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新出新島襄書簡の紹介

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(1)

新出新島襄書簡の紹介

著者 布施 智子

雑誌名 同志社談叢

号 34

ページ 127‑141

発行年 2014‑03‑01

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014157

(2)

一二七新出新島襄書簡の紹介

新出新島襄書簡の紹介

布 施 智 子

二〇一三年に同志社社史資料センター(以下、センターと略す)で蒐集した資料のうち、新島襄関係の資料が四点あった。いずれも襄直筆の書簡で、古書店から購入したものである。また、四通とも『新島襄全集』には収録されておらず、新出資料ということになる。簡単ながら、それぞれの資料をここに紹介したい。なお、書簡の翻刻は、露口卓也同志社大学文学部教授による。

(一)大江頼之助宛書簡

 

一八八九年十月七日付(消印・廿二年十月七日付  山城京都/廿二年十月十日付  但馬津居山)

【封筒表】兵庫縣但洲城奇 郡瀬戸村

(3)

一二八新出新島襄書簡の紹介大江頼之助殿

【封筒裏】京都寺丁通丸太丁新島襄

【本紙】数日前貴殿より一片之葉書御投与ニ相成其上ニ和哥一首御認めに相成り候再三拝讀仕候處何分御辞世之哥とも見へす多分言論を吐露セられしより言論之為ニ検束セら たるにあらすやとも相考明了ニ分兼候間一応御文信被下右

(4)

一二九新出新島襄書簡の紹介 御送り之和哥之意御説明被下候ハヽ小生も大ニ安心可仕候右至急得貴意度      匆々拝具 十月七日    新島襄

大江瀬 (ママ)之助殿

尚々同志社大学之事者兼々御配慮被下候通何卒御地ニ於て資金募集之義ハ御負担被下度又御地方之有志家とも御談し合御尽力候様

       奉仰候

(5)

一三〇新出新島襄書簡の紹介新島襄と大江頼之助との関わりが資料から認められるのは、一八八七(明治二十)年末からである。『新島襄全集』書簡編・来簡編には、大江関係の書簡が既に三通収載されており、それぞれ、一八八七年十二月六日付、同年十二月十二日付(1)の大江宛の新島書簡が二通、そして一八八九(明治二十二)年十月十日付の新島宛の大江書簡が一通である。さらに、内容も所在も判明していないが、同年五月九日にも新島が大江に書簡を送ったとの記録がある(2)。前述した新島発の書簡二通は、写しによって内容が分かるものの、原本の所蔵は同志社大学にはなく、今回購入した本書簡が大江宛新島書簡の初めての原本であり、新出ということになる。大江については、『全集』三巻で来歴が紹介されているので、ここに引用する。「大江頼之助(一八六〇~一九二九)は兵庫県城崎郡瀬戸村の人。家は回船問屋・網元。大阪の立憲政党に加わって民権運動にもかかわった。明治二十二年二月から一年間、兵庫県会議員となった。」(3)とあり、本書簡は大江が兵庫県会議員時代に送られたことが分かる。本書簡の内容は、大江からの来簡(葉書)に対する返事である。大江からの葉書には和歌が書かれており、その歌に大江の言論が表れていると新島は感じたようだ。しかし、その言論のために大江が検束されたのではないかと心配し、その和歌の意味を尋ねている。追伸では、同志社大学設立のための資金募集について、大江が住む但馬地方の有志家とも話し合って協力してほしい旨伝えている。本書簡に対する大江からの返信が、『全集』九巻に掲載されている(4)。大江によれば、しばらく体調を崩していて新島とはご無沙汰していたものの、病気が治った際に、平野国臣(または次郎)の短冊を見て、思わず筆をとったもので、新島が心配しているようなことはないと答えている。大学設立への協力は、大江の体調のこともあって延びているが、時代の流れに応じて相応の協力をするとある。また、この返信には、「偖当春神戸

(6)

一三一新出新島襄書簡の紹介 ニ而分袖以来委曲可申上筈之処」とある。新島と大江は、一八八九年三月十四日と二十日に神戸で面会したとの記録がある(5)。その頃、新島は妻・八重と、一八八八(明治二十一)年十二月十二日から翌年三月三十日まで、静養のため神戸に滞在していた。しかし、静養とはいえども、襄は大学設立のため、全国の知友に手紙を書いて協力を求めるなど、神戸でも休む暇なく活動していた。大江との面会もその一環であろう。大江は二名の県会議員とともに新島の諏訪山の借家に来訪した。その後、二十日に新島は、大江を含む十五名の県会議員に面会、協力を依頼している。この十五名の中には、大江の他にも同じく但馬地方の議員も含まれていた。但馬地方には、三月末から四月にかけて広津友信と松尾音次郎を派遣し、募金遊説を行った。広津らは、但馬の各地方を回って有力者の賛成を得たが、その周旋をしたなかには、新島が協力依頼をした議員達が含まれている。広津らの募金遊説について書かれたメモには、大江の名前は出てこないものの、城崎郡々長小西甚平の賛成が得られたとの記載があり、大江の居住地である城崎郡でも活動が展開されたことが分かる。いずれにしても、大江をはじめとした県会議員と新島との面識が、但馬地方における大学設立運動の足がかりになったと言える。新島は、四月二十二日、二十三日に但馬地方の「同志社賛成家」に礼状や書簡を送り、さらに五月九日には、大江頼之助にも書簡を送っている。いずれも内容は分からないが、広津らの但馬遊説の報告や協力に対するお礼を伝えたのであろうか。大江と新島の間では、大江の病気もあってか、今回の新出書簡の文中で触れられている大江からの葉書まで、やり取りはなされなかったようである。

(7)

一三二新出新島襄書簡の紹介(二)北垣国道宛書簡   

年次未詳十一月十五日付

【封筒表】北垣知事殿

【封筒裏】同志社新島襄

【本紙】拝啓仕候陳者貴殿今般我カ同志社大学創立之事ニ付度々御配慮ニ者只々恐縮之至ニ奉存候尚将来御尽力切望仕候小生モ兎角多病之身ニ有之候得共

(8)

一三三新出新島襄書簡の紹介 我カ同志社之為我カ将来青年之為可及丈尽力可仕候小生畢生之目的ハ自由教育自治教会国家万歳此三点也小生之心情御洞察可被下候先者御礼迠     頓首敬白   十一月十五日   新島襄

北垣知事殿

この書簡は、京都府知事の北垣国道に送られた礼状であるが、年次の記載はない。また、封筒には宛先住所や切手、消印もなく、直接の手渡しか、使いに持たせて北垣の手に渡ったと考えられる。内容は、同志社大学の設立(運動)について、北垣の配慮に感謝を表しつつ、今後の協力も仰いでいる。新島自身も多病の身でありながら、我が同志社のため、我が将来青年のために、出来るだけ尽力する。自分の畢

(9)

一三四新出新島襄書簡の紹介生の目的は自由教育・自治教会・国家万歳の三点であり、この心情を洞察してほしいと述べる。新島は永眠の際、北垣個人に向けても遺言を残しているが(6)、そのなかでも、これまでの同志社大学設立のための協力に感謝し、自分の永眠後も末永く配慮してほしいと、本書間とほぼ同じ内容の言葉を残している。北垣は、一八八一(明治十四)年から九二(明治二十五)年まで京都府知事を務めた。同志社に対して理解を示した人物で、息子と娘を同志社で学ばせてもいる。また、大学設立運動にも協力的で、一八八八年三月には自身の名義で三百円の寄附を即納しており、翌月に開かれた明治専門学校設立のための大演説会では、「専門学校ヲ賛成スル理由」と題した賛助演説も行ったほどである。ここで、本書簡が書かれた年代について考えてみたい。手がかりになるのは、書簡にある「同志社大学」の名称と、新島の畢生の目的「自由教育自治教会国家万歳」である。大学設立運動は、一八八二(明治十五)年から具体的に始められた。はじめ、設立する学校の名称は「同志社大学」として趣旨書が作成され、設立のための仮発起人会が開かれるなどの動きが進められたが、一八八四(明治十七)年四月一日からは「明治専門学校」という名称になる。しかし一八八八年三月には、新島の教え子であり、大学設立運動の協力者でもある徳富猪一郎から、学校の名称は、明治専門学校よりも同志社大学とする方が良いとの進言があり、同年九月の社員会で正式に「同志社大学」とすることが決定された。名称の変遷から見ると、「同志社大学」の名称を使う可能性があるのは、一八八二年から一八八四年三月、一八八八年九月から一八九〇(明治二十三)年一月までの期間となる。次に、「自由教育自治教会国家万歳」についてである。この言葉は、晩年の新島が教え子達へ宛てた書簡に度々登場する「自由教育、自治教会、両者併行、国家万歳」と同義の言葉である。「自由教育、自治教会、両者併行、

(10)

一三五新出新島襄書簡の紹介 国家万歳」の記載がある書簡は、一八八九年十一月(日未詳)広津友信宛、同年十一月二十三日付横田安止宛、そして同年(月日未詳)大久保真次郎宛の三書簡である(7)。全て最晩年の一八八九年に新島の「畢生之目的」として述べられている。また、横田宛書簡と本北垣宛書簡とは、「畢生之目的」前後の文章がほぼ同じ文言で書かれているのが興味深い。「(前文略)小生モ兎角多病之身ニ有之候得共、我カ同志社之為、我カ将来青年之為、可及丈尽力可仕候間、不相替小生之心身之為ニ御祈被下度奉願候、又過日広津ニも申遣候通、小生畢生之目的ハ、自由教育、自治教会、両者併行、国家万歳、小生之心情御洞察可被下候、先は貴答迄、匆々頓首」(8)(傍線筆者)新島の大学設立に対する思いが端的に表れた文章ではあるが、北垣宛書簡と部分的にではあるものの、一字一句変わっていない。同じ文言の書簡が送られていること、また新島の「畢生之目的」が一八八九年になって書簡上で吐露され始めているということから、北垣宛の書簡も横田宛書簡の約一週間前である一八八九年十一月十五日に書かれたと推測ができるのではないだろうか。新島の「畢生之目的」は先に見たように教え子に複数書き送られており、著名な言葉でもあるが、唯一、公人である北垣に披露しているのが、本書簡である。病躯を押して大学設立運動を推進した新島の意志と、北垣への信頼感が窺える貴重な書簡である。(三)鈴木彦馬宛書簡  

一八八七年八月三日付(消印・二〇年七月四日付  函館/二〇年七月九日付  京都)

(11)

一三六新出新島襄書簡の紹介【表面】西京寺町通丸太丁上ル十三番戸新島方鈴木彦馬様

【裏面】本月一日仙台先発同二日未明荻之濱出帆海上風波甚穏カニシテ今朝五時半函館港ニ安着来六日之出帆ニテ小樽港ニ港行之積有御報知トシテ如此也

  小生ノ健康ハ逐々宜シキ方ニ趣候方御母上様ニ   御安心□有之ト御傳言被下度候  函館東濱丁中村方七月三日       新島襄

(12)

一三七新出新島襄書簡の紹介 この書簡は、『七夕古書入札会目録』(明治古典会、二〇一二年七月)に掲載され、『同志社談叢』三十三号(同志社社史資料センター、二〇一三年三月)収載の本井康博「新出資料の紹介」で紹介された葉書である。二〇一三年にセンターが購入した。原本に従って、改めて読み本を掲載した。一八八七年六月十一日、新島と八重は仙台の東華学校の開業式に出席するために京都を出発した。開業式出席の後は、避暑を兼ねて北海道を旅している。この期間は六月十一日から十月一日までの約四ヶ月間と長く、その間、自宅の留守は学生たち(鈴木彦馬・深井英五)に預けていた。この葉書は、新島らが仙台から北海道へと向かう道中の七月三日、函館に到着したことを、留守宅の鈴木に知らせたものである。そして夫妻は、六日には葉書にある予定通り、田子浦丸に乗って小樽へ向かった。鈴木彦馬について、詳しくは本井論文を参照されたい。(四)浮田宛書簡  

年次未詳十月二十一日付

去九月已ニ試験済ニ相成候得共何とカノ間違ニ而十月一日来校致候由ニテ大坂之少年

(13)

一三八新出新島襄書簡の紹介今政留猪ナルモノ十月以来入校ヲ求居候に十月以後之試験ニハ落第セシヨシニ入学出来兼候よし右之為同人之母ワサ々々上京致し候何ントカ入学之都合ハ出来可申ト懇ニ依頼ニ被及候得共小生ニハ自らラ制規之存スルアリ容易ニ入学ハ出来難シト申し置候元来其人之試験は如何到底望ミハ無之候哉一応御對被下度候度得貴意早々頓首 十月廿一日    新島襄

(14)

一三九新出新島襄書簡の紹介 浮田兄何レ夕景迠ニ尊兄ヘ使ヒ壱人差上可申候間何卒御回答被下度候也

まず、書簡の内容を紹介する。九月に試験は済んだが、間違って十月一日に来校した今政留猪という大坂の少年が、十月からの入学を希望していた。しかし十月以後の試験に落ちて入学できないため、母親がわざわざ上京して入学できるよう懇願してきた。しかし、規則があるため簡単に入学はできないと伝えた。そもそも当人の試験の状態では望みはないと思われるが一応、応対してほしい、と書き送っている。また、追伸では、夕方までに使いを向かわせるので回答がほしいという内容である。本書簡には封筒もなく、年次未詳である。また、宛先の相手も本文中の「浮田兄」としか記載がない。しかし、入学希望者についての連絡事項という内容から、同志社の教職員宛に送られたと考えられる。新島在世中に同志社に在職した浮田姓の人物となると、浮田和民であろうか。浮田は、一八七六(明治九)年に熊本洋学校から同志社英学校へ転入したいわゆる熊本バンドの一人である。第一回卒業生の一人として一八七九(明治十二)年に卒業後、伝道師として大阪の天満教会へ赴任、その後は東京でキリスト教系雑誌の編集に携わった。一八八六(明治十九)年からは母校である同志社の教員となり、政治史や文明史などを担当、途中の留学を経

(15)

一四〇新出新島襄書簡の紹介て一八九七(明治三十)年まで在職した。本書簡が、同志社教員としての浮田に送られたとなると、一八八六年から一八八九年十月までの間となる。当時、同志社の学校年度は九月中旬始まりで、入学試験も九月上旬に行われていた。前述した一八八六から一八八九年の間の入試の様子を現存する資料から見ていきたい。一八八六年は、六月に新聞紙上で発表された広告によれば、試験科目は講読、作文、数学の三科目で、入学希望者は九月六日までに来校するようにとある(9)。翌年三月の広告によれば、試験科目に英語が追加された上、一年入学希望者は第一期初週(九月中旬)と、第二、第三期開始一週間前の金、土曜に設定され、それ以外の入学は謝絶とある(

一者始開期一第は、望前希学入の年二の週年けいならなばれなまけ受を試入にでと( 志と、るよに」則規院学社同一三うの年の「と期第ま期、二第もで合でちだ次年八八八一入にる。あが会機の学 入。但し、九月10学が叶わない場)

に一調月五年〇九八も、の少中の生業卒もとべ全な名いならた当見は前の在政今もに中の生校く( ず、田た当見は信返のらか浮けるす対に簡書本が、るらのこ応のい。ならか分かのたしは対うよどていつにに件 年の外以次す二一、と、る入と編にであろうか。何とも決め手欠れるらこけけている。のような時期に入試を受 けて落合、第したとを受政験試の後月十場のり、今あ以学則期を験試に期時な的受変てうまっ始からといが 学年入学希望者は、なるべく学年が始まる前の週が望ましいものの、いつでも試験が受けられたようである。 土開金、の前間週一始は期三第二、第のもたれに遅曜が執行の外以次年二一、た、まる。あ件条じ同と年前と、 し、。しか11その期限に)

の入学を認めず、規則に沿って対応したものと考えられる。 な在籍したという記録はく、政学校としては特例措置が今五)八九二(明治二十も、年以降の学籍簿を見て一 。12また、)

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一四一新出新島襄書簡の紹介 《参考文献》・新島襄全集編集委員会『新島襄全集』一~五、八~九巻、同朋舎出版、一九八三~一九九四年。・西・高久嶺之介「新島襄と北垣国道」伊藤編前掲書。・上野直蔵編『同志社百年史』通史編一・資料編一、学校法人同志社、一九七九年。《注》

でも紹介されている。 博「は、お、る。ー『」、 が、ら、  

1

同志社校友会、一九六〇年にこの書簡が書かれた年代については、森中章光編『新島襄先生書簡集続編』学校法人同志社  

2

「同志社大学設立募金日誌」『全集』五巻、四六六頁。

 

3

『全集』三巻、八七一頁。

 

4

『全集』九巻、一〇九二頁。

 

5

「同志社大学設立募金日誌」、『全集』五巻、四四三頁。

 

6

『新島襄全集』四巻、四一七頁。

 

7

同前、二四五頁、二五四頁、三一一頁。なお、広津と大久保宛書簡の宛名は『全集』による推定。

 

8

同前、二四六頁。

 

9

「同志社記事(社務第十八号)」『全集』一巻、二六五頁。

10

  同前、二七三~二七四頁。

11

  「同志社学院予備学部・普通学部・神学部規則」『同志社百年史』資料編一、三七七~三七八頁。

12

  「同志社学校一覧」同前、六一〇~六二〇頁。

参照

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