性
著者
田林 洋一
雑誌名
東北大学高度教養教育・学生支援機構紀要
巻
7
ページ
163-176
発行年
2021-03
URL
http://hdl.handle.net/10097/00131228
1 .序
本稿は,スペインのアニメ映画『しわ(Arrugas)』と, セルバンテスの小説『ドン・キホーテ(El ingenioso hidalgo Don Quixote de la Mancha)』との類似性を検 証することを目的とする.本稿の検証は,主にアニメ 映画『しわ』からの視点を通じてである.なお,『しわ』 には同名の原作となる漫画2が存在するが,本稿では 主にアニメ化された『しわ』を考察の対象とする3. 以下,誤解を招きかねない場合を除いて,アニメ映画 版を『しわ』と平仮名で,漫画版を『皺』と漢字で表 記する.なお,アニメ映画(ないしは漫画)という媒 体だからなのか,『しわ』と『ドン・キホーテ』を比 較して論じた先行研究は管見では見当たらない.その 意味で,本稿は比較文学に新しい視点を投じると同時 に,「試論」的な側面を持つ.
2 .両作品の概略
『しわ』は,イグナシオ・フェレーラス監督によっ て2011年にスペインで上映され,第26回ゴヤ賞で最優 秀アニメーション賞及び最優秀脚本賞を受賞した.そ の後,日本では三鷹の森ジブリ美術館ライブラリーの 提供で劇場公開されて反響を呼んだ4. 『しわ』は,主人公で認知症の初期状態にあるエミ リオが,息子夫婦に付き添われて老人ホームに入居す るシーンから始まる.そこで皮肉屋のミゲルと同室に なり,彼の案内の元,自分がオリエント急行に乗って いると思い込んでいる老婆,聞いたことをただ繰り返 すだけの元DJ,幻想の火星人に怯える婦人など,様々 な老人と出会う.エミリオと食事を共にするのはミゲ ルの他に足の悪いアントニア,アルツハイマー病が進 行しているモデストとその妻のドローレスである.あ るクリスマスの日,エミリオは自分がモデストと同じ 薬を処方されていることを知り,自らもアルツハイ マー病であることを知る.自らの老いに翻弄されるエ ミリオは,ミゲルの主導でアントニアと共に深夜の秘 密のドライブに出かけるが,そこで事故を起こしてし まう.そのショックでエミリオのアルツハイマー病が 進み,遂に老人ホームの二階にある特別介護部屋に収 容される.自らの責任を感じたミゲルは,彼と共に二 階の介護部屋に入るところで,物語は終わりを迎える. 以上がアニメ映画『しわ』の概略だが,原作の漫画 版『皺』とかなり違う箇所が 4 つある.まず 1 つは, エミリオがアルツハイマー病であることを知る場面で ある.アニメ映画では,医者がエミリオをアルツハイ マー病であるとは告知しておらず,ただエミリオがモ デストと同じ薬を処方されていることに気づくだけで ある.エミリオは医者の苦し紛れの説明に納得するふ りをするが,自分が痴呆症であることを自ら悟る.一 方,漫画版ではエミリオはアルツハイマー症であるこ とを医者から直接告白されている.後述するように,【論 文】
アニメ映画『しわ』と『ドン・キホーテ』との類似性
1田 林 洋 一
1)* 1 )東北大学高度教養教育・学生支援機構 *)連絡先:〒980-8576 仙台市青葉区川内41 東北大学高度教養教育・学生支援機構 [email protected] 本研究では,スペイン発のアニメ映画『しわ』と,『ドン・キホーテ』とを比較することを目的とする.まず,『し わ』の主要な登場人物であるエミリオとミゲルが,身体的,性格的に極めてドン・キホーテ及びサンチョ・パンサ と類似することを指摘する.次に,『しわ』のエミリオがミゲルによって「ロックフェラー」と呼ばれていることを, ドン・キホーテが本名の「アロンソ・キハーノ」と呼ばれていないことと関連して論じる.更にエンディングでエ ミリオとドン・キホーテが共に聖人化していることを指摘し,平行して両者は「理想の騎士道物語の世界」=「若 かりし頃の自分」と「現実の世界」=「老いた自分」というパラレルな世界に生きていることを見る。最後に,そ の他の登場人物とドン・キホーテの登場人物との類似点を確認し,エミリオもドン・キホーテも社会のアウトサイダー であることを検証する.この違いは決定的である. 次に,エミリオが老人ホームのプールで泳ぐシーン である.このシーンはアニメ映画のみに挿入されてい る逸話で,エミリオが若い時によく泳いでいた,とい う設定になっている.ところが,漫画版ではこのエピ ソードそのものがない. また,アニメ映画ではミゲルが万が一の時のために 認知症の薬とお金を貯めこんでいるが,漫画版にはそ の描写そのものがない. 最後に,ラスト近くのシーンの扱いである.アニメ 映画ではエミリオが二階の特別介護室でミゲルの世話 を受ける際に微笑んで,重度のアルツハイマー病にも かかわらず,周囲の会話が分かっていることを暗示さ せる.一方,漫画版ではエミリオの微笑みがなく,代 わりに「のっぺらぼうだった」ミゲルの顔が一瞬だけ 笑顔に写り,またのっぺらぼうに戻ってしまう.漫画 版のこのシーンは,明らかにエミリオの認知能力の低 下をミゲルののっぺらぼうの顔に反映させており,一 瞬のミゲルの笑顔は,エミリオがそれを知覚したこと を示している5. 『ドン・キホーテ』については改めて言及するまで もないと思われるが,簡単に触れておく.正式名称『機 知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ(El ingenioso hidalgo Don Quixote de la Mancha)』はス ペインの小説家ミゲル・デ・セルバンテス(Miguel de Cervantes Saavedra:1547-1616)によって書かれ た長編小説である6.前篇(正篇)は1605年,後篇(続 篇)は1615年に発表されている7. 荒筋は,騎士道物語を読み過ぎて「脳みそが蒸発し てしまった(≒狂気に陥った)」初老の男性が,自ら を遍歴の騎士と思い込んで「ドン・キホーテ」と名乗 り,従者サンチョ・パンサを連れて各地を旅する.正 気を失ったドン・キホーテはその狂気ゆえに旅先で 様々な騒動を引き起こす,というものである. 次節以降では,『しわ』と『ドン・キホーテ』を比 較して,その相違を検証したい.
3 .『しわ』と『ドン・キホーテ』の相違 - 本
論として
3.1 ミゲルとエミリオの設定及び描写 まず『しわ』本編を見て気づくのが,エミリオとミ ゲルの体格である.エミリオは痩せて背が高く,ミゲ ルは背がやや低めで太っている.これだけでエミリオ はドン・キホーテを,ミゲルはサンチョ・パンサをモ チーフにしていることが推察される8. また,性格も極めて類似している.エミリオは時に 自らの老いに抗うことこそするものの,基本的に老い とそれがもたらす妄想の世界に生きている.それは, エミリオが幾度も放つ「若い頃はよく泳いでいた.春 になったら(老人ホームの)プールで泳ごうと思う」 という台詞に如実に表れている.実際にはエミリオが 老人ホームのプールで泳ぐのはたったの一回のみ,し かもミゲルとの言い争いの末に半ば自棄になって服の まま飛び込むだけである.春になって,健康的にのど かにスイミングを楽しむのではない. つまり,『しわ』のエミリオは,基本的に終始妄想 の世界に生きているのである.このことは,ちょうど ドン・キホーテが騎士道物語を読み過ぎて,「剣と魔 法の世界」に身を委ねて生きていくことと重なる.ド ン・キホーテは狂気に犯されて至極能動的に,活発に 生きているように見えるが,その実自らの妄想から抜 け出そうとして奮闘する姿は一切見られない.その意 味で,ドン・キホーテは狂気に対して非常に受動的, ないしは騎士道物語の妄想と戦う姿勢を見せないので ある. 異なる点は,ドン・キホーテの狂気は「騎士道物語 の読み過ぎ」という,半ば中毒的な嗜好から生み出さ れたもので,その気になれば彼が狂気に陥ることを避 けられたかもしれない(あるいは,周囲の人間が彼を 諫めることができたかもしれない)が,エミリオは自 らの意思とは無関係に,むしろ不本意な形で狂気たる 「痴呆」の世界に強制的に放り込まれてしまうことで ある.もっとも,読書中毒を「治癒困難な精神疾患」 と捉えるならば, 2 人とも不可避的な病によって「狂 気/老いと痴呆」に引きずり込まれたと考えることも できる. ただ,『しわ』においては(漫画版とは異なり)エミリオが老いと戦おうとする印象的な場面がある.ミゲ ルから現実と向き合え,と喧嘩腰に諭されるエミリオ が,半ば意固地になって着衣のままプールで泳ぎ出す のだ.先に述べたように,『しわ』において,エミリオ が積極的かつ能動的に自らの妄想やアルツハイマー病, 老いと戦うのはこの場面のみである.このシーンは, 若かりし頃の妄想の世界に何とかしがみつこうと,現 実世界と対峙するエミリオを示唆している.ところが, 『ドン・キホーテ』の主人公ドン・キホーテは,前述の 通り,自ら騎士道物語という妄想から抜け出そうとは しない.後篇第74章で「正気に目覚めた」ドン・キホー テも,きっかけは高熱を発したからであって,主体的 に騎士道物語の妄想から脱却しようとはしていない. エミリオと同室のミゲルは,現実主義的かつピカロ 的である9.彼はエミリオと出会って早々,老人ホー ムが牢獄であると揶揄し,老いと戦う姿勢を見せる. 老体を大事にしようともせずに煙草をふかしてみるも 咳き込むシーンや,エミリオがプールに飛び込もうと するところを目撃して走り寄るも,息を切らしてあえ ぐ箇所などは,ミゲルが自らの老いを認めたくないと 奮闘するも,時として老いそのものに引きずられてい く様をよく表している. つまり,ミゲルはエミリオとは異なった方法で,老 いと現実を拒絶し,若い時だった自分を老年の今の自 分の肉体に重ねている.その意味では,ミゲルもまた 妄想の世界に生きていることになる.そして現実の世 界,即ち自らが老年の粋に達していること,オリエン ト急行などには乗っていないこと,春になったらプー ルで泳ぐことなど不可能なことなどといった不愉快な 現実と正面きって対峙する. その点はサンチョも同じである.サンチョは,ドン・ キホーテの「島の統治権」という餌に釣られて,のこ のこと騎士道物語の妄想の世界に入っていく.しかし, ドン・キホーテとの二人旅で,彼は騎士道物語の世界 に生きているドン・キホーテをことごとく現実の世界 へ引き戻そうと,現実主義的な茶々を入れる.サンチョ はドン・キホーテの騎士道物語の世界(ミゲルが固執 する若い時の世界)に生きつつも,常に騎士道物語と は真逆な,現実主義的な世界観を持ち込む.風車が巨 人であるはずもなく,羊の群れが軍隊の行進であるは ずもなく,常に現実を視野に入れて,幾度もドン・キ ホーテに現実を突きつけようとする. 大事なのは,『しわ』のミゲルも『ドン・キホーテ』 のサンチョも,共に妄想の世界,即ち老いがもたらす 呆けた若かりし頃の世界と騎士道物語の世界に生きて いることである.ミゲルが年寄りで,いくら抗っても 老いには勝てないにもかかわらず,若かりし頃の栄光 にしがみつかずにはいられないように,サンチョもま た,主人ドン・キホーテと共に騎士道物語の世界から 抜け出すことができていない.島を一度も見たことが ないサンチョが,「島の統治権」などという曖昧なも のを求めて,妻子を捨てて狂人のお供をするのは,ド ン・キホーテと同じく騎士道物語の妄想の中に浸って いるからである.それは同時に,明らかに彼が狂って いることを示唆する.その意味で,サンチョもまた, 騎士道物語から離れられないのだ. ミゲルがピカロ的であることもサンチョを連想させ る.ミゲルはことあるごとに,老人ホームの痴呆の同 僚たちからお金をせしめている.具体的には,息子に 電話をかけようと奔走する老婆ドニャ・ソルに,電話 を貸してやると言いつつお金をだまし取ったり,オリ エント急行に乗っていると思い込んでいる老婆から, 切符を見るふりをして財布からお札を抜き取ったりし ている. こうしたしたたかさは,容易に『ドン・キホーテ』 のサンチョと重なる.サンチョは,騎士道物語の世界 にいても金銭欲や権力欲を隠そうとしない.例えば, 前篇第8章で,ドン・キホーテがサン・ベニート会の 修道士を打ち負かした後,サンチョは倒れた修道士か ら金品を巻き上げている.現実世界では単なる強盗に しか過ぎないこの所業を,サンチョは, いったい全体、いかなる理由があって僧衣をはがし、 坊様を裸にするのかと尋ねると、これは自分の主人の ドン・キホーテが合戦で勝ちとった戦利品だから、従 士の自分が当然の権利として貰い受けるのだ、と答え た。(p. 154)10 と答えて,自分の窃盗を正当化する.同様に前篇第 44章で,マンブリーノの兜と称して強奪した盥の持ち
主である床屋に対しても,サンチョは以下のように弁 明する. 「おいらは追い剥ぎなんかじゃねえ。これらはみん な、おいらの御主人のドン・キホーテ様が正当な戦い で獲得しなさった戦利品なんだ。」(p. 227) 「正当な」戦いであったかどうかはともかくとして, ドン・キホーテが狂った頭で床屋から金盥を奪ったこ とは事実であり,サンチョも金銭欲や物欲から,調子 よく金盥を戦利品と見なす.ここで重要なのは,実際 は金盥は床屋のもので,自分の行為を単に正当化する ためだけに主人ドン・キホーテの狂気を利用している わけではないということだ.そうでなければ,「島」 などという怪しげな(かつサンチョが見たこともない) 報酬で,彼が従者として共に旅立つことを承諾などす るわけがない.サンチョは純粋に金盥が戦利品である とを確信しており,この点でサンチョは「騎士道物語 の世界にいながら,現実主義」という矛盾の存在であ ることになる. これはちょうど,ミゲルが自ら老いていることを承 知の上で,それでもなお現実から目を背けずにピカロ 的な役割を果たすことと似ている.異なる点としては, ミゲルは自らが老いからの逃避である妄想の世界(= 若者の世界)に入ることに頑ななまでに抵抗するが, サンチョは抵抗するそぶりも見せずに,ある時はドン・ キホーテの言う騎士道物語の世界,ある時は都合の良 い現実世界を絶妙に行き来することである. 老い,即ち現実と抵抗するミゲルの究極の姿勢は, アニメ映画にしか見られない薬の保管のシーンだろ う.ミゲルは痴呆症の薬をため込んでいて,いざとい う時になったら使うと明言している.ミゲルは薄々, 自分が将来長くないことや,痴呆症になることへの恐 怖を感じていることになる.ドン・キホーテと同じく, 騎士道物語の世界に生きている時のサンチョは,妄想 から抜け出そうと努力などはしない.これは,『しわ』 全篇で流れる「老いとの戦い」「若かりし頃の栄光」と, 『ドン・キホーテ』のドン・キホーテ主従が陥ってい る「騎士道物語の世界」とが,対立すべき相手なのか, それともそれと共に生きるのかというスタンスの違い とも受け止められる. 『しわ』におけるメインテーマは「老い」であり,『ド ン・キホーテ』のそれは「狂気」である.この 2 つは 同列で語ることができないほど異質であるが,共通点 がないわけではない.その共通項は「自我の忘却と喪 失」である.ミゲルはこの負の側面を真正面から受け 止め,戦う姿勢を見せるが,エミリオは基本的に過去 の栄光に縋り,老いから逃避する.しかし,エミリオ は医者の態度から自分がアルツハイマー病であると知 り,いったんは老いを受け入れる.ところがそのすぐ 後にエミリオはやはり自分の過去にしがみつき,現実 から目を逸らそうとするのである. 一方でドン・キホーテはどうか.彼もまた,全篇を 通じて自分が狂人であることをほとんど受け入れな い.ところが,このドン・キホーテの頑ななまでの現 実逃避中に, 2 度ほど「自分が狂人であること」を述 懐するシーンがある.そのうち 1 回は後篇第74章の臨 終の場面であるが,ここでの彼を「ドン・キホーテ」 と呼ぶのは適当ではないだろう.彼は熱病から覚めた 後に「善人」アロンソ・キハーノに戻ったのであるか ら.むしろ重要なのは,前篇第25章の次の台詞である. 「そう、わしは狂人じゃ。いま,ドゥルシネーア姫 のもとに届けてもらおうと思っている手紙の返事を 持ってお前が帰ってくるまでは、なんとしても狂人で いるのじゃ。」(p. 100) この決定的な一言は,ドン・キホーテが自らを現実 の「狂人ドン・キホーテ」と認識する唯一の言動であ る.つまり,エミリオもドン・キホーテも,基本的に 現実逃避的なスタンスを崩すことはないが,ごく稀に 自己を正しく認識することもあるのだ. もっとも,ドン・キホーテの狂人宣言には,それ以 外の理由が示唆されていないわけでもない.すぐ前に, 彼は以下のように述べている. 「つまり、遍歴の騎士が理由あって狂気におちいっ たところで、ありがたみもなければ面白くもない。重 要なのは原因もなく狂態を演ずることであり、わしの 思い姫に、理由もなくこれだけのことをするなら、理
由があったらどんなことになるだろうと思わせるとこ ろにあるのじゃ。」(p. 99) 換言すると,彼の狂人宣言は,単に思い姫ドゥルシ ネーアの気を惹きたいだけであるかもしれないのだ. 本稿ではこの議論については紙幅の都合でこれ以上踏 み込まないことにする. 3.2 呼 称 を 巡 っ て - エ ミ リ オ と ロ ッ ク フ ェ ラー,ミゲルとマヌエル 『しわ』では,エミリオがかつて銀行の支店長であっ たことをミゲルが知ると,彼をアメリカ合衆国の富豪 になぞらえて「ロックフェラー」と呼ぶようになる11. そしてミゲルは終始エミリオのことを「ロックフェラー」 と呼び,本名の「エミリオ」を使うことはない. ここに,サンチョ的ミゲルの立場の逆転が見られる. 前節で考察したように,ミゲルは常に老いと正面から 向き合い,老いる以前の理想郷的な若かりし頃,オリ エント急行やプールに代表される壮年時の栄光をかな ぐり捨てていた.ところが,ことエミリオの呼称に関 しては,彼の過去の経歴を引き合いに出して,栄光の 「ロックフェラー」にしがみついている. 『ドン・キホーテ』におけるサンチョも,実はそう した側面を持っている.前篇第 7 章で初めて登場する サンチョは,現実主義的な視点を持ちながらも,決し て主人のドン・キホーテを本名である「アロンソ・キ ハーノ」と呼ぶことはない.サンチョが「近所に住む 農夫(p. 134)」と描写されていることからも,二人 はドン・キホーテが狂気に陥る以前から旧知の仲で あったことが推測される.つまり,特に前篇において 現実主義的と目されるサンチョも,実はかなりの部分, 騎士道物語の世界に浸かっているのだ.そもそも,サ ンチョが全篇を通じて完全に現実に根を下ろしている と考えることが誤りであり,それは主人の呼び名にも 反映されている. 後篇でサンチョの「騎士道物語の世界への傾倒」は 更に深まっていく.彼の騎士道物語という妄想からの 脱却は,究極的には物語の最後でも達成されることが ない.後篇第74章,ドン・キホーテの臨終の場面でも, サンチョはしきりに主人に対し「アロンソ・キハーノ ではなく,あなたは遍歴の騎士ドン・キホーテである」 と諭している. こうして見ると,老いと若かりし頃(の妄想の世界) を自由に行ったり来たりするミゲルは,そのまま現実 世界と騎士道物語の世界を行き来するサンチョに重な る.特に呼称の面では,ミゲルは徹頭徹尾エミリオを 「ロックフェラー」と呼ぶことから,エミリオに自身 の青年期・壮年期を投影していることが分かる. 一方,エミリオの場合はどうだろうか.エミリオは パートナーであるミゲルを基本的には本名の「ミゲル」 と呼ぶが,時に「マヌエル」と口走ることがある.そ の理由の 1 つに挙げられるのは,ミゲル(Miguel) とマヌエル(Manuel)を,その語頭のMと語尾Lの 一致から混濁しているというものである(DVD『しわ』 ジャケット参照).確かにこの指摘は事実であるが, 本稿で更に付け加えたいのは,この混同が起こる理由 である.この現象は,エミリオが混乱している時や興 奮している時に特に出現する.となると,エミリオが 混乱して自我を失った時,即ち,狂気の世界に足を踏 み入れた時にこの呼び違えが発動することになる.妄 想や狂気の世界がエミリオにとって逃げ道であり,自 らの理想であるとするならば,エミリオにとっての「マ ヌエル」は,妄想や回想された若かりし頃の象徴とで も言うべきものである.つまり,エミリオは妄想の世 界に入りつつも,常にミゲルを「ミゲル」と呼ぶ現実 の世界と辛うじてつながっていることになる. 『ドン・キホーテ』においても,主人公ドン・キホー テは現実とこの種の呼び名の間のつながりを見せる. ドン・キホーテは常にサンチョを「サンチョ」と呼び, それ以外の呼称は全く用いない.サンチョは常にサン チョであり,この点で,実はドン・キホーテはどっぷ りと現実世界に浸っていることになる.ドン・キホー テが終始狂っているのは事実であるが,そう周囲から 認識されるのは騎士道物語と現実を混濁しているから である.彼の言動は,騎士道物語の世界では非常に内 的一貫性を保っている.そして,騎士道物語の世界で サンチョであった人物が,たまたま現実世界のサン チョと一致しても,何の不思議もない.だからこそ, ドン・キホーテは現実世界のサンチョをありのままの サンチョとして受け入れるだけの正気を保っているの
である. 3.3 エンディングでのエミリオとミゲル - 聖人 化したエミリオと改心したミゲル 前述の通り,アニメ映画『しわ』のエンディングと, 漫画版『皺』のそれとは微妙に異なる.ここでは主に アニメ映画版のエンディングを考察の対象としよう. 『しわ』では,エミリオが二階の特別介護室に収容 され,ミゲルも同伴することで終わる.そこでミゲル がエミリオに食事を与えている最中に,エミリオは にっこりと微笑む. この微笑みは,もちろんエミリオが「周囲が何を言っ ているのか分かっていること」を意味するが,それ以 上の含意がある.その微笑みは,あたかも聖人の如き 様相を呈しているのだ.邪気や悪意がない痴呆症の老 人エミリオは,そのままドン・キホーテが高熱のため に狂気から脱却し,「善人アロンソ・キハーノ」と呼 ばれる聖域にまで昇華したことと符合する.即ち,エ ミリオが妄想の極致に到達することで聖人化したよう に,ドン・キホーテも狂態の限りを尽くした後に聖人 の域にまで達したのである. この 2 人が言わば聖人化するのに,更にもう 2 つの 共通点がある.エミリオの痴呆が進んでしまったきっ かけは,夜のドライブでの事故という物理的な損傷で あった.一方のドン・キホーテは,後篇第64章で≪銀 月の騎士≫に変装した学士サンソン・カラスコとの決 闘に敗北し,一年間の故郷での蟄居を余儀なくされる. その後帰省した彼は,後篇第74章で「六日のあいだ床 を離れることのできなかった(p. 400)」ほどの熱病 にうなされて,正気に返る.つまり,両者とも物理的 な刺激が引き金となって聖人化するのである. また,物語が進んでいくうちに,エミリオの痴呆が どんどんと進行していく.例えば同じことを何度も繰 り返し話したり,パジャマのボタンを閉めることがで きずに,ミゲルに手伝ってもらったりといった描写が 続く.最初は身の回りの世話が辛うじてできていたエ ミリオだが,痴呆は悪化していく一方なのである.そ れとは逆に,ドン・キホーテも最初は(特に前篇では) 狂気に犯されて荒唐無稽な行動をとる.だが,徐々に (特に後篇に入ると)その狂気が薄れていくのである. エミリオは老いから来る妄想を更に加速させるのに対 し,ドン・キホーテは徐々に狂気から脱していく.狂 気という点では,二人は反比例の関係にある. この指摘はMadariaga(1935)を始めとして,様々 な文献や研究で言及されており,前編での現実主義的 サンチョになぞらえて「ドン・キホーテのサンチョ化」 と呼ばれる(この意見については古家(2005),松田 (2012),田林(2020)他を参照).例えば,早速後篇 第 1 章で,ドン・キホーテは巨人のことを, 「そもそもそういう種族が存在したかについては、 いろいろ意見がわかれておりますな。」(p. 41) フランスの12英傑のメンバーであるレイナルドスや ロルダンの容貌を, 「(レイナルドスは)彼は顔幅が広くて赤ら顔、よく 動く目はいささかとびだしており、性格は几帳面でひ どく怒りっぽく、盗賊や身を持ちくずした連中と交友 のあった男であると思われますな。」(p. 42) 美女と謳われたアンジェリカを, 「(アンジェリカという姫君は)落ち着きがなくて尻 軽な、しかも、いささか淫奔なところのある乙女だっ たんですよ。」(p. 43) と,散々にこき下ろす. 騎士道物語の世界では,美男の騎士が美女で貞淑な 乙女の姫君と恋愛に陥るのが「自然」で「道理」であ る.ところが,後篇でドン・キホーテが描写する騎士 道物語のヒーローとヒロインは,どう見ても美男でも なければ,貞淑な乙女でもない.ここに,ドン・キホー テへの騎士道物語への影響力が薄くなっているのが見 て取れる. 決定的なのは巨人についての言及である.ドン・キ ホーテは前篇第 8 章で(実際は風車であったが)巨人 と戦って敗れているのに,後篇では「巨人の存在につ いては色々な意見がある」と言っているのである.自 身の巨人との戦いの記憶は,少なくともこの時点では
忘却の彼方にある.つまり,狂気の度合いが薄れてい るのである. ドン・キホーテの場合,狂気が薄れていくと精力も なくなっていくが,それもエミリオと並行関係にある. 後篇第46章で,たかだか猫に鼻をひっかかれただけな のに, あまりの痛さに、さすがのドン・キホーテもありっ たけの大声を張りあげる始末だった。(p. 359) と大げさに痛がる.更には後篇第48章で, ひどく傷ついて顔に繃帯を巻いたドン・キホーテは、 遍歴の騎士道につきものの苦難の刻印を、神の手なら ぬ猫の爪によって押された格好になり、すっかりふさ ぎこんでいた。(p. 382) という状態になり,「六日のあいだ人前に出ること なく過す」ほどに打ちひしがれる.狂気が減退してい くとともに,精力も衰えているのだ.これは,ちょう ど前篇で傷だらけになっても平気で立ち上がっていっ たドン・キホーテと対比すると,一層明らかになる. 即ち,物語が進行するにつれてエミリオが衰弱するの と同じように,ドン・キホーテもまた,徐々に狂気が 衰退し,結果として精力が奪われていくのである.つ まり,精力や活力という点では,ドン・キホーテとエ ミリオは正比例する. エミリオの痴呆も,ドン・キホーテの狂気も,常に 一定ではない.エミリオはある時は正気であり,また ある時は痴呆である.同様にドン・キホーテも常に狂 気に犯されているわけではなく,間欠的に狂態に陥る. 例えば後篇第17章には,ドン・キホーテ主従と旅を共 にするドン・ディエゴ・デ・ミランダが当惑しながら 考える個所がある. あるときはドン・キホーテのことを正気だと思い、 ま たあるときは狂人だと思ったりした。というのも、彼の 話すことは筋が通り、言葉も上品で、内容もしっかりし ているのに、そのすることときたら常軌を逸し、向こう 見ずで、ひどくばかげていたからである。(p. 285) この言葉通り,エミリオもドン・キホーテも,ある 時は狂的で,またある時は正常なのだ. だが,相違点もある.『しわ』では,エミリオが妄 想の極致に辿り着いた先に「聖地」があったが,『ドン・ キホーテ』では,ドン・キホーテの騎士道物語の世界 という妄想が弱まり,高熱を発した結果,妄想から解 放されて「聖地」に辿り着く.後篇第74章のドン・キ ホーテの台詞を見よう. 「わしは今や曇りのない理性を取りもどし、あのお ぞましい騎士道物語を読みふけったがためにわしの頭 にかかっていた、無知という黒々とした霧もすっかり 晴れたのじゃ。」(中略) 「わしはもうドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャで はありませんからな。日ごろの行ないのおかげで≪善 人≫というあだ名をちょうだいしていた、あのアロン ソ・キハーノに戻りましたのじゃ。」(p. 403) ドン・キホーテの言をそのまま受け止めるならば, 臨終において彼は確かに正気を取り戻している.しか し,ドン・キホーテは狂気に狂気を重ねた挙句に結果 として正気を取り戻したのであって,狂気から容易に 脱却したわけではない.むしろ,狂気を極めて正気に 辿り着いたとも言えるのである.その点では,エミリ オが漸次的に正気を失っていくのとは対照的である. ドン・キホーテは正気を取り戻したと主張している ものの,周囲の人間は容易にそれを納得しはしない. サンチョに至っては,司祭やその他の友人ですらドン・ キホーテの正気を認めたのに,それでもなおかつ「美 しくて豪勢なドゥルシネーア姫が」云々と述べるほど である(p. 408).これほどまでにドン・キホーテの 狂気の根は深い.エミリオの痴呆が回復不可能なのと 同じく,ドン・キホーテの狂気も回復は(最後の章を 除いて)ほとんど困難なのだ. さて,ラストでミゲルが今までのピカロ的な生き方 を悔悛するが,その詳細も見ておこう.究極の改心は, やはりミゲルがエミリオとともに二階の特別介護室に 上がったことである.アルツハイマーが進んでいた夫 モデストを介護するために,特別介護室に一緒に入っ た妻ドローレスを,ミゲルは「くだらない自殺行為だ」
と吐き捨てていることを考えると,彼にとって特別介 護室に行くことは,自殺とほぼ同義である.それなの に敢えて破滅的な選択をしたのは,エミリオの痴呆が 進んだ理由が,自身が提案した夜のドライブであるこ とに因る.良心の呵責に耐えかねる辺りが,ミゲルが 徹底して悪漢になれないところだろう.もし救いがた いほどの現実主義者ならば,エミリオなど放っておい て,自らは一階の一般の部屋で悠々自適の生活を送っ ていたはずである. これは,ちょうどサンチョが全篇を通じて現実主義 者でないことや,主人のドン・キホーテを愛している ことと重なる.サンチョは前篇でもドン・キホーテと 同様にかなりの(騎士道物語的)妄想を抱いている. 例えば前篇第17章で,騎士であるというそれだけの理 由で宿代の支払いを拒むドン・キホーテに,サンチョ が便乗する. ドン・キホーテが一銭も払わずに立ち去ったのを見 ると、宿の主人は従士から取り立てようとして彼につ めよった。しかしサンチョ・パンサは、主人が払おう としなかったのだから自分も払うつもりはない、なぜ なら、自分は遍歴の騎士の従士なのだから、宿屋や旅 籠で何ひとつ払わないという掟は、主人の場合と同じ く自分にもあてはまるからだ、と言った。(p. 306) サンチョが徹底した現実主義者であったなら,この ような強弁はしないだろう.恐らく素直に宿代を払う か,さもなければドン・キホーテとは違った理由を並 べ立てて,自分の行為を正当化しようとするに違いな い. ここで,サンチョが実は狂っておらず,ただドン・ キホーテの狂気に悪乗りしているだけだと考えること もできるかもしれない.だが,前編において散々見せ てきた狂態を見て,司祭と床屋は前篇第26章で, 驚きを新たにした二人は、この哀れな農夫の分別ま で巻きぞえにしてしまったドン・キホーテの狂気がい かに激しいものであるかを、あらためて思い知らされ たのである。(p. 139) との感想を抱く.付き合いの長い司祭と床屋を, 「ちょっとばかり脳味噌の足りない男(前篇第 7 章(p. 134))」であるサンチョが騙し切れるとも思えない. となれば,サンチョは特に物欲において狂気を発動さ せると言ってもいいだろう. これが後篇になると,サンチョの狂気は更にエスカ レートする.特に印象的なシーンが後篇第10章にある. ドン・キホーテにドゥルシネーアの行方を問い詰めら れてまごまごしているサンチョは,通りがかった 3 人 の百姓娘を「ドゥルシネーア姫である」と強弁して, 主人のドン・キホーテを騙そうとする.その際,彼は こうひとりごちる. 「おいらの主人は、どこから見てもひどく頭が狂っ ているけど、おいらだっておさおさ引けを取るもん じゃねえ。」(p. 159-160) つまり,サンチョはこの時点で既に,自分に内在さ れている狂気を自覚していることになる.そして狂人 の戯言に付き合って,自ら進んで百姓娘をドゥルシ ネーア姫である,と断言するサンチョは,それだけで もう狂気の域に達しているのである. その他にも細かい「サンチョのドン・キホーテ化」, 即ち騎士道物語の世界の狂気に引きずり込まれるサン チョを見ることができるが,極めつけは公爵夫妻から 譲渡された「バラタリア島の統治権」である.後篇第 42章で公爵から島の統治権をもらうことになったサン チョは,そこで公爵夫妻によって仕掛けられた数々の いたずらを本気にする.もちろん,大富豪の公爵夫妻 の悪戯仕掛けがあまりにも大々的であるがゆえに,当 事者であればまず信じ込まずにはおれないであろう. だが,それでも荒唐無稽な悪戯の数々に,サンチョは 真摯に向き合って苦悶するのだ. さて,ミゲルは自動車事故の後,老人ホームにいる 他の住人の妄想に付き合うようになる.今までは容易 い金づるとしか思っていなかった人々に,無償の愛を 提供するのだ.例えば,息子に連絡を取るために電話 を探して徘徊する老婆ドニャ・ソルに対して,今まで お金をだまし取っていただけだったミゲルは,彼女に 携帯電話を用意する.また,火星人に怯える老婆カル
メンシータには,宇宙人に対抗するための水鉄砲を, オリエント急行に乗っていると信じている老女ロサリ オには禁煙パイプを差し出す.彼らにとって携帯電話 や水鉄砲,そして禁煙パイプは,妄想の世界を生き抜 くための必須アイテムである.ドニャ・ソルは子供た ちと繋がる携帯電話を持つことによって,カルメン シータは不安の象徴たる火星人を撃退する水鉄砲を所 持することで,ロサリオは若い頃にオリエント急行列 車で優雅に旅をしてくゆらすパイプを禁煙パイプに投 影することで,彼らはドン・キホーテの槍を装備して いるのだ. つまり,ミゲルもサンチョと同様に「老いから来た 妄想の世界」に浸かるようになる.だが,ミゲルがエ ミリオを含めた老人ホームの住人たちの老いの妄想に 付き合うのは,何も自動車事故以後だけではない.例 えば,エミリオが夕食中にスプーンで肉料理を切ろう として「ウェイター,このナイフは全く切れない」「何 でこんなにたくさんのナイフがあるんだ.混乱させよ うとでもいうのか」と文句を言うシーンがある.彼に 対し,ミゲルはありのままの姿,即ちナイフがスプー ンであることを指摘しない.彼は機転をきかせて,「こ れからサンドイッチの食事にすれば,混乱しなくて済 むだろう」と提案する. このエピソードは,ちょうどスプーンがナイフであ る「妄想の世界」を,ミゲルが少なくとも否定しない ことを意味している.彼は否定する代わりに,「ナイ フを使用しなくてよいサンドイッチ」を注文すること で,現実主義的な提案を行った.まさに『ドン・キホー テ』におけるサンチョそのままである. 『しわ』は,週末に息子夫婦の家への帰省を許され た老人マルティンの犬の逸話で終わる12.改心したミ ゲルに犬のリードを渡されたマルティンは,息子夫婦 の家に帰省中に,つないでいたテリアをエレベーター の外に出したまま,自分だけがエレベーターに乗って しまう.そのまま上がっていくエレベーターを何とか して止めようとするマルティン.やがて一階に戻ると, そこには無事な姿で尾を振るテリアがいた. アニメ映画版を見ただけでは,この逸話がなぜ挿入 されているのか,はっきりとは分からない.ところが 漫画版を見ると,ミゲルがマルティンのそうした事態 を防ぐために,リードを渡していることが判明する. ミゲルがマルティンに「息子のマンションは何階か?」 と尋ね,マルティンが「二階だ」と答えると,「それ ならこのリールは伸ばせるから十分だろう」と答える のである(この説明はアニメ映画版にはない).とに かく,結果としてミゲルが与えたリールのお陰,即ち 彼の改心でテリアは助かった.このシーンが最後にあ るのは,改心して「老い」を素直に受け入れた世界で もたくましく生きるミゲルの様子を,原作者が表現し たかったからであろう. マルティンは老人ホームからの「仮出所」を許され た,言わば老いの世界のヒーローである.その希望の 星であるマルティンすらも,時に老人特有のうっかり をする.しかし,ミゲルは老いと正面から向き合い, その対処の仕方を現実的に提示した結果,テリアの命 は助かるのである. サンチョは前篇第 8 章で,ドン・キホーテが見てい る巨人を「風車だ」と警告した.これが現実主義の本 来のあり方である.ところが,ミゲルはナイフがスプー ンであることを指摘しなかった.これはまさしく,ミ ゲルがエミリオの妄想に寄り添っていることに他なら ない.全篇を通じて,サンチョはいくどもドン・キホー テの騎士道物語の妄想に寄り添ってきた.それと同様 に,ミゲルもエミリオとともに,若き日の妄想の世界 にいる時もあるということになる. 3.4 若者たちの老人への対応 - 抵抗するミゲル と従うエミリオ エミリオとミゲルを取り巻く医者や看護師たちは, 基本的に悪い人たちではない.彼らは職務に一生懸命 勤しみ,老人ホームの経営を回している.だが,ミゲ ルにとっては彼らの活動もまた,自分たちを老いの淵 へと引きずるものに映る. 例えば,エミリオが医者の診断を受ける場面を見よ う.エミリオのアルツハイマー病が進行していること を医者に知られたくないミゲルは,あの手この手で医 者の邪魔をする.アニメ映画版では,医者の部屋の鍵 穴にチューインガムを突っ込んで医者を待合室へと誘 導し,面接をミゲルの前面で行わせるように仕向け る13.エミリオが老いて痴呆になっているかどうかを
確かめること,即ち妄想と忘却の世界に誘おうとする 医者に対し,ミゲルは力の限りを尽くしてエミリオを 援助する. これは,現実の世界から距離を置こうとするミゲル に対し,周囲の人々が老い(とそれに付随する痴呆) を残酷に突きつけることを意味する.このことは,『ド ン・キホーテ』において,司祭や床屋といったドン・ キホーテの友人たちが,必死にドン・キホーテ主従の 狂気を治療する様と酷似する.『ドン・キホーテ』では, 司祭や床屋,学士サンソン・カラスコやその他の人々 が,時にドン・キホーテをからかいながらも,つまり 彼の「妄想」に付き合いながらも,彼を治療しようと 奔走する.だが,ドン・キホーテはそうした治療に全 く耳を貸すことはない. サンチョもまた,こうした治療に対しては傍観する 姿勢を崩さないが14,司祭や床屋といった「治療者」 たちに抵抗するシーンもある.前篇第47章で,ドン・ キホーテを騙して収監し,故郷に帰る際に,サンチョ はこの荒療治とも言える治療に真っ向から反発する. 「ああ司祭様、司祭様よ! おいらがお前様に気づ いてねえとでも思っていなさったかね? それに、こ の新手の魔法が何をねらったものか、おいらが気づき も見抜きもしていねえと思っていなさるのかね? い いですかい、いくら顔を隠したところでお前様だって こたあ分かるし、いくらごまかそうとしたって、お前 様のもくろみは分かっているんですからね。」(p. 278) この台詞は,司祭の治療を快く思わないサンチョが, それに抵抗している様子をよく表現している.サン チョが司祭の治療を拒否するのは,ひとえに彼のドン・ キホーテへの愛情からである15. さて,『しわ』を見てみると,エミリオは医者の治 療に対してはひどく受動的である.医者から処方され る薬を漫然と飲むが,自分がアルツハイマー病ではな いかと疑った一瞬だけ,医者に食ってかかる.その点 で,医者の治療はエミリオに何の効果も現していない. ドン・キホーテが治療を拒んで抵抗するのとは対照的 である.もっとも,ドン・キホーテは「自分が狂人で あること」を認めた上で治療を拒むのではなく,そも そも自らが狂っていることを認識していない.一方の エミリオは,自分が老いていること,アルツハイマー 病にかかっていることを認めている.そして,それを 治療しようとする医師や看護師といった「治療者」た ちに盲目的に従うことになる.つまり,現実に立脚し ながら治療者たちとともに痴呆を治そうとする. ミゲルは,徹頭徹尾医者の治療を拒否するものの, 自らの老いを認めて薬をため込むという矛盾する態度 を取る.あるいはサンチョさながらに老いをからかう ような冗談を連発する.煙草を咳き込みながら吸った り,無謀なドライブに出かけたりといった悪あがきを 通じて,彼は妄想である若かりし頃の自分を,エミリ オとは異なる方法で夢想し,年老いていく自分と対決 する姿勢を取る.彼は老いという現実を拒否しながら も,薬をため込むという防衛策を講じることで,現実 を見据えている. 現実にしがみついても,老い(とそれがもたらす妄 想の世界)は容赦なくミゲルに襲い掛かる.そう考え ると,老いと向き合って薬をため込むというミゲル独 自の抵抗も,現実を拒否する彼なりの行動ともとれる. そんなミゲルに対し,周囲の「治療者」たちは特に 関わり合おうとはしない.唯一の例外は,夜のドライ ブで事故を起こした後にミゲルを叱責する女性事務員 くらいである.だが,そんな彼女にしても,ミゲルが 老いと戦うことを妨げるのではない.彼女は,自分た ちの職場である老人ホームを守ろうとする保身からミ ゲルの行動を妨げようとしたのであって,真にミゲル を妄想の世界に誘おうとはしていない. そんなミゲルは,サンチョがドン・キホーテを愛す るのと同様にエミリオを愛していた.痴呆のために何 もできないエミリオの相手をしてやったり,老人ホー ムの案内をしたり,必要なものを調達しようとしたり する.そして最終的にはエミリオとともに妄想の世界 の極致である二階の特別介護室に行く.こうした自己 犠牲的な行動は,ミゲルがエミリオを愛しているとし なければ説明がつかない.もしミゲルが真にピカロ的 で血も涙もない悪漢であったならば,アントニアとと もに一階にいることを選び,二階にいるエミリオなど には目もくれなかっただろう.
3.5 周囲の老人たち - 特に脇役ドローレスとア ントニアを巡って 『しわ』には魅力的で,エミリオとミゲルのコンビ に積極的にかかわる脇役の老人が 3 人登場する.本節 ではその 3 人のうち,特にドローレスとアントニアに 焦点を当てて考察する. ドローレスはアルツハイマー病患者モデストの妻 で,自らは正常なのに,夫の介護のためだけに老人ホー ムに入居した.それを見て,アントニアは彼女を「ま るで聖女のようだ」と絶賛する.ところがエミリオに は,このドローレスと一対一で,正面切って対話をす る場面がない.数少ない会話場面としては,ドローレ スがモデストに耳打ちする際に,彼がにっこりと微笑 む理由を訊くシーン程度である.つまり, 2 人は一緒 の食卓にいながらも,接点がほとんどないのである. これはちょうど,『ドン・キホーテ』において主人 公ドン・キホーテが聖女であり思い姫とあがめるドゥ ルシネーアと接点がほとんどないことと符合する.ド ン・キホーテはことあるごとにドゥルシネーアの名前 を出すが,実際に言葉を交わすシーンは『ドン・キホー テ』全篇を通しても全くない.だからこそ,前篇第4 章における,ドン・キホーテの次のような台詞が成り 立つのである. 「いや,姫の容姿を見てのうえであっては」と、ドン・ キホーテが答えた。「おのおの方がかくも明らかな事 実を認めたところで、なんら意味をなさぬではない か。ここで肝腎なのは、あの方を見ることなく、その 美しさを信じ、認め、主張し、誓い、擁護しなければ ならんということなのじゃ。それができぬというのな ら、ここな傲岸不遜のならず者ども、拙者と一戦交え るまでじゃ。」(p. 94-95) ドン・キホーテは見たこともないのにドゥルシネー ア姫の美しさを認めよ,と話し相手の商人に迫る.こ れはちょうど,エミリオがドローレスを聖女と考えて いることと似る.ドローレスが聖女であるかどうかは, エミリオ自身が自分で見聞きしたことからではなく, あくまでもアントニアからの伝聞から判断している. 違いと言えば,ドン・キホーテはドゥルシネーアが聖 女であることを周囲の人間に認めさせようとするが, エミリオは全く強制させるような行動をとらないこと である.むしろ,ドローレスはエミリオにとってどう でもいい存在であるに等しい. 『ドン・キホーテ』でも事情は似たようなものである. もちろんドン・キホーテにとってドゥルシネーアは決定 的に重要である.だが,実際に会ったこともなく,話し 合ったこともないような人物が,ドン・キホーテの行動 の一切合切を決めている.逆説的に述べるならば,ドゥ ルシネーアにとってドン・キホーテはどうでもいい存在 である.ちょうど,ドローレスもエミリオに積極的に干 渉しないことで,自分にとって彼はあまり重要な存在で はないことを示しているかのようである. こう考えてみると,ドローレスもドゥルシネーアも, それぞれエミリオとドン・キホーテにとっては手に届 かない「聖女」であるということになる. ドローレスとドゥルシネーアとの対比において,相 違するのは両主人公が 2 人に恋愛感情を抱いているか 否かである.まず,エミリオには,恐らく亡くなった と思われる妻マイテがいる.ところが,マイテは彼の 現実には一切登場しない.マイテの化身となって血肉 を伴って彼の前に現れるのが,他ならぬドローレスな のだ.もちろん,エミリオに限らず,『しわ』の登場 人物のほとんどには恋愛のモチーフがない.唯一の例 外はドローレスとその夫のアルツハイマー病患者モデ ストの間の恋愛である.そもそも,ドローレスが老人 ホームに入居したのも,愛する夫モデストが持病の悪 化で入居せざるを得なくなったからである.回想シー ンにおいて,子供の頃にモデストが少女ドローレスに 告白したことから付き合いを発展させたことが描写さ れている.つまり, 2 人の間の恋は若い頃から今まで 続いている「理想の恋愛の形」であり,エミリオの手 には決して届かないものである.その証拠に,エミリ オの回想シーンでは,妻マイテは彼と絡むことが一切 ない. つまり,ドローレスは妻マイテの分身であるが,だ からこそ二重の意味でエミリオの手の届かない存在な のだ.回想においても一切言葉を交わすことがない妻 マイテと,モデストの妻で恋愛中のドローレスは,両 方ともエミリオにとっては蜃気楼のような理想である.
手が届かないという点では,『ドン・キホーテ』のドゥ ルシネーアも似たようなものである.『ドン・キホーテ』 において,真の姿を備えたドゥルシネーアは一度たり とも登場しない.後篇第10章で,サンチョが苦し紛れ に通りかかった 3 人の百姓娘を「こちらこそドゥルシ ネーア姫である」と強弁するが,ドン・キホーテの目 には,百姓娘は百姓娘としか映らなかった.そもそも, ドン・キホーテが思い姫たるドゥルシネーアを創り上 げたのも,彼が遍歴の騎士たらんとするための手段で, 妥協の産物である. さて,もう一人の脇役であるアントニアについては どうだろうか.アントニアはドローレスとは違って, かなりな部分までエミリオと行動を共にしている.例 の夜のドライブには,彼女も一緒に歩行器を持参して ついていくほどである.そして,エミリオもミゲルも 共に二階の特別介護室に行った後は, 1 人で寂しく食 事をとっている. アントニアは,ある意味では『しわ』における傍観 者のような立場に定位する.当然一筋縄の傍観者では なく,彼女は彼女で老婆特有の問題行動をいくつか起 こしている.例えば,滅多に会いに来ない孫のために, 老人ホームでただで配られているケチャップの袋や ティーパックなどを溜め込んで,孫にそれらを手渡し ている.しかし,孫はそれを迷惑そうに眺めるだけで ある.その意味では,アントニアは老人ホーム内でも, 老人ホームの外でも孤独なのだ. この,「エミリオやミゲルと行動を共にする傍観者」 と「孤独な老女」という 2 つの側面を持つアントニア は,『ドン・キホーテ』においては作者である≪余≫ とリンクする.≪余≫は,『ドン・キホーテ』をアラ ビア語からカスティーリャ語に訳したスペイン人,と いう設定になっているが,そこに真の作者であるセル バンテスが投影されていると考えることもできよう. もし,≪余≫が部分的にでもセルバンテスと同じで あったなら,ちょうどアントニアはセルバンテスなの である. セルバンテスの生前は不遇であった.若かった頃に 参戦したレパントの海戦で名誉の負傷を追い,捕虜生 活を送るものの,スペイン政府からは冷たく突き放さ れる.1585年 3 月には『ラ・ガラテーア』前篇を出版 するも,世間の評判は芳しいものではなかった.その 後も人妻アナ・フランカと不倫はする,横領の咎で投 獄されるなど,決して順風満帆な生活を送っていない. つまり,作者セルバンテスは,生涯を通じて確固た る知古もいなければ伴侶もいない,精神的には孤独の 人生を送っていたのである.このことは,ちょうど『し わ』においてアントニアが主人公エミリオの傍観者で ありながら孤独であることと一致する.還元するなら ば,アントニアは孤独に主人公を観察するという,『ド ン・キホーテ』における≪余≫(≒セルバンテス)と 同位置にいるのである. ただ,アントニアが孤独に徹しきれない個所もある. 食事仲間を失った彼女は,ラスト近くでオリエント急 行に乗っていると妄想している老婆ロサリオに「一人 旅は寂しくて」と言い訳して合流する.この辺りは, 『しわ』の作者が,一人で旅をするアントニアに憐憫 の情を催したからであろうか.『ドン・キホーテ』に おいて,作者セルバンテスが生涯孤独であったことと 比較すると,『しわ』には多少の孤独からの救いが残 されていることになる.
4 .アウトサイダーとしての『しわ』の登場人
物とドン・キホーテ
最後に,『しわ』のエミリオと『ドン・キホーテ』 のドン・キホーテの決定的な共通点を挙げるとすれば, 全篇を通じて両者はアウトサイダーだということであ る.そもそもの設定を見ると,エミリオを始めとする 登場人物は,全員老人ホームに「姥捨て山」の如く打 ち捨てられた社会的弱者である.もちろん,老人全て が社会的弱者であるわけではないが,少なくとも老人 の大半は,自らが人生において中心的な位置を占める 齢ではないことを自覚している.更に言えば,エミリ オやアントニアは,自分の息子や孫からも見捨てられ たという点で,社会的に最も周辺の位置に甘んじてい る.即ち,彼らは社会の中心から最もかけ離れた,遠 い位置にいるのである. 例えばエミリオの人生において,中心的な視座を占 めていたのは銀行の支店長としての勤務であった.だ からこそ,彼は幾度となく支店長時代に思いを馳せ, 老いから現実逃避して自分が中心的な活躍をしていた若かりし時代に逃げ込む.アルツハイマーのモデスト と,彼を介助するドローレスにとっては,人生の中心 は2人が少年少女時代に付き合い始めた頃である.だ からこそ,彼らの間で「インチキね(tramposo)」と いう語が今でも行き来しているのである(この「イン チキね」という台詞は,モデストがドローレスに告白 した際に「雲を取ってきたら付き合ってあげる」と言 われ,彼は雲に手が届くほどの高い教会の尖塔に彼女 を連れて行ったことで,ドローレスから発せられたも のである). もう 1 人の主人公とも呼ぶべきミゲルは過去こそ語 られないものの,老人ホームにいる自分が社会的な中 心であるとは考えていないと思われる.また,彼はピ カロ的な性格が災いしてか,一生を通じて結婚するこ ともなければ子供を持つこともなかった.今のように 未婚や子供を持たない人も多く存在する時代の人では ないミゲルにとって,社会の模範的なレール(結婚し, 子供を持ち,仕事をして引退し,そして家族に看取ら れて死んでいく)から外れていることを彼は重々承知 していただろう.また,オリエント急行に乗っている と信じている女性ロサリオの人生における中心的視座 は,やはり理想として語られる「オリエント急行の乗 客としての自分」であって,今の老人ホームの一室で 窓の外を眺めている自分ではない. 一方,ドン・キホーテはラ・マンチャ地方の田舎出 身の平凡な下級貴族(郷士)で,トレドやマドリード といった大都会で華々しく活躍する栄光の騎士ではな い.地理的な面でも,ドン・キホーテは周辺的な地位, 即ち中心から離れた僻地に追いやられている.また, 騎士道物語を読みすぎて気が狂ったドン・キホーテを 社会の中心に据えるほど,人々は寛容ではない.これ は現代にも言えることだが,狂気に陥り,狂った人間, 精神的疾患を持った人間は,その生涯においても,そ して社会的な位置においても,常に周辺人・周縁人で あることを余儀なくされる.本質的に,ドン・キホー テはアウトサイダーなのである. また,狂人ドン・キホーテに追随するサンチョ・パ ンサも,そのアウトサイダーぶりでは負けていない. 狂人に付き従うというただその一点からも彼がアウト サイダーの烙印を押されるには十分であるが,更に加 えて,彼はドン・キホーテの理想の世界においても決 して騎士になることはなく,脇役的な従者の地位にい る.もしサンチョが社会的・身分制度的に中心の座を 占めたいと欲していたならば,彼は決して「狂人の遍 歴の騎士の従者」の地位などを得なかっただろう. このように,『しわ』と『ドン・キホーテ』の登場 人物が押し並べてアウトサイダーであるというのも, 両者の関連を証明する一助となるだろう.
5 .まとめ
以上,本稿では主に『しわ』のエミリオとミゲルの 関係から,『ドン・キホーテ』におけるドン・キホー テとサンチョの関係をパラフレーズして論じた.若か りし頃の栄光に浸り,老いから来る痴呆に身を任せる エミリオは,そのまま狂気に陥って治療を拒否するド ン・キホーテと重なる.同様に,時に自らを若いと思 い込ませ,妄想に入りこむも,ピカロ的にしたたかに 生きるミゲルは,主人であるドン・キホーテの妄想に 従いつつも,その中で現実にしがみつくサンチョと似 る. またその一方,周囲の医者をはじめとする治療者た ちや脇役たる他の老人たちも,『ドン・キホーテ』に おける床屋や司祭といった「治療者」及びドゥルシネー ア,果てはセルバンテスの化身たる≪余≫に通じる. もちろん,本稿で考察した『しわ』と『ドン・キホー テ』の関連は,あくまで作品を通じてのものであって, 作者や映画監督がそれを狙っていたかどうかは定かで はない.ただ,作品が時に作者の手を離れて独り歩き するという,文学の世界では頻繁に起こる現象を勘案 すると,本稿の指摘もあながち的外れとは言えないだ ろう. 注 1 本稿は,令和 2 年度東北大学高度教養教育・学生支 援機構「教育開発推進経費」の「事業名: スペインの アニメ映画を通じてのスペイン語圏文化の教授法の 開発」の研究結果報告論文である. 2 2007年にパコ・ロカによって発表されたArrugas.日 本語版は2011年に小野耕世・高木奈々によって訳出 された『皺』(小学館集英社プロダクション)がある.3 『しわ』は,スティーブン・キングの中編小説『刑務所 のリタ・ヘイワース(Rita Hayworth and Shawshank Redemption)』と比較しても興味深い(この作品はフラ ンク・ダラボン監督『ショーシャンクの空に(The Shawshank Redemption)』と改題,実写映画化されて いる).ここでは,語り手のレッドがミゲルと重なる.レッ ドは刑務所の調達屋として活躍するが,それはちょうど, ミゲルが老人ホームを刑務所になぞらえていること,そ して老人ホームでは禁止されている様々な物品を収容 者のために用意する箇所などとリンクする. 4 アニメ映画『しわ』公式サイトより.2020年 8 月10 日アクセス. http://www.ghibli-museum.jp/shiwa/about/ 5 その他の大きな違いとして,糖尿病で視力が低下し た老人エステバンが,同室のフェリックスのいびき がうるさいという理由でスパナで彼を殴打する場面 がある.これは漫画版にはあるがアニメ映画にはな い.また,アニメ映画ではミゲルが時計,財布,靴 下を盗んでいるとエミリオが疑い,不和の原因にな るが,漫画版ではその描写はひどくさらりと流され ている.そして,結局前者ではそれらの物品がエミ リオのベッドの下に,後者ではマットレスの下の箱 の中にあることが判明する.その他にも細かい違い が無数にあり(例えば漫画版にはあるビンゴの描写 がアニメ版にないなど),これらの違いも興味深いが, 本稿では考察の対象としない. 6 現在ではこの小説は単に『ドン・キホーテ』の名前 で人口に膾炙しているので,本稿でも差し支えない 限り,以下『ドン・キホーテ』とする.なお,主人 公のドン・キホーテと区別するため,小説の題名を 表す時は『』で括る. 7 原 書 で は 前 篇 はprimera parte( 第 一 部 ), 後 篇 は segunda parte(第二部)となっている.なお,後篇 のタイトルは『機知に富んだ騎士ドン・キホーテ・デ・ ラ・ マ ン チ ャ(El ingenioso caballero Don Quixote de la Mancha)』と,ドン・キホーテの身分が「郷士 (hidalgo)」から「騎士(caballero)」に格上げされて いる. 8 このような凸凹コンビは,恐らくスペイン文学だけ でなく広く世界の文学やサブカルチャー作品にも見 られるだろう. 9 漫画版ではミゲルの出生は明らかではないが,アニ メ映画版では「ミゲルはスペイン生まれですぐにア ルゼンチンに移住し,三十年前にスペインに戻って きたが,アルゼンチン訛りが抜けない」とある.こ れは,アニメ映画の監督イグナシオ・フェレーラス がアルゼンチン生まれで,すぐにスペインに帰国し ていたことと関係があるだろう.『しわ』では,ミゲ ルがいわゆるvoseoを使用するなど,アルゼンチン訛 りを連発している. 10 引用およびページ数は,牛島信明訳『ドン・キホーテ』 前篇及び後篇(岩波文庫)より. 11 この逸話は漫画版『皺』にはない. 12 漫画版『皺』も同じエンディングである. 13 漫画版では,医者の部屋の電球をミゲルが盗んで, 医者を面接室に誘導している. 14 このことは,サンチョがドン・キホーテの狂気を受 け入れていることを同時に暗示する. 15 サンチョのドン・キホーテへの愛情については,牛 島(1989,2002)他を参照. 参考文献 古家久世(2005)「サンチョのドン・キホーテ化」京都外 国語大学イスパニア語学科編『『ドン・キホーテ』を 読む』行路社.pp. 187-203.
Madariaga,Salvador De.(1935) Don Quixote - An Introductory Essay in Psychology.Oxford University Press.牛島信明(訳)(1992)『ドン・キホー テの心理学』晶文社. 松田侑子(2012)「『ドン・キホーテ』の人物像に関する 一考察」神戸市外国語大学博士論文. 田林洋一(2020)『『ドン・キホーテ』に潜む狂気 -正気 を失ってしまったのは誰か』水声社. 牛島信明(1989)『反=ドン・キホーテ論 セルバンテス の方法を求めて』弘文堂. 牛島信明(2002)『ドン・キホーテの旅 神に抗う遍歴の 騎士』中公新書.