• 検索結果がありません。

国際環境の変化と日本経済

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2018

シェア "国際環境の変化と日本経済"

Copied!
12
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

序 国際環境の変化と日本経済

伊藤元重

右肩上がりの経済の終焉

バブルが崩壊した 1990 年頃,1947 年生まれの団塊の世代の先頭集団は 43 歳であった.日本経済が失われた 10 年とその後半のデフレの苦しみからよ うやく抜けだそうとしていた 2003 年頃には,この世代は 56 歳になろうとし ていた.この研究プロジェクトの対象とする期間は,日本経済が右肩上がり から成熟化した社会へ大きく舵を切ろうとしていた,その難しい転換点に あったのだ.

経済社会が大きな方向転換をすることは,巨大な船が舵をきって方向を変 えるのに似た面がある.猛烈なスピードで走ってきた船の舵を切ったからと いってすぐに方向転換するわけではないし,無理に舵を切れば船は不安定に なるし,最悪のケースでは転覆してしまう.

安易なたとえ話はしないように慎重であるべきかもしれないが,過剰な経 済の過熱によって生まれたバブルとその破綻,そしてバブル破綻後の経済的 低迷の下で起きたさまざまな社会や経済の構造変化には,こうしたたとえ話 に妙に通じるところがある.

日本の対外経済関係もこうしたコンテクストで考察するといろいろと興味 深い視点が浮かび上がってくる.いつの時代であっても,対外経済関係を抜 きに,日本経済について語ることは不可能である.貿易,投資,金融などさ まざまな面での国際経済環境の変化が日本経済の動きに大きな影響を及ぼし てきた.そして,日本経済のなかの動きが,海外との貿易・投資・金融取引 のすがたかたちに反映されるという面もある.

(2)

いうまでもなく,こうした変化はバブルやデフレという現象とも深いかか わりがある.たとえば,80 年代末の不動産バブルや株式バブルを起こした 財政金融政策の動きは,1985 年のプラザ合意を受けて円ドルレートが急激 に円高に転じていることと深いかかわりがある.また,そうした為替レート の変化が,アジア諸国からの製品輸入を増やし,国内的には内需関連産業の 拡大を後押しした.このプロジェクトの時期全体を見通すために,この間の 円の実質実効為替レートの動きを見ながら考えるといろいろなことが見やす くなるかもしれない.次ページ図の円の実質実効為替レートの動きを参考に してほしい.

バブル崩壊は,こうした経済状況を大きく変えていくことになるが,為替 レートは 1995 年にピークをつけるまで,継続して円高傾向で推移していっ た.円高に対応するため,日本の多くの企業は海外での生産を拡大し,円高 の下で日本の海外からの製品輸入比率も高まっていった.国内経済はバブル 崩壊の前と後では大きな変化を遂げているが,円高の下での日本企業の海外 展開と日本経済の製品輸入拡大の動きは継続していたのだ.

日本国内がこのような大きな転換期にあった時期,アジア諸国,とくに東 南アジア諸国は急速な成長を遂げつつあった.アジア諸国の発展には日本か らの直接投資が大きく貢献している.そして日本企業はアジアでの活動を大 幅に広げていくことでグローバル展開を進めていくことになる.80 年代以 前は日本にとっての海外市場といえば欧米が中心であったが,80 年以降は アジアの重要性が非常に大きくなってきたのだ.

95 年までの日本経済は急激な円高という環境の下にあった.しかし,95 年のピークを越してからは,為替レートは円安方向に大きく振れていく.こ の円安方向への為替レートの転換は日本の国際経済取引に大きな影響を及ぼ していくことになるが,デフレ経済の下での日本の金融政策とも深いかかわ りをもっている.

90 年代の後半,日本国内の不良債権問題は深刻さを増していく.そうし た事態に対応するため,日本銀行はかつてないほど強力な金融緩和政策を行 うことになる.この時期以降為替レートが円安になっていったことは,国内 での超金融緩和政策とは無関係ではない.低金利政策が円安をもたらして いったことは,名目レートと実質レートの両面から見る必要がある.

(3)

95 年に円高のピークをつけたあとも,2000 年前後に再度円高への動きが 見られるものの,基本的にはその後一貫して円安傾向の動きとなっている. この円安の動きは,名目の円レートの引き下げに加えて,日本でデフレ傾向 が続いたために実質ベースでの円安となったことも含まれる.

為替レートの動きを日本経済の条件だけで説明することができないことは いうまでもない.しかし,この間に日本経済が不良債権問題でずっと苦しん できたこと,デフレ対策でゼロ金利に近い超金融緩和政策をとってきたこと, 日本でデフレが続いていたことなどが,この円レートの動きと深くかかわっ てきたことは容易に想像できる.95 年以降の日本経済の国際経済環境は, バブル崩壊以前の状況とはさまざまな面で正反対となっていたのだ.

バブルが進行する時期には,国内経済は活況を呈していて,為替レートが 円高に進むなかで企業は海外展開を急ぎ,海外からは大量に安価な商品が輸 入されてきている.産業構造でも流通業や不動産業など内需関連産業が好調 であった.

これに対してバブル崩壊後,とくに 95 年以降為替レートが円安に移行し ていくのと時期を同じくして,流通業や不動産業などの国内産業は厳しい状 況になっている.日本企業の海外展開は,スピードを鈍らせる結果になった. 2000 年以降は,為替レートの急速な円安の動き,国内経済の低迷と海外経 済の活性化を反映した輸出の増加などで,リーマンショック以降に問題とさ 序 国際環境の変化と日本経済 xv

170

(1973年3月=100)

160 150 140 130 120 110 100 90 80

1990 91 92 93 94 95 96 97 98 99 2000 01 02 03 04 05 06 07 08 09(年)

(4)

れた経済の過度な輸出依存が定着してしまった.

いま,世界同時不況から脱出するために,日本経済の課題は何であるのか という点について多くの議論が起きている.そうした議論を整理してみると, バブル崩壊後からデフレ期の時代の日本経済のたどってきた国際経済取引の 動きが重要な意味をもっていることがわかる.そうした意味でも,バブル・ デフレ期の国際経済の姿について考察を深めることの意義は深いと思われる.

アジアシフト

この巻の多くの論文に共通して見られる特徴は,アジアと日本の関係につ いて多くのスペースが割かれていることだ.ただし,ここでアジアというの は日中韓に ASEAN 諸国を含めた地域に限定している.この 20 年近くの間 のアジア諸国の経済発展にはめざましいものがあり,また日本にとっても欧 米中心であった貿易と投資の関係が,アジアに急速にシフトしていったとい う背景がある.

バブル発生以前の日本の貿易といえば,圧倒的に欧米との貿易であり,日 米あるいは日欧の貿易摩擦が通商問題の主たるテーマであった.しかし,80 年代以降はアジアとの貿易や投資が急激に増え,これが日本の国内の経済構 造にも大きな影響を及ぼすようになってきている.

この間,1997 年にアジア諸国はアジア通貨危機に遭遇しており,この通 貨危機の前と後では日本とアジア諸国との経済関係には大きな変化が見られ る.この点については後で触れるとして,こうした変化を抱えながらも日本 とアジア諸国との貿易投資関係は深まっていったのだ.

日本とアジア諸国との間の貿易は,域内分業によって特徴づけられる.日 本の企業が現地に工場を展開するとともに,日本やアジアの国との間に中間 財,資本財などの貿易が積極的に行われるようになっている.アジアの特徴 は域内にさまざまな所得水準の国が混在していることにある.それぞれの国 の比較優位を反映した生産が展開され,国境を越えて中間財が取引されるこ とで全体の生産が完結するようになっている.

アジアの経済発展は,日本の輸入構造にも大きな影響を及ぼしている. 1980 年代の初め頃まで,日本の輸入の大半は石油などの 1 次産品であった. 70 年代の 2 度の石油ショックによる石油価格の高騰などの影響もあるが,

(5)

日本が原材料を輸入して加工した製品を輸出する加工貿易国であったことが, 1 次産品のウェイトが大きい輸入構造にしていたのだ.

80 年代後半からは,工業製品の輸入が急速に拡大し,日本の製品輸入比 率が高まっていくことになる.円高によって日本国内での生産が割高になっ たこと,そして流通市場の規制緩和の動きによって,低価格の海外製品を輸 入する力が強くなったこと,そして東南アジア諸国や中国などの工業生産力 が向上してきたことがこの背景にある.80 年代の後半に日本国内でバブル が生まれている時期の内需拡大の動きも,こうした貿易構造の変化と深いか かわりをもっている.

1997 年に起きたアジア通貨危機は,日本と東南アジア諸国との貿易投資 の拡大に水を差す結果となった.後で触れるように,通貨危機後も東南アジ ア諸国との新たな通商関係を構築する動きは続いた.ただ,通貨危機後,中 国が日本の対外経済取引で大きな位置を占めるようになってきている.

1978 年に対外開放策に転じて以来,中国は順調な経済成長を続けてきた. 80 年代後半から 90 年代にかけて,海外から積極的に投資を受け入れて輸出 加工を行うという形で高い成長を続けてきたのだ.中国政府もこうした輸出 加工型の貿易を後押しするため,輸出加工を目的とした原材料や資本財の輸 入には関税を課さなかった.また,外資系企業が中国国内で行う活動に対し て,さまざまな課税上の特権を与えた.中国国内市場への販売を目的とする 輸入に対しては高い関税を課すと同時に,さまざまな制約を課してきたのと の対比で見ると,中国の通商政策の極端な二重構造が見て取れる.

日本と中国との貿易投資関係もこうした中国の通商政策を反映したものと なっていた.80 年代後半から東南アジアを中心に展開していた日本の家電 などの現地生産が,次第に中国にシフトしていったのだ.東南アジアのオペ レーションは依然として非常に大きかったが,新たな直接投資流入や生産の 拡大のペースでは,中国が東南アジア諸国を圧倒し始めたのだ.

日本と中国との貿易関係が大きな転機となるのは,2001 年に中国が WTO(世界貿易機関)に加盟したことだ.WTO に加盟するためには,中 国は国内市場を開放することが求められる.これまでのように国内市場を閉 鎖したまま,輸出加工のためだけに市場を開くという二重性をもった貿易政 策が認められなくなる.

(6)

日本にとっても,輸出基地としてだけでなく,将来性のある大きな市場と しての中国の重要性が高まってくる.90 年代の末までは市場が閉鎖的でな かなか参入できなかった自動車などの分野でも,日本による積極的な現地生 産が開始されることになる.自動車,家電,アパレルなど従来から投資して きた産業だけでなく,小売業,金融,食品,化粧品など,さまざまな分野で 中国市場への積極的な参入が続いている.

アジア通貨危機

1997 年タイで生じた通貨危機の動きはあっという間にアジア全域に広 がっていった.海外からの潤沢な資金流入によって順調に経済発展を続けて きた東南アジア諸国は,通貨危機によって厳しい状況にさらされることにな る.通貨危機は個々の国の経済運営を見直すだけでなく,東アジア全域の経 済関係にも大きな影響を及ぼす結果となっている.

アジア危機は直接には日本のバブル・デフレという現象とは関係ない.ア ジアへの大量の短期資金流入の逆流によって起きた現象である.ただ,大き く膨れあがった金融機関や企業のバランスシートが,市場の資金の流れの変 化によって大きな問題を起こすことがあるという点では,似通った面が多々 ある.最近の世界経済全体をおそったサブプライムショックあるいはリーマ ンショックについても同様である.

日本のバブルの場合には,巨額のローンを抱えた企業が不動産へ資金を投 じていたことが問題となった.不動産価格の高騰が企業のバランスシートを 非常に重いものにしてしまい,不動産価格が下落すると巨額の不良債権が積 み上がっていった.これに対してアジア通貨危機では,タイや韓国の企業が 巨額の外貨建て短期資金の調達をし,それを国内通貨建ての投資に回したこ とが直接的な原因となった.経済が好調であったことがこうした投資行動を 過度に膨らませてしまい,資金の逆流による被害もより大きなものにしてし まったのだ.

アジア通貨危機の直撃を受けたすべての国,すべての企業が,無謀な投資 をしていたわけではない.しかし,いったん資金の逆流が始まれば,比較的 健全な経済活動をしていた企業や国もその影響を受けることになる.いった ん市場に不信感が広がれば,資金は他へ逃げようとするので,健全な投資を

(7)

行っている企業や国もその影響を受けざるをえないのだ.

資金が国境を越えて自由に動けるようになるほど,通貨危機や金融危機は 必然的に起こるようになる.アジア通貨危機の前にも後にも,世界のいろい ろな所で通貨危機や金融危機は起きている.各国はそうした通貨危機から多 くのことを学んだはずであるが,結果的にはまた世界のどこかで通貨危機が 起きる.サブプライムローン問題に端を発した金融危機は,残念ながら,世 界経済全体を巻き込むより深刻な金融危機を引き起こしてしまった.

金融危機や通貨危機は避けることのできる方が望ましいのは当然だ.しか し,絶対に金融危機や通貨危機を起こさないような制度を構築することは不 可能である.また,かりにがちがちの規制で固めたとしても,今後は経済そ のものが停滞してしまうことにもなりかねないのだ.より重要なことは,か りに金融危機や通貨危機が起きたとしても,それが経済に深刻な被害を与え ることを極力避けるためにどのような対応をするのかということだ.また, 被害が過度に広がらないような制度を構築しておくことであろう.

そうした意味では,アジア通貨危機の経験は日本も含めたアジア諸国に多 くの教訓を残し,その後の取り組みにつながっていった.アジア通貨危機を 通じて,日中韓と ASEAN 諸国の間でさまざまな取り組みの努力が続けら れているのだ.

アジア通貨危機を受けて,日本政府は AMF(アジア通貨基金)の構想を 打ち出した.アジア諸国が資金を出し合って基金を作るとともに,その基金 を通じて通貨の安定化,危機への対応,そしてマクロ経済的な協議などが可 能になるのではないかという期待が広がった.残念ながらこの大胆な構想は すぐには実現しなかったが,その後東アジアでは,通貨スワップの仕組みで あるチェンマイ・イニシアティブの合意が成立し,その通貨スワップの仕組 みを発展させてさらに金融協力を強化させていこうという動きが続いている.

(8)

いう仕組みであったのだ.

しかし,1973 年以降は IMF へ資金を出資するのは依然として先進国で あったが,その資金はもっぱら途上国や新興国の為替安定化や金融安定化に 利用されるようになったのだ.そうした資金が安易な形で使われないように, IMF コンディショナリティーという厳しい制約を途上国に課しているが, このような介入が当時のアジア諸国に大きな反発を生んだ.IMF だけに頼 るのではなく,自分たちの資金を使って自分たちの通貨や金融システムを守 る必要があるという思いがアジア諸国に強くなっていった.

非常に単純化した見方をすれば,AMF は初期の IMF の役割に近いもの である.ドル本位制というような固定レート制こそとらないが,参加国の出 資金を利用して参加国の通貨安定や金融安定を支援するのだ.そしてもし, AMF のような枠組みを通じてアジア諸国のマクロ経済政策について何らか の協議の場ができれば,中長期的にはそれがマクロ経済政策の連携につなが る可能性だって否定できない.各国がそれぞれの勝手にマクロ経済政策を行 うのではなく,地域の国が相互にマクロ経済政策の調整を図る仕組みが存在 することは,一般論としては好ましいことであるのだ.

アジア通貨危機後のこうした一連の通貨協力の枠組み構築の動きは,まだ その初期段階に過ぎない.多くの協議が重ねられているにもかかわらず,現 実に合意されたことはごく限定的なことだけである.地域内の協力とはその ようなものであり,急速に協議が進展することが期待できるわけでもない. また,アジア通貨危機の記憶が少しずつ薄れるなかで,協議の熱意が冷めて いくことも懸念される.

そうしたなかで世界的な金融危機が起きた.非常に興味深いことに,アジ ア地域は世界的な金融危機にもかかわらず通貨危機を起こしていないという ことだ.詳しい分析を行ったわけではないが,90 年代後半のアジア通貨危 機の教訓が生かされていると考えられる面がいくつかある.まず,中国を筆 頭にアジアの多くの国が巨額の外貨準備を保有しているということだ.この 外貨準備の存在が短期資金の流出に対してバッファーとなっている.第 2 に は,アジア通貨危機のときにタイや韓国が固定レートを維持することにこだ わったのに対して,今回は多くの国で為替レートの変動を容認したというこ とだ.

(9)

韓国の例がわかりやすいだろう.世界的金融危機を受けて,たしかにウォ ンは大幅に下落した.しかし為替レートの大幅調整を容認することで,それ 以上の通貨下落を防ぐことができるという面があった.政府・中央銀行が必 死になって通貨下落に抵抗して介入を続ければ,市場は安心してその通貨を 売り浴びせることができる.しかし,あっさりと為替レート調整を容認して しまえば,そこから先は為替レートがどちらの方向に動くか不確定となる. もし通貨が一時的に大幅に下がれば,市場はむしろ為替レートが少し元の水 準の方に戻ることも想定するだろう.そうした環境では一方的な通貨売り浴 びせはできない.

対内直接投資

多くの先進工業国では,対外直接投資と対内直接投資の両方が重要な役割 を担っている.間接投資は資金の余っている地域から資金の足りない地域に 動くという単方向性をもっているが,直接投資には双方向性の傾向が強い. その意味では輸出と輸入という双方向性をもっている貿易に似た面がある. 直接投資には,生産・流通・開発などの実体的な経済活動がともなうことが 多く,貿易と補完的な面も多くもっている.そのため海外での企業の活動に ともなって対外直接投資が行われ,他方で海外の企業が日本で活動するため 対内直接投資が行われるのだ.

日本の場合にも,対外直接投資は活発な展開を示しているが,それに比べ て対内直接投資は非常に規模が小さい.日本の企業が海外で活動しているの に比べて,海外の企業の日本国内での活動が小さいということになる.こう した状態は日本の閉鎖性を示唆するものとして問題視されてきた.また,日 本の経済的な利益から見ても,海外企業が日本に積極的に参入することで経 済活動がより活性化することが期待される.

なぜ日本への対内直接投資が非常に少ないのか,その理由についてはさま ざまな分析が行われている.日本の賃金や地価などの費用の高さ,日本語と いう言語の壁,海外の企業にとって活動しにくい諸々の規制や制度の存在な ど,さまざまな要因が挙げられている.日本政府も対内直接投資を拡大すべ くさまざまな手段を講じてきた.

(10)

の動きにさまざまな影響を及ぼしてきた.バブルの時代は円高の時代でも あった.バブルによって国内市場の規模が拡大するだけでなく,外貨建てで 見ても日本市場の規模が急拡大する結果になった.外国企業にとっても日本 市場に参入することの魅力が高まってきたのだ.

80 年代後半以降に日本市場に参入してきた業種として注目すべき存在の 1 つが小売業である.その象徴的な存在がトイザらスである.日本の玩具の小 売り流通を大きく変えていった存在としてだけでなく,日米構造協議の場で 日本の流通業の規制緩和を強く求めていったことでも注目すべきだ.当時の ブッシュ大統領が来日したさいに,忙しい日程をさいて奈良県樫原にできた トイザらス 2 号店を訪問したことからも,日米間の通商摩擦の問題で流通業 がいかに重要視されていたかがわかる.

この時期は流通業以外でも,保険などで外資系企業の参入が目立つように なってきた.時期はもう少し後になるが,日米保険協議が行われ,外資系の 保険会社にのみ第三分野を優先的に認めることで外資系保険会社の参入が活 発化した.バブルの時期に日本市場が海外企業から注目され,保険や流通な ど,それまであまり注目されなかったような業種による直接投資が起きたこ とは注目に値する.

バブルが崩壊し,日本が不良債権問題に苦しむようになってくると,外資 系の金融機関による直接投資が目立つようになってきた.バブルとその崩壊 は,預金と融資を中心としてきた日本の銀行のビジネスモデルの弱点が露呈 したということでもある.投資銀行をはじめとしてさまざまな形態の金融機 関が日本市場に参入してくることになる.

バブル崩壊と不良債権問題で暴落していた日本の不動産や株式は,外資系 企業にとって絶好の利益確保のチャンスを提供することになる.人材面でも, 優秀な多くの人材が外資系金融機関に流れていく結果になった.外資系金融 機関の本格的な参入は日本の金融市場の構造を変える上でも大きな役割を果 たしていったのだ.

地域連携協定

通貨協力についてはすでに述べたように,アジア通貨危機は東アジア諸国 が連携を高める上で重要な転機となった.こうした連携の動きは,通貨協力

(11)

の分野だけでなく,さまざまなレベルで行われようとしている.とりわけ自 由貿易協定(FTA)や経済連携協定(EPA)の動きには注目する必要があ る.

アジア通貨危機以前には,日中韓の 3 国はそれぞれいかなる FTA にも参 加していなかった.世界の他の地域に比べて地域連携の枠組みの展開が遅 かったのである.これは,すでにこの地域の域内貿易が大きく拡大している ことと対比して考えてみると興味深いことではある.

しかし 2000 年以降,東アジア地域における地域経済連携協定締結の動き は加速化していった.この地域の経済連携の要となっている ASEAN 諸国 は,日本,中国,韓国,豪州,インドなどと自由貿易協定を結んでいる.こ うした ASEAN を要とした経済連携が東アジア全域の自由貿易地域に発展 するまでにはまだ多くの障害がある.とくに,この地域のなかで大きな位置 を占めている日中韓の間でいかなる経済連携も結ばれていない.ただ,東ア ジア共同体を目指したさまざまな交渉は今後も続けられていくだろうし,自 由貿易協定以外の分野でもさまざまな経済連携の枠組みの構築の努力が続け られていくだろう.

バブル崩壊後,長期低迷を続けてきた日本は,こうしたアジアの動きにも かかわらず内向きの姿勢を続けてきた.アジア通貨危機の後,東アジア諸国 と連携をとる動きは見られたものの,政策運営においては国内政策重視の姿 勢が強く見られた.国内経済の不振が深刻で,目を海外に向ける余裕がな かったということかもしれない.

その間にも,アジア諸国の変化にはめざましいものがあった.とくに,こ の地域における中国の動きは速かった.ASEAN 諸国もアジア通貨危機以前 は中国脅威論を強くもっていたが,その後中国への輸出が拡大して中国が日 本以上の市場に成長しようとするなかで,中国との経済的関係を深めていっ た.日本も東アジア連携を進めていくためには,中国の存在を抜きに考える ことは不可能になってきている.失われた 10 年と呼ばれる 90 年代の間に, 東アジア地域の政治経済環境も大きく変わってきている.

(12)

構築し,そしてアジア全域が安定的に成長する枠組みの構築を目指すことが 日本の利益にもかなっている.

バブル崩壊後から 15 年近く続いた厳しい国内経済状況は,日本の政治・ 経済・社会が新しい枠組みに踏み出すための,苦しい調整の期間であると考 えたい.そうしたなかで,アジア諸国との新たな政治経済関係を構築するこ とが日本の大きな課題となっている.この原稿をまとめている 2009 年の時 点では,団塊の世代のトップランナーは 61 歳になろうとしている.高齢社 会となった日本が活力を維持するには,成長著しく若い人口が比較的多いア ジア諸国との経済関係を深めていくしかない.

アジア市場への輸出依存を高め,現地での生産開発力を強化し,そしてア ジアの人材をより積極的に活用する必要がある.アジアの有能な人材を積極 的に日本国内に取り込むことも必要だろう.フィリピンやインドネシアとの 経済連携の交渉では介護や医療の人材を日本に呼び込むことが論議になった. 経済連携協定の枠組みで決まった介護などの労働者の導入規模はまだ非常に 小さいものであるが,今後はこれをさらに広げていく必要があるだろう.

バブル・デフレ研究会という大きなプロジェクトの 1 つのパートとして, この時期の日本の対外関係のさまざまな側面について分析を集め,議論をす る機会をもったことは,われわれプロジェクト参加者にとっても,この重要 な時期を通じて日本社会がどのように変化しようとしているのか考える上で 非常に貴重な経験となった.

バブルやデフレはそれ自体が大きな経済の動きであったが,より重要なこ とはそうした現象の背後にある日本経済や社会の大きな変化のトレンドであ る.戦後,若い人口が多いなかで急速な拡大成長を続けてきた社会が,成熟 化し高齢化するなかで,どのような方向への変化が見られるのか考える上で, バブル・デフレ期の政治経済社会の諸々の変化を詳しく分析することの意義 は大きいのだ.国際経済や日本の対外関係の動きでもこの点は例外ではない.

参照

関連したドキュメント

[r]

[r]

[r]

2006 年 6 月号から台湾以外のデータ源をIMF のInternational Financial Statistics に統一しました。ADB のKey Indicators of Developing Asian and Pacific

第?部 国際化する中国経済 第3章 地域発展戦略と 外資・外国援助の役割.

第?部 国際化する中国経済 第1章 中国経済の市場 化国際化.

恒川著『ラテンアメリカ危機の構造』(1986 年,有斐閣)を読むとよくわかります。政

第三に,以上に得られた複数年次の 2 部門表を連結し,それと,少し長期の経済状態を