EU の共通通商政策と FTA 政策の変貌
―環境・人権保護やグッド・ガバナンス等を目的とし
た新たな通商政策の萌芽?
濱
田
太
郎
要旨 本稿は欧州連合(EU)の自由貿易協定(FTA)政策の変貌を論じる。FTAを新興国 と締結し市場開放を促進する2006年の「グローバル・ヨーロッパ」戦略は,それまで EU 加 盟を目標とする近隣諸国と締結した FTA 等で約束された高水準の自由化義務を新興国にも 負わせようとするものである。韓国との FTA では産業界の要望に応え画期的な補助金規律 を設けた。戦略的重要国との通商関係の深化を唱え,環大西洋貿易投資連携協定(TTIP)交 渉を開始したが,市民社会や加盟国から強い反発を受けた。2015年の「万人のための貿易」 戦略では,持続可能な開発と人権,グッドガバナンス等の欧州の共通価値の実現手段として FTA を位置付け直すパラダイム・シフトに着手した。Abstract This research evaluates free trade agreement(FTA)policies in the Common Commercial Policy( CCP )of the European Union( EU ). In 2006, the EU proposed a new generation of FTAs that were comprehensive and ambitious in coverage, aimed at the highest degree of liberalization of trade in goods, services, and investment; these go beyond the WTO in prioritizing emerging economies, including the ASEAN, Korea, etc. The EU successfully established a new, pro-competitive prohibition on certain distorting subsidies with Korea in the FTA, adequate to meet the demand of industries in the EU. In 2010, the EU started negotiations with strategic great-power partners. However, civil society and a number of parliaments of central and local governments in the EU heavily criticized and fiercely opposed these negotiations, including the Transatlantic Trade and Investment Partnership(TTIP). In 2015, the EU advocated a new paradigm for the FTAs by promoting protection of the environment, human rights, and good governance.
キーワード 欧州連合,自由貿易協定,共通通商政策,EU,FTA 原稿受理日 2017年10月23日
は じ め に
欧州連合(EU)は,2006年10月に「グローバル・ヨーロッパ」戦略 を提唱し,世界貿
易機関(WTO)を重視しつつも WTO 協定に整合的な自由貿易協定(FTA)をインド, ロシア,東南アジア諸国連合( ASEAN ),韓国,南米南部共同市場(メルコスール),湾 岸協力理事会(GCC)等の新興国との間で締結しその市場開放を促進しようとする新しい 共通通商政策の指針を公表した。「グローバル・ヨーロッパ」戦略は, これら新興国の台 頭によるグローバル化に対応するため,WTO や FTA を通じた貿易投資の自由化により EU の国際競争力の強化を目指すものである。そこでは,FTA は WTO 協定を補完するも のと位置付けられ,WTO 協定で義務付けられていないより高度な自由化(いわゆる WTO プラスあるいは WTO エクストラ)を目指すとされている。「グローバル・ヨーロッパ」 戦略を提唱するまで EU は,WTO の多角的貿易交渉,特に2001年に開始されたドーハ開 発アジェンダ(DDA)を通じた貿易投資の自由化を最優先に掲げてきた。「グローバル・ ヨーロッパ」戦略により EU は,WTO 重視から新興国との間で高水準の自由化義務を伴 う FTA を積極的に締結するよう政策転換したと言われている。しかし,EU は,「グロー バル・ヨーロッパ戦略」を提唱する以前から,歴史的文化的経済的関係が深い近隣諸国と の間で主に将来の EU 加盟を前提とした連合協定, FTA その他の二国間協定を締結して きた。これらの連合協定等は,歴史的文化的経済的関係に基づく政治的動機で締結されて いるが,徐々に高水準の自由化義務を伴うものに変質してきた。「グローバル・ヨーロッ パ」戦略は,連合協定等を先例として積み上げられた高水準の自由化義務を新興国にも負 わせようとするものである。 「グローバル・ヨーロッパ」戦略は,主に新興国の抵抗により必ずしも順調に進まなかっ た。成果として挙げられるのは,韓国,ペルー,コロンビア,中央アメリカとの FTA で ある。とりわけ韓国は, EU の大半の要求に応じて高水準の自由化を約束するという大き な譲歩を行った。EU は, 産業界の要望を受けて韓国との FTA において新たな画期的な 補助金規律を設け FTA の紛争解決制度を通じてその遵守を図ろうとした。 EU は,2010年11月,中長期成長戦略である「欧州2020」に即した新しい共通通商政策 の指針である「貿易,成長,世界問題」戦略 を公表した。そこでは,DDA 交渉の再活 European Commission,“Global Europe Competing in the World - A Contribution to the EU’s
Growth and Jobs Strategy”, COM(2006)567.
Com-性化,新興国との FTA 締結,FTA を通じた投資等の WTO プラス・WTO エクストラの 自由化に加えて,米国, 日本等の戦略的重要国との通商関係の深化が謳われている。「貿 易,成長,世界問題」戦略はより強力に貿易投資の自由化を図ろうとするものである。し かし,「貿易, 成長,世界問題」戦略もまた必ずしも順調に進まなかった。成果として挙 げられるのは,環大西洋貿易投資連携協定(TTIP)や日本等の FTA の交渉開始ぐらいで あろう。2009年12月に発効したリスボン条約により,投資を含めた通商交渉に関する権限 が EU の排他的権限に属することとなり,通商交渉における透明性の欠如も相まって,市 民社会や加盟国は,通商交渉,特に TTIP 交渉を通じて,過度の貿易投資の自由化が消費 者の安全や地球環境を害するのではないかとの疑念を抱き,むしろ貿易投資の自由化への 反発を強めた。 こうした市民社会や加盟国の反発に対応するため, EU は2015年10月新たな共通通商政 策の指針として「万人のための貿易」戦略 を公表した。ここでは,従来型の通商政策に 加えて,持続可能な開発と人権,グッド・ガバナンス等の欧州共有価値の実現が謳われて いることが特徴である。 確かに, EU はこれまでも環境や消費者の安全等を重視する姿勢 をとってきたが,「万人のための貿易」戦略は従来型の通商政策からパラダイムをシフト させ,環境・人権保護といった非貿易的価値を実現する手段として通商政策を位置付け直 していると考えられる。 以下,本稿は,第1章では EU の FTA 政策の特徴を検証しその類型化を試みる。第2 章では歴史的文化的経済的関係が深い近隣諸国との間で締結されてきた連合協定等におい て,競争に関する規律を例にとり,高水準の自由化が約束されていることを示す。第3章 では EU が DDA 交渉が頓挫するたびに FTA をより重視する姿勢を明確にしてきたこと を示す。第4章では,韓国との FTA を分析し,造船業界を例にとって EU 側の利害を分 析した上で,FTA の補助金規律や紛争解決制度の特徴と意義を検証する。 第5章では, 「万人のための貿易」戦略の従来型の通商政策との相違点やその課題を論じる。
1.EU の FTA 政策の特徴―FTA の3つの類型
EU は域内国で物品,サービス,資本,人の4つの移動の自由を保障する単一市場を形
ponent of the EU’s 2020 Strategy”, COM(2010)512.
European Commission,“Trade for All - Toward a More Responsible Trade and Investment Policy”, COM(2015)497.
成し,域外国との間で FTA と関税同盟を締結してきた。 関税同盟を締結しているのは, アンドラ,トルコ,サンマリノの3カ国のみである。関税同盟は域内国が対外共通関税等 の共通通商政策を実施しなければならないため,経済構造・発展の違いから FTA よりも 締結が難しく, EU が今後新たな関税同盟を積極的に締結するとは考えにくい。 EU は, 将来の EU 加盟に備えトルコとの間で,欧州地域内の小国であるアンドラ及びサンマリノ との間で関税同盟を締結したのであり,共通通商政策の導入の容易あるいは困難さや欧州 との政治的経済的一体性を考慮し,特定の国・地域とのみ関税同盟を締結し,その他の国・ 地域では FTA を締結していると考えられる。 EU の FTA には,①歴史的文化的経済的関係が深い近隣諸国 との間で政治的動機で 締結され多くは EU 加盟の準備段階として位置付けられるもの(第1類型), ②主に EU 加盟国の旧植民地や海外領土との間で政治的動機で締結されるもの(第2類型),③急激 な経済成長を遂げ国内市場の拡大が見込まれるためあるいは第三国が締結する FTA や関 税同盟による貿易転換効果を排除するため等の理由で貿易投資上特に重要な国との間で締 結されるもの(第3類型)がある。 第1類型は,近隣諸国との間で締結され,多くは EU 加盟の準備段階に位置付けられて おり,欧州経済領域(EEA)協定,スイスとの FTA その他の二国間協定,あるいは,中 東欧,地中海諸国及び中東諸国との間で締結される「連合協定(Association Agreement)」, 「欧州協定( European Agreement )」,「安定化連合協定( Stabilization and Association
Agreement」等(以下,これら3種の協定を連合協定等と呼ぶ)と呼ばれるものが含まれ る。 第2類型は,旧植民地や海外領土等の間で締結され,EU がこれらの国・地域に対し特 恵を付与することを主たる目的とする。 EU は,これらの国との歴史的文化的経済的関係 から,事実上片務的な第2類型の特恵付与協定を締結してきた。アフリカ・カリブ海・太 平洋諸国(ACP 諸国)との間で締結されたロメ協定やコトヌ協定が典型である。しかし, 欧州委員会が2003年3月「拡大欧州―近隣諸国:南東欧近隣諸国との新たな関係枠組」を公表 する等,EU は近隣諸国との間で物品,サービス,資本,人の自由移動を保障する新たな関係を 構築しようとしている。これが欧州近隣国政策(ENP)あるいはいわゆる欧州化と呼ばれる。詳 しくは,小久保康之(2009)「欧州近隣政策―評価と課題―」日本 EU 学会編『日本 EU 学会年 報』第29号,156~174頁。 論者により FTA の類型化は異なる。多くの論説では,政治的動機で締結された連合協定等を FTA と同列には論じていない(例えば,田中晋「EU の FTA 戦略」浦田修次郎・石川幸一・水 野亮(2007)『 FTA ガイドブック』ジェトロ,224~244頁)。しかし, 問題は締結の動機ではな く,そこで約束された自由化水準である。筆者は,これまでも自由化水準に着目して,この3類 型に基づき分析を行ってきた(濱田太郎「WTO,TPP,FTA と EU の農業政策」日本 EU 学会 編『日本 EU 学会年報』第36号,61頁。)。
バナナ輸入制度が WTO 協定に違反するとの認定を受け, EU はこれらの片務的な協定を WTO 協定に整合的な双務的な経済パートナーシップ協定に更改してきた。第3類型は, 主に「グローバル・ヨーロッパ」戦略以降に締結された FTA で, 高水準自由化を伴うも のである。メキシコ,韓国,南アフリカ,カナダ,シンガポール,日本等との FTA が典 型である。 高水準自由化を伴う FTA によって新興国や戦略的重要国の市場開放を促進し ようとするものである。 第1類型は,EU の単一市場の形成や EU 拡大とほぼ同時に交渉・締結され,事実上の EU 加盟の布石とされてきた。その最たる例は,1992年に署名され1994年に発効した EEA 協定である。EEA 協定とは,EU と欧州自由貿易連合(EFTA)との間の FTA である。 EFTA は,欧州経済共同体(EEC)に対抗してイギリス等が主導して締結した FTA であ る。 EU とスイスを除く EFTA 加盟国は,単一市場で保障される4つの自由を保障する EEA 協定を締結し,単一市場をこれらの国に事実上拡大した。EU は,1970年代に EFTA 加盟国であるノルウェー,アイスランド,リヒテンシュタイン,スイスと FTA を締結し ていたが,EEA 協定はこれらの自由化対象を大幅に拡充し自由化水準を飛躍的に高めた。 1970年代以降スイスとの間で FTA 等多数の二国間協定が締結され, 漸進的に自由化対象 を拡充し自由化水準を高めてきた。 EEA 加盟国は EU 法(EU 機関が制定する二次規則を含む)を実施する義務を負いいわ ゆる「欧州化」が進められる。しかし,EEA 加盟国は EU 立法過程に全く関与できない。 ゆえに,むしろ EU に加盟し EU 立法に関与する方が得策であると考える EEA 加盟国が 出てくる。EEA 加盟国のうちオーストリアとフィンランドは政策転換し1995年の第5次拡 大で EU に加盟した。
第1類型のうち,EEA やスイスとの FTA 等では,EU 拡大と比較してもけっして引け を取らない高水準の自由化が約束されているものであることは疑いの余地はないが,連合 協定等でまで高水準の自由化が約束されているのか疑問が呈されるかもしれない。第2章 では連合協定等でも高水準自由化が約束されていることを論じる。 EU は,ACP 諸国を西部アフリカ,中部アフリカ,東南部アフリカ,東部アフリカ,南部アフ リカ,カリブ海諸国,太平洋諸国にグループ化し,経済パートナーシップ協定の締結交渉を行っ ており,現在交渉中のものもあれば交渉が妥結し(暫定)適用が開始されたものもある。
2.連合協定等における高水準の自由化約束
EU は,EU 拡大と連合協定等を同時に交渉・締結している。EU は,政治的経済的社会 的事情に応じて,EU 拡大と連合協定等の締結にとどめる国を分別していると考えられる。 連合協定等は,1990年代後半に新たに見られる。1990年代の初頭に締結されたものの中 には,1970年代に近隣諸国との間で締結された高水準自由化を伴う FTA と比べると, 確 かにその自由化水準が比較的低いものも見られる。しかし,1990年代の連合協定等と2000 年代以降のそれとでは,後者の方がより自由化水準が高くなっており,連合協定等も EEA 協定あるいは第3類型の FTA と同様に,高水準の自由化を義務付けて相手国の市場開放 を目的としている。特に,WTO のシアトル閣僚会議の決裂以降,連合協定等はその締結 対象を地中海諸国だけなく中欧諸国にも拡大し特に急速にその数を増やし,かつ自由化水 準の比較的高い内容になっている。そして,2006年の「グローバル・ヨーロッパ」戦略発 表以降の第3類型の新興国等との FTA は, 連合協定等で先例として積み上げられてきた 高水準の自由化義務と匹敵・類似する義務が設けられている。 以下,連合協定等における競争に関する規律を例にとって分析を試みる。競争規律を例 にとる理由は,第1に EU が WTO において投資,競争政策,政府調達透明性の3つの交 渉分野(いわゆるシンガポール・イシュー)を含めた包括的通商交渉を行うよう提唱して いたからである。 しかし, EU はカンクン閣僚会議でシンガポール・イシューを DDA の 交渉分野から除外することに同意する代わりに農業や非農産品市場アクセス等の DDA の 交渉分野で途上国から譲歩を得ようとした譲歩策が裏目に出て,シンガポール・イシュー が交渉分野から除外されたばかりでなく,交渉のモダリティを含む閣僚宣言案についても 合意を得られなかった。EU が連合協定等や FTA を通じて競争規律を設けて実績作りを しようとするのは窮余の一策と考えられる。第2に,EU 域内では単一市場と両立しない 一定の国家補助(state aid)を禁止し,競争制限的協定・協調的行為や市場支配的地位の 濫用行為を規制する競争規律が設けられている。EU は単一市場と FTA 相手国市場の競 争条件を平等にしようとしているのである。 先進国が締結する FTA における競争規律は, 大別すれば, ①何らかの反競争行為を禁 止する実体規定を置く場合,②独占企業,国営企業,排他的権利を付与された企業に対し 何らかの規制を行う場合,③競争法の制定義務を課す場合,④競争当局間の協議や協力を 規定する場合,⑤締約国間で貿易救済措置の発動を禁止する場合(締約国間の貿易に悪影響がある場合貿易救済措置に代えて競争法を適用することになる)の5つの類型がある。 EU の連合協定等には, 国家補助に関する規律が設けられ,そこで一定の競争規律が設 けられている。国際貿易に影響を与えるおそれがある一定の反競争行為を禁止する規定, 独占企業,国営企業,排他的権利を付与された企業に対する規制,協調的行為や市場支配 的地位の濫用行為等について競争法を制定する義務,独占禁止協力協定を含め競争法政策 の実施について協力を謳う規定が見られる。このような競争規律は,大別すれば,1990年 代に締結されたものと,2000年代以降に締結されたもので異なっている。また,締約国に 既に競争法制が整備されているか否か,締約国が制定した競争法制が米国の影響を受けた ものであるか否かも規定に差異を生じしめている。EU は,1990年代主として地中海諸国 との連合協定等を締結した。例えば,イスラエル,チュニジア,モロッコ,ヨルダン,パ レスチナとの連合協定等がある。2000年代アルジェリアやレバノンとの連合協定等を締結 した。これらと第3類型に属する FTA である,メキシコ,韓国,南アフリカと締結した 高水準自由化を伴う FTA とを比較すると概ね下記の通り4種類に分類できる。 第1に,レバノンとの中間協定のように,簡潔な規定を置くだけで,規定が曖昧で解釈 の余地を残し,その解釈適用に関する紛争は締約国間の交渉を通じて解決するものである。 ①競争の妨害制限歪曲を目的とするか又は結果として引き起こす企業間協定,企業連合, 協調的行為,②単一市場又はレバノン市場での支配的地位の濫用はいずれも国際貿易に悪 影響を与えるおそれがある限り禁止される(27条)。ここで禁止される競争制限的協定・協 調的行為や市場支配的地位の濫用行為はいずれも EU 運営条約101条及び102条で禁止され ている。しかし,レバノンとの中間協定は,EU 運営条約のような実施措置を有さないた め,国際貿易に悪影響を与えるのはどのような場合であるかや,これらの行為が市場と両 立するか否かについて解釈の余地を残している。国家独占の漸進的な調整を求めるが努力 義務である(28条)。独占企業,国営企業,排他的権利を付与された企業の規制は, 協定 発効5年後以降はこれらの企業が締約国の利益に反して貿易を歪曲させる措置をとらない ことを義務付けている(29条)が,何が締約国の利益あるいは貿易歪曲効果に当たるかで 解釈の余地をたぶんに残すものである。 EU とレバノンは協力委員会を設立し,解釈適用に関する紛争を付託する(34条1項)。 同委員会で解決されなかった場合,仲裁に付すことができる(34条4項)。もっとも, 競 争制限的協定・協調的行為や市場支配的地位の濫用行為がいずれかの締約国に著しい害を もたらす場合,協力委員会が協議あるいは協議拒否後30日後に適切な措置をとることがで きる(27条3項)。 ここにいう適切な措置が何を指すかは明確ではないが, この規定は紛
争解決制度の適用を排除するものではないと考えられる。ただし,文言が解釈の余地を残 す曖昧なものであるため,その解釈適用に関する紛争は仲裁では解決できず交渉によらざ るを得ないと考えられる。 レバノンとの中間協定のほか,アルジェリアとの連合協定が同様の構造を有する。 第2に,イスラエルとの連合協定では,規定が曖昧で解釈の余地を残すもので,その解 釈適用に関する紛争は締約国間の交渉を通じて解決するほかないが,国家補助の規制とそ の透明性を保障する規定があり,解釈の余地を狭める何らかの工夫がなされている。 イスラエルとの連合協定は,競争制限的協定・協調的行為や市場支配的地位の濫用行為 についてレバノンの中間協定と類似の規定を有する(36条1項 ) 。 また, 国家独占の 漸進的な調整(37条)や独占企業,国営企業,排他的権利を付与された企業の規制(38条) も類似している。これらに加えて,一定の企業等を有利にする競争歪曲的な国家補助もま た,競争制限的協定・協調的行為や市場支配的地位の濫用行為と同様に,国際貿易に影響 を与えるおそれがある限り禁止される(36条1項 ) 。 加えて,国家補助の透明性に関する義務が設けられている。その総額及び配分に関する 年次報告と,他方締約国の要請があれば国家補助の制度や個別の事例についても情報提供 する(36条3項)。さらに,EU とイスラエルで設立される連合理事会が,協定発効から3 年以内に,競争制限的協定・協調的行為,市場支配的地位の濫用行為,国家補助に関する 規定の実施関連規則を制定する(36条2項)。このような透明性に関する義務や連合理事 会による関連規則の制定により,文言の曖昧さがもたらす解釈の余地は比較的狭められて いる。 連合理事会は勧告だけでなく拘束力のある決定を採択できる(69条1項)。 協定の解釈 適用に関する紛争は連合理事会に付託される(75条2項)。 連合理事会で解決されなかっ た場合仲裁に付すことができる(75条4項)。 第3に,ヨルダンとの連合協定のように,規定が曖昧で解釈の余地を残すもので,その 解釈適用に関する紛争は締約国間の交渉を通じて解決するほかないが,国家補助の透明性 保障や実施関連規則の制定に加えて, EU 法の適用がその解釈の余地を狭める工夫として 加えられている。 ヨルダンとの連合協定は,競争制限的協定・協調的行為,市場支配的地位の濫用行為, 一定の企業等を有利にする競争歪曲的国家補助についてイスラエルとの連合協定と類似の 規定を有する(53条1項)。 国家独占の漸進的な調整(54条)や独占企業, 国営企業, 排 他的権利を付与された企業の規制(55条)も類似している。
国家補助の透明性に関する義務についても,イスラエルとの連合協定と同様に,その総 額及び配分に関する年次報告(53条4項)に加えて,連合理事会による協定発効から5 年以内の実施関連規則の制定が規定されている(54条3項)。 イスラエルと異なるのは, EU 法の適用が予定されている点である。ヨルダンとの連合 協定では,協定に違反する慣行であるか否かの判断基準として EU 法(一次規則及び二次 規則)が移入され適用されることが予定されている。競争規律に関するこのような EU 法 の移入・適用は EEA 協定にも見られ, EU と実質的に同等な規制を保障しており, ヨル ダンが EU 並みの自由化規律を受け入れたということを意味する。ヨルダンとの連合協定 の紛争解決手続は,イスラエルとの連合協定とほぼ同様である。ヨルダンとの連合協定の ほか,モロッコ,パレスチナ,チュニジアとの連合協定が同様の構造を有する。 南アフリカとの FTA も, 国家補助を含む競争規律及び紛争解決手続とともに類似す
る。南アフリカとの FTA は,国家補助と言わず公的補助(public aid)という名称である (E章41条他)ものの, 付属書Ⅷで EU 法の適用を予定している。南アフリカとの FTA は,ヨルダンと異なり,南アフリカの競争当局に対する一定の配慮がなされ,各締約国が 自国の競争法に整合的な適当な措置をとることを認めている。公的補助について付属書Ⅸ では一定の公共目的のための公的補助が協定と両立するものとみなされている。 第4に,これまでの先例とは大きく異なる例外的な事例も見られる。チリとの連合協定 は,規定が少なく実体的義務が乏しいばかりではなく,国家補助を含む競争章全体が紛争 解決制度から除外されている(180条)。韓国との FTA では国家補助以外の競争規律が紛 争解決制度から除外されている。国家補助に関する情報交換(177条3項)が設けられた ものの,独占企業,国営企業,排他的権利を付与された企業に対する規制の適用除外(179 条1項),競争規律に対する紛争解決制度の適用除外(180条)等を見ても,同時期に交渉・ 締結された連合協定で積み上げられた高水準自由化から見れば大幅な後退に見える。メキ シコとの FTA では,実体的な義務規定は設けられなかった。締約国は競争歪曲制限を防 止するために適当な措置をとることを定め,この目的のために共同理事会を設立し,協力 協調のためのメカニズムを構築すると規定する(11条)。 共同理事会の決定として, 付属
正式名称は FTA と呼ばず,貿易開発協力協定(Agreement on Trade, Development and Co-operation )という名称を用いている。2016年6月 EU は,ボツワナ,レソト,モザンビーク, ナミビア,南アフリカ,スワジランドからなるアフリカ開発共同体(Southern African Development Community: SADC)との経済パートナーシップ協定に署名しており,同条約が発効すれば,貿 易開発協力協定は終了する予定である。
正式名称は FTA と呼ばず経済パートナーシップ政策協調協力協定(Economic Partnership, Political Cooperation and Cooperation Agreement)という名称を用いている。2016年5月以降 EU とメキシコは,更なる貿易投資の自由化を目指し,同協定の改正交渉を行っている。
書XVが設けられている。付属書XVでは,反競争的行為により協定上の利益が無効にされ ないようにするため各締約国は自国の競争法を適用すると定める(1条1項)。 独占禁止 協力協定に類似した情報交換(4条),早期通報(3条),相手国競争当局による調査に対 する好意的配慮(6条)等が規定されている。国家補助の規定は設けられていない。メキ シコが競争法を制定したのは北米自由貿易協定(NAFTA)1501条に基づく義務を実施す るためであることは広く知られている。メキシコとの FTA は,NAFTA 型と EU 型の競 争法の競合を避けたものと解釈される。 以上のように,2000年代の連合協定等で EEA 協定に匹敵する高水準自由化が約束され ている。もっとも,主に1990年代に締結された初期の連合協定等において,あるいは,他 方締約国に対する配慮(協定実施能力や法体系の違い等に対する配慮)から比較的低水準 の自由化にとどまる場合も見られる。しかし,初期に締結された連合協定等は後に高水準 自由化を約束する新たな協定に更改される事例も見られる。
3.WTO 重視から FTA への傾斜
EU は,WTO の DDA 交渉が頓挫したため,FTA を重視する政策に転換したと考えら れる。DDA 交渉妥結の見込みが低くなるにつれて,FTA を重視している。 1999年のシアトル閣僚会議は,WTO 協定上のビルトインアジェンダの期限切れ前の交 渉開始を目指していた。WTO 協定の多くは時限協定である。例えば,農業協定は,実施 期間を定め,実施期間の終了の1年前に交渉を開始すると定める(20条)。実施期間とは, 【表1】国家補助の透明性を保障する制度 EU 法適用 総額年次報告 定期的審査 実施規則制定 透明性義務 ― ― ― ― ― レバノン ― 36条3項 ― 36条2項 36条3項 イスラエル 53条2項他 53条4 ― 53条3項 53条4 ヨルダン 付属書Ⅷ 43条 44条 36条 43条 南アフリカ ― ― ― ― ― メキシコ ― 177条3項 ― ― 177条 チリ ― 11.12条1項 11.12条1項 ― 11.12条 韓国(注) (注)韓国 FTA では,国家補助ではなく補助金に関する規律として規定されている。 (出典)筆者作成
1995年に開始する6年間をいう(1条)。ゆえに,1999年から交渉が開始されることと なる。サービス貿易一般協定は,例えば,特定約束に関する交渉を協定発効後5年以内に 開始すると規定している(19条1項)。ゆえに,2000年から交渉が開始されることとなる。 このような WTO 協定上義務付けられた交渉開始をビルトインアジェンダという。 EU は,1999年のシアトル閣僚会議の交渉決裂を受け, 早くも FTA 交渉に傾注し, 南 【表2】WTO/DDA 交渉の頓挫と EU の FTA 交渉の進展(2011年まで) EU WTO/DDA 交渉 シアトル閣僚会議交渉決裂 1999年 リスボン戦略採択(3月) 南アフリカ FTA 暫定発効 メキシコ FTA 発効 メルコスール交渉開始 ビルトインアジェンダ交渉期限到来 2000年 「武器以外全品目」(EBA)特恵制度(2 月) ドーハ閣僚会議,ドーハ開発アジェンダ (DDA)交渉開始,後発途上国特恵制度 等合意 2001年 チリ FTA 暫定発効(2月) カンクン閣僚会議交渉決裂(9月) 2003年 一般理事会「7月合意」 2004年 香港閣僚会議,後発途上国特恵制度等合 意,2006年中の最終合意目標合意 2005年 「グローバル・ヨーロッパ」戦略公表(10 月) ジュネーブ閣僚会議交渉決裂,事務局長 が交渉凍結提案(7月) 2006年 インド,ASEAN 交渉開始(4月) 韓国交渉開始(5月) 交渉再開(1月) 2007年 農業・非農産品市場アクセス交渉改訂モ ダリティ等提示 ジュネーブ非公式閣僚会議交渉決裂(7 月),その後も改定モダリティ提示(12 月) 2008年 カナダ交渉開始(4月) 韓国独占禁止協力協定署名(5月) 韓国 FTA 署名(10月) ジュネーブ閣僚会議(11月),進展なし 2009年 欧州2020採択(3月) シンガポール,マレーシア交渉開始(6 月) 「貿易,成長,世界問題:欧州2020」戦 略公表(11月) 2010年 韓国 FTA 暫定適用(7月) 事務局長議長総括提示,一括合意断念。 以後部分合意を進める(6月) ジュネーブ閣僚会議,政府調達透明性協 定合意,DDA 交渉再開見通し立たず(12 月) 2011年 (出典)筆者作成
アフリカやメキシコと FTA を締結した。カンクン閣僚会議の準備過程は,チリとの FTA 交渉と重なり,カンクン閣僚会議の前にチリとの FTA の暫定適用を開始した。2006年に ジュネーブ閣僚会議で交渉が決裂し DDA 交渉は暗礁に乗り上げ,事務局長提案により7 月末に交渉中断が合意された。 EU は, 同10月に「グローバル・ヨーロッパ」戦略を公表 した。 EU は,DDA 交渉が挫折する度に FTA をより重視する姿勢を鮮明にしている。先に述 べたように,近隣諸国だけでなく新興国との間でも高水準自由化を伴う FTA を締結しそ の市場開放を進めている。EU が FTA を重視していることは,貿易障壁規則( TBR )が 改正され民間企業が WTO 協定違反だけでなく FTA 違反をも欧州委員会に調査・交渉・ 紛争解決手続への提訴を申立可能になったことからも明らかである。 「グローバル・ヨーロッパ」戦略は, 域内政策と対外政策の連動を掲げ, 経済成長と雇 用創出という共通目標下で,域内にあっては単一市場の一層の自由化・市場開放を図り, 域外にあっては,域外国の非関税障壁の撤廃,資源へのアクセス保障,新たなルール制定 (知的財産権,サービス, 投資, 競争政策,政府調達等)を通じて EU の競争力を強化し ようとするものである。 その域外国に対する方針の中で, ① WTO 体制や紛争解決制度を全面的に支持し DDA 交渉の再開に向けた努力を続けること, ② WTO ルールに整合的な新たな FTA を積極的 に締結すること,③環大西洋貿易(対米貿易)の非関税障壁の除去に傾注すること,④中 国と包括的経済関係戦略を策定した新たな連合協力協定を締結すること,⑤知的財産権保 護・実施を強化すること,⑥非関税障壁に焦点を当てた市場アクセス戦略を構築すること, ⑦貿易相手国における政府調達市場を開放促進すること,⑧貿易救済措置を見直すことの 8つの課題が挙げられている。「グローバル・ヨーロッパ」戦略では,市場の潜在性と EU の輸出利益を基準に,ASEAN,韓国,メルコスール,インド,ロシア,GCC が FTA 交 渉対象候補国・地域にあげられている。カナダは含まれていないが, 2009年に交渉が開始 された。 「グローバル・ヨーロッパ」戦略では,WTO 重視の姿勢は変わらず,WTO を補完する 形で FTA 交渉に積極化する政策転換が見られると評価されてきた。 しかし, 実際には, WTO プラス・WTO エクストラを伴う高水準の自由化義務を伴う FTA は,「グローバル・ ヨーロッパ」戦略よりも前に締結した FTA や遅くとも2000年代初頭の連合協定等にも見 られ,「グローバル・ヨーロッパ」戦略は,このような高水準自由化を伴う FTA の対象を 新興国に拡大しようとしたものと考える方が正確である。
「グローバル・ヨーロッパ」戦略は, 韓国,ペルー, コロンビア, 中央アメリカとの FTA の締結という成果を出したが,必ずしも順調ではなかった。メルコスールとの交渉は 2000年から開始されており,「グローバル・ヨーロッパ」戦略でも FTA 優先国・地域にあ げられているにもかかわらず,交渉は長らく停滞し2016年5月にようやく交渉が再開され た。ASEAN とも交渉が難航し,2009年3月に事実上中断された。EU は ASEAN 各国と の交渉を優先し,2010年にシンガポールとマレーシアと交渉を開始した。しかし,2012年 にマレーシアとの交渉が中断され,代えてベトナムと交渉を開始した。2013年にタイと交 渉を開始したが,タイの国内情勢悪化に伴い2014年5月以降交渉は中断されている。2016 年にようやくフィリピンとインドネシアと交渉を開始した。ASEAN との交渉も2017年に ようやく再開が合意された。これらのうち,現在までに交渉が妥結したのは,シンガポー ルとベトナム,カナダの3カ国である。 既に2章で述べたように,2000年代の連合協定等はその規定内容から見て高水準の自由 化義務を約束している。こうしたより歴史的文化的経済的関係が強い近隣諸国との間では, EU は高水準自由化を押し切ることができたと評価した方が素直である。同様の高水準自 由化を交渉しようとしても新興国側が拒否し交渉が難航している。特にメルコスールや ASEAN との交渉は難航長期化している。それまでの連合協定等で実現された高水準自由化を新興 国に受け入れさせようとしても,多くの新興国の反発を招いている。反対に言えば,韓国 側が交渉で大きな譲歩を受け入れたと考えられる。韓国経済は,対外貿易依存度が高く, 1997年のアジア通貨危機以降の深刻な景気後退から外需により復興を遂げてきたためます ます貿易や外国直接投資が活発になっており,EU への輸出利益あるいは貿易転換効果に 釣られて,輸出利益を確保する代わりに大きな譲歩を伴う FTA を締結したと考えられる。 第4章では, こうした韓国の譲歩を背景に,EU が産業界の要望を実現する新たな画期的 な補助金規制を設けたこと,その遵守を FTA の紛争解決制度によって促進しようとして いることを示す。
4.韓国との FTA の成果―新たな補助金規律の制定―
FTA は双務的性格を有するため,その規律が締約国の一方の利益あるいは不利益だけを 田中素香(2013)は,EU 側は韓米 FTA による貿易転換効果に対する懸念があり交渉を急が ざるを得なかったと指摘する(田中素香(2013)「 EU 新通商戦略と EU 韓国 FTA 」『経済学論 纂』第53巻第5・6号,465頁。)もたらすことはない。しかし,いずれか一方の締約国により大きな利益あるいは不利益を もたらす程度の問題は見られる。韓国 FTA の自由化規律の中には,明らかに EU がその 制定を主導し EU に有利な規定が見られる。その典型例が補助金規律である。 FTA を通じて補助金を制限禁止することは不可能あるいは無意味という主張が見られる が,誤りである。第1に,世界の主要な生産国が加盟する FTA ができれば,そこで補助 金を有効に規律でき,このような発想から経済協力開発機構(OECD)において造船協定 交渉や鉄鋼協定交渉が行われた。第2に,FTA で補助金協定を含む WTO 協定上の義務 を遵守することを定める規定を置く場合である(シンガポール・ニュージーランド FTA7 条等)。その意義は,FTA の紛争解決制度を利用可能にするあるいは適用法とするためと 解される。第3に,FTA で WTO 協定では禁止されていない農業輸出補助金を制限禁止 する規定を置く場合である(日本ブルネイ EPA19条等)。農業協定9条は,農業輸出補助 金の漸進的削減を義務付けるだけであって,譲許表で譲許された品目についてその約束の 範囲内で輸出補助金の交付を認める。FTA で農業輸出補助金を制限禁止すると,農業輸出 補助金の撤廃効果は域内国と域外国を問わず及ぶ。 農業輸出補助金は, WTO の DDA 交 渉の懸案事項の1つである。ケアンズグループや日本は,FTA を通じて農業輸出補助金の 撤廃に合意し,WTO の DDA 交渉で EU を孤立させようという戦術である。FTA による 補助金削減の効果は産品の価格上昇という形で事実上第三国にも及び,第三国の利益を害 する差別的効果は有さず, 主要な生産国が加盟する場合には有効な規制になりうるし, WTO の DDA 交渉の実績作りとしての有意義な役割を有している。 韓国との FTA における補助金規律は, 上記のいずれにも属さない新たな規定で, 補助 金協定で禁止されていない補助金を禁止し,かつ,FTA の紛争解決制度の適用対象とする ものである。 FTA の規律を通じた産業界の要望の実現―造船業を例にとって― 韓国との FTA で禁止された補助金,特に11.11条で列挙された補助金は韓国造船事 件 で EU が WTO に提訴した措置と類似している。韓国造船事件とは,韓国が造船業に 交付する一定の補助金が補助金協定に違反するとして EU が提訴したものである。EU の WTO への提訴は, 欧州造船業協会からの TBR 提訴を受けたものである。 欧州造船業協 詳しくは,濱田太郎(2015)「多角的貿易体制と OECD―ガット・WTO と OECD の相互関係」 日本国際経済法学会編『国際経済法学会年報』第24号,62~80頁参照。
Korea - Measures Affecting Trade in Commercial Vessels(DS273). パ ネ ル 報 告 書:WT/ DS273/R.
会は, 韓国政府が造船業に対し不公正な公的助成を行い,EU 造船業が損害を被ったと主 張した。 造船業界は典型的な資本・技術・労働集約的産業であり,大規模設備投資を必要とする。 過剰設備投資・生産能力による世界的な構造不況にあえぐ造船業界で,韓国と中国は低価 格競争を通じて他国を圧倒し韓国は受注額で世界一であった。韓国造船業は国内市場がほ ぼ皆無と言っていいほど輸出主導型の産業である。韓国政府は,造船業界に対し,輸出促 進金融制度による輸出促進,税制優遇等による設備投資廃棄・撤退等の構造調整促進,設 備近代化の大規模追加投資支援等手厚い保護を行ってきた。 韓国造船事件において,パネルは一定の補助金を輸出補助金と認めたものの EU の主張 の大半を却下した。パネルが違反認定した制度や助成・融資は既に廃止されており, EU が問題視した輸出促進金融制度そのものは違反とされなかったことから,韓国の実質的勝 訴と報じられることが多い。EU は,①政府系金融機関を通じた債務免除,債務及び利息 救済,債務と株式の交換の形態による企業再建助成,②経営破綻企業(大宇重工等)に対 する租税減免規制法に基づく資産譲渡及び会社分割計画に対する優遇税制,③韓国輸出入 銀行を通じた造船会社への輸出促進金融制度(輸出前融資と前受金返還保証)が,輸出補 助金に該当しあるいは著しい価格上昇阻害または価格押し下げという悪影響をもたらして いると主張した。 パネルの認定によれば,①韓国輸出入銀行の法令そのものは法令上輸出補助金の交付を 義務付けるものでないため補助金協定に違反しない。②韓国輸出入銀行による輸出前融資 と前受け金返還保証のうち,料率及び利息が市場条件を下回るもののみ輸出補助金に該当 する。③民間銀行が行った融資については韓国政府により委託または指示されたことを立 証していない。また,政府系金融機関及び民間銀行の融資条件が商業的考慮から外れたも のであることを立証していない。ゆえに,これらの融資は補助金とは言えず,補助金の存 在を立証していない。④輸出補助金と認定された韓国輸出入銀行による輸出前融資と前受 け金返還保証と,LNG タンカー, コンテナ船,プロダクト・化学タンカーに対する融資 がそれらの世界価格の著しい価格上昇阻害または価格押し下げをもたらしていることを立 証していない。その理由として,韓国造船業が製造した船舶数と世界市場全体から見て融 資件数が少ないこと,因果関係に関する証拠を十分に提示してないことがあげられている。 EU は補助金協定付属書5の著しい害に関する情報収集手続を活用して情報収集に努めた が,著しい害を立証できなかった。 韓国造船事件では,補助金協定1条が定める補助金の存在を立証することが困難である
ことが改めて示されている。補助金協定1条が定める補助金の定義は,①政府又は公的機 関による資金面での貢献あるいは何らかの形式による所得又は価格の支持と②利益の存在 が立証されなければならない。単に政府または公的機関の支出を証明しただけでは補助金 と認定されないのである。これに対して,韓国の FTA の禁止補助金は,補助金協定の付 属書における輸出補助金の例示列挙に似て,具体的な措置を限定列挙している。FTA で禁 止される補助金の存在を立証することは,補助金協定1条が定める補助金の存在を立証す ることに比べて比較的容易である。韓国 FTA で禁止された2種類の補助金は,企業の負 債または債務保証,当該企業に対する貸付け,現金交付,資本注入,市場価格を下回る資 産提供,課税免除という形態であり,補助金協定付属書で例示された輸出補助金の立証と 同様に,これらの形態の措置の存在を立証すれば補助金の存在が立証される。具体的な形 態の措置が列挙されたことにより解釈の余地が狭まり,FTA の紛争解決制度においてより 違反が認定されやすくなっている。
EU が韓国との FTA で補助金規律を設けたのは,OECD 造船協定交渉の失敗,EU・韓 国間の造船業に関わる深刻な貿易紛争もその背景にある。先に述べた韓国造船事件で EU が韓国を WTO に提訴した後,韓国は EU が造船業に交付する一定の補助金が補助金協定 に違反するとして WTO に提訴した( EU 造船事件)。EU と韓国の間で造船業について 深刻な貿易紛争が生じていた背景には OECD 造船協定交渉の失敗がある。 1994年,公正な競争条件を確立するため,主要造船国(日本,EU ,韓国,米国,ノル ウェー)の間で OECD 造船協定が合意された。 しかし, 米国が批准しなかったため同協 定は未発効のままであった。韓国や中国の台頭により競争が激化したため,2003年9月の OECD 理事会は造船部会に新造船協定特別交渉グループを設置し政府助成措置の廃止と加 害的廉売行為の防止を主な規律とする新造船協定の交渉を行うことを決定した。交渉では, 助成規律が必要と主張する日本・EU・韓国と,補助金以外の助成措置を規律することに反 対する中国とで意見が対立した。船価規律については,厳格な規律が必要とする EU ,一 定の規律は必要とする日本,規律は不要とする韓国・中国で意見が対立していた。2005年 に,助成措置規律については歩みよりが見られたものの,船価規律について合意が得られ ず,議長により交渉の中断が提案され各国が了承した。2010年4月の造船部会において, 交渉再開が合意されたものの,各国の深刻な意見対立から,12月の理事会で同交渉の打ち 切りが決定された。
European Communities - Measures Affecting Trade in Commercial Vessels(DS301). パネ ル報告書:WT/DS301/R.
OECD 新造船協定特別交渉グループでは,新造船協定における助成措置規律は,一般的 禁止アプローチ( WTO プラス・アプローチ)をとり,補助金以外の市場歪曲性を有する 「その他の助成措置」を規律すること, 研究開発,環境,撤退及び地域開発等の分野の助 成を適用除外とすることに概ねが合意得られていた。韓国の FTA はこれらのうち撤退に 関する助成を禁止しており,未発効に終わった旧造船協定あるいは新造船協定の禁止をも 補完し,それらを上回る厳しい補助金規律である。 韓国との FTA で韓国造船事件で係争された形態の補助金が禁止されたのは, 欧州造船 業協会が反対しないようにするための政治的配慮があったとも考えられる。実際, 欧州 造船業協会は韓国との FTA の締結に反対しなかった。 【表3】OECD 造船協定交渉及び新造船協定交渉の動向 OECD 造船協定,米国が批准せず発効せず 1994年 欧州造船業協会が韓国の造船助成を貿易障壁規則(TBR)提訴 2000年 EU,韓国の造成助成を WTO に提訴(韓国造船事件:DS273) 2002年
韓国,EU の造船助成を WTO 提訴(EU 造船事件:DS301) OECD 理事会,新造船協定交渉開始(交渉期限は2005年末) 2003年 WTO,韓国造船事件パネル報告書採択(4月) WTO,EU 造船事件パネル報告書採択(6月) OECD 特別交渉グループ,新造船協定交渉中断(9月) 2005年 EU 韓国 FTA 交渉開始 2007年 EU,TBR を FTA に拡大 2008年 EU 韓国 FTA 署名 2009年 OECD 造船部会,交渉再開(4月) OECD 理事会,交渉打ち切り(12月) 2010年 外務省「第3回造船業における正常な競争条件確立のための特別交渉グループ(SNG)会合の 概要」http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oecd/sng3_g.html(2017年10月18日閲覧) 欧州委員会が作成した韓国 FTA の説明資料(European Commission(2011),“EU-South
Korea Free Trade Agreement 10 Key Benefits for the European Union”)では,「補助金規律 は農産物水産物を除く物品に適用され,サービスに将来拡大される可能性がある。造船業のよう な一定の産業分野における補助金は,EU 産業界の懸念のとなってきている。」と説明されてい る。補助金規律が造船業を念頭に置きながら作成されたことを示す1つの証拠であろう。 欧州造船業協会に所属する各 EU 加盟国の造船業の業界団体のうち,最も過激な主張をする
オーストリア造船業協会は韓国との FTA に反対を表明し, 欧州造船業協会が沈黙を守ったこと を批判している(Austrian Marine Equipment Manufacturer(AMEM)(2010), The European Union ? Korea Free Trade Agreement, AMEM Position Paper, AMEM Communication, 025, 2010, downloaded from http://www.amem.at/pdf/AMEM_Communication_025.pdf(2017年 10月20日閲覧)。
韓国との FTA における補助金規律の特異性 韓国との FTA では, 補助金の定義及び特定性概念については WTO 補助金協定を準用 しつつ,後述の一定の補助金を国際貿易に悪影響を与える限り禁止した(11.11条)。この 規定は遡及して適用されず(注81),WTO 補助金協定2条1項及び脚注に従い交付され る中小企業向け補助金(注82),WTO 農業協定の対象産品に対する農業補助金,漁業補助 金(11.15条1項),サービス産業に対する補助金(11.15条2項)を適用範囲から除外して いる。ただし,サービス産業に対する補助金については協定発効5年以内に意見交換する こととなっている。 韓国との FTA の禁止補助金は2種類である。①政府その他の公的機関が補助金協定2 条1項の意味における一定の企業の負債・債務の責任を法令上・事実上総額及び期間の制 限なく負う法的取決めに基づき交付される補助金。②倒産または経営難の企業からの相当 期間内における返済を確保し長期的視野に基づいた現実的な想定に基づいた再建計画がな く,かつ再建費用に対する当該企業自身による相当の貢献がない場合における,当該企業 に対する貸付け,債務保証,現金交付,資本注入,市場価格を下回る資産提供,課税免除 を含む補助金。ただし,再建または清算計画を実施するために必要な期間経営難の企業の 事業を維持するために必要とされる額を上限とする債務保証または貸付けの形態による一 時的な流動性支援の方法による補助金を締約国が交付することは妨げられない。欧州委員 会の競争当局者によれば,①の補助金を禁止する趣旨は, この種の無制限の保証がきわ めて歪曲的な永続的な補助に当たるからである。②の補助金を禁止する趣旨は, EU の救 済再建に関するガイドラインを FTA に取り込んだものであり,経営難の企業が補助金だ けによって人為的に存続することを防止し,実行不可能なビジネスモデルを有する韓国企 業に代わり EU 企業が進出する可能性を高めるとされている。 ただし,これらの禁止規定は,公共サービスの提供義務を実施するための補償として交 付される補助金と石炭産業に対する補助金には適用されない。 韓国との FTA でも透明性に関する規律が設けられ,補助金の総額及び配分に関する年 次報告(11.12条1項)と,他方締約国の要請があれば補助金の制度や個別の事例について も情報提供する(同3項)。 このような新たな補助金規律の意義について, 欧州委員会の競争当局者は,①従前の
Anna Jarosz-Friis, Nicola Pesaresi and Clemens Kerle(2010),‘EU-Korea FTA: a Stepping Stone Towards Better Subsidies’ Control at the International Level’, European Commission, 1“Competition Policy Newsletter”.
連合協定等の国家補助規定は曖昧で実際には執行不可能であったが,新たな補助金規律は FTA の紛争解決手続を通じて執行可能である,② FTA の国家補助規律あるいは補助金規 律は, EU 運営条約上の国家補助規律の論理を域外に拡大しようとするものである,③韓 国との FTA で詳細な規定が設けられた背景に「グローバル・ヨーロッパ」戦略で非関税 障壁の重要性が認識されたことがある,④ WTO 補助金協定で補助金が国内産業に対して 損害を生じさせていることを立証することは非常に困難である,⑤ WTO の紛争解決手続 では遡及的救済が認められていない,⑥これら2種類の禁止補助金規定は最も歪曲効果の 強いものであり,禁止規定を設けることで立証を容易にしたという6点を挙げている。 効率的な紛争解決手続 韓国との FTA は,連合協定等と異なり詳細で効率的な紛争解決手続を設けている。連 合協定等では,連合理事会等が設立され協定の解釈適用に関する紛争は連合理事会等に付 託される。そこで解決できなかった場合いずれかの締約国は仲裁に付することができる。 しかし,仲裁に関する詳細な手続規定は設けられていない。 韓国との FTA では, その解釈適用に関する紛争は両締約国の協議に付される。 協議は 協議要請から原則30日以内に行われる。協議により解決しなかった場合, EU と韓国が設 立した貿易委員会に対し仲裁パネルの設置を要求できる。仲裁パネルは3人の仲裁人から 構成される。設置要求から10日以内に両当事国は仲裁パネルの構成について協議を行わな ければならない。協議によりパネルの構成が合意できなかった場合貿易委員会等が仲裁人 を選任する。設置から120日以内に仲裁パネルは判決を出す。 判決から30日以内に被申立 国は申立国及び貿易委員会に対し遵守にかかる実施期間を通告しなければならない。被申 【表4】連合協定等と韓国との FTA の紛争解決制度の相違 韓国との FTA 連合協定等 ・紛争を両締約国間の協議に付託 ・協議要請から30日以内に協議を行う。 ・協議で解決できない場合,仲裁パネルの設 置を要請できる。 ・設置要請から10日以内に仲裁パネルの構成 について協議を行う。 ・仲裁パネルは設置から120日以内に判決を 出す。 ・遵守確認手続が設けられている。 ・対抗措置承認手続が設けられている。 イスラエルとの連合協定 ・紛争を連合理事会に付託 ・連合理事会が解決できない場合,イスラ エル・EU 及び連合理事会が各1名の仲裁 人を指名し仲裁を行う。 レバノンとの中間協定 ・紛争を協力委員会に付託 ・協力委員会が解決できない場合,レバノ ン・EU 及び協力委員会が各1名の仲裁人 を指名し仲裁を行う。
立国が判決を遵守するために行った措置の存在あるいは協定整合性に関して争いがある場 合,申立国は最初の仲裁パネルにこの問題を付託することができる。被申立国は,判決を 遵守するか,あるいは,代償を提供しなければならない。判決後あるいは実施期間経過後 30日以内に代償に合意が得られない場合,申立国は協定上の義務の停止(対抗措置)を被 申立国及び貿易委員会に通知することができる。義務の停止の程度に不服の場合,最初の 仲裁パネルが判決を下す。この紛争解決制度では,ガットや WTO の紛争解決制度を参考 に,協議と仲裁パネルを通じ一定期間内に迅速に紛争を解決しようとしている。 もっとも,これまでのところ,連合協定等の解釈適用に関する紛争が仲裁に付されたこ ともなければ,韓国との FTA の紛争解決制度に紛争が付されたこともない。 2010年10月,EU は,中長期戦略「欧州2020」に即した「貿易,成長,世界問題」戦略 を公表した。「欧州2020」が掲げる「知識とイノベーションによる経済発展」,「持続可能 な経済成長」,「社会的包摂と高水準雇用経済の実現」という3つの目標を達成するため, 成長戦略の対外的側面として,① DDA 交渉の再活性化,②インドやメルコスール等の新 興国との FTA 締結,③米国,日本,中国,ロシア等の戦略的重要国との通商関係の深化, ④貿易相手国の貿易障壁の是正,市場アクセスの改善,⑤主要貿易相手国との包括的な投 資協定交渉の開始等が謳われている。「グローバル・ヨーロッパ」戦略が新興国を対象と していたのに対し,「貿易, 成長, 世界問題」戦略では戦略的重要国を対象に加え, 包括 的な投資協定交渉の開始を謳った点が目新しい。「グローバル・ヨーロッパ」戦略の成果 を踏まえ,「貿易, 成長, 世界問題」戦略では貿易投資自由化をより強力に推進しようと する戦略であると言える。 しかし,「貿易,成長,世界問題」戦略もまた必ずしも順調に進まなかった。成果とし て挙げられるのは, シンガポールとの FTA の交渉妥結と TTIP , 日本, ベトナム等との 交渉開始ぐらいであろう。高水準自由化を伴う FTA を新興国側が拒否し交渉が難航して いる。メルコスールや ASEAN との交渉は長い停滞の後2016年にようやく再開されたばか りである。2016年にフィリピン,インドネシア,2017年にオーストラリア,ニュージーラ
5.貿易投資自由化から環境,人権,
グッド・ガバナンスへのパラダイム・シフト
EU の FTA 等の紛争解決制度が利用されない背景については別稿にて詳しく解明することに したい。ンドと交渉が開始されたばかりで,マレーシアやタイとの交渉は事情が異なるが中断され たままである。 2009年12月に発効したリスボン条約により,共通通商政策に関する権限が EU の排他的 権限に属することとなった( EU 運営条約3条1項)。FTA の交渉は欧州委員会が行い, 理事会が欧州議会との協議を経て,物品貿易については特定多数決に基づき,サービス貿 易,知的財産権の通商的側面,外国直接投資については全会一致に基づきその締結を決定 する(207条4項,218条6項)。理事会は, 欧州委員会の提案に基づき署名と発効前の暫 定適用を決定することができる(218条5項)。 FTA を含む国際協定が EU の排他的権限 のみに関連する場合はこのような条約締結手続になるが, EU と加盟国が共同で立法を行 う共有権限(2条2項)や EU が加盟国の行動を支援調整補足するための行動を行う補充 的権限(2条5項)の場合,上記のような EU による締結に加えて,各加盟国も各国憲法 等に定める独自の条約締結手続に従って締結しなければならない。このように EU と加盟 国の両者が締結する国際協定を混合協定と呼ぶ。 リスボン条約により, FTA 交渉は欧州委員会が行い, 締結も EU が行うこととなった ため,FTA 交渉における透明性の欠如も相まって,市民社会,加盟国議会,地方議会は特 に TTIP 交渉を通じて過度の貿易投資の自由化が消費者の安全や地球環境を害するのでは ないかとの疑念を抱き,むしろ貿易投資の自由化への反発を強めた。 EU は,2015年10月,新たな共通通商政策の指針として,「万人のための貿易」戦略を公 表した。ここでは,従来型の通商政策の課題に加えて,通商交渉における透明性の向上, 持続可能な開発と人権,グッド・ガバナンス等の欧州共有価値及び目的( EU 条約2条及 び3条, 特に3条5項)の実現が謳われていることが特徴である。「万人のための貿易」 戦略は,従来の DDA 交渉の再活性化,TTIP や日本との FTA を含む FTA 交渉の推進等 に加え,世界経済の新たな課題として,グローバル・バリューチェーンへの対応,サービ ス貿易やデジタル貿易の一層の進展,労働者の円滑な移動の支援,税関の効率的な運営, エネルギーと原材料へのアクセスの改善,イノベーションの保護に加え通商交渉の透明性 の向上を目標に掲げる。これらは,従来の通商交渉の延長線上に位置づけられる課題であ る。 他方で,欧州共有価値に基づく新たな通商政策として,①市民の期待に応える規制と投 資への責任あるアプローチ,②持続可能な開発と人権,グッド・ガバナンスの促進を提唱 する。EU は,第1に,消費者の輸入品に対する信頼の強化を謳い,輸入品の安全性の重 視,製造過程における人権や労働基準の遵守や環境保護について, 貿易相手国に対し EU
と同等の保障を要求し,関連企業に対し責任ある行動を呼びかけるとともに,通商政策に よりこれらの保護を監視強化する方策を模索することを謳う。第2に,投資協定で設けら れてきた投資家対国家紛争解決手続(ISDS)に代えて,二審制の常設の投資裁判所(ICS) を設置することにより,裁判過程の透明性を向上させ,判決の一貫性を保障し,環境や人 権保護を目的とする投資規制権限を害さない仕組みを提唱する。 貿易投資の自由化が一部の大企業だけに利益をもたらすとの批判を受け,上記のように 消費者の利益保護を重視する姿勢を前面に出すほか,貿易投資がすべての関係者に利益を もたらすことを保障するために,中小企業による FTA の活用策, 貿易投資自由化により 悪影響を受ける労働者に対する支援,途上国の経済開発への貢献も提唱する。 確かに,このような非貿易的価値(環境・人権保護,労働基準遵守等)を重視する姿勢 は,それ以前にも見られる。WTO のドーハ閣僚宣言で後発途上国(LDC)に対する無税 特恵が合意されたことを受けて, EU は,2001年2月, LDC に対し「武器以外の全品目 ( Everything But Arms:EBA )」を対象とする特恵制度( EBA 特恵制度)を導入した。 EBA 特恵制度では, 武器以外のすべての物品の関税が免除され輸入割当も行われないた め,一般特恵制度(GSP)よりもはるかに厚遇である。EU は,GSP や EBA 特恵制度に 加えて,労働基本権保護特別奨励制度(中核的労働基準を遵守した環境で生産された産品 に対する特恵制度),環境保護特別奨励制度(持続可能な資源管理に関する国際基準に従っ て生産された熱帯雨林産品に対する特恵制度), 麻薬生産取引撲滅特別奨励制度(麻薬の 違法な生産取引を取り締まる国に対する特恵制度)を設けた。さらに,奴隷労働,児童労 働,強制労働の存在,中核的労働基準の違反等が認められれば,EU は GSP の受益国資格 を停止することし,スリランカ,ベラルーシ,ミャンマーに対し GSP の適用を停止した。 しかし,インドが麻薬生産取引撲滅特別奨励制度の対象国に加えられず,こうした差別的 な追加的特恵制度が WTO 協定に違反するとして提訴した(EU・GSP 事件)。2004年4 月,麻薬生産取引撲滅特別奨励制度は WTO 協定に違反しないと認定する WTO の上級委 員会報告書が採択された。GSP のこうした非貿易的価値の実現を図る規定(いわゆる社会 条項 あるいは GSP プラス)は,FTA にも取り入れられている。
European Communities - Conditions for the Granting of Tariff Preferences to Developing Countries( DS246). パネル報告書:WT/DS246/R. 上級委員会報告書:WT/DS246/AB/R. こ の判例の意義について,詳しくは,小寺智史(2009)「ガット・WTO における最恵国待遇原則と 一般特恵制度の関係」日本国際経済法学会編『国際経済法学会年報』第18号,109~126頁。川島 富士雄(2005)「EC の途上国に対する関税特恵の供与条件(GSP)事件」公正貿易センター『ガッ ト・WTO の紛争処理に関する調査 調査報告書XV』213~251頁参照。
2006年の「グローバル・ヨーロッパ」戦略は, WTO や FTA を通じた貿易投資の自由 化と同時に,持続可能な開発を強化するために,FTA に環境保護に親和的・協調的な条項 (環境条項)を設ける必要性が謳われており,その後の「貿易, 成長, 世界問題」でも引 き継がれている。その結果,「グローバル・ヨーロッパ」戦略以降の多くの FTA において 環境条項が拡充されていると評価されている。「万人のための貿易」戦略では,FTA の 環境条項や社会条項あるいは GSP プラスが持続可能な開発や人権保護を促進するとして 今後積極的に活用していく姿勢が打ち出されている。 企業の責任ある行動については,OECD の「多国籍企業行動指針」の産業別ガイダンス の1つである「OECD 紛争地域および高リスク地域からの鉱物の責任あるサプライチェー ンのためのデュー・ディリジェンス・ガイダンス」が採択されたことを受けて, EU は, 2017年5月17日に「紛争鉱物資源に関する規則」 を採択した。この規則は,紛争鉱物(錫, タンタル,タングステン,金)の採掘が強制労働や基本的人権及び労働基準を無視した環 境で行われ,紛争当事者の武器購入等の資金源になっているとの認識のもと,EU の精錬 企業や輸入企業に対し,購入調達する鉱物資源がこうした紛争鉱物に当たらないことを確 認する事前調査(デュー・ディリジェンス)の実施を義務付けるものである(2021年1月 1日施行予定)。「万人のための貿易」戦略では,責任あるサプライチェーン管理を謳い, 企業の社会的責任の一層の促進とこうした事前調査の適用分野及び地域の拡大を提唱する。 このように,「万人のための貿易」戦略では,環境条項,社会条項,企業の社会的責任 をも通商政策に組み入れ,環境や人権保護といった欧州共有価値の実現を図る姿勢が一段 と強く謳われている。市民社会からの強い批判や懸念に加え,加盟国議会及び地方議会か らの反発や圧力も強まっていることもその背景にある。 2009年12月に発効したリスボン条約により,共通通商政策に関する権限が EU の排他的 権限に属することとなったのであるから,FTA は本来 EU が締結すればよいはずである。 しかし,政治的に重要な FTA を敢えて混合協定とみなして, 加盟国による条約締結手続 を経る慣行が確立しつつある。2016年7月,理事会はドイツやフランス等の要求に応じカ ナダとの FTA を混合協定とみなし EU と加盟国の両者が締結することを表明した。10月 14日,ベルギーのワロン地方議会はカナダとの FTA の署名に反対した。 ベルギーは連邦
(2017),“ Conditional or Promotional Trade Agreement - Is Enforcement Possible ? How International
Labor Standards Can Be Enforced through US and EU Social Chapters”, Fredrich-Ebert-Stiftung.
関根豪政(2013)「EU の自由貿易協定(FTA)の特徴と影響―環境関連条項を中心に―」日 本 EU 学会編『日本 EU 学会年報』第33号,104頁。