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ミャンマーの政治経済は,2011年の民政移管後どの ように変わったのか

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ように変わったのか

著者 西澤 信善

雑誌名 社会科学

巻 48

号 4

ページ 139‑167

発行年 2019‑02‑28

権利 同志社大学人文科学研究所

URL http://doi.org/10.14988/pa.2018.0000000390

(2)

《研究ノート》

ミャンマーの政治経済は,2011 年の民政移管後 どのように変わったのか

西 澤 信 善

本稿は,ミャンマーが 2011 年に民政移管に踏み切ってから政治,経済そして国際関 係がどのように変化したのか概観したものである。政治では民主化と連邦制国家樹立 の課題に,経済では外資依存型の開発戦略にそして国際関係では欧米諸国,日本およ び中国との関係等々に焦点を当てながら現状分析を試みたものである。ミャンマー国 民が民政に期待したものは民主化の実現,経済発展そしてビルマ族を少数民族がとも に手を携えた真の意味での連邦制国家の樹立である。テインセイン政権がまず取り組 んだ民主的な改革は,政治犯の釈放,長年対立関係にあったる民主派との和解,メディ アの自由化などであった。これらは一つ一つ重い意味を持つ。同政権は民主的改革に ついては一定の成果を上げたといえる。欧米諸国はこれら一連の民主的改革を評価し て経済制裁の段階的解除に踏み切った。これに呼応するかのように外資が流入してく るようになり経済が活気づいた。しかし,長年の宿弊である民族間対立を解消する課 題は「スーチー政権」に持ち越された。しかし,同政権になって長年くすぶっていた ロヒンジャー問題が激化し,少数民族問題とともに政権運営をきわめて困難にしてい る。欧米諸国は政府の対応に批判を強めたことから外資の流入が鈍化し,経済もやや 停滞気味である。この困難な事態をどう切り開くのか,「スーチー政権」に重くのしか かっている。

は じ め に

1948 年の独立以来,ミャンマーを苦しめたものが二つある。一つは,ビルマ族の支配 に反発する少数民族の一部が武装化して反乱を続けてきたこと,もう一つは,社会主義 の呪縛を長らく脱することができなかったことの二つを指摘しておきたい。前者につい ては,不幸なことに,反政府武装勢力と戦闘はいまだに続き国家統一が実現していない。

後者については,ミャンマーは独立後一貫して社会主義の実現を目指してきた。1962 年 に軍事クーデターで権力を掌握したネーウィンは,本格的に社会主義建設に乗り出す。し かし,この「ビルマ式社会主義」と称される時代にミャンマーは最貧国の底に沈んだ。続

(3)

く軍政時代(1988 〜 2011 年)に社会主義を放棄し,改革開放に転じたものの軍の強権的 な民主派弾圧が国際社会の反発を呼び,欧米諸国から経済制裁を科されたことにより政 策転換の実を上げることはできなかった。その結果,民政移管が実現した 2011 年の時点 では,経済的遅れも深刻であった。質の高い労働力を豊富に有し,自然資源も豊かなミャ ンマーのポテンシャリティーは決して低くない。そのミャンマーが長年,経済停滞に苦 しんだのも,偏に経済政策の失敗による。

本稿は,ミャンマーが 2011 年に民政移管に踏み切ってから政治,経済そして国際関係 がどのように変化したのか概観したものである。政治では民主化と連邦制国家樹立の課 題に,経済では外資依存型の開発戦略そして国際関係では欧米諸国,日本および中国と の関係等々に焦点を当てながら現状分析を試みたものである。

1 政治の課題

2011 年 3 月,軍政から民政への移管が行われたが,これは国民の大きな期待のもとに 実現したものである。2010 年の総選挙は,

NLD(国民民主連盟)が政党法に阻まれボイ

コットを余儀なくされ,

USDP(連邦団結発展党)に対抗する有力な政党を欠く中で実施

されたもので

USDP

の圧勝は予想されたものであった。それから約 8 年の歳月が流れた。

この間,2016 年 3 月までは軍出身で

USDP

を基盤とするテインセインが大統領に就任し 政権を担当した。もちろん,民政移管そのものが自己目的ではない。その目的とするも のは,民政に国民の意見を反映させ国民の悲願である国家統一と貧困からの脱出を実現 することである。国民の多くは,軍をバックにするテインセイン政権に反発しつつも,他 面,新生ミャンマーを同政権に託さざる得ない複雑な感情を持っていたに相違ない。し かし,テインセイン政権は大方の疑念を払拭するかのように次々と改革の手を打った。こ れは,政治のみならず経済,国際関係に及ぶ広範囲なものであった。特筆すべきことは,

政治改革を他の改革に先行させたことである。今にしてみればこれは極めて戦略的であ り,民主的改革によって欧米諸国との関係改善が進展し,これが経済の開放化にも好影 響を与えたのである。

1.1 画期的なテインセイン政権1)

1.1.1 民主的改革

民政移管が実現した時,国民が強く望んだことは次の三点,すなわち,民主化の実現,

(4)

経済発展そしてビルマ族と少数民族との対立を解消し国家が真の意味で統一されること である。まず,テインセイン政権が取り組んだのは,民主化の実現であった。就任直後 から矢継ぎ早に改革の手を打った。その主なものは,政治犯の釈放,民主派との和解,海 外へ逃亡していた反政府活動家の帰国呼びかけ,メディアの自由化などである。これら は一つ一つ重大な意味をもつ。軍政時代,スーチーは長らく自宅軟禁の措置をとられて いたし,NLDや反政府的傾向の活動家は多数投獄されていた。また,一般市民でも政府 をわずかでも批判すると逮捕され厳罰に処せられた。まさに恐怖政治が行われていたの である。欧米諸国がもっとも強く批判したのはこうした非民主的な抑圧体制であり,そ してテインセイン政権に強く要望したのは政治犯の釈放であった。同政権はこうした批 判に応えるべく,2011 年から 12 年にかけて数度にわたり政治犯の釈放に踏み切り,大半 の政治犯を釈放したとみられている。言論の自由化措置を講じたのも社会に大きなイン パクトを与えた。それまでのミャンマーでは,言論,情報は軍政の強い統制下におかれ ていた。テレビは国営で運営され,政府系の新聞のみが発刊され,これらのメディアは 政府の動向およびその見解を伝えるだけであった。メディアが自由化されたことにより,

各種の新聞,雑誌,本等の出版物が一気に噴き出すかのように発刊された。もちろん,こ れらの中には政府に対して批判的な立場をとるものも含まれていた。

さらに,長らく対立を続けてきたスーチー率いる民主派との対立に終止符を打つため

NLD

の合法化に道を拓き,政治活動の自由化を認めた。2010 年の総選挙の時は

NLD

を 封じ込め選挙から締め出していたのであるが,その復権を認めたのであるから,これも 大きな意義をもつ。2012 年 4 月には連邦議会の補欠選挙が行われ,NLDが 43 議席を獲 得して圧勝した。スーチーも下院議員に立候補し,当選して国会議員の資格を得た。以 降,スーチーは活動の中心を国会に移していく。しかし,上院,下院ともそれぞれの議 席の 4 分の 1 は軍人に割り当てられており,また,選挙による議席の大半は

USDP

系の 議員によって占められており,国会でのスーチーの活動はきわめて制約されたもので あった。

1.1.2 欧米諸国との関係改善

欧米諸国との関係改善をとりつけたのも,テインセイン政権の成果の一つといえる。上 述の一連の民主的改革をいち早く反応したのが,批判的立場をとっていた米国,EU(欧 州連合)そして日本であった。これらの国々はテインセイン政権の一連の取り組みを評 価し,政府の要人を派遣し関係改善に動きだした。とりわけ注目すべきは,2011 年 11 月

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から 12 月にかけて実施された米国のクリントン国務長官(当時)のミャンマー訪問であ る。同長官はテインセイン大統領のほかスーチーにも面会し,民主化の動きを評価する とともにそれがもし順調に進めば相応の措置をとるとして経済制裁の解除に言及した。

当時,米国が科していた経済制裁とは,①米国企業による新規投資の禁止,②金融サー ビスの凍結,③ミャンマー製品の輸入禁止,および④財務省の制裁リストに記載された 個人や企業との取引禁止,などであった。2012 年 1 月の政治犯釈放(その中にはキンニュ ン元首相や民主化運動活動家のミンコーナインらが含まれる)の際には,当時のオバマ 大統領は「民主的改革に向けての大きな第一歩だ」と歓迎の意を表明した。そして,2012 年に経済制裁の解除に動き,同年中に①から③の制裁は基本的に解除された。

EU

および

EU

加盟諸国もテインセイン政権の民主的改革を高く評価し,関係改善を図 るとともに経済制裁解除に動いた。

EU

は軍政の民主化運動の弾圧や人権侵害を厳しく批 判し,大統領,副大統領,国会議員,両院議長など政府要人のビザ発給を停止していた が,これを 2012 年 1 月の

EU

外相理事会でこの措置を解除した。2013 年 4 月には対ミャ ンマー経済制裁を解除し,同年 7 月には適用を除外していた一般特恵関税(GSP)を復 活し,ミャンマーからの輸入品に優遇された税率を課すことにした。英国のヘイグ外相

(当時)は 2012 年 1 月ミャンマーを訪問し,テインセイン大統領や外相と会談し,ミャ ンマーの一連の改革の取組みを評価し,教育,保健分野に 1 億 8500 万ポンドの援助を実 施することを明にした。また,同じ時期にミャンマーを訪問したフランスのジュペ外相

(当時)も,教育,保健,農業の分野に年 300 万ユーロの支援を行うことを表明した。

欧米諸国とミャンマーとの経済関係はそれほど深くない。その欧米諸国が経済制裁を 解除したところでミャンマーへの影響は限定的と考えられる。それが大きな意義を持つ のは,ミャンマーとの関係が深い日本の政府および企業の行動に大きな制約要因になっ ていたからである。米国がミャンマーに経済制裁を科している間は,日本が独自に援助 を実施しようとしても同国の横やりが入り思うに任せなかったのである。また,企業が ミャンマーに投資したとすると米国での経済活動が困難となり,これが日本企業のミャ ンマー投資に抑制的に働いたのである。つまり欧米諸国の経済制裁は日本政府の援助と 企業のミャンマー投資の手かせ,足かせとなっていたのである。民政移管前のミャンマー への日本企業の投資は額も低調で,中小企業が中心であったのはこの辺の事情が関係し ていたのであろう。

(6)

1.1.3 国家統一の課題

ミャンマーの悲劇は,独立以来,多数民族のビルマ族とその支配を嫌う少数民族との 対立が一貫して続いてきたことである。一部の少数民族は武装化し中央政府に反抗を続 けてきた。1988 年 9 月の軍事クーデターで権力を掌握した軍は,民主化運動が反政府武 装グループと結びつくのを恐れ,ゲリラ化して抗争を続ける少数民族グループの帰順化 に力を入れてきた。大方のグループと合意にこぎ着けたものの,後になって一部の武装 組織は合意を破棄し中央政府と再び対立の関係にある。こうした武装グループはミャン マーの周辺地域,すなわち,中国やタイの国境周辺に活動拠点を有しており,これらの 周辺諸国との貿易や人の移動に重大な障害になってきた。このことがミャンマーの経済 発展を阻害する大きな要因になっていたのである。

テインセイン政権も武装少数民族との和解を重視し,和平交渉に力を入れてきた。こ の点に関し一つの成果とみなされるのは,2012 年 1 月にカレン州の東部にあって頑強な 抵抗を続けてきたカレン民族同盟(KNU)と停戦協定に漕ぎつけたことを指摘できよう。

さらに,同年 5 月に政府と少数民族側との間で和平交渉団が結成された。2013 年 11 月,

両者の間で,戦闘行為の全面停止,政治対話の枠組み協議,政治対話の三つのステップ を踏んで交渉を進めることで合意をみた。この合意は和平交渉を進めるうえできわめて 重要な意義をもつ。他方,2015 年 2 月にはコーカン自治区で国軍とミャンマー民族民主 同盟軍(MMDAA)との間で軍事衝突が起こった。こうした動きがあったものの 2015 年 3 月には 13 年 11 月の合意に基づき,両者の間で歴史的な停戦協定を締結するに至った。

この協定が効力をもつためには,16 の組織が署名することが必要である。同年 10 月には カレン民族同盟,パオ民族解放機構など 8 つの組織が署名に応じたが,カチン独立機構

(KIO),ワ州連合軍(UWSA)などは署名に応じず,全国規模の停戦には至らなかった。

この問題は,結局次期政権に持ち越された。

テインセイン政権は,民主化の実現,経済制裁の解除,経済発展の道筋をつけた等の 点でそれなりの実績を残したと言える。むしろ,国民の多くが期待していた以上に成果 をあげたといえるのではないか。とりわけ,野党であった

NLD

に合法化の道筋をつけ,

スーチーにも自由な政治活動を認めた意義は大きい。また,言論の自由を認めたことは,

それまでの「もの言えば唇寒し」のミャンマー社会を大きく変えたことは間違いない。し かしながらミャンマー長年の積弊である少数民族問題だけは解決にいたらなかった。あ る意味では,この問題の解決の難しさを示しているといえる。憲法の規定により大統領 および連邦議会議員の任期は 5 年である。2015 年 11 月,民政移管後の初めての総選挙が

(7)

実施され,

NLD

の圧勝,USDPの完敗という結果に終わった。テインセイン政権の実績 にもかかわらず,この結果に終わった。テインセイン政権の任期は 2016 年 3 月で終わり を告げることになった。

1.2 国民待望の「スーチー政権」の誕生 1.2.1 困難な船出

まず,「スーチー政権」(通常,政権の前には大統領の名前を付すがスーチーは国家顧 問であるので同政権には「 」をつけることにする)の誕生となる 2015 年 11 月の選挙 結果を見ておこう2)。ミャンマーの連邦議会は民族代表院(上院)と人民代表院(下院)

の二院制をとり,定数はそれぞれ 224 および 440 である。各院とも定数の 4 分の 1 は軍 人枠に充てられている。したがって,選挙で選ばれる議席数は,上院については各管区 および各州から 12 名づつ選出される。すなわち,管区および州はそれぞれ 7 つあり,し たがって 7 管区,7 州からそれぞれ 84 議席,計 168 となる。他方,下院については各郡 から 1 議席づつ選出されるが,郡の数は 330 あり,したがって,下院の定数は 330 議席 となる。ただし,治安の関係で選挙が実施されなかった郡もあり,実際,選挙が実施さ れたのは 323 郡であった。NLDは上院で 135 議席(定数に対する議席占有率 60.2%),下 院で 255 議席(同 58.9%)を獲得し,圧勝した。両院において過半数の議席を得たこと により,NLDの政権担当が決まった。2016 年 3 月,総選挙の結果に基づき

USDP

から

NLD

への政権交代が実現した。テインセインはそれなりに実績を上げた大統領である。

民主的改革を断行し,経済制裁を取り除き,そして経済発展に道筋をつけた。しかしな がら選挙では大敗した。この選挙結果を見る限り,テインセイン政権の実績にもかかわ らず国民は軍の長年にわたる圧政に強い拒否反応を示したと言えよう。選挙結果を受け て,テインセイン政権に代わり本格的な民政(文民政権)が発足した。大統領に就任し たのはティンチョーである。スーチーは憲法の規定で大統領にはなれず,国家顧問兼外 相に就任した。(なお,2018 年 3 月ティンチョーは病気で退陣し,新大統領にはスーチー と緊密な関係にあるウィンミン下院議長が就任した。)ただし,NLDはスーチーが実質 的な権限を握っており,新政権は事実上の「スーチー政権」とみなされている。

スーチー率いる

NLD

は,国民の大きな期待を背負って政権の座に就いたと言える。し かし,国民の期待に応えられるかは別の問題である。この点に関して次の二点を指摘し ておきたい。第一に,スーチーが登場した局面は,前政権のそれよりもはるかに難しい 局面ということである。テインセイン政権は確かに民主的な改革を断行して実績を上げ

(8)

た。しかしもとを質せば,軍政下でとられた各種の非民主的措置を解除したに過ぎない。

軍をバックにする同政権ならば必ずしも困難なものでない。ただ,少数民族問題の解決 はテインセイン政権でもなしとげることはできず,「スーチー政権」に持ち越された。こ れが同政権の最大の懸案事項になっている。また,ロヒンジャー問題が激化したことが 挙げられる。軍の掃討作戦がロヒンジャーの迫害と受け止められ,国際社会の厳しい批 判を浴びた。この問題は誰が政権を担当しても解決は容易ではない。

第二の問題は,軍との関係である。ミャンマーの場合,民政移管といっても完全に権 力が政権与党である

NLD

に移譲されたわけではない。もちろん,民政移管によって軍の 権限は大きく縮小されたことは間違いないが,軍が隠然たる権力を有していることは間 違いない。要するに,民政移管された今でも権力が一元化されておらず,権力は二重構 造になっている。言葉の上では文民統制が言われているが,実態はそうではない。端的 いえば,軍は「スーチー政権」の自由度の制約要因になっているといえる。たとえば,

「スーチー政権」が直面する少数民族武装組織との戦闘や激化するロヒンジャー問題など では軍の意向を尊重せざるを得ない立場にある。軍は少数民族問題でもロヒンジャー問 題でも強硬姿勢を崩さず,そのためスーチーが国際社会から求められている人道的,譲 歩的な対応をとるのは難しい状況におかれている。

スーチーが国民の大きな期待を担って権力の座についてから 2 年半の歳月が流れた。こ の間の「スーチー政権」はどのような実績を示したのだろうか。実は,肝心な点,すな わち,少数民族問題,ロヒンジャー問題そして経済実績の面でも十分な成果を上げたと は言い難い。スーチーは政権運営 1 周年にあたり,国営テレビを通じて次のように述べ ている。「われわれは 50 年以上にわたる軍事政権の結果として困難な問題を相続した」と

3)。確かに,少数民族問題にしてもロヒンジャー問題にしても,解決は容易ではない。こ れらについては次項でより詳しくみることにする。

1.2.2 連邦制国家の樹立

独立以来,ミャンマーはビルマ族と少数民族と対立によって分断されてきた。これが 国の統一とミャンマーの社会経済発展をいかに妨げてきたか論を俟たない。国民がスー チーに期待したものは何か。おそらく国民が最も強く望んだのは,テインセイン政権で も成しえなかった少数民族との和解ではないか。国民の悲願である国家統一こそ,国民 がスーチーに託したものである。過去の歴史が教えることは,中央集権的な統治体制そ して少数民族に対する強圧的な姿勢ではもはや何も解決できないということである。今

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後,ミャンマーの国づくりはビルマ族と少数民族とが手と手を取り合って共存共栄を図 る連邦制国家の樹立であろう。そのために少数民族が多く住む州に大幅な権限移譲を行 う必要がある。どのような連邦制国家になるのか,少数民族側との合意はまだない。し たがって,国民にはまだそのビジョンが提示されていない。そもそも停戦合意に至って いないいくつかのグループがある。

「スーチー政権」も国民和解を最重要課題と位置づけ,和平会議いわゆる「21 世紀のパ ンロン会議」を立ち上げた。第 1 回の「21 世紀パンロン会議」が 2016 年 8 月 31 日から 会期 5 日間の予定でネピドーにて開催された。政府および議会関係者,軍人,政党関係 者,少数民族の代表者約 700 人が参加した。18 の少数民族武装組織の代表が参加した。そ の中にはワ州連合軍(UWSA)も含まれている。ただし,ミャンマー民族民主同盟軍

(MNDAA),タアン民族解放軍,アラカン軍などは武器の放棄を約束しなかったために参 加は認められなかった。今回の会議は,信頼醸成が目的で実質的な成果を目指していた わけではない。この会議の終了後,6 か月ごとに開かれる会合で治安,言語,文化,資源 の所有権などが話し合われる4)。同会議は,その後,2017 年 5 月そして 2018 年 5 月にそ れぞれ開催され,計 3 回開かれたことになる。しかし,これまでのところ目立った成果 は伝えられていない。この問題の解決の難しさを示すものである。

この間も国軍と武装勢力の衝突が続いている。比較的大きなものとして,2017 年 3 月,

コーカン族の武装組織であるミャンマー民族民主同盟軍(MMDAA)がコーカン自治区 の行政首都ラオカイの警察署とホテルを襲った事件がある。危険を避けて約 2 万人の住 民が,中国に逃げ込んだという5)。MMDAAは中国の影響が強い組織と言われており,

2015 年 2 月にも大規模な衝突を起こしている。ラオカイの支配権の奪回が狙いという。同 年の 8 月以降,国軍と武装勢力との戦闘はむしろ激化している。ミャンマーの北部や東 北部には,カチン独立軍,タアン民族解放軍,ミャンマー民族民主同盟軍,アラカン軍 などが活動の拠点としているが,11 月にシャン州北部で国軍との衝突があった。紛争の 影響で 1 万 5 千人が中国側に避難したという6)。政府はこれらの組織と話し合うための和 平会談を提案した。他方,2018 年 2 月に 2 つの反政府武装勢力が全国停戦協定(NCA)

に署名した。この 2 つの組織とは,新モン州党(NMSP)とラフ民族連盟(LDU)であ る7)。テインセイン政権時代に 8 つの少数民族武装組織が署名しており,これで署名した 組織は 10 になった。

実は,州では

NLD

に対する期待感は急速に萎んでいる。それを示すのが,2017 年 4 月 に行われた補欠選挙である。この選挙は,中央政府および地方政府の閣僚に任命された

(10)

議員は辞職しなければならす,その欠員をうめるためのものである。争われた 19 議席の うち 9 議席を

NLD

が獲得した。しかし,少数民族が多く居住する州ではほとんど議席を 獲得することができなかった。ラカイン州ではアラカン民族党が

NLD

を破って議席を得 た。モン州では

NLD

の候補は,USDPの候補に敗れた8)。この選挙結果は,「スーチー 政権」の進める民族和解工作が少数民族側にさほど評価されていないことを示すもので あろう。

1.2.3 ロヒンジャー問題9)

民政移管後,大きな国際問題にまで発展したものにロヒンジャー問題がある。ミャン マー政府の主張によれば,ロヒンジャーとはバングラデシュから不法に流入し,ミャン マー・ラカイン州北部に居住しているイスラム教徒のベンガル人を指す。ただし,ミャ ンマー政府はロヒンジャーという呼称すら使っていない。スーチー国家顧問も当然,ロ ヒンジャーとは言っていない。つまり,不法移民であるからミャンマーの少数民族の一 つとしても認められていない。彼らは無権利状態におかれ,差別的な取り扱いを受け,し ばしば,仏教徒のミャンマー人と衝突を繰り返してきた。ロヒンジャー問題は長い歴史 を持つが,民政移管後の動きをみても鎮静どころかむしろ激化する方向にある。2012 年 6 月には,ロヒンジャーとラカインのミャンマー人と大規模な衝突が起こり,200 人以上 の死者をだしたが,その大半はロヒンジャーであったといわれている。ラカイン州には 過激な反ロヒンジャー仏教徒のグループもあり,ロヒンジャーの排斥運動を展開してい る。これまで平和裏に共存していた人たちの間にも反目が広がっている。こうしたこと からロヒンジャーのミャンマーからの脱出が続いており,難民化している。2015 年にも 海路で脱出するロヒンジャーが激増したが,周辺諸国は面倒な問題を抱えたくないとし て彼らを難民として受け入れることを拒否している。難民が漂着した国では,彼らを不 法移民として扱っている。

追い詰められたロヒンジャーの一部は過激化し,2016 年 10 月には武装集団の襲撃事件 があった。アラカン・ロヒンジャー救済軍(ARSA)が,「ロヒンジャーの権利を守り,

先祖伝来の土地を取り戻す」と犯行声明を出した10)。これによって国軍の掃討作戦を受 け,ロヒンジャーが多数殺害され,女性は強姦され,家が焼かれたという。2017 年 2 月,

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は,この動きを「人道に対する罪」の可能性が高 いとしてミャンマーを非難した。国連の人権理事会は人権侵害の実態解明のために調査 団の受け入れを採択した。しかし,ミャンマー政府は,国連がラカイン州北部に調査団

(11)

の派遣を決めたことに対しては,派遣拒否を表明した。同年 7 月になり,国際社会の非 難をかわす目的で,李亮喜・国連特別報告者を調査活動をしないことを条件に受け入れ ることを認めた。2017 年 8 月 25 日,再びアラカン・ロヒンジャー救済軍(ARSA)が警 察署などを襲撃し,その後,治安部隊との激しい衝突が起きた11)。国軍の掃討作戦は激 しさを極め,多数のロヒンジャーがミャンマーを追われ,バングラデシュに逃げ込む事 態が起こった。その数は 70 万人にも達する大量脱出である。

ミャンマーが国際社会から厳しい非難を浴びたのは,掃討作戦の過程で非人道的な虐 殺,レイプ,放火などが行われたという点である。国連の安全保障理事会は,9 月にミャ ンマー政府に,暴力の即時停止,人道支援の許可,難民の安全な帰還を求める決議を行っ た。もちろん,ミャンマー側は反撃はテロリストに適切に対処しただけであり,殺害,放 火,略奪,強姦などは一切行っていなと否定している。双方の主張は真っ向から対立し ており,平行線をたどったままである。11 月にも安保理はミャンマー国軍を非難する議 長声明を全会一致で採択した。なお,中国に配慮し,声明にとどめ決議案採択は見送っ た12)。この点に関して接点を見出すのは極めて難しい状況にある。人権派の旗手とみな されているスーチーは国際社会の批判の矢面に立たされている。ノーベル賞を返上せよ との声も上がる。他方,ロヒンジャーよりの姿勢を示せば,軍ならびに国民の強い反発 も予想され,極めて困難な立場に置かれている。

2 経済の課題

2.1 経済概況

国民経済の発展は,民主的国家の樹立,民族和合による国家統一と並んで国民の悲願 というべき課題である。半世紀前には,ミャンマーは他の東南アジア諸国と比較して遜 色のない発展ぶりを示していた。ミャンマーの経済発展に決定的な遅れが生じたのは四 半世紀にわたるビルマ式社会主義の時代である。この間に,

ASEAN

加盟諸国とは大きな 経済格差がついた。1988 年以降の軍政下で改革開放に転じたが,日本や欧米諸国に経済 制裁を科され,改革の実を上げることはできなかった。国内でも軍政と民主派との激し い対立で経済の課題は常に後回しにされてきた。民政移管が実現したとき,ミャンマー は東南アジアの国の中では最も発展が遅れたグループに属していた。前述のように,テ インセイン政権は民主的改革を先行させたが,これは明らかに経済制裁の解除を狙って いた。政治的課題の解決を先行させたが,これは経済改革を軽視していたわけではない。

(12)

国際社会も人口 5000 万人強を抱え,自然資源も豊富で潜在力の高いミャンマーに “ 最後 のフロンティア ” として大きな期待と関心を寄せている。

政府が何よりも力を入れたのは貧困削減であり,貧困国を脱し 2030 年までに経済発展 で先行する

ASEAN

諸国に追いつき中所得国の仲間入りを目指している。2010 年の貧困 線を使った貧困率は 26%であったが,貧困率を毎年 2 ポイントづつ減らし,2015 年に 16%まで引き下げることを目標にした。そのため,教育と保健サービスの充実を公約し た。さらに,非公表であるが 2010 年から 30 年までの 20 年間をカバーする長期 20 か年 計画を立案し,その期間を 4 つの 5 か年計画期間にわけ,「近代的で発達した民主国家」

の実現を目指した13)。第 1 次 5 か年計画では年平均経済成長率を 7.9%と過去のミャン マーの経済実績からすればかなり高めの成長率を設定した。この計画期間中,ミャンマー 経済を牽引するのは,工業とサービス産業である。それぞれの成長率は,11.1%と 9.8%

である。その結果,産業構造は農業主体の構造から,農業,工業そしてサービス産業の バランスの取れた構造を目標とした。テインセインも大統領就任演説で工業化の重要性 を訴えている14)。サービス産業は工業化の進展に誘発される面がある。第 1 次 5 か年計 画が成功裏に目標が達成できるよう 7 つの優先事業分野を定めている。すなわち,それ が①電力,②水供給,③農業発展,④雇用創出,⑤観光の発展,⑥金融サービスそして

⑦貿易と投資である。

マクロ経済の安定を図るために,インフレ率は経済成長率よりも,また,財政赤字は

GDP

の 5%以下に抑えることをそれぞれ目標にした。インフレに関しては軍政時代,財 政赤字を紙幣の増刷でファイナンスした。これがハイパーインフレを引き起こすという 苦い経験をしている。その轍を踏まないように慎重な財政金融政策を目指している。為 替制度に関しては軍政時代の不合理な多重為替レート制を改め,2012 年に管理変動相場 制に移行した。これによりチャットの対ドル・レートは基本的に為替の需給関係で決ま り,相場は実勢を反映するようになった。また,財政面では,国の大きな負担となって いる国営企業の民営化を打ち出した。軍政下でも民営化の必要性は叫ばれていたが,実 際上は国営工場が増えるなど改革の実は上がっていない。テインセイン政権下でも国営 企業の民営化は目立って進展したという報道はない。テインセイン政権下では,これか らミャンマーは大きく変わるとの期待から内外の投資が相次ぎ,経済は活性化した。経 済も 7%台の高い率で成長し,人々の生活も変わり始めた。

(13)

しかし,「スーチー政権」になり,経済に減速傾向がみられる。経済政策は基本的なと ころは前政権のそれを引き継いでいるとみられるが,ス―チー国家顧問は政治面での期 待は大きいが,一般の人には経済面の力量は未知数と受け止められていた。新政権が経 済政策を発表したのがその年の 7 月であった15)。ただし,わずか 3 ページの文章で,市 場経済の導入,競争の促進,インフラ整備の充実,農業の重視,貧困削減,雇用創出,外 国投資の促進,中小企業の奨励などについて大まかな方針を示すだけで具体性を欠くも のであった。従来の国民和解に加えロヒンジャー問題の激化などの国内政治に大きなエ ネルギーを割かねばならないこともあるが,経済改革が停滞している感は否めない。テ インセイン政権下で最高経済顧問のミン氏はミャンマー商工会議所連盟総会の基調演説 でスーチー国家顧問は経済開発を優先すべきと苦言を呈している。経済界からも不満の 声が上がっている。ミャンマー商工会議所連盟とコンサルタントのローランド・バーガー の共同調査によると,ミャンマー企業の国内経済に対する短期信頼度は 49%と 2016 年の 73%から大幅に落ちている。その主因は不透明な経済政策に原因があるという。また,再 び経済制裁が科されるのではないかとの疑念を抱いているのもその一因とされてい る16)。国民の間では余りにも政治的対立の時期が長かったこともあり,経済発展を望む 声が強い。米国の非営利団体・国際リパブリカン研究所(IRI)が 2017 年 3 月に行った 調査によれば,「経済は民主改革より重要と思う」と回答した人の割合は 40%で,「民主 改革は経済発展より重要」と答えた人の割合 24%を大きく上回った。この調査で興味深 いところは,両政権の評判を比較できるところである。「国は正しい方向に進んでいると

出所)Central Statistical Organization, Myanmar Statistical Yearbook 2017. p. 409.

図 1 経済成長率

7.3

8.4 8.0

7.0

5.9

0 1 2 3 4 5 6 7 8 9

2012/13 2013/14 2014/15 2015/16 2016/17

㸦㸣㸧

(14)

思う」,「経済状態はほどほどに良好」,「政府の仕事ぶりは極めて良好」との三つのステー トメントに対し,いずれもテインセイン前政権の方が高い評価を得ていることである。特 に,経済に関しては前政権に 20 ポイント以上の差をつけられており,現政権の経済政策 や改革に関しては,国民はあまり高く評価していないことになる。発足当初の過剰な期 待はやや醒めたといえよう17)

今後の経済の見通しについては,IMFは成長率を 2017/18 年度が 7.5%,2018/19 年度 が 7.6%と若干の改善を見込んでいる18)。この程度の成長率なら近隣諸国と比して遜色な い。ただし,ミャンマーが直面する問題は,まさに山積していると言ってよい。とりわ け,重要なものを指摘すれば,政治面ではロヒンジャー問題,経済面では外資の導入で ある。前者は,米国,

EU

そして国連などからかなり厳しい批判を浴びている。へたする とイスラム過激派の介入を招きかねない危険性を秘めている。後者についていえば,ミャ ンマーは外資を積極的に経済発展に活用しようとしているため,順調な外資の流入がな ければ経済発展は覚束ない。2016/17 年の

FDI

は認可ベースで前年度比 30%減って 66 億 ドルであった(図 2 参照)。2016 年 10 月新投資法が成立した19)。これにより外国企業と 国内企業との差別的な取り扱いが基本的に撤廃され,手続きが大幅に簡素化された。ま た,2017 年 4 月には農業,製造業,都市開発など 20 分野 192 事業を「投資促進分野」に 指定した20)。貿易収支の赤字は

GDP

の 10%に及んでおり,外資を梃にした輸出ドライ

出所〕上田隆文『ミャンマーの投資環境と投資関係制度』14 ページ(日本アセアンセンター主催「ベトナム・ミャン マー投資セミナー」2018 年 8 月 23 日開催)。原資料は投資企業管理局(DICA)。

図 2 投資認可額推移

1419

4107

8011

9481

6650

5718

0 1000 2000 3000 4000 5000 6000 7000 8000 9000 10000

2012ᖺᗘ 2013ᖺᗘ 2014ᖺᗘ 2015ᖺᗘ 2016ᖺᗘ 2017ᖺᗘ

100୓⡿ࢻࣝ

(15)

ブに期待がかかる。ただ,輸出の主力は資源から縫製品などの労働集約的製品に移って きていることが注目される。

2.2 開発戦略―外資依存型経済発展―

貧しい国がなぜ貧しいのかを説明するのに「ヌルクセの貧困の悪循環」という考え方 がある21)。経済発展の原動力は投資である。投資の源泉は貯蓄である。所得水準が低け れば人々は所得の大半を消費に費やさざるを得ず,貯蓄に回す余裕はない。貯蓄が少な ければ投資は低水準に留まる。投資が少なければ成長が起こらず,所得は低い水準のま まである。この低所得,低貯蓄,低投資そして低所得という循環が繰り返され,貧困か ら抜け出せないというのである。これは一国経済発展論である。しかし,今や世界の趨 勢は国を開放し,他国と貿易と投資を通じて緊密に結ばれている。前述のようにミャン マーは軍政下で改革開放に転じたが,経済制裁を科され日本や欧米諸国とは貿易も投資 も低調であった。民政移管後のミャンマーはこうした状況を打開すべく西側諸国との関 係改善を図り,本格的な外資導入を核とする開放政策に道を拓いた。いうまでもなく,外 国資本は国内貯蓄の少なさを補う意味をもっている。

しかしながら,民政移管時のミャンマーの投資環境は必ずしも良好とはいえない。テ インセイン政権にしろ「スーチー政権」にしろ,その経済面での最大の課題は外資を積 極的に呼び込むための良好な投資環境を整えることである。具体的に言えば,外資受け 入れ体制の拡充,貧弱なハード面でのインフラの改善,投資関連諸法の整備である。外 資受け入れ体制としてはミャンマー投資委員会(MIC)および企業投資管理局(DICA)

が設置されている。2014 年に機構改革がおこなわれ,

DICA

MIC

の事務局を担うとと もに人員が増員され組織強化が図られた。また,投資家の利便性を図るため

DICA

の事 務所がネピドーからヤンゴンへ移された22)

物的なインフラの整備に関しては,とりわけ重要性をもっているのは,運輸通信関係 のインフラ(道路,鉄道,港湾,空港,通信など)整備,電力そして経済特区の工業団 地の建設などである。道路に関しては周辺国,中国,タイ,インドとミャンマーの中央 部を結ぶ国際幹線道路の建設が重要性をもつ。とりわけ,インド国境のタムからマンダ レー,ヤンゴンを通り,ミャワディからタイへ抜けるルートおよび中国国境のムセから マンダレーを通り,ヤンゴンに至るルートなどが大動脈になる。鉄道に関してはヤンゴ ンとマンダレーをネピドー経由で結ぶ路線の改修,輸送能力の増強そして高速化が日本 の援助を得て進められている。通信に関しては,外国の民間資本を導入したこともあり

(16)

携帯電話やインターネットの普及が急速に進んでいる。問題は電力である。工業化とと もに電力需要が,年率 16%くらいの高い率で伸びており電力不足の状態が続いている。

ミャンマーの発電能力は水力発電が主流で乾季には電力不足が深刻になり,しばしば停 電に見舞われる。工業需要ばかりでなく経済発展とともに民生需要も拡大している。現 在,ミャンマーの一般家庭への電気の普及率は 3 分の 1 程度と言われており,改善の余 地は大きい。この電力不足が実は企業進出の一つの障害になっている。すでにミャンマー に進出している企業でも自家発電の装置を備え付けているところも多い。政府はミャン マーで産出する天然ガスを使った火力発電所の建設を進めているが,増大する需要に追 い付かない状態が続いている。

ミャンマー全体としてみればインフラの整備状況はまだまだであるが,ある特定の区 域に電力や水のインフラを整備して企業を呼び込もうとする構想がある。これが経済特 区に指定されたところの工業団地の建設である。現在,チャウピュー,ティラワそして ダウェーに経済特区構想があるが,その中でもっとも進んでいるのが,ティラワの経済 特区である。これは 2013 年に日本とミャンマーの官民合同事業としてスタートしたもの であるが,2015 年には正式開業にこぎつけている。全体の開発計画は 2400 ヘクタールあ り,ゾーン

A

およびゾーン

B

は完工している。第 2 期の 77 ヘクタールは 2019 年 8 月の 完工予定となっている。2018 年 6 月現在,認可済み企業は 96 社に上る23)。ここで多数の 雇用がうまれることをミャンマー政府は期待している。

テインセイン政権下で外国投資法が改正されたが,2016 年 10 月に国民向け投資法と外 国投資法が統合された新投資法が制定された。この新法によって内資も外資も同様の取 り扱いを受けるようになった。この法律の一つの特徴は租税免除措置で,経済振興に役 立つとみなされた投資が免除対象になる。免除期間は開発が進んでいる地域の投資が 3 年 と短く,開発が遅れている地域ではより長くなっている。ミャンマー投資委員会の認可 は,資本集約型,環境への影響がある事業そして政府が戦略的要素があるとみなす事業 のみで,それ以外の投資案件は投資委員会に届けるだけでよくなった。しかし,内資と 外資が同様の扱いを受けるということは競争力の弱い内資が不利な状況に置かれること になる。以前は飲食店,デパート,タクシー業などは外資の参入は認められていなかっ た。したがって,この法律に関しては国内の業者からは不満の声も漏れる24)。また,2017 年 12 月には新会社法が制定された。旧会社法は 1914 年に制定されたもので 1 世紀ぶり の改定となる。旧法では 1 株でも株式を保有すると外資の規制対象となったが,新法で は外資の出資比率が 35%以下であれば,外資の規制対象にはならない。また,これまで

(17)

外資の参入が規制されていた工業機械,薬品などが開放されることになった25)

2.3 外国貿易 2.3.1 概観

開放政策の外国投資と並ぶもう一つの要は,外国貿易の振興である。発展の初期の段 階にある途上国の場合,人口が多くても人々の所得が低いために国内市場は狭隘である。

勢い,輸出に頼らざるを得ない。ASEAN加盟諸国の事例をみても,経済発展を牽引した のは輸出である。ミャンマーの場合,輸出品の大半を天然ガスや農産物などの一次産品 が占めている。これはある意味では工業化の前に外貨を稼げるという極めて有利な状況 にあるといえよう。テインセイン大統領の就任演説にもみられるように,ミャンマーは 決して資源輸出国に甘んじようとしているのではない。多数の雇用を生み出す工業化は,

農業開発と並び最も高い優先順位が与えられている。ミャンマーも工業化の初期にあり,

裾野産業が育っているわけではない。したがって,工業化のためには,資本財,部品そ して原材料を輸入しなければならない。また,ミャンマーでも民政移管後の経済活性化 により中間層や一部であるが富裕層も形成されつつあり,消費財の輸入も増えている。と りわけ自動車の輸入が急増している。

出所)Central Statistical Organization, Myanmar Statistical Yearbook 2017. p. 409.

注 1 貿易額には国境貿易の額を含む。

注 2 2016/17 年の数字は暫定。

図 3 貿易統計

91.4 89.8

112 125.2

111.4 119.5

90.4 90.7

137.6

166.3 165.8 172.1

0 50 100 150 200

2011ᖺᗘ 2012ᖺᗘ 2013ᖺᗘ 2014ᖺᗘ 2015ᖺᗘ 2016ᖺᗘ

㸦൨ࢻࣝ㸧

㍺ฟ ㍺ධ

(18)

2.3.2 輸出

ミャンマーの主な輸出品は,表 1 から明らかなように,農産物,天然ガスそして衣料 品がビッグ・スリーである。2016/17 年の場合,これら上位 3 品目で総輸出額の半分を占 めている。そのほかの輸出品は,海産物,木材,宝石を含む鉱物資源である。農産物の 中で最大の輸出額を占めるのが豆類である。ミャンマーは多種の豆類を産出する。かつ てコメはミャンマーの最大の輸出品であったが,現在では輸出農産物の第 1 位の座を豆 類に譲りかつての面影はない。しかし,2016/17 年には 69 万トンを輸出し民政移管後で は最大になっている。天然ガスは軍政時代から外貨の獲得源として注力されてきた。民 政移管後もテインセイン政権下では 30 数億ドルの外貨収入を稼ぎ,増大する輸入をファ イナンスする重要な役割を果たしてきた。天然ガスの主たる輸出先はタイであったが,

チャウピュー〜昆明間にパイプラインが完工したことにより,このパイプラインを通じ てヤカイン州沖の油田から産出される天然ガスが中国に送られている。輸出品の中で注 目すべきはやはり衣料品である。輸出額をみると 2010/11 年の 3.8 億ドルから 2016/17 年 には 18.7 億ドルへまさに急増という状況である。縫製業には中国,韓国,日本などの業 者が進出しているが,経済制裁解除の影響が大きい。2013 年 7 月に

EU

が 2016 年 10 月 には米国が,制裁解除の一環としてミャンマーからの輸入品には低い関税率を適用する 一般特恵関税制度(GSP)の復活を決めた。

表 1 主な輸出品

(単位:億ドル)

輸出品 2005/06 2010/11 2012/13 2013/14 2014/15 2015/16 2016/17 農産物

   米   豆類 海産物 木材 鉱物 宝石等 天然ガス 衣料品 その他

4.4 0.4 3.2 2.0 4.7 1.1 2.3 10.8 2.7 7.5

12.3 2.0 8.0 2.9 5.9 0.4 20.3 25,2 3.8 17.7

12.5 2.1 8.5 3.7 5.7 0.7 0.1 36.7 7.0 23.2

10.6 10.6 1.3 2.1 9.0 1.1 6.0 33.0 8.8 41.4

12.4 1.5 9.5 1.6 0.4 4.3 2.8 37.1 10.2 56.4

12.2 1.0 9.9 1.9 1.1 3.5 2.8 25.1 8.6 56.1

14.1 2.0 10.5 2.2 1.2 4.7 1.5 17.3 18.7 59.7

合計 35.6 88.6 89.8 112.0 125.2 111.4 119.5

出所)Central Statistical Organization, Myanmar Statistical Yearbook 2017. p. 411.

注:animal productsは金額が小さいため除去している。

次に輸出先の地域および国を見てみよう。表 2 から分かるように,ミャンマーの輸出 先地域・国は圧倒的にアジアである。アジアでも東南アジア,中国そしてインドなどの 近隣接地域・国である。東南アジアでもっとも重要な取引国はタイである。タイはマル

(19)

タバン沖のガス田から産出する天然ガスをミャンマーから輸入していることもあり,軍 政期から民政期にかけてもミャンマーからの重要な輸出先国であった。しかしながらタ イに代わってミャンマーからの輸出品の最大の仕向け先となったのが中国である。中国 への輸出額がタイのそれを上回ったのは,2015/16 年のことである。民政移管後,中国と 一定の距離をおく動きが見られたが,これを見てもわかるように経済的にはむしろ関係 が深まっているといえる。輸出先の分析からみえてくることは,東南アジア,中国そし てインドのウェートが圧倒的に高いことがわかる。これらの地域・国の総輸出に占める 割合は,2016/17 年の場合,実に 76%を占めている。ミャンマーは成長著しい地域,国々 に囲まれ地理的優位性をもっているといわれているが,まさにそのことを生かした輸出 先構造になっている。

表 2 主な輸出先地域および国

(単位:億ドル)

2005/06 2010/11 2012/13 2013/14 2014/15 2015/16 2016/17 東南アジア

 シンガポール  タイ 他のアジア諸国  中国  インド  日本  韓国 中東 アメリカ ヨーロッパ諸国 アフリカ オセアニア その他

18.3 2.6 13.6 13.8 3,7 4.9 1.4 0.4 0.7 0.4 2.2 - 1.8 -

39.3 4.6 29.1 45.0 12.0 8.7 2.4 1.5 1.2 0.2 1.8 1.0 1.8 -

45.3 2.9 40.0 40.1 22.4 10.2 4.1 2.8 1.3 0.5 1.8 0.7 0.1 -

53.0 6.9 43.1 55.1 29.1 11.4 5.1 3.5 1.0 0.5 2.1 0.1 0.1 -

52.3 7.6 40.3 67.2 46.7 7.5 5.6 3.7 1.3 0.8 3.5 0.1 0.1 -

39.9 7.3 28.9 65.2 46.0 9.0 3.9 2.6 1.2 1.4 3.8 0.1 0.1 -

30.9 4.7 22.0 74.6 50.6 9.4 7.8 3.4 1.2 2.9 8.8 0.6 0.4 -

合計 35.6 88.6 89.8 112.0 125.2 111.4 119.5

出所)Central Statistical Organization, Myanmar Statistical Yearbook 2017. pp. 419-421.

2.3.3 輸入

軍政時代,輸入は輸出の範囲内で行うという「輸出第一主義(Export First)」がとら れていた。民政移管後は,この制約は取り払われた。その結果,輸入が輸出を大きく上 回るようになっている。民政移管直前の 2010/11 年と 2016/17 年とを比較してみると,輸 出は 1.34 倍に増加したのに対し,輸入は 2.68 倍に増加している。その結果,貿易収支は 2010/11 年の 24.5 億ドルの黒字から 2016/17 年には 52.6 億ドルの赤字に転落している。つ まり,輸入の激増に対して輸出が追い付かない状況が続いているのである。これがミャ ンマーの通貨チャットの下落を招来する最大の要因といえよう。すなわち,チャットの

(20)

対ドル・レートは 2012 年の 856.9 チャットから 2016 年には 1259.1 チャットまで下落し た(図 4 参照)。

ミャンマーの主たる財・サービスの輸入先は,中国,タイ,香港,インド,日本,韓 国,ドイツなどである。とりわけ,ウェートが高いのが,中国(香港も含む),タイであ る。社会主義時代,ミャンマーにとっては,タイは中国よりもはるかに重要な貿易相手 先であった。この時期,タイから大量に密輸品が入ってきた。状況が一変するのは軍政 になってからである。軍政になって国境貿易を公認するが,中国との関係が大幅に改善 されたこともあり,国境貿易を通じて大量に中国製品が流入してくるようになった。現 在は,国境貿易は中国とのそれが国境貿易全体の 7 〜 8 割を占め,タイとのそれを大き く上回るようになってきている。民政移管されてからも中国のプレゼンスが一層深まっ ている。

出所)Asian Development Bank, Asian Development Outlook 2017. P. 314.

図 4 チャットの対ドル・レート

856.9 964.4 995

1223 1259.1

0 200 400 600 800 1000 1200 1400

2012 2013 2014 2015 2016

ࢳࣕࢵࢺ

(21)

表 3 主な輸入先地域および国

(単位:億ドル)

2005/06 2010/11 2012/13 2013/14 2014/15 2015/16 2016/17 東南アジア

 シンガポール  タイ 他のアジア諸国  中国  インド  日本  韓国 中東 アメリカ ヨーロッパ諸国 アフリカ オセアニア その他

10.9 5.6 2.4 7.8 4.7 0.8 1.1 0.9 0.2 0.8 0.5 - 0.4 -

28.4 16.5 7.1 30.2 21.7 2.0 2.6 3.0 1.4 0.8 0.9 - 0.9 -

38.9 25.4 7.0 45.3 27.2 3.0 10.9 3.4 1.4 1.4 2.7 - 0.9 -

57.6 29.1 13.8 71.9 41.1 4.9 13.0 12.2 1.6 1.5 3.8 0.1 1.0 -

73.7 41.4 16.8 79.6 50.2 5.9 17.5 4.9 2.4 5.0 3.9 0.3 0.8 -

64.5 29.7 19.7 91.4 64.0 8.1 14.5 4.0 2.6 2.3 3.7 0.2 1.0 -

65.3 24.9 20.9 86.7 57.5 10.0 12.5 5.2 2.8 8.3 7.2 0.3 1.4 0.2

合計 19.8 64.1 90.7 137.6 166.3 165.8 172.1

出所)Central Statistical Organization, Myanmar Statistical Yearbook 2015. pp. 374-376.

ミャンマーの財種別の輸入品の構成をみると資本財と中間財がおよそ 3 分の 2 を,消 費財が 3 分の 1 をそれぞれ占めている。この構造は表 3 に示すように大きな変化はない。

資本財の主なものは,建設資材,機械類および輸送機器である。これらはいずれも民政 移管後,大きく伸びた。都市部を中心に,道路や橋,鉄道,港湾などのインフラ整備に 加え,オフィスビル,ショッピングモール,コンドミニアム,ホテル,一般住宅などの 建設ラッシュが起こり,これが建設資材への大きな需要をもたらしている。また,政府 が国策として進める工業化は,設備機械や中間財の輸入の急拡大を招いている。中間財 の場合,最大の輸入品は石油製品である。ミャンマーは産油国でありながら国内供給だ けでは全く足りず,輸入に依存している状況である。自国で産するエネルギー資源につ いては,今後は国内に向けていくことが課題となっている。他方,生産活動の活発化,生 活の利便性のために,乗用車を中心に輸送機器への需要も大きく拡大した。その結果,急 速にモータリゼーションが進み,ヤンゴンではすでに深刻な交通渋滞が起こるように なっている。消費財輸入も 2010/11 年を基準にすれば 2016/17 年にはほぼ 3 倍に増加して いる。主な輸入消費財は食品と繊維製品である。なお,中国からは国境貿易を通じて,安 価な家電製品,日用品,雑貨などが流入してきており,ミャンマーの軽工業の発達を阻 害している可能性がある。

(22)

表 4 財種別輸入品

(単位:億ドル)

輸入品 2005/06 2010/11 2012/13 2013/14 2014/15 2015/16 2016/17 資本財

 建設資材  機械類  輸送機器 中間財  原材料 消費財  食品  繊維製品

5.5 1.7 2.2 1.4 6.4 5.8 8.0 1.6 2.0

19.4 6.6 8.4 3.9 23.3 21.0 21.5 3.6 2.9

34.0 10.0 6.9 15.1 26.7 25.8 30.0 5.8 3.7

52.4 13.9 11.7 23.4 39.2 37.7 46.1 8.7 6.0

61.8 18.8 17.9 20.3 44.9 43.0 59.7 10.1 4.3

70.4 19.5 17.0 27.8 43.2 41.6 52.2 10.2 3.8

52.5 16.0 14.9 18.6 58.7 57.0 60.9 10.0 6.9

合計 19.8 64.1 90.7 137.6 166.3 165.8 172.1

出所)Central Statistical Organization, Myanmar Statistical Yearbook 2017. p. 427.

3 国際関係

3.1 日本

日本とミャンマーは戦後一貫してきわめて良好な関係にあった。ネーウィンの社会主 義時代にも日本はミャンマーに対する最大の援助国であった。しかし,1988 年軍が民主 化運動を弾圧して権力を掌握してからは事実上の経済制裁を科したことでその関係はき わめて希薄なものになった。しかし,民政移管後のテインセイン政権が大胆な民主的改 革を打ち出してからは,元のさやに戻るかのように両国の関係は急速に改善された。日 本は再びミャンマーに対する最大の援助供与国の地位に戻りつつある。すでに言及した が,これからテイクオフ(離陸)しようとするミャンマーの最大の弱点は,インフラの 未整備である。ミャンマー政府がこのインフラ整備に最も大きな期待をかけたのが日本 からの経済援助である。援助再開の障害となったのが,過去に実施した円借款の返済が 滞った累積債務の存在である。これをかなりの部分棒引きにするという特別の配慮で円 借款再開の道を開いた。その結果,巨額の円借款が実施され,鉄道改修,電力,水道整 備計画などが進み始めた。

(23)

表 5 有償資金協力案件一覧(2016 年度)

案件 交換公文締結日 金額(億円)

水力発電所改修計画 2017 年 3 月 3 日 107.87

貧困削減地方開発計画(フェーズⅠ)(第二期)

2017 年 1 月 18 日

239.79

ヤンゴン・マンダレー鉄道整備計画(フェーズⅠ)(第二期) 250.00

ヤンゴン都市圏水道整備計画(フェーズ 2)(第一期) 250.00

地方主要都市配電改善計画 48.56

農業・農村開発ツーステップローン計画 151.35

バゴー橋建設計画 2016 年 12 月 23 日 151.35

出所)外務省『2017 年版開発協力白書 日本の国際協力』(平成 23 年 2 月 23 日)197 ページ。

援助が再開されたことにより,民間資本も動き出した。かつて日本の企業の動きの遅 さは

NATO(No Action Talking Only)と揶揄された。民政移管後,日本企業は直ちに

反応したわけではない。この点に関し,筆者もミャンマー政府要人から他国に比して日 系企業の進出の遅さを懸念する声を耳にしたことがある。しかし,慎重ではあるが着実 に日本企業のプレゼンスは高まっている。日本商工会議所会員数は,2010 年度は 50 社程 度であったが,2017 年度は 376 社と 7 倍強に増加している26)。業種も貿易,金融保険,

工業,建設,流通サービス,運輸と多分野にわたっている。ただし,投資額をみると製 造業への傾斜がみられる。ミャンマーへの投資累計額は 1988/89 年から 2018 年 7 月まで の間に 768.5 億ドルに達しているが,この時点での日本の累計投資額は 11.6 億ドルで,国 別の順位でいえば 10 位に過ぎない。しかし,近年は日本の投資額は増えてきており,2017 年度は日本の投資額は 3.8 億ドルで単年度の投資額順位では 4 位に上げてきている。現 在,ミャンマー政府は急ピッチでインフラ整備を進めるとともに法制度も整えてきてお り,投資環境の改善が進めば日系企業の投資はさらに増大していくであろう。

(24)

3.2 中国

軍政時代,中国とは極めて密接な関係が築かれた。欧米諸国や日本が軍政の民主派弾 圧を批判して距離をおく中,中国は内政不干渉の立場からこれらの国が抜けた穴を埋め るかのように関与を深めていった。欧米の孤立化政策で苦境に立たされたミャンマーも 積極的に中国に接近を図り,他方,中国もミャンマーを取り込むため経済支援を惜しま なかった。こうして両国の蜜月関係が形成されたのである。民政移管により成立したテ インセイン政権も欧米諸国との関係改善に動き出し,国際社会の復帰を目指した。同政 権は経済発展にも力を入れるが,そのためには経済制裁の解除は必須であった。他方,余 りにも緊密になりすぎた対中関係の見直しに着手した。その象徴的な動きが,ミッソン・

ダム建設の凍結である。これは総投資額が 36 億ドルにも上り,中国側からは中国発電投 資,ミャンマー側からは同国の有力企業であるアジア・ワールドが参画する巨大プロジェ クトである。しかし,水没地域が広範囲にわたるうえ,深刻な環境問題を引き起こす可 能性があるため地域住民から強い反対の声が上がった。テインセイン政権もその声を無 視することができず,結局,2011 年 9 月に凍結に踏み切ることになる。しかし,これは 対中関係を決定的に悪化さすものではなく,対中外交路線のいくばくかの軌道修正に過 ぎない。西側諸国との関係改善がなされたとしても中国との関係を軽視してよい理由は 何一つない。つまり,政権の中国寄りの姿勢に批判的な世論に,ある一定程度の配慮を したとみてよいであろう。

事実,経済関係はむしろ深まったといえる。ミャンマーが改革開放に転じたことによ

出所)国際機関日本アセアンセンター主催「ミャンマー投資セミナー」(2015 年 7 月 29 日東京)配布資料 14 ページ。

図 5 日系企業の分野別投資額(100 万ドル)

307.8 68

40 31.3 20.3 50.6

〇㐀ᴗ

࣍ࢸ࣭ࣝほගᴗ

▼Ἔ࣭࢞ࢫ

୙ື⏘ᴗ

㎰ᴗ ࡑࡢ௚

図 1 経済成長率 7.3 8.4 8.0 7.0 5.9 0123456789 2012/13 2013/14 2014/15 2015/16 2016/17㸦㸣㸧
図 4 チャットの対ドル・レート 856.9 964.4 995 1223 1259.1 0200400600800 100012001400 2012 2013 2014 2015 2016ࢳࣕࢵࢺ
表 3 主な輸入先地域および国 (単位:億ドル) 2005/06 2010/11 2012/13 2013/14 2014/15 2015/16 2016/17 東南アジア  シンガポール  タイ 他のアジア諸国  中国  インド  日本  韓国 中東 アメリカ ヨーロッパ諸国 アフリカ オセアニア その他 10.95.62.47.84.70.81.10.90.20.80.5-0.4 -28.416.57.130.221.72.02.63.01.40.80.9-0.9 -38.925.47.045.327.
表 4 財種別輸入品 (単位:億ドル) 輸入品 2005/06 2010/11 2012/13 2013/14 2014/15 2015/16 2016/17 資本財  建設資材  機械類  輸送機器 中間財  原材料 消費財  食品  繊維製品 5.51.72.21.46.45.88.01.62.0 19.46.68.43.923.321.021.53.62.9 34.010.06.915.126.725.830.05.83.7 52.413.911.723.439.237.746.18.76.0 61.
+2

参照

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