[講演] 中国でなくなった書籍の逆輸出 : 佚存漢籍 還流の研究
その他のタイトル A Study on the Exportations of the Reproduced Books of Chinese Classics which have perished in China and have remained only in Japan : A Study on Exported Japanese Books which were brought back to China by Chinese Ships in the Edo Period.
著者 大庭 脩
雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要
巻 35
ページ 1‑36
発行年 2002‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/16209
りま
す︒
ます
︒ ただいまから東西学術研究所創立 塚本事務長大変長らくお待たせを致しました︒
5 0 周年記念式典を始めさせてい
ただ
きま
す︒
なお︑本日の司会は︑藤善倶澄東西学術研究所長にお願いいたし
司会︵藤善︶藤善でございます︒
東西学術研究所創立
5 0 周年記念の講演会を企画いたしましたとこ
ろ︑かくも多数ご来駕いただきまして︑本当にありがたく思ってお
この東西学術研究所が設立されましたのは︑昭和
4月のこと2 6 年
で東西学術研究所の名称が確定いたしましたのが︑その翌月5
月の
ことでございました︒それから
5 0 年︑この長い歴史には先学者たち
の筆舌に尽しがたい大変なご努力があったと思いますが︑また学内
外の諸先生方のご声援によってこの研究所の充実と発展は︑支えら
れてきた賜物だと深く感謝申し上げる次第でございます︒
本研究所は世界に発信する研究所である︑その実力を充分に備え
ていると確信しておりますが︑論より証拠といたしまして︑
2 4 日
か
創立50周年記念式典・記念講演会 関西大学東西学術研究所創立
5 0
周年記念行事
ウム
には
︑
ら昨日まで4つのセッションに分かれて行われました国際シンポジ
2 0 名になんなんとする海外の諸先生方がご参加︑ご発表
いただいたという︑この一事だけで十分立証されているのではない
かと思います︒新しい世紀を迎えましたからには︑研究所の明日を
築くように︑先学者たちのご遺訓を無にしないよう︑精いっぱいの
努力を重ねてまいるつもりでおります︒
きょうは︑本学の名誉教授であり︑また研究所の所長も務められ
ました大庭先生をお迎えしてご講演を賜るわけですが︑秋の爽やか
な日にふさわしい︑爽やかなご講演をいただけるものと思います︒
つきましては︑関西大学学長の永田慎三郎先生より式典のご挨拶
を賜りたいと思います︒永田先生︑よろしくお願い致します︒
永田学長学長の永田でございます︒
本日ここに︑関西大学東西学術研究所創立
5 0 周年を迎え︑記念講
演会が開催されることになりました︒多数の方々のご参集を得て︑
このように盛大に記念行事が開催されることを心から御礼申し上げ
たいと思います︒そして︑東西学術研究所が
5 0 年という長い歴史を
刻んできたということに対しまして︑ともに心から喜び合いたいと
その後︑この構想のもとに︑東西学術研究所は︑アジアにおける
文化交流の研究と東西文化交流の研究︑この2つを柱に堅実な︑か
つ先駆的な研究を続け︑その成果を世に問うてまいりました︒今や︑
それぞれの大学が学問研究の水準について厳しく問われる状況でご
ざいますけれども︑私ども関西大学にとっては︑この東西学術研究
所は大きな学問的な財産として誇り得るものであると信じておりま
す ︒
一方でいわゆるグローバリゼーションの流れの中で︑それ
を真の意味で支えるために︑異文化交流の広がり︑文化間の理解を
今や
︑
ござ
いま
した
︒
存じ
ます
︒
関西大学は︑戦後間もなく︑他の多くの大学に先駆けて︑新制大
学として再出発いたしました︒そして当時の学長岩崎卯一氏の﹁ハ
イト関西大学﹂という標語のもとに︑昭和
2 5 年には︑これもいち
早く新制大学院を設置いたしました︒そしてその翌年︑昭和
2 6 年 ︑
先ほど所長の藤善先生からもお話がありましたように︑当時の理事
長宮島綱男氏の構想に基づきまして︑この東西学術研究所が創設さ
れたわけでございます︒その構想と申しますのは︑まずは東洋に存
する大学が東洋に関する学問を行う︑そして次に大きく東洋学を縦
糸とし︑西洋学を横糸として比較研究し︑その融合を図り︑世界人
類とその平和に貢献する︒この構想は︑実はもう少し美文調で記さ
れているのでありますが︑そのような研究所をつくるという趣旨で
いま
す︒
司会
深めるリテラシーの修得などが強調される状況になっております︒
ところが︑他方では︑またぞろ戦争という手段によって紛争を解決
するという方向へ︑そういう国際的な動きがあらわれております︒
このようなときにこそ︑異文化を理解し︑異文化間の交流を進める
努力を地道に行うことが︑人間としての理性を取り戻し︑あるべき
世界を取り戻す契機になるであろうと思います︒
東西学術研究所の
5 0 年間は︑時には実証的︑分析的な手法により︑
時には対話の中で英知を集めるという手法により︑いずれであれ︑
結局東西のそれぞれの文化を理解し︑異文化間の交流の実を︑ある
いは術を追求するという歴史であったと言えましょう︒東西学術研
究所が開設された昭和
2 6 年︑それはまさに講和条約が締結され︑平
和日本が再出発した年であります︒
最後
に︑
月1 0
2 4 日から始まりました密度の高い︑そして質の高い
国際シンポジウムの成功を経て︑きょう︑記念講演会を迎えました
ことを心からお喜び申し上げ︑関係者の方々のそのご尽力に対しま
して心から御礼申し上げまして︑私のご挨拶といたします︒
あり
がと
うご
ざい
まし
た︒
︵拍
手︶
永田先生︑ありがとうございました︒ではご講演に先立ち
まして本日の講師大庭先生の簡単な経歴をご紹介しておきたいと思
先生
は︑
一九
六0年に聖心女子大学から関西大学助教授として赴
任してこられ︑関西大学教授︑それから一九九七年に定年をもって
ご退任︑名誉教授になられました︒その間︑教養部長︑文学部長二
期︑また関西大学の理事︑あるいはまた一九九一年からは東西学術
研究所の所長として九七年までお務めになりました︒そうそうたる
ご経歴でございますが︑一九八六年には日本学士院から︑﹁江戸時代
における中国文化受容の研究﹂によりまして︑第七六回の日本学士
院賞を受賞なされたことは︑皆様よくご存じのとおりでございます︒
一九九七年には︑国から勲三等旭日中綬章を受章されており︑先生
のいかに偉大な業績の数々かということを改めて思い知らされるわ
けで
ござ
いま
す︒
一九九四年から大阪府立近つ飛鳥博物館長をお務めになり︑
さらに皇學館大学学長として現在ご活躍中でございます︒東西学術
研究所にとりまして︑大変功績のあられる先生にご講演を賜ります
ことを大変名誉なことと存じております︒
きょうは︑この方面につきましては先生の右に出る人のいない︑
他の追随を許さない日中文化交流の問題につきまして︑貴重なご講
演をいただけるものと信じております︒
先生︑何とぞよろしくお願いいたします︒ な
お︑
問題の所在と研究方法
ご紹介をいただきました大庭でございます︒
まず︑東西学術研究所が五十周年を迎えられましたことを心から
お喜びを申し上げますとともに︑私から申しますと︑四十年間にわ
たっていろいろ育ててもらった研究所に対しても︑また御礼を申し
上げたいという気持ちでございます︒
東西学術研究所の設立に関しましては︑ご存じのとおり︑藤澤泊
園書院の泊園文庫が寄贈されたということが︱つの契機になってお
りますけれども︑もう一っ︑岡本尚一という極東国際軍事法廷の弁
護人を務められました方から寄贈を受けました極東国際軍事裁判の
記録が関西大学に入ったということも契機になりまして︑この二つ
のものを研究するために︑研究所が設立されたのでございます︒
泊園文庫に関しましては︑東西学術研究所ができましただけでな
中国でなくなった書籍の逆輸出
ー侠存漢籍還流の研究││'
く︑もう一っ大事なことは︑泊園文庫の書物を基礎にして︑文学部
に東洋文学科が設立されたということを忘れてはいけないのでござ
います︒東洋文学科はその後︑中国文学科に名前を変えましたが︑
これができました昭和二十年代は︑文部省は必ず新設学部・学科に
関係のある書物をどれぐらい持っておるかということを調べに参り
ました︒泊園文庫があるから東洋文学科は大丈夫と言われたわけで︑
その当時は︑個人の蔵書を借りてきて︑文部省が来るときに並べた
大学は幾つもある︒そういう中で︑本当に自前のもので学科をつく
ったという意味におきましては︑泊園もお役に立っておりますし︑
東洋文学科も胸を張っていただいて結構でございます︒
本学には︑皆様方がご覧になりましておわかりのように︑いろい
ろな個人の文庫が所蔵されております︒﹁大坂の学問﹂というタイト
ルで︑今︑シンポジウムないしそれより前の日本思想史学会に対し
ていろいろな文庫が展示されているのは︑ご存じのとおりでござい 皇學館大学学長大阪府立近つ飛鳥博物館館長関西大学名誉教授
大 庭
四
脩
ます
︒
わかりますが︑内藤文庫が一体どうして大阪の学問かということの
説明は割合難しい︒京都大学に叱られないかという気がしないでも
ない︒増田先生はなぜそうなるのかというのも︑ちょっと難しいと
ころです︒増田先生は︑本学へおいでいただきましたし︑大阪市大
にもいらっしゃいましたから︑大阪に関係があるかもわからない︒
では内藤湖南はどうなるんだということでありますけれども︑私
は私なりにその理屈をつけるならば︑内藤湖南に私淑し︑湖南先生
のお尻にくつついて二年間ヨーロッパヘ行った人がおりまして︑そ
の名前を石浜純太郎といいます︒石浜先生は藤沢黄披先生の義弟で
本学へ来て︑東洋史学科をつくられたのでありまして︑その石浜純
太郎の中には内藤学が脈々と生きていた︒そういう間接的な意味に
おいては︑内藤学が大阪で花を開いたというふうに言えば︑確かに
湖南先生の内藤文庫も大阪の学問だと言えないことはないのであり
ますが︑そういう理由を考えながらちょっと苦しいなと思っており
いろいろな文庫ーーふ四藤︑増田︑泊園︑そのほかに長沢規矩也氏
の長沢文庫もいずれそのうちに公開いたしますし︑それから中村幸
彦先生の中村文庫もそのうちに整理をして公開されるでありましょ
う︒そのほかに︑我々の東洋学といたしましては︑大変関連の深い
ものに吉田文庫というのがございまして︑戦前にトルコの駐在特命
全権公使をやられた吉田伊三郎氏のお持ちになっていた書物が購入
中国でなくなった書籍の逆輸出 まして︑ぜひ見ていただきたいのでありますけれども︑泊園文庫は
五
されまして︑吉田文庫として残っております︒私は︑この吉田文庫
の書物の中にあった
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を使って漢
簡の研究には大変役に立ったということがございます︒極東国際軍
事裁判の記録も︑吉田文庫も︑泊園文庫同様石浜先生の仲介があっ
て関西大学へ入ったのであります︒
そんなわけで︑個人の文庫は大変役に立つものでございます︒ど
のように役に立つかということは︑きょうのお話の最後に申し上げ
るつもりでおりますが︑増田文庫について内田慶市先生が解説をお
書きになっております︒その解説の中には︑増田先生というと魯迅
とすぐに考えるけれども︑そのほかに︑増田先生の亡くなってから
出版された﹃西学東漸と中国事情﹄という岩波から出た本が今度展
示をするのに大変役に立った︑こういうことをお書きになっており
目録
の中
の︑
ますのは︑私としては非常にうれしいことであります︒私はかねて
から︑増田先生のお仕事を理解する︱つの方法として︑増田文庫の
それぞれの書物の後ろに︑今申しました増田先生の書
物のどのページにその本の名前が出てくるかということを書き込む
と︑これは大変役に立つインデックスになるんだということを言い
続けてまいりましたが︑どなたもおやりにならない︒お若い方々は
そういうことを記憶にとどめていただいても結構であります︒増田
先生はどの本を使ってここを書いたのか︑それを現物で押さえてい
く︑これは個人文庫を持っているからやれるので︑そういうことは
研究に大変役に立つことだと私は思っております︒
きょうのお話でテーマは︑中国でなくなった書物が日本に残って
いて︑そしてそれが逆に輸出されたー﹁中国でなくなった書籍の
逆輸出﹂︑そういう問題についてお話をすることになっておりますけ
れども︑サプタイトルにつけましたように︑﹁侠存漢籍還流の研究﹂
という名前を考えているわけでございます︒それは言い換えますと︑
私はここで勉強させてもらった﹁江戸時代における唐船持渡書の
① 研究﹂という研究がございますけれども︑これを逆にすると︑﹁唐船
持帰書の研究﹂ということになるわけで︑どういう本を持って帰っ
たかという問題が︑今や問題になりつつあるのではないか︒﹁侠存漢
籍還流の研究﹂というのは︑実は昨年二月︑国際日本文化研究セン
ターで笠谷和比古さんの主宰するチームの報告の中で私が初めて使
いまして︑そのときの司会の池田温氏が﹁こんな言葉は初めて聞い
たけれども︑多分こういう意味であろう﹂と言われました︒その時
は唐船持帰書の研究とは言わなかったがそういう内容がきょうの話
の︱つの重要な特色だということを申し上げまして︑皆さんのお手
う本
であ
るか
︑
元にあります資料に基づいて話を進めてまいります︒
どういう書物が唐船によって持ち帰られたかということに関しま
しては︑既に研究がございます︒その研究に基づいてリストアップ
してありますのが︑七頁の江戸時代後期の輸出書です︒これは参考
文献の一番最初にありますところの福井保さんの﹁侠存書の輸出﹂
② に基づいて書いたのであります福井先生は︑その本は一体どうい
いつの版であるかということを全部注釈をつけてお られますが︑そういうことにつきましては︑﹃文献﹄という雑誌を見
こういういろいろな書名はどこからとられたかと申しますと︑ニ
枚目の初めのところにございますように︑﹃通航一覧続輯﹄というも
のがつくられておりまして︑その中に︑﹁戸川家蔵長崎志続編﹂の中
に中国へ逆輸出された書物の名前が出ているということを福井さん
はお書きになっております︒福井さんという方は︑私は今日までの
自分の勉強の過程において︑いろいろな教えを受けた方でありまし
て︑内閣文庫の司書を長くお務めであり︑内閣文庫の漢籍目録や和
書の目録はこの福井さんの手によって作成された︒非常に温厚な方
でありまして︑内閣文庫へ参りますと︑私は必ず福井さんにお目に
かかって︑そのときに持っている疑問をお尋ねして︑福井さんはそ
れに対して穏やかに説明をして︑話が終わると︑﹁ではどうぞごゆっ
くり﹂と言って︑すっと消えていく︒ライブラリアンの典型という
のはこういうものだと私は思っておりますが︑今なお九十歳で東京
その福井さんがやられたわけでありますが︑この論文が出ました
ときには︑﹃通航一覧続輯﹄はまだ出版になっておりませんでした
が︑今日では︑これは刊本として見ることができますから︑そうい
う意味では︑直接元の資料を見ることができるのであります︒
戸川家というのは︑戸川播磨守安清という江戸時代のごく終わり
ごろに三度にわたって長崎に在勤した︑ということは五年ないし六 の方にいらっしゃいます︒ ていただきたいと思います︒
'
ノ
天保八年四月
弘化二年春
嘉氷元年
嘉氷三年 文政八年秋 文政七年 文化七年春文化八年秋文化一四年文政元年文政六年 江戸時代後期の輸出書寛政元年九月寛政六年四月享和元年文化二年三月文化六年 求言録七経孟子考文補遺侠存叢書前編並後編合八部侠存叢書二部爾雅註疏︑易経本義︑日本書紀︑大学解︑中庸解︑書経古註音義︑礼記古註︑春秋集註︑公羊伝穀梁伝︑左伝膜︑大疑録︑非祖練学︑論語徴︑大学章句新疏︑古文孝経正文︑孝経大義︑日本詩選︑詩書古伝︑五経集註︑趙註孟子︑論語註疏各一部古
梅園
黒土
譜一
部
東医宝鑑一部
群書治要一三部
聖済練録二部
侠存叢書前編二部︑中後編各一部︑群書治要二部︑
論語集解︱︱一部︑史記評林︑古梅園墨譜後編各一部
侠存叢書︑群書治要︑呂氏春秋各一部︑四書集註︑
史記評林各一部︑傷寒論輯義二部
七経孟子考文補遺︑論語徴︑群書治要各二部︑侠
存叢書十部
東医宝鑑一部二十五冊
毛詩補伝︑唐詩正声箋注
影宋本尚書正義
資治通鑑︑論語素本
中国でなくなった書籍の逆輸出
七
年間︑長崎奉行の地位にいた人でありまして︑江戸の終わりごろで
その
次は
︑
は隷書の書き手と評価をされております︒戸川安清に関しましては︑
③ 柴田光彦先生に﹃書学書道史研究﹄の中に書いた﹁忘れられた碑の
中からー戸川安清寿蔵碑をめぐってー﹂という論文がありまして︑
東京にある戸川安清の碑を紹介されております︒大変重要な人物だ
と思います︒安房千倉にはここのところへ中国の船が漂着したとい
う戸川氏の碑が建っております︒そんな意味で︑戸川安清は長崎貿
易においては忘れることのできない人でありまして︑この人が長崎
在勤のときにつくった長崎奉行所の資料が長崎県に移り︑現在︑長
崎県立図書館に存在しております︒そういう意味においても重要な
人物であるということだけ申し添えておきます︒
それからもう一っ︑福井さんが論文の中で書いておられますこと
は︑江戸時代を二つに分けまして︑前半は﹃知不足斎叢書﹄の中に
翻刻されているものを見ながら︑大体どんなものが行ったかという
ことがわかる︒後半は﹃通航一覧続輯﹂で調べればよろしいと書い
ておられます︒わずか二
s ‑
︱︱ペ
ージ
の重
要な
論文
であ
りま
す︒
さらに研究の方法といたしまして︑この席におられま
す王宝平さんが中国でご研究になりました方法があろうかと思いま
す︒それは︑王宝平さんが二つの本を出版されております︒一九九
④ 五年に﹃中国館蔵和刻本漢籍書目﹄︑九七年には﹃中国館蔵日本漢文
書且﹄︑そういう二つの大きな書目をおつくりになっておりまして︑
現在中国の図書館においてはどのような日本人の書物があるかとい
と言えるかと思います︒ と
思い
ます
︒
ただ︑ここで王宝平さんが整理なさいましたように︑日本の本と
いっても︑いわゆる和刻本の漢籍の場合と日本人が漢文で書いたも
のと二つに分ける︒これはある程度必要なことかと思いますけれど
も︑そういう分類をされている点に注目をしておく必要があろうか
そういう現物を中国で調査する︑日本から出ていった記録を調べ
るという二つの方法以外に︑もう少し何か方法がないのかというこ
とを考えて︑私がここで︱︱︱ー四年前から注目をしていろいろ見てま
いりましたのに︑清朝の時代の蔵書家の蔵書目録の中に日本の本が
どれぐらいあるかということを調査する方法があると思います︒そ
ういう方法をとりますと︑たくさんの中国の蔵書家の目録が必要に
なってまいりまして︑最近中国におきましては︑こういう古い目録
を集めてくる︑あるいは古い目録を出版するということが次第に盛
んになってまいりまして︑今はそういう関心の傾向が出てきている 達するということになります︒ いう面の研究は︑王宝平さんのお仕事によれば︑それで十分目的を たのではなくて││おいでになったところもあるでしょうけれど うことを調査されております︒この調査は︑ご自分でおいでになっも︑大体アンケートをとって︑その返事をまとめていかれた︒これは大変な仕事だと思いますけれども︑どういう本が今どの図書館にあるのかということは︑これを見ればわかります︒ですから︑そう
ろう
︒ 開 分けることができるでありましょう︒その分け方の︱つは︑日本の 考えるときに︑取り扱いの上で二つの時期︑あるいは三つの時期に その種の目録がいろいろあるのでありますけれども︑その目録を
国を
境に
して
︑
船が長崎に持ってきて︑積んで帰ったのですけれども︑それ以後は
開国されましたので︑どこからどんな本をどの船が積んで帰るかわ
からない︒それを調べる上においてはちょっと手間な問題がありま
す︒つまり私が取り扱いましたのは︑長崎へ積んできた中国の船の
積み荷の目録を調べたわけでありますが︑積み荷の目録を当てにで
きなくなってきた︒そういう意味において︑日本の開国は︱つのエ
それから後は︑中国の人が日本へやってきて︑日本においてどう
いう本があるかということを自ら調査することが可能になっており
ます︒その調査の中で極めて大きなエポックをつくったのは︑黎庶
昌の随員として楊守敬が日本に来たこと1楊守敬が日本に来ま
したのは一八八0年で︑八四年までおりまして︑その結果︑この人
たちが出したものが﹃古逸叢書﹄であります︒﹃古逸叢書﹄の刊行
は︑そういう意味において︑開国以後の日本にある侠存書の研究の
上において︑新しいエポックをつくったということが言えるだろう
と思いますので︑この辺で研究史の上から言うと一本線が入るであ
それからその後︑民国革命︑あるいはそれより前︑清朝の終わり ポックでございます︒ つまり一八五四年を境にして︑それまでは中国の }¥
のかということがわかります︒ い
りま
す︒
に西洋文化を取り入れてくることが次第に書物のコレクションの上
にもあらわれてくるわけであります︒それはどういうことかという
と︑プライベートなコレクションから公のコレクションに変わって
いく︒個人のコレクションがやがて公のコレクションに吸収されて
いくという意味において︑公のコレクションが増えてくる︒これは
後で説明いたしますけれども︑そのようになってきて︑北京の図書
館︑北京大学の図書館︑あるいは江蘇省立の図書館︑そういうとこ
ろに大きな個人コレクションが入っていくという変化が起こってま
しか
し︑
とい
うと
︑
そういうプライベートなコレクションがなくなったのか
そうではないのありまして︑例えばその具体的な︱つの
例を申し上げますと︑北京大学の歴史系の有名な周一良先生のお父
さん︑周叔張という方が一八九一年から一九八四年まで︑随分長生
きだったんですけれども︑この方が一九七二年に今までの自分のコ
レクションを国家に納めた︒ということは︑言い換えると︑
ろまでは個人のコレクションがあり得たということです︒そういう
⑥ ことが証明できるわけで︑これは﹃自荘厳堪善本書目﹄という書目
が出ておりますので︑それをご覧になれば︑どんな本を持っていた
それからもう︱つは︑今日︑中国の書店へ行ってみますと︑﹃古董
鑑賞収蔵叢書﹄という叢書があります︒アンティークを鑑賞し︑
中国でなくなった書籍の逆輸出 そのこ
ア
ンティークを集めるための参考書というシリーズがあります︒その
九
増えたり減ったりというプロセスを目録でたどるわけでありますけ シリーズの中に﹃版本古籍監賞与収蔵﹄という一冊がありますので︑これは古い本は今でもコレクションの対象になっているということの証拠であります︒どこかで誰かがコレクションをしている可能性があるので︑個人のコレクションがなくなったとは言えない︒中国てきましたから︑ の人たちの個人のコレクションは︑中国人がだんだん金持ちになっ
いろんなコレクションが出来ているはずでありま
して︑私の研究の一っでありますところの中国の詰命という官吏を
任命する辞令を集めているコレクターがいることをテレビで見たと
教えてくれた人がおりまして︑﹁その人はどこにおるのか﹂と聞く
と︑﹁それは忘れた﹂と言うことでした︒それでは何もならない︒け
れども︑集めている同好の士がいるという事実だけでも︑考えてみ
れば心楽しいことです︒
ただ︑太平天国の乱とか義和団の乱︑あるいは日本の侵略などで
集まっていたいろいろなコレクションが散らばるわけです︒その散
らばった古い先行のコレクションをまた後の人が集めてくる︒それ
がまた散らばって︑また次が集めてくる︒そういうコレクションが
れども︑例えばその一例は︑この席にいる松浦さんがお書きになり
⑦ ましたところの﹁上海沙船船主郁松年の蔵書﹂という論文がありま
して︑沙船船主で金持ちであった人が集めた蔵書で郁松年の蔵書が
ある︒これは彼が貧乏をして消えるわけでありますけれども︑その
コレクションは清末の蔵書家の陸氏面宋楼の方に移っていったとい
いうわけで︑大変面白いのであります︒ う話でございます︒これはある意味において﹁うたかたのコレクション﹂とでも言うべきものであるということになります︒そういう観点から申しますと︑寧波の天一閣というのはよく続いているなということになります︒あれはどうしてあんなに続くのかということは︑研究の︱つの大きなテーマになるのではないかと思います︒
清末の蔵書家のコレクションを呼ぶのに︑南糎北楊といった時代
がございます︒南糎は︑江蘇省蘇州・常熟の置鋪という人の﹁置氏
鉄琴銅剣楼﹂︑それから北楊は︑山東省歴城県の柳城の楊以増・楊紹
和父子が集めた﹁楊氏海源閣﹂で︑﹁鉄琴銅剣楼﹂の本は北京図書館
へ入っております︒﹁楊氏海源閣﹂のものは山東省固書館に入ってお
ります︒そのほかに︑南覆北楊というふうに出てまいりませんけれ
ども︑浙江省杭州・銭塘にあった丁丙という人の﹁丁氏八千巻楼﹂
という大きなコレクションがありまして︑これは江蘇省立国学図書
館に入りました︒それから陸心源という人の﹁面宋楼﹂は︑浙江省
呉興・湖州にありました有名な清末のコレクションでありますが︑
これは日本の静嘉堂に入りました︒こういう蔵書の目録を見ており
ますと︑﹁面宋棲﹂については︑﹁あれ惜しいことをした﹂という中国
の人たちの残念がる言葉がしばしば出てくるので︑大変面白い︒そ
れから﹁面宋楼にあった本が︱つだけ抜けていて︑北京で見つけた︑
ざまあ見ろ﹂ということも書いてあります︒えらい怒っているなと
そういうものの中に︑あるいは清末から民国へ移ってまいります ときに︑例えば李成鐸さんの﹃木犀軒蔵書目録﹄︑博増湘さんの﹃蔵園群書経眼録﹄︑﹃雙鑑楼善本書目﹄︑あるいは鄭振鐸さんの﹃西諦書目﹄などという︑もっと近い時代の人の書目で︑しかも非常に面白い︑言うならば一流の書誌学者が集めてコメントを書いているもの︑これも大変役に立つのでありますが︑李成鐸さんの本は北京大学へ入
って
おり
ます
︒
ただ︑こういうものを見ておりまして︑こういう目録の中で日本
人の著作がどれぐらいあるかということを拾ってまいりますと︑﹁鉄
琴銅剣楼﹂以下四つのものの中で一番多いのは︑﹁八千巻楼書目﹄の
中に四四0種類の日本人の著書があります︒それから﹃面宋楼蔵書
志﹄の中には四0
︑﹃
海源
閣﹄
の中
には
一っ
︑﹃
鉄琴
銅剣
楼﹄
の中
には
0︑こういう結果が出てくる︒ただし︑この目録でも︑これから後
でも出てくると思いますが︑書目の書き方︑あるいは書目の集める
方針が違うので︑﹃八千巻楼﹄のように何でも持っているものは皆書
いたというのもあるし︑博増湘さんの﹃蔵園群書経眼録﹄は︑自分
のものではないけれども見た物の話があります︒博増湘さんは日本
へ来て︑静嘉堂も見ておりますし︑内藤湖南のところを訪ねて内藤
先生の本も見ております︒ですから︑こういうタイプの書目もある
し︑自分の持っているものの中で一番いいというか︑これは善本だ
というのを集めたものは﹃雙鑑楼善本書目﹄という格好になるので︑
書目ということでは取り扱いは簡単にはいかないけれども︑少なく
とも﹃八千巻楼﹄は非常に多いということになります︒
1 0
が出てくる場合と︑書名はあるけれども︑その書名の下を見ると︑
これは﹃侠存叢書﹄のものである︑それから﹃古逸叢書﹄のもので
ある︑もう︱つは﹃甘雨亭叢書﹄が入っているので日本人の著作が
つまり︑叢書で入っているか︑単一で入っていあるという入り方︑
るかということも︑見ていく上において必要なのであります︒
そういうことを考えながら入っている書物を見ておりますと︑中
国人の蔵書目録ということで︑﹃八千巻楼書目﹄の四四0部の中で
は︑比較的医書が多い︒この日本版の医書が多いという傾向は︑日
本において中国の医書を大切にしたという伝統がずっと続いていて︑
それが結果的には医書の出版が多かったという格好になってくる︒
そういう形で見ると︑その傾向は︑例えば明の胡宗憲が書いた﹃籍
海図編﹄巻二の中に﹁倭好﹂というところがあります︒これは﹁倭
の好きなもの﹂と考えるべきものであります︒話は飛びますけれど
も︑この関連で﹃魏志倭人伝﹄の中で﹁汝の好物を賜うなり﹂とい
うのを︑﹁よいもの﹂という解釈をする人がおりますが︑これは﹁好
きなもの﹂というふうに考えるべきで︑倭人は鏡が好きであったと
いう結論の方に私は賛成したいわけであります︒﹃籍海図編﹄の中に
ある﹁倭好﹂の中で︑古書というところがありまして︑﹁五経の中で
は書経と礼記を重んじて︑易と詩と春秋を忽せにする︒四書の中で
は論語と大学︑中庸を重んじて︑孟子を悪む︒仏教を重んじるけれ
ども︑道教はない︒古医書のごときは︑見ればすなわち必ず買う︑
中国でなくなった書籍の逆輸出 その中に入っている日本の書物は︑︱つは︑それぞれの単一の本
時代のものを見ていくということにしようかと思います︒ 出てまいります︒
て出
てい
ます
︒
医を重んずる故也﹂と書いてあります︒だから︑日本人は向こうで
本を探すときによく医書を買うということが︑明のときに特色とし
さらにさかのぼっていきますと︑﹃日本国見在書目﹄という︑有名
な平安時代の日本にあった漢籍の目録を見ましたときに︑これは全
体で四0の分類になっておりまして︑一五八六部が入っております
が︑その中で医方家が一番多くて一六五︑小学家︵字引類︶が一五
八︑五行家が一五六Iこの医方家︑小学家︑五行家だけで四七九
になる︒一︳一分の一を占めるという特色があるということは︑その時
分から医書は大変注目をされていたということになろうかと思いま
す︒
﹃面
宋楼
﹄の
中で
も︑
﹃千
金要
方﹄
︑﹃
聖済
練録
﹄︑
﹃百
一選
方﹄
︑﹃
随
竹堂経験方﹄という和刻医書類が入っていることがわかります︒
そういうことで書目を見ていくと︑いろんなことがわかってまい
記録した﹃販書経眼録﹄ ります︒また︑こういうこともあります︒厳宝善という人が編集し︑
の中にも︑日本刻の医書が多いという話が
そこでどういう問題をこれから考えていこうかということになり
ますが︑日本から中国へ行った書物を絞って議論を一っ立ててみよ
うかと思うわけで︑それは先ほど申しましたように︑日本が開国し
てから以後よりも︑国を開くまでの間︑いわゆる鎖国の時代の方が
わかりやすいので︑とりあえずそこのところで時代を切って︑その
の命令によって林家を嗣いだというのです︒ そうしますと︑江戸時代の前期では︑﹃七経孟子考文並補遺﹄というものが代表的なものである︒それから江戸時代の後期におきましては︑﹃侠存叢書﹄が代表的なものであるということになりますので︑まず﹃侠存叢書﹄の方から考えてまいりたいと思います︒
﹃侠存叢書﹄と林述齋
﹃侠存叢書﹄というものは︑林衡︑号は述齋1蕉隠とか蕉軒と
いう号ありますが︑林述齋という大学頭が一︱0巻六0冊に編集し
たところの叢書でございます︒これから述べますことは︑この席に
⑧ いらっしゃいます高橋章則先生が﹁日本思想史研究﹄ニ一の中に﹁近
世後期の歴史学と林述齋﹂という論文をお書きになっておりますが︑
この論文に大きな根拠を得ておりますので︑あらかじめ申しておき
ます
高橋先生のお説などによっていろんなことが考えられるわけであ ︒
りますけれども︑そこでおっしやっていることは︑近世の後期は編
纂書の時代だということを言っていらっしゃる︒編纂書の時代です
が︑編纂の中心になった人物は今申しました林述齋である︒林述齋
という人は︑美濃国岩村藩の藩主︑松平乗藩の一︳一番目の息子であり
ましたが︑長男が弱くて︑次男も弱くて︑三男も弱くて︑子供が皆
弱かったので︑よそから養子を入れた︒養子が入ってから後で述齋
は元気になったので︑寛政五年︑林信敬︵錦峯︶が死んだ後︑幕府
そし
てこ
の人
がや
った
仕事
が︑
﹃徳
川実
紀﹄
︑﹃
後鑑
﹄︑
﹃朝
野旧
聞哀
嵩﹄︑﹃史料﹄などの歴史書︑それから﹁寛政重修諸家譜﹄という伝
記︑それから地誌として﹃新編武蔵国風土記稿﹄あるいは﹃新編相
模国風土記稿﹄もつくる︒後には﹃改正三河後風土記﹂というもの
をつくる︒そういう流れはやがて子供の緯︑復斎にも継がれまして︑
﹃通航一覧﹄が生まれてくる︒あるいは﹃編集地誌備用典籍解題﹄
という書誌もつくる︒こういうたくさんのものを彼述斎が中心にな
って編纂をします︒彼が中心になって編纂方針を決めて︑どのよう
に書くかということを決めて︑あとは全部人に任せて共同作業をや
らせる︒これが林述齋のとった方法であるというわけでございます︒
高橋先生の論文の中には出てこないのでありますけれども︑紅葉
山文庫の善本書目でありますところの﹃御書籍来歴志﹄というもの
があります︒これは福井さんが﹃書誌学﹂の復刊第一号にお書きに
⑨ なっている﹁御書籍来歴志について﹂という論文がございまして︑
この中で福井さんは︑この﹃御書籍来歴志﹄は三種類ある︒一番目
と二番目と三番目があって︑一番有名な︑今みんなが使っている﹃御
書籍来歴志﹄は二番目のものだ︒一番目のものは刊本はない︒書き
本しかない︒ところが︑それが一番最初にできた︒そのときの様子
を見ていると︑あるいはその中に書いてある記事によると︑この書
目は﹃天禄琳浪書目﹄によっている︒﹃天禄琳浪書目﹂をモデルにし
て︑あるいは何かを調べるときには﹃天禄琳瑣書目﹄を引いて︑こ
れをつくっているということを指摘されております︒もちろん︑そ
ういうことでもわかりますし︑今申しました高橋先生の論文によれ
ば︑要するに林述齋の学問は乾隆︑嘉慶のころの学問の影響を受け
ているんだということが指摘できるのでありまして︑いろいろなと
これは余談でございますが︑例のペリーが来たような日本国家の
状況が次第に騒がしくなってきたというときに︑それを︱つのきっ
かけとして︑今までの外交はどうであったかということを振り返る︒
相手国の国別に振り返ろうとしたのが﹃通航一覧﹄です︒ところが︑
ここにあります編纂書の一っの大きな特色は︑全部これは何からと
ったかという根拠が書いてあります︒そして異説があった場合には
併記するという建前であります︒自分でこっちだと決めない︒これ
は非常にありがたい編纂方針でありまして︑私は﹃通航一覧﹄ある
いはその続輯にお世話になった︒といいますのは︑﹃通航一覧﹄を編
纂したときの参考書は︑悉く現在国立公文書館内閣文庫にある︒と
いうことは︑この﹃通航一覧﹄は内閣文庫の外交資料の索引である︒
だから︑これで見つけておいて内閣文庫へ行って︑﹁これをちょっと
⁝⁝﹂と言って見せてもらうと︑そのとおりの場合もあるし︑編纂
者が採っていない部分もある︒採っていない部分に割合役立つこと
が書いてある︒それは標準が違うからしようがない︒この﹃通航一
覧﹄は︑そういう意味において内閣文庫の外交史のインデックスで
あると私は解釈して︑今日まで使ってまいりました︒
それと同時に︑﹃徳川実紀﹄は編纂物である︒編纂物であるがゆえ
中国でなくなった書籍の逆輸出 ころでそういうことが出てくるということであります︒ に︑編纂者の意閑がどことなく出る︒編纂者といっても︑これは述齋先生ではなくて︑その部分は担当した人の意識なり常識がどことなく出る︒そのために︑具合によると余り信用できない部分があるということも言える︒これは編纂物だから信用できないという一面もある︒﹃徳川実紀﹄に書いてあるとおりだと思ったら話が違うことは往々にしてあるという逆の警告もできる︒要するに︑どっちに転んでも︑編纂物であるという意識からこれを見なければいけないという点がありますが︑高橋氏は大変大事な編纂物という指摘をされている﹃改済書籍目録﹄ 林述齋という人物に関しましては︑彼のいた前後のときに︑まず﹃欽定四庫全書練目﹄は乾隆三七年︵一七七二︶に編纂され︑四七年︵一七八二︶に刊行されて︑日本に来たのが寛政十一年︵一七九九︶でございます︒﹃欽定四庫全書簡明目録﹄は︑乾隆三九年(‑七七四︶に編纂されて︑日本に参りましたのは寛政五年︵一七九三︶でございます︒寛政五年という年は︑先ほど申しましたように︑林述齋が林家を襲いだ年であります︒襲いだときには林熊蔵ですけれども︑この年の十二月になって大学頭になります︒
それからもう一っは︑﹃天禄琳浪書目﹄という書目は乾隆四0
年 ︵ 一
七七五︶に編纂されて︑これがいつ来たのかというのは難しいんで
すけれども︑多分享和三年︵一八0三︶の亥十番船が持ってきたの
が初めではないか︒これは大田南畝の﹃もすの草くき﹄の中に入っ
によって︑そのときに来たのが初めではな ているのであります︒
それから寛政十一年正月には︑﹁長崎調進御用書籍取調方改正の
件﹂︑これも老中にこのようにしたらいかがということを言って︑そ
れが命令で長崎へ行くわけですが︑要するに何を言っているかとい
うと︑御用書を余り丁寧に修繕をせずにすぐに江戸へ送れ︒御用書
であることが決まるといろんな調べ方があって︑例えば字が欠けて
いたりにじんでいたら︑そこのところは直すとか︑あるいはこれを
どうしましょうかと一々江戸伺いをしている︒そんなことをせずに て買い始めた︒そういうことがあるわけであります︒ いかと考えられます︒
林述齋という人は林家を襲ぎました後で︑唐船持渡書との関連に
おきましていろいろな新しいことをいたしますが︑それを簡単に申
しますと︑寛政五年に襲ぎまして︑寛政六年に命令を出しまして︑
そのときまでは正規のルートで入ってきた本方荷物の書物に関して
は入札前に江戸へ御用のお伺いを立てますが︑別段売りといいまし
て︑船に乗っている船頭その他個人が持っている荷物に関しては︑
書物はそのまま江戸伺いをしなかった︒その別段売書物も必ず江戸
ヘ伺いを出すようにという注文を出しております︒それから寛政八
年二月には︑﹁長崎調進御用書籍取調方の儀につき申し上げ候書付﹂
を老中に対して申し上げて︑長崎の方へ命令が行く︒あるいは寛政
八年四月に別段売書物の中から六十五種類を買い上げますが︑これ
は大体乾隆の地誌です︒康煕の地誌は︑ご存じのように︑吉宗のと
きに入っておりますが︑乾隆のときの地誌は林述齋がねらいをつけ すぐに送れ︒吉宗公の時代に入庫した書物を見たならば︑汚いものもたくさんある︒御用物だからといってきれいにする必要はない︒早く送れ︒本当に早く見たい早く見たいと思っているわけです︒そういうことで︑長崎の改め方を彼の原案によってだんだんと変えて
⑩ ︒
いくという特色を見ることができるのであります
そして彼が具体的に買った本にどんなものがあるかと申しますと︑
例えば﹃学津討原﹄というものを買っております︒これは嘉慶十年
︵一
八0五︶に刊行された一九二種一0四八巻の大きな叢書でござ
いますが︑この本は翌年の十二月に江戸に着いている︒だから︑出
た翌年に御文庫に買っている︒これを買えと言ったのは彼に決まっ
ているということであります︒それから書目も買っておりますし︑
﹃官版四庫全書練目﹄を文化二年︵一八0
五 ︶
⑪ れも彼のやった仕事だと思われます︒ に出版している︒こ
そういうことで︑この人が大学頭になった結果︑いろんな変化が
起こってきていると思いますが︑大事なことは︑彼はある意味にお
いて︑昌平坂学問所も含めて︑紅葉山文庫ないしは昌平坂学問所の
蔵書の変質をやったということが言えるのではないかと思います︒
紅葉山文庫が集められた始めごろは︑実用的な文庫であった︒殊に
医書とか兵書は非常に早い時期に購入したということは︑ここにお
⑫︒
られる上野正芳さんが考証してはっきりしているわけであります
だから︑紅葉山文庫は実用的な文庫でずっときている︒ただし︑そ
の実用書の中には古いものもある︒けれども︑それは実用的な価値
一 四
のあるものを取り上げているのであって︑それが宋版であるからと
か元版であるからという︑いわゆる書誌学的に貴重なものであるか
らということで買っているのではない︒紅葉山文庫は本来は︑実用
的な文庫であったと私が考えますが︑それが述齋のころになりまし
て︑いろいろな書物が入ります︒
そのうしろに挙げておりますように︑木村兼酸堂が亡くなりまし
て︑その兼蔑堂蔵書二千七百余冊が文化元年(‑八0四︶に学問所
に入ります︒それから市橋下総守長昭の宋元版三十種が文化五年︵一
八0八︶に学問所に入ります︒これは今調べると宋元版ではなかっ
たということですが︑それはよろしい︒宋元版だと思って入れられ
た︒もらう方もそう思ってもらった︒今調べたら違った︒それだけ
の話です︒それから大きなのは︑毛利和泉守高標の蔵書が文政十年
︵一八二七︶に高標の孫高翰から献納される︒そして文政十一年に
は御文庫と学問所に分割された︒こういう︑兼蔑堂︑市橋︑毛利︑
特に毛利という人のコレクションは善本です︒善本がこのときに入
った︒そういう意味において︑今までの実用本位の文庫の性格が変
とこ
ろが
︑
さらに面白いのは︑兼蒙堂はちょっとお年をめしてお
りますから︑これは大阪の町人だから別としまして︑市橋下総守︑
毛利和泉守︑それから松平冠山という︑鳥取の若桜藩の藩主であっ
た池田定常︑この人は地理が好きで︑地誌の解題などを手伝ってお
りますけれども︑この池田侯と毛利侯と市橋侯は柳班の三賢人と呼
中国
でな
くな
った
書籍
の逆
輸出
わったということは言えるであろう︒
一 五
一番最初の文書は ろの学問の影響をダイレクトに受け入れているわけでありますけれ ないかと思います︒ ばれていた人で︑柳班というのは江戸城内柳の間であります︒柳の間詰めの大名の中でこの三人は賢い︑有名な本好きで学問好きな人だったと言われているんですが︑この柳班の三賢侯が集まって︑お城を下がってどこかへ行こうかというときには︑どこで待ち合わせたかというと︑林大学頭の家で待ち合わせた︒そういう仲のいい連中であります︒その本好きの仲のいい連中の善本のコレクションが︑結局は林述齋を通して御文庫に入った︒こういう現象が起こっている︒その意味において︑述齋は紅葉山文庫を変質させたと思います︒
それからもう一っ大事なことは︑幕府から和学講談所に対しての
援助をいたします︒寛政七年九月六日から和学講談所は勘定奉行か
ら林大学頭支配に変わります︒したがって︑大学頭︑つまり林述齋
が﹃群書類棗﹄を出している和学講談所を援助している︒金がなけ
れば出版できないから幕府が援助している︒それを実行したのは誰
なのかというと林述齋である︒これも見逃してはいけないことでは
こんなわけで︑彼はいろいろな形で中国の乾隆ないしは嘉慶のこ
ども︑そこで彼が日本に残っていて中国にはないと思って編纂した
ものが﹃侠存叢書﹄でありまして︑その﹃侠存叢書﹄に関する大変
面白い文書が大田南畝の﹃一話一言﹄巻ニニに書かれております︒
これは真ん中のところが先に文書として出まして︑その前後に書
き加えがあるわけであります︵一六頁︶︒だから︑
集を証故此余置候間 元 宋中李 漢 居土
の殿近 奉候存゜ 定 不候申も候亡伝子 胄伝易 通被仰渡 飛
う 藤 十 冊 分 て び 可 騨守
つ 士に は も候段、 申レ目 承
し 左 以 綴 之 此 度 付之
以 取立候゜亡弥 証有故之 模両京新記百縞 注字千文 月
今云 書 江ヽヽ ー 四
計府中 候得巽右書に先前書 子朱
一
‑I詠―̀ ・ B, .
面 闊 無
之 候品 感寄
ヤ
大抵 品之 之通々に 許衡齋元魯心唐李禰蒙求注本 唐后臣武軌 蒲吉隋 候仕・議 せ て
し 林学頭大 集位四 々にも 所て 末だ 御に 粗座 校合て 五林大学頭林大学頭
尻
し に 屹 候 ゜ も 臭義 + 月
め も 一 と 尤 仕 法
ニ
三月 どれかと申しますと︑﹁唐土之亡書叢書に取立申すべき目頭﹂︒それでいろいろと本の名前を出して︑﹁右兼而取集置唐土亡び候
しよ
︐つ こ
段︑急と証故有之候品々にて粗校合も仕置候間︑直に取立候ても都
合相調可申分先前書之通に御座候︒尤此余も彼是心当りも御座候得
共︑弥亡書に相違無之所︑未だ屹と証故を見出し不申候分は此度不
申上候︒右書面之品々にても︑一集を五百枚位に定め︑十冊綴之書
物に取立候得共︑大抵四集位にも相成可申候哉に奉存候︒以上午
林大学頭﹂︒中国でなくなった侠存書を︑こういうものは間違
いなく向こうにない本だから出版をいたしましょう︒こういうこと
を言っているということは︑将軍なら将軍からどうなっているかと
聞いたかもしれない︑あるいはこちらから耳打ちしたかもわかりま
せんが︑とにかくこういう話があって︑﹁右摂津守殿近藤吉左衛門を
以会計府中に下して議せしめし時の本紙のうつし也﹂と︑これは南
畝が書いているわけでありますけれども︑摂津守とは誰であるか︑
あるいは午というのはいつであるかというと︑寛政十年戊午︑摂津
守は堀田摂津守正敦で︑寛政六年六月十日から天保三年一月二十五
日まで若年寄であった︒だから︑若年寄のところへ申し出てきて︑
これが会計府︵勘定奉行︶のところへ行った︒そうすると︑勘定奉
行は誰かというと︑中川飛騨守でありまして︑前に﹁書面林大学頭
承付之通被仰渡候旨承知仕候︒午九月十二日中川飛騨守﹂と書い
てある︒これは勘定奉行が書いている︒その前は︑﹁伺之通被仰渡承
知仕候︵お願いしたとおりよろしいとおっしゃっていただいたので︑
二 ハ
林大学
わかりました︶︒林大学頭﹂と書いて︑勘定奉行から金を出しなさい
という話になった︒ということは︑﹃侠存叢書﹄は幕府の援助で出版
この中川飛騨守というのがまた凄い人でありまして︑中川忠英と
いいますが︑この人は寛政七年二月五日から九年二月十二日まで長
崎奉行であった人であります︑九年二月十二日から御勘定奉行にか
わりました︒この人が長崎奉行でおる間に﹃舶載書目集覧﹄︑﹃清俗紀
聞﹄という本を編纂しております︒ただし︑それだけではない︒非
常に面白い人物でありまして︑この人が長崎奉行になる前職は何か
というと︑御目付であった︒この御目付であったときに彼は何をし
たかというと︑学問吟味という旗本の若い連中を試験で能力を調べ
て︑できる者は引き上げていく︒こういう試験をして幕臣の次男︑
三男に活力を与えようということを︑松平定信が老中筆頭の時に意
見が出て︑それを実現したところの御目付です︒そしてその御目付
が試験をして︑そのときの試験で成績のよかった者の中に遠山金四
郎景晋・大田直次郎南畝がいるわけです︒
それからもう一人重要な人物がいて︑それは誰かというと︑正斎
近藤重蔵守重であります︒近藤正斎がその試験で注目されたわけで
す︒﹃近藤正斎全集﹄というのがありますが︑それで近藤正斎の経歴
を見ていると︑中川忠英が長崎奉行になってしばらくしたら︑近藤
正斎は長崎奉行手付出役になります︒そして長崎でいろんなことを
調べたのは近藤正斎です︒これはいろいろな証拠がありますが︑そ
中国でなくなった書籍の逆輸出 費が出ているということになるわけでございます︒
一 七
などからそういうことがわかるわけであります︒ れを調べているうちに中川忠英が御勘定奉行にかわりました︒そして関東郡代兼帯になるのでありますが︑それがしばらくすると長崎から近藤正斎を引き抜いてきて︑勘定奉行の配下の支配勘定関東郡代附出役ということにした︒そして皆さんよくご存じの︑近藤正斎が北方に関するいろいろな防衛に関する話︑あるいは蝦夷地の調査に関していろんなことを言上する︒その言上する提案は全部中川忠英を通して大目付に出している︒そして最後には︑文化四年近藤正斎が蝦夷地へ行くときに中川忠英も視察に行くんです︒そういう人物で︑これは後に御留守居になって江戸時代が終わる前に死にました︒先ほど申しましたところの戸川播磨守よりは中川忠英の方がちよっと年上であります︒
こういう人たちを見ておりますと︑中川忠英とか戸川安清とかい
う人がそのままの状態で明治の時代まで来ると︑日本は変わってい
ただろう︒今のような日本ではなかったかもしれない︒つまり︑こ
の連中は公武合体の政権ができると生きていて︑非常に活躍した連
中です︒そうでなくて︑薩長の政権ができたので︑こういう幕府の
有能な連中は皆消えた︒これは惜しいことであったと思います︒そ
の一人が中川忠英でございます︒中川忠英の蔵書は幾つかありまし
て︑紅葉山文庫にもありますし︑私のところにも﹃黄陶庵全集﹄と
いう忠英の蔵書が一部あります︒これはちょうど彼が長崎に行って
いたときに入ってきた本に違いないというものであります︒蔵書印
そしてそういうふうにしてつくられた﹃侠存叢書﹄は︑最初のプ
リントの江戸時代後期の輸出書というところに書いてありますよう
に︑たくさん運び出されております︒そのときの値段が幾らぐらい
かということは︑右の引用のように︑大田南畝の﹃一話一言﹄巻三
九のところに書いてあります︒
そういう意味において︑﹃侠存叢書﹄の輸出は大変面白い現象だと
いうことが言えるかもしれません︒要するに︑﹃侠存叢書﹄に関しま 丑三月廿六日 野口長右衛門河野甚一郎 書面侠存叢書六部丑三番船四歩銀を以御買せ被仰付度願之趣相調候処︑右は是迄之直段を以追々買請被仰付候儀に付︑此節之儀も本船四歩銀を以︱二三篇にて都合六部買請候儀︑願之通可被為成御免哉に奉存候︒則代銀積り左之通御座候︒丑三番船四歩銀を以相払候分一侠存叢書一ノ篇より三ノ篇迄六部
此代銀諸雑費共弐百拾六匁八分
一ノ篇弐部但壱部に付三拾︱︱一匁七分
内 訳 ニ ノ 篇 弐 部 但 同 断 三 拾 七 匁 五 分 三 ノ 篇 弐 部 但 同 断 三 拾 七 匁 弐 分
しては︑結局幕府の援助があった︒それからいろんなものをどうや
って叢書の中に入れていくかという判断は︑林述斎が︑少なくとも
﹃天
禄琳
浪書
目﹄
︑﹃
四庫
全書
綿目
﹄な
どに
よっ
て判
断し
てい
った
んだ
ということが言えるだろうと思います︒
﹃七経孟子考文﹄と﹃七経孟子考文補遺﹄
その次に︑今度は﹃七経孟子考文補遺﹄に関してお話をしたいと
思い
ます
︒
﹃七
経孟
子考
文﹄
1正確には﹃七経孟子考文並補遺﹄というも
のがありまして︑これが中国へ輸出されるわけでございます︒この
本がどのようにしてできたのかと申しますと︑七経というのは︑足
利にあります足利学校に保存されている古紗本及び宋刊本の十三経
の中で易経︑尚書︑詩経︑春秋左氏伝︑礼記︑論語︑孝経の七経で︑
それに孟子を加えて校勘された︒それが﹃七経孟子考文﹄でありま
す︒校勘をした人物は︑伊予の西条侯の臣であるところの山井鼎で
あります︒山井鼎は︑本姓は大神氏︑字は君丘︑号は毘裔でありま
す︒紀伊の海草郡浜中村の出身で︑元禄三年︵一六九
0 )
に生
まれ
て︑享保十三年︵一七二八︶に死んだ︒若死にです︒享保三年︵一
七一八︶に伊予の西条侯の臣となった︒享保七年︵一七二二︶から
根本遜志と一緒に足利学校で作業して︑﹃七経孟子考文﹄をつくった
ので
あり
ます
︒
どうして資料に徳川氏の系図を出してきたかというと︑西条につ
一 八
いて説明をしておく必要があるので︑書いたわけであります︒
伊予の西条藩は紀州の徳川頼宣の子供である頼純が西条に封ぜら
れて︑そのあとの藩主が頼致︑そのあとが頼渡と続いております︑
紀州の支藩でございます︒西条藩は︑寛文十年︵一六七
0 )
二月十
八日に松平頼純が西条に封建されました︒そのとき彼は三十歳であ
りまして︑与えられた官位は︑従四位下左近衛権少将左京大夫であ
ります︒ところが︑西条藩は定府でありまして︑江戸詰めで︑普通
は国もとへは帰らないという建前の藩であります︒
西条藩ということで話をすると︑ああそうかいとおっしゃる有名
な話がありまして︑西条藩士の菅野六郎左衛門という人と村上庄左
衛門が喧嘩をいたしまして︑菅野六郎左衛門は村上庄左衛門らに元
禄七年二月十一日︑高田馬場で討たれた︒そこへ駆けつけてきた甥
の中山安兵衛が敵討ちをした︒これは西条藩の事件だったのです︒
l l l i 雷
頼 頼 義 秀 房 宣 直 忠
采 . . . . . . . . . . . . . . . . I
戸 紀 尾
伊 張 家
‑‑‑‑、̲, ‑‑‑‑
[ 塁 三ヽ~ 頼 頼 綱パ 綱I I
I I
ロ 方 職 教 吉
盆
I I
鄭 頼 点 旦
I I
渡 危 致 丁 棗
宗 家
直 9
籟 I I
致 士
シ 最
中国
でな
くな
った
書籍
の逆
輸出
一 九
でもあれが西条藩であるということを知っていた人は余りいない︒
しかも︑それが山井毘裔と同じ藩だとしても︑全く何の関係もない
わけ
です
︒
西条というのはそういうところでありますが︑要するに紀州の分
家でございます︒ところが︑この紀州の系譜はややこしくて︑頼宣
の後は光貞で︑その後二人の子供が死んで︑三男頼方が紀州を継い
だ︒これが後に吉宗として将軍になる人であります︒吉宗が将軍に
なりましたので︑紀州の殿様が空いて︑西条から頼致が入りまして︑
和歌山で徳川宗直になる︒そのために頼渡が西条藩の藩主になりま
して︑この西条藩の藩主頼渡が享保三年が山井毘裔を任用したので
あります︒そしてつくられたものが﹃七経孟子考文﹄であります︒
︹ 図
1︺ここにありますのが﹃七経孟子考文﹄です︒今︑前に出
しております︒上の方にあるのは京都大学の印があります︒京都大
学の図書館から貸していただきました︒
︹ 図 ︺そこには西条邸屈書記の印があります︒これはなぜ西条2
邸で︑藩でなかったかというと︑江戸詰めだからです︒これは京大
の貴
重書
です
︒
︹ 図
3︺これは荻生祖傑が序文を書いている最後です︒印は朱印
︹ 固
4︺一番最初のところの山井鼎の肩書きをご覧いただきたい
と思います︒紀府分藩京兆家文学という肩書きです︒紀府分藩とい
うのは︑西条は紀州の分藩である︒京兆家というのは左京大夫です︒ で
す︒