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論
31一一『奈良法学会雑誌』第2巻1号 (1989年6月〉説
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遺伝子工学の刑法的規制同
ート特に刑事立法学的視点から││
日 次 第一章生物学的基礎(以上第一巻四号﹀ 第二章哲学的議論(以上本号) 第三章法学的議論 第四章刑法的議論 第 五 章 結 論第二章
哲
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論
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第一節 生物学的問題と哲学的議論の関係 前章では現在可能性があるとされる遺伝子工学の技術を消極的遺伝子工学と積極的遺伝子工学に分け、後者のなか第2巻1号一ー32 ( 円 u v で特に問題になるものには西ドイツの﹁陸子の保護に関する法律討議草案﹂にも規定されているクロ l ニ ン グ 、 ラ形成およびハイブリッド形成の三種類があり、クロ I ニングには人工的多胎形成と﹁真正﹂クロ l ニ γ グ が 、 キ メ キ メ ラ形成にも人間と動物のキメラと人間同士のキメラがあり、これらは区別して論じなければならないことをグロンナ ーに従って提唱した。加えて真正クロ l ニングの実現可能性については、わが国と西ドイツの論者の間に認識の相違 があることを指摘した。ここでは誤解を避けるためおよび以下で論じるテ 1 マを明確化するために若干の補足的説明 を 加 え て お こ う 。 まず、消極的遺伝子工学は遺伝性疾患の治療についての技術であるが、遺伝性疾患の治療は診断の段階と治療の段 階が区別される。診断において問題になるのが遺伝病スクリーニングである。この問題性についてはわが国では米本 昌平によって特に強調されているが、これは直接遺伝子を操作するものではなくまた人工妊娠中絶の問題とも関連す る困難な問題であるので本論文では直接の主題とはせず別稿で論じることにする。従ってここでは治療の問題につい て少し補充しておこう。厚生省の生命と倫理に関する懇談会による報告書﹁生命と倫理について考える﹂のなかでは 技術上の分類と治療の対象による分類がなされている尚ド哲学的議論との関係で重要なのは後者である o 即ちそれに は通常体細胞への治療と生殖細胞への治療があり、現在アメリカで認められているのは前者のみであり、また卵子ま たは授精卵について直接遺伝子を操作して治療する方法は確立しておらず、当分の問、開発される目途も立っていな ハ 却 ﹀ いとされる。ここで特に注目されるのはこの懇談会における分子生物学者渡辺格の発言である。即ち渡辺は、骨髄に 遺伝子操作をしてそれを移植するといった治療のように体細胞の遺伝子は変化させてもいいが生殖細胞に影響する遺 伝子治療は全面的に禁止すべきであり(但しマウスなどを使った研究実験は認められるとする﹀、 問題を審査する機関が必要であるとする。これは研究者自身の発言として注目すべきものである。しかし哲学的には また遺伝子治療の
その理由付けが問題となる。それについて渡辺は﹁子孫に伝わる遺伝子操作の是非は、今は禁止すべきである。技術 ︹2 ﹀ 的にもこんなことは当然できないのであって、技術的に可能となったときにまた考えればよいのです。﹂ と発言して いる。この問題については後に検討する。 次に検討すべき問題として消極的遺伝子工学と積極的遺伝子工学の区別の問題がある。これについてはグロ l バ l ( お ) 自身がその区別の相対性を指摘している点に注意しなければならない。哲学的にも前者は肯定するが、後者の否定す るという見解が考えられるが、これに対しては生殖細胞への遺伝病治療においては、治療の名の下で積極的な遺伝子 の改造がなされる危険性に留意する必要があるだろう。 最後に積極的遺伝子工学については、西ドイツの草案で禁止されているクローン、キメラおよびハイブリッド形成 ハ MAV との関係でそれらをさらに細かく分類する必要があるとするグロンナ l の見解を紹介し、彼女の分類を採用すべきで あることを前章で述べた。この区別は、後述する私見にとって非常に重要な意義を有するからである。なおここで注 意しておかねばならないのは、積極的遺伝子工学は、 ク ロ ー ン 、 キメラおよびハイブリッド形成に限定されるわけで 33一一遺伝子工学の刑法的規制同 はなく、もちろん生殖細胞の遺伝子を直接操作する方法もあるのは勿論のことである。但しこの方法は現状では技術 ( お ) 的に困難なようである。この技術的可能性の問題については特にヒトのクロ l ニングの可能性について議論があるこ とを前章で指摘した。これらについて米本は西ドイツの状況について﹁世界的にみると、人間のクローンやキメラ作 成の試みの危険性をかくも切迫したものとして受けとる例は稀であり、:::この匝保護法案から受ける異様な暗さは、 この種の問題に対するドイツの真撃な取り組みという称賛を通りこして、その背後に、そのような試みすら切迫した ものと観念してしまうドイツ特有の精神的履歴、すなわちナチ体験があるのではないか、と考えざるをえないのであ ハ お ﹀ る﹂と述べている。このナチ体験との関連性の当否はさておくとしても、クロ 1 ニング技術のヒトへの応用は現状で
第2巻1号一一34 九
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は全く不可能に近いのであろうか。確かにイルメンゼ l / ホツぺの実験には様々な問題点があるようだが、グロンナ ーが同時に紹介している体外授精の研究で有名なシェテルズの実験や、日本の家畜繁殖学者市川茂孝が紹介している ︹ 冊 目 ) ウイラlドセンやバIンズそして角田幸生らの実験のヒトへの応用可能性についてはどう評価すべきなのだろうか。 私にはそれを判断する能力がないので、専門家から現状についての正確な情報が得られることを期待する。技術的可 能性の問題は哲学的および法的判断にとっても重要な要素となるからである。 なおここで﹁遺伝子操作﹂と﹁遺伝子工学﹂という概念に関連してクローンについてアルトゥ l ル・カオフマンは クローンもまた、決して遺伝子操作ではなく、そこでは遺伝子はまったく変更されたり、組み ︹ 初 ﹀ 替えられたりしていません﹂と述べている。このことが哲学的および法学的議論に影響を与えるかどうかは後に検討 ﹁ 厳 密 に 考 え ま す と 、 す る が 、 一応クロlニングには狭義の遺伝子操作とは異なった側面があることをここで指摘しておきたい。 以上生物学的議論から哲学的議論への橋渡しをする際に留意すべき問題について述べてきたが、ここで本稿の考案 の対象となる領域を確定しておこう。まず遺伝子工学と社会との関係を哲学的に考察する際には、そもそも﹁科学は 人聞を幸福にするか﹂という問題を考えなければならない。この問題を検討するためには本来、いわゆる科学批判や 反科学思想の検討、方法論的考察が必要になろう。また遺伝子工学の問題は、現在の社会的構造や社会制度との関係 の中で考察されなければならない。字波彰は﹁遺伝子工学の問題は、それ自体で重要な問題であると同時に、:::原 子力発電のような同時代の問題と通底しており、さらに国家権力 H 大企業ともつながった構造を持っていて、まさに ︿ポスト・モダンV
の状況のなかにある問題と言えるだろう﹂と述べている。これらの問題をここで検討することは 私の現在の能力を越えるものであり、今後の課題としたい。ただ総論的問題が論じられる際に問題があると私が考え ることは基木的な概念の聞に混同があったのではないかということである。このことについては次節で述べることにす る 。 以上総論的問題について少しコメ γ トしたが、次に各論的問題に付いて問題の所在を述べておこう φ まず遺伝子組 替えについては徴生物や植物・動物に対するものとヒトに対するものに分けることができる。現在の研究の中心は前 者であり、人間の生殖細胞を操作して遺伝病を治療したり、遺伝子を積極的に操作してよりよい人聞を創り出すこと は現在の技術では困難なようである。またヒトのグ R l ニシグについても手塚治虫の﹁火の鳥・生命編﹂の中で主人 公青居プロデューサーの右の薬指から創り出されたクローンのように、成人の細胞からすぐに成人を創り出すことは 35一一遺伝子工学の刑法的規制白 現状では不可能であり、技術的に可能性があるのは人工的多胎形成といわゆる﹁時差のある一卵性双生児﹂のみであ ることに注意しなければならないし、この可能性についても争いがあることはすでに述べた。これに対してキメラ形 門 担 ) 成についてはヒトへの応用への技術的困難性はより少ないようである。ヒトのハイブリッド形成の可能性については 日本では一般にはあまり議論されないようであるがグロンナーによればこれも技術的に可能だとされている。そして 彼女はまた哲学的議論では前章で述べたような区別が厳密になされずに議論されている点を指摘している。以上のこ t とから以下では若干の総論的問題を考察した後、特にヒトのグロ l ニングに関する議論を中心に検討をおこなうこと に す る 。 第二節 総論的問題 上述の総論的問題を検討するにあたって参考になる哲学者の見解として日本の哲学者の中で生命倫理の問題につい て積極的に発言している論者の一人である加茂直樹の見解を紹介しておこう。加茂の遺伝子工学に関する見解は、ー ハ 釘 ﹀ ﹁ライフサイエンスが提起するもの﹂と題された論文およびシンガー/ウェ I ルズ・生殖革命の書評および邦訳の後
第2巻1号一一36 脅から知ることができる。まず上掲論文では一般論としてて、これからの科学技術のありかたは社会的合意によって 決定されなければならないが、その実現のためには一般市民が専門家と対等の立場で合意の形成に参加できる制度的 保障が必要であり、その上で両者の聞に信頼関係の上に立った徹底的議論と批判的な交流が望ましく、その際、客観 的な科学的知識と科学の名を借りた一面的な価値判断とを峻別すること、権威主義を排除すること、目先の利益に捕 らわれず、長期的、全体的な展望をもった考察が重要だとする。次に哲学的課題として、まず個人レベルの倫理問題 である狭義の生命倫理が問題になるとし、その例として、クローン人聞が作り出されるならば、独自性を持ったかけ がえのない個人という観念が大きな変容を受けざるをえなくなってくることを指摘している。そのために個別問題に も適用可能な人間の生命の価値についての一貫した理論を確立することが必要だとする。さらに第二の哲学的課題は、 法制度や医療保険・公費負担制度など社会的制度論との関係の解明だとされる。加えて、人口、環境、資源の問題と の関係で文化論的考察も必要となってくるとしている。以上においては遺伝子工学の問題は一般論のなかの一例とし て述べられているだけだが、遺伝子工学に対して積極的な見解を示すシンガーらの見解に対する論評では、より具体 的にこの問題を論じている。そこではシンガーらの主張は、新しい技術に対する情緒的な反対論では対抗できないほ どの説得力を持っているが、技術の未来に対し、その危険性の評価や社会的影響、さらには本当にそれらの技術を持 つ人々が幸福なのかという問題等についてきわめて楽観的すぎ、その結論を恐らく全体的に受け入れることはできな いであろうとする。さらに、矛盾を含んだまま社会としての態度を暖味にしておくのはごまかしなのか、それとも極 端な結論を避けようとする日本人の知恵なのかという問題を提起している点も興味深い。 ここで紹介した加茂の見解は、この問題を考察するに際してわれわれにいくつかの手掛かりを与えてくれるが、そ の解決のためにはより厳密な理論的枠組みが必要となろう。そのためには私はある一定の目標達成のために用いられ
る(科学)技術を、①その追求されている目標自体が道徳的(あるいは法的 V にみても望ましくない場合と、②追求 されている目標自体は望ましいあるいは少なくとも禁止はされていないが、ただその実現過程に付随する危険の考慮 を行わなければならない場合に分類して検討を行うことを提案する。前者はたとえ技術的に可能であり、その実現に 付随する危険がないとしても禁止するための強い根拠を有するのに対し、後者を禁止することが許されるのはたとえ 望ましい目標の追求のためであっても、それに付随する危険が大きすぎるからであり、その危険が技術的な発展によ り除去されれば禁止の根拠はなくなるという性質を持っている。もちろんこのような区別はその限界が徴妙になって くる場合があろうし、そもそも何が望ましい目標かを確定すること自体も困難な場合も多いだろう。しかし一応この ような区別を意識して検討を進めることは、論点の所在を明確化するのに役立つであろう。そこで以下では前者を ﹁原理的許容性﹂問題、後者を﹁付随的危険性考慮﹂問題と呼び、検討を進めていきたい。なお加茂が最後にに指摘し いわゆる﹁生命倫理の日本的変容﹂の問題とも関連して重要である ている問題判断の日本的特質の問題については、 37一一遺伝子工学の刑法的規制り がここでは十分な検討を行なうだけの準備がないので今後の課題としたい。さらに社会的制度論の問題については法 学的考察のところで検討することにする。 第三節 積極論の論拠 本節以下では遺伝子工学に関する積極論と消極論の論拠を個別問題毎に検討していきたい。なお分析に当たっては、 それぞれの論拠がいかなる哲学的あるいは倫理的原則に基づいているかに留意しつつ検討を加えていく。ま、ず積極論 における論拠のうち重要だと思われるものは、功利主義、合理主義および自由主義に基づく論拠である。 l 功利主義
第2巻1号一一一38 遺伝子工学の人間への適用一般については予想される危険性より、利益(遺伝病の減少、人間の種の改良等) の ほ うが上回るから許されるという論拠が主張される。ブロディは、このように利益と危険の重さを比較する議論を功利 ( 位 ) 主義的あるいは結果論的な議論と呼んでいる。この議論は遺伝子工学の人間への適用の際に追求される目標の原理的 許容性(あるいは有用性﹀を認めたうえで、それを付随的危険性と衡量したうえでその利益がなお上回るという理論 構成をとっている。しかしそもそも追求されている目標に原理的許容性があるかどうかは個別的に検討されなければ ならないし、付随的危険との衡量も慎重に吟味する必要があろう。まず消極的遺伝子工学であるがここにおいては遺 伝病の治療という追求される目標の原理的許容性には、比較的異論が少ないであろう。ただ上記の渡辺の見解におい ( 刊 日 ﹀ ﹁医術的正当性﹂がないの て指摘されているように、生殖細胞へ適用については現状では確定的な方法は存在せず、 でそもそも治療行為とはいえず、また子供にの危険性等の影響を考えると生殖細胞の提供者の同意があったとしても 人体実験としても正当化は難しいだろう。もっともこれは現在の技術水準を前提とした上のことであって、将来動物 実験等で安全性が確認された場合には別である。またこのことから例えば刑法上の構成要件を設けて人に対する消極 的遺伝子工学をも全面的に禁止すべきかどうかはまた別の問題である。 ︹ H H V 次に積極的遺伝子工学の抽象的な目標としては﹁望ましい遺伝的形質を持つ人間を積極的に生み出す﹂ことがあげ られる。しかし生殖細胞の遺伝子組替えなどによる方法については技術的な困難性があるので、そもそもそこから得 られる利益を確定することが難しく、 また生殖細胞への遺伝病治療のところで述べたのと同様の付随的危険の問題が ある。そこで積極的遺伝子工学から得られる利益については、その特殊な一形態であるクローンについて述べられる ことが多い。そこでそれまでに各論者によって主張されてきた利益を列挙すると、
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優れた能力の保存、防 遺伝 病 対 策 、ω
不 妊 対 策 、ω
性別決定、同 臓器バンクとしての 教 育 と い う 老 人 の 仕 事 、 川 開 世代対立の解消、の利 用 、 納 学 問 的 関 心 、 ゆ ま た キ メ ラ ・ ハ イ ブ リ ッ ド に つ い て ( 必 ) は特殊任務への利用等があげられている。しかしこれらの論拠の中にはかなり疑わしいものも多い。いずれにせよ功 子供のトラウマの解消、 位。 チ ー ム ワ ー ク の 利 用 、 利計算の基礎になる具体的利益が確定不能、不明確あるいは疑わしいものであり、 したがって仮に功利主義的見解を とるにしても問題のある論拠であると私は考える。 2 合理主義 人聞は合理的存在であるべきだから、遺伝子工学が可能になったならば、偶然に委ねずに合理的選択を実施すべき である。優生思想はこの合理主義の極端な一形態であるように思われる。これに反対する主な論拠は下記の﹁不自 (日明﹀ 然﹂論拠である。科学至上主義に対する批判もこれと関連する。私はこの論拠は二疋の(しばしば洛意的に規定され た﹀基準を人々に強制するという点に非常に問題のあるものであると考える。またこの考え方は次の自由主義的論拠 とは両立し得ないと思える。 39一一遺伝子工学の刑法的規制l白 また遺伝病をもった人を長生きさせ、子供を生ませることによって、遺伝子。フ i ルを汚染させていることに対する 対策として遺伝子工学による遺伝的劣化防止を実施しなければならないということもいわれる。この論拠については、 遺伝学的にみてもそのような主張の妥当性が問題となるだろうし、人権問題と関係も検討すべきであろう。 3 自由主義 これはグラヴァ l および森村によって主張されている論拠であり、積極説の論拠と
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て最も重要であると私は考え ︿ 鶴 ﹀ る。これは﹁テクノロジーの発展の成果を利用して自らの子の遺伝形質に影響を与えようとする親の自由を、それが 子どもや社会の人々に危険を与えないかぎり、尊重すべきだ﹂という主張である。この自由主義の論拠のなかで重要 だと思われるのは次のことである。即ち﹁人間の遺伝子工学が技術的に可能になったとしたら、親が子の遺伝子に介第2巻1号一一4() 入するのもしないのも、ともに意識的な選択の対象である。不介入は道徳的に中立だが介入は特定の価値観の押しつ けだということはない。不介入も遺伝子の現状のの(暫定的)肯定という、万人が賛成するわけではない一つの価値 ( 印 ) 判 断 を 意 味 す る 。 ﹂ このような基本的立場から、 かれらは次のような具体的帰結を導き出す。まず遺伝子治療につい ( 日 ﹀ ては、ーグラヴァーはそれが可能になった場合には本人の同意を条件とすればよいとし、森村はさらに同意無しでも治 療が可能だとする考え方についても﹁これは一見、本人の自律を軽視しているように見えるかもしれない。しかし、 遺伝病は単に当人だけでなく将来の子孫にも伝えられるものだから、子孫が受ける重大な害を避けるために強制的に ( 日 ) 治療するのは、自由主義と両立しないパタ l ナリスティックな考慮にもとづくわけではない﹂としている。次に積極 的遺伝子工学についても、原則的に自由主義の立場から全面的に禁止できないとする。ただし﹁遺伝子操作において (口叶﹀ も、子の基本的な生理的・精神的能力や身体の完全性を損なうような操作は禁止されなければならない﹂とされ、ざ ( 白 山 ) らに森村は﹁遺伝子操作から利益よりも危険の方を一方的に受ける人々があってはならない﹂としている。クローン 人間については、一卵性双生児もクローンであり、また﹁両親が(もしかして本人も)クローンの誕生を望み、そし てクローン人間も、現在の一卵性双生児と同様に、個々独立した人格を認められるなら、人間のクローン化に反対す ( 貯 ) る理由は﹂ないとする。人と人のキメラについて森村は、米本が﹁天地が裂けても絶対に行ってはならないこと﹂で あるとしている三色人聞を禁じる理由は乏しいとしている。その理由は次のことである。﹁少なくとも人類内部につ いてみれば、われわれの多くは、白人と黒人の結婚は道徳に反するとか、異人種聞の混血は不自然であるとか、民族 ( 日 刊 ) の純血を守るべきだとかいった考え方に賛成しない。少なくとも、そのような思想の強制は許されないと考える。﹂ 最後に異種間動物のキメラについても、もし﹁異種間動物が環境に不適合な﹃出きそこない﹄でなく、彼らの生が親 の生に比べて悲惨でないとしたら彼らのどこが悪いのか﹂と述べる。人間は動物の自然さについて一定の感じ方を持
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a y J っているが、それは﹁異種間動物を作ろうとする人々の活動を禁ずるほど重視されるに足りるもの﹂ではないとす抗。 人間と牛との聞の動物の例が出されているところから見て、このことは人と動物との聞のキメラにも妥当するのであ ろ う 。 以上、森村の記述をもとにして自由主義の論拠をみてきたが、私には少なくとも他の論拠に比べて説得力があると 思える。しかし人と動物のキメラに関しては異論を持つ。それについては次節および次章で述べる。 第四節 消極論の論拠 消極論の論拠には、私なりに分類すると、ω
・統制者の問題、例 選別基準 不 自 然 性 、ω
社 会 的 悪 影 響 、ω
生 物 学 的 悪 影 響 、ω
人権問題がある。以下それらの論拠とそれに対する反論を検討していく。1
不自然性 41一一遺伝子工学のJflJ法的規制同 遺伝子工学は不自然であるとする論拠が、よく消極論から持ち出される。これは宗教的文脈で述べられることも多 い。これに対しては、そのことが何を意味するのかが必ずしも明確でなく、少なくとも﹁その基準と論拠をもっと明 瞭なかたちで示さなければならない﹂との批判が妥当するであろう。また不自然さに由来する不快感・不安感がこの 問題については大きな役割を果たしていることは確かである。そのような感情の問題を全く無視するわけにはいかな い。しかしこれに対して、森村は﹁その不安や反発が公的議論で十分な重みを持つためには、合理的な理由のかたち け を に と tま ら な な ら け な れ L、vf 」 な と ら す な る6iい O~ で、 あ ろ う。
﹃ぼんやりとした不安﹄は自殺の理由にはなっても、他者の自由の規制の基礎付 な お グ ロ l ンについては、上述のように積極論からは一卵性双生児のように自然にも存在するから自然に存在する第2巻1号一一42 ( m 出 ︾ ( 臼 V ものは人間も行うことが許されるとする反論がある。これに対して西ドイツの哲学者レ l ヴは、次のような事例をあ げて議論を行っている。 A と B がそれぞれ落ちてきた瓦に当たって死亡した。 A に当たった瓦は突風によって落ちて き た も の で あ り 、 B に当たった瓦は X が故意に落としたものであった。 X は自然も同じ結果を惹起しているといって 自らを正当化できない。またグロンナiも自然の事象は正当化を必要としないが自然への介入は正当化を必要とする ︿ 目 凹 ) と述べる。確かに自然に存在するかどうかと正当化されるかどうかは別の問題である。その点で彼女らの再反論は正 しい。しかし少なくともクローンが他の類型と異なった側面を持つということは考慮に入れなければならないように 思える。これについては私見の展開の箇所で詳しく述べる。 社会的悪影響 社会的悪影響の論拠には、社会全体のレグェルについてのものと家族関係等に関するものとがある。前者の内の極 端なものとしては、例えばクローン人聞について、それを認めると、天才ばかりの社会になってしまい悲劇が生じる とか、全体主義的な統制社会が実現するという批判がある。これは米本のいう﹁逆ユートピア﹂に関するものであり、
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逆ユートピア論拠と呼ぶことができるであろう。しかしこれらの想定は非現実的なものであるか、少なくともそうな る前に何らかの対応が可能なものである。しかし私はそのような極端な社会は近未来に実現するとは思わないが、緩 ( 釘 ﹀ やかな﹁遺伝管理社会﹂が現実化する可能性は高いと考える。その当否は別としても、少なくともその社会における 人権の問題にはより真剣な検討が必要になってくるだろう。この論拠と関係して統制者の問題があるがこれは4
で 述 ベ る 。 家族関係への悪影響も消極論の根拠とされることが多い。特にクローンについてはそれによる家族関係の混乱がよ く問題とされる。これについてグラヴァ!と森村は①﹁親子の間の相違は育うた場所と時、受けた教育などの環境の産物でもあるが、それだからといって世代の断絶を防ぐために環境を固定せよとは主張され﹂ず、②﹁親子観や家家 族観は時代とともに変化し、われわれの慣れ親しんでいるものも別に絶対のものではないから、その変化を阻止する ためにはなにか強い理由が必要である﹂とする。さらに森村は③﹁生物学的親子関係のない養子の制度も昔から社会 的に是認されているから、親子の遺伝的類似の重要性を過大評価すべきではない﹂とも述べている。なお親子関係と 人権の問題については次章で述べる。 3 生物学的悪影響 こ の 批 判 に は 、 より直接的な奇形発生の危険等に関するものと、長期的な遺伝子プ l ルの貧困化の二つがある。前 者については積極論者も危険防止のための規制の必要性を認めている。但しこれは付随的危険の考慮に関するもので ある。したがって積極論者は﹁危険性は遺伝子操作の慎重さの問題であって、全面的禁止の問題ではない﹂とするの で あ る 。 43一一遺伝子工学の刑法的規制l同 後者は環境の変化などに対応するためにも遺伝子プ 1 ルの画一化ではなく、多様化が望ましいとする論拠である。 遺伝子 0 アールの画一化が望ましくないということは説得性を持つ論拠であると思われるが、自由主義的積極論の主張 者は次の 4 でみるように、積極論が必ずしも画一化に導くわけではないと反論している。 選別基準・決定権者の問題
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特に積極的遺伝子工学については何が﹁望ましい遺伝的形質﹂であるかの基準が問題になる。またその基準の(社 会的な)変化の問題も考えなければならないであろう。さらにその決定者を誰にするかは深刻な問題である。しかし これについてグラヴァ!と森村は﹁子どもにいかなる遺伝子を与えるかは、親となるべき者が決めればよい﹂とする。 またその基準についてもそもそもコンセンサスなど要求されておらず、親は﹁自分たちの子どもがどのような遺伝子第2巻 1号一一44 -をもっていたらよいかだけを考えれば足りる。このような遺伝子操作の自由化は、人々が恐れるような人聞の画一化 とは逆にその多様化へと向かうだろう﹂としてい日町確かにそのように考えることによりいくつかの問題は回避され ょうが、情報操作の可能性などとの関係も検討が必要であるように思える。 人権の問題
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西ドイツにおける議論においては哲学者においてもこの人権の問題に関する議論にかなりウエイトが置かれている という印象を受ける。そこで論拠としてあげられているのは、特にクローンやキメラ・ハイブリッド形成に関しての 人の手段化の問題、人体実験の問題、同一性の問題、周囲の圧力などにより人格発展の基礎が欠けることなどである。 さらに米本によって紹介されている欧州会議の遺伝子治療の場合を除いて人為的に介入を受けない遺伝子を受け継ぐ 権利炉、米本自身によって最近主張されている﹁病気になる権利﹂﹁病者でいる権利﹂の主野γ
検討されるべきであ ろう。私はこの人権に関する問題が積極論を-評価するための観点を提供すると考える。このことは法学的視点のみだ けで議論されるべき問題ではなく、むしろ哲学的考察が必要であると私は考えるが、現行憲法の枠組、憲法学者の見 解なども参照したうえで検討するのが論文構成上重複を避けるためにも好ましいと思われるので、便宜的に次章で一 括して考察を加えることにする。 第五節 括 以上哲学的問題を整理してきたが、結論的には積極論のなかで重要な論拠は自由主義的論拠であり、その問題提起 は真剣にうけとめられなければならないが、人権問題との関係でさらなる考案を必要とするといえ折ル ( 口 ﹀ 前掲注 ( 4 ) 参 照 。45一一遺伝子工学の刑法的規制口 ︿叩同﹀ 特に米本﹁遺伝病スクリーニングと優生学の狭間﹂長尾・米本編前掲 ( 6 ) 一二頁以下。米本は遺伝病スクリ l ニ γ グ を 、
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新生児スクリ l ユ ン グ 、ω
普通の人を対象とする遺伝病遺伝子保因自のスクリーニング、助胎児段階でのスグリ I ニ γ グに分類している。なお山田卓生﹁遺伝相談の法律問題﹂碧海純一・大熊由紀子・加藤一郎編・科学は人聞を幸福にする か、二七九貰以下参照及び、梅村隆之﹁出産前診断高度化が迫る先天異常への新たな判断﹂日経メディカル一九八九年二 月 一O
日 号 七O
頁 以 下 。 厚生省健康政策局編・生命と倫理について考える(一九八五年)一四七頁。 例えば中川米造は加藤尚武との対談の中で﹁遺伝子治療にについては、専門家仲間では、たぶんできないだろうといわれ ているんです。あれは原子物理学者における核融合の研究と同じであって、それによって研究費を稼ごうということなん だそうです。﹂と述べている。加藤尚武・パイオエシックスとは何か一四八頁以下。 厚 生 省 健 康 政 策 局 編 前 掲 書 注 ( 四 ﹀ 一 四 八 頁 以 下 。 厚 生 省 健 康 政 策 局 編 前 掲 書 注 ( 四 ﹀ 一 四 九 頁 。E
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時掲注 ( 7 ﹀ 喝 ・ 臼 ・ の み 口 開 円 前 掲 注 ハ 口 ﹀ω
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ゆ 串 毘 ・ 厚生省健康政策局編前掲書注(四ご四七頁参照。 米 本 昌 平 ・ 先 端 医 療 革 命 ︿ 一 九 八 八 年 ﹀ 一 一 一 一 四 頁 以 下 。 な お 吉 田 昨 日 ロ 当250RURR5555
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も﹁彼︹イルメ γ ゼ l ︺ は先週、ある国際的専門家委員会によって担造の非難を免れた。﹂としているがその委員会がどのような内容か確認でき な か っ た 。 岡 、 . 切 ・ω
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随時・なお同国 Y M M印では患者の同意の下でこの実験が行われたことが記載されているが、果してこのような 実験が提供者の同意だけで正当化されるかには疑問がある。 市川茂孝・背徳の生命操作(一九八七年﹀一O
四 頁 以 下 。 ア ル ト ゥ l ル・カウフマンハ上田健二・竹下賢訳﹀﹁バイオテクノロジーとバイオエシックスについての法学的考察﹂矢( ω )
( 却 ﹀ ハ 幻 ﹀ ︿ 詔 ﹀ ( 泊 ) (川品﹀ ( お ) ︿ お ) ハ 幻 ) ( 咽 ぬ ) ( 却 ﹀ ( 却 )第 2巻 1号一一4& ( 幻 ﹀ ( m M ) ( お ) ( 川 品 ﹀ 崎光園・野口寛・佐藤節子編・転換期世界と法(一九八九年)六六頁。なお一九八三年に﹁神経システムの複雑性に基づ くヒトのクローンの不可能性﹂という論文を公表したポッベルは、人間の神経細胞は非常に数が多く、かっその結合の仕 方に無限の可能性があるので、そもそも同一のク戸 l ンなどを創造することは不可能であると主張する。このことも併せ てクローンの性格付けについてはなお検討されるべき問題が残されている。 H W ・
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ア盟問匂ロ B o m z n F Z X E B平 田n F R 関 ︼ C E R ロ ロ m 2 4 0ロ 宮 市 口 白 n z g 釦 丘 恒 ロ ロ 仏 骨 円 問 。 自 問 ︼ 山 内 M内 伊 丹 智 弘 自 由 ZR ︿ 巾 ロ 印 可 印 ZB 凹L
口 一 問 。 即 日 O 君 田 E W ロ 芯 ︿ R ・ 2 w E ﹃ ロ ロ 銅 色 ロ 円 n F a 白 血 F 4 [ 印 円 ﹃ σ 同 司 m y H甲 山 凶 ω . ∞ ・ ] { 由 由 民 ・ 碧海他編前掲書注 (MM) 参 照 。 これについては特に青山治城﹁科学・技術と社会﹂長尾・米本編前掲注六五頁以下を参照。 宇波彰﹁遺伝子工学と人間﹂現代思想一九八O
年 七 号 一 五 六 頁 以 下 。 クローンについてはその可能性を否定する米本も三色ネズミと同様にコニ色人聞は成立可能であると推論せざるをえない の で あ る ﹂ と す る 。 米 本 前 掲 注 ( 日 ) 一O
九 頁 。 の み ロ 伺 門 前 掲 注 ( 日) ω
・ 凶 器 -加茂直樹﹁ライフサイエンスの提起するもの﹂新・岩波講座哲学6
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九 八 六 年 ) 一 二 一 三 頁 以 下 。 加茂直樹﹁新しい生殖技術は社会に何をもたらすか﹂理想六三七号(一九八七年)一一一O
頁 以 下 。 加茂訳前掲注 ( 6 ) 一 一 二 七 頁 以 下 。 なおこの問題に関して総論的考察を行っている他の日本の哲学者としては島田がいる。島田は、倫理学説の検討を踏まえ た上で、自らの依拠する次のような基本原則を定立する。ω
各自の生命と宰福の保持が尊重されなければならない。ただし、それらはできるだけ自然の接理にかない、かつ社会 的に公正な範囲で行われるべきである。ω
その人格的な尊厳、および個人の意思が十分に尊重され、他者の幸福の増進は倫理的に高く評価されなければならなω
人のために役立ちたいという、他者への配慮の範囲、そして世代間の配慮が広ければ広いほど、倫理的な価値は高く な る 。 ( お ﹀ ( お ) ( 釘 ﹀ ︿ お ) ( 鈎 ﹀47一一遺伝子工学の刑法的規制同 帥 ( 州 制 ) すべての存在、そして無限にして永遠なるものへの愛による人格の完成 そしてこの原則の遺伝子工学に関する適用についておよそ次のように述べるのである。 遺伝子治療は、遺伝的素質そのものを取り替えることに変わってきており、遺伝子治療の範囲が無限に拡大していくこ とになり、遺伝子を変更すると子孫の遺伝子まで変えることになり、影響は甚大である。ここでは、遺伝子の正常、異常 の限界をどこで線引きずるかという問題ゃ、特に遺伝病スグリ i ェングにおいては、鎌型血球貧血の場合のように一雇用等 における人種差別と結び付いたり、胎児における場合のように、中絶か治療かといった自己決定の苦しい選択を強いられ たり、あるいは人格の尊重を踏みにじるものになってしまうという問題が生じる。さらに遺伝子組替えは、治療にに留ま らずに、優生学的イデオロギーに基づく人間改造につながる危険がある。それが現実になってからでは遅いので、遺伝子 組替えには倫理的ガイドラインを厳しく設けて、監視体制も整備する必要がある。バイオテクノロジーは人類全体の福祉 の増大に貢献しなければ意味がないから、その観点からも上の
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か らω
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の方向を考えて推進すべきである。 以上の記述は島田前掲注 ( 2 ) 一 三 五 頁 以 下 、 一 四 九 頁 以 下 に よ る 。 森 岡 前 掲 室 田 注 ( 2 ) 一四一頁以下とその見解を批判している須藤自由児﹁バイオテクノロジー推進の倫理学か日本的生命倫 理学(?)か﹂創文二七五号(一九八七年)一七頁以下を参照。 従来の議論の整理についてはブロディが賛成論と反対論の論拠を次のように分類しているのが参考になる。まず賛成論の 論 拠 と し て は 、ω
功利主義、助合理性、および肋遺伝的衰退を、反対論の論拠としては、川不自然、ω
不 確 実 、ω
無 知 、ω
悪い価値、同将来の悪用、制資源分配、および肘非倫理的手段があげられている。この分類にしたがってなされている ブロディの分析は、非常に興味深いものであるが、各論拠聞には重複するものもあるし、また最近の議論(特にグラバァ ーの議論および西ドイツでの議論)で新たに付け加えられた論点もあるのでそれらの議論も参照したうえで本文のように 整理しなおした。ブロディ前掲書注 ( 6 ﹀ 二 四 九 頁 以 下 。 ブロディ前掲書注 ( 6 ) 二 五O
頁 以 下 。 この概念については例えば内藤兼・刑法講義総論(中)(一九八六年)五一二二頁以下参照。 森村前掲注 ( 7 ) 一 二O
頁 。 。 円 。 ロ 叩 門 前 掲 注 ハ ロ ) ∞- N
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戸における各論拠への反論を参照。 ( 付 制 ) ( 必 ) ( m M ﹀ ( 川 制 ) (MN ﹀第2巻1号一一48 〆ヘ〆「〆「〆へ〆「〆「〆「〆「〆ヘ〆「〆"""' """"'〆「〆「〆「〆"'r、戸、""""'r町、〆「〆「戸、 68 67 66 65 64 63 62 61 60 59 58 57 56 55 54 53 52 51 50 49 48 47 46 、J 、J 、J 、J 、./ '-'、J 、J 、J 、J 、J 、J 、J 、J 、J 、J 、J 、J 、J 、J 、J 、J 、J 。 フ ロ デ ィ 前 掲 書 注 ( 6 ﹀ 二 三
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頁 。 ブ ロ デ ィ 前 掲 書 注 ハ 6 ﹀ 二 五O
頁 参 照 。2
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前掲書注 ( 7 ) および森村前掲注 ( 7 ) 論 文 を 参 照 。 森村前掲注 ( 7 ) 一 二 九 頁 。 森村前掲注 ( 7 ) 一 一 一 一 一 頁 。2
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前掲注 ( 7 ) 同YNPωH ・ 米本前掲書注 ( 1 ﹀ 一 四 一 ニ 、 二 二 一 一 員 。 森村前掲注 ( 7 ) 一 一 九 頁 。 森村前掲注 ( 7 ) 一 二 五 頁 。 森村前掲注 ( 7 ﹀ 一 一 一 六 頁 。 森村前掲注 ( 7 ) 一 三 四 頁 。 米 本 前 掲 注 ︿ 臼 ﹀ 一O
九 頁 。 森村前掲注 ( 7 ﹀ 一 一 一 一 五 買 。 森村前掲注 ( 7 ) 一 一 一 一 五 一 貝 。 森村前掲注 ( 7 ﹀ 一 一 一 一 頁 以 下 。 森村前掲注 ( 7 ) 一 一 二 六 頁 。 な お 公 的 議 論 の 条 件 に つ い て の 同 一 一 一 九 頁 以 下 の 議 論 も 参 照 せ よ 。 者 ・4
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・ 思 ∞ ・ 米 本 前 掲 注 ( 臼 ﹀ 八 九 頁 以 下 を 参 照 。 米本昌平・遺伝管理社会(一九九年﹀参照。 の 芯 ロ 市 門 前 掲 注 ( 日)
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・ 包 。 ・49一一遺伝子工学の刑法的規制。 ( 印 ﹀ ( 初 ) ( η ) ( 花 ) ( 市 ) ( 丸 ) ( 万 ) ( 沌 ﹀ ( π ) 森 村 前 掲 注 ︿ 7 ﹀ 一 一 一 一 頁 。 の み ロ 巾 門 前 掲 注 ( 日 ) ω ・ 日 申 ∞ ? ω 0 0 ・ 森村前掲注 ( 7 ) 一 二 七 頁 。 。 円 。 ロ