第 II章 平城官 の沿革 と現状
1 1空
学 革
A 平 城 官 の 造 営
平城遷都 が行われ たのは和釦
3年
(710)3月 の ことであ る (続紀)。 これ よ りさき和銅元年 (708)2月遷 都 の詔 が 発せ られ
,平
城 の地 が「 四禽 図に叶い,三
山鎮を作 し,亀
欽並び従 う」 絶好 の場所 であ るこ とを賞 し,
また「制度 の宜 しき,後
に加 え ざ らしめ よ」 と都 城 の計画的な造営が提 示 され た。つ いで同年9月造平城京 司長官以下 が任命 され てい る。 「長官」正 四位上阿倍朝 臣宿奈麻 呂, 従 四位下多 治 比 真人池守,「
次官」従五位下 中臣朝臣人足,小
野朝 臣広人,小
野朝 臣馬養,「 大匠」従五位下坂上 忌寸忍熊
,ほ
か判官7人 ,主
典4人
であ る。 これ らの うち,阿
倍朝 臣宿 奈麻 呂が押勝 伝 に「大納 言阿倍少麻 呂に従つ て算を学が」 (続紀宝字8,9)と
あ る よ うに算術にたけた人物 であつ た こ とは注意 され るし, また次官 の中に小野氏 が2人
もはいつ てい るのは異例 の こ とであ る。*岸
俊男 はそ の理 由を小 野氏 は フエ氏 と同族 であ るか ら,平城 宮 の地 に特別 な関係(本貫地 P)カ ミあつ た ことに よる とした。**
平城遷都 を策 した ものは よ くいわれ る如 く当時右大 臣の地位 にあつ た藤原不比等 であ る。大宝律 令 の編纂 に象徴 的にみ られ る律令体制 の確立 とそれ をお しすす め る新興貴族 の拾頭
,そ
の最頂 点に 位 していた のが不 比等 であつ た。飛 鳥古京 を去つ て
,平
城 に都城 が造 営 され る こ とに は大和 旧氏族 の激 しい抵抗が あつた と推測 さ れ るだけに,平城遷 都 の もつ革新 的意義 は高 く評 価 しなけれ ば な らない。当時漸 く全 国的 な視 野に たつ都城 が要請 され ていた のであ る。調席物 の収取一つを とつ て考 えて も,畿
内に しか交通網 を も た ない狭 除 な飛鳥 では,そ
の貢進は不 便極 まるものであつ たが,淀川・ 泉川 の2大
河川を利用す る こ とに よつ て,平城京 は全 国の交通路 と結びつ くことが で きた のであ る。和釦4(7■
)・5年
(71つの両年にわ たつ て
,律
令制 度 の徹底化 を示す 詔が発せ られ てい る こ とも偶然 な こ とではなか ろ う。(続紀和銅4・7,和銅5o5)
造 平城京 司 は
,都
城 の設 定 。整地 。街路害」な どをつ か さ どつ た臨時 の官 であ る。 和釦元 年 (708) 11月宮城 内に入 る菅 原 の地 の民90余 家を遷 してい るな どは,造
京 司 の仕事 であ る。 これ に対 して宮 殿 の造営・ 修理 をつ か さ どるのが常置 の造宮官(職 。省)で
あ る。***造
宮官が活動 を開始 した のは,平城宮地 の鎮 祭 が行われ た元年 (708)12月以後 の こ とであ ろ う。
2年
(709)に入つ て8月か ら 9月 にかけ平城 宮行幸 の こ とがあ り,造
宮に関係 した ものに授位賜 物 の こ とが み え るか ら,
この頃におそ ら く内裏 に関 した建物 は一部 で きあがつ ていた のであろ う。催造司監 に も小野朝 臣牛養 が任ぜ られてい る。
(続紀天平2・ 9)
¥
会 篇『 律令 国家 の基礎構造』 昭36
キ**井上薫「 造宮省 と造宮官」『 日本古代 の政治 と宗 教』 昭36
平城遷都
不比等 と平 城京
造平城京司
聖武朝 の平 城宮
孝謙朝の官 城復興
平城宮発掘調査報告 1
2年
(70の 12月再び平城宮行幸があつて還幸のことがみえないことを もつて, 翌3年
(71o)の元 日朝儀につかわれた大極殿を平城宮のもの とす る説があるが*,
僅 々1年
程で大極殿・ 朝堂の竣工 を考えることは無理ではあるまいか。 和銅3年
(710)3月 遷都後,大
極殿のみえる最初の記事が,下つて和釦
8年
(霊亀元年715)元日朝賀であることも参照すべ き で あ る。和釦
4年
(711)9月 の「今宮垣未だ成 らず
,防
守備 らず」 とか,和
釦5年
(712)正 月の「諸国の役民郷に還 るの 日云々」とい う続 日本紀の記事や三代実録元慶
8年
(884)5月29日条に '1用されている和釦
6年
(713)二月 の官宣などを参照す ると,大
極殿・ 朝堂の竣工は和銅5年
(712)頃 とすべ きであろ う。宮城の整備に ともない
,
儀式における殿舎利用が多様化 して くるのイよ聖武朝以後である OU表5 参照)。元 日饗宴に中宮 と朝堂が併用 され
,
前者では侍臣以上の宴が,
後者てはそ の他の五位以上 の饗が行われ,
山水宴 (3月 3日)騎
射 (5月 5日)に
多 く松林苑が使われ,
冬至宴に南苑が利用さ れ るなど,天
平期 の平城宮殿舎利用には或 る程度の定式化がみ られ るのである。B
平 城 官 の 中 断天平12年 (74の 10月九州に起つた広嗣の乱の最中
,聖
武天皇は突如関東出幸 の勅を発 して平城宮 を去つた。伊賀 。伊勢か ら美濃 。近江 と転 じてその年の暮近 く,右
大臣橘諸兄の別業 のある山背国 恭仁郷に都城を造営す る旨を詔 した。 これは明らかに広嗣の乱に影響 された ものであ り,同
時にこ れを契機に諸兄が勢力仲長をはかつた ものであろ う。天平12年 (740)平 城宮の大極殿 と歩廊を壊 し て恭仁宮に もち運んだが,恭仁宮大極殿が竣工 したのは,遷
都3年
目の天平15年 (743)の ことであ る。14年 σ42)8月 には甲賀離宮が造営されたが, 16年 (744)2月 難波に遷 るまで この地に都城が 営 まれた。 この間の平城京 の荒廃が りは万業集に もみえているところである(1044〜49)。 天平17年 5月,再
び平城に還都す るまで平城宮留守がおかれていたが,漸
久留守官人の帯す る官職 と位階が 低下 してい く。 この時期の平城宮の地位 と比重を物語 るもの として 興 味 深 い。 天平17年 (74の 5 月, 4年
半が りに平城宮に還幸 なつて中宮院を御在所 とした。C
平 城 還 都 とそ の復 興 (孝謙朝)還都後
3年
の天平20年 (748)の元旦饗宴に朝堂が使用 されているところをみ ると,朝
堂一郭 もこ の頃にある程度復興 された らしい。 しかし,恭
仁遷都に よつてラ大極殿お よび歩廊が もち運ばれた 事情を考慮す ると,
これが大極殿 も含めた朝堂全域の完成であるか否かは疑わ しい。大極殿は天平 勝宝元年 (749)7月 の孝謙天皇即位にみえるか ら,こ
の時には大統殿 も出来上つていた ものである う。 しかし,そ
の後孝謙朝において大極殿が本来使用 され るべ き元 日朝賀に一度 もその用例がみあ た らないのは どうしたわけであろ うか。天平勝宝7年 (755)。9年
(757)の諒聞廃朝 (宮子太皇太后・聖武太上天皇の崩御による
), 5年
(753)の廃朝 (理由不明P),
大安殿において朝賀の行われた2年
(750),大 宮改修中の天平宝字2年
(758)を除 く天平勝宝3年
(751)・4年
(752)。6年
(754)。8年
(756)の元旦朝賀は全 くそ の記事を欠いているのである。
単にこれを続 日本紀 の記事 の省略 と解す るよ りは, のちにのべ るよ うに孝謙朝において全般的に 殿舎利用が不安定な ことを 考慮に入れ る と
,や
は り異例の事態であ り,宮城 内復興が全体的に著 し くたちお くれていることの反映 とすべ き ではなかろ うか。*
大 井 重 二郎『 上 代 の帝都 』 昭19,福山敏 男『 大 種 殿 の研 究』 昭31 σ第I章
平城宮の沿革と現状 大極殿 出御を通例 とす る元 日朝賀が大安殿で行われ(この大安殿と宝字 9年(76の の西宮前殿が奈良時 代を通じて元朝出御の場所が大極殿でない2つの例外である。別表5参照),朝 堂・ 内裏で行われ るべ き元 日 饗宴が中務南院で行われてい ること(勝宝5年), さらに朝堂についてみても
,
これが常例の儀式,饗宴に用い られた ことはな く
,孝
謙朝にみえる2例
の朝堂は,新
羅・渤海使な ど外国使節賜宴の場合である(勝宝4・ 電 同5・ 5)。 続 日本紀編者は外国使節を饗す る場所 として慣例的に朝堂 と表現 し
た もので
,
この特殊な用例を もつて, この時期に朝堂が整備 された もの とす ることはできないであ ろ う。む しろ孝謙朝に集中的に大極殿南院 (或は単に南院)と い う用語のみえていることに注 目した いのである。 これを朝堂域の別称 とすれば完成 した形の朝堂が存在 しなかつたために,
このよ うな 変則的な用語が生 まれたものであろ う。孝謙朝において
,
このよ うに殿舎利用が不安定であるのは何故か。孝謙天皇の即位には大極殿が響碍遥延の 使われているか ら
,聖
武末年には大極殿は完成をみたものであろ う。 ところが さきにのべた よ うにその後の元朝 に大極殿は利用 されず
,勝
宝2年
(750)に大安殿で朝賀を受けていることか らす れ ば,孝
謙天皇は還都後聖武末年に改修した殿舎をそのまま うけつがなかつたのではなかろ うか。 ま た天皇の背後には太上天皇・ 皇太后がお り,中
で も政治上の実権は光明皇太后―紫微中台(仲麻呂) が握つていたか ら,天
皇の御所 はむ しろかつての東宮ではなかつたか とお もわれ る。 このよ うな変 則的事態が,孝謙朝の殿舎利用を不安定にした理由であろ う。孝謙朝末年,仲
床 呂の主導では じめられる天平宝字の改修が,聖武太上崩御の翌年であることは上の事情を裏書 きす るものである。
D
天 平 宝 字 年 間 の改 修いわゆる天平宝字の改修 とは
,続
紀に2度
にわたつてつ ぎのよ うにみえることを指す。*1 勝宝
9年
(757)5月 辛亥条「天皇 (孝謙)田
村宮に移御す,大宮を改修せんが為な り。」2
宝字5年
(761)10月 己卯条「平城宮を改め作 る為に,暫
く近江国保良宮に移御す。」1について。 田村宮はい うまで もな く
,仲
麻呂の私宅田村第を,仮
宮に したてたものである。当大宮改修 時仲麻呂は右大臣の兄些成についで大納言の地位にあ り
,皇
太后宮一紫微中合の長官 さらに中衛大将を兼任 していた。 前年 (758)5月 聖武太上崩 じ
,そ
の遺詔によつて新 田部親王 の王子道祖王が皇 太子の位についたが,仲
床 呂は この道祖王を9年
(757)3月 に至つて「身諒闇に居て志 遅 縦 に 在 り,教
勅を加 うと雖 も曽つて改め悔ゆることなし」 との理由で廃 し,直ちに以前か ら私宅 (田村第)に住まわせていた舎人親工の王子大炊王を立太子 させた。 しか も田村官に移つて半月後に
,仲
床 呂 は内外諸兵事を掌握 し,大臣に準ず る紫微内相の地位についた。やがて これが橘奈良麻呂の乱を誘 発し,豊
成の排斥,孝
謙天皇の譲位,大炊王の受禅即位 となつて,仲
床 呂の専断政治に道を拓いて い くのである。大宮改修は この よ うなあわただしい政情の中で行われた。 この改修を主導 したのも 消そ らく仲麻 呂であ り,彼
が擁立 した淳 仁の立太子に ともなつて,孝
謙へ奉仕 したもの と解 されな いであろ うか。大宮は内裏を指す と考えられ るか ら, この改修は朝堂には関係 しないものであろ
う。 また
,改
修 とい う表凱か らすれば,新
造ではな く疑存殿舎の修理であつた と思われ る。***
平城官改造 を伝 え る数少 い文献 的徴 証 として,早
くか ら重要視 されてい るものであ る。 しか し宮跡 の 発掘が進行す るに したがつ て
,文
献 には示 され ない時期 にのみ限定す る ことはで きない。 (この点 の詳 細 は第 Ⅶ章 にゆず る)
*‐
営繕令私第宅条 の「 営造」 と「修理」 を
,集
解吉 記 は「新造」「 旧造」 と解 してい る。平城宮改作
称徳朝の内 裏
平城宮発掘調査報告
1
2について。1が旧内裏 の修理に とどまる程度のものに対 し
,
この場合が「平城宮改作」 と表現 され るよ うに,
宮城内全域にわたる改造であることは,
つぎのよ うな諸事実に よつても証明され る。第1は,そ
の時に東朝集殿が唐招提寺に移建されているか ら,*少くとも朝堂に関してはそ の全 面的な改造が行われた ことを推測 させ る。第2に,工
事の開始は宝字4年
(760)の後半 と推定 され るか ら,**録
良移幸にさきだつ4年
(760)8月 の小治田岡本宮の遷幸 もこの時期 の造営に関係 した もので,諸国当年の調庸を便宜上,小
治田宮に収納す るよ うに命 じていることか らすれば,諸
官衛 に も及が規模の大 きなものであつたことが推定され る。工事が宝字4年
(760)後 半に始められてい るとすれば,光男皇太后の崩御直後にかか り,先
の内裏修理が聖武太上の崩御の翌年にお こなわれ た こととあわせて,興
味深い ことである。仲麻 呂の発議にもとず く宝字年間の改修は
,孝
謙朝に造営の著 し くお くれていた宮城内を,ほ
とん ど根本的に改造 し直 した ものである。宝字
7年
(763)の元 日受朝に大極殿が使われているか ら,少 くとも大極殿・ 朝堂は
6年
中には完成をみたものであろ う。 同年 ∈62)5月,高
野天皇 と淳仁天 皇は宮内造営のため遷御 していた保良離宮か ら平城に還つているが,
これは工事の終了を待つて行 われたものではない。 この事情を続 日本紀は伝えて,「
高野天皇,帝
と隙有 り,是
に於て車需平城 宮に遷 る」(宝字6・ 5)と している。帝 (淳仁天皇)は
中宮院に,高
野天皇は法華寺に入つて各 々御在 所 とした。間断をおかず高野天皇は,朝
堂に五位以上の官人を喚集 して,別
宮すなわち法華寺に居 なければな らない特別な事情を説明して,
政治の大権 (国家の大事・賞罰)は
自分が握 り,つ
ねの小 事 のみ帝が行えば よい とい う異常事態を宣言した(宝字6・ 6)。 法華寺は周知 の如 く光明皇后の宮寺 であ り, 2年
前の宝字4年
末には,光
切皇太后御願にかかる阿弥陀浄土院が,寺
内西南角に華麗な 装いをこらして建てられていた。***平城還都 の時には,大極殿・朝堂な ど中′
b建
/1/2の大部分は,完
成 されていたであろ うが,諸官行 群の造営はなお終 らなかつたであろ う。高野天皇 と淳仁天皇の対立事態は,つ
いに解消 され ること な く, 2年
後の宝字8年
(764)9月,高
野天皇はまず淳仁天皇 と結が仲麻 呂を追放 し,翌
月中宮院 に淳仁天皇を四んで廃位 させ,み
ずか ら重稚 して帝位についた。高野天皇がその期間中法華寺に留 まつた と推定 され る点は後述す る。****E
称徳
朝
保良宮遷御中
,高
野天皇 の信任を うるよ うになつた内道場 の僧道鏡は,仲
麻 呂が失脚す るや直ち に大臣禅師の位につ き,翌年には治都省の印の代 りに道鏡の印を用いることに よつて教界の支配権 を握 り,つ
いで太政大臣禅師に任ぜ られ て僧俗両界の最高位についた。天平神護元年 (765)寺院以 外の墾田私有を全面的に禁とす るな ど僧侶の勢力に よつて貴族 の立場を圧停1した。この時期 の殿舎のあ らわれ方は,前後にその類をみない特異なものである。 内裏関係については
*
浅野清「 平城宮朝集 殿 の復原」(『大極殿 の研究』lrD32)
■
*
① 束朝集殿施入 時期 は,移
建別 当文屋真人智努 の 出家 (僧名 。浄三)年
時 か らして,天
平宝字4年6月 か ら5年正月 の間 であ る (続紀
)②
当時造 営 中で あつた法華 寺阿弥陀浄土院 の造 寺料施入物 中,内壊 お よび坤宮官 か らの施入 が天平宝字4年5月乃至7 8月以後 な くな る。 (福山敏 男『 日本定築 史の研究』
p.219)
ホ**福山敏 男前掲書
p207
料キヤ
或 は今少 し早 く
,宮
城 内に入 つた のではないか とも考 え られ るが,天
平宝字 の改修 が,淳
仁一一 仲 麻 呂の線 ですすめ られた ものであ ることか ら考 えて 無理 であろ う。
東院 。東 内・ 西 宮がみ え,神護
3年
(767)4月に は,瑠璃瓦 を葺 いた東 院 玉殿 が竣工 してい る。東 院 が表 向 きの儀 式に利 用 され るのに対 して,西
宮 は天皇 の居所 として の私的 な場所 であ る。東 院・西 宮は
,文
字通 り宮城 内 の東 あ るいは西 に位置す るものであろ うが,
これが以前 の内裏 と事実上連 続す るのか,或
は全 く別 の ものなのかは,な
お慎重 な検討 を必要 とす る (第Ⅶ章参照)。F光
仁 ・ 桓 武 朝称徳天皇が崩御す る と,皇嗣が定 まつていなかつたので夕藤原百サ││は永手や良継 とはかつて
,天
智の孫にあたる由壁玉 の立太子を強行し
,や
がてこれを即位 させた (光仁天皇)。 道鏡は称徳天皇の 崩御 まもな く,造
下野薬師寺別当に追放された。光仁・ 桓武朝は官制 の整理 と農民負担の緩和策に 示され るよ うに,律
令制 の全般的な再建を 目指 しているところにその特色がある。*しかしそれは以 前の律令制そのままの再興ではな くその縮少版である。この時期 の殿舎利用は
,別
表5にみる如 く全体的にきわめて安定 している。元 日饗宴に内裏,前
蓉釉 た殿 殿
,
朝堂が使われていることは,
天平期の場合 と同じである。元 日朝賀の大極殿 出御が宝亀
5年
〜
8年
(774〜777)を のぞいて全般的にみ られ るほか,節
宴 。儀式が常例化し,そ
れぞれに使 う場所 が定 まつて くる。延暦元年 (782)4月,「
今は宮室居に堪え,服
観用いるに足 る (中略)。 宜 し く造 宮・勅 旨の二省を罷むべ し」(続紀)と詔されていることに よつても,宮
城の安定 した状態を推察す ることができる。ところが この詔の発せ られた翌 々年 ∈
8o,
突然平城京は廃 され,山
背国乙訓郡長岡に都城が造長岡遷都 営 されに至つたのであ る。
宝亀10年 (779),光 仁・桓武両天皇の推載に尽力した藤原百川が亮ず る
と
,
そ の遺功に よ り弟の田麿は大納言からさらに右大臣にすすみ, 甥 の種継は一躍従三位に特進 し,中
納言に昇官した。 この よ うな藤原式家の優勢は,藤
原氏 内部 のあつれ きを招 き,さ
らには大 伴・佐伯など旧氏族 との対立をひ きお こした。一方にまた前代,
ことに道鏡の政権以来,実
力を蓄 えてきた平城京 内諸大寺 の勢力に も,あ
などりがたい ものがあつた。このよ うな政情の中で,種継はみずか ら造宮使長官にな り
,山
背北部 の豪族秦氏 の財力に依存 し て長岡遷都を強行したのである。**か
くして7代
70余年つづいた平城宮の歴史 も終 りをつげた。延暦10年
g91)2月
,越前・丹波・ 播磨・美作 。備前・ 阿波。伊次の諸国に命 じて,平
城宮の諸 F]を長岡宮に移建 させた。延暦■年 σ9り
,
諸衡府に平城旧宮を守 らせているところをみると(紀 略),長
岡移幸後 も平城宮城内の建物は,全面的に移建乃至破壊 された ものではなかつたのであろ う。G
平 城 上 皇 と平 城 宮平城宮が内裏乃至宮城 として再び史上に姿をみせ るのは
,平
城上皇の時である。上皇は大同4年
平城還都 (809)末 平城宮に行幸 し,
この地を御在所 とした。これ よ りさき同年 4月 に,平城天皇は病気を理
由に皇太弟 (嵯峨天皇
)に
譲位 した。この譲位はしかし
,
前 々年 の平城天皇の弟,伊
予親王の謀反 事件に関係があ り,さ
らにそ の背景には藤原北家 と式家・南家の対立が存 していた。上皇が移幸 された大 同
4年
末には,ま
だ平城宮の宮殿はできていなかつた らし く,仮
りに故右大臣大中臣清麻 呂の家を御所 とした。直ちに摂津・伊賀。近江・ 播磨・ 紀伊・阿波などの米稲を造平 十 宝亀11・3,延暦元 。4(造宮・勅 旨 2省 以下の廃 ** 喜田貞吉『 帝都』p.227
止
)な
ど廃宮後の平 城 薬子の変
平城宮の地 形
平城宮発掘調査報告 Ⅱ
城 宮料 に充 て,畿内諸 国の工 お よび夫2500人 を雇つて造営を開始 してい るか ら
,こ
の再建は相当な 規 模 の工事 であつ た と考 え られ る。翌弘仁元年 (810)に 入 り造 営はかな りの進捗 をみた (紀略)。 こ の年9月,長
岡京遷都 の主 唱者 で遷都 の翌年暗殺 され た種継 の子,仲
成 お よび薬子 は,勢
力挽 回を はかつ て平城上皇 を うごか し,上
皇 の復位 をすす めたが,嵯
峨天 皇側 の機敏 な処置に よつて不成 功 に おわつた。 太 上 天 皇 は川 口道 を とつ て東 国に入 る計画であつ たが,
嵯 臓側 の兵 力に さえ ぎ られ て,平
城 宮 に も ど り,弟↓髪 入道 した (後紀)。そ の後 も平城 宮 には諸衛官人がつめていたが
,彼
等 は宿衛 を勤 めず (類乗国史・紀略弘仁2・7),太
上 天皇は弘仁14年 (823)に至 り
,平
城宮諸司を停止す る旨を伝 えた 銀 乗国史 。紀略弘仁14・ 4)。 天 長 元年 (824)7月太 上 天皇崩ず るに及んで事実上平城宮は終焉 した (類乗国史・紀略同年同月)。類乗符宣 抄 (第六雑例
)は
天長2年
(825)の もの として,「平城 西 宮事 」 を載せ てい るがそれ に よ る と平城太上 の親 二等 に意 に任せ て西宮を使 うことを許 してい る。 この西宮が,以
前 の称徳朝 の西 宮 と同 じ ものか否 か は,に
わか に断定 で きない (第Ⅶ章参照)。承 和
2年
(83の に は,平城 旧宮水陸地40余 町登,平
城第3子
高岳親王に賜わつ ているか ら(紀略),10年後に は宮城 内 の一 部 も田畝 に変つ て しまつ た のであ ろ う。 翌年 には平城京 内空閑地230町を, 太 皇大后朱雀 院 に あ てて い る。 くだつ て貞緻
2年
(860)に は,京中水 田55町 余 を不退・ 超昇両寺 に 施 捨 した こ とが三 代 実録 にみ え (同年10)夕 当時 の平城京 の状 況 を大和 国司は 「延暦7年
長 岡に遷者る
,そ
の後77年
,都城 の道路変 じて田畝 とな る。 内蔵寮 田160町,
そ の外私縮 の墾 開田往 々数あ り」 と伝 えてい るほ どであ る (三代実録貞観6・ 11)。2遺 跡 の 現 状
平城宮跡 は,】 ヒに奈良山歌姫丘陵
,東
に春 日高 円の諸峯,西に矢 田山をひかえた大和盆地 の北端 に あつて,北
か ら南 にゆ るやかに傾斜す る,
よ く解析 され た台地 の周辺部にあた り,そ
の東お よび 南 は佐保川,西
は秋篠川 で境 され る。宮跡 は現在奈良市佐紀 町に属 し,佐紀 集落を北端 とす る方約lkmの地域 を 占めてい る。 この地 は成務
,
日葉lll姫2陵
を 中心 とした楯 列古墳群 の東 につ らな る 丘 陵が南東に張 り出 した台地部 と,西
か ら南東 にかけてのひ ろい平坦都か らなつ てお り,現
在そ の 大半 は水 田 となつ てい る。 この水 田の畦畔や道路 をた どれ ば,平城 宮跡 に接す る東西 の一坊大路や 南 限 の二条大路 の痕 跡 が整然 と見 られ,こ
れ に よ り宮 の東・ 南 。西 の境 界は きわめて明確 に指摘す る こ とが で きる(PL.1)。 宮跡 内部 の水 田の形状 か らも宮 内の区劃 の大略を知 ることがで きるが,
これ とともに主要 な場所 には多 くの上壇
,土
塁が遺存 していて,宮内の各 宮殿,官
行 の位置 を も推測 す る ことをたす け てい る。 これ らの事実か ら早 くFIB治40年に関 野貞 の復原的考察がな され*,今 日の 平 城 宮跡保存 の基礎 が きずかれた のであ るが,い
ま一度 これ を跡 づけてみた い。平城宮跡 の中央 正面
,朱
雀 大路 と二条 大路 の交点 に あた る地 点 に,今
は用水池が穿たれ,そ
の北 岸 に朱雀 門が予 想 され るが,瓦
の 出土を知 るのみ で,地上に は何 らの遺構 がみ られ ない。宮跡 中央 部 は小学荒池 で,
平 城 宮 中軸線上を南北 に通 る小径 があ り,
それ を中ィいに して東西約215mの
地 割 りが,南
北 約530mつ
らなつ てい る。 この中軸線に対称 に,東
側 に は南北150mに
わ たつ て一 線上 に土壇 が並 び,西
側 に もほば同 じ幅 の南北 に細長 い田がつ らなつ て,
ここに もかつ て同様 な土*
関野貞『 平城京 及大 内英考』 (東京帝 国大学紀要工科
3)明
407θ
中央部の現 状
第 Ⅱ章
平城宮の沿革と現状 壇があつたことを示 している。関野はこれ らの上壇か ら
,東
西に相対 して並が殿堂を想像 し,
この 位置が宮域南部にあ り,
また平安宮豊楽院に似た配置であることか ら,
この一郭を南苑跡 と推定 し た。 この荒池以北は小学東大宮で,
二条大路の北縁か ら530mへだたつた位置で,地
害よりを示す 両側の畔は 東西幅180mにせばま り, この幅で 東大宮地区の北端 まで280mほ どつ らなつてい る。 この畔は東で特に顕著な土塁 となつている。東大宮地区北半は南半 よ り2mほど高 くなつた台 状 の地形 となつて為 り, 東大宮か ら北 の寺前にかけての宮域中央部を, 関野はその高燥な地形から
,内
裏 と推定した。この中央の荒池 。東大宮地区の東側に
,幅
70mの小学分田地区をへだてて,現
在国有地 となつ ている神明野地区がある。 この地は東西の幅が185mで ,そ
の中央線上,二
条大路北縁 より120m
に
1土
壇があ り, さらに北 130mで今一つの上壇がある。関野は この南のものが平安宮の応天 門に
,北
のものが会 昌門にあたると推定した。 これ よ り北 の神切野地区には,10カ
所 の上壇がなら び,そ
の北で一段高 くなつた地域の中央に高 さ2mをこえる「大黒の芝」 または「大黒殿」 とよば れ る大 きな土垣がある。 これ らは十二堂 と大極殿の遺構であるとして,平
城宮朝堂院跡 と推定 され た。なお この地区には,十二堂の外郭北半都に土塁があ り,大黒の芝の東西お よび北に小土壇が遺 存 しているが,関
野は これを東西楼,お
よび平安宮の小安殿にあたる後殿 とした。大極殿周辺地区 の一部では,大正13年の平城宮跡保存準備工事に よる周濠開整に伴つて遺構が発見 され,大極殿周 囲の回廊雨落濤が発掘 されて,関
野の推定を裏付けた。*この朝堂院跡北方の欄木地区は,東
大宮北 半 と同 じ く1.5mほ
ど高 まつた地 で,そ
の西側には土塁が残つ てい る。 この4F3木やそ の北 の松本 の 両地 区は,地
形 上 か らは 他に なん の遺構 も予測 で きないが,宮
内に 占め る位置か ら,関
野は これ を 東 院 の地 に比定 した。 欄 木地 区 の東 西 では,同
様 大正13年 の工 事 で数個 の礎 石 が発見 され てい る。これ らの上壇や土塁 お よび畦畔 か ら知 られ る顕著 な
2群
の遺構 に対 して明確 な遺構 の指摘 で きな い広 い地域が西方にあ る。そ の西端 の通称一条通 りの南 の一劃 は,「
大 り宮」 とよばれ,称
徳天皇 の西宮 に関連があ る と推 定 され るが,
この地区には旧一坊大路に接 して,二
条 町 の「 弘法井戸」か ら南100mの
地点に, 1土
壇 が み られ る他は,
日立つ た遺構 はない。 この土壇 は宮門 の一つ と考 え られ る。 ところが この地 域 も畦畔 に よる と,西
緑 には幅120mの
田が南北 につ らな り,東
縁 の地域 とも似 た地割 りであ る こ とが知 られ る。 この ことは朝堂院,内
裏 をめ ぐる官衝地域 の地割 りの名残 りを示す もの と考 え られ よ う。このほか
2箇
所 に相 対 す る顕著 な土壇 が,宮
域 の東 南 隅 の一劃 にみ られ るが,後
述す る よ うに こ の附近が太政官院 の跡 と推定 され るので,こ
れ に関連 あ る遺構 であ ろ う。 また宮域東緑 の小字相]木と小字石 田の中央 に, 2枚の田が南北 に細長 くつ ながつた地割 りがあ る。 この細長 く連続す る 2 枚 の日は
,
】ヒの水 上池 に連 らなつ てお り,
そ の東側 の田か ら昭和3年
に玉石積み の浩 が発見 され た 。**こ
の地害Jり は,東側 地 区 の官行 の区言」割 りを示す もの として,重
要 な意 味 を もつ。また宮域 の西南 の隅 に
,小
学谷 田 とよばれ る秋篠 ナ││の氾濫痕跡 を示す地形 があ る。 この一部 の金 池の地 を,関
野は「西 南 の池亭」にあてた。 この付近 で周辺 よ リー段低 くなつ た現在 の地形 は,宮
の廃 絶後 の氾濫 で
,そ
の部分 の遺構が削 られ た可能性 のあ ることを示 してい る。このほか宮域 の中央 西北 に古 くか らあ る御前池 の中には
,土
塁状 の地形が残 つ ているが,
これが 十上 国三平『 史蹟名勝調査 報告』(史蹟調査報告2)
昭10
‖
岸熊 吉「 平城宮遺 溝及遺物 の調査報告」 (奈良県 12)昭9
東部の現状
西部の現状
現状 と遺構 の関連
平城宮発掘調査報告 I
東に断続的につ らなる状況は,喜田貞吉によつて平城宮の北限を示す もの と指摘 されている。*また 御前池の堤防には, 造 り出しを もつた10数個の凝灰岩製礎石が存在す ることも
,
周知の事柄であ る。 このほか宮域内各所に凝灰岩切石が整然 とならんでいることを,耕作者が伝えているが,佐紀 池 と道路をへだてた南側で,東大宮に西接 した未指定地内の田か ら,大きな凝灰岩切石が掘 り出さ れた ことなどは,そ
のなかでも顕著なものである。 また佐紀池 。二条町集落の中央を南北に流れ る 小川 と,通
称一条通 りとの交点か らも,地
覆石状のものが地下約2mから発見 された。現状で知 られ る平城宮の遺跡は以上のよ うであつて
,今
回発掘 された諸遺構は全 く地形上か らは 予測できないものであつた。ところが大極殿周辺の一郭では, 発掘調査に よつて発見された遺構 と現状が示す地形 とは
,か
な り密接な関連があることがわかつた。例えば,相木地区西辺の上塁は 大正13年の発掘でしられた礎石列の延長に当つてお り,昭
和35年 の発掘で,
この礎石列のある土塁 は築地回廊を構成す るもの と考え られ るに至つた。その結果,方約170mの
回廊が相木地区を取囲む よ うに廻つて
,
ここが内裏であることが判つてきた。 また大極殿前面では,旧
回廊の規模をその まま伝える形状で,土壇が屈曲している点 も,昭
和30年 の発掘に よつて確かめ られた。 これは現状 で認め られ る地形 と遺構 の関連を,等
閑視しえないことを教えた ものであるが,実
はそれだけ平城 宮跡が現在 までよ く保存 されていることを示している。 したがつて宮城内で前述 のよ うに推測 され る各地区の遺跡か らヽ,発掘調査に よる重要遺構 の検出は,十
分に期待できるといえる。* 喜田貞吉「平城京及大内裏考評論」 (歴史地理12‑5)明41 ど″