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明治初期に於ける歴史観の問題 : 特に文明論之概略について

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(1)Title. 明治初期に於ける歴史観の問題 : 特に文明論之概略について. Author(s). 高橋, 功. Citation. 學藝. 第一部, 3(2): 79-86. Issue Date. 1952-10. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3513. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第3 懲 第 2 号. 学. 聾. 第 一 部. 和2 27年10月 昭和. Date l l l s i l e th l s and d i ea t id s e s nd ands ,b , 一1b ,p .57 1, 16. And after the audi h ) tors go fdirectors omd o ,t el , --Ben桃 : op. ci p .102 1. 4 The voice oflove sayi l i h d igh ly, 一Auden: op ・ t 1g g y ) .1 ,br ,cit . 38 1 .8 1 ti i sth d i t h t dt s back a m F t ・ vr o on owar i es 29 1.18 t ourc e s : oP ) . - ro ,3 ,c ,.1 As 兄 w i i de l ndl e器,t ssea, 一 Sara Teasdale: op, ci t e s ) , 35 1 ,1 , 24. A sufnxi ) eated three or ssometimes re] ,. imes asi more t l l ing: 1 lthe fo o ・ v. 1 ing i i ) 1 1s r 1 sh 1 1 、 vers aPPearmg 七 1 1: o g &) ) ) , darw . 」 Aude ] . ci .1 . 34 1, 7 D) 1 i ・ ・ cs 1 ・twol Some imes a s t t i ei srepea ia l s 発a edintwo1 l , ynabl . e s: Awl i▽e en s ) e c i sg , ー .toth t y t ,e , re ,i. ,. Ye l i tapp aud ng the circuits. ofracing cycl i t i t p s s .一20 , 一 Auden : op, c ,17811 ,19 Between the・ i ・eedl ess r sk AI d endlesss fe i ty d 1 a 一一8 , . 一・b ,p ・]86 11 .7 丁 ivel t creat in bsexp l e 」 l or e ’ ) AI 1creatio・ hen i 1 easure t s1l d,1 ) --8 . 一1b .173 11 .7 ・ No one worth possess ing. Can be qu i te possessed. 一Sara Teasdale: o1 t ) . ci . p, 20G II .16-17 一一 獲o 庇 cのz始期e“ ---. 明治 初期 に於ける 歴 史観の問題 特に文明論之概略について 高. 橋. 功. 北海道学襲大学釧路分校史学研究室 Tsut omt l i t em on the Hi inki s f TAKAHASm : The Prob or caITh ・ ・ ng i the Pe i “ おs l i i ’ l ’ r i 1 od of Bm. j B c i y Me ) e i k a n o m I ・ m e r n on o gar a u .y , y.. . ー. 縞沢論吉の著書は1)西洋事情、 自然科学の通俗的な 解説書叉は翻訳。 2)教科書。 3)女明批評叉は時事評 論。 4) 目叙博及び処世訓の四種に分類することが出来. 1 , 席 縞沢諭吉の仕事は教育者として、 また女明批評家とし. てのそれが最も顕著である。 縞沢謙吉の学問を同じ世代. る。 以上の四種類は大体明治六年乃至明治八年を前後と. に於て加藤弘之、.歴史では西村茂樹に及ばず、 経済学の. して、 第一、 第二種は生涯の前半に、 第三、 第四種は生 涯の後半に出ていることを知ることができる 文明論之 。 概略の出たのは明治八年であって、 縞沢諭吉が 「女久二. 軟に して透徹 した女明批評の眼を持っていた か ら で あ . り 、 また教育者として名をな した所もまたこの眼を持っ. 感じなくなった後に於て公然と女明批評や時事評論を行 いはじめた最初の体系的な著述であり、 潤沢諭吉の思想. の学者たちに比較するならば、 哲学に於て西周、 法律学. 分野で蒔田孝平と肩を並べていたもの ようである そ 。 れにもか1わらず明六蔵同人の間で重きをな したのは柔. 三年から明治六七 年ま での頃」 (註一) の暗殺の危険を. ていたからの故である。. を知るべき有力なてがムリであるといえよう 。. 79.

(3) . GAKUG回1 sR Io 1 ON A 翼c CT. vol ,2 .3 , No. 勿論禰沢諭吉の著述の中で最も慶く読まれたのは西洋 事情と学問のすふめであるが、 「従来の著訳は専ら西洋 新事物の輸入と共に我国弊習の排斥を目的とLて、 云は ゞ文明一節づ の 切雷」 (謎二) であって、 人生観、 歴. 史観を体系づけて述べたものではない。 女明論之概略が 出る頃になってはじめて成熟 した形で語られるようにな 信は明 治十一 り、 著者がこの著述について持っていた目,. 年十月 から毎月十の日著者自身による公開講義を行った 事実によっても知ることができる。 (註三). 文明論之概略以後の 著述は趣旨において馨るものでは なく、 個々の問題について具体化したものであり、 いわ. ば生涯の絶頂に立って前と後を見渡すべき位置にあると. 0c t .1952. 女明論之概略の中で歴史は どんなものであるかという ことについて 次の三ヶ所の記載がある。 (1) 「彼の文明、 半開、 野蛮の名称は世界の通論に. して 世界人民の許す所なり」 と述べ、 この三段階は 「是 れ人類の当に経過すべき階級なり。 或は之を文明の齢と. 云ふも可なり」 とあることによって歴史の推移を生物の 生長と同じように見ていることが分る。 明治二年の掌中 万国一覧には揮沌、 蛮野、 未開、 文明に分け、 その説明 によると揮沌と蛮野は文明論之概 略の野蛮に、 叉未開は 牛開にあたることは云うまでもない。 「註二) たゞ掌中 .日本が どんな段階にある かについて記述せ 万図一覧で、 ず、 アメリカを 「開化文明の贋境」 といっていて、 間接. いうことが出来よう。 この論文で扱うべき問題は文明論之概略によって明治. に日本の位置を示 しているのは、 あからさまに文明批評 を筆にするこ とのできない直会情勢の反映と して注意す. 初年の文明史観を分析 し、 位置づけることにある。 註一 幅準全集第七巻編翁自博522頁 第一巻緒言74頁 証二 同 塾十五年 史146頁 謙三 慶応義…. べきである。 このような考えは明 治初年の洋学者の間 で はほ ゞ常識化していた図式であって、 明大雑誌第三号に は森有乱が開化第一話として同 じような説を あ げ て い. 2 , 歴史観の分析. 女明論之概略はあくまで文明批評であつて、 歴史哲学. 叉は女明史ではない。 しか しその根抵には明治初年に流 行した女明史観 が最も穎著に流れているのであるから、 文明論之概略の内容を分析することによって文明史観の 本質に触れることが出来る。 こ. で縞沢がどんな書物を座右において文明論之概略. を書い たか。 鵡沢は西洋特にイ ギリスで発達した個人主 義、 功利主義の倫理を取り入れたとい われているが、 西. 洋の書物を どんな風によみ、 どんな点を強調 し、 どんな 点を拒否したかを原典と比較することによって明にした し、 o. .. 稿沢の文章は中江篤介が 「稿沢の女天下之れより飾ら まなし」(謡一)といっている ざるなく、 之より自在なるを. ように蓮 意の文章であって、 糠訳 臭がなく、 どこまでが 孫訳であり、 どこまでが創意であるかは女眼に よっては. 知り難い。 明に出典としてあげているものはヨーロッパ の書物ではキ ゾーのもの が二ヶ所、 バックルの英国文明 史、 ミルの代議政体論及び経済書がおのおの 一ヶ所、 日. 本の書物では葛山伯有の旧制沿革考、 徳川の律書なるも 引用が一ヶ所、 中井竹 山の海史に対する批評が 一ヶ 所、 日本外史、 説史余論えの批評がそれぞれ 二 ヶ 所 あ る。 このうちで特に影響を輿えたの は ギゾ←とバックル であることは次に述べるこ とによって知ることができよ う。 いまこ で比較 して 見ようとするのもこの 二書であ. の. るo. る。 (註 三) ベルツの日記に 「教養ある人士も過去に引 け目を感じているのである。 『何も彼も野蛮 至極であり た』 と一人が云った。 他の一人は余が 日本歴史に就き質. 問 した時に、 明白に 『我等は歴史を持って いない。 我等 jと明治 の歴史は今か ら始まるのだ』 と 叫んだのであるo 九年十月 二十五日のところに書いてある。 (註四) 勿論 こ、 他面そ 所謂文明について一面 に於て 讃美するとともも の暗黒な反面を指摘 したものもない ではない。 例えば中. 井機洲の西洋紀行航海新説は明治二年に出た書物である が、 1葵京古城ノ 近傍セフーンダイルス街及イズリン ト ン其他各所腰巻二」 腹民の集会する断があるのは 「文明 図中免しサル大疾患」であると指摘し、 叉「死屍野ヲ蔽ヒ ・叉女明図ノー大 鮮血河ヲ溺シ、 死力ヲ書シテ職フ有様ノ 様事ナラズヤ」 といっていて、′(註五)近代資本主義蔵会 の戯階に批判的な眼を向けている例もあるが、 顧られる. と して流 れ 入り、 文明史と ことが少く所謂文明論が渦々、 名 づくる歴史書が市中に溢れた。 文明、 半開、 野蛮とい う歴史発展の図式がどんな書物によって明 治初年の知識 人の常識 となったかは直接当時読まれた洋書叉はその孫 訳によって指摘するこ とは困難である。 しかしこの春は. l l i tory of c lam ]e l s s A( vi ays on the l rguq on の Es. e i oc t s y(1767) によって図式化さ れた啓蒙時代の所産で 19世紀の資本主義勃興期の ヨーロッパの歴史書 あって、. に多かれ、 少かれ共通 している考であり、 それが明治初. ものと考え 年の 愛,蕗期にあって、 鮮明に浮かび出て来た, られる。. (2) 第三章 「文明の本旨を論ず」 の中で文明とば何 かを説明 している箇所前;ある。 この部分の記載は F. P,. e ▼. 80.

(4) . 第3笹. 第.2 号. 学. ′. 墜. G, Gui ÷ l i i i i l t iv t zot の 1 s oryofc za o 1 1i 1 I Rurope - r ans ,t l 圭 三 T 8 6 1 1 7 I AP 1 t C 2 l 2 2 r a ed by C. S e の ~ ny の . , p ,. 第 一 部. 昭和27年10月. あって、 「方今我邦至急の求は知恵に非ずして何ぞや」 というのが結論である。 知性の進歩が歴史の原動力であ. を まゞ全訳と見ることが出来る。 従つて幅沢諭吉の文明 の るというのはバックルによって得た考である。 バックル 進歩についての老はギ ゾトによって解釈して差支ない。 ー の歴史観の要点となるのは、 Si i l l lv i i t ギゾーは女明の 進歩を どう考えていたか。 tof mora landlnt ncec za st roduc on i ・ ep ei - Two e l l nent e s i eem t o be compr ged i , when l . the ,s. lagenc i l i t ly ec ti e ・ ・ t ua s nce that produc s Co ant s , and s. l r i tfac t whi l i lc ea c i i i ・“ l f ecal r l gr za tre▽ea v on;-- t se si. ident l ly cannot be regu i t ev t chang a ed by the ng ,i. l to 1 1p l l ・; the progre sof soc y two Hyn s i ty the pro e ,. f d i d l l i s so i l i n iv ua s; the me ora i l gre t on of t ・ e soc a. i ta t roundi ng c lm‐ e ona ry agent; be caus l r c t s ,.when sor. l t em, and t i t sys 1 e expan l on of mmd and facu ty of. ’ n 1 l a ,(証六) この要素の関係については、 人間の知性の発達は紙会 の利益になるものであり、 総会状態の改善は人間性に益 するもので あって. 両者き 励まなすことは出来ないが、 つまるところ は個人の進歩ということになることであつ. て、 他の箇所 で用いられている言葉 を 拾 い 出す と A i co r ty t t . se fcr hu . na l l iny fori つ rml --A de t tt s o acc「. l i l omp l (謎七) が女明論の概略でi女明とは結局人の s 知標の進歩と云て可なり」といっているのは、園語として ギゾーの云わんとしたところをたしかに表現したものと ・. いえよう。 西村茂樹が明六雑誌第三十六号「西語十二堀 女明開化ノ 評」で、 「叉法闘西ノ学士ギゾーノ説ニシ ヴイ. リゼーショソノ 本来ノ意味二進歩及開発ノ義アリ」 「轍 委ク其義ヲ言ヘバ、 一ノ ・交際 (厳会の意味±筆者註) 段. i t t tance s ar e unchanged a onary agent can only s ,.a s ly agenti i l l ta t tua l onary c e e sint produceas . The on. one ・(註九) それでは踊沢諭吉が智と呼んでいるものはいかなるも のであったか。 文明論之概略では西洋の学問と日本の学 問とを比較して、 「西洋諸図は実験の講を主とし、 我日. 本は孔孟の理論を悦び、 虚実の相違固より日を同じふし て語るべきに非ず」 と述べている。 こふでは実学を嵐学 と対立した概念と して用いて居り、 自然科学を指してい るようにも見える。 ま た学問のす め第一篇では{-料 ー 学も実用を押へ、 其事に就き、 共物に徒ひ、 近く物事 の道理を求めて今日の用すべき」 学問をすふめている。. こふでは実学を実用的な学問と解 しているようにも見え る。 この点についてはっきり遮べているのは、 女久二年 i 幕命によってオランダに留学し、 S e r ng に学んだ s s ,Vi. 々二進ミテ、 其全体謝ク安易率爾ヲ受ルコ ト、 ニハ人民 各個ノ品位段々に進ミテ、 同シク安易幸爾ヲ受クルコト. 津田員道である, 明六雑誌第三号に 「開化ヲ進ムル方法 ヲ論ス. う論文を醸せ、 「夫高遠ノ塞想 ヲ論スル虚 」 とい▼ ・良知良能ノ説ノなロキハ虚無 無寂滅、 若クハ五行性理或ノ. た。 文明開化という標語によってやムもすれば皮相な西. ナリ。 之, ヲ実物二徴シ、 実象二質シテ専確実ノ理ヲ説ク 近今西洋ノ天女、 格物、 化学、 医学、 経済学ノ如キハ実 学ナリ」 (謙一○) と述べている。 格物は物理学であり. 是ナリ」 (註八) と書いてあって、 ぎこちないい まわ しであるが、 潤沢諭吉と全く同じように文明を解 してい. 洋模倣に終り勝な明治初年にあって、 少くとも洋学者た ちは近代市民冠会の基本原爆である個人主義の本質をつ かんでいた。 文明という言 葉はもともと東洋で古くから用いられて. l i 希哲学というのは哲知を希求する即ち ph l i ・ op a の o s 訳語である。 津田信道 はコントの実証主義を池達 した学 者であって、 嵐学はコ ントの斜学叉は形而上学、 実学は 実証的な学問を指・していると見て大過がない, しかし世 間では実用的な学問と解する傾もあったと見えて、 加藤. いた。 易経文言樽 に 「貝龍在 田天下文明」 とあり、 天 下が聖賢の徳化を仰 ぐことをいっている。 これと同 じ用. 弘之は 天別百話で 「決 して実業に直接効盗あると否とに. 法が日本にもあり 中朝事実の序文に 「愚生二中華文明 之土-未し知二其美-」 とある。 これらは, 徳によって天 下. 由て分る. 進める力であるかについて書いて あるのは第六章智様の. l knowl 西周は 実 学 と書いて r ea e ge の訳語と して 用いていた。 後期水戸学の学者は自らの学問を俗学と区 別 して実学 と呼び、 叉熊本では横井小楠等の反藩校の党. ものにあらず」 と特にことわるところがあっ. た。 (註--) 潤沢諭吉がこうした概念規定を明確に 意 がよく治まること即ち理想蔵会の意味に用いている。 明 識していたか どうかは別と して文明論之概略に於ける虚 - 治初年の洋学者は理想泣会の内容をすりかえて、 東洋の 実の実は実証的橋紳及びその橋辞によって獲得された知 徳化の代りに個人主義の倫理を盛り込んだ。 識の総体であり、 ヨーロッパ文明の長所はこ にあると (3) 智と徳との関係について、 そのいづれが文明を 考えたのである。 弁、 第七章智徳の行はるべき時代と場所とを諭 ずの二章 である。 もしヨーロッパと日本とを比較するならば、 徳 こ方冬d 性キ ま大差はない が、 その相違 は牛と猫との如くで ′. 派を学校源と区別 して実学派と呼んだ例がある。 これら 8i.

(5) . Vol ,3 .2 , No. GAKUGEI 8EcT 1oN A. はいずれも古典の形式的理解、 訓話的解釈に甘んずるこ. 0c t .1952. える。 しかし何人もヨーロッパにおいては自然法則を相 殺して あまりあるところの知的法則の作用をバックル程. となく、 古典の内容 的理解にまで深め、 儒学の持つ-面 即ち政治論を発展させて、・政治的実践を 意図したもので. 強く主張したものはなかった。 」といっ て い る。 (謎 一 トソソの反対論が許される 五) しかし若 しかりにロバー.. ある。 この意味を持つ実学が明 治初年の洋学者によって全く. にしてもそれはョ←ロッバに関する限りのこ と で あ っ. 新しい意味内容が附奥されたのである。 以上どのように文明論之概略のなかにヨーロッパの思. て、 ヨーロッパ以外にあっては依然として地理的唯物論 であることについては募るところがない。 このような地理的唯物論に対してはどんな態度をとっ. 想が取り入れているかを見たのであるが、 次に幅沢諭吉 が組述ず・べくして拒否している一面を販りあ げ て 見 た. ていたのであろうか。 嗣沢諭吉はこのような地理的唯物 論とそれに基くヨ←ロッバ優越の理論については、 全く. い。 バックルによると文明の発達は人間知性の進歩の結 果に外ならぬというのはヨーロッパに限つてのことなの. 触れておらずしてむ しろ疑問の態度をとっている。 「西. 人の著書に亜細亜洲に檀権の行はるム原因は其気候温暖. である。 すなわち気候、 土壌、 食料の三は富の蓄積及び. にして土地肥沢なるに由て、 入口多きに過ぎ、 地理山海 険阻犬なるに由て、 妄想、 恐怖の念甚だしきに在りとの 説もあれども、 此説を版て直に我日本の有様に施し、 以. 分配を通して文明及び就会状態を決定ずる膝件となる。. アジア及び南方諸国 では土撰の肥沃に基く富の蓄積 によ. って文明が進歩するのに反して、 ヨドロ ッバでは気候の. 影響に基く規則正しい労働の習慣によって女明が発達す. て事の不審を断ずべきや未だ知るべからず」 といってい. る。 前者にあっては女明の依存する自然力はその力が大 であるにか▲わらず、 制限されており、 且停 滞 的 で あ. るのはそれである。 西人の書といっているのは明にバッ クルを指 しているのである。 地理的環境によって法の精 とは明治初年にあ 譜が それぞれ異るもの があるとい うこ●. る。 後者の文明に あって はその依存している人間の力は 制限されていない。 従って アジアの文明は或程度以上に. ってかなり普及した観念公式である。 明六雑誌第四号に 箕作隣詳が 「人民の自由と土地の気候と互に相関するの. 進むことができないのに反して、 ヨーロッパにあっては 限りなく進むことができる。 (註一二). 論」 と題して、 モンテスキュ←の法の精紳のー部を抄訳 し (註一六) また明治八年何札之によりモンテスキュー. 織会の状態については、 食料の 化学的成分と気候の関 係から,「熱帯の図々では賃銀が低く、 寒帯の国々では高. の法の精辞が方法精選として訳出されている。 実証主義的楕静に徹 してゆけ ば、 このような唯物論に. くなる傾向がある。 」然るに敗喬は利子、 地代、 賃銀より 成るのであるか ら賃銀が 低いということは分 配 の 不 平. おちつくことはさまで困難で ない。 それにもかムわらず. 等、 ひいては上層と下層の政治的権力、 直会的勢力 の差 を大なら しめる。 (註一三). 縄沢諭吉がこう した唯物論をとることが出来なかったの. ついては、 若し自然の歌態が地震、 火山活動、 疾病等に. あり、 不平等な厳会組織の下に1嘩吟すべき運命を甘受出. は、 ヨーロッパとアジアとがその文明の進歩する法則が 異つており、 地理的窮境によってアジアは永遠に半開 で. ・na laspcctof ture)才こ r a , 次に自然の一般的状態 (gepe. 来なかった非合理的要請に基く駁捨選択であったもの. よって狐い力を発揮するときは想像力 が張く働いて、 理. 如く見える。 縞沢諭吉の説いた独立自尊は単に個人につ いていっ・ (いるのでなく、 園家についてもあてはまる標. 解力 (知性の論霊的な働き) が抑止される。 これに反 し. て自然の一般的状態が 小規模であり、 力弱い場合は実験. 語であった。. 観察が容易であり、 探究的、 分析的捕縛が発達し、 自然. 謡- 中江兆民 一年有牛・統一年有牛. を支配する法則を発見して人間が自然を支配するように. 47頁. なる。 ヨーロッパ以外の文明が想像力に富んでいるが、 しいのはこう した自然の一般的状態に起因す 理解力に乏・. 註二. 謙三 謡四 譲五. るというのがバックルの所論である。 (註一四). バ ックルの超越者はバックルの学説が地理的唯物論で あるということについては極力反対するとこ ろ で あ っ. s on は 「彼が教えたところによれば、 初期の女明におい. 謎八. て、 気候、 土壌が食物の供給、 人口密度の程度、 経済程 度を決定し、 叉労働の持続性を持つかどうかに影響を輿. 譲九. 82. 顧潔全集第二巻 536頁 明治文化全集第十八巻89頁 決闘正彦訳ベルツの日記14 .15頁 明治文化全集第十ノ 六巻 342 .344頁. l F.P.G, Gu l i l i i t: 貝i t zo t ory of c za o 1 ・ s v Hen!y db C S 5 l 2 t in 霞uroPe t e r n a a s y . , . p , , , ◆ p .27~28 id P ÷ 七 F. P, G, Gul zot 菩E .18 ,ib 証六. たゞ t - バ ックルの英国交明史改訂版を出した J r . M,Robe. 岩波文庫本. 明治女化全集第十八巻 230頁. i i l i l J t t ory of c za on in 配ng vi e s and . Buckl , Hi l vo .l p .130~i3ー.

(6) . 第3笹 第2 謡一〇 証--. 号. 震. 学. 明治文化全集第十八巻 65頁 太陽第二十九巻第三十一号 1頁. その時贈られた電信機械の鱒習を命ぜられたという実際 的必要には じまる。 (註八). 以上のような事実から次の事を知り得る。 第一に洋学. 者の学問というのは西洋に関する限り語学と語学を通じ. 謡一六 明治女化全集第十八巻. て学んだ自然科学とその隙用技術であって、 法律学、 経. 済学、 哲学のような所謂文化科学叉ほ就会科学と呼ばる. 3 . 歴史的展望 潤沢諭吉はどんな思想的系譜を持っていたか。 幕末洋 学者は二の群に分けることができる, 一は佐久間象山、. 横井小柄、 橋本左内のよう に儒学に深い教養があり、 且 ー藩の輿論や政治を左右する地位にあった人々であり、 ーは医学を専門と し叉は孫訳を以て仕を得た洋学者プロ パーの人々である。 潤沢諭吉は後者の群に入る。. 縞沢諭吉は大阪の緒方洪庵の塾に学んだ。 緒方洪庵は 江戸の杉田成郷と共に幕末における 「東西学問の両大関 であった」 が、 その塾の掲示の第. 昭和27年10月. 約締結のためにプロシャから特命全権公使が派遣され、. J l id p b ] ck e:i , Bー ,31~37 J l l b 一1 id l 【 e: i ) ) , Buc ,47 .49 i d P 謙壬一四 J e: ib , Buckl .86~93 l b d pr i 譜ミ一五 e: i eface . Buck ‐ J. 謙 謙一 ニ 長 坐一・三. 第 ー 部. 係として 「学生の読. 書研究は勿論なれども唯原書を読むのみ。 一枚なりとも 漫に孫訳を許さ ず。」(註-) としるしてあったという。. 洋学研究の自由はあったが、 発表の自由はなかった。 轍 書については 「物理書と医書と此二種類の外 に 何 も な い。 それも版集めて 僅か十部」 (註二) に足りない もの であり、 「西洋の歴史さへ乏し、 況んや経済、 法律、 政 治書の如き日本国嘗て見ざるところ」 であった。(謎三) しかもその勉強の しかたは同 じく緒方洪庵の塾に学んだ. 松本良順はその目停蘭嘘で 「徒ラニ文 ‐法書ヲ解読シ、 叉 序文凡例ノ名文ヲ講究シ得タルモノラ以テ洋学者トシテ. べきものについては極めて乏 しい教養しか持つ〔いなか. ったことである。 元治元年十-月の開成所規則の改正 に よってその教授課目がかなり分化したけれ ど も、 和 蘭. 学、 英吉利学、 柳関西学、 独進学、 鶴西頭学、 天文学▲ 地理学、 数学、 物産学、 精煉学、 器械学、 同学、 活字学 だけ であって、 語学部門と技術部門に限ら れ て い た。 (註九). 第二にその学び得た学問の上に立って、 封建制度を批 判し、 倒幕というような政治的実践への意欲は少く、 倒 幕、 佐幕のめま ぐろわしい藁軸の圏外に あ り、 横 井 小. 柄、 佐久間象山- 橋本左内等いずれもテ ロリズムの手に 倒れて明治維新以後の新しい動きに何等寄輿するところ がなかっセのと著 しい相違がある。 「正米二百俵貰ふて. 親玉 (将軍の事) の御師匠番になっ て 見 た い」 (謡一 ○) というのが幅沢諭吉が文久二年のヨーロッパ行の船 中で松本 弘安、 箕作秋坪と語り合った言葉であるが、 こ. れはむしろ実現を期待していない夢であって、 「江戸に 東て篠川の政府に雇はれたからと云った防が是 は云は ゞ. 筆執る職人で、 政治に奥からう訳もない。 只 職 人 の 積 り」 というのが虞惰であったと思われる, (謎--) 水 嫌スル」 風があった。 (註四) こういう学風 の 中 に 育 一 戸烈公建議に 「国学第一、 漢学第二、 洋学第三と申席次 ち、 のちにボンベの長崎医学停留所で近代的学校教育を にて可し 然」 にかかわらず 「公辺にて国学御好無シ之 受けた長典専斎 は 「従前とは犬なる相違にて極めて平易 洋学のみ被し遊二御立-候」 というのが実情 で あ っ た 。 なる言語即文章を以て直に事実の正味を説明し、 文字文 (註一二) このように洋学が盛行したものの洋学者に対 章の穿購の如きは墓も歯牙にかけることな く」「坦々とし する世間の眼は 「外因局も訳官及び卸書輸掛及び御書物 て大道を履むが如くなりき」 (註五) と回顧している。 係といへる一課をば緯名 Lて繊多町と呼」 ん で い た 緒方洪庵の適塾に学ぶ学生の政治的関心に つ い て は (註一三) 従来洋学者受難の史実を指摘して その反封 、. 「政治談は余り流行せず。 図の閉鎖論を云へば開園論な. れ ども甚だしく之を筆ふ 、者もなく、 唯当の敵 は 僕 法 医. 建的なまた批判的性格を高く坂扱う傾向が あった が 、. 「依然封建支配内部の不平たるに留らせ 封建蔵会そ の 、 ものに対 する批判を育てることが出来なかった」 という 沼田氏の意見は正しいものと考えられる。 (謎一四). で、 医者が憎ければ儒者ま でも憎くなりて、 何でも蚊で も麦那流は一切打払い と云ふことは何処となく定まって 居たやぅだ」 と幅翁目像に書いて ある。 (註六). 第三に儒学特に朱利学に対して疑を持つていたものが. 閥沢諭吉、 加藤弘之はそれぞれ英学、 ドイツ学の先駆 者であったが、 いずれもその意義を意 識していたわけで ・. 多かったということである, 西周は十 八のとき病気にか. ふり臥床のま 聖賢の書を見ることが出来ないので、 た またま 異端の書とされている論語徴を読み っゞいて但 、 株集を読むこと牛ならずして十七年の大夢一時に醒めた と語 って居り、 (註一五) 石村茂樹は 「後長して海保石. はなかった。 潤沢謙吉は明治十九年慶隙義塾 の学生 に 「此時に洋書を読み初めたるは何の目的を以てしたろか. 今に於て自ら際する能は ず」・ と演説している。 (謎七) 加藤弘之が蘭学から ドイツ学 にうつったのは万延元年僻. 室、 安井息軒、 海保漁村諸氏の数を受け盗探ク儒学ヲ信 83. く 」 ) 、 ′ r ± . く ・ ′ 、 、. ′ . ′ 主 ′ く 、 . . :. ・. 、 ′ ±. 、 、 、 . ・ ・. i 、 ′ ● { ′ ′ ・ く 1 ・ . ・ ● ・ { . ● ● ● ′ コ ′ ;′ ′ ● ・ 、 、 ′ ● . ′. 、 { ・ ′ ′ く.

(7) . f GA1 (UGB1 8 1o ON A 翼 1 1 ; . G. I VO ,2 .3 . No. ジ (但シ此比来学ニ ハ大ニ疑ヲ来セリ) 」 と 「学 問 の経 歴」 の中にしる している。 (註 一大) 鵜沢諭吉は中津の. かしその素養の根抵 となっているのはコン ト、 ミルであ っ<極力そ の立場 から朱子学的な形而上学を排しよ うと している趣が見える。. 儒者白石照山に学んだが、 その学風は「亀井が大信心で」 (註一七) あったというのであるから但休学の流を酌む ものであつた。 朱子学者が自然科学を窮 理と混同し、 大 橋諮商が 「扇ヲ碑キテ風ヲ .求メ、 筆を割キテ字ヲ授サン ▲な誤解は佐久間 トスル者」 (謙一八) といっているよう. 象山にあっても免れることが出来なかった) 「古来漠儒 以二地震-篤二蛮夷侵陵之兆-。・占候之説洋学不し販, 難. し然天人合隙之狸不 可し謂二必無ー」 とはその省讐 鎌 に. 書いてある自然観である。 (註一九) これらは朱子学に 深い造詣を持っていた ドけにその形而上学的な宇宙観を. 捨てることが出来なかった例であり、 従って近代西洋女. 明の基礎である自然科学的因果律を正しく理解出来なか った。 朱子学に疑を持ち、 実証的な狙棟学の影響を受け. 加藤弘之の法律学については 「余は英国の開化史上の. 大家バックルの著書を読んで所謂形而上学 なるもの 殆 んど荒擁F無稽なることを初めて知り、 専ら自然科学に依 拠せざれば何事も論究する能はざるを感 じ」 たとその目 叙懲に書いている。 (註二五) 明治十五年の人権新説で ・物理ノ学科二係 レル彼進化主義ヲ以テ天賦人権 は 「余ノ 主義 ヲ駁撃セン ト欲スルモノナリ」 という法律学上の立. 脚点を確立している。 (註二六) 日本に進化論を紹介 し r s rd Mo e たのは Edwa , タト山正一、 矢田部良吉 などで あり、 明治十年以後のことである。 (謙二七) 加藤弘之 がヘッケルによって法律、 道徳を研究する立場を取った のもその頃のことである。. 潤沢諭吉の教育思想について、 自然科学を陶冶の文化. た幕末の洋学者プロパーはむしろ西洋女明を理解するよ. 財として最も重んずべきことをしばしばく りかえしたこ とは注目す べきことである。 明治十五年慶聴義塾で 「欧. い地盤を持っていた と見なければならない。 日本に於てヨーロッパの所謂総会科学を移植したのは 蕃書調所、 後の開成断の洋学者グループである。 箕作元 南には多くの歴史に関する著述があり、 (謙二○) その. 学は西周、 津田贋道、 加藤弘之、 蒔田孝平、 鵜沢諭吉な どによって引きつがれた。. これらの洋学者 グルー プは どんな態度でヨーロッパの 就会科学を研究し、 叉 どんな学問を移植 したか。. 西周と共にオーソダに留学 Lた津田贋道は西周簿の序. 女に 「君はカント源の哲学を喜び、 余はコム トの実学を 好めり」 としるしてある。 (註二一) なるほど西周には. し」・「我慶糠 洲近時の女明は皆物理学より出でざるはな. 義塾に於て初学を導くに専ら物理学を以てし恰も諸科の 予備を罵すも蓋し之が馬なり」 (謎二八、 と演説 してい る。 明治四年の頃の 「学校之説弁洋学の順序」 には 「第. 一彼園之エビジニ十六女字、 第二読本、 第三地理、 第四 数学、 第五窮理学、 第六歴史、 第七修身学、 第八経済、 第九法律書」 をあげている。 (註二九)自然科学的教養 が所謂固願な漢学の教養に対する有力な武器であったこ. とは 「凡そ人に語るに物理の原則を以て して自ら悟 らし むるより有力なるはなし」 と語っている。 (註三○) 明. カントの純粋膜性を理解していたと見る べき節がある。 例えば 「其員理ナルモノ ハ事々コシテ之ヲ知ラスト難ト. こ「五 治初期の学風について末鹿重恭の二十三年未来記を ‐、 六年前マ デハ書生ノ喜 ど談ズル所ハポックル、 ギ ゾr 一 ( 誰三 ) る としるしてい ミルノ著書ナリ」 。. モ我亦先天ヨリ之ヲ知ル者アリ。 日 ク虞阻ハー物一事ニ シテ必スーナルラ知ル。 一ヲ両断シテ其三タリ四タリ若. それでは どのようにしてこのよう な自然科学的態度叉 は実証主義の学問が日本を風離 したのであろうかc 西周. クハ五 ダルヲ知ラソト欲スルトモ婦ペカラザルナリ。 此 先天ノ知二因テ員理ヲ知ルラ求ム」 とい}、 (註二二) ・ ルラモネンフエルメンワト ー トランスセンデンタ. ・時の学風を樽えて 「其頃有名ナ哲学者 はオランダ留学当 タルハ阿伯曾 米爾氏ナリ。 此人ナ ドモ坤度、 不篇、 扇繭. 純 然 黒 智ノ説」 をあげている。 (謎一九) しかし 「填胡斯坤徳諸学ノ具 象ヲ類次シ、 単純ナ ルモノョリ組織ナル者二至り、 五学 ノ模範ラ立ッ。 其立論極 〆テ精シタ、 其識力 極 メ テ 高 叉 「王山ノ哲学源韓図ノ縄. 。c t .1952. 妙. 等ヲ堆辱セラレタリト見ュ」 (註三二) といってい る。. 幕末、 明治初年即ち十九世紀中頃は唯物主義叉は経験主. 義の哲学がヨーロ ッパの思想界の主流をなしていたつ ド イツに於て新カント派が巡り、 ドイツ観念論が復興した. シ。 憲セリト云フベシ」 (註二三) といっているのはむ しろ西周の本領ではなかったろぅか。 西周のカ ント理解 については麻生義輝氏は 「西周の理解したカントは、 純. のは十九世紀末であり、 頭沢諭吉、 西周、 加藤弘之、 津. 田鱈道等明治初年の思想界を指導した世代は概に学者と. 粋理性批判としてのカントではなく永久平和論と して の カン ドであった」 と批判 している。 (註二四) 西周は明. .第一線を次の世代に譲りっふあった時であ して大成し、 ここれの学者はヨーロッパの学問の傾向をその る。 思うを. 治十年にはミルの功利主義を訳逃 していて必ずしもコン トに拘泥せず して、 自己の立場から倫理学、 哲学を建議. まふ日本に流し込んだといってよいであろう。 之らにこ れらの学者の青年時代に積んだ教養がヨーロッパの学問. しようとしているこ とは百一新論によって明である。 し 84.

(8) . 」 ′ ‘. 第3堪 第2. 号. 聾. 学. については自然科学だけに限られて おり、 しかも朱子学 について疑を持つていたことは一層こう したヨーロッパ の学問を受け入れ易い事情にあった。 バックル及びギゾーの歴史叙述がこれらの洋学者に訴. える力があつたのも、 その中に内在する自然科学的歴史 思考によるものがある。 バックルが 「自由意志という形. 而上学的独断、 辞意により予定された事件という紳学的. 独断を拒否し、 人間の行篇は独り先行者 (An t t e eden ) c によってのみ決定せられ、 一律な性格を持っていなくて はならない。 即ち増定の鱗件の下では常に同-の結果を. もたらす という結論を信ぜざるを得ない。 」と 述 べ て い. る。 (註三三) ギゾーは 「もろもろの事件が結びうけられる鎖、 即も ろもろの事件の源因と結果Jが歴史叙述の最も重要な部 分であると語っている。 (註三四) 叉 ギ ゾーは歴史家に は三の仕事があるとい ふ、 その第一は事実を集めてそれ. がどんな風に関連しているかを知る こと即歴史解剖学と 呼ぼるべきもの、 第二は砧会の組織と活動、 事件の進行 を把握すること、 即歴史生理学と呼ばるべ きもの、 第三. は歴史叙述に於てこれらの形態及び運動をいきいきと再 現すること即歴史形態学と呼ばるべきもの 三をあげて いる。 (註三五) バックルが歴史研究のモデルを物理学 叉は化学に求めているとすればギゾー は生物学に求めて いるといってよいであろう。 女明諭之概略で歴史の動きを 「進めんとするも進むべ. からず、 留めんとするも留むべからず」 とし、 その源因 ・ を近因と遠因とに分け、 水の沸騰や人の呼吸作用と同じ. 方法によって考えるべきだとし、 「西洋の語にて 『スタ チスチク』 と名く」 る方法によつて其利害得失を明にし. l よ う と して い る の は バ ッ ク ルの Hi i i i t t ” ory o「 c za vi on l n 団ng溢血 Vo .I Chap .13~14 .p ,17~19 ,l p. で雄. べている ところである。 ドイツ近代歴史学が移植されて , I i udwi s gR e s が東京大学の講義で 「バックル及びバッ J , クルの追随者が若しも歴史斜雄の労作の基本的仮定を正 しく理解したならば彼等はその大きな誤りを犯しはしな. 第 一 部. 的思考乃至歴史学方法論の確立には無関係であり、 明治 中期以後の正統的歴史学には寄輿するところ少かつ力。 しかし女明論之概略の性格がもともと文明批評であっ. て、 学的著速でないのであるから、 純粋に史学史の 観点 から評慣し去ることは当を得てい ない。 フランスの立憲 主党の領袖 でもあったギゾーの政治的 立場 はそのまム爾 沢諭吉の立場でもあって、 市民勢力を 育てあげ、 且その 政治的主張を代弁した批評家として● の 意義はこれとは別 に考えなくてはならない。 園家の独立とい うことも潤沢 諭吉にあっては市民勢力をもとにして考え得るもので・ あ り、 近代国家形成の上に果した役割こそむしろ本質的な ものといわねばならぬ, 女明史はその主張を盛り員 .普及 させるための器に過 ぎないのであるがいまこ1では深く 触れない。 謎一 雨準全集第七巻両翁酉話 127頁 謙二 同 編翁目像 375頁 第十巻 374頁 謡三 同 謡四 明治文化全集第二十四巻 479頁 副五 長興事 斎 松香私志上 19頁 謡六 間津全集第七巻編翁目算 387頁 譲七 ・縞樫全集第十巻 76頁 註八 加藤弘之目叙像 24頁 0頁に引用さ れ た開成所 謎九 沼田次 郎氏幕末洋学史7 譲一〇 謙 --. るにか わらず常に自己同一のものであるという確信を. 我々に強うるが如き存在のみが贋に歴史的分析の主題た り得る事が出来、 まことにこのよう な存在は歴史的分析 による方法以 外では把握きれ得ない」 (註三六) と批判. 事 務 に よ る。. ー. 筋浬全集第七巻編翁目億 474頁 同. 480頁. 註一二 謙一三 認一四 謙一五 語 …-六 謡一七 誌一八 謡一九 註二○. 上野図書館戯写体 青山男筆記 魯五 顧地源-良 B 懐往事談 47頁 沼田次郎 前掲書 25 9頁 . 森路タト全集第九巻西周億 11頁 上野図書館蔵自筆本西村茂樹難綴巻六 編裡全集第七巻編翁目偉 306頁 ’ 大橋1 1 1 1庵先生全集巻一関邪小言 50頁 象山全集巻一 5頁 学嚢第二巻第二号 筆者 幕末明治初年にお ける西洋史研究 109頁 謙二- 森鴎外全集第九笹西周博 4頁. 註二二 明治文化全集第十八巻明六雑誌第二十号知説 註二三 註二四 謡二五 謙二六 謙二七. かったであろう。 即ち我々は自由意志と道徳行澱を-致 ヒし、 外面的に矛盾してい せしめ得るものであり、 叉襲f. 昭和27年10月. . 同 326頁 3頁 麻生義灘 西閥哲学著作集解説 36 加藤弘之目叙偉 52頁 明治文化全集第五巻人権新説 359頁 明治文化発辞記念誌 石川千代松 モールス 先生と進化論. 謎二八 両津全集第十巻 4頁 謎二九 慶膜義塾大学図書館蔵写本. したのは明治二十年以後のことである。. 註三○ 爾揮全集第一巻緒言 40頁 誌三一 未廃重恭 二十三年未来記 87頁 註三二 明治女化全集第十八巻 237頁. 縞沢諭吉の .歴史観は倫理的規範によって歴史を考えよ うとする江戸時代朱子学者の実用的歴史叙述に対する抗 議者としてはその任務を 果し得たのであるが、 歴史主義. 謎三三. 85. Thomas Buckl l i iv i i e t t s za on Qry of c , Hi. . ● ′.

(9) . 。c t .1952. GAKUG鳶1 8 冠ほ めN A. VO I .2 .3 , No. l ive l - r tsurvey oft 1 ・ sa i or e s 議三六 L, Ri s ,: A s. d vo l l i ) I ・ n 鳶g a ,14 .11 圭三四 F. P・ G, Quizot: ibid p,17 静 ) b i dp i キ zot: i .196 .( , Gu 謎三五 F.1. hi l tory,▽o s ,3 ,l p. 私法的判断の基礎的指導観念に関する研究. 2※. 判例に適用され た事 情変更の 法則 中・ 塩. 屋. 九. 一. 郎. 北海通学強大学札幌分校蔵会学研究室 A: ( Kー ー i )YA chi r。 N AKAB日工. ’ ic stal t ibus, la Re l 1 l 1 1 Thc pヱ i i c ) c of ” C1aus i 1 ・uss 1. ー ー .Precedent sof Ja. )a 1 ‐ A1 i も udidf ed t。 the一丁 ) P. L は しが き も初、 其の関 事情愛更法則は主として法律行篇成立の当. 係発生の地盤となっていた事情が当事者の意思に基ずか. て、 該公債所有者たる上告人伊藤信吉によって 篇された. 仰貨公債が、 英貨公債たることの確認 , 東京公債五分利附 及び債務履行請求事件に関するものである。 事案を要約すれば、 被上告人は電気事業を拡張する鴬. ない不可抗力 によって聾更した場合 に、 その本来の法律. タ ト質によって其の資金を得 ん と 決 し、 明治45年 192ヱ. 規範である。 従って- この法則の法理は当.事者の意思とは別個の信. 初共闘のみで募集せん としたが、 後米悌両国に於ても募 ●により英・雛両国 集することとなり、 「ミントバリュー」. 求めなければならない。 然しこの法則 が事情饗更という 特殊の場合に信義則に従うべき構成をとらん が鷺には・. 四百万磁に相当する一億八十八方法は悌園で募集した。. 、数果を当事者間にいかに衡平に分配するかに関する法律. 義則というが如き私法法規の最高規範にその基礎観念を. 信義則の基礎観念たるものから種々 な考察を背景として 演揮 し潤色を施す他はない。 饗更法則は 外形上は信義期と著しく異 る 従って、 事清濁. が如く見えるが、 実は信義則適用の 特殊の 場合を更に一 ・それに法律規範としての独自の地位を襲え 般原則化し、 んとするもの に他 ,な らない。. かかる法理を有する事情愛更法則を個々の判例につい 上 て検討し、 この法則が最 早単なる学説上の法律規範にi. 年)募債総額九百十七万五千磯の起債の認可を受け、 当. の貨幣比率を一概に対し二十五法二十二参とし、 総額中. ;貨公債の発行を日本興業銀行をし、 而して被上告人は 右側. て引受けしめ、 同銀行,は 在 巴 里 「ソシェテ・ゼネラ ル .同耐は同 蔵」 を して巴里に於て本件公 債を発行せ しめ、 金三百八 払込 2日より額面五百法、 申込金百法、 年2月2. 十三法七十五参即ち四百八十三法七十五参を以て払込を 篇さ しめ募集を開始 した,. 然るにその後偉園は世界大戦に参加したるにより法貨 1927年) には、 一磯に付 の債務漸次下落 L、 昭和2年 ( 資格の約 百二十四法二十一参の贋格を有するに至り全法【 i 2 8 3 9 ラ 年)柳 園は新貨幣法を 五分の一となり、 昭 和 年 (. るものではなく、 紐会に発生する具体的事件につき適用 を見つつ ある厳然たる実用 裁判規範であることを実証せ. 制定して年贋切下げを断行し、 従来の法貨の品位の約五 :の法貨を以て本件公債 分の一に切下げ、 被上告人は現時. んとするのが本稿の目的である。. 第一. を償還するi こ於ては円の篤替相場に愛動なき限り、 公債. 2 , 事情襲更法則の存在 を認めた判例 ユ ) 昭和9年12月27日 大ヂザ. 発行当時の貨幣の実個的五分の一を償還し得 べ き計算 となるに至った。 そこで本公債の所持人たる原 田 鱒 二. (上告人伊藤は第一審の原告原田より本件公債を譲り受. 本件は被上告人たる東京市が発行した伸貨 公 債 に 就. ※) 私法的判断の基礎的指導観念に関する研究 1: 事情艶更法則の法理に就て i95L. 86. 学嚢第1部、3 巻、1 号、.

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早いもので、今日は1学期の終業式、この4ヶ月の間に子ど

これまた歴史的要因による︒中国には漢語方言を二分する二つの重要な境界線がある︒

うのも、それは現物を直接に示すことによってしか説明できないタイプの概念である上に、その現物というのが、

ると,之が心室の軍一期外牧縮に依るものであ る事が明瞭である.斯様な血堅の一時的急降下 は屡々最高二面時の初期,

 はるかいにしえの人類は,他の生物同様,その誕生以

本県は、島しょ県であるがゆえに、その歴史と文化、そして日々の県民生活が、