湖月 : ある在欧和食店のゲストブックからみた昭 和日欧交流史
著者 田口 博雄
出版者 法政大学社会学部学会
雑誌名 社会志林
巻 67
号 1
ページ 55‑138
発行年 2020‑07
URL http://doi.org/10.15002/00023388
目次
はじめに
1.湖月の「常連客」
2.湖月を訪れたクラシック音楽家たち
3.湖月,ハンブルグ(1960年前後の),および当時の筆者 4.湖月を訪れたスポーツ選手たち
5.オートバイク・レースの覇者たち 6.湖月来店客の量的分析
7.湖月に立ち寄った経済人たち
8.日本カメラ世界進出の前線基地としての湖月 9.日本車による欧州ドライブ旅行
10.湖月の「常連客」河野医師(イタイイタイ病の解明・治療)
11.「視察団」点描 12.料理業界人の来店
13.ゲストブックに描かれた画やイラスト 14.湖月を訪れた演劇人,歌手
15.湖月で詠まれた俳句(川柳),和歌(狂歌),漢詩など おわりに
参考文献
(別添) 湖月への主要な来店者(記帳日次順)
はじめに
東京の表参道近く,青山通りから少し入った横道に,「湖月」という,築山昭一・幸子夫妻が営 む小さな京都料理があった。昭一1の料理の腕と,京都弁を交えた幸子の着物姿での心温まる接客
湖月 ある在欧和食店のゲストブックからみた 昭和日欧交流史
田 口 博 雄
で繁盛し,東京・ミシュランレストランガイドの 2 つ星も取った。現在も湖月という店は今も同じ 場所で営業しているが,経営者は代替わりしている。
青山の「湖月」には,外国人客も多かった。もちろん,彼らは最高の日本料理の味を求めて来店 していたのではあるが,築山夫妻がかつて1950年代後半から1960年代にかけて,北ドイツ・ハン ブルグ市で同じく「湖月」というきわめて評判の高い和食店を営んでいたことから,外国人への接 客に手慣れていたことも,彼らを惹き着けた一因であったのはまちがいない。
ハンブルグ湖月に最も足繁く通ったのは,筆者も含む現地の日本人たちであったが,欧州を訪れ た数多くの日本人旅行者も多く来店し,久々の和食に舌鼓を打った(そして,多くのドイツ人やそ の他の国の人々も)。そうした湖月の客の中には,著名な文化人,スポーツ関係者や企業経営者な ども少なくない。
近年では,世界中どこへ行っても,ある程度の規模の都市であれば,日本料理店は珍しくなく,
値段さえ気にしなければ,相当おいしい和食にありつける。しかし,1960年前後のヨーロッパでは,
和食店といえば,湖月のほかにはパリの「宝家」(筆者もここで食事をした記憶はある)くらいし かなく,あとはロンドンに日本料理らしきものを出していた中国料理店があった程度である。
ハンブルグは,当時も今もベルリンに次ぐドイツ第 2 位の都市であり,欧州でも有数の港湾都市 である。このため,ハンブルグには,戦前から横浜正金銀行,三井物産などが支店を構えており,
前者の後身である東京銀行ハンブルグ支店は当時,ドイツにおける唯一の邦銀拠点であった。その 後,ドイツにおける日本企業の中心拠点は,商工業はデュッセルドルフ,金融についてはフランク フルトに移っていくが,これは,わが国が高度成長を遂げ,重工業化していった1960年代後半以 降のことである。
筆者の手元には,築山幸子から託された,ハンブルグ「湖月」のゲストブック 8 冊がある。第 1 冊の表紙裏には1959年 7 月11日から1960年 6 月15日と記されているが,最初の記帳の日付は 1959年 7 月22日で,日本人とドイツ人が 3 人ずつ署名をしている。ドイツ人のうちの一人である Klaus Wildenhalm と読める名前の下に,誰の手によるのかはわからないが,「苦楽臼 瑞樹」と漢 字で翻訳(?)した書き込みがされている。ゲストブックがこうした楽しい日独交流でスタートし ているのは,湖月という店にとって,象徴的といっても良いのではないか。
一方,最後の記帳をみると,1965年 5 月15日に,ハンブルグ駐在の商社員らが「湖月閉店の日 に」,「長い間ご苦労様でした」,「随分御世話になりました」などの書き込みとともに,サインを寄 せている2。
1 本稿でとりあげる人物については,原則として敬称を省略する。また,肩書については,とくに断りの ないかぎり,記帳当時のものとする。
2 湖月のゲストブックには,その後,1965年 5 月28日に大関酒造の社長らのサインがあるが,これは閉 店後の個人的な訪問時のものであろう。また,数ページ後には,湖月青山店開店後と思われる1967年10 月 4 日,同24日付の記帳もみられる。
このハンブルグ湖月のゲストブックに多くの客が記帳した1959年から1965年といえば,まさに 日本経済が高度成長を遂げ,国際的な地位を大きく高めた時期であった。この時期に渡欧した日本 人の多くが,異郷での日本の味を求めて湖月を訪れ,そしてこのゲストブックに名前を記している。
ほとんどがいわゆる戦前戦中世代であった湖月の顧客たちが,いかに欧州で連日の洋食にへきへ きし,慣れ親しんだおいしい和食に恋い焦がれていたかが,このゲストブックから読み取れる。ま た彼ら(彼女ら)の多くが,久しぶりの和食と日本酒でほっとした勢いでか,それぞれの署名に添 えて,走り書きやコメント,さらにはかなり長めの文章を書き残している。また,興に乗じて多く の有名無名の顧客がスケッチ画を描き,即席の俳句(川柳?)や和歌らしきものを詠じている。こ れらを残したハンブルグ湖月のゲストブックは,昭和の一時期における日欧交流史の貴重なひとつ の鏡ともいえる。ヨーロッパに滞在し,旅行した日本人に一時の憩いを与え,現地の人との交流の 場を提供した湖月は,ややオーバーな表現を許されるならば,日本の国際化に少なからず貢献した のではないか。
本書は,湖月のゲストブックの読み解きをつうじて,そこから浮き上がるいくつかのエピソード を記録に残すことを試みたものである。
なお,本稿が,筆者の少年期の経験への強い思い入れと,長じてからのエコノミストとしての経 歴とが混じり,論文ともドキュメンタリーとも,あるいは私的な備忘録ともいえないものとなって いることを,あらかじめ断っておきたい。
1.湖月の「常連客」
まずは,ゲストブックに登場するふたりの著名な「常連客」を紹介したい。著名といっても,60 年前のことであり,いまではほとんど,忘れ去られているが。
湖月の本当の常連客たちは,当時ハンブルグに駐在していた日本企業の従業員とその家族であり,
筆者もその一人である3。毎日のように湖月に通っていた人も少なくなかったが,彼らの多くはゲ ストブックにはそれほど登場しない4。同席した賓客と一緒に記帳するとか,歓送会などの際にサ インすることはあっても,日常的に昼飯・晩飯を食べに行くとき,そのたびにいちいち記帳しない のは当然であろう。したがって,ここで取り上げるのは,あくまでも「ゲストブックの中での」常 連客たちである。
1.1 田中路子
一番目に登場してもらうのは,田中路子(1909~1988)である。
田中路子は,戦前から戦後にかけて主にドイツを中心とした欧州,さらに日本でも活躍した女 優・声楽家である。田中が,ゲストブックに最初にその名前を記したのは,1961年 4 月 6 日であり,
この日,彼女は若林映子という,日本人女優と湖月を訪れている(図表1左上)。
3 1948年生まれの筆者は,ハンブルグ湖月常連のなかでは,たぶん最年少の部類に入るであろう。
4 筆者の知人は,少なくとも週に 1 回は湖月にかよっていたはずであるが,ゲストブックには1-2回しか 登場していない。
まずは,若林について,やや詳しく述べておこう。若林は1957年に高校生でデビューし,この 当時は21歳で,まさに売り出し中の若手東宝女優であった。彼女は,1961年に封切られたドイツ 映画(Bis zum Ende aller Tage)に日中混血のダンサー(Anna Suh)役で出演している。中村
[2014]による若林へのインタビューによれば,この映画のスタジオ撮影はハンブルグで行われ,
撮影のないときは,ベルリンの田中路子邸で過ごしていた。
このインタビューのなかで,若林は,当時東宝東和の社長であった川喜多長政の紹介で,「有名 なオペラ歌手でプリマドンナの田中さんが,私のドイツ語の先生と現地のコーディネーターを務め てくださいました。田中さんも子供がいなかったせいか,ひと目で気に入ってくださって。母親の ように厳しく本気で指導してくださいました。思い出すと今も涙が出るほどありがたかったです ね」と語っている(中村[2014])。当時51歳であった田中が,娘のような年頃の後輩を湖月に連 れて行ったのではないか。後述する田中の夫のde Kowaはこの映画の原作をドイツでミュージカル
(図表 1 ) 田中路子,若林映子,de Kowa,朝比奈隆らの記帳
化することも考えたが,舞台での発声に自信がなかった若林が躊躇して実現しなかった。
若林は,同じ時期にイタリア映画(Akiko)にも主演しているが,一般に最も知られているのは,
1967年日本公開の「007は二度死ぬ」で,丹波哲郎が扮するタイガー・田中の配下であるエージェ ント「アキ」役の,いわゆるボンドガールとして出演したことであろう。アキは映画の前半でショ ーン・コネリーが演ずるボンドの主な相手役として活躍したあと,そのボンドとの濡れ場シーンで,
天井から吊るされた糸を伝わる毒を口に垂らされて,殺されてしまう。この場面を,覚えている人 も多いのではないか。
この映画の後半では,もう一人の日本人ボンドガールである浜美枝が,ジェームス・ボンドと偽 装結婚する海女(Kissy Suzuki)役として出演しており,彼女がその後大ブレークしたことは,さ ほど映画に詳しくなくても,ある程度の年配者であれば覚えているであろう。なお,国際的な映画 データベースであるIMDB によれば,当初は浜美枝がエージェント役として想定されていたものの,
浜の英語力ではその役が務まらないと判断されて,若林が演じる予定であった海女役と交代した。
その際,当初の台本にあったエージェントの名前である「スキ」があまりにも不自然であったので,
若林の本名をとって「アキ」に変えられた。
このあたりの真偽は確かめようもないが,この映画のエンドロールでは,若林は主役のショー ン・コネリーに次ぐ 2 番目にクレジットされており,浜美枝の名前はそのあとに 3 番目として出 てくる。
若林映子はその後,いくつかの映画に出演するものの,あまり作品には恵まれていないように思 われる。このため,浜美枝の名前は覚えていても,若林映子といってすぐに思いつくとすれば,か なり筋金入りの「007ファン」であろう。いずれにしても,若林が田中路子と湖月で食事をしたの は,この映画が撮られる数年のことである。なお,ゲストブックのこのページの右肩には,田中と 思われる筆跡で,「ご馳走様」と書かれている。
田中路子は,その 1 か月後の1961年 5 月 9 日にも夫のドイツ人俳優,Viktor de Kowa と湖月で 食事をしている。田中と de Kowa はお互いに「ミチ」,「デコちゃん」と呼び合い,後者の死まで 連れ添っている。
田中は,1909年に東京で高名な日本画家の娘として生まれ,東京音楽学校(現・東京芸術大学)
在学中にウィーン国立音楽学校声楽科に留学した。同地の社交界にデビューすると,ほどなくオー ストリア帝国一の「コーヒー王」で40歳年上のユリウス・マインル 2 世というの大富豪に見染め られて結婚し,そのマインルの力もあって,オーストリアやドイツの社交界,音楽界および映画界 で大活躍をした。
まず,オペラ歌手としては,1932年にグラーツ市立オペラ座の「蝶々夫人」で,また映画俳優 としては1935年の「恋は終わりぬ」で,いずれも主役として華々しいデビューを遂げたあと,舞 台や映画出演を重ねている。ただ,日本では,やはり主役を演じた「ヨシワラ」が一部批評家など から「国辱映画」とされるなど,人気や評価は分かれていた。しかし,戦後は1954年に,田中を 主役とする帝国劇場ミュージカル「喜歌劇・蝶々さん」が 1 か月上演されたり,翌年公開の八千草
薫主演の日伊合同制作映画「蝶々夫人」で侍女スズキ役として出演するなど,再び日本でも活躍し ている。
「ヨシワラ」の撮影を行うためにパリで滞在していたころから,田中はマインルとは別居してお り,いくつかの恋愛遍歴を重ねたあと,de Kowa と出会い,たちまち恋に陥り,マインルと合意 離婚のうえ,1941年に後者と再婚している5 。
1961年 5 月のゲストブックへの記帳(図表 1 左下)については後述するが,同年末に湖月を訪 れた際には,二人のサインのほかに,de Kowa の署名入りブロマイドはがきをゲストブックに貼 り付けている(図表1右上)。さらにゲストブックには,謎めいた落書きの下に,de Kowa と思わ れる筆跡で,「Hans Reimann を偲んで」との記入もある。Reinmann はドイツの作家・脚本家で,
この 2 年前の1969年に亡くなっている。田中や de Kowa はこの作家と交友関係があったであろう し,その作品に出演していた可能性も少なくない。この夕べの食事では,「デコちゃん」と「ミチ」
の間で,彼を想い出しての会話が交わされたのであろうか。
de Kowa(本名 Victor Paul Karl Kowarzik,1904~1973)は,俳優であるとともに,演出家,シ ャンソン歌手として戦前戦後をつうじてドイツで活躍した。de Kowa は,戦前はナチス幹部のゲ ーリングに可愛がれて多くのナチ映画に出演し,そのため,戦後は誹謗を受けたこともある。もっ とも,角田[1985]によれば,de Kowa は内心ではナチスの政策に反対であり,第二次世界大戦 の末期には,反ナチ運動に資金を提供していた 。
田中路子と de Kowa は戦前からベルリンに大邸宅を構えており,そこには,ナチスの大幹部か らストラディバリウスのバイオリンをプレゼントされた伝説的な天才少女である,諏訪根自子が一 時寄宿していた。戦後も,田中・de Kowa 邸には,小澤征爾,大賀典夫,若杉弘など,その後の 日本クラシック音楽界を担うことになる俊英たちが数多く客人として訪れており,同邸はまさに日 独クラシック音楽界交流の一つの拠点であった。de Kowa は,冷戦時代に東欧外交(Ostpolitik)
で東西融和に大きく貢献した西ドイツ首相 Willy Brandt と深い交友関係にあり,その舞台人生50 周年にあたる1972年には,同首相からドイツ連邦共和国功勲章大功労十字賞を授けられている。
田中路子が湖月のゲストブックに最後にその名を記しているのは,1963年 1 月11日であり,日 本への一時帰国からドイツに戻った直後であった(図表 1 右下)。当日のゲストブックには,
この 1 か月日本にいたとき,東京と大阪でおいしい料理を大分頂いたつもりですが,この湖月のお味 もお皿もおわんもちっともひけをとりません。大したものです(一寸ヘンな日本語)。どうも御馳走さ ま!
との走り書きを署名に添えている。
田中の一時帰国は,田中自身の引退公演のためであった。角田[1985]によれば,田中は1962
5 田中の波瀾万丈の生涯については,角田[1985]が詳しい。
年の11月 5 日に羽田に着き,12月10日に日比谷公会堂で引退公演を行っている。この公演の主催 者は,岸信介元総理大臣であった。岸は,戦犯として収容されていた巣鴨プリズンからの釈放直後 に訪れたベルリンで田中の世話になり,その人柄の虜になって「田中路子後援会」立ち上げ,自ら 会長を買って出ていた。 2 週間後の12月22日には,田中は大阪の ABC ホールで,後述する朝比奈 隆が指揮する大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏で歌っている。
築山幸子によれば,ハンブルグ湖月で田中がなによりも好物としていたのは,京都風だしのよく 利いた「たまご雑炊」であった。筆者も後年,青山の湖月でなんども「たまご雑炊」をいただいた が,いつも絶品であった。
1.2 朝比奈隆
次に,ぜひとも取り上げたい「常連客」が,指揮者の朝比奈隆(1908~2001)である。朝比奈は,
言うまでもなく,戦前は大阪放送管弦楽団の首席指揮者,戦後は大阪フィルの音楽総監督を中心に,
60年近くにわたり世界的に活躍した名指揮者である。朝比奈は,1950年代半ば以降,たびたびベ ルリンフィルや,ハンブルグを本拠とする北ドイツ放送(NDR:Norddeutsche Rundfunk)交響楽 団に招かれて,指揮棒を振っている。朝比奈は,湖月のゲストブックに署名だけではなく,かなり 長め目の走り書きを残しているが,これらは朝比奈本人の活動や当時の雰囲気を伝えていると思う ので,やや丁寧に紹介したい。
朝比奈がハンブルグの湖月をはじめて訪れたのは,1960年 1 月17日で,次のような書き込みを 行っている(図表2左)。
昭和三十五年一月十七日 朝比奈 隆 神戸. 六甲. (上)
噂にきいたZürichの日本店がHamburgに引っ越していたのは望外。丁度,昨日から湖水も凍った。こ の町のオーケルストラ(NDR Symphoniker)は前々から期待していた秀れた楽団。湖月さんにまけな いやうに日独の手合わせを明日の朝から始める。腹ごしらえに天丼をまづ一つ。
朝比奈は,この翌日に,ハンブルグ・ムジークハレにおいて,ショシュタコービッチ第 5 番交響 曲でNDR交響楽団デビューを果たしている6。次に,朝比奈の名がゲストブックに登場するのは,
翌1961年の 5 月12日であり,同席した実業家で美術収集家としても著名な大川栄二7のサインもみ られる(前掲図表1下右)。
この日のゲストブックには,朝比奈は大川たちと並べて署名をするだけで,書き込みを行ってい ない。しかし,興味深いのは,同じページの上半分に署名しているのが,前述の田中路子・de Kowa 夫妻だということである。
田中路子と朝比奈は,極めて親しい関係にあった。指揮者の中田昌樹によれば,朝比奈と田中は,
お互いに「路子」,「隆ちゃん」と呼び合っており,朝比奈は「路子は齋藤秀雄より本当は俺のほう が好きなんだったんだ8」といってはばからなかった(中丸[2008])。
朝比奈は,この直後の 5 月14・15日に,ベートーヴェン交響曲 6 番<田園>のほか,ショパンピ アノ協奏曲 1 番などで NDR 響を指揮しており9,この時のピアノ独奏者は,朝比奈と同様,田中 と旧知の仲の園田高弘であったので,彼女らがこの演奏会のためにハンブルグを訪れていたとして もおかしくない。この日の食事には田中らも同席したものの,あえて再度記帳まではしなかったの ではないか,と想像してみたくなる。もっとも,築山幸子によれば,田中夫妻と朝比奈が会食して いた記憶はないとのことである。
朝比奈は,のちにドイツ政府から de Kowa と同じ連邦共和国大功労十字章を贈られており,ベ ートーヴェンの曲を指揮するときにはこの勲章の略称をつけて指揮台に上がったといわれている。
(図表 2 ) 朝比奈隆の記帳
6 音楽之友社[1997]。
7 桐生市所在の大川美術館は,同氏のコレクションを中心とした,内外の著名画家の作品を収蔵・展示し ている。
8 1930年に田中が急遽ウィーンに留学することとなったのは,田中とチェリスト・指揮者として有名な 齋藤秀雄との恋愛関係が表沙汰になるのを両親が惧れたためであった(角田[1985])。
9 音楽之友社[1997]による。
最後に,朝比奈がゲストブックに登場するのは,1962年1月であり,再びかなり長めの書き込み を行っている(図表2右)。
開店二年余,いまではハンブルクだけでなく國際的存在になった湖月さんの看板親の加藤教授もご満 悦。六甲山麓でビールを傾けたらよく噂に出ます。私も毎年一度このオーケストラ(NDR)を指揮して,
湖月でてんぷらを喰べるのが楽しみになった。何となく日本に似た海の香りのする Hamburg の湖畔の なつかしい Lokal10,又来年! 1962年 1 月17日 朝比奈 隆
ゲストブックには,それ以降,朝比奈の署名が見当たらず,その後,湖月を訪れたかどうかはわ からない。ただ,朝比奈の演奏記録(音楽之友社[1997])によれば,翌1963年には,朝比奈はボ ンでベートーヴェンハレ管弦楽団を指揮しているが,NDRには客演しておらず,ハンブルグでの 次の演奏は,1964年 2 月のことである11。
1.3 加藤一郎,相良守峯の回顧録
なお,この日の朝比奈の書き込みにある「看板親の加藤教授」とは,神戸大学教授の加藤一郎
(1904-1994)ことである。1958年 9 月から一年半,ハンブルグ大学の日本学(Japanologie)教室で 客員教員(Lektor)として教鞭をとっていた加藤[1992]は,湖月のゲストブックに最も早く
(1959年 7 月)その名を記した一人であり,ゼミナールの学生 2 名を連れて,湖月を訪れている
(図表3)。私事であるが,その学生のうち Ute Egbert は,筆者の両親にドイツ語を指導しており,
筆者もたまに一緒に教わったことをかすかに覚えている。なお,Egbert がもう一度ゲストブック に登場するのは,筆者家族の帰国送別会の時である。
加藤の米寿記念著作集に掲載された回顧録(加藤[1992])によれば,加藤はハンブルグ湖月の 設立に際して契約書作成を手伝ったほか,「湖月」の看板を揮毫している。朝比奈が加藤を「看板
10 Lokalとは,ドイツ語で気楽な食堂,呑み屋のこと。
11 岩野[1997]によれば,その後,朝比奈は1966,1969年にハンブルグで,また1987年の来日公演でも NDR交響楽団を指揮し,その央振りの再会を契機に1990年にハンブルグに招聘されて同交響楽団を指揮 している。このとき,朝比奈はすでに82歳であった。
(図表 3 ) 加藤一郎とゼミ生のサイン
親」としているのは,このことを指していると思われる。加藤はこの回顧録において,ハンブルグ 滞在中に朝比奈が 2 回訪れて,その指揮が現地において高く評価されたことを記している。
なお,湖月のゲストブックの最初のページには,本稿の冒頭に述べた日独 6 人のサインの横に,
その翌日(1959年 7 月23日)に湖月を訪れた数名の日本人の署名もある。加藤[1992]によれば,
これらはドイツ文学者の相良守峯,菅原高徳,廣岡欣之助のものである(図表4)。このうち,相 良(1895~1989)は,日本でドイツ語を学んだ人ならば,かならずといってもよいほどお世話に なっており,筆者も本稿執筆のためにもたびたび参照している,「木村・相良独和辞典」の共編者 である。この年,ドイツ連邦共和国政府は日本学術会議メンバー10名を同国視察に招待しており,
相良はこの視察旅行の一環としてハンブルグを訪れている。相良は,この西独視察について,詳細 な記録を残している(相良[1978])。その記録によれば,相良は 6 月15日付で,総理大臣岸信介 より,「ドイツ国賓客計画に基づく同国政府の招請により戦後の同国復興の実情を調査研究並びに 日本とドイツ両国間の学術交流を推進するため」,ドイツ国へ出張を命じられている。相良らの視 察旅行は 6 月22日から 7 月24日におよび,湖月に立ち寄ったのは,帰国の途につく前の晩であった。
相良の旅行記録には,「夕方,加藤,菅藤その他の人と,グルリット街に十日前に開店したばか りの『湖月』でサイン帖に署名をし,晩餐を喫してから,加藤君の知っている大きなキャバレーに ゆき,一杯飲む。私は菅藤君と二人先に出て,帰り道に旅費の残りを渡す」と記されている。当時,
外貨の持ち出しが制限されていたため,相良はドイツに残る菅藤から頼まれて,残ったマルクを渡 したのである。なお,この晩餐には加藤も同席したものの,案内役に徹したのか,ゲストブックに はサインしていない。
(図表 4 ) 相良守峯らのサイン
2.湖月を訪れたクラシック音楽家たち
2.1 岩城宏之,舟木善麿
湖月のゲストブックには,朝比奈のほかに,もう一人の国際的な指揮者の名前がみられる。1961 年11月 5 日にこの店で食事をした,岩城宏之(1932~2006)である(図表 5 )。当時,NHK 交響 楽団の副指揮者(1963年に指揮者に昇格)であった岩城がこの日,なぜハンブルグに滞在したの かはわからないが,後述の萩原の留学記には岩城と一緒にミュンヘンで撮られた写真があるので,
同地に短期留学していたようである。岩城は,後述する NHK 交響楽団の1960年海外公演における 指揮でその実力が国際的にも認められ(NHK[1977]),その後,世界の名だたる交響楽団から招 かれて指揮を行うようになる。岩城は,エッセイストとしても多くの著書を残している。
ゲストブックには,岩城のほかに 4 人(うち 1 人は外国人と思われる)がサインしているが,興 味深いのは,このうちの舟木善麿という人物である。舟木は音楽家でもあった実業家で,この時期 には三井物産の若手社員としてドイツに駐在していたようである。同氏は,その後,1982年にス バルのドイツ法人の経営に当たり,2015年 9 月に逝去している。ドイツスバルをリタイアしたあ とのことと思われるが,2004,2005年にはドイツ・フランクフルトのインターナショナル・シア ター12で,また2004年には東京のオペラシティでピアニストとして演奏活動も行っている。
舟木の逝去の翌月には,ドイツの有名な自動車雑誌(AUTOHAUS)の発行者である Hannes
(図表 5 ) 岩城宏之,舟木善麿たちのサイン
12 共演者のマリンバ奏者北澤恵美子氏のホームページ(http://www.kitazawa-emi.com/career.html)お よび同ページに添付された演奏会広告による。
Bracht 教授が,次のような追悼文を記している13。
…舟木氏ほどドイツ文化を体化した日本人経営者に出会ったことはない。…ある日,自動車販売店の オープニング・セレモニーにおいて,彼がグランドピアノでシューベルトの大ロ長調ソナタを弾くのを 聴いたとき,そのピアノ演奏技術に驚愕した。舟木氏は,モーツァルトからベートーヴェンに至るクラ シック音楽,シューベルトやブラームスのロマン主義からバロックのバッハまでの音楽を,ドイツ語と 強く結びつけて理解していた。まさに音楽は言葉である。…彼は,スバル販売店の人々に特別な記憶と して残るであろう。音楽は国境を超える。
舟木の人生は,まさに実業と芸術の両面で日独間の貴重な架け橋であった。
2.2 嶋昇とその悲劇
次に紹介したいクラシック音楽家が,1961年 8 月 1 日に湖月で食事した,嶋昇である(図表 6 )。
嶋は,大正15年生まれで,戦前は海軍の軍楽隊に所属し,戦後は近衛交響楽団,東宝交響楽団 を経て NHK 交響楽団に入団したトロンボーン奏者であり,この時期は N 響からウィーンに半年 間の派遣留学中であった。嶋は,当時,日本における代表的トロンボーン奏者であり,「ボレロ」
のソロの好演奏を喜んだ名指揮者ローゼンストックからネクタイをプレゼントされたことは,音楽 界の語り草となっていた(NHK 交響楽団[1961])。嶋の下にサインしている米谷治郎については,
この 2 年前に,新光製糖米谷甚三郎(父親ないし親戚か)とともに湖月に来店し,ハンブルグより 200㎞位南に位置するデトモルト北ドイツ音楽学校という肩書でサインしているので,嶋は留学中 であった旧知の音楽家と湖月で会食していたようである。
この時期には,かつてオーストリア大帝国の首都であったウィーンであっても,まともな日本食 にありつける機会はほとんどなかったようである。湖月を,この 2 年前の1959年 8 月に訪れたウ
13 ドイツスバルのホームページ(https://www.subaru-saar.de/news/zum-tode-von-sir-yoshimaro-funaki- mr-subaru)に掲載された追悼文(原文はドイツ語:筆者訳)。
(図表 6 ) 嶋昇たちのサインと添え書き
ィーン大使館員夫妻ですら,ゲストブックに「一年半ぶりのお刺身,てんぷら,まったく感激して いただきました。ウィーンに帰りまして大いに宣伝いたします」との書き込みをしている。この宣 伝は嶋にも届いたのであろうか。後述のように,NHK 交響楽団が1960年にハンブルグで公演を行 ったときには,嶋も参加しており,そのとき湖月を訪れていた関係者からも話は聞いていたであろ う。
いずれにせよ,嶋は,湖月で味わった久々のおいしい和食がよほど嬉しかったのか,サインに,
「もう死んでも良い様な気にさえなって来た」との添え書きをしている。このとき,本人としては 気楽にこう書き込んだのであろう。しかし,この短い文は極めて悲劇的な暗示であった。嶋は,湖 月を訪れたわずか 3 週間後の 8 月24日に,ウィーン近郊で交通事故により,あまりにも若くして 異郷の地で人生の幕を閉じたのである14。
嶋の音楽葬は,翌 9 月17日に青山斎場において,首席指揮者シュヒター指揮の N 響によるベー トーヴェン第 3 番「英雄」の葬送行進曲で始まり,岩城とともに副指揮者を務めていた外山雄三指 揮のショパンの葬送行進曲演奏のなかで,献花が行われた。
2.3 2 つの日本の交響楽団による海外公演旅行
(NHK交響楽団)
嶋がオーストリアで悲劇的な死を遂げる 1 年前の1960年には,NHK 交響楽団と ABC 交響楽団 という,当時わが国を代表していた 2 つの交響楽団が,相次いで海外公演を行っている。いずれの 楽団にとっても初めての海外進出であり,日本の音楽界としても画期的なことであった。ただ,両 楽団の演奏旅行およびその後の運命は大きくわかれた。
まず,NHK 交響楽団は,同年 9 月から11月にかけて,NHK 放送開始35周年を記念した企画と して,12か国24都市で演奏を行っており,岩城もこの演奏旅行に指揮者として加わっている(北 野[1960a])。N 響がこの時に訪問した都市の一つがハンブルグである。
N 響は, 9 月22日にハンブルグ市ムジークハレにおいて,岩城宏之の指揮により,リストのピ アノコンチェルト第 1 番(ピアノ:シューラ・チェルカスキー)やチャイコフスキーの交響曲第 5 番のほか,間宮芳生の「えんぶり」を演奏している(NHK[1977])。この時の演奏旅行は,日 本人作曲家の楽曲を欧州に紹介することも,目的の一つであった。
演奏は大成功であったようで,N 響のトランペット奏者である北野[1960b]の旅行記では,
次のようにまとめられている。
14 NHK交響楽団[1961]による。なお,同号には嶋への追悼文が多く寄せられているが,そのなかには 岩城宏之による「ウィーンの嶋さん」という小文も掲載されている。その小文の間には,「ハンブルグの 街角にて(N響海外旅行アルバム)」という,嶋氏と外山などが並んでいるスナップが挿入されている。
この日の演奏は非常な好評で在留邦人の方々からも「お蔭で鼻が高いですよ」と喜ばれるし後々にな っても,例えばイタリアなどで邦人にあうと,「ハンブルグにいきましたらネ,皆さんの素晴らしい評 判を聴きましてネ」などといわれるほどでした。「ラプソディ」15をアンコールに演奏したことはもちろ んでした。
N 響関係者 4 人が湖月で食事をしたのは,その演奏当日の昼のことである(図表 7 左)。楽団員 は,リハーサルで忙しかったはずであり,来店したのは多分,事務局の人たちではないか。オーケ ストラ全員は,とても湖月には入れなかったであろう。
(ABC交響楽団)
一方,近衛秀麿が率いる ABC 交響楽団もほぼ同年10月から12月にかけて,ヨーロッパ公演を行 っており,スイス,ドイツ,オーストリア,イタリアなどで54回の演奏会を開いている(音楽之 友社[1961])。
ABC 交響楽団は,近衛管弦楽団の解散直後に大阪朝日放送(ABC)の支援をうけて1956年 6 月 に立ち上げられた楽団である(大野[2006])。しかし,同楽団はすぐに経営危機に見舞われ,楽 員への給料遅配すらおこしていた。近衛が,この楽団の起死回生策として,そしてかつて自身が率 いていた NHK 交響楽団への対抗心から企画したのが,このヨーロッパ・ツアーであった。
ABC 響は,N響の 1 か月後,1960年10月 3 日に日本を発ったが,大野(同)によれば,この時 点では帰路の航空運賃のあてもついていなかった。各地の演奏会自体は総じて好評であったようで あるが,11月 7 日に最後の演奏をイタリアのパレルモで行ったあと,帰国便としてチャーターし ているはずの飛行機が,迎えに来なかった。運賃支払を危ぶんだ航空会社が機体を回さなかったの
(図表 7 ) NHK交響楽団関係者とABC交響楽団上田眞澄の記帳
15 外山雄三作曲(北野[1960a])。なお,NHK の演奏旅行については,北野の旅行記ほか,楽員による 座談会(NHK 交響楽団[1960])が詳しい。
である。近衛[1961]によれば,企業などからの寄付金が思惑どおりには集まらなかったようで ある。楽員らは,当地の日本大使館の計らいで,ローマオリンピックの選手村で年を越し,結局,
近衛秀麿が朝日新聞に立て替えを頼んで,何とか翌1961年の 1 月に帰国の途につくことができた。
近衛[1961]は,ABC 響の外遊計画がかなり進んだ段階で,あとから NHK が同じ時期のヨーロ ッパ演奏旅行を発表し,「営業妨害をして歩いた」と批判したうえで,N 響が68日間で31回の演奏 会であったのに対し,ABC 響は62日間で54回の演奏をやり遂げたと誇っている。ABC 響は,同年 2 月 6 日に帰国記念演奏会を行うが,この海外演奏旅行のごたごたも響いて,その後まもなく解 散している。正式の解散日も不明である。
このような状況であったためか,ABC 響の海外遠征については,N 響の場合のような正式な演 奏記録や旅行記録は残っていないようであり,同響のバイオリニストであった上田眞澄が湖月のゲ ストブックに記帳した1960年11月12日頃,彼らが何をしていたのか,はっきりとわからない。上 田の記帳には,次のような添え書きがある(図表 7 右)。
私は湖月様の愛情に助けられ,日本人はみな兄弟のような気がし,この旅行の最大の想い出となる事 でせう。湖月様の今後の発展を日本からお祈りいたします。
湖月の料理をほめたり,久し振りの故郷の味に感謝したりする書き込みは多いが,「湖月の愛情」
に感謝する,というような記述は,この上田によるものほかみられない。
前述のような事情から,この時の ABC 響楽員は経済的にかなり苦しい状況に置かれていたよう であった。築山幸子の記憶によると,こうした楽員の苦しさを聞きつけた昭一が,「お金のことは 気にしないで,とにかく食べたいものを食べて元気になってください」と励ましていた。
2.4 萩原和子:ハンブルグで学んだ女子留学生
湖月を訪れた時点では,まだ「卵」であったが,その後,主に教育面で活躍した音楽家が,萩原 和子である。
萩原が湖月のゲストブックにサインしたのは1962年 2 月であり,「おいしい天ぷらを食べて,長 谷部さんも私もピアノが上手く弾けるような気になりました。どうもありがとう!一九六一年二月 二十二日 国立ハンブルグ音楽学校留学生 萩原和子(東京芸術大学講師)」(読点は筆者による)
と記帳している(図表 8 )。なお,「長谷部さん」とは,同時期にミュンヘン音楽大学に留学してい たピアニストである。
萩原は,自身のハンブルグでの留学体験を「孤独の女子留学生」という本にまとめており(萩原
[1962]),そのなかには店名は示されていないが,湖月についての記述もみられる。
また,この町には,日本人が経営するれっきとした日本料理店がある。刺身,天ぷら,湯どうふなど が,日本人旅行者をいたく感激させている。ほかの留学生とくらべると,わざわざハンブルグにきたく せに,いっこうにわが同胞の恩恵に浴そうとしない私は,よほど間が抜けていたようだ。
萩原は,1960年 9 月から翌年の 9 月まで一年間,国立ハンブルグ音楽学校で主にコンラッド・
ハンゼンのもとでピアノ奏法を学んでいるが,どうも湖月にはあまり立ち寄らなかったようである。
萩原[1962]には,長谷部愛子とハンブルグにあるシュタインウェーのピアノ工場を訪ねた時 の写真があり,急行列車で11時間をかけてミュンヘンの長谷部を訪ねたことなどが述べられてい る。ミュンヘンには,在留の邦人音楽家たちも多く,萩原は長谷部や前述の岩城などと「この町名 物のビアホールでしきりとジョッキーを傾け」ている。残念ながら,帰国後の長谷部については,
いまのところ不明である。
ピアニストである萩原は,当然ながら留学中,様々な演奏会に出向いているが,ハンブルグでは じめて聴いたのは,前述の N 響海外公演であった。切符はほとんど売り切れていたが,総領事館 に届け出をした際に,一枚譲ってもらったのである。萩原[1962]には,NHK 公演のポスターの 前で,指揮者の外山雄三らと並んで取った写真も掲載されている16。
萩原はまた,留学記のなかでハンブルグでの聴いた女流ピアニストであるエリ・ナイのコンサー トについても触れている。きわめて偶然ながら,このコンサートは筆者が生まれて初めて聴いた本
(図表 8 ) 萩原和子,長谷部愛子の書き込みとサイン
格的なクラシック音楽のコンサートであったので,記憶に残っている。筆者の席は 2 階であったが,
萩原は音楽大学生らしく,ステージ上に設けられた特別席でナイのべートーベン,ショパンの演奏 を聴いていた(萩原[1962])。
萩原は,ハンブルグで聴いたソプラノのビクトリア・デ・ロスアンヘレスのコンサートにおける ジェラルド・ムーアの名伴奏についても触れている。これは,彼女の音楽家人生にも,大きな影響 を与えたようである。
少し横道にそれるが,萩原は,日独修好百周年に当たる1961年を記念してハンブルグの百貨店 で行われた展示即売会について,「ほんとの日本製品とは,およそ似ても似つかぬ俗悪な商品の羅 列だった」とし,「日本製品の粗悪なことが,海外市場でいろいろ物議をかもしている矢先,ここ でもまたこうして不評に拍車をかけるようなことが行われつつある」と腹を立てている。メイドイ ンジャパンが世界中で高品質の証と受け止められ,来日客が100円ショップで売られている商品の 質に驚いている昨今とは大きく異なっていたことを改めて感じさせられる(もっとも,後者はほと んど中国か東南アジア製であるが)。
萩原は,帰国後,音楽指導者の道に進み,上野学園大学(辻井 伸行も同大学の出身)として後 輩を指導するとともに,ステージ上では,主に伴奏者として活躍している17。
16 なお,この写真は,前述の NHK 交響楽団[1961]に掲載された,嶋昇と外山雄三らが映ったスナップ と全く同じ構図であり,楽団員らしい男性ひとりと萩原が入れ替わっているだけである。NHK 交響楽団 の写真のシャッターは萩原が切り,萩原が映っているのは嶋が切ったのではないかと思われる。
17 萩原は,ジェラルド・ムーアの自伝を翻訳しているほか(ムーア[1984]),上野学園大学の創立75周 年記念論文集に,歌曲の伴奏法についての論文を寄稿している(萩原[1979])。
3.湖月,ハンブルグ(1960年前後の),および当時の筆者
(湖月)
ここで,「湖月」について,簡単に記しておきたい。
湖月のオーナーシェフの築山昭一は,昭和 2 年生まれで,かつて母親が働いていた京都の名門料 亭「つるや」につながる料亭で修業を積んでいる18。当時,築山の母親は銀座で料亭を営んでおり,
ゲストブックにはこの店に触れた書き込みも少なくない。なかには,「銀座の店は閉めてこちらに 来た方がいいんじゃないか」(1961年 7 月,ソ連帰りのビジネスマン)などという,やや乱暴なも のもあるが。
築山幸子は京都生まれで,幼年時には八坂小学校にかよっていた。湖月を訪れた客のなかには,
近くの錦林小学校の卒業生(多分,幸子よりだいぶ先輩)もおり,懐かしんで記帳している(1960 年 9 月に来店した,東京商工会議所欧州視察団の一員)。
築山夫妻は,ビューラー社19日本駐在員の Egon Gastper20 の仲介で,1958年に,スイス・チュー リッヒの名門ホテルである St. Gotthart Hotel 内に日本料理店を開業することとなった。
しかし,その当時のチューリッヒに住む日本人は少なく,和食に対する需要は余り高くなかった。
このため,ほどなく築山夫妻は日本人在留者のはるかに多かったハンブルグに招かれて,同市のア ルスター湖近くに21日本料理店を移転し,「湖月」と名付けた。
青山の「湖月」は,小ぶり(10人くらいの客で満員)ながら,本格的な京都料理を供する高級 割烹であるのに対し,「ハンブルク湖月」の規模はもう少し大きく,また気軽な食堂風の日本料理 店であった。夕食のみの青山湖月とは異なり,昼食時にも営業していた。その親しみやすさもあり,
同店はたちまちハンブルグ在住の日本人のたまり場になっただけでなく,ドイツの他都市,さらに は欧州に住む日本人をも惹きつけた。
一度日本を離れれば,そう簡単に一時帰国がままならなかった当時,店内で流れるピーナッツや マヒナスターズのレコードを聴いて望郷の念をつのらせた日本人も少なくない。
18 筆者は,築山昭一から,料理修業中,何か月間もひたすら鰹節削りをさせられたと聞いている。
19 ビューラー(Bühler)社は,スイス・Uzwil市所在の産業機械メーカーである。三代目オーナーの René Bühler は,湖月開業前年の1958年には,製粉機会を納めていた日清製粉オーナーの令嬢で,当時,皇太 子妃候補としてマスコミから狙われはじめていた正田美智子嬢(現上皇后陛下)を自宅にホームステイに 招き,記者たちから守っていた。筆者の父親は,1950年代前半から Bühler 社と取引をしており(兼松
[1990]),筆者自身も,1960年前後に René Bühler 宅のプールで遊んだあと,同氏一家を交えた夕食をご 馳走になった記憶がある。
20 Gastper は,幼年期を神戸で過ごしており(ダイフク[1988]),日本語には堪能であった。筆者の父親 とは,ビジネスパートナーで友人でもあり,筆者も何度か会ったことがある。戦後,日本に戻った時には 日本語をほとんど忘れていたが,花火を観覧中に突然,再び流暢に話せるようになったと語っていた。
21 Hohenfelde 地区 Gurlittstraße11番地。なお,アルスターは,天然湖ではなく,Alster川 をせき止めた 人工湖である。
さらに,本書にとって重要なことは,欧州を訪れた有名無名の日本人旅行客の多くが,ハンブル グに立ち寄った際に湖月を訪れ,ゲストブックに記帳していたことである。
ハンブルグ湖月の日本酒は「大関」であったようで,このことはゲストブックへの書き込みに頻 繁に登場する。湖月の料理については,すき焼き,湯豆腐,親子どんぶり,えびなどの天ぷら,赤 だし味噌汁などに多くの客が舌鼓を打っているが,なかでも彼らを嬉しがらせたのが,まぐろの刺 身で,とくにトロについては味にうるさいはずの漁業関係者や料理人たちも,「日本でもなかなか お目にかかれない」と誉めそやしている。
いまでは「Sushi」は世界中のグルメの垂涎の的となっているが,当時は生魚を食す習慣の全く ないドイツで刺身の材料を手に入れるのは極めて難しかった。それでも,港町であるハンブルグに は鮮魚市場があり,そこでは年に1か月間ほど,地中海もののマグロの生魚を手に入れることがで きることに昭一が気づき,こまめにトロを仕入れては,そのために借りた冷凍倉庫に保管しておき,
少しずつ取り出しては客に提供していたのである。
築山夫妻は,昭一の大病もあって1965年にハンブルグ湖月の経営から手を引き,しばらく同市 の日本人クラブ(Japan Haus)の運営を手伝ったあと帰国して,1967年に東京の表参道に近く,青 山通りから少し横道を入ったところに,同じく「湖月」という名の小料理屋を出店した。この青山 湖月は,1997年に築山昭一が逝去したあと,佐藤重行がシェフとなった。さらに佐藤は,2012年 に幸子が京都に転居したあと,オーナーシェフを継いだ。この間,青山湖月は冒頭に述べたように,
ミシュランガイド東京で二つ星の評価を得ている。日本ミシュランタイヤ[2007]は,「1960年代 に先代の主人と現在の女将がドイツのハンブルグで切り盛りしていた頃から『湖月』と名がついて いる。その後,1967年に現在の神宮前で開店した。・・山海の幸の繊細で奥深いアレンジと,スタ ッフも客も一緒に楽しめる素敵な時間が,『湖月』の持ち味である」としている。現在のオーナー シェフの佐藤にも海外経験があり,味でも外人客の接遇においても,築山夫妻時代の湖月の伝統を 引き継いでいる。
(湖月のゲストブックそのもの)
ここで,改めて湖月のゲストブックそのものについて,少し詳しく説明を加えておきたい。冒頭 で述べたように,ゲストブックは全部で8冊ある。厚さや表紙の色はそれぞれ少しずつ異なるが,
背表紙はいずれも濃い茶色で統一されており,第1冊目の表紙には,金文字で「Unsere Gäste(私 たちのお客様たち)」と印刷されている(図表 9 )。ページ数は,空白のページを除いても短いもの で約140ページ,長いものでは250ページ近くあり,全体では約1,500ページとなる。 1 ページへの 署名数には大きなばらつきがあり,絵やイラストだけでサインのないページもあれば,20名以上 が寄せ書きをしているページもある。仮に 1 ページ平均 5 人とすると,延べで7,500人ほどのサイ ンがあることになる。
このゲストブックのページを繰ってみて改めて気が付いたのは,万年筆をつかった記帳が多いこ とである。もちろん,記帳の大半は店のボールペンによるものと思われるが,様々な色合いのイン クでのサインや書き込みも少なくない。この当時は,万年筆は必携の道具であったのである。
ゲストブックは高級なものであるが,当時は一般的であった酸性紙が使われているため,現在で はかなり黄ばんでしまっている。そもそも,客たちは食事をしながらサインをしたり,眺めたりし ているので,汚れも少なくなく,ページがほとんどバラバラになっている個所もあるなど,保存状 態は必ずしもよくない。これを丁寧に扱いながら読み取っていくのは,かなり困難な作業であった。
状態をさらに悪化させないよう,途中からはデジタルカメラで写し取り,電子ファイル化すること とした。
なお,記帳は概ね年月日順となっているが,なかには少し前に来た知人の下にサインがあったり,
数年前のページの余白に記入されていたり,あるいは新しいゲストブックの後ろの方に絵が描かれ ていたりするケースもあり,これが読み解きを難しくしている。もっとも,だれも60年後にこの ゲストブックを読み解こうというものが現れるとは思って記帳していないので,当然のことではあ るが。
(1960年前後のハンブルグ)
かつて,ニューヨークを「紐育」,パリを「巴里」,ロンドンを「倫敦」,ベルリンを「伯林」と 漢字で表記していたことはよく知られており,現代でもたまには洒落でこの漢字表記が使われてい ることもある。しかし,ハンブルグを「漢堡」と漢字表記していたことを知っている人は少ないで あろう。現に,前の 4 都市については,筆者のワープロソフトで都市名をひらがなで入力すると,
直ちにその漢字名が変換候補として表示されたが,「漢堡」は出てこなかった。なお台湾では,ハ ンバーガーにこの文字を当てているようである。湖月のゲストブックには,この漢堡の 2 文字がか
(図表 9 ) 湖月のゲストブックと第 1 冊の表紙裏
なりの頻度で登場する。
ここで,当時のハンブルグについて,少し詳しく記しておきたい。ハンブルグには港町というイ メージが強く,それは正しいが,同時に極めて美しい田園都市の面もあわせ持っている。街は,大 きく 2 つの地区に分けることができる。港町に近いいわゆる「下町」地区と,アルスター湖を取り 巻く「山の手」地区である。当時は,使われているドイツ語も異なり,「山の手」では北方アクセ ントながら,もっぱら標準ドイツ語(Hochdeutsch)が使われていたのに対し「下町」では Plattdeutsch(低地ドイツ語)というオランダ語に近い方言を話す人も少なくなかった。
この下町地区にあるレーパーバーン(Reeperbahn)は,有名な歓楽街で,ビートルズが本格デ ビューをしたのがこの地であったことは,このグループの歴史に少し詳しい人であれば,だれでも 知っている。この地区の横町のなかにはかなり怪しげなところもあったが,表通りに面していたジ ラタール(Zillertal)という,ドイツ民謡をバンドが生演奏するビアホールには,当時の日本人旅 行客が必ずといってよいほど立ち寄っていた。なお,現地在留の日本人たちは,このレーパーバー ン界隈を「浅草」と呼んでいた。
山の手地区のアルスター湖は,ハンブルグ市庁舎などがある市中心部に近い小さな内アルスター
(Binnenalster)と,その外側の大きな外アルスター(Außenalster)に分かれており,後者を高級 住宅街が取り巻いている。この湖の上をフェリーボートが通っており,ハンブルグ市民にとって通 勤・通学やショッピングの際の優雅な足となっていた。湖月は,市の中心部からもほど近く,外ア ルスターの湖畔から少し入った横道に立地していた。
正確にはどの時点か覚えていないが,筆者は1960年前後に,ハンブルグの日本人人口について,
総領事館に在留届を提出して日本人会の会員となっている邦人が約200名,一時滞在者やほかの地 から移って在留届を出していない者が同程度と聞いたことがある。1960年から1961年にかけてハ ンブルグに留学した萩原[1962]は,同地に居住する日本人を300人としている。萩原のいう300 人が「正式な」在留者のみをさしているのか,それ以外も含めているのかは明確でない。加藤
[1992]は,駐在員と家族を合わせて1000人余り,と日本人人口をもう少し多めにみている。ハン ブルグ駐在員らしき人達が湖月のゲストブックに記帳している数からみて,加藤の規模感が正しい のかもしれない。さらに,湖月が営業していた 5 年半の間にハンブルグの日本人人口は少なくとも 倍増はしていたのではないか。ドイツへの日本人駐在員の重点がデュッセルドルフに移る1960年 代後半までは,欧州における日本人集積としては,パリ,ロンドンに次ぐ第 3 位であったと思われ る。それでも,デュッセルドルフに数万人の日本人が居住するようになった,1970-80年代からみ れば,ささやかな規模であった。
ハンブルグ在留の日本人会員の多くは,商社員,軽機械(カメラ,電器機械,ミシンなど)を中 心としたメーカー社員などとその家族であった。まだ海外渡航に対する制限が厳しく,日本の外貨 も乏しかった時代であり,家族の呼び寄せはかなり限定されていたため,女性や子供は少なかった。
なお,ハンブルグ大学には日本学(Japanologie)科があって何人かの日本人教員がいたはずであり,
1 章で登場した加藤もその 1 人であった。
当時のハンブルグにおける日本人たちの雰囲気を伝えるために,ある年の日本人会の遠足におけ るエピソードを紹介したい。
その年,日本人会はちょっとした観光船を借り切り,ハンブルグ港内をクルーズしながら船上パ ーティーを楽しんでいた。エルベ河を行き交う各国の船がそれぞれの国旗を掲げているのをみて,
だれかれともなく「われわれも日の丸をかかげよう」ということになり,誰かのハンカチーフに女 性たちの口紅で円を塗り,船尾のワイヤーに結んで愛国心を確かめ合った。
(当時の筆者が受けた教育)
当時,ドイツに滞在した日本人子弟の教育環境や,日独の教育制度の相違を見る参考になると思 われるので,筆者の経験について,少し述べておきたい。
筆者は,1958年 4 月から1962年11月までハンブルグに滞在した。往路は,スカンジナビア航空 DC6B( 4 発プロペラ)機に乗って,開通したばかりのアンカレッジ経由の北回り便で30時間以上 かけてコペンハーゲンに到着,さらにそこで乗り継いでハンブルグについた。 4 月に北極圏の空を 太陽と同じ方向で飛行していたため,この間,ほとんど昼間飛行で大変退屈したことを覚えている。
帰国するときにはジェット化されていたので,飛行時間は半分くらいに短縮されていた。
当時小学校 4 年生であった筆者は,夏休みまではインターナショナル・スクールに通い, 8 月 後半からの2学期には現地の小学校(国民学校:Volksschule)に転校した。もちろん,ドイツ語 はできなかったが,担任の女性教師が放課後,ほぼ毎日彼女の自宅で個人授業を行ってくれた。こ のため,その年のクリスマス頃には,全くといって良いほど,授業でも日常生活でも,言葉の不自 由は感じなくなっていた。
なお,筆者は,ドイツに渡る前に,父の単身赴任に伴い,東京の小学校から 1 学期だけ神戸の小 学校に転校していた。われながら改めて思うのは,一年間のうちに標準語(東京弁),関西弁,英 語,ドイツ語で授業を受けた小学生は,1950年代でも最近でも,かなり珍しいのではないか,と いうことである。
その後,上級学校であるギムナジウムを受験,合格し,ハインリッヒ・ヘルツ・ギムナジウムに 進学することとなった。試験は, 2 週間,普通の授業を受けるだけで,その間に試験官が適性を判 断する,という形だった。小学校の同級生30人ぐらいのうち,ギムナジウムに進学したのは, 3 人ぐらいであったと記憶している22。ギムナジウムも30人ぐらいのクラスで,毎年 2 人程度は留年 になる。 2 年連続留年は認められず,別のコースの学校に転校する規則となっていた。なお,イン ターナショナル・スクールは男女共学であったが,国民学校,ギムナジウムともに男子校であった。
当時のハンブルグには日本人学校はなかったが,帰国の少し前には土曜日の午後に,総領事館で 日本人小中生を対象とした補修クラスが開かれるようになり,筆者もこれに参加した。ただ,中学
22 ギムナジウムへの進学率は低く,その後,商業学校や工業学校に進学している(国民学校は,日本でい えば,小中一貫教育であった)。
生の多く(特に男子)は,日本での進学のため親とは離れて祖父母などのもとに帰国しており,一 緒に授業を受けたのは,筆者のほかは 3 ~ 4 人の女子だけだったように記憶している。
4.湖月を訪れたスポーツ選手たち
4.1 オリンピックで活躍した選手たち (東洋の魔女たち)
湖月には,多くの日本人スポーツ選手たちが立ち寄っている。まず,最初に取り上げたいのが,
ニチボー貝塚のバレーボール選手,いわゆる「東洋の魔女」たちである(図表10)。
実質的な日本代表チームであった「東洋の魔女」たちが湖月を訪れたのは,東京オリンピック直 前の1964年 7 月のことであり,強化練習を兼ねた東欧遠征の途中にハンブルグに立ち寄っている。
彼女たちは,その 3 か月後の10月23日に行われた東京オリンピックの決勝戦において,当時のソ 連チームとの歴史的な死闘を制して,みごと金メダルを獲得した。
「東洋の魔女」の一人であった谷田[2018]によれば,オリンピックの前の 2 年間は,毎日午前 中は勤務し,午後 3 時から午前 2 時まで練習に明け暮れ,東京オリンピック優勝の翌日にも,普 通に練習をしていた(川渕ほか[2020])。東欧遠征途上のハンブルグ訪問は,彼女らにとってつ かの間の息抜きであったのではないか。
この日のゲストブックには11人の署名がみられる。彼女らはかなりサイン慣れ(?)していた ためか,名前の判読は難しい。それでも,日付の下から反時計廻りに,キャプテンの河西昌枝,宮 本恵美子,佐々木節子,磯部サダ,篠崎洋子,谷田絹子,半田百合子,松村勝美,山田暉子,松村 好子の10名はどうにか読み取れたように思われる。小泉[1991]によれば欧州遠征チームは10名 なので,最後に残った河西の左にあるローマ字のサインは「鬼の大松」といわれた大松監督のもの
(図表10) ニチボー貝塚の「東洋の魔女」たち
と思われる。
東洋の魔女たちが湖月を訪れた 7 月14日は,欧州遠征の最終日であるとともに,河西昌枝の31 歳の誕生日でもあった。その翌日の夜に,ニチボー貝塚チームは羽田国際空港に帰着し,さらにそ の翌16日後には,河西は死の床にあった父英一を山梨に見舞っている。河西は,英一が19日に逝 去したことを電報で知り,その日の練習をこなした後,葬儀に向かっているが,これは河西が湖月 のサインブックに記帳した,わずか5日後のことであった。
(日本体操選手)
東洋の魔女たちが,オリンピック・ゴールドメダリストとなるのは,湖月で食事をした後のこと であるが,来店時に既にゴールドメダリストであったのが,体操選手の小野喬と三栗崇であり,こ の両名は1962年 1 月24日に湖月を訪れている(図表11)。このほかに,太田正巳とそのドイツ人妻 と思われる Gertrud Ota のサインもみられる。
小野は,メルボルン大会において鉄棒で金メダル,ローマ大会では団体,鉄棒と跳馬で金メダル を獲得していた。東京大会では,日本選手団の主将に指名され,「わたくしはすべての競技者の名 において,オリンピック競技大会の規約を尊重し,スポーツの栄光とチームの名誉のために,真の スポーツマン精神をもって大会に参加することを誓います。選手代表,小野喬」と選手宣誓を行な った。鳥越[2019]によれば,「小野」と「喬」の間にワンテンポ間があって,それが決意の強さ を表しているようで,かっこよく感じられたとのことである。
小野は,東京大会では個人競技では優勝はできなかったが,団体総合の金メダルを獲得している。
(図表11) 小野喬ほか日本体操選手
小野は,銀メダル,銅メダルまで含めると,ヘルシンキ,メルボルン,ローマ,東京の 4 大会で合 計13個のメダルを獲得しており,これは現在までのところ,日本人が生涯を通じて得たオリンピ ックメダル数の最多記録である。まさに,「体操ニッポン」が世界を席巻した時代のエースといえ よう。湖月に同伴した三栗も,ローマおよび東京で団体のゴールドメダルを獲得している。
小野らが湖月に立ち寄った1962年には,チェコ・プラハで器械体操世界大会が行われている。
筆者の記憶が正しければ,この時にドルトムンド市でも日独体操選手の対抗試合(あるいは親善試 合)が行われており,家族で数百キロ離れた同市へ,父親の運転でアウトバーンを飛ばして観戦し ている。
(フィールドホッケー)
日本のフィールドホッケー(アイスホッケーと区別するため,あえてフィールドホッケーと表記 したが,以下ではホッケーとする)は,戦前,ロスアンゼルスおよびベルリンでのオリンピックに 参加し,とくに前者では銀メダルを獲得している(もっとも,参加国はインド,日本と開催地であ るアメリカの 3 か国のみであったが)。
しかし,戦後のヘルシンキ,メルボルン大会については,実績不足とされて日本オリンピック協 会から参加を認められず,視察員を派遣するのにとどまっていた。戦後はじめて参加が認められた のが,ローマ大会であった。前々年のアジア競技大会で最下位になったことから,ローマ大会への 参加も無理ともいわれていたが,1964年のオリンピック東京大会が決定していたこともあって,
日本ホッケー界にとってこの大会への参加は,ホッケー協会90年史によれば,「大げさにいえば決 死的」なものであった(日本ホッケー協会[1997])。
1960年 8 月25日開会のローマオリンピック直前に,日本ホッケー代表チームは連日のように湖 月を訪れている。 8 月13日には「ホッケー選手団一同 ハンブルグ滞在中連日食事補給を給わり 大いに感謝して居ます」とのメッセージの下に,監督・コーチ・選手合わせて17名が寄せ書き をしている(図表12左)。この走り書きからみて,それまでに何回も湖月で食事をしていたようで ある。この時のことについては,ホッケー協会90年史にもとくに記述がないが,後述する東京オ リンピック直前の1963,64年の場合と同様に,強化合宿をハンブルグで行っていたと思われる。