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新島襄の聖書研究仲間 : 杉田廉卿について

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(1)

新島襄の聖書研究仲間 : 杉田廉卿について

著者 樋口 雄彦

雑誌名 同志社談叢

号 31

ページ 1‑15

発行年 2011‑03‑01

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013053

(2)

新島襄の聖書研究仲間

新島襄の聖書研究仲間   杉田廉卿について

樋    口    雄    彦

   幕末、江戸で洋学を学んだ新島襄が、何名かの仲間と聖書の研究に取り組んだこと、仲間の一人でそのきっかけをつくったのが杉田廉卿という人物であったことは、『新島襄全集』に収録された書簡の注で説明がなされるなど、廉卿の素性や二人の交友関係も含めすでに明らかにされている。

  廉卿が「いちはやくキリスト教に帰依した 」とまで断定できるのかどうか、幕府の「お膝元」で果たして彼らが当時国禁とされたキリスト教の真髄にどこまで接近し得たのか否か、疑問がないわけではない。しかし、同じグループに加わっていた津田仙の回想が真実であるならば、彼らの好奇心は余程のものだったことになる。また、新島がアメリカから父や弟に出した手紙で、病気の時には神仏への願掛けやまじないはせず廉卿に相談せよ 、聖書を読むよう勧める内容の手紙については廉卿ら以外には見せてはならない などと記している点から、二人が秘密を共有し、同じ考え方を抱いていたらしいことは十分にわかる。

  本稿では、新島とキリスト教との出会いの場面で少なからぬ役割を果たしたといえる杉田廉卿について、これまで幕末維新期の幕臣や静岡県の地域史を調べ続けてきた筆者の立場から、若干の新知見を加えてみたい。若き日の新島の人的ネットワークを明らかにする上で、わずかなりとも貢献できれば幸いである。

(3)

新島襄の聖書研究仲間

新島と杉田

  まずは、聖書研究グループについて述べた津田仙の証言をそのまま引用しておこう 。「友人に杉田廉卿なる人あり、氏は名家杉田鷧斎の遺跡を継げる人にて盛卿の養子なり。当時廉卿は翻訳方にて福地源一郎及び余などゝ務向の同じかりしまゝ、至つて親しかりき。廉卿は英書と蘭書を解しゝが、元来宗教心ふかき人とて、解剖学など究めゆくに従ひ遂に神を認め、而して之を奉ずるには、基督教ならざる可らずと信ずるに至りぬ。新島襄氏即ちそのころの七五三太君に斯教をすゝめしもこの廉卿なり。かくて廉卿は漢籍に通ずる吉田賢甫らと共に、英訳、漢訳の教書を調べ、まことに神こそ天地の主宰なれと主張しぬ。此人は沼津にて肺病の為斃れしが、余は此人の勧告にて基督教のよきことを知りぬ 」。「氏は始め吉田賢甫、杉田廉卿と共に聖書を研究した、始めは蘭文の聖書を読んで居つたが何分解しにくいと見え、後には吉田氏の漢文に長けたるを幸ひ、漢訳の聖書に就て学んだやうであつた 」。

  津田の回想からは時期が判然としない。新島の年譜 では、この聖書研究グループの活動を文久3年(1863)の項に含めているが、以下に掲げる廉卿の履歴書によれば、彼が小浜藩医から外国奉行手付翻訳御用御雇に抜擢されたのは、元治元年(1864)4月

いた可能性も否定できないので、これ以上の詮索はやめておきたい。 時、もう新島は江戸にいなかったのである。もっとも、外国方に勤務する以前から廉卿がグループに加わって 新島はその元治元年3月には江戸を離れ箱館へ向かっているので、矛盾が生じる。廉卿が外国方に採用された

14

日のことであり、1年後と考えたいところである。しかし、

(4)

新島襄の聖書研究仲間         生国駿河  三代目  杉田廉卿〔廉〕一私儀水野出羽守様御医師武田簡吾弟ニ而〔て〕  忠義様御代安政六己未年四月三日養父成卿存生中奉願置候通養子江被仰付候一同年五月廿五日養父成卿へ被下置候知行高之内為跡式百四拾石被下置候一同年十二月十九日  栄寿院様御病中度々伺罷出候ニ付御酒吸物被下置候一同御代文久二壬戌年四月十七日明日ヨリ〔より〕御屋敷詰可仕旨被仰付候一当御代文久三癸亥年五月十三日当秋御初入之節御供被仰付置候処同年六月御上坂被為仰蒙〔蒙仰〕候ニ付直ニ右御供可相勤旨被仰談同九日御供ニ而出立仕候処見付駅ヨリ〔より〕御引返被遊候ニ付同廿三日帰府仕候一同年七月二日奥医師御手薄ニ付上々様方御平脉拝診被仰付此後時々取御療用可仰付候間奥医中申合可相勤旨被仰付候一同御代元治元甲子年正月十一日恭丸様御出生之節度々伺罷出候ニ付御酒吸物被下置候一同年四月十四日外国御奉行様御手附翻訳御用御雇被仰付御扶持方弐拾人扶持御手当金拾五両被下置候旨御老中井上河内守様ヨリ〔より〕御達有之趣被仰付候右之通御坐〔座〕候尤嘉永三庚戌年五月以前之儀ハ先御代書上置申候〔以上〕        〔当子二拾歳〕

   元治元甲子年五月        杉田廉卿印          柴山源十郎殿

  安政6年(1859)、

17

実たらしいが、際だの手ほどきは玄歳っ端蘭の新島が入門した学玄の師は杉田端

(5)

新島襄の聖書研究仲間 の甥にあたる廉卿がしたのではないかという推測もある 1(

。しかし、この年、廉卿は杉田家の養子に入ったばかりで、年齢もまだ

15

歳であり、年上の新島を教えたであろうか。

  ところで、津田仙は、慶応2年(1866)頃、廉卿に勧められたオランダの本を読み、酒の害について自覚し、後年それを『青年健康学』(明治

た津田にとって、幕末に出会った廉卿の存在は大きかったという 11

28

翻りとしてし進推を動運酒禁な訳・と年)ャチスリクた。し行刊ン

  津田にとってだけでなく、新島にとっても廉卿は大きな影響を与えた人物であり、ごく親しい友人だったことは間違いない。そのことは、在米中の新島が杉田に写真を送ったり、逆に日本の草花の種を送付するよう依頼したり、杉田の病状を心配するようすなど、『全集』収録の書簡から読み取れる。

  以下に掲げる史料は、ごく短いものではあるが、新島と廉卿との親密さを示す、これまで紹介されたことのないものである。明治4年(1871)アメリカ経由でイギリスへ留学した静岡藩士曽谷言成という人物の日記である。静岡から上京した曽谷は、出発を前に同じ静岡藩士(旧幕臣)の英学者乙骨太郎乙の訪問を受け、餞別の一席として「両国橋東之酒楼」で酒を飲んだという、3年(1870)

12

月 記されているものである。

29

日付の記載に続く箇所に     米国マスサキエセッツニて      同  アンヂユー  新島七五三     邦  吉田尺乙骨三氏健在    各邦  杉田廉敬死亡之由ヲ通呉レ候様乙骨氏より被託 12

  これは、アメリカに着いたら、同地にいる新島に、日本の吉田賢輔・尺振八・乙骨太郎乙らが健在でいるこ

(6)

新島襄の聖書研究仲間 と、杉田廉卿(廉敬となっている)が死去した旨を知らせてやってほしいと、乙骨から託されたということである。ただし、曽谷がアメリカで新島に会えたかどうかは、日記の後の部分には記述がなく、わからない。明治5年(1872)には岩倉使節団の一等書記官として渡米した田辺太一(元静岡藩士・沼津兵学校教授)に会い、共通の知人であった吉田・尺らの消息を聞いているので 1(

、その時にも、田辺が沼津にいたこともあって廉卿の死について聞かされた可能性がある。

  杉田廉卿が沼津で死んだのは、明治3年2月

2(

日のことである 14

  なぜ廉卿が沼津にいたのか、維新時の彼の動向を整理しておこう。小浜藩士としての身分のまま、幕府の外国方に勤務していた彼は、親族や友人にも幕臣が多く、戊辰戦争に際しては旧幕府方に加担している。具体的には、遊撃隊を率いて箱根で新政府軍と戦い敗れ、負傷した伊庭八郎を匿い、箱館へ再脱走させるにあたって、乙骨太郎乙(華陽)や尺振八とともに尽力したのである。以下に引用するのが、そのことが記された文献である。乙骨華陽が今川小路なる杉田廉卿氏(成卿先生の嗣にて玄端先生の姪なり後沼津に歿す)に寓居せると聞き往いて脱艦以後の顛末を語り且如何して横浜に赴き函館に至るべしやと其定見を問ひけるに廉卿氏熟考して方今横はまに知る人少からずといへども此の大事を托すべきは独尺氏のみ行いて共に図らば事正に成るべしといふ 15

  今川小路は、現在の東京神田神保町である。同じ慶応4年(1868)には、福沢諭吉が小川町(今川小路と同じ)の杉田廉卿宅を訪れ、曾祖父にあたる杉田玄白の遺稿「蘭学事始」の出版を勧めており、その結果、同書は翌明治2年正月に刊行されることとなった 1(

(7)

新島襄の聖書研究仲間   旧幕臣たちは、明治新政府から

から離脱し一橋徳川家(一橋藩)の家臣へと身分変更をして東京に残った 17 に仕える者、帰農・帰商する者とに分かれた。新島・廉卿の聖書研究仲間のうち、吉田賢輔は徳川宗家の家臣

7(

万石を与えられた主家徳川家に従い駿河(静岡)へ移住する者と、新政府

。津田仙もやはり徳川家臣の籍を離れ、築地ホテル館に勤務した。幕府に出向していたものの本来は小浜藩酒井家の家臣であった廉卿は、明治元年暮れには藩主に従い若狭国小浜に行っており、翌年正月から3月にかけては京都に滞在していたことがわかっている 18

  襄にあてた明治2年(1869)7月

た旨を伝えている 19

2(

日付の新島双六書簡は、杉田玄端が重病の廉卿を沼津へ連れて行っ

。旧幕臣で静岡藩士となっていた玄端は、当時藩立の沼津病院頭取(院長)の任にあったが、労咳で苦しんでいる甥を気候の良い沼津で看病するとともに、平癒の後は病院を手伝わせるつもりだった 2(

。廉卿は小浜・京都から東京へ戻っていて、酒井家の了解を得てから沼津へ移ったらしい。

  廉卿の墓は沼津の長谷寺に建立された 21

。現在も同寺には、「S」の1字を彫ったキノコ型の墓石が残るが、それがそうだと思われる。

兄武田簡吾の獄死

  実は廉卿にとって沼津は単なる転地療養先ではなく、故郷であった。先に掲載した履歴書の冒頭に、「水野出羽守様御医師武田簡吾弟」と記されていたことからもわかるように、彼は沼津藩(水野家・5万石)に仕えた医師武田簡吾の実弟だったからである 22

(8)

新島襄の聖書研究仲間   地図史上からもよく知られた事実なので、ここでは詳述しないが、杉田廉卿の兄武田簡吾は、メルカトル図法によるイギリス製世界地図を翻訳し、『輿地航海図』(安政5年)と題し刊行した人物である。同図の校閲者は杉田玄端であり、簡吾は玄端の門人だったようだ。廉卿が杉田本家の養子として迎えられた背景には、その師弟関係があったということになる。  しかし、武田簡吾は不幸な人だった。『輿地航海図』の原図は、駿河湾に沈没したロシアの軍艦ディアナ号から漂着したものであり、それを私的に入手し、正式な手続きを踏まないまま翻訳・出版したことが幕府や沼津藩に咎められ、処罰され、最後は獄死したのである。このことは、『輿地航海図』を増訂し、明治5年(1872)に刊行された『増訂輿地航海全図』の序文を撰文した岡千仞が書き残した草稿「航海地図跋」の以下の記述から明らかである。沼津医生武田簡吾獲航海地図于一漁夫手大悦簡吾渉洋学乃與同志繙訳上梓。既而維吏議。是時海禁禁厳簡吾以是下獄痩死図廃不行 2(

  また、当時の一次史料ともいうべき、『輿地航海図』に序文を寄せた沼津藩士2名の履歴書には、安政6年「五月七日御目見医師並武田簡吾翻訳之輿地航海図」に開板前の伺いもないまま序文に名前を載せたことは、「元図者出所不正之品」であるという点からも「不束」であり、「差控」を命じるといった記載があり 24

、それが実際に起きた事件だったことが裏付けられる。

  また、後年の新聞記事には、この事件について、「翻訳者は土地を放逐せられてしまつた 25

」と記したものがあることから、簡吾は投獄されただけでなく、沼津から追放されたと受け取ることもできる。

  あるいは、放逐されたのは簡吾のみならず、武田一家だったと理解すべきであろう。それは、簡吾・廉卿兄

(9)

新島襄の聖書研究仲間

弟の父武田悌道(旧名悌斎、寛吾とも?)が書き残した文書からうかがい知ることができる。「先年出羽守殿へ勤中悴寛吾不調法相働き御扶持召上小生迄も御咎被申付」と記された、慶応元年(1865)3月

た師」に雇用されてい 2( は慶応元年当時、悌道の「神幕府な奈川奉行付御医お、る。劇いの離散といった悲が続いたことが記されて ったことは間違いない。また、同じ書簡からは、沼津を退去させられた武田家に、その後も、簡吾の死、妻子 受けたというのである。罪状までは明記されていないが、簡吾(寛吾)による『輿地航海図』の無断刊行であ 沼津宿の豪商鹿島屋(井上甚太郎)あて悌道書簡である。息子が扶持を召し上げられたばかりか、自分も咎を

12

日付の

  序文を寄せた2名の沼津藩士が処罰されたのが安政6年5月。悌道・簡吾父子に対する処罰もほぼ同じ頃だったと考えられる。廉卿が杉田成卿の養子となったのは同じ年の4月である。事件の真っ最中だった可能性がある。あるいは武田家の沼津追放、一家離散の結果、廉卿は杉田家に拾われた形になったのかもしれない。

  簡吾がいつどこで死んだのかははっきりしない。獄死したのが真実であれば、藩地である沼津であろう。その後、父悌道は横浜に落ち着き、幸運にも幕府に仕える身となった。横浜では、ドイツ人商人エドワード・スネルが、『輿地航海図』を翻刻し、文久2年(1862)2月、『万国航海図』と改題し刊行している。横浜へ移住した悌道は、息子の遺作となった地図の版木を所持しており、それを印刷・販売する権利をスネルに譲渡するといった、何らかの関与をしたのではないかと想像される 27

  横浜での武田悌道の動向については、駿河国富士郡大宮町(現富士宮市)の素封家角田桜岳の日記 28

から、文久4年(1864)のわずかな期間であるが、以下のような記事を拾い出すことができる。5月3日横浜にて「早朝武田悌道来、セメンズ方ヘ行長話し帰」

(10)

新島襄の聖書研究仲間 5月4日「朝武田へ行、並木某来、定番役取締之由、酒を飲」6月 6月 つれ近日帰国浜へ参り」

14

日「夕方横浜武田悌道門人吾津田真一郎へ遣候阿蘭陀へ之書状賃ドロ三枚ト云事書面にて申越候、い

6月

2(

日「今朝中浜万次郎来ル、早朝武田悌道より和蘭行状賃申来ル(中略)武田行書状認」

日より両度申来ル」 ニストルへ申込候ニ、トル拾枚と申候処、橋本と云通詞へ頼、同人よりドル銀三枚にてとゝけくれ候よし先

27

   日「一金壱両三方也武田悌道老へ封遣ス右ハ和蘭陀本国ニ罷在候津田真一郎へ出候書状、和蘭ミ   これらの記述からは、悌道が、郷里駿河の人々との交際を続けていたことがわかるほか、角田の知人であり当時オランダ留学中の津田真道との文通の仲立ち役をつとめたことなどが見て取れる。

  悌道は、慶応3年(1867)の広島藩の記録にも登場する。「横浜英学所開設ありしを以て原田志賀之輔曽根直之進原田光之丞竹内房吉中島小弥太松下房吉の六人は幕府へ出願して在神奈川武田悌道  神奈川役所医師  へ入塾せしめ該英学所へ通学する 29

」とあるのがそれである。悌道は横浜で塾を開き門人を教えていたことになる。

  ただし、明治維新後、悌道がどうなったのか、いつ亡くなったのかは全く不明である。徳川家の家臣、つまり静岡藩士として駿河・遠江に移住した形跡も今のところ見出せない。かつて追われた郷里沼津へ戻り、息子杉田廉卿と会う機会があったであろうか。勝海舟の「日記」九号(明治3年

1(

25

日~4年正月

  浜「横田竹内天弁元娘に、道み込き書るあに裏悌 ((

15

日)の表紙

」と記されているのは、何を意味しているのだろうか。海舟日記の本文には関連記事はないようであり、謎である。

(11)

新島襄の聖書研究仲間一〇

武田家の素性

  話が前後するが、そもそも武田家とは、どのような家だったのだろうか。

  簡吾・廉卿兄弟の父武田悌道は、天保7年(1836)7月

をる病薬代の領収証が残してい (1

12

日付で駿河国駿東郡獅子浜村名主あてに流行

、それには「沼津不二見町  武田悌斎[印]」とある。不二見町というのは、沼津藩士が住んだ武家屋敷地ではなく、町人が住む沼津宿の一画であった。他に悌道の住所を沼津大門町と記した文書もあり、また『輿地航海図』には「駿陽沼津大門」云々という簡吾の印鑑が押されているが、やはり大門町も町人居住区域であった。

  何種類か存在する各時期の沼津藩の分限帳には、武田姓の藩士は1軒あるものの、医師ではなく、悌道とは無関係である。これらのことを勘案すると、どうやら武田悌道は沼津藩士ではなく、町医者だったらしい。

  彼は医者として沼津周辺の豪農・豪商たちのもとに幅広く出入りしていた。安政2年(1855)9月、植松与右衛門(駿河国駿東郡原宿)、坂直右衛門(沼津宿)、新居要右衛門(同前)、中村九左衛門(同前)、柳下源次郎(同郡上香貫村)、秋山次郎右衛門(伊豆国君沢郡重寺村)、由井斧五郎(駿河国庵原郡由比宿)、今井半太夫(伊豆国賀茂郡熱海村)ら、駿河・伊豆の素封家たち全

ある (2

17

名が取り結んだ「議定書之事」という文書が

。星谷おふさという女性が伊豆山入湯と偽り、武田悌道(悌斎)らとともに日光路・甲州街道を旅行してきたことが領主から咎められたという一件を受け、悌道が彼女を誘ったという不埒な行為がすべての原因だったとして、「是迄親類内へ相加」へて交際していたが、今後は診察はもちろん付き合いを停止することを定め

(12)

新島襄の聖書研究仲間一一 たものである。悌道が起こしたトラブルに関わる文書であるが、彼がこの地域の有力諸家に親しく出入りし、親類扱いを受けるほどの医者だったことがわかる。  息子の簡吾についても、駿河国の素封家が記録した日記類に父悌道とともに登場する。たとえば、庵原郡蒲原宿(現静岡市)の渡辺利左衛門家の日記や駿東郡原宿(現沼津市)の素封家植松与右衛門家の日記である。  まずは蒲原宿渡辺家の日記 ((

の記事は以下の通り。嘉永4年正月9日「沼津宿以し武田悌斎老次右衛門之風邪ニ付居合診察ヲ請る右乳之凝ハ格別心配可致症ニハ無之悪敷腫物之類ニハ無之候へ共場所不宜敷取留而治療可加と被申丸薬煎薬付薬と与へらる」嘉永4年

嘉永5年3月 小手療治ヲ受ル」

1(

月7日「我先日自江戸帰り候節箱根ニ於手ヲツキ痛メタル打木追々痛ム候ニ付当宿武田悌斎老ニ 嘉永5年7月

12

日「新次郎一件ニ付沼津武田氏柳下両人原へ来ル我宮之前へ行相談」

嘉永6年7月 宮の前不承知也」

((

日「柳下庄右衛門殿武田悌斎老両人真次郎一件ニて宮の前ニ来立入真次郎内借大金之由ニ而 嘉永6年7月

2(

  日「夜四ツ時原菱屋次郎右衛門到着ス沼津医者武田寛吾ヲ連来ル」

次に原宿植松家の日記 (4

27

日「武田氏センナ一味ヲ用ル」

は以下の通りである。嘉永6年2月

嘉永6年4月

12

日「於英他お多ゝ召連沼津武田氏江種痘ニ参候」

嘉永6年6月4日「水野侯壱番手出陣(中略)武田氏ニも出張之由」

21

日「武田寛吾殿上毛之医者長崎辺迄遊歴之由案内」

(13)

新島襄の聖書研究仲間一二

嘉永6年6月

嘉永7年 嘉永7年2月9日「武田寛吾より下田表異国船一条書状写」

1(

日「武田寛吾殿より異国船一条」

1(

月4日「武田悌斎老久々ニて被参、彼之新渡タゴリチーフ持参、是ハ堀達之介之生像也」

  渡辺家日記からは、武田父子がともに同家に出入りし診療を行っていたこと、植松家日記からは、種痘を実施していたこと、植松家を訪れ黒船来航の情報を伝えたこと、伊豆の海岸警備のため出陣した沼津藩兵に加わったこと、幕府の通詞堀達之助が写ったダゲレオタイプの写真を持参したことなどがわかる。とりわけ植松家に対しては洋学や対外情報に関する情報の伝達者になっていたようすがうかがえる。

  植松家文書の中には、末尾に「庚戌三月  武田記」(嘉永3年のこと)と記された、種痘について解説した「牛痘瘡」なる書付も残されており (5

、早い時期から地域で活動した蘭方医だったことが推測される。たぶん、そのような実績を買われ、簡吾は沼津藩士に取り立てられたのであろう。その時期は嘉永期をさかのぼることはないのではないだろうか。

  以上、杉田廉卿について、その兄武田簡吾、父武田悌道のことにまで幅を広げ、述べてきた。外国方時代、廉卿が篤い宗教心を抱き、キリスト教の信仰へと足を踏み入れたのが本当だとしたら、その背景には家庭をめぐる不幸なできごとがあったことを看過できないのではないか。世界地図という海外へのあこがれ(兄)が、やがてキリスト教への傾斜(弟)へと結び付いていったと考えれば、廉卿の人生に大きな影を落としたと思われる、『輿地航海図』をめぐる事件は、彼を通じて新島へもつながっていたといえよう。

(14)

新島襄の聖書研究仲間一三   (1)  『新島襄全集』

  (2)1867年3月 1((1985年、同朋舎出版)、382頁。

29日民治宛、同志社編『新島襄の手紙』(2005年、岩波文庫)

  (3)1867年 51頁。

12

24日双六宛、同前、

   社、年、(1一』『同は、(4) (2頁。

((

(5) (桜痴)を聖書研究グループの一人として解釈しているが、津田の回想を読む限り、彼を含めないほうがよいであろう。 (4は、頁)る。

  「津田仙氏の信仰経歴談」

(『護教』第344号、明治

(1年2月

  (6)宕峯生「津田仙氏と語る」(『護教』第697号、明治 2(日)

(7

(7) 12月3日)

  『新島襄全集』8(1992年、同朋舎出版)

  (『新島研究』第森中章光「新島先生と蘭学の師杉田玄端との関係」(9) 「杉田成卿略歴」(早稲田大学図書館所蔵、大槻如電写)にも記載されている。   〕内は「杉田玄白先生年譜」(早稲田大学図書館所蔵)に記された同文のうちの異同箇所。なお、ほぼ同じ履歴書は、   (1980年、青史社)所収。、北沢正誠・今村亮・松尾耕三編『蘭学者伝記資料』国立公文書館所蔵「洋学先哲碑文」(8) 1(頁。

2(号、1959年)

1() 『新島襄全集』8、

1(頁。

11(2館)年、伝』) 司『津

(1972年、私家版、2000年復刻、大空社、5)1月のことだった。都田豊三郎『津田仙─明治の基督者─』 28年(1は、し、頁。

は、廉卿から受けたキリスト教の感化は、津田にとって「予備知識」程度のものであったとする。 48頁)

年、静岡新聞社、  12は、著『静所』(2庫)成「英一」(早) 蔵・

87

88頁)の中でも紹介しておいた。

1() 『新島襄全集』3、

97

98頁、756頁。

14号、3・誌』) (『日系」明「杉年、

(2

((頁)に、

   簡吾の弟弘化二年生安政六年四月三日( 5(  

15)養子明治三年二月二十日(

2(  )歿廉隅院……」とある。

15文』年、編『香社)) 淑「尺末」(新

(15)

新島襄の聖書研究仲間一四

頁。

1() 石河幹明『福沢諭吉伝』第一巻(1932年、慶応義塾)

99~100頁。

17) 吉田俊男編『吉田竹里・吉田太古遺文集』(1942年、私家版)

27頁。

18号(明誌』) 『京家」「杉

4(月)

(1

のご教示による。 (2は、頁。

19) 『新島襄全集』9〈上〉(1994年、同朋舎出版)

4(頁。

(『静岡県近代史研究』第六十年回想記」 2(萃」は、彦「杉管・料・盛「六) 

(1号、2006年)、113頁。

あり、廉卿にとっての「養父」ではない。 「杉田盛の六十年回想記」。なお、杉田白玄(明治7年没)とは玄端の養父(実父とする説もあり)のことで、117頁) 21ノ」る(前は、「長) 

道ノ子ナリ」と、実父とその出身地が明記されているものもある(『京都医事衛生誌』第159号、明「杉田家と木下家」 22シ、ク、駿は、「名廉、) 子、

4(年6月)

2( ) 「蔵名山房集附録四」(東京都立中央図書館所蔵・特別買上文庫2281︲

2()所収。

454~456頁)でも分担執筆者である筆者が記述した。    記載されている(鎌ヶ谷市立郷土資料館所蔵「藩鑑譜」(2006年、沼津市、近世』通史編『沼津市史)。このことは、 24従)純(方近(如山)と。助)) 功(与

25) 松子「沼津と水野家(三)」(『駿豆新聞』明治

45年5月3日)

2(て」(『沼図』) は、彦「『輿要』

津市歴史民俗資料館・沼津市明治史料館)で紹介した。 19年、

9年、河出書房新社、 27編『図る(三ン』) を「海版」

71頁、128頁)

(16)

新島襄の聖書研究仲間一五

28  ) 『角田桜岳日記四』(2007年、富士宮市教育委員会)、279頁、304頁、311頁、312頁。

29) 橋本素助・川合鱗三編『芸藩志』第十一巻(1977年、文献出版)

(() 『勝海舟全集

19  〔海舟日記Ⅱ〕』(1973年、勁草書房)、277頁。

(1) 沼津市明治史料館保管・獅子浜植松家文書E︲

(1「覚」

(2  ) 沼津市原・植松家文書近世D︲

1

84

039頁、1065頁。 ((   ) 蒲原町史編纂委員会編『蒲原町史資料編近世三』(1996年、蒲原町)、911頁、1003頁、1031頁、1

(4  ) 沼津市史編集委員会編『原宿植松家日記・見聞雑記』(1995年、沼津市教育委員会)

(5  ) 沼津市原・植松家文書近世文書D︲

1︲122。

参照

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