成」
著者 今泉 康弘
出版者 法政大学国文学会
雑誌名 日本文学誌要
巻 68
ページ 13‑22
発行年 2003‑07
URL http://doi.org/10.15002/00009930
隠楡としての映画
誓子は、「俳譜蔬菜店」(「大阪毎日新聞」一九三○・九・十七。文章。以下、誓子のものとして引用するのはすべて文章である)の中で、次のように映画を隠愉として使っている。 山口誓子は一九三○年代前半、俳句について語るときに、映画に関わる語を隠職(たとえ)として何度も使っている。例えば、「モンタージュ」という語はその代表的なものである。本稿は、誓子が映画を隠嶮として使ったのは何故なのか、ということを考察するものである。
ハーモニカの吹奏と映画の撮影との発展過程を見るがよい。そして俳句創作の発展過程をあはせ考へるがよい。
×歌舞伎の舞台を映画撮影の対象として満足してゐた時代があった。俳句にもさういった意味の時代があった。月並時
隠職としての映画
l山口誓子と「モンタージュ構成」
これに対して、大浦蟻王が「俳譜と映画のタッチ其他」(「鹿火屋」一九三一二」)で批判する.大浦は記すl「映画撮影と俳句創作との関係につきて(略)誓子氏のこれに関する所論が余りにも大胆なるドグマに立脚し、延いては映画人より見たろ俳人の芸術観を濱す恐れなきやを念ずろ(略苣。この批判、、、、に対して誓子は、「私は俳句創作の発展過程とハーモニカ吹奏、、、、及び映画撮影の発展過程とを云為してゐるのであって」と応えつぱきる(「天に唾するもの」、「山茶花」一九一二一・一一一)。つまり、誓子は、それらの本質に関して論じたのではない、と言っている。さらに誓子は、「だから私は俳句に就いて云ひ得られることを直ちに取って以ってハーモニカ並びに映画に及ぼしたり、或はその逆を行ったりするの暴挙を敢てすろものではない」と付け加え 代がそれだ。(略)俳句もまた野外に出た。写生時代がそ縦-れだ。
今泉康弘
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ここで隠楡としての映画は、俳句において「忌むべき」ものの一つの例として使われている。一九一一一一年前半の、この二つの文章において、隠楡としての映画は、俳句の本質と関わらないものとして、「極めて無造作」に扱われたり、また、「忌むべき」ものとして扱われたりしていろ。つまり、この時点では、誓了は隠嶮としての映画を、みずからの創作と深く関わらせるものとしては論じていない。ところが、翌年、哲子は自らの創作理論と深く関わらせる形で、映画を隠楡として用いることになる。例えば、「現実と芸術」(「標」一九一一一二・八)において、誓子は次のように記す。 ろ。さらに誓子は、「比楡は「極めて無造作」なろをよしとす征2る」、と断一一一一口する。また、誓子は、この少し前、「季節の挨拶」(「ホトトギス」’九三一・|)において、次のように映画を隠瞼として使っていろ。
映画に於いては「カメラの目」によって「現実」を見るやうに、俳句に於いては「十七字の目」によって「現実」を見る。 クローズ●アップ「や」「かな」は大写である。
×
短い一巻に大写が一一度j、)出て来ては助からない。所謂「や・かな」の忌むべき理由は弦にある。
ここで「構成」という語は、「模倣」と対立する概念として使われている。「現実」を素材としつつも、単なる「模倣」「再現」ではなくて、独自の世界を作り上げることlそうした意味をもつものとしての「構成」を、誓子は映画(「カメラのHこの特性として定義している。そして、そのような映画と、俳句とを、「現実」の見方において共通するもの、としてとらえている。次いで、以止の二つの引川文のあと、哲子は自らの俳句の創作理論として、こう続ける。 この文章(断章型式)の冒頭近くには次の一節がある。
「現実」は、芸術にとっては、前芸術的素材である。「芸術」は「現実」を素材として、独自の世界を構成する。「芸術」は決して「現実」を模倣し、再現するものではない。 (略)「カメラの目」も「現実」を再生せずして、「現実」を構成する。
「写生構成」とは私の造語である。(略)「写生」とは「現実の尊重」「構成」とは「世界の創造」そして「写生構成」とは「現実に近づき、然も現実を無
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隠嶮としての映画
この文章は写楽の大首絵について論じたものである。この文章における、(顔の)「各細部」の「写実主義」とは、誓子の俳諭における「現実の尊重」「現実」を「素材」とする)ということと共通し、また、(顔の)「全般的構成」とは、誓子の俳諭における「世界の創造」(「構成」)と共通するlと、誓子は認識して、これを引用している。当時、エイゼンシュテインは、その「映画の芸術的価値が世界的に認められ」「ロシア崇紘4拝の映画人が神様のやうにかつぎ上げてゐる」(土寸田寅彦)という存在だった。この「現実と芸術」発表より半年前には、岩波書店の「思想」誌(’九一一一二・二)において、「映画芸術の諸問題」という特集が組まれ(後述)、その中にエイゼンシュテ この「写生構成」について誓子は、のちに、自分の「詩の方狂3法」だと説明している。すなわち、蒜育子は「構成」という語を使って、自らの俳句と映画とを、本質的なあり方において重ねている、と言えよう。さらに誓子は、「現実と芸術」の末尾に、エイゼンシュテインの一一一口葉として次の文を引用している。
写楽は岐初から意識的に写実主義を排斥したのである。そして、各細部を切離してみると非常に濃厚な写実主義の原理にもとづいて構成されてゐるが、全般的構成に於ける各部分の組合わせになると、彼は内容の問題に比して之を軽く見てゐる。 視すること」イン自身の文章も掲載されている(前掲の写楽論とは別の文章)。一九三○年前後には、映画は、「芸術」として、思想家・哲学者によっても論じられる対象となり、その際、エイゼンシュテインを筆頭とする、ソ連の映画人による「モンタージュ理論」は、映画論における中心的課題の一つだった(「思想」誌では、上記の特集以前に、モンタージュに関する論文が三回掲載されている)。そのエイゼンシュテインの、日本文化についての言葉(思想)を引用することで、哲子は、前衛的な映画班諭(芸術理論)と、自らの俳諭とを結びつけたことになる。こうして誓子は、「カメラの目」という具体的な面と、エイゼンシュテインの言葉Ⅱ理論の面との、二つの面から、自らの「写生構成」論を、映画と結びつけて論じた。だが、実は、この写楽についての文章はエイゼンシュテイン自身の文章ではない。これはユリウス・クルト(ドイツの日本学者)の書いたものである。エイゼンシュテインは、クルトの名を挙げてこれを引用している。だが、佐々木能理男の訳による、エイゼンシュテイン『映画の弁証法』(往来社、一九一二二・一、当該論文は「映画の原理と日本文化附・モンタアジュ及びショットに就いて」)では、この文章がエイゼンシュテイン自身の文章として読めてしまうように訳し出されている。誓子は、その佐々木の訳文を引用したのである。ただし、この、クルトの写楽論を引用したエイゼンシュテインによる文章を、誓子は佐々木訳の刊行以前に、別の訳で既に目にしている。それは半谷三郎訳による「モンタアジュと画面映画の原則と日本文化」(「新文学研究」第一輯、一九三一・一。
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それは、清水光「映画・モンタアジュ・理論の諸問題」という論文である。同論文は、前掲器波書店「思想」(一九三二・一一)の「映画芸術の諸問題」という特集の号に発表された。(誓子 佐々木訓より一年前に発表)である。誓子は半谷訳について、雌5「私の眼に触れた範囲内で」「日本に於ける恐らく最初のもの」と書いている。この半谷訳では、写楽論の引用のあと、ユリウス・クルトの名前と、引用書名、ページ数などが記されている(半谷訳にも「構成」という語が使われている)。もし、哲子にとって、エイゼンシュテインの日本文化論が、映画と自らの俳句論(「写生構成二とを結びつける、直接のきっかけとなったのならば、佐々木訳以前に、既に半谷択を読んだ時点で、その影響を受けているはずである。しかし、既に見たように、半谷訳の発表よりも後のものである「天に唾するもの」において、哲子は、「構成」という詔による論じ方をしてはいないし、「比嶮」は「樋めて無造作」なものをよしとする、とも書いている。醤子にとって、映凹と俳句とを、「構成」の語によって結びつけるきっかけは、エイゼンシュテインの文章ではなかったことになる。佐々木訳の刊行されたのちに、何らかのきっかけがあって、誓子は、俳句と映画とを結びつけることに思い至り、そのあと、あらためてエイゼンシュテインの映山論を(最新のものとして佐々木訳を)手にした、ということになる。それゆえに、クルトによる文章を、エイゼンシュテインによる文章だとしてしまったのだろう。では、その直接のきっかけとは何か? ここで清水光は、一一一一回語(文章)と映画とを取り上げて、「櫛成」という点において両者を重ね合わせて論じている。これと、前掲の「現実と芸術」(消水の論より八ヶ月後)の冒頭近くの文とは大変よく似ている。「現実」、「素材」、そして「芸術」、「構成」という語は全て清水の文の中にある。「現実」は「素材」にすぎず、「構成」されて初めて「芸術」となる、という濟子による論旨も、そのまま引き移したと一言っていいほど、清水の又のものと似ていろ。また、哲子による、。現実」を模倣し、再現するものではない」、という文は、清水の「現実の がこれを読んだということは、のちに哲子が同論文からの文
Ⅱ6章を引川している一」とから、論証できる)。その論文で清水は、ヴェルトフ、プドフキン、エイゼンシュテインという、当時のソ連の代表的な映両慌督を.一一人とりあげ、それぞれの作品と理論におけるモンタージュについて論じている。その中に次の一節がある。
セルロイドに撮影された個々のカットは映伽芸術にとって未だ形成さるべき素材であるに過ぎない。あたかも個々の文字が文章にまで構成されて始めて明確な意味を獲得するごとく、映画の個々のカットはモンタアジュされて始めて明瞭な芸術的意義を得るのである。(略)モンタアジュ・ザッッが既に現実の事突そのまシの脚現ではない。
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隠愉としての映
ところが、前掲の清水光の文章とよく似た文章が、プドフキン『映画勝督と映画脚本論』(佐々木能理男訳、一九一一一○・三、往来社)の中にある。 事実そのままシの再現ではない」という文とほとんど同じである。誓子がこの清水の論文を読んでいること(註6参照)と合わせれば、誓子はこの清水の論に、ほとんど引用していると言っていいほどの影響を受けている、ということが言えよう。一方、エイゼンシュテインは、写楽論を含むH本文化論の中で、俳句を取り上げ、そのモンタージュ性を論じ、そこで「素材」と「構成」という語を使っている(半谷訳・佐々木訳とも、その訳語を使用)。しかし、エイゼンシュテインの論では、それらを、単に「素材」を「構成」する、という文脈で便うのみで、対立するもの(「現実」対「芸術」)としては論じていない。それに対して清水のモンタージュ論では、「現突」の「素材」の「再現」ということと、「芸術」における「構成」ということとは、対立する概念として論じられている。誓子は、そのような清水の論から、影響を受けて、「構成」という語を使って、映画と俳句を重ね合わせてⅡ映画を隠嶮として、俳句を論じようとした。その時に、そうした論に引用できるものとして、エイゼンシュテインの文から、「構成」という語を含む写楽諭を見つけたのであろう。
詩人や作家にとっては、個々の単語がその原料である。単語は極めて多種多様の意味をもち得るのであって、これ プドフキンの前掲書の中には、ティモシェンコ「映画芸術とカッティング」も収められている。その中に「石段の上で射撃された男の作れる画面の次に、石段が飛び上る有様を、つまり什れろ男に見えるまシを(略)」という文がある。誓子の文は、これを中に組み込んでいるのであろう。このティモシェンコの これは前掲の清水の文章と内容的にほぼ同一である。清水はあたかも自分の文竜のように課いているのだが、実はプドフキンの文を利用していたのだ、と》一mえよう。このプドフキンの文を、濟子は、治水の文よりも前に読んでいたと思われる。というのは、プドフキンの前掲書からの引川と思われる文が、誓了の「遮かなる焚火」(「ホトトギス」一九三一・一○)の、以下に引用する一節の中にあるからである。
労農ロシアの前衛映画「戦闘艦ポチェムキン」の中にl階段のしで射殺された男の什れろシーンの次に、その男の作れる時に見たであらうところのもの、即ち空中へ飛び上がる石段が写されてゐるIさうである。例のモンタージュ手法の一である。涼み舟まはれば膳所の灯もまはる七歩 らの意味は文章構成によってはじめて正確に決定されるものである。(略)映画監督にとって、完成されたフィルムの各場面は、恰も単語が詩人に対して意味すると同じものを、意味する。
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文は「戦艦ポチョムキン」(エイゼンシュテイン監督、一九二五年。日本公開一九六七年。)の一場面についてのものである。ここでは、人物の映っているショットと、その人物の見ている対象の映っているショットとをつなげる、という種類のモンタージュ(編集)について、説明している。誓子は、七歩の句を、そのような映画の一場面を俳句で描いてみるとこうなるだろう、という例として引用している。ここでは、モンタージュについて、俳句作品の内容に関するレベルでの理解がなされている、と言えよう。したがって、「現実と芸術」でのような、「素材」と対立する「構成」、という概念は使われていない。なお、プドフキンの前掲の文では、詩人と映画監督とが、「構成」という作業をすろもの同士として重ねられている。しかし、それにも関わらず、上記のモンタージュについての理解からして、誓子は、このプドフキンの文章からは、「写生構成」論と、映画を重ねる、という形での影響は受けなかった、と言えよう。醤子にとって、映画と俳句とを重ねて「写生構成」を論じるに至るには、清水の論文にあったもの、すなわち、「素材の再現」と対立するものとしての「構成」、または、「現実」と対立するものとしての「芸術」、という概念が必要だったのである。では、誓子がそれを必要としたのは何故か?その背景にあったものは何か?
それは、一口で言えば、水原秋桜子の「ホトトギス」離脱(一九三一・一○)、及び、それを頂点とする、「客観写生」をめぐる問題である。 秋桜子は、句集『葛飾』(一九三○・四)の「序」で、自らの俳句の方法として「自然描写の上に如何にして感情を移すべきかに心を労し」ていると記す。これに対し、高野素十は、「感情」は排除するべきだとして、「目に見えること。耳に間こゆることを気取らずにその通り句に作れ」(「俳句入門欄附記」、「ホトトギス」一九二八・八)と自らの俳句の方法を語っている。秋桜子は「主観的」「叙情的」であり、素十は「客観写生」の典型とされていた。一九二○年代後半、岡浜虚子は、「客観写生」という方法意識を重要な理念として押し進めていき、その中で「秋桜子と素十」(「ホトトギス」、一九二八・十二を書き、秋桜子と素十を比較して、素十の方を真の写生句だとして評価する。そして、中田みづほが、その虚子の論をおしすすめて、素十を称揚・秋桜子を批判する文章を書き、「まはぎ」誌に発表すると、虚子がそれを「ホトトギス」に転載する(一九三一・一一一)。こうした「ホトトギス」の傾向の中で、秋桜子は、「馬酔木」誌に『自然の真』と『文芸上の真』」(一九三一・十)を書き、みづほ・素十を批判する。同論で秋桜子は、素十の「甘草の芽のとびノーのひとならび」などをとりあげて、「何草の芽はどうなってゐるかといふことIは、科学に属することで、芸術の領域に入るものではない」、「「文芸あらがね上の真」とは、鉱にすぎない「自然の真」が、十一云術家の頭の溶鉱鑪の中で溶解され、然る後鍛錬され、加工されて、出来上がったものを指すのである」とする。秋桜子は、表面的には素十・みづほを批判している。だが、事実上は、「客観写生」を押し進めている虚子を批判したことになる。そして、この文章
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隠嶮としての映画
をもって、秋桜子は「ホトトギス」と決別する。誓子の「現実と芸術」は、この秋桜子の立場への擁護なのである。例えば、秋桜子は「科学」と「芸術」とを対立させて用いているが、誓子は、この関係を受け継いで、「現実と芸術」を対立させた論旨(題名でもある)を展開したのである。そしあらがれて、秋桜子の一一一一口う、「自然の真」は「鉱にすぎない」、ということは、誓子における、「現実」は「前芸術的素材」である、ということである。また、秋桜子の言う、「芸術家の頭の溶鉱鋪の中で溶解」「鍛錬」「加工」する、ということは、誓子における、「構成」(「世界の創造」)と等しい。では、誓子は何故、秋桜子を擁護したか?それは、誓子がシンパシー秋桜子のあり方に共感を抱いていたからである。誓子は、「子規から茂吉へ」(「俳句」一九六五・九)の中で、こう記している(文中の(略)は今泉による)。
誓子は、右の文中の「秋桜子と素十」の時点では、まだ「写 虚子は「秋桜子と素十」(昭和三年十一月)といふ文章で、秋桜子の傾向を(略)なるべく現実に似て、而かもどこか現実に遠いところのものl之がこの傾向のねらひである.と云ってゐる。「現実に似て、而かもどこか現実に遠い」といふところが私には興味がある。私の「写生構成」に近いからである。 誓子自身は、この万葉調の句について、「曾て、ホトトギス俳壇に於いて所謂万葉調移植の運動が行はれた」と述べ、それを、「表現様式」の運動だ、と論じている(「俳句の生理学(三)」、「かつらぎ」一九一一一二・一)。すなわち、誓子と秋桜子とは、意識的に、「万葉調の俳句を作らうと思って作った」のである。それに対して、虚子は、二人の作品を評価してはいたが、前述のように、そのような二人による、意識的な技巧は否定した。虚子にとっては、「客観写生」と、意識的な技巧とは対立するものだったのである。それでも、誓子は、そのあと「止揚」(「かつらぎ」一九三一・’○)で、次のように述べる。 生構成」という語は使っていない。しかし、その頃にも、誓子は、秋桜子のあり方に、共感を感じていたと思われる。例えば、誓子は、一九二○年代半ば頃から、秋桜子と呼応するようにして、いわゆる万葉調の俳句(「万葉集」の語彙を取り入れた俳句)を作っていた。それに対して、虚子は、次のように述べる(「漫談会」、「ホトトギス」一九二九・二。
秋桜子君とか誓子君とかに一一三のそういった俳句があったところで、それほどに万葉調などシ言って騒ぐには当らないと思ふ。要するに万葉調の俳句を作らうと思って作ったといふ句に腺な句があるわけはない。その人の生きた感じが土台になって出来た句でなければ価値はない。
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これは誓子の技巧派宜一一一一口とも一言えよう。また、秋桜子も、「雑詠句評会」(「ホトトギス」一九二八・六)で、自分は「技巧尊重論」だ、と述べてから、「索十洞は近頃技巧を専らにする句を非常に嫌って(略)無技巧の句をほめてゐるやうである」と語る。それに対し、索十は、「(略)世の中になるべくありふれないわざとらしい一一一一m葉とかを捜して、必要もないと忠ふのにべたl~とはり付けて得意になってゐるlさういふ縦を峰鶴するのである。(略)先づ一木一草一階一山を服確に見るといふことが必要なのではないかと思ふ」と答えている。このとき、素Iは、秋桜fや客子の場合には「心の要求」があっての技巧だから構わない、という一両い力をしている。つまり、膿了の論と何じ蕊を一一一一口っている。しかし、結果としての作品に関しては、そのようにして認めていても、虚子と同じく素十も、濟子・秋桜子の技巧派としての姿勢には、異を唱えていることになる。前述の哲子の「止揚」は、この後書かれたものだから、素十に対しての反発としての意味もあるかもしれない。このようにして、虚子の推す「客観写生」(Ⅱ技巧を抓絶する)と、その忠実な突践者としての索十が存在しており、そうした流れの中で、秋桜子は、前述のような批判を受けた。そして、その受容の限界に達して、「『自然の真』と『文芸上の真』」をもって決別の辞とした。誓子は、秋桜子と近い立場だが、その時はまだ、「ホトトギス」を去るほどの立場には立たされて そして「ありきたりでないもの」を「ありきたりでない方法」に於いてl之は誓子の道である. いなかった(哲子が「ホトトギス」を去るのは、新興俳句運動全盛時の一九三五年)。したがって、誓子は、技巧的であり、かつ、「客観写化」とは異なっている自分の作風について、他の「ホトトギス」俳人たちに対して何らかの説明をしなければならなかった。そうして、自分のあり方を、他の「ホトトギス」俳人たちに理解させることが出来れば、それは、索十のような俳人への批判ともなる。ただし、蒋子は、その時「ホトトギス」の内部に留まっていたのであり、そうである限り、それは「ホトトギス」Ⅱ虚Pへの、全否定であることは出来ない。つまり、哲子は、「ホトトギス」を否定するのではなく、「ホトトギス」を峨新する立場におかれたのだ。そのようなとき、誓子は、清水光「映画・モンタァジュ・川諭の術問題」を枕んだ。「『旧然のばく』と『文選tの此〈』」の発衣から、四ヶ川後である。そこでは、一一両論と映画とが、「構成」及び「モンタアジュ」という語によって、屯ね合わせて論じられていた。映画は「現実」の「素材」を撮影の対象とする。しかし、清水の論によれば、映画は、叩に「現実」を「W現」するのではなく、「モンタァジュ」Ⅱ「構成」によって、「素材の事実性」を越えた、映画(芸術)独自の世界を表現できる。この論理を.誓子は、俳句に応川した。すなわち’「写生」とは、「素材の事実性」である、とするならば、映画は、「現実」の対象を扱うという点で、「ホトトギス」の俳句理念の根本である「写生」と重なる。かつ、映画は、「素材」を「構成」し、独自の泄界を作るという点で、誓了自身の作風(「客観写生」ではなく、技巧派であること)と共通する。しかも、映画は、
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隠嶮としての映画
(附記。この後、誓子は、自らの創作理論の中に隠楡としての映画を取り入れて、「跳躍する芸術」(「ホトトギス」一九三二・一○)、「詩人の視線」(「ホトトギス」一九三一一一・四)などを書く。また、連作俳句を説明する際にもモンタージュ理論を川いて、「連作俳句は如何にして作らる撞か」(「かつらぎ」一九一一一二・一○)、「連作受難」(「かつらぎ」一九一一一一一一・七)などを書いていく。ただし、誓子における「構成」という語の使用法には、映画のモンタージュ理論と厳密に比較してみた場合、一種の矛盾があった。清水の論にあるように、映画のモンタージュ理論は、本来、複数のショット(日本風に言えば「カット」)を組み合わせることについて、つまり、編集についての理論である。しかし、誓子は、「カメラの眼」という表現によって、単一のショットについても「構成」がある、としてしまっている。これは、誓子が、「現実と芸術」において、何よりも、「構成」という語の使用を第一の目的としたために起こったことであろう。誓子にとっては、「構成」を主張するた 「モンタージュ理論」を中心にして、当時の新しい芸術理論として、思想家にも論じられており、それは、俳人たちの意識を革新するのに相応しい隠楡(たとえ)であった。こうして、「ホトトギス」に留まりつつ、素I的な作風を否定し、かつ、誉子自身の作風を説明するための最適のものとして、隠嶮としての映画を踏まえた「写生構成」という理論が使われるようになったのである。 めに、映画を隠嶮として使うことが必要だったのであり、モンタージュ理論における「構成」の厳密な意味は重要なことではなかった。このような誓子が、連作俳句の説明において、モンタージュ理論をどのように用いたか、ということについては、縞を改めて論じたい。)
〈註〉1原文のルビは省略した。2「天に唾するもの(二)」、「山茶花」一九一一一一・四。3「俳句研究」一九一一一四・二、「一句のなるまで」という小特集の中で、誓子は「写生構成」と題して、「いつものことで気が引けるが、私の「詩の方法」は「写生構成」である」、と記している。4-つめの文は「ラジオ・モンタージュ」(一九一一二・六)、二つめは「映画芸術」(一九一一一二・八)より。なお、松井利彦『昭和俳句の研究』(一九七○・二)の中の「誓子とモンタージュ」という章に、「誓子がモンタージュ理論を知るのは寺田寅彦の論文「連句とモンタージュ」を読んだことが契機で」、という一節があり、それについて、轡子自身から聞いたこととする注が付いている。だが、寺田寅彦の随筆には、同題のものは見当たらない。寺田は、俳譜(連句)をモンタージュ理論で説明する、という文章をいくつか書いているが、そのうち、ある程度まとまりのある論じ方をしているものとしては、「連句雑組」の「二連句と音楽」の後半(「渋柿」一九三一・五)が最も早い。「渋柿」は俳句誌(松根東洋城主宰)なので、誓子の目に
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した可能性はある。ただし、寺田の論文が誓子にとってモンタージュ理論を知る「契機」だ、という説には疑問がある。誓子は、上記「連句と音楽」より早く、「天に唾するもの(二)」(「山茶花」一九一一二・四)で、「モンタァジュ」という語を使っているし、そこではエイゼンシュテインの名も挙げている。これが、本稿筆者(今泉)の見たところ、誓子の文のうち、最も早くモンタージュに触れたものである(したがって、「遮かなる焚き火」を最初、とする『昭和俳句の研究』での松井説は誤り)。また、本稿で考察したように、誓子は「新文学研究」第一輯(一九三一・一)に載った、エイゼンシュテインによる論文を、目にしている。さらに、清水光は、本稿で取り上げた論文よりも前に、「映画・モンタアジュ論」(「思想」一九二九・十一)を発表している。註6で推測するように、誓子は「思想」誌を読んでいたと言えることから、こちらの清水による論文の方も、寺田の文より先に読んでいた可能性もある。「「不死鳥国」に遊ぶの記」、「かつらぎ」’九一一一二・十二。誓子は「俳句的散歩」(「俳句研究」一九三九・一○)の中で次のように記しているl「ひところ私は映画の理論を書いた本を読み漁ったことがあった。」「エイゼンシュテインの「映画の弁証法」とか、ベエロ・ボラージュの「映画美学と映画社会学」、ルドルフ・アルンハイムの「芸術としての映画」などといふ本もその時に眼を通した。」「いまだに憶えてゐるのは、プドフキンのモンタアジュ理論に出て来る一挿話のことである.」Iそして、誓子は、次の文を引用するl「クレショフと私は興味ある実験をした。ある映画から、有名なロシアの俳優モジュキンの (いまいずみやすひろ・二○○二年度博士課程修了) クロオズ・アップをとってきた(略)」1.この誓子による引用文と、全く同一の文が清水光「映画・モンタアジュ・理論の諸問題」にある。訳語も同一。なお、本稿で取り上げたプドフキン『映画監督と映画脚本論』(一九三○・三。佐々木能理男訳)には、この文章は、ない。また、一九三六年八月刊のプドフキン『映画創作論』(佐々木能理男訳)には、上記のクレショフの実験の文章が収められている。しかし、佐々木訳は、清水訳とは訳語の違いが多々あり、また、「モジューヒン」と表記している。このことから、誓子は、「思想」誌の清水論文を読んでいた、と言えよう。
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