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『源氏物語』須磨退去の理念 : さては琴一つぞ

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『源氏物語』須磨退去の理念 : さては琴一つぞ

著者 栗生 浩二

雑誌名 同志社国文学

号 38

ページ 94‑104

発行年 1993‑03

権利 同志社大学国文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000005088

(2)

﹃源氏物語﹄須磨退去の理念

﹃源氏物語﹄須磨退去の理念

さては琴一っぞ

    はじめに

 光源氏が都を離れ︑須磨の地に退居するにあたって所持したのは︑

殊更に質素な調度の他は︑極めて限られている︒

 かの山里の御住処の具は︑えさらずとり使ひたまふべきものども︑

 ことさらよそひもなくことそぎて︑またさるべき書ども文集など

 入りたる箱︑さては琴一っぞ持たせたまふ︒      0       ︵﹁須磨﹂二巻二一五頁︶

 特に﹁文集﹂と﹁琴﹂は︑光源氏の須磨退去において重要な意味

をもつものといえよう︒﹁文集﹂は︑﹃花鳥余情﹄によると︑﹁白楽

天の詩賦をあつめたる七十二巻あり長慶集といへり長慶年中にあつ     ◎めたる故なり﹂という︒白楽天の﹃文集﹄は︑光源氏の須磨に向か

う途次︑あるいは須磨の地での生活そのものであった︒それは︑光 九四

      栗  生  浩  二

源氏の心情においてである︒と同時に︑須磨退居のありようそのも

のが﹃文集﹄によっている︒さらにいえば︑﹁琴一つぞ持たせたま

ふ﹂とある︒それ自体が︑すでに﹃文集﹄の﹁草堂記﹂を典拠とす

ることは︑諸注の指摘するところである︒       漆琴一張儒道仏書各三両巻楽天既来為主自氏文集草堂記

 光源氏の所持する﹁さるべき書﹂もまた︑ここにいう﹁儒道仏

書﹂の類とみなされよう︒それらには光源氏の運命と治世のありよ

うに対する思念がみてとれるであろう︒そして︑いま一つ︑﹁琴﹂

である︒﹁琴﹂もまた︑退居する光源氏の所持するにふさわしいも

のである︒そうであるとして︑光源氏の所持する﹁琴﹂は︑草堂の

ものであるのにとどまらない︒むしろ︑光源氏とその物語そのもの

を導くものとなる︒そのことは︑明石入道一族の﹁箏﹂との対応に

おいてより明確になる︒まさに︑﹃源氏物語﹄︑とりわけ須磨・明石

(3)

両巻の根幹に位置するといえよう︒

 ﹁琴﹂の琴や﹁箏﹂の琴に関してもこれまで山田孝雄氏の﹃源氏    @物語之音楽﹄以来︑音楽という視点から論じられてきた︒そこでは︑

先行の物語の影響関係に立っての論考や︑あるいは﹃源氏物語﹄に

おける人物造型との関連を通しての論考︑また楽器の相伝に関する

論考など︑さまざまな議論がなされてきた︒いわば﹃源氏物語﹄に

おける音楽の方法と一括しうるものであった︒しかし︑﹃源氏物語﹄

の音楽の方法といった枠組を超えるところに︑この物語の新しい読

みがみえてくるにちがいない︒

 光源氏が須磨の地を去り︑明石に移り︑そしてこの地をあとに都

に帰ろうとするとき︑

 ﹁さらば︑形見にもしのぶばかりの一ことをだに﹂とのたまひて︑

 京より持ておはしたりし琴の御琴取りにつかはして︑

       ︵﹁明石﹂二巻二九八−二九九頁︶

とある︒そのように明石の上に自らの﹁形見﹂として残してゆく︒

須磨への退居に際して携えた﹁琴一つ﹂は︑明石から都への帰途に

﹁形見﹂として残してゆくものとなっているのである︒いわば︑光

源氏の須磨・明石の物語は﹁琴﹂の琴をもって始動し︑終結してい

     ﹃源氏物語﹄須磨退去の理念 るのである︒言いかえるなら︑須磨・明石の物語は︑﹁琴﹂の琴によって統括されながら︑その中で展開しているともいえよう︒﹁琴﹂の琴と須磨・明石の物語が密接な関係にあるものとして考えるとき︑次に示す例もまた示唆的である︒ 例の︑箏築吹く随身︑笙の笛持たせたるすきものなどあり︒僧都︑ 琴をみづから持て参りて︑﹁これ︑ただ御手一つあそばして︑同 じうは︑山の鳥もおどろかしはべらむ﹂と︑切に聞こえたまへば︑ ﹁乱れごこちいと堪へがたきものを﹂と聞こえたまへど︑けにく からずかき鳴らして︑皆立ちたまひぬ︒ ︵﹁若紫﹂一巻二〇六頁︶

﹁琴﹂は︑﹁きん﹂であり︑﹁琴﹂の琴を指す︒﹃源氏物語﹄中︑﹁琴﹂

の琴の初出例である︒そして︑光源氏が北山にやってきてまもなく︑

供人から語られたことは︑明石の浦に住まう前播磨の守入道とその

一人娘の噂であった︒﹃源氏物語﹄においてはじめて﹁琴﹂の琴が

かき鳴らされ︑そして同じくはじめて明石の物語の物語が語られる

のが︑同じ北山であった︒いま︑﹁琴﹂の琴によって須磨・明石の

物語が統括されながら展開しているという視点に立っとき︑注目し

てもよいであろう︒

 ﹁琴﹂の琴によって統括されたものとして須磨・明石の物語に読

み直すとき︑どのような物語が立ち上がってくるであろうか︒

 須磨巻において光源氏が﹁琴﹂の琴を弾くのは︑次の三例である︒

       九五

(4)

     ﹃源氏物語﹄須磨退去の理念

 琴をすこしかき鳴らしたまへるが︑われながらいとすごう聞こゆ

 れば︑弾きさしたまひて︑

   恋ひわびて泣く音にまがふ浦波は

     思ふかたより風や吹くらむ

 と歌ひたまへるに︑人々おどろきて︑めでたうおぼゆるに︑忍ば

 れで︑あいなう起きゐっっ︑鼻を忍びやかにかみわたす︒

      ︵﹁須磨﹂二巻二一二七頁︶

須磨のわび住まいにあって自らのおかれた境涯を嘆くものとして

﹁琴﹂の琴はかき鳴らされている︒

 冬になりて雪降り荒れたるころ︑空のけしきもことにすごくなが

 めたまひて︑琴を弾きすさびたまひて︑良清に歌うたはせ︑大輔︑

 横笛吹きて︑遊びたまふ︒心とどめてあはれなる手など弾きたま

 へるに︑ことものの声どもはやめて︑涙をのごひあへり︒

      ︵﹁須磨﹂二巻二四六頁︶

この例もまた須磨の退居の生活に耐えるおのれの境遇を嘆くものと

して﹁琴﹂の琴は弾かれている︒

 そのころ︑大弐はのぼりける︒︵中略︶浦づたひに遣逢しつっ来

 るに︑ほかよりもおもしろきわたりなれば︑心とまるに︑大将か

 くておはすと聞けば︑あいなう︑好いたる若き娘たちは︑船の内

 さへはづかしう︑心懸想せらる︒まして五節の君は︑網手引き過        九六 ぐるもくちをしきに︑琴の声︑風につきて逢かに聞こゆるに︑所 のさま︑人の御ほど︑ものの音の心細さ取り集め︑心ある限りみ な泣きにけり︒       ︵﹁須磨﹂二巻二四一−二四二頁︶この例にみる﹁琴﹂の琴の音もまた︑﹁心ある﹂人々の涙をさそうものとしてかき鳴らされているという点において︑先にみた二例に通うもののようではある︒ところで︑本居宣長は﹁琴の声︑風につ       きて﹂の部分に対して次のように注している︒ 琴の音は︑いとかすかなる物なるに︑五節がのれる船まで聞えた ることいかがと︑疑ふ人あるは︑右の上手のきんの音のやうをし らざる也︒いとかすかなるやうなれども上手のひくには︑思ひの 外に︑遠きところまでよく聞えし也︒今の世琴の伝へ絶えたるを︑ 近きほど︑もろこしの国の後世の琴をひく人︑まれまれに有て︑ みづからは心をやりて上手と思ふめるもあれば︑そはわづかにひ くといふばかりにこそあらめ︑さらに古への上手の足もとにもよ るべからねば︑さるともがらの︑とかくいにしへをうたがふは︑ あぢきなきわざ也︒宣長は︑名手の弾く﹁琴﹂の音はかすかではあっても遠くまで聞えるものであると合理的に説明しているが︑どうであろうか︒注目すべきは︑﹁五節の君﹂と﹁琴の圭仁との連関性であろう︒いわゆる︑      @       ¢     @五節の起源は︑﹃本朝月令﹂や︑﹃十訓抄﹄︑﹃江談抄﹄などに伝える

(5)

ところである︒五節の始まりは︑﹃続日本紀﹄天平十四年一月十六

日条に見える︒﹃続日本紀﹄には︑天平十四年一月の踏歌の饗宴に

おける﹁琴﹂の弾歌と︑天平十五年正月︑石原宮での饗宴における       ﹁琴﹂の弾歌が見える︒荻美津夫氏によると︑﹁まだ節会として成立

する以前の儀式が饗宴としてみられる﹂のであり︑﹁この時期の饗

宴における音楽というのは︑その音楽の性格︑儀式の性格︑すなわ

ち日本古来のもの外来のものに関係なく︑おもに饗宴の余興的音楽      @として自由に行なわれていた﹂といわれる︒また︑林屋辰三郎氏は︑

天平十五年五月五日におこなわれた五節の舞において太上天皇︵元

正︶の詔と御製の一首を挙げ︑﹁ここにおいて︑五節舞は︑明白に

遊びではなく︑君臣祖子の理という儒教的教訓を与えるものとして

うち出されたのであり︑当時の政治的情勢のなかで︑それはきわめ       0て大きな意義をもたされているのである﹂と述べておられる︒﹁五

節の君﹂と﹁琴の声﹂との連関の最も中枢となるものは︑両者が儒

教的な徳治主義の理念という一点にあろう︒もちろん︑﹃源氏物語﹄

のこの条に︑そういった儒教的な徳治主義の理念が濃厚な形で語ら

れているというわけではなかろう︒ただ︑須磨の地でかき鳴らされ

る﹁琴﹂の琴の音が︑五節の君が乗る船まで聞えるということにつ

いての理解に対して︑宣長が注した合理的な解釈よりも︑五節の君

と﹁琴﹂の琴とが互いに儒教的な徳治主義の理念を負うている︒そ

     ﹃源氏物語﹄須磨退去の理念 ういった背景の中で︑﹁琴﹂の琴の音が聞えていると解することの妥当性を問題にしたいのである︒ そこでそもそも﹁琴﹂の琴とはどういうものであるのかという点について考えたい︒光源氏が須磨退居に際して﹁さては琴一つぞ持たせたまふ﹂とあるのは︑たとえば︑﹃風俗通﹄に﹁琴者︑楽之統也・君子所一常御不一離一於身こ一一初学記一琴﹁叙靴一一とあるように︑﹁琴の琴﹂が︑中国の楽器の中でも第一のものとされ︑常に君子の傍近くに置くものであるとされていたことを踏まえたものであろう︒さらに﹃白虎通﹄に﹁琴者禁也︒禁二止於邪︑以正二人心一也一一一初学記一琴﹁乳一一とあるように・一一の﹁琴一の琴を弾ずることによって人心を正しくし︑天下の平和を生ずることもできる︑という意味を含んでとらえられた︑儒教的色彩の濃い楽器であった︒

一﹂うして﹁琴﹂の琴は単に演奏のための楽器としてだけではなく︑

いわば礼楽思想における﹁楽﹂としての位置をもになっていたと考

えられる︒たとえば︑﹃礼記﹄において︑

 ソ    ズル    ヨリ        ク    ニ    ニ ル    ニ     ス  ヲ   フ 凡音者生二人心一者也︒情動二於中一︑故形二於聲一︒聲成レ文︑請ニ ヲト  ノニ   ハ クシテテシム ノ ラゲパナリ    ハ 之音一︒是故治世之者︑安 以楽︑其政和  ︒乱世之者︑

 ミテ テ ル   ノ   ケパナリ        ハ ミテ テ フ   ノ   シメパナリ        ハ 怨以怒︒其政乖 ︒亡國之者衰以思︒其民困  ︒聲音之道︑    ズ       @ 與レ政通実︒︵巻第十九﹁楽記﹂︶

とあり︑治世の善悪が楽音のうえに現れるのだと論じている︒

       九七

(6)

     ﹁源氏物語−須磨退去の理念

 このような﹁琴﹂の琴がもつ属性ともよべることがらは﹃源氏物

語−においてもみとめうる︒たとえば︑﹁琴の音を離れては︑なに

事をか︑もの調へ知るしらべとはせむ﹂︵若莱下・一八二頁︶とあ

るのは︑琴の七弦の各弦が音律︵呂旋音階︶の基準とされたという

ことだけにとどまらず︑治世のあり方を知るしらべとしても位置づ

けられよう︒あるいはまた︑﹁︵﹁琴﹂の琴は︶げにはた︑明らかに

空の月星を動かし︑時ならぬ霜雪を降らせ︑雲・雷を騒がしたる例︑

上りたる世にはありけり﹂︵﹁若莱下﹂ 一八一頁︶と光源氏によって

語られる琴の論は︑﹁琴﹂の琴が天変をよび起こすものとして語ら

れている︒さきほどあげた﹃礼記﹄に従って考えるなら︑その治世

がよくおさまっているとはいい難いとき︑天は﹁琴﹂の琴の音に感

応して︑天変をひきおこすのだといっているのであろう︒ただし光

源氏自身︑そのような例は﹁上りたる世にはありけり﹂といってい

るのであって︑今もまた︑﹁琴﹂の琴の音には天変が生じることが

あるとは言っているわけではない︒そもそも光源氏の語る︑﹁琴﹂

の琴によっておこる天変は︑﹃宇津保物語﹄において印象的に語ら

れるものである︒たとえば︑吹上の下巻︑神泉苑において︑

 仲忠︑かの七人の︑︿人ノ傳ヘシ手︑﹀涼は︑彌行が琴を少しねた

 う仕うまつるに︑雲の上より響き︑地の下よりとよみ︑風︑雲動

 きて︑月︑星騒ぐ︒︿飛礫﹀のやうなる氷降り︑雷電鳴り閃めく︒        九八       @ 雪表のごと︿凝﹀りて降る︒即ち消えぬ︒︵三七九頁︶という例などがそれである︒﹁源氏物語﹂においては︑﹃宇津保物語﹄にみられるような形での﹁琴﹂の琴による天変は語られてはいない︒中川正美氏は︑﹁物語は奇瑞を取り入れて主人公に超絶性を与えた︒しかし源氏物語には奇瑞は一例としてみえない﹂といわれる︒また﹁源氏物語の音楽は︑その世界は日常性の枠を出ることが @ない﹂といわれる︒とするならば︑須磨・明石巻にみられる天変は︑﹁琴﹂の琴と何ら連関をもつものではないと考えるのが妥当なのだろうか︒須磨・明石巻にみられる天変は何であるのかという点に関しては︑須磨・明石巻の光源氏の物語の准拠として︑これまで周公      ○旦東征の故事がその有力なものとして論じられている︒ だが︑これまで述べてきたように︑須磨・明石巻が﹁琴﹂の琴によって統括されながら︑しかもその統括された中において︑天変や夢想といった神秘的な物語が語られていることを考えたとき︑もう

一度︑﹁琴﹂の琴のもっ意味に立ちもどってみたい︒

 ﹁琴﹂の琴を礼楽思想にもとづく﹁楽﹂としての位置でとらえた

とき︑光源氏が︑須磨巻で何度となく弾じるのは︑白らが置かれた

境涯を嘆くことだけにとどまるのではなく︑治世のあり方そのもの

をも嘆じるひびきであるはずである︒

 かりそめの道にても︑かかる旅をならひたまはぬここちに︑心細

(7)

 さもをかしさもめづらかなり︒大江殿と言ひける所は︑いたう荒

 れて︑松ばかりぞしるしなる︒

  唐国に名を残しける人よりも

    ゆくへ知られぬ家居をやせむ  一﹁須磨﹂二巻二二五頁一

光源氏が都を離れ︑須磨にむかう途次︑光源氏がうたうこのうたに

対して︑﹃河海抄﹄は︑

 楚屈原かはなたれたりし事をいふ歎

 楚辞漁父序日漁父者屈原之所作漁父避俗時遇屈原惟而問之遂相応

 答屈原既放身舟遊江潭戯水側行吟沢嘩棚閉顔色僚悼過也一不本遇也一       ゆ 杜詩注日屈原有宅在帰州

と︑屈原の故事をあげている︒戦国時代︑楚の王族であった屈原は︑

国政に力を尽くすが護言にあい追放され︑中国南方︑江潭をさすら

い︑ついに泪羅の淵に身を投じると伝えられている人物である︒光

源氏が須磨に退居することと︑屈原の追放という故事を重ねあわせ

ようとするのではない︒屈原が江潭をさすらい︑ついに泪羅に身を

投じたという行為そのものが︑死を賭する帝への謹言であったとい

う点に注目したい︒屈原はいわば諌言の人であった︒そして光源氏

もまた今上帝に対して諌言を呈しているのだと考えることはできま

いか︒さらに言うならば︑須磨・明石巻に現象するところの天変も

また︑光源氏が﹁楽﹂としての﹁琴﹂の琴をかなでることを通して

     ﹃源氏物語﹄須磨退去の理念 今上膏の治世への謹言のあらわれであったと考えられはしまいか︒須磨・明石巻に語られる︑天変を︑右のような考察においたとき︑おのずと︑たとえば︑﹃宇津保物語﹄においてみられるような奇端現象とは異質のものであることは明らかとなる︒であるからこそ︑

﹃源氏物語﹄の語り手にとっては︑﹁琴﹂の琴によって感応した天変

を︑単なる奇端に位置づけられなかったであろう︒あくまで︑実際

にあったことを語っているのだということを正当化しようとするの

である︒

 須磨・明石巻が﹁琴﹂の琴によって統括されながら展開し︑そこ

では︑天変が語られ︑それを﹁そらごと﹂ではない︑実際にあった

ことを語っているのだと正当化する手だてとして︑物語の終末に︑

﹁箏﹂の琴を置いている︒

 この常にゆかしがりたまふものの音など︑さらに聞かせたてまっ

 らざりっるを︑いみじう恨みたまふ︒︵中略︶入道︑え堪へで︑

 箏の琴取りてさし入れたり︒みづからも︑いとど涙さへそそのか

 されて︑とどむべきかたなきに誘はるるなるべし︑忍びやかに調

 べたるほどいと上衆めきたり︒ ︵﹁明石﹂二巻二九八−二九九頁︶

 ところで︑﹃源氏物語﹄においては︑﹁琴﹂の琴と﹁箏﹂の琴は︑

       九九

(8)

     −源氏物語−須磨退去の理念

非常に対照的に扱われている︒まず第一に両者の奏法の相伝にかか

わる点についてである︒﹁箏﹂の琴に関して明石の入道が次のよう

に語る︒ ﹁なにがし︑延喜の御手より弾き伝へたること︑三代になむなり

 はべりぬるを︑かうつたなき身にて︑この世のことは捨て忘れは

 べりぬるを︑ものの切にいぶせきをりをりは︑かき鳴らしはべり

 しを︑あやしうまねぶもののはべるこそ︑自然にかの先大王の御

 手に通ひてはべれ︒︵以下略︶﹂ ︵﹁明石﹂二巻二七六−二七七頁︶

明石の入道は︑自らのことばによって﹁箏﹂の琴が天皇家からその

奏法が相伝されているのだと語っているのである︒醍醐天皇︑そし

てその親王︑それから自分へと三代にわたって﹁箏﹂の琴は相伝さ

れ︑娘である明石の上は︑親王の弾き方に似る︑というのである︒

﹁箏﹂の琴の奏法の相伝は明確であり︑しかも天皇に発するもので

あるという点で注目すべきことがらであるといえる︒

 一方︑﹁琴﹂の琴の奏法の相伝についてはどうか︒﹁琴﹂の琴を弾

じる人物が︑光源氏をはじめとして末摘花・兵部卿宮・女三宮・八

の宮などといった人々であることは語られていても︑奏法の相伝と

なると必ずしもはっきりと語られてはいない︒とくに光源氏に対す

る﹁琴﹂の琴の奏法の相伝については何も語られていないようなの

である︒        一〇〇 この御琴は︑宜陽殿の御物にて︑代々に第一の名ありし御琴を︑

故院の末っかた︑一品の宮の好みたまふことにて︑賜はりたまへ

 りけるを︑このをりのきよらを尽くしたまはむとするため︑大臣

 の申し賜はりたまへる御伝へ伝へをおぽすに︑いとあはれに︑昔

 のことも恋しくおぽし出でらる︒ ︵﹁若莱上﹂五巻五一−五二頁︶

これは玉竈による光源氏四十賀の条であるが︑ここでは御物として

の楽器の相伝を語ってはいても︑奏法の相伝を語っているわけでは

ない︒また︑上地敏彦氏や広田収氏によって示された︑

 桐壼帝⁝光源氏⁝女三宮:・薫

といった﹁琴﹂の琴に関する采譜については︑はたして奏法の相伝

がこういう形でなされているのか疑問である︒女三宮から薫への相

伝は︑琴の譜二巻であって︵﹁宿木﹂二五一頁︶︑奏法の相伝とはい

えない︒又︑桐壼帝から光源氏の相伝については︑光源氏と帥の宮

が才芸について論じ合うところにおいて︑帥の宮の語る内容が参考

となろう︒

 院の御前にて︑親王たち︑内親王︑いづれかは︑さまざまとりど

 りの才習はさせたまはざりけむ︒そのなかにも︑とり立てたる御

 心に入れて︑伝へうけとらせたまへるかひありて︑文才をばさる

 ものにて言はず︒さらぬことのなかには︑琴弾かせたまふことな

 む一の才にて︑次には横笛︑琶琵︑箏の琴をなむ︑次々に習ひた

(9)

 まへると︑上もおぽしのたまはせき︒

       ︵﹁絵合﹂三巻一二丁一二二頁︶

ここには︑親王たちに対して︑桐壼帝が直に奏法を相伝したという

ことは語られていない︒あくまで︑﹁院の御前にて﹂なのであって︑

具体的に光源氏が﹁琴﹂の琴を誰から︑その奏法を相伝したのかは︑

この本文からは読みとることはできない︒したがって先に示した︑

 桐壼帝←光源氏

といった相伝は︑﹃源氏物語﹄の中では語られていないのである︒

ではいったい誰が光源氏に﹁琴﹂の琴の奏法を相伝したのか︒この      ゆ点について三苫浩輔氏は︑﹁世にある物の師﹂であるとされた︒

 はかばかしく伝へ取りたることは︑をさをさなけれど︑何ごとも︑

 いかで心に知らぬことあらじとなむ︑幼きほどに思ひしかば世に

 あるものの師といふ限り︑また高き家々の︑さるべき人の伝へど

 もをも︑残さずこころみしなかに︑いと深くはづかしきかなとお

 ぼゆる際の人なむなかりし︒    ︵﹁若菜下﹂五巻一六八頁︶

だが︑三苫氏は同時に︑光源氏がこの中で︑﹁いと深くはづかしき

かなと覚ゆる際の人なむなかりし﹂と失望のふかさを示す述懐に及

んでいる点にふれ︑次のように述べられる︒

 とすれば︑もって生まれた素質をもとに︑人にたよらずおのれ一

 己のちからによって至難の極意を会得したとみなければなるまい︒

     ﹁源氏物語﹄須磨退去の理念  それはやはり︑神か天人か知らぬが︑それらの霊格から伝授され たという物語以前のあることを想わせずにはおかない︒つまり︑﹃源氏物語﹄において﹁琴﹂の琴の第一の名手とされた光源氏に対しては︑奏法の相伝は語られていないのだということになろう︒三苫氏のことばによれば︑﹁神か天人か知らぬが︑それらの霊格から伝授された﹂ということになろう︒じつは一﹂うした理解が必ずしも単なる想像ではなく︑逆により積極的な証左を与えてくれる例が﹃源氏物語﹄に見い出されるのである︒ 久しう手触れたまはぬ琴を︑袋より取り出でたまひて︑はかなく かき鳴らしたまへる御さまを︑見たてまつる人もやすからず︑あ はれに悲しう思ひあへり︒広陵といふ手を︑ある限り弾きすまし たまへるに︑       ︵﹁明石﹂二巻二七五頁︶とあるのがそれである︒注目したいのは︑﹁広陵といふ手﹂という本文である︒諸注︑これを﹁広陵散﹂のことであると指摘している      @が︑この点には多少の疑問のないわけではない︒が︑いま﹁広陵といふ手﹂を﹁広陵散﹂のことであると考えるとき︑﹃河海抄﹄や﹃花鳥余情﹄の注釈は︑これまで述べてきた﹁琴﹂の琴の奏法の相伝に対して示唆的である︒﹃河海抄﹄は次のように注している︒ 晋書蕾康伝日奮康嘗遊洛西暮宿華陽亭引琴弾夜分忽有客詣之称是 古人而︵与︶康共談音律辞致清弁因索琴弾之而為広陵散声調絶倫       一〇一

(10)

     ﹃源氏物語﹄須磨退去の理念

 遂以授康侃誓不伝人亦不言其姓字

 雑抄云毬康字叔夜晋時議国人也康所居之処毎聞有人声懐切康及寛

 不有人後復同声康更尋探見一謁霞贋鐙眼腫而生康見感之乃収為好

 埋葬従是以去不聞懐切之声有頃於夜中夢見一人日我是伶人也然我

 骸骨散野為蔵所傷不堪痛切蒙君憐慾荷徳之深所相報令授広陵散以

 酬君徳康於夢中度之及覚宛然即得

 霊異志日蕾康宿華陽亭操琴而聞空中称善中散日君何不来此答云身

 是古人幽残出此数千年実聞君弾琴幽曲清和故来聴而就終残致不宜

 及以琴授之作曲亦不出常唯広陵散絶倫中散受之誓不得教他人

 或書云毬康字叔夜与向子期友善子期伝屋至家者為妖精被侵叔夜客

 子期終夜調琴及半夜除骨骸付陰来也叔日阿誰答日莫性我秦時之楽

 士也名伶倫栖此処久ム矢然屋干我凶月中積有年憂之故来訴所以已汝為

 吾按之為幸菱授広陵散楽名謝云自是叔夜琴名大震干世実晋帝詔叔

 願令授后不応詔是以終被諌康将刑東市顧視日影索琴而弾之日昔表      ゆ 孝尼嘗以吾学広陵散吾毎斬之広陵散於今絶実

この注によれば︑蕾康は広陵散を︑﹁古人﹂﹁伶人﹂﹁伶倫﹂といっ

た人々によって伝授されている︒さらに﹃花鳥余情﹄では︑

 広陵散は琴の秘曲なり︒葡康が花陽の亭にて神人にあひてつたへ       ゆ たる曲也︒此神人はむかしに伶倫の変化也︒

と注している︒﹃河海抄﹄や﹃花鳥余情﹄は︑いずれも広陵散とい        一〇二う琴曲が﹁古人﹂﹁伶人﹂﹁伶倫﹂﹁神人﹂から相伝されたものであると注している︒また﹃河海抄﹄のいうようにこの琴曲は︑今はすでに絶えた曲である︒とするならば︑光源氏はこの琴曲を誰から相伝されたのか︒奮康が﹁古人﹂﹁伶人﹂﹁伶倫﹂﹁神人﹂から相伝されたように︑光源氏もまたそのような人々から相伝されたのだと﹃花鳥余情﹄などは注しているのであろう︒ このように考えていくと︑﹃源氏物語﹄をよむ限り﹁琴﹂の琴の相伝︑中でも光源氏への相伝は︑はっきりとは語られていないのだとみてよかろう︒﹁箏﹂の琴の相伝が明確に語られているのに比べて非常に対照的である︒ ﹁琴﹂の琴が相伝されにくかった事情についてその奏法が難解であったことは︑﹁調べひとっに手を弾き尽くさむ事だに︑はかりなきものなり﹂︵﹁若菜下﹂五巻一八二頁︶と語られ︑だからこそすでに衰微した楽器であったことも﹁琴はた︑まして︑さらにまねぶ人なくなりにたりとか︒﹂︵﹁若莱下﹂五巻一八二頁︶︑﹁今は︑をさをさ伝ふる人なしとか︒いとくちをしきにこそあれ﹂︵﹁若菜下﹂五巻

一八二頁︶と語られている︒﹁琴﹂の琴はすでに奏法の絶えたもの

として描かれ︑失われていくものの象徴であるともいえる︒逆にい

えば︑昔をなつかしむといった尚古の思想が加わることにもなり︑

現に﹃源氏物語﹄の中では︑﹁琴﹂の琴の音は︑昔を懐古すること

(11)

とともにある︒先に引いた﹁広陵散﹂という琴曲もいまはすでに絶

えた曲であり︑中国においては︑﹁昔の文人で広陵散を知らない者

はなかった︒彼らは失われた文化にっいて書くときに︑よく﹃すで      ゆに広陵散となりぬ﹄と表現したものだ﹂という︒一方︑﹁箏﹂の琴

は︑奏法が割合に容易であったという点からも後々にも伝わり︑

﹁箏﹂の琴は﹃源氏物語﹄におけるいまも弾じられているのであっ

て︑この点においても﹁琴﹂の琴とは対照的である︒

 ﹁琴﹂の琴と﹁箏﹂の琴が対照的に扱われていると考えられる二

点目の例として︑これら二っの楽器が実際に演奏されているところ

に注目してみたい︒まず︑﹁箏﹂の琴についてであるが︑これに関       ゆしては清水好子氏の考察がある︒清水氏は︑紫式部が﹁箏の琴とい

うのを一番重んじている﹂といわれる︒そして﹃源氏物語﹄におい

て︑箏は﹁女性にふさわしいもので︑やはり天皇家から奏法という

ものが︑正統的なものが伝わっている﹂という認識をもっていると

される︒さらに﹁詳細な︑技術的な弾き方とか︑楽器の性格とか︑

曲名︑季節によって調子が変わる﹂など︑﹁箏の琴に殊に詳しい﹂

ことを指摘しておられる︒

 では﹁琴﹂の琴はどうであろうか︒

 きん 琴は︑五個の調べ︑あまたの手のなかに︑心とどめてかならず弾

 きたまふべき五六のはらを︑いとおもしろく澄まして弾きたまふ︒

     ﹃源氏物語﹄須磨退去の理念  さらにかたほならず︑いとよく澄みて聞こゆ︒春秋よろづのもの に通へる調べにて︑通はしわたしつつ弾きたまふ︒       ︵﹁若菜下﹂五巻一八四頁︶光源氏が和琴を弾き︑﹁琴﹂の琴を女三宮が弾く︒そして︑﹁琴﹂の琴の演奏を具体的に記しているものは︑この一例のみである︒

まとめ

 須磨・明石の物語は︑﹁琴﹂の琴によって始動し︑終結する︑い

わば︑﹁琴﹂の琴によって統括されながら展開する物語である︒そ

れは︑主に天変を中心に置いた物語であり︑その契機となるのが

﹁琴﹂の琴であったのではないか︒﹃宇津保物語﹄の﹁琴﹂の琴のよ

うな天変の奇端とは質を異にする︑いわば︑政治的な背景をかかえ

こんだ奇端であったとするならば︑当然︑語り手にとって︑その天

変は︑単なる﹁そらごと﹂ではない︒実際にあったことを書いたも

のであることを示さなくてはならなくなろう︒そこには︑この物語

が﹁そらごと﹂ではないといった物語の事実化への強い意志が示さ

れることになる︒そのことは同時に︑それ以前の物語とは一線を画

した明確な歴史意識が要求されることにもなってこよう︒

 ﹁琴﹂の琴によってもたらされたであろう﹁そらごと﹂は︑﹁箏﹂

の琴によって実際にあったこととして包括され︑このことは︑﹃源

      一〇三

(12)

     ﹁源氏物語﹄須磨退去の理念      ゆ氏物語﹄における語りの﹁入れ子構造﹂

の物語を語っていると考えられる︒ と照応する形で須磨・明石

¢ 清水好子氏・石田穣二氏校注﹁源氏物語﹄新潮日本古典集成︑第二巻︑

 一九八七年︒以下︑本文の引用はこれによる︒

  伊井春樹氏編﹃松永本 花鳥余情﹂源氏物語古注集成︑九四頁︑桜楓

 社︑一九七八年︒

  玉上琢蘭氏編﹃河海抄﹄三一〇頁︑角川書店︑一九八六年︒

@ 山田孝雄氏︑初版一九三四年︑復刻版一九六九年︑宝文館出版︒

  本居宣長﹁源氏物語玉の小櫛﹄第九巻︑筑摩書房︑一九六九年︒

@和田英松氏︐國音逸文﹄一ニハ頁︑國音逸文研究会︑一九七九年︒

¢ 黒板勝美氏﹁十訓抄﹄国史大系︑一五二頁︑吉川弘文館︑一九一八年︒

ゆ 群書類従︑第二十七輯五百五十頁︑続群書類従完成会︑一九三二年︒

  黒板勝美氏﹃続日本紀﹄国史大系︑上巻:ハ七頁︑一七一頁︑吉川弘

 文館︑一九八九年︒

@ 荻美津夫氏﹃日本古代音楽史論﹄︑吉川弘文館︑九七頁︑一九七七年︒

@ 林屋辰三郎氏﹁中世芸能史の研究﹂︑岩波書店︑一五八頁︑一九六〇

 年︒@ ﹁初学記﹄巻一六︑楽部下︒中華書局出版︑一九六二年︒

@@に同じ︒

@ ﹃全釈漢文大系﹄︑第十三巻︑集英社︑一九七七年︒

@ 河野多麻氏校注︐宇津保物語﹄日本古典文学大系︑第一巻︑岩波書店︑

 一九五九年︒

@ 中川正美氏﹃源氏物語と音楽﹄七三頁︑和泉書院︑一九九一年︒ 一〇四

@ 阿部秋生氏﹃源氏物語研究序説﹄六五七ぺ−ジ︑東大出版会︑一九五

 九年︒@ に同じ︒

@ 上地敏彦氏﹁宇津保物語が源氏物語に与えた影智について︵上︶﹂﹁平

 安文学研究﹂六五輯︒広田収氏﹁﹃源氏物語﹄における音楽と系譜﹂﹃源

 氏物語の探究 第十三輯﹄風問音房︑一九八八年︒

ゆ 三苫浩輔氏﹁源氏物語の音楽相伝﹂﹃沖縄国際大学文学部紀要﹄第二

 五号︑一九八八年︒

ゆ ﹁広陵﹂に対して大島本は﹁かうれう﹂︒また︑諸本いずれも﹁かうれ

 う﹂となっている︵池田亀鑑氏﹃源氏物語大成−第一巻︑中央公論社︑

 一九五六年︑四五三頁︶︒鈴木朗は︑﹁広陵散ならば︑くわうりようとか

 くべきを︑かなちがへるはいぷかし︒又広陵をくわうりようとばかりも

 いふべからず︒又︑広陵散は茜康にて絶えたりと言ひ伝ふるに︑こなた

 に伝はれるも覚束なし︒外にかうれうといふは手のありしにや︒﹂︵﹃源

 氏物語玉の小櫛補近﹄︶と疑問を呈している︒山田孝雄氏はこの朗の疑

 問に対して︑﹁かうれう﹂を﹁くわうりよう﹂とするのは︑﹁詑言﹂であ

 るとする︵注@に同じ︑︐源氏物語の音楽﹄︶︒この問題については改め

 て論じたい︒

ゆ に同じ︒

@ に同じ︒

ゆ 孫玄齢氏﹃中国の音楽世界﹄二八頁︑岩波新書︑一九九〇年︒

@清水好子氏﹁源氏物語と音楽﹂﹃国文学﹄関西大学国文学︑一九九二

 年十二月︒

ゆ廣川勝美先生﹁身体と樹木の宇宙誌﹂﹃文学−一九八八年二月︒

参照

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四、夢の浮橋饗宴 き よ う え

源氏の物語と夕霧の物語を積極的に対置させることにあり、夕霧をめぐる物語解釈の一面

     ﹃源氏物語﹄にみる物語の論理〃

異は︑まず︑そのような点に認めることができる︒

      ﹁源氏物語﹂螢巻物語論

性︑ 伊周の事蹟と源氏物語と の関係 などを概括的 に指摘し て︑時代 と の関わ りの問題を考慮 に入れな いでは︑ ﹁源氏物語 の作 品分析と.. における帝

示あ さり れ、 て﹃ い源 る。基本的には傍注が用いられており、また、

   大阪夏の陣で勝利する前に︑すでに家康は源氏学と歌学の権威た る公家たちから ︑﹃源氏物語﹄の講義を受けている ︒ちなみに