一
はじめに
筆者はこれまで日本固有の蒸留酒である焼酎︵および泡盛 ︶ 1 について、沖縄県の泡 盛 2 と長崎県 壱 岐 に伝わる焼 酎 3 を中 心 に 、 そ の 歴 史 的 展 開 や 文 化 的 背 景 な ど を 考 察 し て き た。 本 稿 で は 鹿 児 島・ 宮 崎・ 熊 本 の 三 県 が 境 を 接 す る 地 を 訪 ね ︵ 図 1 ︶、 そ こ で 継 承 さ れ て き た 薩 摩 焼 酎︵ 鹿 児 島 県 ︶ と 球 磨 焼 酎︵ 熊 本 県 ︶ と い う 二 つ の 伝 統 あ る 焼 酎 に つ い て 報 告 し、さらに検討を加えることをおもな目的とする。 とはいえ、本稿が主題とするものはひとり焼酎のみならず、広く三県が接するあたりの土地の地誌全般である。当地 を 代 表 す る 産 物 の 一 つ が 焼 酎 で あ る ゆ え に、 そ れ を 考 察 の 中 心 に 据 え よ う と い う に す ぎ な い。 ま た、 ﹁ 焼 酎 街 道 ﹂ な る 名の往還が実際にあるわけではなく、当地の性格を象徴的に言い表した一つの比喩として用いている。 ところで、表題中の﹁ 肥 薩 ﹂は、かつての肥後国︵熊本県︶と薩摩国︵鹿児島県の西半分 ︶ 4 を合わせた語で、 J R 肥 薩 線 5 の名にもなっている。司馬遼太郎の﹃街道をゆく﹄にも同じ地名を表題に含む一 冊 6 があるが、そこでは当地を代表 する文化の一つである焼酎にはまったくふれられていな い 7 。肥薩国境・焼酎街道をゆく
戸井田
克己
そ こ で 本 稿 で は、 肥 薩 線・ 嘉 例 川 駅︵ 写 真 1 ・ 2 ︶ を 旅の起点と し 8 、おおむね反時計回りに両国の国境地帯を 高 千 穂 ︵ 宮 崎 県 ︶、 大 口 ︵ 鹿 児 島 県 ︶、 人 吉 ︵ 熊 本 県 ︶、 出 水 ︵ 鹿 児 島 県 ︶、 川 内 ︵ 鹿 児 島 県 ︶ と ひ と 回 り し て、 焼酎にまつわる学びを深めていこうと思う。またあわせ て、焼酎をとりまく周辺の地誌的な諸事象についても検 討を加え、この地に関する全般的な理解を図っていきた い。 ちなみに 、先稿で取り上げた﹁琉球泡盛﹂と﹁壱岐焼 酎﹂ 、そして今回取り上げる﹁球磨焼酎﹂と﹁薩摩焼酎﹂ の 四 種 の 焼 酎 は、 い ず れ も 世 界 貿 易 機 関︵ W T O ︶ の ﹁ 地 理 的 表 示 の 産 地 ﹂ 9 に 指 定 さ れ た、 国 際 的 に も 認 知 さ れた日本を代表する酒である。 ウィスキーの﹁スコッチ﹂ や﹁ バ ー ボ ン ﹂、 ブ ラ ン デ ー の﹁ コ ニ ャ ッ ク ﹂ や﹁ ア ル マ ニ ャ ッ ク ﹂、 ワ イ ン の﹁ ボ ル ド ー﹂ 、 発 泡 性 ワ イ ン の ﹁ シ ャ ン パ ン ﹂ が、 や は り W T O に よ っ て 地 理 的 表 示 の 産地に指定されている。それらと同じように、その伝統 と固有の価値とを保護されるべき正統な﹁日本の酒﹂と いうことになる。わが国では現在、九州各県を中心に全 宮崎 鹿児島 熊襲 の 穴 肥薩線 八 代 海 八 代 海 八 代 海 甑島列島 ■
宮
崎
県
東
シ
ナ
海
小林 ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ 霧島山 ▲ ▲高千穂峰 白髪岳 白髪岳 ● ● ● 人吉 隼人 ● ● ● ● ● ● ● ● ● 大口 八代 出水 出水干拓 薩摩川内 串木野港 青潮岳 ● ● ● 知覧● ● ● 都城 曽於 桜島 桜島熊
本
県
太
平
洋
大 隅 半 島 薩 摩 半 島鹿児島県
■ ■ × 久七峠 霧島神宮 0 10 20 30 40 50km国 各 地 で 焼 酎 が 製 造 さ れ て い る が 、 10 地 理 的 表 示 の 産 地 に 指 定 さ れ て い る の は こ の 四 産 地・ 四 焼 酎 の み で あ る。 本 稿 で は、 W T O から認定されたこれら四つの焼酎を、 ﹁ブランド焼酎﹂と呼称することにする。 なお、本稿では多くの写真を用いるが、特に 記載がないものは、二〇一五年一〇月末から一一月初旬に かけて現地で 筆者が撮影したものである。 ▲写真2 駅のホーム 鉄道ファンに人気で、旅番組でもよく取 り上げられる。 ▲写真1 嘉例川駅 1903 年の開駅。駅舎手前の石碑は開駅 100 周年を記念したもの。
二
熊襲の国
︵一︶熊襲の穴 嘉例川駅から車ならほど近い場所に 、﹁ 熊 襲 の穴﹂ ︵写真 3 ︶という、ちょっとした岩の 洞 穴 がある。観光名所ともつ かないものだが、鹿児島県観光交流局のホームペー ジ 11 では、 ﹁︵古代において︶クマソ族の首領・川上タケルが住んでい たところで、女装した日本武尊︵ヤマトタケルノミコト︶に殺されたと伝えられています。入り口は狭いものの中は広 く、奥行き二二メートル、幅一〇メートル、高さ六メートルの広さがあります﹂というように紹介されている。 麓の道沿いから山の急斜面をはい上がるように 小みちが取りつけてあ り、一〇分も登った所に 小さく口をあけている。当日は雨まじりの天候 だったため、片手に 傘、片手に カメラといった出で立ちで、滑る足元に 気 を つ か い な が ら の 登 坂 と な っ た。 晩 秋 に さ し か か っ た 時 期 と は い え、 高い湿度に 汗がふき出し、息ははずんだ。この穴の存在が象徴するよう に、ここはかつて﹁ 熊 襲 ﹂と呼 ば れた異境の地だった。 ク マ ソ と い う 語 に つ い て、 ﹃ 大 日 本 地 名 辞 書 ﹄ を 著 し た 吉 田 東 伍 は、 ﹁ 肥 後 国 ﹂ の 項 で 次 の よ う に 述 べ て い る。 ﹁︹ 前 略 ︺ 球 磨 郡 は 古 へ 熊 襲 の 称ありて地勢別に 日向大隅連接したるを以て、火国︵肥後国のこと ― 筆 者注︶ ﹂と相干与せざりし如し⋮⋮︹後略︺ ﹂ 12 云々。 つまり、熊本県の球磨 郡 13 はかつてクマソ︵熊襲︶と呼 ば れた土地であ り、クマソは部族名である前に 地域名︵地名︶でもあった。そして、こ ▲写真3 熊襲の穴 熊襲族の長・八十梟帥がヤマトタケルに 討たれた場所とされる。の地は肥後国︵熊本県︶の中心から遠く離れ、日向国︵宮崎県︶と大隅国 ︵ 鹿 児 島 県 の 東 半 分 ︶ に 隣 接 し て い た た め、 肥 後 国 よ り む し ろ 日 向・ 大 隅 両国との関係が深い、いわ ば ﹁独立国﹂のような存在だった。そこに住む クマソ族もまた、独立性の高い部族だったのである。 このクマソという語の、その語源に ついて司馬遼太郎は次のように 書い ている 。 14 クマとは 山 襞 の古語である。球磨川の流れを眼下に見おろしつつ、山 襞に家と田を作り、山襞ごとに部族を成立させ、その部族がいくつかあ つまって部族国家をなした。球磨川の山襞山襞でつくられた部族国家の 数 は 多 く、 ﹃ 日 本 書 紀 ﹄ の 表 現 で は、 ﹁ 八 十 梟 帥 ﹂ と い わ れ た。 八 十 も あ っ た。 む ろ ん 八 十 と い う は 単 に 多 い と い う 形 容 だ ろ う。 ﹁ 熊 襲 八 十 梟 帥﹂という。 クマソは﹃古事記﹄では熊曾という文字をあてている。 ﹃日 本書紀﹄ではクマ国とソ国を分けていて、熊はむろん、地形が 山 襞 ば か り の 球 磨 川 流 域 の こ と で あ り、 ソ︵ 襲 も し く は 唹 ︶ は 大 隅 ︵ 鹿 児 島 県︶の隼人のことらしく、このあたりまでは異説はなさそうである。 つまり、クマソとは単一の部族名ではなく、山襞︵そこに は清流︵写真 4 ︶もあり、稔りの田︵写真 5 ︶が開かれていたであろう︶ごとに独立す ▲写真4 球磨川の清流 人吉盆地東部、多良木町付近を流れる球 磨川。 ▲写真5 人吉盆地の水田 球磨焼酎の原料となる米が栽培されてい る。
る 多 く の 部 族 の 連 合 体 で あ り、 そ の 多 さ か ら ヤ ソ︵ 八 十 ︶、 そ の 勇 敢 さ か ら タ ケ ル︵ 梟 帥 ︶ と 形 容 さ れ た。 ま た、 ク マ は 山 襞 を意味するが、ソは鹿児島の大隅地方を語源にしている。そして﹁後者のソ︵ 襲 もしくは 唹 ︶は、本来の熊襲 族︵すなわち球磨川流域の部族︶とは異なる、別部族たる 隼 人 族を意味したのはほぼ確実だろうと述べている。とすれ ば 、クマソとは熊襲族と隼人族の両方を含む概念であることになり、単に球磨川流域の球磨郡にとどまらず、中・南九 州一帯をさすかなり広範な地域名ということになろう。クマソ族の首領・川上タケル︵ヤソタケルに同じ︶が住んだと い う 熊 襲 の 穴 は、 象 徴 的 に 、 ま た 実 際 の 地 理 上 も、 ﹁ 狭 広 二 つ の 0 0 0 0 0 熊 襲 の 国 ﹂ の そ れ ぞ れ 中 心 付 近 に 位 置 し て い る の で あ る。 ち な み に 、 右 引 用 文 中 に は な い が、 ヤ マ ト 0 0 0 タ ケ ル︵ 日 本 武 尊 ︶ の 名 は、 当 地 の 部 族 長︵ 首 領 ︶ で あ る ヤ ソ 0 0 タ ケ ル ︵ 八 十 梟 帥、 川 上 タ ケ ル に 同 じ ︶ の 名 が な ま っ た も の と 司 馬 は 考 え て い る。 つ ま り、 こ の 地 を 征 伐 に き た 大 和 朝 廷 の 皇 子︵ヤマトタケル︶が、被征服者である地方政権の族長︵ヤソタケル︶の名をもらい受け、それを自らの名として使っ た。これがヤマトタケル︵日本武尊︶なのである。司馬は、かく勝者が敗者の名を語る背景には当地人の温情の深さが あり、征服者もその温情に ほだされ、名をまねたのではないかとみている 。 15 薩摩の唄に ﹁クマソタケルはよか男﹂というのがある。これは、命も、そして名も差し出してヤマトタケルを立てた という、クマソタケル︵ヤソタケルに同じ︶の逸話を土台にしている。 その﹁優しさ﹂は、当地人一般にも敷衍できる、 この地に根差した人情の厚さを暗示しているともいえようか。 ︵二︶火の国 肥 後 国 は ま た﹁ 火 の 国 ﹂ で も あ っ た。 火 の 国 に つ い て﹃ 角 川 地 名 大 辞 典 ﹄ 16 は、 ﹁ 火 の 国 の 起 源 と 成 立 ﹂ の 項 で 次 の よ うに説明している。
六 世 紀 か ら 七 世 紀 に か け て、 の ち の 肥 後 国 の 大 部 分 は、 火 の 国︵ 肥 の 国 ︶ に 属 し て い た。 火 の 国 の 起 源 に つ い て は、 ﹁ 肥 後 国 風 土 記 ﹂ 逸 文︵ 釈 日 本 紀 ︶ と﹁ 肥 前 国 風 土 記 ﹂ に 記 載 す る 説 と、 ﹁ 日 本 書 紀 ﹂ 景 行 紀 が 伝 え る 説 が あ る。 前者は、崇神天皇の時に 益 城 郡の 朝 来 名 峰 の土蜘蛛の 打 猴 ・ 頸 猴 が背いたので健緒組がこれを平定して 八 代 郡の白髪 山に至った時、日が暮れて大空に火が燃えるのが見えたので驚いてこれを奏上したところ、天皇は火の下る国である か ら こ の 国 を 火 の 国 と 称 え よ と い い、 健 緒 組 に 火 の 君 の 姓 を 賜 っ た と い う。 こ れ に 対 し、 後 者 の﹁ 日 本 書 紀 ﹂ で は、 景行天皇が葦北から船出し、日が暮れて彼方に火を見付けて着岸し、火の場所を尋ねたところ、八代県豊村であった といい、そこでこの国を火の国と号することにしたと記されている。いずれも現八代郡宮原町付近に火の国の中心が 求められ、火の国の本拠もこの地域付近に求められていて、一時的に論じられた阿蘇の火に起源するという説を否定 している。 ︹後略︺ つまり、肥後国︵現在の熊本県︶は古代に おいて﹁火の国﹂とよ ば れた。 その起源に は二説あるものの、ともに ﹁火﹂ の立ち上った所に起源があるとする点で共通している。そしてその場所とは、いずれも八代郡宮原町︵現在の熊本県八 代 郡 氷 川 町 宮 原 ︶ 付 近 を 中 心 と す る も の で あ る と い う。 ち な み に 、 右 説 明 の う ち、 ﹁ 健 緒 組 ﹂ と は 火 の 国︵ 肥 の 国 ︶ の 国 造 の 17 祖 を さ す 名 称 で あ る。 ま た﹁ 益 城 郡 ﹂ に は 上・ 下 あ り、 下 益 城 郡 は 八 代 郡 の 北 に 隣 接 し て い る。 一 方、 ﹁ 葦 北 ﹂は葦北郡のことで、八代郡の南に隣接し、八代海に面している。このように、火の国︵肥後国︶は本来、八代郡を 中心として、益城・葦北両郡に広がるあたりに領域をもつ国だったといえよう︵図 2 ︶。 ところで、 ﹃角川地名大辞典﹄は右に つづく記述で、 ﹁また火の国の起源は、古墳の存在とあいまって、現宮原町を流 れる氷川の﹁ひ﹂の語が火︵肥︶にもつながっているものと考えられている﹂としている。つまり、 氷 0 川という川の存 在 が 火 0 の 国 の 語 源 に な っ て い る と い う の で あ る。 し か し、 ﹁ 氷 ﹂ が 先 か﹁ 火 ﹂ が 先 か は 簡 単 に は 決 め ら れ な い 問 題 で あ
図2 熊本県行政区画変遷要図 〔出 所〕「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 43 0 20km 日 向 肥 前 宮 崎 県 長 崎 県 白 川 県 白 川 県 白 川 県 白 川 県 八 代 県 八 代 県 鹿 児 島 県 大 隅 摩 球 磨 郡 天 草 天 草 郡 葦 北 郡 八 代 郡 宇 土 宇 土 郡郡郡 下 益 城 郡 上 益 城 郡 合 志 郡 菊 池 郡 山 鹿 郡 山 鹿 郡 飽飽 田 郡郡 詫 摩 郡 山本郡 阿 蘇 郡 玉 名 郡玉 名 郡 有 明 海 八 代 代 代 海 大 分 県 豊 後 福 岡 県 筑 後 肥 前 肥 後肥 後肥 後肥 後肥 後肥 後肥 後肥 後肥 後肥 後 下 益 城 郡 肥 後 下 益 城 郡 佐 賀賀 県県 五家荘 明治3年熊本藩 に編入 明治4年11月 明治4年11月 長崎県より天草郡を編入 長崎県より天草郡を編入 現在の市郡界 県界 旧国界 明治5年の八代県 明治5年の白川県 明治29年までの旧郡界
ろう。 日本語に は多くの同音異義語が存在するが、 ﹁好天﹂と﹁荒天﹂のごとく正反対の語義を同じ音で表してみたり、 ﹁全 文﹂と﹁前文﹂のごとく包含関係にある語義をやはり同じ音で表してみたりの例は枚挙にいとまがない。 氷 と 火 もこれ と 同 じ で、 こ れ は 前 者 の 一 例 に 分 類 さ れ よ う が、 お そ ら く は 当 地 の 場 合、 ﹁ 火︵ fi re ︶﹂ が 先 で あ っ て、 ﹁ 氷︵ ice ︶﹂ は そ の同音から連想されたものではないかと考えられる。次の事実はこの考えを補強する。 右引用文中では﹁阿蘇の火﹂の起源説を否定しているが、地理学的に 見れ ば 、阿蘇以外に もこの地に はじつに 多くの ﹁ 火 ﹂ に 関 連 す る 事 物 が み ら れ る。 例 え ば 、 八 代 郡 か ら は や や 南 東 の 山 中 に 離 れ る が、 広 義 の 熊 襲 の 国 の 中 心 地 と い え る場所に霧島温泉郷がある。現地をたずねてみれ ば 驚くほどだが、その温熱は随所からさかんに湯煙を立ち昇らせ、風 ▲写真6 霧島温泉郷 町の随所からさかんに湯煙が立つ。 ▲写真7 丸尾滝 湯気が上がり、滝壺が白くけむっている。 ▲写真8 韓国岳と硫黄山 奥の高い山が韓国岳、手前の低い部分が 硫黄山。
図3 日本の地体構造 〔出 所〕戸井田克己「東海地方のなかの静岡県― さかいの民俗学―」、民俗文化、26、2014、p.70 0 500 1000km 北アメリカプレート 太平洋プレート ユーラシアプレート フィリピン海プレート 東 北 日 本 相 相模 相模 相 トラフ 外 帯 外 帯 外 帯 外 帯 外 帯 外 帯 外 帯 外 帯 外 帯 外 帯 外 帯 外 帯 外 帯 外 帯 外 帯 外 帯 外 帯 南海トラフ 南海トラフ 南海トラフ 南海トラフ 南海トラフ 南海トラフ 南海トラフ 南海トラフ 内 帯 内 帯 内 帯 内 帯 内 帯 内 帯 内 帯 内 帯 内 帯 内 帯 内 帯 内 帯 内 帯 内 帯 内 帯 内 帯 内 帯 内 帯 内 帯 内 帯 西 南 日 本 西 南 日 本 西 南 日 本 西 南 日 本 西 南 日 本 西 南 日 本 西 南 日 本 西 南 日 本 西 南 日 本 西 南 日 本 西 南 日 本 西 南 日 本 西 南 日 本 西 南 日 本 西 南 日 本 西 南 日 本 西 南 日 本 西 南 日 本 西 南 日 本 南 南 南 南 西 西 西 西 諸 諸 諸 諸 島 島 島 島 海 海 海 海 溝 溝 溝 溝 西 西 西 西 日 日 日 日 本 本 本 本 火 火 火 火 山 山 山 山 帯 帯 帯 帯 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 中央構造線 糸魚川・静岡構造線 糸魚川・静岡構造線 糸魚川・静岡構造線 糸魚川・静岡構造線 糸魚川・静岡構造線 糸魚川・静岡構造線 糸魚川・静岡構造線 糸魚川・静岡構造線 糸魚川・静岡構造線 糸魚川・静岡構造線 糸魚川・静岡構造線 糸魚川・静岡構造線 糸魚川・静岡構造線 (フォッサマグナ西縁) (フォッサマグナ西縁) (フォッサマグナ西縁) (フォッサマグナ西縁) (フォッサマグナ西縁) (フォッサマグナ西縁) (フォッサマグナ西縁) (フォッサマグナ西縁) (フォッサマグナ西縁) (フォッサマグナ西縁) (フォッサマグナ西縁) (フォッサマグナ西縁) (フォッサマグナ西縁) (フォッサマグナ西縁) 日 本 海 溝 東東東 日 本 火 山 帯 東 日 本 火 山 帯 向 き に よ っ て は 温 泉 郷 全 体 を 白 く 霞 ま せ て し ま う ほ ど で あ る︵ 写 真 6 ︶。 ま た、 付 近 に あ る 丸 尾 滝︵ 写 真 7 ︶ は、 上 流 に あ る 数 々 の 温 泉 の 水 を 集 め て 流 れ 落 ち て い る た め、 冬 季 に は 滝 壺 か ら 湯 気 を 発 す る め ず ら し い 滝 と な っ て い る。 さ ら に は、 近 年 で は 二 〇 一 一 年 一 月 に 噴 火 し た 新 燃 岳 ︵ 霧 島 山 ︶ は、 現 在 も 噴 火 警 報 が 出 さ れ た ま ま で あ り、 ﹁ 河 口 周 辺 規 制 ﹂ が と ら れ て い る。 ま た、 そ の 北 方 に 位 置 す る 硫 黄 山︵ 写 真 8 ︶ で は、 今 年︵ 二 〇 一 六 年 ︶ 二 月 下 旬 以 降 火 山 性 微 動 が つ づ き、 同 じ よ う に 規 制 が か け ら れ て い る。 こ れ ら の 山 々 に 隣 接 し、 南 国 九 州 に あ る 肥 後国はやはり﹁氷の国﹂などではなく、 ﹁火の国﹂とするのがふさわしいのではなかろうか。 当地に おけるこのような性質は、地学的な観点からも説明できる。地質的に 見て、この地域の火山活動は日本のどの 地域よりも活発である。その理由は、フィリピン海プレートの沈み込みの角度が太平洋プレートのそれよりも大きいた めに、非常に勢力の強いマグマだまりを九州直下に形成しているためと考えられる。東日本火山帯と比べ、西日本火山 帯がやや東寄りすなわち海側のプレートに近い部分を走っているのは、海洋プレートの沈み込みの角度が大きいためで あ る︵ 図 3 ︶。 そ れ ゆ え、 西 日 本 火 山 帯 の 活 動 を よ り 活 発 な ら し め、 桜 島︵ 写 真 9 ︶ や 阿 蘇 山︵ 写 真 10︶ を は じ め と す る 数 々 の 活 火 山 や、 別 所 ・ 湯 布 院 ︵ 由 布 院 ︶・ 指 宿 な ど 日 本 を 代 表 す る 数 多 く の 温 泉 地 を 形 成 す る 要 因 と な っ て い る。
古代人も認めた火山地帯としての特性が、当地をして﹁火の国﹂と命名せしめたと大きな原因と考えるのが自然ではな かろうか。 そ れ で は な ぜ﹁ 肥 0 の 国 ﹂︵ 転 じ て 肥 0 後 国 ︶ な の か。 こ れ は 右 に 指 摘 し た 同 音 異 義 語 を 好 む 日 本 語 の 特 性 を 基 底 に、 そ こに﹁肥える﹂が一種の美称であったことと関係するのではないかと思われる。 つまり、肥後国は﹁氷の国﹂でも、 ﹁肥 の国﹂でもなく、文字どおり﹁火の国﹂であった。 肥 0 の国は 火 0 の国の美称であり、その同音による置き換えと考えられ るのである。 ▲写真9 桜島 右手の南岳からわずかに噴煙がたなびい ている。 ▲写真 10 阿蘇山と草千里(2013 年 9 月撮影) 背後の山は烏帽子岳で、手前の草千里は 古い火口跡である。
︵三︶高千穂の峰 熊 襲 の 国 と 火 の 国 と は、 そ の 位 置 も 広 さ も 同 じ で は な い。 し か し そ れ で も、 漠 然 た る レ ベ ル に お い て は 球 磨 川 流 域 ︵ 人 吉 盆 地 ︶ を 中 心 と す る、 狭 広 二 つ の 0 0 0 0 0 同 じ 起 源 を も つ 地 域 と し て 両 者 は お お む ね 重 な り 合 っ て い る と い う こ と も で き る。そして両者のそれぞれ中心付近には、 ﹁ 高 千 穂 の 峰 ﹂︵写真 11︶が佇立している。 宮崎県と鹿児島県の県境に 位置する高千穂の峰︵一五七四メートル︶は、地理学的に は﹁ 高 千 穂 峰 ﹂と﹁の﹂を取っ てよ ば れる火山であり、 霧 島 山 ︵霧島連峰︶の第二峰をなしている︵ただし、以下本稿では﹁高千穂の峰﹂と﹁の﹂を 入 れ て 表 記 す る ︶。 主 峰 は 韓 国 岳 ︵ 一 七 〇 〇 メ ー ト ル ︶︵ 前 掲 写 真 8 ︶、 第 三 峰 は 新 燃 岳 ︵ 一 四 二 一 メ ー ト ル ︶ で あ る。 このうち、近年の火山情報においては新燃岳の名をよく耳にするが、天孫降臨神話との関係からいけ ば 、高千穂の峰が ▲写真 12 雨にけむる霧島神宮 傘をさす人の大半は中国からの観光客。 ▲写真 11 雨にかすむ高千穂の峰 鹿児島空港に着陸間際、翼の上にかすか に望めた。
日本人にとって最もなじみある 頂 といえよう。 神話では、アマテラスオオミカミ︵天照大神︶の孫、ニニギノミコト︵瓊瓊杵尊︶が 葦 原 中 国 の 18 統治のために降臨 し た 山 で あ る︵ こ れ を 天 孫 降 臨 と い う ︶。 山 頂 に は、 ニ ニ ギ ノ ミ コ ト が 降 臨 し た と き に 峰 に 突 き 立 て た と い う 青 銅 製 の 天 逆 鉾 が立っており、後の世には山岳信仰の舞台ともされてきた。 こ の 地 に は 霧 島 神 宮︵ 写 真 12︶ が あ る。 当 社 が 出 し て い る﹁ 参 詣 の 栞 ﹂ に よ れ ば 、﹁ 西 暦 五 四 〇 年、 高 千 穂 峰 に ほ ど 近 い﹁ 背 門 丘 ﹂ と よ ば れ る、 外 輪 山 と の 間 の 鞍 部 に 社 殿︵ 霧 島 岑 神 社 ︶ が 建 立 さ れ た が、 そ の 後 た び た び 噴 火 炎 上 し、 幾 星 霜 を 経 て 今 か ら 五 〇 〇 年 前 現 在 の 地 に ご 鎮 座 に な っ た ﹂。 当 社 は ア マ テ ラ ス オ オ ミ カ ミ か ら 三 種 の 神 器 を 賜 り、 ニ ▲写真 15 天安河原(2013 年 9 月撮影) 岩戸川沿いにあり、八百万の神々がここ に集った。 ▲写真 13 高千穂神社(2013 年 9 月撮影) 杉木立に包まれ、静謐な雰囲気がただよう。 ▲写真 14 天岩戸神社(2013 年 9 月撮影) 天照大神を祭り、岩戸川対岸には御神体 の天岩戸がある。
ニギノミコトをお祀りしているという。 ただし、霧島神宮は高千穂山麓の鹿児島県側に あるが、反対の宮崎県側に は霧島東神社と 狭 野 神社のそれぞれが分社 されている。また、元の霧島岑神社そのものは宮崎県小林市に遷座されている 。 19 なお、天孫降臨の地を、北に およそ一〇〇キロ離れた宮崎県北部の高千穂町域に 比定する説もある 。 20 そこには文字ど おり﹁高千穂﹂の名をもつ高千穂神社︵写真 13︶や、アマテラスオオミカミ︵天照大御神︶がお隠れになったという天 岩戸を御神体とする 天 岩 戸 神社︵写真 14︶がある。おまけに、アマテラスオオミカミを岩戸から引き出すために神々が 談合されたという 天 安 河 原 ︵写真 15︶も残っている。 このように 、高千穂の峰は日向国︵宮崎県︶の南北二か所に ある。そのいずれが天孫降臨の舞台となった真の高千穂 か は わ か ら な い が、 と も に 肥 後 国︵ 熊 本 県 ︶ と の 国 境 に あ る 点 が 興 味 深 い。 肥 後 国 は、 山 を 越 え れ ば す ぐ の 場 所 で あ り、南北二つの﹁高千穂の峰﹂もまた、広義における熊襲の国︵火の国︶の領域と重なり合うのである。 熊襲の穴、火の国、高千穂の峰という、当地を象徴する三つの文物をたどってみた。この地は日本で最も濃密な焼酎 文化の中心地であり、いわ ば ﹁焼酎街道﹂のメインストリートともいえよう。これらの文物と街道、そしてその属性の 一つをなす酒︵焼酎︶とは、相互に密接な関わり合いをもって存在してきたように思えてならない。
三
焼酎の源流をたずねて
︵一︶郡山八幡神社 肥 薩 国 境 の 薩 摩 側 に 大 口 と い う 町 が あ る。 鹿 児 島 県 最 大 の 大 河、 川 内 川 の 流 域 に あ る 久 七 峠︵ 写 真 16︶ で 肥 後 国 に通じており、峠を越えて肥後から薩摩に入る要衝にあたる。それゆえ近世以降、薩摩藩︵鹿児島藩︶はこの要地を直轄 し、 外 城 を置いた 。 21 ﹁外城﹂とは薩摩藩が全国諸藩のなかでも独自にとった稀有な制度で、藩内各地につくった 出 城 の 一 種 で あ る。 本 拠 地 鹿 児 島 と、 屋 久 島、 口 永 良 部 島 、 七 島 ︵ 吐 噶 喇 列 島 ︶、 道 之 島 ︵ 奄 美 群 島 ︶ を 除 く 各 郡 に 設 け ら れ、 後 に﹁ 郷 ﹂ と 改 称 さ れ た。 一 つ の 外 城 ︵ 郷 ︶ に は 数 村 か ら 数 十 村 が 含 ま れ、 麓 ︵ 府 下 ︶ と 称 す る 場 所 に 藩 役 所 を 置 き、 外 城 衆 中︵ 郷 士 ︶ が 居 住 し て 外 敵 の 侵 入 に 平 時 か ら そ な え た 。 22 ﹁ 人 を 以 て 城 を な す ﹂ と は、 雄 藩 と し て 聞 こ え た 薩摩藩の国固めの思想である。 外城は薩摩国内に 三八、大隅国内に 四一、日向国の薩摩藩領内に 二一の、合わせてちょうど一〇〇か所に 及んだ。こ の う ち、 ﹁ 国 の 固 め ﹂ と い う 点 で は 肥 薩 国 境 の そ れ が 最 も 重 要 だ っ た か ら、 大 口 は 海 寄 り の 出 水 と な ら び、 格 別 重 要 な 位 置 を し め た 外 城 で あ っ た。 そ も そ も﹁ 口 ﹂ と い う の は 大 事 な も の を 表 す 日 本 語 だ が、 こ の 語 を 使 う地名について司馬遼太郎は次のように書いている 。 23 ﹁ 京 に 七 口 あ り ﹂ と い う。 白 河 口 と か 鞍 馬 口 と か、 あ る い は 丹 波 口、 鳥 羽 口、 粟 田 口 と い っ た 用 い 方 で、 京 都 で は い ま で も 地 名 と し て つ か わ れ て い る。 平 安 京 は 防 御 し に く い 山 城 盆 地 に お か れ た が、 そ れ で も 七口をふさげ ば なんとか侵入軍をふせげた。 ︹中略︺ 兵 要 地 誌 も し く は 交 通 地 理 的 な 術 語 と し て の 口 と い う の は、 日 本 が ほ ん の 百 年 前 ま で そ れ ぞ れ 地 域 社 会 ご と に 領 主 を 推 戴 し、 天 嶮 を も っ ▲写真 16 久七峠の遠望 肥薩国境をなし、川内川の水源の一つで もある。
て そ の 政 治 地 理 的 居 住 区 を ま も り、 そ の﹁ 口 ﹂ よ り も む こ う を 外 国 と してきた伝統の名残りなのである。 す な わ ち、 ﹁ 口 ﹂ は こ ち ら 側 か ら 見 れ ば 世 界 へ の 窓 口、 あ ち ら 側 か ら 見 れ ば こ ち ら へ の 玄 関 の こ と で、 元 来 が 交 通 の 要 衝 を 意 味 す る 場 所 な の で あ る。 ﹁ 大 口 ﹂ は、 口 の 中 で も 特 別 重 要 な﹁ 口 ﹂ で あ る こ と を 意 味 し た 地 名といえよう。 そ の 大 口 に 郡 山 八 幡 神 社︵ 写 真 17︶ と い う 古 い 社 が あ る。 当 社 発 行 の 由 緒 書 き に よ れ ば 、 菱 刈 氏 24 の 始 祖、 菱 刈 重 妙 が 建 久 四︵ 一 一 九 三 ︶ 年 に 封 を 受 け、 翌 建 久 五 年 八 月 領 内 を 巡 視 し た と き 郡 山 で 一 老 翁 に 会 い、 ﹁ わ れ は 豊 前 の 宇 佐 八 幡 で あ る。 わ れ を こ こ に 祭 れ ば 汝 の 子 孫 を 守 護 し、 そ の 栄 福 を 祈 る で あ ろ う ﹂ と い わ れ、 そ の 言 葉 を 信 じ て 豊 前 宇 佐 八 幡 の 神 霊を勧請し建立したのが当社だと語り継がれている。本殿ほか宮殿一基が、昭和二四︵一九四九︶年に国の重要文化財 に指定されている。 とはいえ、右の建立年は言い伝えであって、史料に よる裏づけを欠いていた。ところが昭和二九年に 本殿が修復され た際、屋根の葺板の裏に 墨 刺 による大工のメモ書きが見つかった。 そこには﹁永正四年丁卯再興島津出羽守殿﹂とあり、 永正四︵一五〇七︶年に島津氏によって 再興 0 0 されたことが明らかとなった。つまり、創建は少なくともこれより前であ るから、控えめに見積もっても一五世紀以前にはさかのぼるであろう。 この修復に おいてもう一つ重要な発見があった。それは本殿北東の柱貫の先端に 釘付けされ、塗りこめられていた小 ▲写真 17 郡山八幡神社 本殿の北東隅に焼酎にまつわる木片が隠 されていた。
さ な 木 片 で あ る。 こ の 木 片 は 存 在 が 久 し く 気 づ か れ ず に い た も の だ が、 そ の 裏 に 次 の よ う な 落 書 き︵ 写 真 18︶ が あ っ た の で あ る ︵傍点は筆者︶ 。 永禄二歳八月十一日 作次郎 靏田助太郎 其時座主ハ大キナこすてをち やりて一度も 焼酎 0 0 ヲ不被下候 何共めいわくな事哉 薩 摩 弁 で 書 か れ て い る か ら 意 味 が 取 り に く い が、 現 代 版 薩 摩 弁 に 翻 訳 す る と、 ﹁ こ の 時 の 座 主 25 は 大 層 け ち ん ぼ う で ご ざ ら っ し て、 一度も焼酎をたっぷり飲まさなかった。 なんとも迷惑なることかな ﹂ 26 といったあたりらしい。 この落書きの中にある﹁焼 酎﹂という字が日本最古のものであり、現在も使われている焼酎の字と少しも違わないことが、この落書きを意味ある ものにしている。永禄二歳︵年︶といえ ば 一五五九年になるから、おそらくは永正四︵一五〇七︶年に建立された社殿 を五〇年あまり後に補修した際、つれない宮司︵座主︶の扱いに大工が腹立ち半分、いたずら半分で書き残したものと みられる。 これは薩摩人と焼酎の深いかかわりを示すものであるだけでなく、少なくとも一六世紀半 ばにはこの地で、焼酎が酒 として確固たる地位を得ていたことを示す証拠である。注︵ 1 ︶で焼酎は日本で五、 六百年の歴史を有すると書いたが、 ▲ 写真 18 木片に残る大工の落書き(ウィ キペディアより転載) 日本における「焼酎」の語の最古の使用 例とされる。
この落書きもその根拠の一つとなっているのである。 大口は薩摩藩に とって要衝の地であっただけでなく、結果的に ではあるが、焼酎の歴史に とっても要地となった。い わ ば 日本における﹁焼酎の源流﹂をなす土地なのである。 ︵二︶曽木の滝 九州から遠く離れた土地の話に なるが、岐阜県養老町に ﹁養老の滝﹂という、落差三二メートル、幅四メートルの 垂 水 ︵ 滝 の 古 称 ︶ が あ る。 日 本 の 滝 百 選 に 数 え ら れ、 ﹁ 養 老 の 滝・ 菊 水 泉 ﹂ と し て 名 水 百 選 に も 選 ば れ て い る。 こ の 滝 に は古くからの言い伝えがあり、岐阜県のホームページは次のように紹介している 。 27 昔、 貧 し い き こ り が、 谷 深 い 岩 壁 か ら 流 れ 落 ち る 水 を 眺 め、 ﹁ あ の 水 が 酒 で あ っ た ら な あ ﹂ と 老 父 の 喜 ぶ 顔 を 思 い 浮かべたとき、岩から滑り落ちて気を失っていました。し ば らくして、気がつくと、酒の香りがするので、あたりを 見 回 す と、 近 く の 岩 の 間 か ら、 山 吹 色 の 水 が 湧 き 出 て お り、 な め て み る と 酒 の 味 が し ま し た。 こ れ を 汲 ん で 帰 っ て、 老父に飲ませたところ、大変喜び、すっかり若々しくなりました。 こ の こ と は、 都 に も 伝 え ら れ、 元 正 天 皇 が、 こ の 地 へ 行 幸 に な り、 本 湧 水 を 飲 浴 せ ら れ、 ﹁ 老 を 養 う 若 返 り の 水 ﹂ とおおせられ、年号を養老と改められました。 養 老 年 間 と い え ば 八 世 紀 初 頭 で あ る か ら、 た い そ う 古 い 故 事 で あ る。 そ し て こ の 故 事 に あ や か っ て、 同 名 の 居 酒 屋 チェーン店が全国展開していることは有名だろう。このチェーン店︵ただし﹁養老乃瀧﹂と書く︶はほぼ全国各地に進 出しているが、九州が最も手薄な地域となっており、大分県を除くと九州本土には一店も出店していない 。 28 しかし、 ﹁焼
酎 街 道 ﹂ の 一 角 を な す こ こ 大 口 に は、 養 老 の 滝 に 勝 る と も 劣 ら な い、 ﹁ 曽 木 の 滝 ﹂︵ 写 真 19︶ と い う 名 瀑 が あ る。 ﹃ 三 国 名勝図会 ﹄ 29 によれ ば 、その名の由来もまた﹁熊襲﹂にあり、曽木の 曽 0 は熊襲の 襲 0 の同音による置き換えであるという 。 30 こ の 滝 は 落 差 こ そ 一 二 メ ー ト ル と 高 く は な い も の の、 幅 が 二 一 〇 メ ー ト ル も あ り、 ﹁ 東 洋 の ナ イ ヤ ガ ラ ﹂ の 異 名 を 取っている。高千穂の峰々や久七峠付近から水を集めて流れる 川 内 川がつくる巨大な滝であり、何か所かに分かれて流 れ落ちることから﹁曽木﹂ ︵ 襲岐 0 0 =熊襲にある、幾重にも分かれて落ちる滝の意︶の名がついたものと考えられる。 そ の 流 れ は、 た ず ね た の が 雨 季 か ら 外 れ た 晩 秋 で あ っ た と は い え、 大 き な 水 し ぶ き を あ げ て い た。 ﹁ 養 老 の 滝 ﹂ が そ うであったように、この滝もまた、酒︵焼酎︶に必要な米づくりに欠かせない豊かで清らかな水を保証する象徴といえ ▲写真 19 曽木の滝 写真は滝の一部で、増水時には幅 210m の大瀑布となる。 ▲写真 20 曽木発電所の取水口 曽木の滝のすぐ脇にあり、ここで取水し てきた。
るのである。また、その急流は久しく曽木発電 所 31 ︵写真 20︶の水力源としても役立てられてきた。大口にみるこの﹁焼 酎の源流﹂は、当地の人々に対して生活の様々な場面においてうるおいと便利さを与えてきたのである。
四
球磨焼酎のふるさ
と
︵一︶球磨川 と 人吉盆地 球磨川は熊本県南部を流れる県内最大の一級河川で、中流部の平均勾配は七六〇分の一から四〇〇分の一ほどと大き い。全国屈指の急流であり、 最 上 川、富士川とならぶ日本三大急流の一つに数えられている。本流の長さは約一一四キ ロ、流域面積は約一八八二平方キロある。これは県総面積の四分の一近くにあたる広大なもので、人吉市および球磨郡 のほぼ全域︵四町九村︶と、葦北郡芦北町、八代郡泉村と坂本村、そして八代市がその流域に含まれる 。 32 そ の 球 磨 川 を 河 口 か ら 源 流 へ と さ か の ぼ っ て み た と す る。 河 口 の 八 代 市 を 出 て ま も な く、 早 く も 九 州 山 地 の 急 流 部 ︵ 写 真 21︶ に さ し か か る。 地 形 は 狭 隘 で あ り、 わ ず か ば か り の 谷 底 を J R 肥 薩 線 と 国 道 二 一 九 号 が 並 走 し て い る。 と こ ろが、球磨川を文字どおり﹁ 山 襞 川﹂たらしめているこの地峡部を抜けると、まるで別天地にでも来たかのように緩や か な 人 吉 盆 地︵ 写 真 22︶ が 広 が っ て い る。 さ ら に と こ ろ が、 盆 地 末 端 の 山 地 斜 面 ま で く る と、 再 び 幾 重 も の﹁ 山 襞 川 ﹂ となり、やがて山頂付近の水源地帯︵写真 23︶へと水は吸いこまれていく。実際の球磨川はこれと逆の流れをたどるこ とになる。 緩 急 の 流 れ を 交 互 に 併 せ も つ 球 磨 川 は、 ま こ と 不 思 議 な 川 で あ る。 地 理 の 教 科 書 に 、 か つ て ア フ リ カ は﹁ 暗 黒 大 陸 ﹂ だったと書かれている。これはテーブル状をなす大陸の形状が河口近くに急流や滝をつくらせ、河口からわずかなとこ ろですぐさま探検家の行く手をは ば んだからである。結果、ヨーロッパ人たちにとって長いことアフリカが未知の大陸だったことをそれは比喩している。球磨川と人吉盆地の関係はあたかもこの語を彷彿させる。河口から遡上するとすぐ に激流に行きあうが、激流のその先には平坦で豊かな穀倉地帯が広がっていたのである。熊襲が久しく独立を保てた理 由の一つも、球磨川や人吉盆地のこうした地形が関係したといえるのではないか。 球磨焼酎は人吉盆地が生んだ日本を代表する焼酎である。球磨川の清らかな水と人吉盆地の稔り豊かな大地が、早く からここに焼酎づくりを根づかせてきたのだろう。ここが﹁焼酎街道﹂の中核に位置するゆえんである。 ▲写真 23 球磨川の水源地帯 平家の落人が住んだといわれる五家荘付 近。 ▲写真 21 球磨川の急流部 船、鉄道、自動車すべてがここを通過す る。 ▲写真 22 人吉城跡から望む人吉盆地 球磨川の向こうに市街地が広がる。
︵二︶蔵元をまわる 球 磨 焼 酎 の ふ る さ と 人 吉 盆 地 は、 東 西 お よ そ 四 〇 キ ロ、 南 北 お よ そ 一 〇 キ ロ の 広 が り を も っ て い る。 こ の 中 に 一 市 四 町 五 村 33 が あ り、 一 〇 万 弱 の 人 が 暮 ら し て い る。 ま た そ こ に は 大 小 二 八 の 蔵 元 が あ っ て、 焼 酎 づ く り が さ か ん に 行 わ れ て き た。 あ の 狭 い 島 に 七 つ の 蔵 元 が ひ し め い て い た 壱 岐 34 ︵ 東 西 約 一 五 キ ロ、 南 北 約 一 七 キ ロ ︶ と 比 べ て も 勝 る と も 劣 ら な い、 高 い 密 度 で 蔵 元 が 分 布 し て い る︵ 図 4 ︶。 今 回 そ の す べ て を た ず ね て み た が、 本 稿 で は 紙 幅 の 都 合 も あ り、 代 表 的 な も の い く つ か を ま わ っ て みよう。 ①繊月酒造 繊 月 酒 造 は 人 吉 市 中 心 部、 人 吉 城 跡︵ 写 真 24︶ に ほ ど 近 い 球 磨 川 左 岸 ︵ 南 岸 ︶ に あ る。 創 業 は 明 治 三 六︵ 一 九 〇 三 ︶ 年。 創 業 年 代 別 に み た 球 磨 焼 酎 の 蔵 元 の 数 は、 江 戸 六、 明 治 一 四、 大 正 五、 昭 和 三︵ う ち 戦 前 一、 戦 後 二 ︶ で あ る か ら、 現 在 操 業 中 の 蔵 元 の 中 で は お お む ね 中 程 度 の 歴 史 を 有 し て い る。 従 来、 峰 の 露 酒 造 と 名 乗 っ て き た が、 平 成 一 五︵ 二 〇 〇 三 ︶ 年 に 創 業 百 周 年 を 迎 え た の を 機 に 社 名 を 繊 月 酒 造 と 変 更 し た。 ﹁ 繊 月 ﹂ と は 繊 細 な 月、 す な わ ち 三 日 月 な ど 細 長 い 形 を し た 月 の こ と で、 俳 句 の 季 語 に も な っ て い る が、 人 吉 城 の 別 名である。蔵が城跡に近いことから、久しくこの名を銘柄として拝借してきたが、百周年を記念して社名もこれになら うこととしたわけである。蔵近くを流れる球磨川は、 ﹁くま川下り﹂ ︵写真 25︶の起点にもなっており、ここを出た船は ▲写真 24 人吉城跡 「繊月城」の異名をもち、しっとりとし た味わいがある。
(注)基図として、球磨焼酎酒造組合編『球磨焼酎―本格焼酎の源流から―』弦書房、2012 の付図を使用した。 図4 球磨焼酎の蔵元の分布(2015 年 11 月現在) 〔出所〕現地調査により作成。 高橋酒造人吉本者工場 高橋酒造多良木工場 福田酒造商店 大和一酒造元 渕田酒造本店 恒松酒造本店 深野酒造 繊月酒造 五木村 相良 村 仰鳥帽子山 山江 村 球磨 村 球磨 川 鹿児島県 人吉市 錦町 あさぎり町 多良木町 宮崎県 湯前町 水上村 白髪岳 市房山 至西都市(宮崎県) 至椎葉村(宮崎県) ↖ 至八代IC ↑ 至八代市 至伊佐市 (鹿児島県) 至えびの市 (宮崎県) 人吉 I.C C II の び え 至 ↓ 球磨 焼酎 鳥飼酒造 常楽酒造 豊永酒造 抜群酒造 林酒造場 渕田酒造場 寿福酒造場 六調子 酒造 松本酒造場 松の泉酒造 那須酒造場 木下醸造所 大石酒造場 宮原酒造場 高田酒造場 松下醸造場 宮元酒造場 堤酒造 房の露 道車 動自 州九 川 胸 JR肥薩線JR肥薩線 くま川鉄道 線線 薩 肥 R J 0 1 2 3 4 5 10 km 0 50 100 km
や が て 地 峡 部 に さ し か か っ て︵ 前 掲 写 真 21︶、 水 し ぶ き を あ げ て 急 流 を 下 っ て い く。 城 下 町 で あ り、 か く 水 都 で も あ る 人吉で、その酒蔵︵写真 26︶は町のシンボル的な存在でもある。 繊月酒造では創業以来、一貫して杜氏を地元から雇ってきた。それは、歴代杜氏が作り上げてきた技術や工夫をしっ かりと受け継ぎ、地元ならではの焼酎の伝統を守っていこうとする意図からである 。 35 六代目杜氏の馬場裕次氏は、その 伝統と、杜氏としての心意気を次のように語っている 。 36 繊月酒造は、創業当初から杜氏と蔵子をきちんと社内に 置いて製品づくりを続けてきました。そのため、一〇〇年 ▲写真 25 「くま川下り」の船 人吉の発船場を出てまもなく最初の早瀬 がある。 ▲写真 26 繊月酒造の酒蔵 蔵の入り口に酒樽が奉納されている。
を経たいまでも高度な技術が確実に受け継がれ、安定した味と品質を守っています。初代杜氏・横井宇作は、明治人 らしい実直な気風で、焼酎づくりの先鞭をつけました。二代目の大瀬甚蔵は、 〝一徹の人〟 。杜氏としての自信と威厳 を存分に発揮しながら、当社の明治・大正・昭和を牽引してきました。 このふたりが磨いた技術は、三代目・ 淋 豊 嘉 の才能を得て一気に開花。 ﹁現代の名工﹂の名にふさわしい無数の功 績を生み出すのです。さらにこの達人の薫陶を受け、四代目・重富武春が﹁繊月﹂を完成させ、五代目・越冨茂がそ の味を守ってきました。 そして、そんな先人たちの偉大な個性と息づかいが残るこの蔵で、いま六代目が伝統を受け継ぎつつ新たな挑戦を 続けています。 蔵 併 設 の 直 売 所﹁ 城 見 蔵 ﹂ で は、 多 く の 銘 柄 の 焼 酎 が 試 飲 で き、 自 家 製 造 し て い る 焼 酎 は も ち ろ ん、 焼 酎 以 外 の 様 々 な 商 品 も 直 売 さ れ て い る︵ 写 真 27︶。 ま た そ の 名 の と お り、 こ こ か ら は 人 吉 城︵ 繊 月 城 ︶ 跡 が よ く 見 渡 せ る。 現 代 風 に デ ザ イ ン さ れ た 粋 な 小 瓶 の﹁ 繊 月 ﹂ を、 筆 者も一つ所望して蔵を後にした。 ②高橋酒造 ﹁ 白 岳 ﹂ の 銘 柄 で 知 ら れ る 高 橋 酒 造 は、 球 磨 焼 酎 で 最 も 手 広 く 全 国 展 開している蔵元だろうと思われる。 テレビコマーシャルも積極的に 打っ て い る の で、 な じ み の あ る 人 も 多 い の で は な か ろ う か。 こ の 蔵 元 で は、 ▲写真 27 繊月酒造の直売所 「城見蔵」の愛称をもち、人吉城跡も一 望できる。
人吉本社工場と 多 良 木 工場の二か所に工場を置いている。 多良木町の多良木工場︵写真 28︶の創業は明治三三︵一九〇〇︶年と古 く、平成一四︵二〇〇二︶年に人吉市に本社工場を移すまでは蔵元唯一の 工場であり、本社でもあった。盆地南にそびえる山々のすそ野に位置して おり、九州百名山に数えられる霊峰・ 白 髪 岳 ︵一四一七メートル、あさぎ り町に所在︶の麓にあたる。白髪岳は﹁風土記﹂の故事にも登場する名峰 で あ り︵ 前 出 ︶、 そ こ で 山 の 名 に ち な ん で﹁ 白 岳 ﹂ と 名 づ け た。 真 ん 中 の ﹁ 髪 ﹂ の 字 を 抜 い た の は、 我 を 張 ら ぬ よ う に と の 謙 虚 な 思 い を 込 め て の こ とである 。 37 読み方も重箱読み風に変えている。 元 来 独 特 の 風 味 を も つ 個 性 的 な 焼 酎 づ く り に こ だ わ っ て き た が、 結 果、 ほとんど地元でしか飲まれない焼酎であった。これを変えて多くの人が気 軽に楽しめるようにとの思いから、昭和四九︵一九七四︶年に減圧蒸留と いう新技術を導入し、誰もが飲みやすい焼酎づくりに成功した。以来、球 磨焼酎を代表する﹁大衆の酒﹂になっていった 。 38 一方、人吉本社工場︵写真 29︶は二〇〇二年に拡張した新しい工場であ るが、その前史として昭和六一︵一九八六︶年に同じ場所に白岳研究所を 設立していた。この研究所は﹁白岳﹂の品質向上と量産を目的につくられ たもので、ここで開発された新技術がのちの人吉本社工場に生かされてい る。多良木工場と違って、大規模な生産ラインを完備し、ほとんど機械操 ▲写真 29 高橋酒造人吉本社工場の遠望 水田の向こうに大きな貯蔵タンクが見え る。 ▲写真 28 高橋酒造多良木工場 九州百名山・白髪岳の麓に立地する。
作によって焼酎を製造している。ただし、設備や機械が近代化されても造 り手の長年の経験と腕を生かそうとする姿勢に変わりはなく、いまも一滴 一滴を大切にした焼酎生産にこだわっている 。 39 な お、 高 橋 酒 造 は 人 吉 本 社 工 場 に 隣 接 す る 土 地 に 平 成 二 二︵ 二 〇 一 〇 ︶ 年、一一月一日の﹁焼酎の日 ﹂ 40 を記念して球磨焼酎ミュージアム﹁白岳伝 承蔵﹂をオープンさせた。焼酎づくりをわかりやすく解説したパネル写真 や動画、古い道具類を展示しており、無料で焼酎のことが学習できる資料 館である。また、各種みやげ物の直売なども行っており、単に自社の宣伝 のためというだけでなく、市の観光客誘致︵町おこし︶をも意図した企業 経営の姿勢をうかがわせる。 ちなみに、筆者がおとずれたのは﹁焼酎の日﹂ の前日で、開館五周年記念イベントの準備に社員たちが忙しく動き回って いた︵写真 30︶。 ③鳥飼酒造 現存する球磨焼酎二八の蔵元のうち、最も古い創業とされるのが鳥飼酒 造︵写真 31︶である。人吉市中心部の球磨川右岸︵北岸︶にある。創業は 不詳だが、一六〇〇年︵慶長年間︶にはすでに存在していたことが伝承さ れている。また、江戸末期に焼酎と酒の醸造を行っていたことや、明治四 ︵ 一 八 七 一 ︶ 年 に 新 政 府 か ら 酒 造 免 許 を 受 け て い た こ と が 記 録 に 残 っ て い ▲写真 31 鳥飼酒造 現存する球磨焼酎最古の蔵元。 ▲写真 30 白岳伝承蔵 高橋酒造直営の資料館で、開館5周年を 迎えた。
る。 このように 、球磨焼酎屈指の老舗だが、この蔵はただ伝統に 固執することなく、つねに 新しい可能性に 挑戦する意欲 的な経営を行ってきた。一酒造業者でありながら、二〇〇〇年からは人吉市内の清流・ 草 津 川とその流域約一五〇ヘク タールの保全事業に着手し、平成一九︵二〇〇七︶年にはその流域内に新しい蒸留所も建てている。同社のホームペー ジを見ると、環境保全に 対する並々ならぬ意識が伝わってくるようである 。 41 ︵三︶米でつくる球磨焼酎 ①球磨焼酎の特色 球磨焼酎の大きな特徴は、それが﹁米焼酎﹂だということである。 ふつう焼酎に は、米以外に 麦、芋、そ ば 、そして鹿児島県の島嶼部では黒糖︵さとうきび︶なども使われ、それらの 主原料を名に冠して﹁○○焼酎﹂と呼 ば れている。しかし、基本的にはほぼすべての焼酎に米が使われている。これは 米麹が最初のアルコール発酵の段階に欠かすことのできない原料となることのほかに、焼酎がもともと清酒︵俗にいう 日本酒︶から派生した 酒 42 であり、その歴史的慣性が働いていることにも一因があろう。 大正年間︵大正二年︶に 入って、焼酎を蒸留する前の もろみ 0 0 0 ︵醪︶を二度に分けて醸造する製造法が始められた。こ れを機に、最初につくるもろみ︵一次もろみ︶には米麹を使い、二度目につくるもろみ︵二次もろみ︶には米以外の原 料︵主原料︶を使う製造法が可能となった。これを二段階製造法、あるいは二段仕込というが、球磨焼酎では米焼酎の 古い伝統を守り、一次・二次とも米を使ってもろみをつくる製造法がとられている。これに対して、壱岐焼酎は二次も ろみに麦を、薩摩焼酎は芋をというように、様々な主原料を取り入れた焼酎が九州各地で生まれていった。 清酒づくりから派生した点に 鑑み、米を原料としてつくるのが焼酎本来のあり方だとすれ ば 、なぜ米以外の原料が用
いられるようになったのか。その理由は定かではないが、壱岐焼酎の 場 合、 土 地 が 限 ら れ る 島 に お い て、 年 貢 の 対 象 と も な る 稲 作 に 対 し て、麦作では余剰が生じやすかったことが関係しているのではないか という説がある 。 43 一方、薩摩焼酎が芋を使うのは、芋のアルコール発 酵の力が大きいことも関係があるように思われる。 ち な み に、 沖 縄 の 泡 盛 は 二 段 階 製 造 法︵ 二 段 仕 込 ︶ を と っ て お ら ず、原料は米だけを使用している。仕込工程が単純である泡盛は、本 土の焼酎と比べて製法上、より古い型の焼酎といえよう。また本土で は近年、一次もろみにも麦を使い、すべて麦だけでつくる焼酎や、同 様にすべて芋だけでつくる焼酎も出てきている。 ②球磨焼酎の製法 このように 球磨焼酎では二段階製造法をとるが、原料に 米だけを用 いる焼酎であり、これが大きな特色になっている。繊月酒造での聞き 取 り に よ れ ば 、 そ の 製 造 法 は お お む ね 以 下 の よ う な 工 程 を 経 て い る ︵図 5 ︶。 図 の よ う に 、 ま ず 製 麹 と い う 工 程 か ら 入 る。 麹 の 種 つ け は 機 械 化 されていて、製麹ドラム機︵写真 32︶を使う。これはドラムを回転さ せて米を撹拌し、種麹をまんべんなく米につけるためのもので、回転 図5 球磨焼酎の製造法(繊月酒造) 〔出所〕繊月酒造の資料と聞き取りにより作成。 米(麹米) (洗米 蒸し 冷却 種つけ) 麹育成 (約1週間) 〔製麹〕 〔調合、瓶詰め〕 〔貯蔵・熟成〕 〔一次仕込〕 種麹 酵母・水 一次 仕込 一次もろみ(熟成) 米(主原料米) 研米 蒸し 放冷 (約2週間) (加熱) 〔主原料処理〕 〔二次仕込〕 水 二次 仕込 出 荷 蒸 留 二次もろみ (発酵)
ド ラ ム に よ っ て 種 麹 を よ く ま ぶ し た 後、 二、 三 日 休 ま せ て 麹 菌 を 育 て る。 次 に 、 出 来 上 が っ た 麹 米 を タ ン ク︵ 写 真 33︶ に移し、そこに酵母と水を加えて一次もろみをつくる。これが一次仕込であり、熟成には六、 七日を要する。 次に 二次仕込である。これはいわ ば 一次仕込でつくったもろみを増量するための工程で、一次仕込より大きいタンク に一次もろみを移し替え、そこに処理を経た主原料米と水を加えて二次もろみをつくる。タンクの二次もろみはおよそ 一四、 五日かけて発酵させるが、これは清酒の発酵工程とよく似ている。発酵が進むとアルコール度数が高まっていき、 だいたい一六度から一八度の酒︵もろみ︶ができたところで仕込を終える。 次に 蒸留釜でもろみを加熱・蒸留し、それを冷却器で冷やして高濃度のアルコールを取り出す。この時、蒸留釜から ▲ 写真 32 製麹ドラム機(与那国島・入波 平酒造、2009 年 12 月撮影) ドラムを回転させ、米と麹を撹拌する。 ▲写真 33 もろみ熟成用タンク(繊月酒造) もろみの熟成は清酒(日本酒)の醸造と 同じ。
最 初 に 出 て く る 焼 酎 は 度 数 七 〇 度 ほ ど と 非 常 に 高 濃 度 で、 一 般 に は こ れ を﹁ 初 垂 れ ﹂ と い う が、 沖 縄・ 与 那 国 島 で は ﹁ 端 酒 ﹂ と よ ん で い る。 日 本 最 西 端 の こ の 島 に は﹁ 花 0 酒 ﹂ と い う 六 〇 度 も あ る 高 濃 度 の 焼 酎︵ 泡 盛 ︶ が あ る が、 こ れ は ﹁ 端 0 酒﹂が転じたものといわれている 。 44 ただし、六〇度もの酒の販売が認められているのは、酒税法制定以前からの既得権が認められている与那国島に いく つかある蔵元だけで、一般には同法によって四五度までの酒しかつくることはできない。また、蒸留には常圧蒸留と減 圧蒸留があって、前者は独特な個性ある味わいの焼酎に、後者は爽やかで誰にも飲みやすい焼酎に仕上がる。なお、繊 月酒造では銘柄によって両方の製造法が取られているが、蒸留は毎日午前中に一回だけ行われているという。 蒸留したての焼酎に は臭気と油分あるので、し ば らく貯蔵・熟成することでこれらの雑味を取り除き、まろやかな味 わ い の も の に 仕 上 げ る。 そ こ で 蒸 留 後、 高 濃 度 の 焼 酎 を 球 磨 川 の う ま い 地 下 水 で 割 り、 通 常 は 約 半 年 寝 か せ て い る︵ 写 真 34︶。 半 年 後、 出 来 上 が っ た 原 酒 を 調 合 し て そ れ ぞ れ の 銘 柄 に 仕 立 て、 度 数 を 整 え て 瓶 詰 す る。 焼 酎 に は﹁ 古 酒 ﹂ と よ ぶ も の が あ る が、 繊 月 酒 造 で は 六 年 以 上 熟 成 さ せ た も の を い っ て お り、 な か に は 二 〇 年 以 上 寝 か せ る も の も あ る。 ま た、 木 の 樽 で 熟成させる古酒もあり、木の香りが移ってまろやかさを増す。 日 本 の﹁ ブ ラ ン ド 焼 酎 ﹂ の 中 で は、 球 磨 焼 酎 だ け が 米 の み を 原 料 と す る 焼 酎 で あ る。 球 磨 焼 酎 が 米 焼 酎 に こ だ わ る わ け は、 稲 作 に 適 し た 人 吉 盆 地 の 土 と、 豊 か な 球 磨 川 の 水 と が そ れ を 強 く 後 押 し し て い る か ら で は な い か と思われる。 ▲写真 34 焼酎の貯蔵タンク(松本酒造場) ふつう半年以上寝かせてまろやかな味わ いにする。
五
薩摩焼酎のかおり
︵一︶芋でつくる薩摩焼酎 ①薩摩焼酎の特色 薩摩焼酎の大きな特徴は、それが﹁芋焼酎﹂だということである。 ここでいう﹁薩摩焼酎﹂とは、単に 薩摩国︵鹿児島県︶でつくられた焼酎ということではない。それは W T O により 地理的表示の産地︵前述︶に指定されたもので、本稿では﹁ブランド焼酎﹂と称するものだけをいう。鹿児島県酒造組 合 は、 日 本 の ブ ラ ン ド 焼 酎 た る 薩 摩 焼 酎 の 品 質 を 保 証 す る た め、 ﹁ 薩 摩 焼 酎 宣 言 ﹂︵ 二 〇 〇 七 年 ︶ を 出 し、 次 の よ う に 謳ってい る 45 ︵傍点は筆者︶ 。 一 私たちは、 鹿児島産のさつまいもと水 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 にこだわり、 鹿児島県内で製造された本格焼酎 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 のみに﹁薩摩﹂を冠し、品 質の証しとします。 二 私 た ち は、 地 元 の 生 産 農 家 と 協 力 し 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 、 安 全 で 高 品 質 な さ つ ま い も を 育 て、 ﹁ 薩 摩 焼 酎 ﹂ の 更 な る 品 質 向 上 に 努 め ます。 三 私たちは、 ﹁薩摩焼酎﹂を育んできた鹿児島の風土に感謝し、美しく恵まれた自然環境の保全に努めます。 四 私たちは、 ﹁薩摩焼酎﹂を取り巻く鹿児島の豊かな伝統、文化の発展に努めます。 五 私たちは、 ﹁薩摩焼酎﹂に関わるすべての人々と連携し、地域社会の発展に寄与します。 六 私たちは、 ﹁薩摩焼酎﹂の美味しさと文化を世界の人々に紹介し、交流を促進します。 七 私 た ち は、 ﹁ 薩 摩 焼 酎 ﹂ の 長 所 を 紹 介 す る と と も に 、 酒 の 特 性 に 鑑 み、 節 度 あ る 健 康 的 な 飲 み 方 の 啓 発 に 努 め ま す。つ ま り、 ブ ラ ン ド 焼 酎 た る 薩 摩 焼 酎 と は、 ﹁ 鹿 児 島 県 産 の さ つ ま い も と 水 を 使 い、 鹿 児 島 県 内 で 製 造・ 容 器 詰 め さ れ た本格焼酎﹂と定義される。また、さらにそこに地元のさつまいも農家との協力を謳うことで、地域おこしの要素を組 み込んでいる。これらの点は米や麦を主原料にする焼酎とは異なる点であり、薩摩焼酎の大きな特色といえよう 。 46 い っ ぽ う、 薩 摩 焼 酎 が さ つ ま い も を 使 う こ と は、 米 焼 酎 や 麦 焼 酎 に は な い、 も う 一 つ の 特 性 を 付 与 す る こ と に な る。 そ れ は 次 の よ う な 点 で あ る。 す な わ ち、 ﹁ 焼 酎 の 原 料 に な る 大 麦 も 米 も ソ バ も 穀 物。 穀 物 は、 乾 燥 さ せ て 保 存 す る こ と が で き る。 原 料 が 長 期 保 存 で き れ ば 、 造 り の 時 期 も 自 由 に 選 ぶ こ と が で き る。 ︹ 中 略 ︺ と こ ろ が、 さ つ ま い も は 生 の 農 産物。生産期間も限定されている。収穫時期は、せいぜい七月の終わりから一二月の初旬まで。しかも、生ものなので 長 期 的 に 保 存 が で き な い。 つ ま り、 季 節 限 定 の 原 料 で あ る ﹂ 47 と い う 点 である。 こ の よ う に 乾 燥 保 存 の き か な い 芋 48 を 原 料 と し て 使 う こ と に も 薩 摩 焼 酎 の 特 性 が あ り、 こ の 点、 薩 摩 焼 酎 は 主 原 料 に お け る ハ ン デ ィ キ ャ ッ プ を 背 負 っ て い る と も い え る。 し か し 一 方 で、 そ の デ メ リ ッ ト は﹁ 薩 摩 焼 酎 宣 言 ﹂ も 謳 う よ う に 、 地 元 産 の さ つ ま い も を 使 わ せ る こ と で 独 自 性 を 出 す と い う 形 で の メ リ ッ ト と も な る。 ま た、 薩 摩 焼 酎 の 蔵 元 で は、 さ つ ま い も の 収 穫 期 が 醸 造 期 と な る の で、 期 間 が 短 く 限 定 さ れ る 芋 焼 酎 だ け で な く、 併 せ て 麦 焼 酎 や 米 焼 酎 を 製 造 す る も の が 多 い。 つ ま り、 薩 摩 焼 酎 の 蔵 元 は 焼 酎 製 造 の 多 角 化 を 生 じ や す い が、 な か に は 自 家 商 品 と し て の 出 荷 で は な く、 日 本 酒 の﹁ 桶 売 り ﹂ 49 の よ う な こ と も 行 わ れ て い る と い う。 テ レ ビ コ マ ー シ ャ ル で も 有 名 な 大 分 麦 焼 酎 の ▲ 写真 35 主原料のコガネセンガン(薩摩 金山蔵展示資料) 芋焼酎に最もよく使われている品種。
﹁ I ﹂は、ここ鹿児島でも少なからず製造され、大分の蔵元で瓶詰め・出荷されているらしい。 さらに もう一つ、芋の品種に 関しても指摘すべき点がある。それは米や麦の焼酎でも原料に 適す品種、適さない品種 というものがあるが 、 50 こと芋焼酎にあっては芋の品種が酒の味わいを大きく左右することである。現在、芋焼酎の原料 といえ ば まずはコガネセンガン︵写真 35︶である。でんぷん量が多く、味もよい万能型の芋で、焼酎のほか食品加工用 に も 広 く 用 い ら れ て い る。 ﹁ 黄 金 千 貫 ﹂ と い う 字 を 当 て る よ う に 、 生 産 量 が 多 く、 鹿 児 島 県 産 の さ つ ま い も の 半 数 近 く の栽培面積をしめている。品種改良によって昭和二四︵一九四九︶年に誕生し、それまで主流だった農林二号に取って 代わった。 いっぽう、近年ではコガネセンガン以外の品種も焼酎製造に 用いられるように なっている。特に ジョイホワイトとい う品種は、平成六︵一九九四︶年に、わざわざ焼酎専用の芋として開発されたものである。このさつまいもは糖化酵素 を欠くため、加熱してもでんぷんが糖に変わらず、甘くならないという特性がある。この性質が焼酎づくりにはうって つけなのである 。 51 ②霧島町蒸留所 霧 島 町 蒸 留 所︵ 写 真 36︶ は、 霧 島 神 宮︵ 前 掲 写 真 12︶ に ほ ど 近 い 鹿 児 島 県 霧 島 市 霧 島 田 口 に あ る。 創 業 は 明 治 四 四 ︵ 一 九 一 一 ︶ 年 で、 も と も と 地 域 の 人 た ち が 飲 む 焼 酎 を つ く る 場 と し て 設 け ら れ た 田 口 酒 造 場 を 起 源 と す る。 霧 島 連 山 か ら 流 れ 出 る 天 然 水 を 使 っ て 仕 込 む 蔵 元 で あ り、 晴 れ た 日 に は 高 千 穂 の 峰 を 間 近 に 望 む こ と が で き る が、 当 日 は 雨 天 だったためその雄姿を見ることはできなかった。以下はこの蔵元で聞いた話である。 ﹁明るい農村﹂ 代 表 的 な 銘 柄 を﹁ 明 る い 農 村 ﹂︵ 写 真 37︶ と い う。 ほ か に﹁ 農 家 の 嫁 ﹂、 ﹁ 百 姓 百 作 ﹂ と い う の も あ る。 銘 柄 と し て は
変わったネーミング ば かりだが、そこには代表者、古屋芳高氏のこだわりがある。それを端的に示すのが蒸留所入り口 の 壁 に つ け ら れ た 短 冊 状 の 板 で、 そ こ に は﹁ よ き 焼 酎 は よ き 土 か ら 生 ま れ よ き 土 は 明 る い 農 村 0 0 0 0 0 に あ り ﹂︵ 傍 点 は 筆者︶とある。 このフレーズが示すように 、この蔵元は自然豊かな田園地帯のただ中に あり、蒸留所のすぐ裏手に は霧島川が流れて いる。さしずめ自然とともに生きる酒蔵といえるが、これと同じように百姓も自然の中で生き、 百種類 0 0 0 もの︵つまり非 常に多くの︶農作物を育ててきた。だからこそ、 ﹁百姓百作﹂であり、それを銘柄としたのである。 し か し、 ﹁ 明 る い 農 村 ﹂ に 代 表 さ れ る こ れ ら の 銘 柄 は、 創 業 当 初 か ら の も の で は な い。 今 か ら 三 〇 年 ほ ど 前、 古 屋 氏 ▲写真 36 霧島町蒸留所 「明るい農村」、「農家の嫁」といった銘 柄がある。 ▲写真 37 調査で出会った芋焼酎たち 「明るい農村」(右)、「青潮」(中)、「野 海棠」(左)。
が お い し い 米 を 出 荷 し よ う と の 思 い で、 あ る 農 事 会 社 を 設 立 し た。 そ の 経 営 理 念 を 焼 酎 の 銘 柄 に 表 現 し た も の で あ る。 霧島町蒸留所は一〇〇年以上の歴史をもつ古い蔵元だが、現在の経営は新しい哲学によっており、それが蒸留所の焼酎 づくりや銘柄にも生かされている。 製麹 製造工程は概略以下のようである。 まず製麹。これは米を蒸し、その蒸米に 麹をつける工程である。これを種つけというが、当蒸留所では回転ドラム機 ︵ 前 掲 写 真 32︶ を 使 う も の と、 三 角 棚 で 行 う も の と が あ る。 三 角 棚 と は、 三 角 形 の 屋 根 を も つ 通 風 製 麹 装 置 の こ と で、 送風をかけることによって温度を一定に保ち、麹が育ちやすい環境を維持する。この装置を使う場合、製麹は手作業で 行い、木棒や素手で種麹をかき回して種をつける。 この工程に一日を使い、翌日一日置いて、計二日間で製麹を終える。 米麹に は黒麹、白麹、黄麹の別がある。一般的に は黒麹を使うと焼酎に コクと香りが出、白麹ではキレが出、黄麹で は軽快感が出る。以前は白麹を使うことが多かったが、現在では黒麹を多く使う。黄麹はふつう清酒︵日本酒︶に使う 麹 で、 暑 さ に 弱 い た め 九 州 の 焼 酎 づ く り に は あ ま り 向 か な い。 そ の た め こ の 蔵 元 で は 寒 い 時 期 に の み 使 っ て お り、 ﹁ 百 姓百作﹂はこの黄麹を用いている。また米麹を一切使わずに、芋麹だけでつくる焼酎もある。 一次仕込 一次仕込は米麹を陶製の﹁ 甕 壺 ﹂に移し、水と酵母を加えて発酵させる工程である。当蒸留所の仕込はこの甕壺を使 う の が 特 長 で、 創 業 時 か ら 伝 わ っ て い る 壺 が 合 わ せ て 五 四 本 あ る︵ 写 真 38︶。 一 つ 一 つ 色 も 形 も 違 う 和 製 の 壺 で、 金 属 製のものとは違い、これによって出来上がりがやわらかい風味の焼酎になる。それが評価されてか、主力の﹁明るい農 村﹂は鹿児島県本格焼酎鑑評会で平成二五年につづき、平成二七年にも総裁賞を受賞した。 麹 菌 は 弱 い 生 き 物 な の で、 雑 菌 が つ か な い よ う 細 心 の 注 意 を 払 う。 例 え ば 、 納 豆 菌 は 高 温 に も 強 い 生 命 力 旺 盛 な 菌
で、納豆を食べた人が作業場に入ると納豆菌のほうが繁殖してしまうことがある。それで、社員は朝食には決して納豆 を食べないのが鉄則になっている。 もろみのアルコールがだいたい一六度に なると一次仕込を終えるが、これに およそ六日間を要する。 二次仕込 一次仕込でできたもろみをタンクに 移し、そこに 蒸したさつまいもを細かく裁断して入れ、水を加える。タンク内の アルコール度数は一時的に下がるが、再び発酵が始まる。結果、もろみの量は増加することになる。度数が再び一五度 か一六度くらいになるとこの工程を終えるが、これにおよそ八日間を要する。 ▲ 写真 38 霧島町蒸留所の焼酎製造用機器 二次もろみ用のタンク(左)と一次もろ み用の甕壺(右奥)。 ▲写真 39 原料芋のいろいろ(薩摩金山蔵 展示資料) 芋本来の色合いがもろみの色に出る。 ▲写真 40 もろみ蒸留機(霧島町蒸留所) もろみを高温乾留して高濃度の原酒を取 り出す。