新島襄と福地桜痴 : 新出資料「福地源一郎宛新島 襄書簡」から
著者 布施 智子
雑誌名 同志社談叢
号 36
ページ 105‑114
発行年 2016‑03‑01
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015607
新島襄と福地桜痴―新出資料「福地源一郎宛新島襄書簡」から―一〇五
新島襄と福地桜痴
―新出資料「福地源一郎宛新島襄書簡」から― 布 施 智 子
はじめに二〇一四年夏、「福地源一郎諸名家書簡集」と題する資料が、古書店から売りに出され、同志社社史資料センターの新収蔵資料として加わった。この書簡集は十五通の書簡が収載されて巻子装に仕立てられている。その内訳は、福地から海内果
((
(へ送った書簡が一通、福地宛の来簡が十二通、残り二通は根本茂樹宛書簡である。福地宛の来簡の差出には、伊藤博文や山田顕義といった政治家も含まれており、当代随一のジャーナリストと謳われた福地の交友関係が垣間見える。この来簡のうちの一つとして、一八七九年七月二十五日付の新島襄からの書簡が収められている。この書簡は『新島襄全集』には収載されておらず、新出資料ということになる。福地と新島は生年も一年違いの同時代人であるが、二人に直接の繋がりがあることは、少なくとも新島側の資料では確認できず、これまで知られていなかった事実であると言える。本稿では、二人の接触を示す本書簡を取り上げ、二人の接点について考察してみたい。
新島襄と福地桜痴―新出資料「福地源一郎宛新島襄書簡」から―一〇六
福地源一郎宛新島襄書簡書簡の内容は以下の通りである。
【封筒】(表)切手有、消印「京都 山城 七 二六 に」東京々橋区尾張町一丁目日報社福地源一郎殿
(裏)消印「東京 十二年 七 二九 に」西京寺町通松蔭丁百四十番地新島襄
【本紙】御書奉拝誦仕候米国グラント前大統領当地訪問中止相成も
新島襄と福地桜痴―新出資料「福地源一郎宛新島襄書簡」から―一〇七 次第不得止事ト存候得共大坂京都両府人民諸士ニ有之テは千万失望大ナリト聞及候小生ニ於テモ特ニ拝謁ヲ奉願之所存有之候ハヽ痛歎ノ極ニ而奉存候貴兄ニハ秘める高等教育重要論ニ対シ御配慮御支援被下候条深く奉鳴謝候也 頓首敬白 七月二十五日 新島襄
福地源一郎殿
一八七九年七月二十五日付の書簡で、京都寺町丸太町の新島の自宅(前年に竣工、引越している)から、東京
新島襄と福地桜痴―新出資料「福地源一郎宛新島襄書簡」から―一〇八
の日報社宛に送られている。日報社は『東京日日新聞』の発行元で、福地は一八七四年に主筆として入社し、一八七六年から社長を務め、一八八八年に退社した。書簡では、グラント前アメリカ大統領の当地訪問が中止になったことにつき、新島はグラントに拝謁することを願っていたので痛嘆の極みであること、秘める高等教育重要論についてのご配慮ご支援について厚くお礼申し上げるという内容を書き送っている。「御書奉拝誦仕候」の文言から、福地からの書簡があり、本書簡はそれに対する返事と推測されるが、福地からの来簡は見つかっていない。
福地源一郎(桜痴)と新島襄福地は「桜痴」の号でよく知られているが、明治を代表する新聞記者の一人である。それだけではなく、政治家や戯曲家、小説家としてなど多彩に活動した。長崎生まれの福地は、幼い頃から漢学を修め、オランダ大通詞の元で蘭学を学び、自らも御稽古通辞や外国船掛として通訳の仕事を務めた。その際に出島のオランダ人が海外事情を知るのに、新聞というツールを使っていることを知る。江戸に出てからは英学を学び、外国奉行支配の御雇通辞として幕府に出仕、この間に二度洋行する機会を得、そこで列強の新聞の威力を直接知るところとなった。江戸開城後、『江湖新聞』を発刊し、自らの佐幕憲政論を説くが、新政府の怒りを買い、投獄される。福地の才を見出した木戸孝允の取り成しによって釈放されるものの、『江湖新聞』は発刊禁止処分となった。この一件により、福地は近世新聞雑誌の筆禍第一号としてもその名が知られる
((
(。その後、旧知の渋沢栄一の紹介で伊藤博文と意気投合した福地は、大蔵省御雇となり、伊藤についてアメリカの貨幣制度調査に同行した。帰国後まもなく、大蔵省一等書記官となり、岩倉遣欧使節団に随行するなど、明治
新島襄と福地桜痴―新出資料「福地源一郎宛新島襄書簡」から―一〇九 新政府の官吏時代にも二度の洋行を果たした
((
(。しかし、二度目の帰国以来、新政府内での分裂、政情不安が高じて、官吏の途を諦めた福地は政府を辞職する。その際に『東京日日新聞』から声がかかり、一八七四年に主筆として入社、改めて新聞記者としての歩みを始めるのである。福地は「太政官記事印行御用」のもとに『東京日日新聞』に官報の一役を担わせたほか、自ら「吾曹」の名で社説を書き続け、大いに人々の興味を引きつけるといった福地の施策により、『東京日日新聞』の発行部数も急速に伸びた
((
(。しかし、一八八三年の『官報』発行により、それまで『東京日日新聞』が担ってきた政府公報的な役割も取って代わられ、退潮に向かうのである。一方の新島は、京都が活動拠点ではあったものの、政財官界をはじめとする有力者達との繋がりがあったことは、これまでの研究で明らかにされてきている。特に一八八〇年代に入ると、同志社英学校を大学に昇格させるための義捐金募集運動が本格化し、有力者達に協力を訴えて全国を回った。新島はこの運動を進めるにあたって、新聞や雑誌を広告掲載や義捐金募集の取扱窓口として積極的に活用した。こうした背景を考慮すれば、福地と新島に接点があると考える方が自然である。
徳富蘇峰を媒介として見る福地と新島福地と新島の接点としてまず挙げられるのは、徳富蘇峰である。徳富は一八七六年から新島の下で学び、卒業を目の前にして同志社を退学し、新聞人として身を立てるべく上京する。そもそも徳富が新聞記者を目指すきっかけになったのが、熊本時代から愛読していた『東京日日新聞』の福地の文章であった。徳富は上京して、福地に会おうと日報社の本社や自宅を訪ねたが、面会を果たすことはできなかった。そこで、当時福地が東京府会議員を務めていた山下町の東京府会を傍聴し、福地を遠目に見て「何やら役者と言ふ程でもないが、講釈師か何か
新島襄と福地桜痴―新出資料「福地源一郎宛新島襄書簡」から―一一〇 の様に見受けられ、これが為に軽蔑を感じたと言ふ程ではないが、予の熱心を唆 そそるわけには参らなかった」とその時の感想を述べている
((
(。徳富の同志社退学は一八八〇年五月二十五日のことであり、本書簡よりも後の出来事である。つまり、徳富が福地に接触する以前に新島と福地は相識の間柄であった。徳富が退学後に福地を目指して上京したことを知ってか知らずか、新島は上京する徳富に福地への紹介状等は持たせなかったことも推測できる。一八八〇年代になると、前述の官報発行による『東京日日新聞』の読者減をはじめ、主筆の交代、経営緊縮に減俸、そして一八八八年には社長解職と、福地の衰勢が顕著となる。一八八九年には吉原貸座敷賦金収賄事件に連座して拘引され、無罪となるものの世間の福地に対する信用は失墜した。そのような不遇の福地に徳富は『国民之友』への寄稿を依頼し、特別寄書として福地の「幕末衰亡論」が百十四号(一八九一年四月三日発行)から三十五回にわたって連載され、連載終了後に単行本として出版された
((
(。『幕末衰亡論』は版を重ねられ、福地の代表作の一つとなった。『幕末衰亡論』に加えて、「懐往事談」「幕末政治家」といった福地の作品も『国民之友』誌上で発表された後に単行本として出版され、徳富は「予も之によって聊か福地に対する酬恩の一片を遂げ得たりと思ひ、衷心欣懐の情に勝 たへざるものがあった
((
(」と回顧している。興味深いのは、「幕末衰亡論」の連載にあたり、徳富が福地を訪ねて寄稿を依頼したが、それまで福地とは「没交渉」であったことである
((
(。「辛うじて彼の居所を探し求め」て依頼したのが一八九一年の春頃とのことなので、新島は既に亡くなっている。そうすると、徳富が福地と新島を繋いだとは考えられなくなるのである。ちなみに『東京日日新聞』には、同志社の広告が二度出ている。一度目は一八八七年で「英学(校)生徒募集広告」として、『東京日日新聞』をはじめ、『時事新報』や『報知新聞』といった関東の新聞を含む六紙に四回ず
新島襄と福地桜痴―新出資料「福地源一郎宛新島襄書簡」から―一一一 つ、九月の新年度に合わせた生徒募集広告を出すことを決めている
((
(。そして翌年十一月には、同志社大学設立に関しての広告が数度にわたって掲載されたのである
((1
(。しかし、一八八七年の生徒募集広告に関しては、福地がまだ日報社にいた時期ではあるものの、広告掲載に関して「同志社記事」の記録以外に、福地はじめ日報社と新島がやり取りした跡は見つからない。大学設立運動に関する広告の掲載は、既に福地が日報社を去った後で、新島がこの時期に『東京日日新聞』への掲載について、井上馨に照会を依頼している
(((
(。
第十八代大統領U・S・グラントの訪日次に、本書簡で新島が「痛歎ノ極」と書き送ったグラントの訪日、特に「当地訪問中止」について見ていきたい。グラントは、第十八代アメリカ大統領の職を退任したのち、一八七七年から一八七九年までの約二年間、夫人と子息と世界漫遊の旅に出た。その旅の最後の訪問地が日本であった。グラント一行は、一八七九年六月二十一日に船で長崎に到着し、約三ヶ月間、日本に滞在した。グラントは、国賓として迎えられ、外務省を中心に接待委員の人選が行われた。接待委員として、伊達宗城(旧宇和島藩主)、蜂須賀茂韶(旧徳島藩主)、鍋島直大(旧佐賀藩主)らの旧藩主と、古沢経範外務少書記官、建野郷三宮内権大書記官らが任命された
((1
(。グラント一行は、入港した長崎を見物した後、船で横浜へ向かい、陸路東京へ入る予定であった。東京では、渋沢栄一、津田仙、大倉喜八郎、そして福地らが東京府民接待委員として一行を歓迎した
((1
(。七月三日に東京新橋駅に到着したグラント一行は、東京府知事の挨拶を受けたのち、府民接待委員である福地の歓迎の辞が述べられ、グラントはこれに対して答辞を述べた。もともと、福地とグラントとは旧知の仲であった。一八七〇年、福地が伊藤博文についてアメリカの貨幣制度
新島襄と福地桜痴―新出資料「福地源一郎宛新島襄書簡」から―一一二
調査へ同行した際、十二月に初めて大統領に謁見したのをはじめ、滞在中に再三顔を合わせていた。グラント一行の滞在日程は、六月二十一日に長崎へ入港、七月三日に横浜上陸、同日東京入りし、東京を中心に日光や箱根を訪れた。滞在期間中に、京都、大阪、神戸などを訪れる予定もあったが、当時コレラが蔓延していた状況に鑑み、関西訪問は中止となったのである。実際、長崎からの東上中、兵庫港にグラント一行の船が停泊したが、特に大阪に近い町でコレラによる死者が多数出ており、上陸の許可が出なかったのである。兵庫港をはじめ、町ではグラント歓迎の準備が行われていたが、そのほとんどが中止となった。特に、京阪遊行の計画が組まれ、その宿割として京都では「今出川御門前相国寺旅館」にて宿泊する予定であると報じられていた
((1
(。まさに同志社の目の前での滞在である。新島はこの京都滞在の間に、グラントへの謁見の機会をうかがっていたのであろう。
むすびにかえて新収蔵資料の福地宛新島書簡を契機に、福地桜痴と新島襄の接点を探ったが、二人を直接的に結びつける接点というのは見つけることができなかった。むしろ、二人の「すれ違い」の関係が浮かび上がってきた。少なくとも書簡の文面からは、グラントの来洛中止の件につき、書簡をやり取りしたのではないかと推測できるものの、本書簡以外の資料は見つかっておらず、手がかりに欠ける。新島は、「貴兄ニハ秘める高等教育重要論ニ対シ御配慮御支援被下候条深く奉鳴謝候」と書き送るものの、福地が同志社大学設立運動に際して「義捐金」を寄せた記録もない。『東京日日新聞』が大学設立運動に関して広告を掲載した際も福地の関与は見出せない。福地と新島は、活動領域や人脈が近接してはいたが、直接的、密接な繋がりは、それほど多くはなかったと推測される。
新島襄と福地桜痴―新出資料「福地源一郎宛新島襄書簡」から―一一三 しかし、本書簡はそのような二人が接触していたということを初めて示したという意味で貴重な資料と言える。本稿では、新島側の資料を中心に福地との接点を探ってみたが、新島の人脈に初めて上ってきた名前でもあり、とりわけこれといった接点を見つけることができなかった。今後は、福地が新島や同志社、延いては私学やキリスト教をどう捉えていたのかを探ってみる必要がある。特に福地時代の『東京日日新聞』に残した膨大な社説に、そのヒントが残されているのではないかと考える。
注(
()海内果(かいない・はたし一八五〇―一八八一)富山出身の民権運動家。同郷の増田盛典らと相益社を創立。海内は自由平等
の思想と富国強兵の必要を説き、商業を重んずることを主張した。そののち、東京日日新聞の記者となった。(富山県史編纂委員会編『新訂富山県の歴史と文化』青林書院新社、一九六三年参照)(
()柳田泉『福地桜痴』吉川弘文館、一九六五年、一二四頁参照。
(
()新島も岩倉使節団に田中不二麿文部理事官の随行として参加しているが、アメリカでの条約改正談判ののち、ヨーロッパ視察
に向かった使節一行に随行した福地とは別働であった。(
()小山文雄『明治の異才
福地桜痴』中央公論社、一九八四年、七九~八一頁参照。(
()徳富猪一郎『蘇峰自伝(復刻版)
』同志社社史資料室、一九九五年、一三二頁参照。(
( (一九二六年)には徳富蘇峰が序文を寄せている。改版』 ()『』版版。その後、民友社から出さてれた『幕末衰亡論友之民出し掲一載の連載に加筆修正し、八と九二年十二月に単行国本
()徳富蘇峰『三代人物史』読売新聞社、一九七一年、二七六頁。
(
()同前書、二七五頁。
(
()新島襄全集編集委員会編『新島襄全集』一、同朋舎出版、一九八三年、二七三~二七四頁参照。
(
(0)太田雅夫『新島襄とその周辺』青山社、二〇〇七年、八二~八三頁参照。
新島襄と福地桜痴―新出資料「福地源一郎宛新島襄書簡」から―一一四
(
(()同前。
(
(()宮永孝訳『グラント将軍日本訪問記』雄松堂書店、一九八三年、一九六~一九八頁参照。なお、外務省はグラントを迎えるに
あたって、吉田清成駐米公使を帰国させ、特命全権大使とした。ここで名前を挙げた接待委員の他に、接待掛、通訳、随員がグラント一行を歓待した。(
(()『東京日日新聞』第二二七四号(一八七九年七月七日付)
、渋沢青洲記念財団竜門社『渋沢栄一伝記資料』第二十五巻、渋沢栄一伝記資料刊工会、一九五九年、四八六頁参照。(
(()京阪遊行計画の宿割は『東京曙新聞』六月十九日号に掲載。宮永、前掲書、七九頁参照。
参考文献・川邊眞蔵『福地桜痴』三省堂、一九四二年。・宮永孝訳『グラント将軍日本訪問記』雄松堂書店、一九八三年。・新島襄全集編集委員会編『新島襄全集』一、三、五、九巻、同朋舎出版、一九八三~一九九四年。・小山文雄『明治の異才 福地桜痴』中央公論社、一九八四年。・渋沢青洲記念財団竜門社『渋沢栄一伝記資料』第二十五巻、渋沢栄一伝記資料刊工会、一九五九年。・田村寿他『三代言論人集』第三巻、時事通信社、一九六二年。・徳富蘇峰『三代人物史』読売新聞社、一九七一年。・徳富猪一郎『蘇峰自伝(復刻版)』同志社社史資料室、一九九五年、一三二頁。・柳田泉『福地桜痴』吉川弘文館、一九六五年。