊和大明神と、一寺院で ある潟足寺がこれほどまでに内容の一致する縁起を有すること は 、 こ の 寺 社 の 関 係 に お い て ど う い っ た 意 味 を 持 つ の だ ろ う か 。 鶏足寺縁起の項でも少し触れたが、山口氏は翁足寺を建立し た﹁新級王子﹂のモデルについて、﹃矯磨国風土記﹄に登場する アメノヒボコを惣定されている。そして、伊和大明神が、国を めぐってアメノヒボコと戦った伊和大神と筆原志挙乎命︹H男 己 尊 ) の 融 合 し た 姿 で あ る こ と も ふ ま え つ つ 、 ﹁アメノヒボコを原像とする﹃峯相記﹄の新癒宝子の場 合は、伝来されたというよりは、直接に神功皇后が戦利 品のように新婦仏教を持ち帰ったという意味で、その受 容関係にかなり日本の優越性を潜ませているのではない か 。 ﹂ ﹁ そ の 王 子 の 身 柄 を 託 さ れ る の が 、 ﹃ 揺 磨 風 土 記 ﹄ の 世 界 では客神アメノヒボコと対した播磨一宮の伊和大明神で あるという構図は、日本の対外的なそれをも背負い込む ことで、鑓磨にとって二重のナショナリズムを刻んでい る こ と に な る J ( 注 ロ ) と述ペられている。このニつの縁起の根底に、山口氏の主張さ れる﹁播磨ナショナリズム﹂の精神が流れているのは確かだと しても、伊和大明神側はともかく、その対になる縁起を鶏足寺 が有していることについては、いま少し考える必要があるので は な い だ ろ う か 。 この二つの縁起を見るかぎり、やや伊和大明神側に優位性が 認 め ら れ る よ う な 気 が す る が 、 そ れ は さ て お き 、 縁 起 に よ れ ば 、 伊和大明神の祭神男己噂は、当地に降り立った際、﹃白山妙理権 現ト顕レ﹂たという。﹃白山妙理権現﹂とは加賀国一宮の白山比 呼神社の祭神白山比峰神を指すが、この神は、書写山円教寺と も 関 わ り を 持 っ て い る 。 図書写山円教寺 書写山円教寺は﹃公家・武家ノ御願所﹂である、播磨天台占ハ ケ寺の筆頭寺院である。﹃峯相記﹄では寺院の縁起は第三関﹁鶏 足寺の巻﹄に続く第四間﹃所々霊場の巻﹂で穏られ、書写山縁 起はその冒頭に示される。その記述量は、他の記事に比べて膨 大で、関創縁起のみならず、当代(貞和四年)に至るまでの主 要な出来事も記されている。﹃朝野群載﹄所収﹁性空上人伝﹄か ら派生した説話群にはない詳細な年代が明記してあり、また、

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縁起類にのみ残る、性空が書写山に分け入るくだりが描かれて いること、堂塔の修理の記事について、間取りなども正磁に記 していることなどから考えて、当縁起が﹃一乗悉地普陸性空上 人 伝 ﹄ ( 以 下 、 ﹃ 番 地 伝 ﹄ と 略 す 。 ) を は じ め と す る 書 写 山 の 寺 記 を下敷きに番かれたことは間違いない。とはいえ、﹃峯栂記﹄以 前に成立していた寺記にはない表現も所々に見られ、それのみ を利用して書いたというわけでもないようである。加えて、寺 記の一つである﹃縁起等事﹄所収の縁起が、他の縁起類と異な る本文を持つことはすでに述べたとおりであるが、ここでは、 性 空 の 徳 山 に 関 す る 記 述 は な く 、 一 般 に よ く 知 ら れ て い る 縁 起 ( 注 目 ) の 内 容 の み が 記 さ れ て い る 。 ﹃峯相記﹄記載の書写山縁起は、大別して @ ② ① 性 空 の 出 生 か ら 書 写 山 の 関 創 ま で 。 関 創 の 後 、 性 空 の 死 に 至 る ま で 。 性 空 の 死 後 、 当 代 ま で の 主 要 な 出 来 事 。 に分けられるのだが‘問題の﹁白山妙理権現﹄がかかわってく るのは、①の部分である。前半は性空の出生、元服、出家等の 時期と年齢が癒列され、性空説話でよく知られる、生まれた時 に左手に針を持っていたり、出家後に霧島や背振山に健もった 際に、経巻の中から綬米が現れたり、化人が一枚の番を授けた りといった奇瑞は、完全に省略されている。康保三年{九六六) 書写山に至るにあたって、ようやく瑞雲が性空を官官写に導いた と い う 逸 話 が 示 さ れ る 。 (前略)康保三年ニ上洛、瑞雲影ノ如クニ伴テ身ヲ離レ ズ、当国府辺-二宿シ給フ、明朝ニ彼雲前ニ立ズ、成亥 方ノ高山-一銭ケリ、聖人雲ヲ尋テ山ニ入ル、震ニ筑紫ニ テ 給 仕 セ シ 章 子 乙 丸 ・ 若 丸 化 来 シ テ 、 山 路 ヲ 教 へ 車 中 ル 、 又山中ニ異僧一人出現シテ、山ヲパ書写ト名ケ、峯ヲパ 一乗ト号ス、此山ヲ踏ム者ハ菩提心ヲ発シ、此拳ニ住ム 者ハ六根ヲ浄ム云々、大型文珠ノ化来也、則草庵ヲ結ピ、 寺 院 ヲ 建 立 ス 、 この後、本文は 第一ニ鯵堂、寛和二年ニ造テ、感阿造ル釈迦ノ三尊ヲ安 置ス、永延元年ニ勅願トス、同十月七日、山門実因僧都 ニ テ 供 養 阻 車 、 第 二 如 意 輪 堂 、 天 人 降 リ 桜 ヲ 礼 シ テ 云 ク 、 稽首生木如意輪、能満有情福寿願、亦瀦往生極策願、百 千倶低心所念云々、亦異烏来テ鴫云ク、奈威不厭、山木 草 庭 、 阿 梼 菩 録 、 乃 花 応 数 ト 云 々 、 聖 人 之 ヲ 和 シ 給 フ ニ 、 ナニモミナ、イトワヌ山ノ木草ニハ、阿帽榊菩提ノ花ゾサ ク ベ キ ト 云 歌 ト ナ ル 云 身 、 ( 略 ) 剰 司 コ ↓ 削 叫 樹 割 引 制 到明謝矧叶刻、比率ニハ正ク閤魔王毎日来給フ云々 .6.

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と続くのだが、この部分は神栄氏が指摘されているとおり、 基になった縁起に比べ、﹃餓略にすぎて、省略がはなはだしい﹂ 韮担。補足のために説明すると、﹃悉地伝﹄等の縁起では、文 殊の化身である﹃化人﹂(﹃議相記﹄記載縁起では﹃異僧﹂とす る α } が﹃此山ヲ踏ム者ハ普提心ヲ発シ、此峯ニ輪車ム者ハ六情根 ヲ 浄 ム ﹄ ( 注 目 } と 説 明 し た 後 、 性 空 に 、 書 写 の 地 に あ る コ ニ 吉 処 ﹄ の場所を教えることになっている。本文中の﹃第ご・﹁第一ご・ ﹁ 第 一 一 ご と い う の は そ の ﹁ 吉 処 ﹂ の 場 所 を 指 す 。 ﹁ 第 = ご の 地 は 性空が六根清浄の証を得た場所で、﹃悉地伝﹄では﹁准抵カ峯﹄ と 呼 ば れ て い る の だ が 、 少 し 時 代 が 下 っ て 、 ﹃ 一 遺 続 集 ﹄ に な る と 、 ﹁ 准 抵 カ 峯 者 、 当 時 白 山 是 也 ﹂ ( 注

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と記されており、鎌倉時 代 に は 、 ﹃ 白 山 ﹂ と 呼 ば れ て い た よ う で あ る 。 この﹁白山﹂が﹃峯相記﹄でいう﹃白山権現ヲ勧請シテ守護 神ト﹂した地にあたるのだが、そこで問題になるのが、先程の ﹁男巴尊、白山妙理権現ト顕レ坐ス﹂という一文である。他の 伊 和 明 神 縁 起 で は 、 事 端 墾 男 尊 と 男 己 尊 の 関 係 は 明 記 し て い る が 、 白山権現についての記述はない。また、伊和大明神に関して、 いくつかの所伝を引いている﹃援磨鏡﹄も、白山権現について は言及していない。伊和明神は書写山の勧錆十二神の一っとし て、別途書写山に駆られているのだが、書写山の﹁第コごの地 に関する記述、及び伊和明神縁起の﹃白山妙理権現ト顕レ坐ス﹄ という一文から考えれば、﹃峯相記﹄では、暗に伊和明神が勧鯖 神の一つなどではなく、﹁第三の吉処﹂に勧請された書写山の守 護神である、と主張しているようにも思えるのである。国刀己尊 H 白山妙理権現説を唱えるのは、﹃峯相記﹄記載の縁起だけであ る こ と を 考 え る と 、 ﹃ 凶 器 相 記 ﹄ に は 、 伊 和 大 明 神 に 対 し て こ れ を 特別視するような傾向があるのではないだろうか。 五 . お わ り に 以上、断片的ではあるが、峯相山鶏足寺、一宮伊和大明神、 書写山円教寺の縁起について、気づいたところをいくつか述べ てみた。鶏足寺は、外部の所伝を利用して作り上げた性空篠山 の記事を縁起に取り入れ、また第五間で鶏足寺縁起と共通した 内容を持つ伊和大明神縁起を引用することによって、声高では ないが、播磨筆頭寺桂との関わりを主張している。さらに、こ れらの縁起には伊和大明神に対する優位性がうかがえる。むろ ん、これは今回扱った三縁起に関してのみいえることであって、 ﹃峯相記﹄全体を見渡せば、また別の何かが見えてくるかもし れ な い が 、 そ れ に つ い て は 今 後 の 課 題 と し た い 。 ( 注 1 ) 各 務 健 司 ﹁ ﹃ 家 相 記 ﹄ 跨 本 と そ の 受 容 ﹂ ( ﹃ 槍 及 日 本 文 学 ﹄ 七 五 号 /

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O O -二 一 ) ( 注 2 ) 大山積平﹃歴史叙述としての﹁準相記﹄﹄(﹃日本史研究﹄四七三号 / ニ OO 二・ご ( 注 3 ) 西川卓男﹁口筒訳﹃準相記﹄﹂{﹃播磨学紀要﹄八号/二 OO ニ V ( 注 4 ﹀ 山 口 真 琴 ﹃ 播 磨 ナ シ ヨ ナ 日 ズ ム と 神 功 皇 后 伝 鋭 │ ﹃ 拳 相 記 ﹄ 序 鋭

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﹄ { ﹃ プ ロ グ レ マ テ ィ l ク ﹄ = 一 号 / ニ OO 二 ・ 七 ) ( 注 5 }大山氏前掲治文 ( 注 6 } 多国宝子﹃中世における神功皇后像の展開

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縁 起 か ら ﹃ 太 平 記 ﹄ h

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﹂ ( ﹃ 国 文 目 白 ﹄ 三 一 号 / 一 九 九 一 -一 一 ) ( 注 7 ) 山口氏前掲飴文 ( 注 8 ) 石井議長﹃空也上人の研究ーその行業と思額│﹄{法蔵館/二

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二-二第二部第二章弓蜜也上人様﹄の校訂﹂より引用 ( 注 9 ) 石井氏周箸 ( 注 附 ) 一 般 に 知 ら れ て い る 書 写 山 縁 起 は 、 ﹃ 朝 野 鮮 総 ﹄ 所 収 ﹁ 性 空 上 人 伝 ﹂ に代表される、いわゆる性蜜上人飽舗を中心に構成される。この﹃住空 上人伝﹄から派生した税話は、出生←元服

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出家←震島での修行

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背 振 山での修行←書写山関山までが記されており、﹃悉地伝﹄等が鎗せる縁 起は性空の伝記に加え、性空が書写山に導かれた経緯と、鴎堂、本噂な どの建立の由来を記している。しかし、﹃縁起等事﹄所収の縁起では性 空の生い立ちは記されず、康保三年に位獲が書写の地に草由贈を構えたと ころから話が始まっている。後世の寺飽によれば、﹃品部地伝﹄は﹁公家 官文ノ書﹂であり、この縁起は﹃当山ノ私記﹂とされていたらし︿、本 織でも述べたように、一応﹁縁起﹂としては箆められていたものの、結 局は﹃愁地伝﹄を基にした縁起が主流となって伝わっていったようであ る 。 ︹ 注

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﹃ 播 磨 園 飾 磨 線 円 教 寺 縁 起 等 事 ﹄ ( ﹃ 兵 庫 県 史 史 料 編 ・ 中 世 四 ﹄ 所 収 /一九八九) ( 注 ロ ) 山 口 氏 前 掲 鎗 文 ( 注 目 ) 注

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を参照のこと ( 注 M ) 抽 押 栄 起 郷 ﹃ 揺 磨 の 地 総 出 寧 相 飽 の 研 究 ﹄ ( 郷 土 志 社 / 一 九 八 四 ) ( 注 目 ) ﹃ 一 乗 愁 地 替 極 性 空 上 人 伝 ﹄ ( ﹃ 兵 庫 県 史 史 料 編 ・ 中 世 四 ﹄ 所 収 / 一 九 八 九 ) 私 意 に よ り 書 き 下 し た 。 { 注 目 叩 ) ﹃ 性 空 上 人 伝 記 遺 続 集 ﹄ { ﹃ 兵 庫 県 史 史 料 編 ・ 中 世 四 ﹄ 所 収 / 一 九 八 九 } -8・ ﹃昼相寵﹄本文引用は、すべて﹃兵庫県史史料編・中世四﹄所収の斑 鳩本による。尚、引用にあたっては、濁点を飽す等、適宜私意に改めた。 ※本稿は徳島大学閤鯖国文学会第三十一回研究会(平成十六年十一月二 十日}における口頭鎗表﹁﹃接相飽﹄記般の寺社縁起について﹂に加筆修 正 し た も の で あ る 。 ※

参照

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