富士川 義 之
二十世紀イギリスの伝記文学について
─ゴスとストレイチー
本日は師走のお忙しいなかをわざわざおいでいただき、まことに有難うござ います。
講演のタイトルは「イギリスの伝記文学」となっていますが、もとより浅学 非才の身ですから、「イギリスの伝記文学」全般に関して短い時間で紹介やら 解説をすることなど、とうていできそうにもありません。 「イギリスの伝記文学」
と言っても、十七世紀のジョン・オーブリーあたりから、十八世紀のサミュエ ル・ジョンソンやジェイムズ・ボズウェル、さらには十九世紀のトマス・カー ライルやトマス・マコーレーなど、錚錚たる伝記作家たちが、巨峰のようにそ びえ立っているのが見えます。これらの伝記作家たちについて触れなければな らないことは十分承知はしているのですが、時間上の制約と何よりもわたし自 身の能力不足があって、ここでは日頃から興味を持っている二十世紀前半の「イ ギリスの伝記文学」、とくに二人の伝記作家に限定して、しばらく雑談風にお 話ししたいと思っているところです。従ってタイトルの「イギリスの伝記文学」
というのは、羊頭狗肉でありまして、正式には「二十世紀イギリスの伝記文学」
というように受取っていただけたらということを、まず最初にお断りをかねて 申し上げておきます。
さて「伝記」(‘Biography’)とは何かということなのですが、ご存知のよう
に、日本では、単に伝記と言えばすむところを評伝という言葉を使う場合のほ うが一般に多いようです。以前から何となく気になっていたことなのですが、
わが国には評伝という文学ジャンルがあって、これがかなりの人気を得ていて 注目されることが少なくない。人物評伝などという言い方は特に好まれていま す。完結したら全三百巻になるという実に膨大な人物評伝シリーズを刊行中の 出版社もあります。ところで「評伝」に該当する英語は何だろうかと改めて考 えてみますと、ちょっと当惑せざるを得ない。確かに ‘Critical Biography’ とい う用語は存在しますが、あまり使われることはない。それが使用される場合は、
むろん例外はありますが、本文批評を学問的に厳密にほどこされた版本を指す ことが多いようです。つまり資料や文献批評をしっかりやった版本ということ で、日本のような意味での「評伝」に相当する用語では必ずしもない。日本で 使われている「評伝」というのは、文字通り、批評の「評」と伝記の「伝」を 結び付けて作られた造語なのでしょう。「評伝」という用語がいつ頃から使わ れるようになったのか、その用語の成立事情を調べてみたら面白いだろうと思 います。
つまり「評伝」とは、簡単に言えば、「伝記」の事実重視に「批評」の分析 判断をまじえた形式ということになるでしょうか。つまり資料をふんだんに 使って一人の個性的な人物の生涯を生き生きと物語風に浮き彫りにする。事実 に寄り添った伝記のような体裁を取りながらも、好悪をまじえた筆者の個性的 な観察や知見などを控え目に織り込んでいく書き方が「評伝」であると言って もよいでしょう。優れた見識を持つ筆者の手になる「評伝」は、しばしば筆者 の個性による執筆対象である個性の解明であり、個性と個性との出会いの場と なります。そのような出会いや解明に読者は文学的な感動さえ覚えさせられる ことがあります。そこに評伝という読み物を読むことの醍醐味があると言って も差し支えないでしょう。
先ほど「評伝」にそのまま該当する英語はないのではないかと申しましたが、
英語には「伝記文学」、すなわち ‘Literary Biography’ という用語があります。
しかもかなり頻繁に使われている。以前からそうではなかろうかと思っている
のですが、この ‘Literary Biography’ 、「伝記文学」というのが、日本でよく使
われていている「評伝」におおよそのところ当たるのではないでしょうか。「評
伝文学」と同じく、最初に誰がどこで使ったのかは詳しく調べていないので分
からないのですが、英国では大体のところ、ウォルター・ペイターなどの十九
世紀末の唯美主義文学が台頭するあたりから二十世紀初めにかけて ‘Literary
Biography’ という用語が目につくようになります。ペイターは著しく文学的な 伝記の特性を持つ、いわゆる「イマジナリー・ポートレイト」(「想像の肖像」)
の創始者であり、その影響は、今日ここで取り上げます、エドマンド・ゴスと リットン・ストレイチーの「伝記文学」にも及んでいます。また、世紀末フラ ンスの文人、マルセル・シュオブの『架空の伝記』( Vies Imaginaires )もおそ らくはペイターの『イマジナリー・ポートレイト』に示唆を受けることが少な くなかった作品ではなかろうかと推察されます。
‘Biography’ という言葉の語源は文字通り「ライフ・ライティング」を意味
しています。 Biography という言葉のなかの Bio はギリシア語の「ビオス」
(‘bios’)、すなわち ‘life’ に、 ‘graphia’ は ‘writing’ に由来するからです。この「ラ イフ・ライティング」という用語は、現代では一般に、伝記と自伝の区別が故 意にあいまいにされているときとか、人生について物語るさまざまな異なる ジャンル─自伝や伝記や日記や回想録や手紙や自伝的小説─などを一緒に論じ る際によく引き合いに出され、現在では心理学や社会学や歴史学や文学などの 学術的な研究の対象となっています。この「ライフ・ライティング」という用 語を好んで使っていたのが、ヴァージニア・ウルフです。彼女はその晩年に執 筆した未完の自伝的回想「過去のスケッチ」で、個人の人生を家族や遺産や環 境や「目に見えないさまざまな存在」である先祖たちという具体的なコンテク ストのなかに置いて見ることの重要性について語っている際に、「ライフ・ラ イティング」という用語を使っています。つまり人生を物語ることの意味につ いて考える「ライフ・ライティング」としての伝記という概念が、ウルフの脳 裡にはあったということです。言い換えると、伝記というものをそれだけで完 結したジャンルとして見るのではなく、しばしばそれと重なり合ったり、隣接 する回想録や自伝や日記や手紙や自伝的小説などと容易に結びつく独特なジャ ンルとして受け取っていました。今日の講演では、二十世紀前半のイギリスに おいて、「伝記がいかに書かれてきたか」ということ、より正確に言うならば、
「優れた伝記はいかに書かれてきたか」という問題を、主として二つの伝記作 品を話題にしながら考えてみたいと思っています。いまウルフの「ライフ・ラ イティング」という用語についてちょっと触れましたが、最初に取り上げるの は、当初は匿名で 1907 年に出版されたエドマンド・ゴスの『父と子』(Father
and Son )です。これは明らかに「ライフ・ライティング」としての伝記の性
質を著しく備えた作品です。英国学士院会員ともなった著名な自然科学者であ
り、熱烈なピューリタンであった父親フィリップの伝記でありながら、ある程
度虚構化をほどこされた一種の小説でもあり、また作者エドマンドが父との関 係性を解き明かそうとする自伝風の回想録ともなっている作品だからです。
エドマンド・ゴス(1849-1928)は十九世紀末から二十世紀にかけてのいわ ゆる世紀転換期におけるイギリス文壇で活躍した著名な文人です。評論や随筆 や、伝記や旅行記や翻訳など、散文の領域で驚くべき多産な著作家であり、そ の著書はざっと数えても優に五十冊を超えています。とりわけ先駆的なイプセ ン論をはじめ、北欧文学の紹介や、『十八世紀英文学史』や四巻本の『さし絵 入り英文学史』(これはリチャード・ガーネットとの共著)などの史的研究、 『ト マス・グレイ』、『ジョン・ダン』、『トマス・ブラウン』、『スウィンバーン』な ど多岐な顔ぶれにわたる作家評伝、サント・ブーヴをはじめとするフランス文 学論、数え切れないほどのエッセイや人物スケッチや書評などをジャーナリズ ムでさかんに書いて名声を得ていた華やかな文人でした。彼はラファエル前派 の詩人たち、特に D・G・ロセッティやスウィンバーンやウィリアム・モリス、
またペイターとも個人的な付き合いがあり、ヘンリー・ジェイムズ、ジョージ・
ムーア、バーナード・ショーたちとも親しかったようです。
しかし第一次世界大戦後、ジョイスやエリオット、ウルフやパウンドやロレ ンスなどの若手のモダニストたちの台頭が目につく時代になると、ゴスは一転 して軽んじられるようになり、彼を褒めるよりも貶す声のほうが強くなります。
エリオットは「ゴスがロンドンの文学界、社交界で占めていた地位にまで上が れる者はもういない。そんな役職はもはや無用となったからである」と書いて、
ゴスを完全に過去の人として葬り去ってしまいました。
そのゴスが六十歳近くの晩年になってから書いたのが、『父と子』という伝 記文学です。皮肉にもこの『父と子』が多才でありながらも結局のところ「たっ た一冊のみの本しか書かなかった」彼の傑作として残り、ペンギン叢書やオッ クスフォードの「モダンクラッシクス」シリーズなどに入って現代でも読まれ ているのです。この本の冒頭に作者がこんなことを書き記しています。
「この本は二つの 気 質 、二つの信念、さらには、二つの時代の間の争いの記 録でさえある。争いは結局二つの分裂に終わらざるをえなかった。ここに描か れた二人の人間のうち、一人は生まれつき過去の時に帰る道を急ぎ、もう一人 は時代の先へと進んで行った。二人が同じ言葉を語らず、同じ希望を抱かず、
同じ意欲を固めることのない時が来た。しかし、少なくともあとに遺された者
にとっての慰めは、お互いに最後まで相手に対する敬意を抱き、淋しいながら
も許し合って相手を見守っていたことである」。
ゴスがこの自伝とも伝記ともつかぬ作品を書いたとき、父親はすでに亡く なっていました。フィリップ・ゴスが他界したのは 1888 年のことで、没後 二十年近い歳月を経ています。息子としては、この作品において、「二つの気 質、二つの良心」、さらには「二つの時代」といったあからさまな対立宣言を 直接つきつけることは、やはり父親の生前には非常に困難だったことでしょう。
長年にわたる対立相手だった父親の没後二十年近くも経っていたからこそ思い 切って書くことができたというところが多分にあったのでしょう。歳月がもた らしてくれた冷静で客観的な距離のパーステクティヴの確立とともに、父親に 対する愛惜の思いが強く働いており、これを読む者の心を打たずにはおかない のです。
父親に寄せるゴスの思いやこだわりには、格別のものがあって、実は父の 没後二年目の 1890 年に、彼は The Life of Philip Henry Gosse, F.R.S., by his son
Edmund Gosse (『学士院会員フィリップ・ヘンリー・ゴス伝─息子エドマンド・
ゴスによる』)という伝記をすでに書いていました。この本は現在入手不能で いまだに未読のままなのですが、この伝記にまつわる興味深い一つのエピソー ドが伝えられています。アイルランド出身の作家ジョージ・ムーア(1852 - 1933)
は、ゴスの三歳年下の古くからの友人で、たまたまこの父親伝を読んで、ゴス にこう語ったというのです。
「君の本には、息子の姿が出てこない。この父親と息子が共にした生活、読 者としてはそれがぜひ知りたくなる。これは重要な心理的作品になるぞ。お父 さんの君に対する影響、また君が与えた影響、それにプリマス同胞教団の人々 も、よい背景になってくれる。何しろこうしたことを君は生き抜いて来たのだ から、これは君でなくては語れないテーマだよ」。
ゴスは、これに大層心を動かされながらも、父が福音主義キリスト教の牧師 でもあった教団の当事者たちの多くがまだ生きていることでもあるしと強いた めらいの気持ちを示して、友人の親切な忠告にはなかなか従わなかったのです。
また、この伝記がムーアのような友人以外にはほとんど何の反響も呼ばなかっ たことにも失望していたのです。しかし「もう人生の黄昏時にいるわたしに、
誰も読んでくれそうにもない本を書け、というのかね」とまで言い出すゴスに
対して、ムーアは折にふれて説得しつづけ、「君がいつも書く伝記形式じゃ駄
目だぞ。今度は一人称で書くんだ」と、書き方まで指導したようです。ムーア
は『一青年の告白』(1888)という自伝的小説で広く知られ、また、数冊の自
伝的回想録をものにしてもいる、そのジャンルでのベテランの書き手でした。
そんなムーアから熱心に執筆をすすめられたことが大きなきっかけとなったの でしょう、ゴスは 1907 年に『父と子』を発表するにいたるのです。ただ、ま だ強い躊躇の気持ちがあったせいなのか、初版は匿名で出版し、本が評判にな るにつれて実名を公表するようになるのです。
ここで否応なく思いいたるのは、わたしが昨年三月に出版した『ある文人学 者の肖像─評伝富士川英郎』(新書館)のことです。ある季刊雑誌から連載を 依頼されて執筆を始めたのですが、最初のうちは、実を言うと、書き出すのが 何ともつらいと言うか、ためらわれることが少なくなかった。ゴスの場合と同 じく、わたしもまた学者であり父親でもある人物の生涯を辿ることにある種の 強い心理的抵抗があったのですが、書いているうちに徐々に冷静で客観的な距 離のパースペクティヴを自分なりにとることがどうにかできるようになりまし た。ですから、ときどきそう誤解されるように、こう書こうというちゃんとし た構想やらプランをあらかじめしっかりと立てて執筆にとりかかったわけでは 決してないのです。ほとんど成行きにまかせてあれこれ調べたり、読んだりし ながら感じたり考えたりしたことをもとにして、辛抱強く書きつづけていくう ちにおのずと一冊の評伝にまとまったという具合だったのです。執筆中に編集 者から「自分のなかの父親像とちゃんと向き合って、父親との関係性について もぜひ書いてくださいよ。そうでないと、読者には面白くないから」とくぎを さされたことがわたしの背中を大きく押してくれたのですが、そのことがいま も忘れられません。書きしぶる自分を巧みに誘導してくれたムーアは、ゴスに とって、まさに編集者的な存在だったのではないかとは思わずにはいられない のです。
ゴスはこの『父と子』のなかで、ハックニーというデヴォンシャーの海辺の 小さな町で過ごした 1850 年代と 60 年代における自分の子供時代の経験や印象 などを、自然科学者でありカルヴィン派の牧師でもあった厳格な父親との関わ りを中心に回想風に描いています。父親フィリップは、当時の動物学や植物学 や地質学や鉱物学などの学問の最先端に精通した傑出した自然科学者でした。
彼は一方ではチャールズ・ダーウィンの『種の起源』を高く評価しながらも、
聖書の「創世記」に書かれている記述を絶対的な真実と見なすことを止めるこ
とができなかった。1857 年夏の王立協会の会合のあと、ダーウィンの進化論
の有力な支持者である植物学者フッカー(1817-1911)に言葉をかけられ、そ
のあとダーウィン自身とも話をかわしたことがあったとも書かれています。第
五章のなかで、ゴスは次のように記しています。
「自然淘汰の学説に対する父の態度は彼の生涯を決定するものとなり、また 奇妙にも、私自身の少年時代の経験に甚大な影響を与えた。何より先に認めな ければならないことは、悲しいことではあるが、最初、父の知性は、あらゆる 点で本能的に、この新しい光を出迎えようと、立ち上がりかけたのに、創世記 の第一章を思い出してその動きを止めたことである」。
こうして父親フィリップは、結局のところ古くから受け入れられている創世 記の記述を修正することが全くできず、ゴスによれば「様々な理由で、あの恐 ろしい学説とは一切係わりをもたず、種は不動であるとの法則を固持する決心
をし ... 異常な頑固さで父は自分の部屋に閉じこもった」のです。
ゴスが八歳のときに病死した母に代わって、その後彼はもっぱら独断的なキ リスト教信者である父の手で育てられ、ヴィクトリア朝の科学と宗教の争いの なかに巻きこまれていくのです。彼は一方では自然科学者としての父を深く尊 敬しながらも、思春期の頃より父の信仰の偏狭さ、愚かしさに気づき、父と鋭 く対立するようになります。そうしたゴス自身の、なまなましい内的葛藤が美 しい自然に囲まれた海辺の田舎町を背景に、鮮やかに回想されていくのが『父 と子』という作品です。わたしはこれを読み返していて、その詩的な自然描写 や繊細な内面描写のうちに、ウィルター・ペイターの『イマジナリー・ポート レイト』に収められた短篇「家の中の子供」の影が時折射しているようにも思 いました。実際ゴスは、1894 年夏に五十四歳でペイターが死去した直後に「ウォ ルター・ペイターの肖像」というかなり長文のエッセイを発表して彼の死を悼 み、彼の文学に深く傾倒していましたから、そのような連想もあながち的外れ ではないでしょう。ちなみにこのエッセイの拙訳が筑摩書房刊の『ペイター全 集』第三巻の巻末に収められています。また、この『父と子』は、例えばフィリッ プ・ロスの『父の遺産』とか、まだ翻訳されていませんが、イギリス作家ブレ イク・モリソンの And When Did You Last See Your Father といった父と子の関 係を回想する現代小説の先駆作ともなっているのではないかと思われます。も ちろん現代の方がもっと遠慮のない、もっといわば即物的な父親理解を示して くれているのですが。ともあれ、ゴスはこの『父と子』において、「二つの気 質の研究」と「滅びゆくピューリタニズムの診断」を行うことによって、伝記 でも自伝でも回想録でもない、ヴィクトリア朝的な因襲に反抗する、新しいタ イプの伝記作品を生み出したのです。この作品の発表当時多くの読者が「モダ ン」だと感じたのはそのためでしょう。
『父と子』が出版されてから十一年後の 1918 年、第一次大戦中に、評論家リッ
トン・ストレイチーの『ヴィクトリア朝偉人伝』( Eminent Victorians )が刊行 されます。まだごく一部でしか知られていなかったストレイチー、三十八歳の ときです。持ち込みだった彼の原稿を会社でふと読み始めた編集者は面白くて やめられず、家に原稿を持ち帰り徹夜して一気に読み上げたというエピソード が残っています。
『ヴィクトリア朝偉人伝』と言えば、大学生のときにテキストで読んだナイ チンゲール伝のことがまず思い浮かびます。クリミア戦争中に数多くの傷病兵 たちのために献身的に働き、それまでひどかった病院の衛生状態を改善し、数々 の辛い仕事に耐えた自己犠牲的な従軍看護婦として世間から「白衣の天使」と 呼ばれたあのナイチンゲールの伝記です。ストレイチーは、世評が造り上げた その「白衣の天使」という衣装がまがいものであり、その衣装を剥ぎ取って恐 ろしく仕事熱心なあまり、しばしば病的なヒステリー症状を示したり、極めて 独善的な態度をとることが多かった彼女の人物像を容赦なく暴露しました。そ うしたいわゆる ‘debunking’(暴露的)な伝記手法に驚いたことを、いまも忘 れずにいます。そうした現実暴露のゆえに、ストレイチーは、当然ながら激し い毀誉褒貶の渦中に巻き込まれるのですが、今日から見ると、彼の伝記が、出 版当時、なぜあれほどまで大胆不敵で、揶揄的でショッキングな書物の印象を 与えたのかを理解するのはほとんど難しくなってきています。現代の伝記作家 ハーマイオーニ・リーが指摘するように、 「後世の読者はこの本の不正確な記述、
ダンディズム、それに上から目線から生じる浅薄さに苛立つ」ことになるから です。
しかしながら、『ヴィクトリア朝偉人伝』は、しばしば「伝記を変えた伝記」
とも評されるように、新しい伝記文学への道を切り拓いた革新的な伝記だった
のです。ゴスの『父と子』の場合にはまだためらいがちであった反ヴィクトリ
ア朝的な態度を鮮明にするために、ストレイチーはヴィクトリア朝において偉
人と見なされていたナイチンゲール、アーノルド博士、ゴードン将軍、それに
マニング枢機卿の四人を取り上げて、彼らの俗物根性、偽善性、異常な性格な
どを次々に暴露してみせたのです。だが、今日読み返してみると、過酷な現実
暴露は時代の表面の移り変わりを語るにすぎず、この伝記作家が卓越している
ゆえんのものは、そうした無遠慮な現実暴露にあるのではなく、伝記を文学作
品へと高めようとする努力のなかにあったのではないかと思わずにはいられま
せん。言い換えれば、伝記を知的な読書人向けの無類に面白い高級な読み物に
することが、彼の究極の願望だったのではないかと思います。ブルームズベ
リー・グループの盟友だったヴァージニア・ウルフは、革新的な伝記作家とし てのストレイチーを新しい伝記作家として認めながらも、面白い高級な読み物 としての伝記文学の方向に彼が進んでいることには必ずしも同意していなかっ た。その一端は 1928 年出版の『エリザベスとエセックス』の娯楽性に彼女が 苦言を呈していることからも知られます。
それはそれとして、伝記作家ストレイチーの革新性とはどのようなもので あったのでしょうか。『ヴィクトリア朝偉人伝』には非常に魅力ある「序文」
がついています。大層簡潔に書かれた文章ですが、盛られた内容は豊かで、暗 示に富み、オスカー・ワイルド風の機知と逆説にあふれる「序文」です。そこ にはヴィクトリア朝の分厚い伝記への不満と、自分が目ざす伝記文学への野心 的な思いが極めて率直に吐露されています。この「序文」はまさに、二十世紀 の新しい伝記文学のマニフェストでもあったのです。ストレイチーは、その「序 文」で、「ヴィクトリア朝」については、何もかもみんなが知りすぎてしまっ たので、その歴史などもう書く者はいないのではないかと言います。驚くべき
「情報」( ‘information’ )の過剰が、現代の歴史家を苦しめている。「これら膨大 な資料を前にしたなら、ランケの勤勉さでさえ溺れてしまうだろうし、ギボン の明敏さでさえたじろぐことだろう」とさえ言います。さらにこの事実に直面 するなら、現代の歴史家に、まずどうしても必要なことは、情報に関する無知
(‘ignorance’)ではないかというのです。「無知こそが歴史家の第一条件だから」
というわけです。主題の扱い方にしても、ヴィクトリア朝という特異な時代を 描こうと思っても、「綿密かつ詳細叙述という正攻法ではとても歯が立たない だろう」。だから、従来の正攻法とはむしろ逆に、主題の側面とか背面とか、
これまで人目につかなかったような暗部にも目を当てなければならない。自分 は歴史の傍観者として「ヴィクトリア朝」に関する学問を築いたり、理論を証 明したいのではない。自分の目的は、説明することではなく、実例を示すこと である。そして伝記を通じて、現代人の眼に、 「ヴィクトリア朝の姿」 (‘Victorian visions’)がまざまざと映って来るような、そういう仕事がしたいのであると 述べています。そこで自分は聖職者マニング枢機卿、権威ある教育者アーノル ド博士、行動的な女性ナイチンゲール、冒険家の軍人ゴードン将軍という代表 的なヴィクトリア朝人四人の伝記を書くことによって、自分の想像力を刺激す る真実の断片を、吟味し解明しようと思ったのであると言います。さらにまた、
わがイギリスにおいては、伝記文学は不幸なめぐり合わせにあるようで、もち
ろん二、三の傑作はあるけれど、フランスのような偉大な伝記文学の伝統がな
い。フォントネルやコンドルセのような天才がいない。文学のなかで最も繊細 かつ人間的な分野である伝記文学が、イギリスでは雇われ職人の手に任されて いる。こんなふうに述べたあと、ストレイチーは次のように書き記しています。
「よい伝記を書くことは、おそらく、よい人生を生きるのと同じくらいむず かしいとは、われわれは考えないのである。死者を記念するには、大部の二巻 本によるというのが、わが国の習慣になっている。こういう本が、膨大な資料 を未消化のままに、ふぬけた文体で書かれていることなら誰でも知っている。
ながたらしい讃辞を書きつらねていて、構想も客観性も選択も嘆かわしいほど に欠けているのだ。こういう本ならば、葬儀の列のようによく知られている。
のろまで野蛮な点で、葬儀と同じ雰囲気を持っている ... しかし、くわしく述 べる必要はあるまい。たとえば、適切な短さを守ること、それは間違いなく伝 記作者の第一の義務である。余計なものはすべて排除し、意味のあるものは何 ものも排除しない短さを守らねばならない。第二の義務は、同じように間違い なく、作者自身の精神の自由を維持することである。讃辞を呈するのが、任務 ではない。当面の事実を、自らの理解するところに従って、明らかにするのが 任務である。それこそ、この本において私が目的としたところである」。
「よい伝記を書くことは、おそらく、よい人生を生きるのと同じくらいむず かしいとは、われわれは考えないのである」とストレイチーは言います。彼は、
このような自己反省をつね日頃から重ねている伝記作家の抱く歴史のヴィジョ ンというものを考えているのです。「人間というのは大切な存在であるから、
単に過去を説明する徴候(‘symptoms’)として扱われてはならない。人間が持 つ価値は、時代の流れから独立したものであって、価値それ自体のために感じ とられねばならぬ永遠のものである」と彼は言うのですが、そういうふうに過 去の人々が見えて来るのを、まともな伝記作家の歴史のヴィジョンと言いたい のでしょう。
ここでちょっと引き合いに出してみたいストレイチー論があります。小林秀
雄が八十一歳で亡くなるちょうど二年前の昭和五十六年(1981)に文芸誌「文
學界」に断続的に連載し中断した「正宗白鳥の作について」という長文のエッ
セイです。雑談風に筆を運ぶこのかなり長めのエッセイでは、タイトルにある
正宗白鳥だけでなく、本居宣長や内村鑑三、フロイトやユングのことも論じら
れているのですが、ちょうど真ん中あたりに彼がそういう訳題を使っているス
トレイチーの『ヴィクトリア朝の名士達』がかなり詳しく取り上げられていま
す。小林秀雄はかねてからストレイチーの愛読者であった盟友の河上徹太郎に
すすめられて『ヴィクトリア朝の名士達』を読んだようです。そして非常に心 を打たれ、このイギリスの伝記作家に強い関心を抱くようになります。さらに
『ヴィクトリア朝偉人伝』の三年後の 1921 年に発表された『ヴィクトリア女王』
をも論評しています。このエッセイのなかで、小林秀雄は、ストレイチーの伝 記についてこんなことを言っています。小林によれば、ストレイチーは歴史家 を苦しめる「情報」の過剰から話を始めているが、それには理由があって、当 時のイギリスでは、まだまだヴィクトリア朝風の因襲に馴染む者が多く、名を 成した故人の伝記と言えば、退屈で我慢のならぬ個人礼讃の長々とつづく文章 が、平気で横行していたのである。彼の伝記の企ては、先ずこれに正面から衝 突せざる得なかった。だが、真の問題はそんな手近かなところにはないことを、
彼はつとに見抜いていた。問題は、伝記作家が出会う歴史情報が過剰であるか ないかというような事実問題を遥かに超えている。と言っても何か特別なこと が言いたいのではない、わかり切ったこと、極く当たり前のことをストレイチー は身をもって体験したのである。このように説いてから、小林秀雄は次のよう に書いています。
「それは、英国では、伝記文学の伝統が浅い為に、多くの人々が迂闊でいる が、フランスのように長い伝統のある国では、伝記文学の大家達が、みな黙々 たる努力のうちに実行して来た事なのだ。故人の一生をわが心のうちに生きて みるという難題を、誰も自分流に、人知れず解いて来たのである。一と口に言 えば、これは歴史情報への屈従から自由になる工夫である。情報の影響力に訣 別し、はっきりと伝記作家の自律性を確かめる努力だ。なるほど歴史情報がな ければ、ストレイチイのヴィジョンもない道理だが、情報は作家活動を刺戟は するが、養いはしないのである。むしろ彼には情報への不信がある。その仕事 は、言ってみれば、歴史情報がもたらす事実、一回限りのものにせよ、反復性 のものにせよ、生まのままの事実への深い不信と緊張した均衡関係にある。ス トレイチイは、故人の「明確なる人格」を、彼自身の作品の中だけでしか仕上 げる事は出来なかった。といふ事は、一瞬も留まる事をしらぬ、歴史の急流の 中にあって、自分の為に、自分の一生の歴史だけは仕上げてみせたという事に なるではないか。人間の本性と呼んでいいものに近附く道は、比處にしかない とストレイチイは確信していた。又、この確信がいい伝記を書くという冒険を、
冒険とは思わせなかったのである」。
いかにも小林秀雄調というか、昭和四十年、六十三歳のときから十一年の歳
月をついやして伝記文学『本居宣長』を完成させたこの批評家による、伝記文
学に寄せる深い思いが伝わって来る迫力ある文章ですが、これを初めて読んだ とき、英米文学に関してそれまでほとんど全く言及したことのない小林秀雄 が、ストレイチーを論じていることを意外にも思い、いささか驚きを禁じ得な かったことを思い出します。英文学者によるストレイチー論と言えば、当時は、
その数が少ないだけでなく、ただ表面をかいなでしたにすぎぬ、ありきたりの 紹介やら解説に目を通しただけでした。それゆえ、小林によるストレイチー理 解が、決して傍観者然としたものではなく、彼の伝記執筆の心理や動機を深い ところからすくい上げようとするその文章の迫力に思わず引き寄せられたもの です。
ここで小林秀雄は、おびただしい歴史情報に振りまわされることなく、伝記 作家としての自律性を確立するためには、ストレイチーが言うように、まず「無 知」でなければならない。この誰にも明らかな迷説的表現を通じて、伝記作家 にとって本当に大切なことは何かと言うと、それは「故人の一生をわが心のう ちに生きてみる」ということなのだと言っているのです。小林秀雄はそのこと を強調してやまない。最近出た『学生との対話』(新潮社)という学生との対 話録のなかでも、小林は同様のことをこんなふうに言っています。
「歴史家とは、過去を研究するのではない、過去をうまく蘇らせる人を歴史 家というのです。本当の歴史家の書いたものは僕らに大変魅力があるでしょ う?なぜ魅力があるかというと、歴史家の精神の裡に、過ぎ去った歴史が生き 返っていて、その生きたさまを書くから、僕らを捉えるのです。歴史家の目的 は、歴史を自分の心の中に生き返らせることなのです。君が歴史家たらんとす れば、現代の心で昔の人の心にきちんと向き合わなければならない」。
このような歴史や伝記についての考えを持っていたからこそ、小林秀雄はス トレイチーのなかに自分と同種の考えを持つ人間を見出して、極めて鋭敏な反 応を示したのではないかと言ってよいでしょう。だが、両者を比べてみると、
ストレイチーには、小林にはあまり見られない、都会風な機智や遊びやユーモ アとか、言ってみればフランス風な軽さのエレガンスが認められることが少な くない。一切のことをただ一つの基本的なヴィジョンに関連させ、それによっ て理解し考え感じがちである求心的な傾向を示す重厚な小林秀雄とは違って、
もっと軽く遠心的であり、極めて多様な経験と対象の本質をあるがままに、そ
の関連性にこだわらず、とらえようとする傾向がストレイチーには認められま
す。彼は十九世紀の市民階級の偽善性や野暮を憎み、十七、八世紀のイギリス
やフランスの優美な文化に強い親近感を生涯抱いていました。そのことは十八
世紀イギリスの上流階級の若い男女の恋とエロスをポルノ風に描いた短い書簡 体小説『エルミントゥルードとエスメラルダ』によっても明らかです。これ は 1913 年に私家版として出された彼の唯一の小説で、主としてブルームズベ リー・グループの友人たちのあいだでひそかにまわし読みされていたようです。
これはラクロの背徳的な小説『危険な関係』と比べられることもある軽いコメ ディー・タッチの書簡体小説ですが、この小説の底流には、ヴィクトリア朝風 の偽善的な性道徳に対する反抗が明らかに見られます。その態度において、こ れは『ヴィクトリア朝偉人伝』とそれほどかけ離れた作品ではないのです。
さてまた小林秀雄のストレイチー論に戻るのですが、『ヴィクトリア朝偉人 伝』を論じたあと、彼は『ヴィクトリア女王』に話題を移して、これは実に面 白い本だがと言ってからこの伝記の最後に記された、女王の臨終の場面を取り 上げています。その場面の小林秀雄訳を読んでみます。「もう眼も見えず、口 も利けなくなって横たわっている女王の姿は、これを見守る人々には、思考力 は皆奪われて、知らぬ間に、忘却の国に踏み込んだ様子に見えた。だが、恐ら く彼女の意識の奥に隠された部屋部屋に、やはり彼女は彼女で、様々な思想を 宿していたであろう。そして、恐らく彼女の消え行く心は、もう一度、過去の 影を呼び起し、眼の前に思い浮かべ、長い歴史の消え去ったヴィジョンを、こ れを最後と辿り直してみたであろう。何十年の雲を別け、うしろへうしろへと 歩み、古い思い出から、更に古い思い出へと、─ビーコンズフィールド卿に与 えた桜草の咲き乱れたオスボーンの春の森から始って─それからそれへと辿ら れたであろう」。
このあと小林は、『ヴィクトリア女王』という伝記は、このような心理描写 で終っていると言ってから、「作者ストレイチイは、そう言う人間の意識の奥 深く隠された部屋部屋の驚くべき光景が、フロイトの手によって明るみに出さ れたのを目の当りにしていたからである。彼の弟のジェイムズが、フロイト派 の著名な心理学者であった事を附記して置いてもいい」と述べ、今度はフロイ トの話題に移っていくのです。このあたりの筆の運びはやはり手慣れていると 言うか、大家でなければなかなか書けない、悠然たるものだと読み直していて つい感嘆してしまいます。小林秀雄の炯眼が見抜いたように、ストレイチーは、
フロイト思想の影響を受けた最初の伝記作家です。彼の弟のジェイムズ・スト
レイチーとその妻がフロイトの著作を次々に翻訳出版し、ストレイチー自身も
少なからずこれに協力したことはよく知られています。彼は精神分析という新
しいツールの助けを借りて、ヴィクトリア朝の偉人たちという公的な人間の背
後にひそむ、内的な秘密の自己を明るみに出すことを目ざした最初の伝記作家 だったのです。当時ロンドンに移住していたフロイトは、ストレイチーの伝記 文学に関心を持ち、とくに『エリザベスとエセックス』を愛読したといいます。
現代屈指の伝記作家ハーマイオーニ・リーが指摘するように、いまや伝説的と もなっている二十世紀後半に出版された英語圏における三冊の偉大な伝記、す なわちレオン・イーデルの五巻本の『ヘンリー・ジェイムズ伝』 (1953-77)、ジョー ジ・ぺインターの『マルセル・プルースト伝』(1959)、リチャード・エルマン の『ジェイムズ・ジョイス伝』(1959)は、多かれ少かれ精神分析的手法を意 識しながら書き上げられたいずれも長大な伝記であり、その意味でストレイ チーが切り拓いた伝記の手法を、さらに深く掘り下げ、洗練させ、広く発展さ せていったものであると言ってもいいでしょう。
ただここでちょっと気になるのは、いずれもが重厚長大なアカデミックな伝 記ばかりで、短い、簡潔な伝記を書くことを目ざしたストレイチーとは随分感 触が違うという印象はぬぐい切れません。その点でストレイチーの伝記文学の なかで、わたしが一番愛読するのは、1931 年に出た Portraits in Miniature (『て のひらの肖像画』)です。これは『ヴィクトリア朝偉人伝』、 『ヴィクトリア女王』、
『エリザベスとエセックス』といった彼のメジャーな作品に比べると、マイナー な作品であることは否めないのですが、軽さのエレガンスを重んじるストレイ チーらしさの最もよく表れた小さな傑作ではないかとかねがね思っているから です。個人の歴史である伝記というものは、単なる事実の寄せ集めや記録では なく、芸術の力によってオムレツという作品に仕上げなくてはならないとスト レイチーは考えていました。伝記はいかに書かれるべきかというその基本的な 理念において、1927 年に「新しい伝記」を、39 年に「伝記の技法」というエッ セイをそれぞれ発表したヴァージニア・ウルフと通じ合うところが少なくない。
本日は伝記作家として大きな存在であるウルフについて述べるだけの時間的余 裕がないのでここでは簡単に触れることしかできないのですが、「新しい伝記」
で彼女は、伝記の目的というのは、 「花崗岩のような固さ」を持つ「真実」と「虹 のようにつかみがたい」 「性格」とを「継ぎ目のない一つの全体に結合すること」
(つまりストレイチーの言う「オムレツ」ですね)であるという考え方を述べ
ています。この場合の「真実」(‘truth’)は「事実」(‘fact’)と言い換えてもよ
いでしょう。つまり伝記が目ざすべきなのは、客観的な事実と人物の性格をス
ムーズに結びつけて、その全体像を、つまり「オムレツ」を描き出すことであ
るとウルフは語っています。そのためには事実の操作を行うこともやむを得な
いが、それは必ずしも事実を偽ることではない、とウルフは「伝記の技法」の なかで述べています。「事実のあるものには強い光を当て、あるものには光を さえぎらねばならない」が、それによって「事実が本来の姿を失うことがあっ てはならない」と彼女は考えるからです。一言でいえば、ウルフは事実をもと にしてそのなかにさまざまな虚構を取り入れた新しい伝記を書くことを願って いたのです。 『エリザベスとエセックス』と張り合うようにして執筆された『オー ランドー』のサブタイトルが「伝記」となっているゆえんでしょう。
ストレイチーの Portraits in Miniature には、まるで古いミニチュアの肖像画 を思わせるように、十六世紀から十九世紀までのイギリスの、十八名の有名無 名の文学者や歴史家や聖職者や学者などの短い伝記的肖像画が興味深く描き出 されています。話はちょっと飛びますが、今年の六月に、一巻本『マルセル・シュ オッブ全集』(国書刊行会)が刊行されました。シュオッブについては、ワイ ルドと親しかったとか、R・L・スティヴンスンの熱烈な愛読者で、優れたス ティヴンスン論を書いているなど、イギリスびいきの世紀末フランスの文人と いう程度のイメージしかわたしは持っていなかったのですが、この全集に収め られている「伝記の技法」という優れたエッセイを書いています。これを読ん でいると、フランス文学を偏愛し、フランス文学への手引き書を書いてもいる ストレイチーは、確証はないのですが、伝記は短いほうがよいとか、断片的な エピソードを重視すべきであるとか、偉人の生涯だけでなく、無名の人たちの 独自の生活をも語るべきだとするその伝記作法においておそらくこのエッセイ とか、あるいは代表作である事実と虚構を結びつけたイマジナリー・ポートレ イトである『架空の伝記』に目を通したことがきっとあるに違いないと思わず にはいられません。シュオッブは「伝記の技法」のなかで十七世紀イギリスの 文人ジョン・オーブリーの『名士小伝』( Short Lives )を取り上げ愛情をこめ て語っていますが、同様に、この『名士小伝』、さらにはオーブリーの「勤勉 かつ愉快な人間性」に強く惹かれていたのが、ストレイチーです。ストレイチー によれば、『名士小伝』は、「十七世紀イングランドに関する最 も重要かつ権威 ある本であるばかりか、読んで面白いという点でも最高である」ということに なります。さらに「伝記はボズウェルの『ジョンソン博士伝』くらい長いか、
オーブリーの『名士小伝』くらい短いか、どちらかがいい。『ジョンソン博士伝』
のように、伝記的事実を厖大かつ精密に積み重ねるという方法ももちろんすば
らしいが、それができない場合は、中途半端はやめてほしい。純粋なエッセン
スだけあればいい。説明も転調も批評もむだ話もいっさいない。ほんの数ペー
ジのあざやかな肖像画があればいい。オーブリーがわれわれに提供するのはま さにこの純粋なエッセンスであり、あざやかな肖像画である。そして『名士小 伝』がわれわれに提供するのはもうひとつ、風変わりな錬金術さながらに、ほ んのわずかな伝記的断片を黄金の命に変えてしまう、作者オーブリーの勤勉か つ愉快な人間性である」。
ストレイチーにとってオーブリーは十七世紀イギリスの最高の人物であった のですが、そのオーブリー以上に彼が熱烈な讃辞を呈しているのが、歴史家エ ドワード・ギボンにほかなりません。
ギボンの生涯を考えると、幸福という言葉がまず頭に浮かぶと述べてから、
ストレイチーはこう書き記しています。
「ギボンのこのような生涯に、われわれは十八世紀が受けた恵みの典型を見 る。何事も度を過ごすなかれという、あのうららかな時代のすばらしい節度で ある。暖かい陽をあびた塀で、豊かな果実がゆっくりと熟し、やがて確実に豊 潤な実りに達するのである。さまざまな性質がみごとなバランスで組み合わさ れた人物、すなわち深遠な学者にして、才気あふれる世俗の人であり、世界文 化の心酔者にして、つねに最高にイギリス的な人物であった。歴史上いかなる 時代を探しても、このような人物を想像することはむずかしい」。
このような成熟した理想的な歴史家としてのギボン像に、ストレイチーは讃 辞を惜しまない。若いときにケンブリッジに留学し、ストレイチーの著作に親 しんでいた吉田健一の『ヨオロッパの世紀末』に見られる十八世紀への憧れの 重要なきっかけともなったと推測される短いギボン伝です。さらに付け加えて 言うなら、ギボンとは全く正反対の不幸な生涯を送ったとストレイチーが見て いるのが、ヴィクトリア朝の巨人、トマス・カーライルです。 『ローマ帝国衰亡史』
を完成させたギボンは、 『フリードリヒ大王伝』を執筆したカーライルと同様に、
自分の主題をほとんど理解していなかったが、彼の場合は生活も仕事もすべて
がうまくいった。なぜかと言うと、たぶんギボンは自分の目的のために、ロー
マ帝国よりも重要なもの、すなわち自分自身をよく理解していたから、すべて
がうまくいったのではないのか。ギボンは自分の性格と能力と限界と欲望をよ
く知っており、自分の内面的調和を保つ名人だった、とストレイチーは言うの
です。このあたりを読むと、晩年の吉田健一が書いた優れたエッセイ「余生の
文学」をつい連想してしまいます。ストレイチーはさらにつづけて、「これは
カーライルにはできない芸当だった。盲目はつねに悲劇を招くが、巨大な力を
暴走に変え、高邁な夢を妄想に変え、巌のごとき自信を当惑と悔恨と苦悩に変
えてしまう盲目は、まことに悲惨かつ哀れである。彼が『フリードリヒ大王伝』
の執筆を楽しんでいたのなら、まだ救われるが、彼は全然楽しんでいなかった」
などと述べて、カーライルにとどめの一撃を加えているのです。
これを読んでいると、ストレイチーがいかにヴィクトリア朝風な重厚さや壮 大さ、猪突猛進を嫌悪していたかがわかるとともに、『ヴィクトリア朝偉人伝』
が発表当時ときに「オイディプス的な伝記」、すなわち「父親殺し的な伝記」
とも呼ばれたゆえんがある程度納得できるような気がいたします。その意味で 二十世紀初葉に書かれたゴスとストレイチーの伝記は、ヴィクトリア朝という 父親殺しに深くかかわる代表的な作品と言えるでしょう。
ご清聴有難うございました。
参考文献