狂信 の誘惑
ーコンラヅドの政治小説
照 屋佳男
はじめに
ジ・ゼフ三ンラ・ド︵天五七⊥九二四︶はその円蜘の作品のひとつ藺の奥﹄︵ミミミミぎ・竺
九〇二年︶のなかで︑言い訳を必要とせずに存在すると感じられるものについて語っている︒岸に打ち寄せる波︑
ボートを漕ぐ黒人の筋肉の動き︑その叫び声︑歌︑汗で光る体躯︑グロテスクな仮面のような顔などがそれである
が︑並行して掘っ立て小屋ひとつ見えないアブリヵ大陸の叢林めがけて砲弾を打ち込む軍艦︵その軍艦内では日に
三人の割合で病死者が出ているという︶︑陸へたどりつかぬうちに溺死する税関吏や兵士の描写がある︒後者は言 ていい訳を導入してはじめて納得できる体のものであるが︑そうした種類のものを︑言い訳を必要とせずに存在すると
感じられるものとの対比において描くという方法が︑この作品では採られている︒
一八年にわたる船乗り生活の経験をもつコンラッドにとって︑船乗りが船を走らすために︑骨の折れる単調な仕
事に日夜献身するのは︑言い訳を要しない存在の形態であって︑事実﹃闇の奥﹄で語り手でもあれぽ︑主人公でも
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あるマーロウがコン.隷河を奥地へ向かって航行する際に︑まず船の修理に必要な鋲の入手に︑次に船の修理作業
に︑さらに航行中は︑水路の発見︑水面下に隠れた砂洲や岩や木の回避に︑あるいは燃料となる枯木の拾集や蒸気
パイプの漏れの防止に精魂を傾けるさまが描かれる︒そして船を走らす仕事への没頭︑危険への実際的な対処とい ︵2︶う形で現われる生き方は︑﹁表面的な真実﹂︵ωξ貯8みε普︶に拠る生き方とされ︑そうした真実への依拠の重要性
を教えるのは︑ほかならぬ船乗りの伝統であるとほのめかされる︒その伝統︵長い時間によって試されてきた方
法︑掟︑仕来り︑生活態度︑感じ方︶の象徴をなすものは︑航行の途中マーロウが偶然手に入れる古い航海術の本 ︵3︶であって︑図表や数字をいっぱいのせたこの本は︑﹁仕事に正しく取り組む法への誠実な関心﹂を濠らせ︑そのこ ︵4︶とによってマーロウに﹁まぎれもなくリアルなもの﹂と感じさせるのである︒
伝統はたしかに普遍的な価値︵一種の言い訳︶を介在させて事物に対するようにと教えはしない︒伝統は︑人間 ︵5︶にとってこの地球は﹁生活を営む場所︑厭わしい光景や臭いに耐えなければならない場所﹂であるということは教
える︒伝統に拠って生きようとする者は︑それ故︑抑制を知っているということになろう︒
航行中︑船長マーロウの助手をつとめる︑極度に腹を空かした人食い人種たち︵三〇人︶が同乗の白人たち︵五
人︶を襲わないのは︑彼らが普遍的な価値に蝕まれていない分だけ︑その分だけ抑制を知っているということであ あかしり︑それはまた︑彼らは彼らなりに伝統に拠って生きていることの証でもある︒
この小説に描かれる異様な光景の数々は︑植民地経営が物質的利益のためというよりはむしろ︑アフリカ大陸に
﹁光明﹂を持ち込むために1野蛮人の教化︑ヨーロッ.パ文明の普及のために︑すなわち普遍的な︵とヨーロッパ
人に感じられる︶価値の導入のために一なされているという事実を措いては︑どうにも解しようのないものだ︒
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狂信の誘惑
まことに絶対化された︑普遍的な価値ほど恐るべきものはない︑理念の欠如ではなくて︑なまじ理念によりかかる
ことの方が由々しい問題︵無秩序︶をひきおこすとする作者の見方を読み取るのは︑実際決して困難ではないの
だ︒ そして伝統が伝統の信奉者を生みだすのはまれであるのに反して︑ユートピアの構想と結びついた普遍的な価値
は︑その信奉者に事欠かないということも同様にコンラッドの示唆するところである︒ ﹁憐欄と科学と進歩の使
︵6︶者﹂クルツなる人物を通じて明らかにされるのは︑愛︑正義︑啓蒙などの価値を信じ︑説く者が︑崇拝者に囲まれ
て︑一種陰惨な王国を築きうるということである︒画家︑音楽家︑詩人︑政治家︑ジャーナリストの資質に恵ま
れ︑いわば全ヨーロッパが馳せ参じてつくりあげたこの人物は︑植民地事業の根幹である象牙の収集に︑もちろん
抜群の能力を発揮するが︑それ以上に︑コンゴの奥地でその雄弁にものをいわせて︑愛や正義や生き方について
語り︑さらには﹁野蛮な風習撲滅﹂のための報告書の作成に余念がない︒彼が博愛︑啓蒙︑正義などの価値を信じ
ているのは疑いを容れないが︑そのことは彼が︑虐殺を含む蛮行や略奪に耽ったり報告書の余白に︑後になって︑
﹁野蛮人どもを皆殺しにしろ!﹂と書き込んだり︑彼を崇拝する原住民やロシア生まれの一人の青年に拝謁に際し
て︑はいつくばうような﹁儀式﹂を強要したりすることの妨げにはならない︒妨げにならないどころか︑これはそ
ういう常軌を逸した行為に直結しているとさえ言える︒
作者はクルツが真実から遠く離れたところにいるとは言わない︒ただこの世には狂気に陥ることなしには見つめ
ることのできない真実があるとは言う︒﹁時間という衣を剥ぎ取られた真実﹂︵葦葺げωけ﹃首需仙︒︷諺︒一〇欝oh
︵7︶鉱ヨΦ︶社会的︑文化的︑歴史的文脈によって限定されない真実︑巨大な樹木が地上の王者であった頃を生々しく想
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起させるコンゴ奥地の原始林︑その原始林が触発する真実︑そうした真実に︑同様に限定を受けない普遍的価値の
とりこになったクルツの精神が共鳴する︒荒野は彼を抱擁し︑彼の血管に入り込み︑彼を喰いつくしたとか︑彼の
空うな内面に荒野がけたたましく反響したという意味のことを︑作者は執拗に書く︒無論︑問題はそこで終わりは
しない︒ ﹁人間の精神はどのようなこともやってのけることができる1人聞の精神には未来のすべてのみならず ︵8︶過去のすべて︑要するにありとあらゆるものが潜んでいるのだから﹂というマ1ロウのことぽは︑入間の精神は︑
たとえ博愛や正義の観念を詰め込まれていようと︑抑制︵あるいは限定︶という一事を欠いていれば︑それだけで
人をありとあらゆるおぞましい蛮行に駆り立てうるということを示そうとしたものだ︒
そしてこのような蛮行には︑たとえば犯罪者や叛逆者や敵が恣意的に定義されるといったような︑抽象的な性質 いただきがっきまとっているのも見逃せない事実である︒そういう抽象的な蛮行に比べると︑たとえば家敷の柵の柱の頂を ︵9︶頭蓋骨で飾るといった風な蛮行は﹁陽の下に存在する権利をもった﹂蛮行というふうに感じられてくる︒危険が肉
体へ及ぶ時に感ずる明確な形をとった恐怖とは別種の︑抽象的な恐怖を与えるクルツの言動に比べると︑弓や槍で
突然襲いかかる原住民の行為などは︑むしろ心を鎮め慰めてくれる正常な行為と思われてくる︒やっかいなのは︑
クルツの蛮行は︑普遍的な価値の裏づけを持っているということであり︑論理的に説明不能でもないということ
だ︒けれどもこの蛮行のどこを探しても正気は︑そのかけらさえ見当たらない︒正気は原理や普遍的な価値をどん
なに追い求めても見いだされはしないのだ︒正気は伝統を枠組みとして確保される日常的な生の営みのなかにしか
見いだされないのである︒現実を矯正するゆるぎない方法を身につけている人間にではなくて︑事物の現実に忍耐
強く即応する人間にしか見いだされないのである︒︵とはいえ︑日常性の価値に気づくことができるためには︑マi
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ロウのように︑狂気に立ち会い︑ひとたびは狂気をくぐり抜ける必要のあることも︑この小説の示すところだが︶︒
﹃閣の奥﹄に続く﹃ノストロモ﹄︵≧︒切ぎミP一九〇四年︶﹃密偵﹄︵﹃ミ留ミミェ鷺ミニ九〇七年︶﹃西洋の眼 ︵10︶の下で﹄︵qミミミ鳴︒︒紺§ミ馬防二九一一年︶の読者にとっては︑﹁地面を蹴って空中にとびあがってしまった﹂ク
ルツは︑ファナティクの原型として︑極めて注目すべき存在である︒そして﹃ノストロモ︑﹃密偵﹄﹃西洋の眼の下
で﹄は︑ ﹃闇の奥﹄において示される正気と狂気の政治的応用の面を多分に蔵しているので︑我々はこれら三つの
作品を政治小説と名づけることができるのである︒
﹃ノストロモ﹄
狂信の誘惑
﹃ノストロモ﹂でとりあげられるのは︑大まかに言えば︑個性ある静かな古い街が︑進歩と称せられる抽象化へ
の過程を辿るさまである︒その過程を惹き起こすに至る心理的要因が︑一社会の運命を左右するほどの力を持つ人
物を通じて描かれる︒心事的要因と敢えて言うのは︑一見壮大な︑非人間的な諸力につき動かされているように見
える変化を︑作者は人性に基づいて︑人性の観点から考察するという態度を片時も崩していないからである︒
主として作者のヴェネズエラの印象から築き上げられた架空の土地︑南米コスタグアナ共和国オクシデンタル州
スラコ町が︑小説﹃ノスト冒モ﹄の舞台である︒広大な静かな湾を前に擁し︑雪をいただく高い山々を背負うスラ
コの商業活動といえぽ︑長い間牛皮とインドあいを州内向けに商うことに限られていた︒それというのも︑一方で
湾を支配する圧倒的な無風状態によって昔から︑帆船の入港が阻まれ︑他方では峻険な山々によって︑陸路は事実
上遮断されていたからである︒国に次ぎ次ぎに吹き荒れる軍事クーデタ風の革命にしても︑隔絶された町スラコに
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こだま
は︑その留を伝えるのが精一杯といった感じであった︑とまず語られる︒スラコの町の静けさは︑交通がどんなに混雑している時でも︑﹁目で台数が数えられるほど馬車が少ないという事実︑しかも馬は蹄鋏を打ちつけられてい
ないという事実︑町の人々の︑常用する履物サンダルをひきずる音や低い囁き声が二階の窓にまでたちのぼってく
るという事実によって示される︒港と町の間に拡がる平野には︑祭の折など︑草葺きの屋台が並び︑炭火で素焼き
の鍋に盛られた食物を煮るインディオの女が︑愛撫するようなやさしい声で︑客に呼びかける︒ち.︑つと奥地へ足
を踏み入れると︑そこは物悲しげな忍耐の姿勢をとる口数の少ない人たち︑眠気を催させるような威厳を保ちつつ
客を歓待する人たち︑月光の下で甘美な声で語り合う女たちの住むところだ︒
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この小説の推進力となるのは︑ファナティクな人間とそうでない人間の対照そのものである︒ファナティクの求
めるものが広い意味での進歩であるとすれば︑平常心を失わない人間の求めるのは︑伝統の維持ということになろ
う︒そして最も力あるファナティクは実業家として登場するというのが︑この小説のひとつの特徴である︒
事物の現実に地道に対応するのを︑何らかの形で拒むのが狂信家の特徴という点に着目すれば︑ファナティシズ
ムの発生過程は︑おのずから明白となろう︒たとえぽスラコのサン・トメ銀鉱に資本を提供するサンフランシスコ
在住の実業家は︑銀鉱への投資がキリスト教の布教と分かち難く結びついていると知ったとぎ︑はじめて惜しみな
い融資に踏み切るのである︒事物をそのあるがままの姿から切り離し︑別種の精神的価値を付与されたものに変容
しないうちは︑実業家は活動のきっかけを摺むことができないと語られるのだ︒実業家は事物のあるがままの姿に我
慢できないものを感じる点でロマンティシストであり︑観念論者であり︑そしイ︑ファナティクであるというわけだ︒
ところで︑実業家は物欲55・金銭欲に支.配されて活動している限り︑一社会︑一国を激変させるほどのカは発揮し
ない︒実業家が己の欲望や意見や行動に精神的な価値を見いだし︑自己正当化に成功し︑そこから生ずる自負をバ
ネにして活躍するようになる時︑一地方や一国の姿を根底から変えるほどの力が得られることになる︒
実業家の自負に端を発する変化iこの変化の徴候はまず︑スラコの外面的な事実の上に辿られるが︑小説の主
眼は変化の心理的な要因の探求に向けられているために︑外面的な変化の叙述は︑内面の変.化を暗示せずにはおか
ない︒
現代生活の型にはまった利器にものをいわせて︑古い町の個性を押しつぶす完壁な文明の物質的機構はまだ侵
入していなかった︒けれども漆喰壁のある家並み︑格子窓︑濃緑の糸杉並木︑その背後の今は廃屋と化した修道
院の大きな淡黄色の壁などを特色とする︑古色蒼然としたスラコの上に︑その情神において極めて現代的なあの ︵11︶事実ーサン・トメ銀鉱−一が既にその微妙な影響を投げかけていた︒
狂信の誘惑
﹁まだ⁝⁝なかった﹂という言い回しは︑物質的変化の大きさを予告し︑ ﹁微妙な影響﹂という表現は︑この変
化が深く人間の内.面にかかわっていることを︑暗示している︒長い間鉄道の開通を待ち俺びてはいたものの︑実際
に測量用の赤い旗を手にしたインデ︑︑オの少年を見た時に︑この町の伝統の体現者とでも称すべきグールド夫人が
受ける深い衝撃は︑外面の変化が内面の変化と分かち難く結びついていることを示すひとつの具体例だ︒
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﹁未来は変化を意味する一保存したい素朴なもの︑絵のように美しいもののあるこの地方に根本的な変化をも ︵12︶たらすことを意味する﹂変化の物質的要因たる銀鉱山の開発・発展︑鉄道の敷設がまず大写しに描かれる︒ ﹁蛇の
楽園﹂と思われていた原始林が切り拓かれ︑道路がつくられ︑美しい滝が消滅し︑かつては樹木に覆われていた峡
谷が鉱山の廃棄物で埋まるという事態が発生する︒試運転の蒸気機関車の発する﹁息もつかせぬほどヒステリック ︹13︶に長びいた混濁のような叫び声﹂が静寂に慣れた町の人々の度胆を抜くということも起こる︒しかし注目すべきこ
とは︑変化への恐れや懐疑を表わす豊富な表現は︑感傷的なものを微塵も忍ばせてはいないということである︒作
者は古い町スラコやナクシデンタル地方を︑ひたすらに美化し愛惜するという態度はとらない︑いやとれないので
ある︒
南米の独立運動家シモン・ボリバルのことぽ﹁アメリカは統治されえない︒アメリカの独立のために闘った人たちは︑海を耕すに等しいことをやってのけたわけだ﹂の小説中への引用が示すように︑絶え生なく起こる革命騒
ぎ︑クーデタ騒ぎは︑スラコに直接波及しないとはいえ︑そこに住む人たちはみな︑その残酷な︑同時に愚劣極ま
りない作用の圏外に立つことができない︒ということは︑スラコの伝統の存続は︑革命騒ぎに明け暮れる政治の前
近代性と切っても切れない関係にあるということでもあるので︑事実︑政治的暴虐あるいは茶番は︑古い静かなス
ラコと一体不可分のものとして描かれているのである︒別言すれぽ︑革命騒ぎを脱しようと思ったら︑伝統ある古
い町への訣別は必至ということであって︑そこからそもそも政治の近代化を図るのは好ましいことなのかという疑
問も生じてくるが︑他方そうした疑問を一笑することもできるところに一種のジレンマが顔を覗かせる︒が︑少な
くとも前近代的な政治の汚濁・混乱への不適切な︵ということは異常な︶対応の可能性は予め示唆されているわけ
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で︑その不適切な対応白体に作者の関心は最も強く注がれているように思われる︒
それにしても政治の野蛮は目に余るものがあると︑読者は思う.︑軍服を着︑サーベルをがちゃっかせ︑大言壮語
する権力者たち︑悪夢にも似た政治のパロデ・︑を演出する人たちがいる︒救国を大義名分にした絶えざる政治的騒 ︵14︶動は︑グールド夫人の目には︑ ﹁不良少年がおそろしく熱心に行う血腺い殺人ごっこ︑略奪ごっこ﹂と映るほどで
ある︒自由︑民主主義︑愛国心といった人口に三災したことぽが︑この国ではことごとく悪夢の趣を呈している︒
くりかえして言えば︑そういう前近代的な政治の野蛮に対して︑主要人物︑わけてもサソ・トメ銀鉱の経営者で
﹁スラコの王﹂と称せられているチャールズ・グールドがどういう反応を示すかが︑主題の構成上重要なポイント
になるのだ︒
狂信の誘惑
チャールズ・グールドの父親が経営に当たった頃から︑銀鉱山は︑金銭欲にとりつかれた独裁者たちに資金源と
してねらわれ︑くりかえし法外な鉱山使用料を搾り取られたり︑理不尽な罰金を課せられるという災難に見舞われ
ている︒端正さを余りにも重んずるという短所をもつ父親にとって︑銀鉱の経営は疫病神にとりつかれるとの等し
い意味を帯びはじめ︑やがて父親は悶死する︒銀鉱の経営に失敗し︑惨めな一生を終えた父親の死に報いたいとす
る漠とした気持ちに駆り立てられて︑新たに銀鉱の経営にのりだすチャールズ・グールドは︑父親の弱さや絶望を
不自然な過ちとみなしているので︑彼の眼にサン・トメ銀鉱を企業として成功させることが︑道徳的義務と映じて
きたとしても不思議ではない︒
﹁行動は慰めとなる︒それは思考の敵であり︑心地よい幻想の友である︒行動を通じてのみ︑我々は運命に対す
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︵15︶る支配を得ることができる﹂と考えるチャールズ・グールドは︑生活人の真っ当な︑澱洌とした常識を身につけて
いると言えるかも知れない︒理論を組み立てたり壊したりすることに関心のない︑聡明なグールド艶艶が夫に大い
にひきつけられたのもそうした健全な常識の故にであった︒しかし︑チャールズ・グールドのこうした考え方は︑
実際には次のように応用され︑事物の現実への不適切な対応の重大な端緒となってしまうのである︒
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この国に必要なのは︑法としっかりした信仰と安定なんだ︒言うのは易しで︑これは誰でも口にすることだ︒
ぼくは物質的利益にぼくの信をつなぎ︑そうして法や信仰や定安を現実にこの国に根づかせようと思う︒物質的
利益がひとたび堅固な足場を築くと︑それはいや応なしに︑その存続を可能にする唯一の状況︵安定︶をもたら
すようになる︒無法と無秩序のはびこるこの国で︑金儲けが正当化されるのは︑そういう理由からなんだ︒実際
正当化されるのだ︒というのも銀鉱にとって必要不可欠な安定は︑虐げられた人たちによっても享受されるにち
︵16︶
がいないからね︒要するにチャールズ・グールドの場合︑銀鉱経営の目的は︑単純な金儲けにあるのではなくて︑法と秩序の確立
−政治の近代化iにある︒政治の近代化の招来に資する限りにおいて︑物質的利益の追求は意味を持つと︑彼
は言っているのだ︒心理的メカニズムの観点から言えば︑彼の抱く感情や欲望がどんなに簡明なものであれ︑彼は
これに理念の衣を施さないうちは︑行動することも︑存在することでもできないということだろう︒あるがままの
事実は︑訴える力を持たないどころか︑彼の感受性を傷つけさえする︒こうして彼が︑事実の底に理念がみつかっ
狂信の誘惑
タイプではじめて︑行動に移れる性質の人間であることが明らかになる︒
法と秩序と安定に資するものとしてのサン・トメ銀鉱は︑たしかにスラコに繁栄をもたらし︑それによって今度
は国に安定がもたらされ︑野蛮な政治に訣別する条件が整ったかのように見えてくる︒と同時に銀鉱の異常な発展
のおかげで一定の実力を行使しうる立場に置かれたチャールズ・グールドの内部には︑これ以上無知蒙昧で強欲な
権力者の意のままになるのは︑到底承服できないという気持ちが湧き起こってくる︒そこで彼は︑教養もあれぽ人
格も高潔な人物を大統領に据えなけれぽならぬと決意するに至る︒その前段階として︑開明派の政党の結成も実現
する︒やがてコルドバ大学の哲学博士の学位を持つ大統領が誕生し︑大統領は就任後間もなくスラコ町を訪れ︑国
有中央鉄道の起工式に臨み︑イギリス︑アメリカが共同で出資する鉄道建設を﹁進歩的隅愛国的事業﹂とほめたた
える︒が︑それから六ヵ月も経たぬうちに︑ヨーロッパ列強の要求に屈して︑国の名誉と財産を外国人に売り渡し
た大統領の追放という大義名分を掲げた軍事蜂起が陸軍大臣主導のもとに発生する︒政府軍は至る所で敗北を喫し︑
反乱軍の追跡を受けた大統領は︑前回とはうってかわった惨めな姿でスラコに現われる始末︒反乱軍は︑陸海両面
から難路を克服してスラコに侵入する︒しかし二週間後︑スラコはチャールズ・グールドの断固たる拒否の姿勢︑
デクーなる男がフランスから調達した最新式の銃︑モニハムなる医師のいちかぼちかの賭にも等しい行為︑下層階
級に並みはずれた影響力を持つノストロモなる人物の活躍のおかげで︑貧欲な反乱軍を撃退し︑独立を達成する︒
ところで︑サン・トメ銀鉱からあがる莫大な富が陸軍大臣一味の強欲を刺戟し︑彼らのスラコ侵入を誘発したそ
の時は︑同時にチャールズ・グールドの現実適応能力が試される時でもあった︒チャールズ・グールドは︑その試
煉の時に︑適応能力の無さ︑あるいは異常適応をあらわにし︑それによってスラコの抽象化を不可避的にしてしまう
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のだ︒ここで明らかになるのは︑作者の関心は野蛮な前近代的な政治的状況そのものよりもぞうした状況への不適
切な一ということは過敏な1反応の意味するところのものに︑より多く向けられているということである︒
その意味するところのものを︑我々はチャールズ・グールドとは対照的な生き方をする人物モニハム医師を通じ
て把握しなければならぬ︒老醜をさらし︑不自由な足をひきずりつつ︑うつむき加減に歩くモニハム医師は︑学問
はあるが頭の少々おかしい人と︑町の人に評されている︒イギリス生まれのこの医師の特徴は︑人間の偉大さなど
というものに︑いささかの幻想も抱いていないところにある︒偉大の幻想にとりつかれた人間が︑人目の全く届か
ぬ孤独な状況に置かれたとき︑己の卑小さをどんなに意識するものであるか︑またほかならぬそのような意識によ
って人間がどんなにたやすく︑敗北に追い込まれるものであるかを︑医者は自身の体験を通じていやというほど承
知している︒彼は自信に満ちたチャールズ・グールドを評して︑自己自身以外に信ずべきものを持たないとは︑信
ずべきものが何ひとつないと告白するに等しいと語る︒このような人間観故に︑彼は自己の内にではなくて︑自己
の外に献身と忠誠の対象を見いだすに至っている︒コンラッドの小説にしぼしぽ見られるように︑この忠誠は伝統
への忠誠といったふうのものだが︑伝統は抽象的なも︑のではなく︑ちょうどイギリス商船の伝統への忠誠が船とい
う具体的な物への忠誠の形をとるように︑この場合も忠誠と献身の対象は︑スラコの伝統の体現者グールド夫人の
形をとる︒グールド平入の眩く﹁人生が広大で充実したものであるためには︑それは︑過去と未来への配慮を︑過
ぎ去りゆく現在の﹁瞬一瞬のうちに含んでいなければならない︒私たちの日々の仕事は︑死者の栄光のために︑生 ︵17︶まれくる者の幸福のためになされねぽならない﹂ということぽは︑伝統の重要性のみならず︑その継承を可能にす
る家庭という最も確かな径路の価値に︑読者の注意を︑ついでに向けさせずにはおかない︒
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狂信の誘惑
グールド夫人への忠誠と献身そのものを生活の糧としているモニハム医師は︑グールド夫人を災厄から救うため
なら︑死をも辞せずの態度をとっている︒グールド夫人を救うとは︑医師にとってはスラコの伝統を救うというこ
とだ︒現にサン・トメ銀鉱が強奪の危機に瀕し︑スラコの重立った人たちの生命が危険にさらされた時︑彼は銀鉱
を護るための旦ハ体的な行動を起こすが︑その際銀鉱はひとりの小さな婦人︵グールド夫人︶となって医師の眼には
映じているのだ︒医師はグールド夫人を救うためならいちかばちかの賭に出ることも厭わない︒これはある劇的な
もの︑高揚されたもののため賭に出るのではなくて︑ある尋常なもの︵しかしそれ故に価値あるもの︶を保持する
ために賭に出るというアイロニイを示しているはずだ︒
モニハム医師の見方によると︑チャールズ・グールドは長年のやり方1いわぽ身代金を払いつつ銀鉱の存続を
確保するというみばえのしないやり方一を突然離れて︑まるでコスタグアナの政治の近代化に資する銀鉱の経営
は︑神聖な営みであると言わぬぽかりに︑これを政治の腐敗とは無縁の︑崇高な地位にまで押し上げてしまったの
である︒医師に言わぜると︑銀鉱の経営は金儲けの営み以上のものではない︒金儲け以上の役割を銀鉱経営に担わ
せるのは︑おそろしく非現実的︑したがって︑非道徳的なことと思われた︒銀鉱に相対的な価値しか認めぬ医師
は︑これを譲り渡してもいいくらいの気持ちで反乱軍と交渉に入るべきだったと言うのだ︒実際︑反乱軍の捕虜と ばしけなり実情説明役に仕立てあげられた彼は︑反乱軍到着前に︑艀で湾内のある場所︵最終的には大イザベル島︶へひ
そかに移送された大量の銀塊が︑岸辺近くの浅海に埋められているかのように敵に思い込ませて︑決定的に重要な
意味をもつ時間かせぎに成功する︒
モニハム医師と対照的なチャールズ・グールドは︑ほんのわずかの刺戟を受けただけで︑世界の征眼︑または世
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界の絶滅を夢見てしまう理想主義者である︒この理想主義者のかたわらに置くと︑強欲に導かれてスラコに侵入す
る軍人たちは︑理解しやすい︑簡明な︑いやそれ以上に正常な存在と映るほどだ︒スラコの分離独立論から刺戟を
受け︑銀鉱に神聖不可侵の性質を認めるに至ったチャールズ・グールドは︑反乱軍が銀鉱に一指でも触れるのを許
すくらいなら︑むしろ銀鉱山を木端微塵に爆破した方がましだと心に決めてその手はずもととのえてある︒これは
たしかに信念に基づく行動に相違ないと登場人物の一人は思う︒しかし﹁あらゆる信念は︑ひとたび有効になる ︵18︶と︑神が滅ぼそうと心に決めた人間を見舞う︑あの痴呆に変じてしまう﹂というのである︒
チャールド・グールドの冷たい観念的な生に︑知性によってしか把握されえない危険な情熱が忍び込んだと作者
は書く︒知性によってしか把握されえない危険な情熱︵固定観念︶のとりこになったチャールズ・グールドは︑妻
にやさしく接し︑妻を信頼しているような素振りをみせるが︑その時︑情婦への惑溺よりも恐ろしい裏切りの埋め
合わせをしていると書かれるのだ︒妻の幸福と生を固定観念の犠牲に供するこの観念主導型の生は︑センチメンタ
ルと名づけられ︑妻に対するこうした裏切りも同様にセンチメンタルと名づけられる︒
注目すべきは︑スラコの近代化︵抽象化︶は︑固定観念にとりつかれたチャールズ・グールドの放心状態︵朔望
ω#po謡8︶に見合っているということだ︒そしてグールド夫人によれば︑固定観念にとりつかれた人は正気を紛失
しているのであって﹁たとえその固定観念が正義の観念であろうとも︑そのような入は危険である︒というのも︑ ︵29︶そういう人は情容赦もなく︑愛する者の上に天を落下させないだろうか﹂︒スラコの抽象化への過程は︑こうして
グールド夫妻の関係の破綻︑家庭の崩壊のなかに見据えられるのである︒
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コスタグアナ共和国からの分離独立を達成した後のスラコは︑神聖な原理にまで高められた物質的利益の追求に
よって︑いよいよ深く抽象化への過程を辿る︒かっては簡明であった︑それ故理解も対処も比較的容易であった人
間の衝動︑反抗︑暴力は︑今では何か得体の知れない隠微なものに変じさせられている︒伝統からもぎ離されると
いう代価を支払って野蛮な政治に訣別したスラコを︑いま特徴づけるものは︑林立するビル︑社会主義者︑労働争
議︑秘密結社の類である︒家庭︑職業︑民族の刻印をまるで帯びず︑夜どこで寝るのか見当もつかぬような人種の
出現である︒
︵20︶ ﹁これ以上生き続けることへの恐怖﹂に襲われたグールド夫人に向かって馳せられるモニハム医師のことばは︑小説﹃ノストロモ﹄のしめくくりの役割を果たしていよう︒
狂信の誘惑
物質的利益を発展させるところに︑平和や休息は得られません︒物質的利益には︑それなりの法則や正義がた
しかにあります︒けれども物質的利益の追求なるものは︑便宜主義に基づいていて︑非人間的なのです︒そこに
は清廉さも︑持続性も︑力もありません︒持続性や力は道徳的な原理にしか見いだされないのです︒奥さん︑グ
ールド特許権益の表わす一切のものが︑二︑三年前まで続いていた野蛮︑残虐︑悪政にまさるとも劣らず︑重々
しく人々の上にのしかかる時が間もなくやってきます︒⁝⁝実際重々しくのしかかり︑怒りと流血と復讐をよび ︵21︶おこすようになるのです︒と申しますのも人間が変わってしまったからです︒
31
道徳的な原理とは︑与えられた眺め︑あるがままの現実へ忠実に対応しようとする姿勢を通じて得られるところ
のものだ︒ここに伝統の壊れやすさを知った者が変化に対して下す︑ひじょうに控え柔な評価を読みとることがで
きよう︒近代化にしろ何にしろ変化によって何がもたらされるか︑実は誰も予め知ることなどできはしない︒事物
の現実︵あるがままの現実︶への地道な︑根気の要る対応関係を︑理念の力によって無効にすることは︑その知ら
ぬことを︑知っていると思い込ませるに至るのである︒そして変化の結果は︑実にしぼしば誰もが予測していなか
ったところのもの︑誰もが望んでいなかったところのものなのである︒
32
﹃密偵﹄
この小説は某国︵帝政ロシアと推察される︶駐英大使館から給料を貰いつつ︑アナーキストの組織﹁プロレタリ
ァトの未来﹂の副委員長におさまっているスパイ兼煽動家のヴァーロック氏が︑ある朝︑組織を動かしてテロ活動
を起こさなければ︑今後給料は一切いただけないものと覚悟せよと︑大使館の一等書記官に脅されるところがら始
まる︒テロ活動の目的は︑アナーキストや革命家を弾圧しないぽかりか︑合法主義を打ち出して︑世界の革命家や
アナーキストに避難所さえ提供しているイギリス政府に︑徹底した弾圧策を採用させるにある︒その目的達成のた
めには︑イギリス世論の形成者たる中産階級に一大衝撃を与えるような事件を惹き起こさねぽならぬ︑個人の自由
の尊厳とかいうセンチメンタルな御託を並べる﹁愚鈍な﹂イギリスの中産階級に︑革命家に対して寛大な態度をと
るのは︑彼らに死の宣告を下している革命家の共犯者となり果てるのに等しいと悟らせなけれぽならぬというの
だ︒ そこで一等書記官によって︑爆弾投螂の哲学なるものが開陳されるのだが︑これは極端に抽象的なものの﹁威
狂信の誘惑
方﹂を肯定する点で・一等書記官が帝政擁護派であるにせよ︑それなりに政治的ファナティシズムの特徴を表わし
ていると言わねぽならぬ︒破壊活動が真に効果的であるためには︑理解と説明を絶した︑信じ難い狂気の趣を呈し
ていなけれぽならない︑徹頭徹尾理不尽と思わせるに足るショッキングさを蔵していなけれぽならないと︑一等書
記官は語る︒そこで︑グリニッジ天文台が爆破の対象に選ばれるのだが︑たとえぽ数学そのものの破壊をめざすこ
とが︑まぎれもなく狂気と映るだろうように︑天文学に対して恨みを抱くなどということも信じ難い狂気と映るは
ずで︑それだけに効果はかえって大きいというのだ︒
このようなブァナティシズムに対置されるのは︑イギリス的な常識とでも称すべきものである︒トマス.マソの
よう︵解イギリス的自由・及びイギリス文明に対する作者の誇りをそうした対比のうちに感じとることも可能かも
知れない︒明らかに反ロシア的なこの小説は︑ロシア的な行き方に発現しがちな︑一見深遠なものを狂気とし︑一
見愚鈍にみえるイギリス的な行き方︑イギリス的感覚や精神を正気としているのかも知れぬ︒そしてイギリス的な
感覚や精神の中枢に掟や風習への尊重を作者が据えているのは明白だが︑ただここで注意しなければならないのは︑
ファナティシズムはアナーキストや革命家たちの行き方︑それから毒を制するに毒をもってする一等書記官の行き
方のみならず︑本来イギリス的精神や感覚を育むはずの日常性そのものにも潜みうるとする作者の見方である︒
およそ物事には限度というものがあるということだろうか︑これは︒どのように価値あるもの一たと︑兄ぽ日常
陸iも︑反省を欠き限度を越えられると︑常識や平常心を培うどころか︑ファナティシズムの温床にさ︑兄なりか
ねないということだろうか︒
ヴァーロック氏は革命的ファナティクを装ったスパイということになっているが︑その彼が︑日頃交わっている
33
革命家やアナーキストの世界に心地よいものを見いだしているのは︑まぎれもない事実である︒一体︑体制派のた
めに働くスパイが︑アナーキストや革命家の世界に心地よいものを見いだすとは︑どういうことなのか︒これは単
にスパイの役割に徹しようとするヴァーロック氏がアナーキストや革命家になり切ってみせるというだけのことで
はない︒また︑ヴァーロック氏は︑一等書記官のように抽象という名の毒の効力を信ずるファナティクではないと
いうことも︑注目すべき点だ︒ヴァーロック氏は︑家事と店の仕事︵ヴァーロック氏の住居は︑通りに面したひと
間が店になっていて︑ポルノ風の商品や文房具︑古新聞︑本などを売っている︶に専念する美しい妻の築いてくれ
る︑家庭の雰囲気を満喫する徹底した家庭的人間なのである︒すると密偵ヴァーロック氏とアナーキストの間に類
縁関係が成立するとは︑日常性と政治的ファナティシズムとの間に類縁関係が成立するということになるはずであ
る︒そしてこれは︑ファナティシズムと日常性が︑この小説で新たな考察にさらされることを意味しているはずで
ある︒
たしかに﹃密偵﹄において︑狂気と正気︑ファナティシズムと日常性︵あるいは平常心︶の対立が描かれる︒が︑ ﹃密偵﹄の最大のアイロニイは︑日常性に深々と浸っているヴァーロック氏が︑ほかならぬその日常性への耽
溺を通じて︑日常性をブァナティシズムの温床にしてしまうという点に存する︒
無論︑作者は日常性の価値をこの上なくよく承知している︒が︑長年の船乗り生活が教えたように︑まずはじめ
に無限定的に日常性なるものが存在するわけではなかった︒日常性一単調だが濃渕とした常識の支配する世界 ︵23︶−はそれを破壊しようと四方から迫ってくる危険︑ ﹁至福と随うな天国を執拗に求める賢者たち﹂のまきちらす
危険との絶えざる闘いのうちに確保さ航るものであった︒それは︑しばしば事物の現実そのものの相貌を呈する危
34
狂信の誘惑
険︑ユートピアニズムという名の危険の存在を意識した人間が︑事物の現実への適切な対応を編み出す過程で不断
に創り出してゆくものであった︒
尊敬と信頼のまなざしを向ける妻と義母︑尊敬と忠誠心を捧げる知恵遅れの義弟に囲まれ︑親族扶養の義務をり ︵24︶っぱに果たしているヴァーロック氏は︑作者の表現を借りると﹁徹底的に家庭に慣らされていた﹂︒外で危険な仕
事︵﹁政治に関係のある仕事﹂としか妻には教えないし︑妻もそれ以上は知ろうとはしない︶に従事しているはず
の彼は︑家に在っては︑まるで外の危険な世界が彼の家庭に侵入するのは到底不可能と言わぬぽかりに︑この上な
い安全感に包まれた生活を送っている︒恐らく過度な危機意識をもって生きるよりは︑安全感に浸り切って生きる
方が︑まだしも健全なのかも知れない︒ただここで︑本来ファナティシズムから最もかけ離れているはずの日常性
も︑盲目的な信頼の対象になると︑ファナティシズムと一種の親和力で結ばれるとする作者の見方がどうしょうも
なく読者の意識にのぼってくるのである︒
何の限定も受けず︑放縦に堕したヴァーロック氏の日常性は︑怠惰と選ぶ所なきものに変じてしまっている︒ヴ
ァーロック氏が危険の意識から最も遠ざかったこの時は︑同時に事物の現実から最も遠ざかった時でもあって︑こ
の事物の現実から遠ざかるという一点でファナテイカルな趣を呈するヴァーロック氏の怠惰と政治的ファナティシ
ズムとの問に類縁関係が生じるのである︒ということは︑怠惰とファナティシズム︵政治的なものであれ︑非政治
的なものであれ︶との間には切っても切れない関係があるということだ︒するとファナティク︵狂信家︶は政治
的︑非政治的を問わず怠惰な人間ということになるはずで︑事実それはこの小説の示すところでもある︒
怠惰は思考の怠惰という形で︑最も典型的にあらわれると作者は示唆する︒これは︑なんであれ極端にまで推し
35
進められたものは︑思考の怠惰の温床となるのに反して︑危険の意識に裏づけられた一すなわち事物の現実に適
切に対応しようとする意識に裏づけられたi日常性は︑生き生きした思考を産む母体であると主張するに等し
い︒たとえば社会の規範一洗や風習1から離脱し︑自立せる思想の持主と自負する﹁教授﹂なる革命家の思想
を解明する際に︑作者のこのような見方が窺えないだろうか︒
生来︑才能もあれば野心もある﹁教授﹂は︑文化や社会の成立条件について驚くほど無知なために︑ただ業績の
重みだけで押してゆけぽ︑力も威信も得られるはずだと信ずるに至っていたと︑作者はまず書くのである︒ところ
が現実の社会においては︑礼節︑優雅さ︑﹁こつ﹂︑あるいは富などの中間項︑大抵の場合︑人をおびやかすそう
いう中間項を無視して︑出世の階梯をのぼろうとしても︑それはおぼつかない︒風習や掟に従う忍耐を抜きにして
は︑出世などそもそも望めぬものだ︒︵この忍耐を除外しては︑公正・不公正の正確な定義や概念さえ得られない︒
ある人が不当に遇されていると訴えても︑もともとその人に忍耐が具わっていなければ︑その不当の実態は曖昧模
糊たるものとなるからだ︶︒ほとんど諦念に近い忍耐という美徳を欠いたまま︑ただ業績だけでのしあがろうとし
た﹁教授﹂はやがて︑当然のことながら壁にぶつかってしまう︒狂熱的な野心のピューリタニズムとでも称すべき
もののとりこになった﹁教授﹂は︑そこでこの野心実現のために︑つまり威信と力の獲得のために︑爆薬や爆発装
置の研究と製造に精を出し︑己を危険極まりない人間と自他に認めさせることで︑自己の世界の絶対化を図る︒社
会の掟や風習などは︑人工的な︑腐敗した︑破廉恥なものと悟ることが︑彼の場合開眼であったから︑彼が﹁狂気
てこ ︵25︶
と絶望を我に与えよ︑しからぼそれを春子に世界を動かしてみせよう﹂と考えるのは極めて自然な勢いなのである︒﹁最も正当化できる革命でさえ︑それに至る道は︑信念を装った個人的な衝動︵怨恨︶によって準備されるの
36
狂信の誘惑
︵26︶だ﹂とは作者の加えるコメントである︒
ところで︑破壊活動を神聖な義務と心得ている﹁教授﹂のファナティシズムを脅し︑彼を常識の世界に連れ戻す
きっかけとなる瞬間がないわけではない︒それはロソドソの街を往き来するおびただしい群集︑恐怖にも論理にも
不感症のような︑浜の砂のように無数の︑自然の力そのもののような群集を目のあたりにする時である︒そうした
折︑彼は自信の無さ︑不安感に捉えられるが︑これは彼が正常な思考︵常識︶を取り戻すきっかけになりえたはず
である︒というのもこの瞬間彼は︑群集に己の威信と力を認めさせるには︑途方もなく多大な忍耐が要るという事
実を︑無意識のうちに悟っているからだ︒が︑次の瞬間彼は︑この不安感を圧服し︑傲然たる孤独のうちに︑自己
絶対化を図ってしまう︒つまり彼は︑我々が短絡と呼ぶあの怠惰な思考の型に居直ってしまうのだ︒
作者はまた︑思考の怠惰の見本として︑科学の勉強をしているうちに︑愚劣なほど﹁科学的な﹂ものの見方に自
足してしまった︑女たらしの元医学生を登場させるかと思うと︑他人の批判やらコメントやらに一切煩わされない
という条件つきでならば︑思想を発展させることのできる仮出獄中の男も登場させる︒
そして怠惰は︑思考の怠惰にとどまらず︑生活上の怠惰にも及ぶと指摘されるのは︑無論のことだ︒ファナティ
クは現存の社会のもたらす利点やら機会やらに反対しているわけではない︒ただそれらのものを手に入れるため
に︑自己抑制︑労苦︑規範の遵守といった形で代価を支払わねぽならないことに︑異議を唱えているに過ぎない
と︑語られるのだ︒社会で一定の地位を得るために支払わなけれぽならない代価は︑彼らの眼には︑醜怪なくらい
法外︑言語道断︑搾取的︑屈辱的と映るというのだ︒それ故︑現状を告発し︑ユートピアについて語る革命家たち
が︑この小説では女のヒモになって生活しているように描かれるのも無理はないわけだ︒
37
革命家やアナーキストと交わり︑彼らの世界に居心地のよさを感じているヴァーロック氏の怠惰︑その怠惰と一
体不可分のファナティシズムは︑妻との間に完壁なほど意志の疎通を欠くという形であらわれる︒実際︑家庭生活
の成立は夫婦が意志の疎通を欠くのを前提とすると思わせるほどに︑二人の間には大きなコ︑ミュニヶーショソの断
絶がある︒ただこの途轍もないコミュニケーションの断絶の責めの半分は︑考える手間を省くことに余念のないヴ
ァーロック夫人にも帰せられねぽならない︒﹁事物は深い考察に堪え得ない﹂︵島ぎαqωαo昌9ω冨旨qヨ挙げδo犀冒oq
︵27︶貯ざ︶という信念の持主である彼女は︑たとえば夫の職業について﹁政治に関係のある仕事﹂と聞いただけで︑も
うそれ以上詳しく知ろうとはしないし︑グリニッジ天文台爆破に失敗した後の夫の感情の異常な高ぶり︑そのただ
ならぬ様子を︑風邪のせいにしてしまう始末である︒事物を決して深い考察にさらさないこと−己の活動と思考
の対象を家事と店の仕事と最愛の弟の世話に局限すること一で︑力と安定をひきだしている彼女もまた︑限度を
越えられ反省を欠いた日常性のなかに棲息しているのだ︒
夫に尊敬と忠誠を捧げている弟を︑その弟の従順な性質につけこむように夫がテロ行為の実行者として使い︑爆
死させたという事実が︑いや応なしに彼女の理解に達した時︑盲目的な信頼の対象になっていた彼女の日常性は︑
いわぽその底に澱んでいたファナティシズムを一挙に顕在化させ彼女と事物の現実との間の乖離を絶対的にしてし
まう︒放心状態に陥った彼女は︑ ﹁この男は弟を連れ出して殺害した﹂という簡便な固定観念にしがみつき︑そう
することによって︑夫との間のコミュニケーションの断絶をも絶対的にしてしまう︒
︼方ヴァーロック氏の方は︑妻の眼を通じて義弟の価値を測ることなどは︑到底できず︑どっちみち義弟は白痴
だったのだから︑その死にも大した意味はないと高を括り︑義弟のコートの襟に住所の書き込まれた布切れを︑知
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狂信の誘惑
らぬ間に縫いつけた妻を責めたい気持ちを抑えている自分は︑寛大な夫と自画自讃し︑妻に依然愛されていると信
じて自足しきっている︒
ヴァーロック夫妻の間にコミュニケーションが成立するのは︑妻の右手に握られた肉切りナイフが︑妻を愛撫し
ようとソファで待ち受けている夫の胸に突き立てられたその時であるというのは大きな皮肉であろう︒ ﹁洞窟の時
代の簡明姦忍さ・バーの時代の平衡を失した墨筆を込めた牽と書く時作者は︑思考す・・との面倒さを省
いてくれるブァナティシズムに拠る人間は︑政治的人間であれ︑徹底した家庭人であれ︑同一の表現法をとるとい
うことを︑示そうとしたのかも知れない︒
ところで事件や人物を︑つき離してアイロニカルに眺める眼を作者に提供しているのは︑ファナティシズムの対
照物たるイギリス的常識であるが︑この常識を大上段にふりかぶって出さずに︑いささか愚鈍なロンドン警視庁特
殊犯罪捜査部の主任警部に代表させ︑こうしてファナティクと常識人との間にユーモラスな対照を生じさせている
のは︑よい︒ファナティクの理不尽さ︑得体の知れなさに比べると窃盗犯の心理の正常さは歴然としていると︑主
任警部が考える箇所がある︒窃盗犯相手の仕事をしていた頃が懐しく思い出され︑窃盗の類の犯罪に愛情に近い気
持ちが湧き起こってくる︒それというのも︑まさしく窃盗という行為は勤勉の一形体にほかならないと思われるか
らである︒窃盗が炭鉱の仕事や農業︑木工の仕事と異なる所は︑その危険の性質だけである︒のみならず︑道徳に
叢る行為に従事するとはいえ︑窃盗は道徳や掟の存在を前提としなければ︑そもそも始まらない仕事なのだ︒した
がって潜在的には掟に厳格に服しているとも言えるわけで︑警察官が有益︑窃盗犯は有害と区別されるにせよ︑同 ︵29︶一の規範を認め︑それなり真剣に生きている限り︑窃盗犯は正常な人間ということになる一︒
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ファナティクの引き立て役は︑警部にとどまらず︑感受性に恵まれながら知恵の点では遅れたスティヴィなる少
年︵ヴァーロック夫人の弟︶も︑この役目を果たす︒たとえぽ酷使される馬を見て︑激しい憐欄の情にかられる場
合のように︑この少年がこの世の不正や悪に過敏な反応を示すとしても︑もっぱら感情や感覚によって宰領されて
いる少年の生は︑ファナティクのそれとは︑明らかに異質のものと感じられてくる︒少年の突発的な激情は︑観
念︑わけても固定観念に比べると︑まだしも限界を付せられたものといわなければならない︒たしかに感情は︑観
念ほどに常軌を逸することはないのだ︒しかし︑スティヴィのように激しく感ずる入間は︑観念を操る者の犠牲と
なるほかはない︑ということをも作者は示そうとしたのだろうか︒
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﹃西洋の眼の下で﹄
﹃西洋の眼の下で﹄は︑一言で言えば︑政治的動乱の時代にファナティシズムにどうしても救いを見いだすこと
のできない一人の人間の︑思想と行動の記録ということになろうか︒
イギリス人のように寡黙であるが故に︑信頼するに足りる男という評判を学友の間でかちえ︑また大学当局か
らは︑非常に有望な学生と目されている聖ペテルスブルク大学区学科の学生ラズ;モフが主入墨である︒ラズーモ
フは感情を激しくゆさぶるような緊張状態が周囲に滋っていることに気づきつつも︑主要な関心を︑勉学と将来の
仕事にしか向けることのできない学生である︒ ﹁ラズーモフは精神的︑政治的動乱の時代にあって︑本能的に正常 ︵30︶で実際的な日常の生にしがみつくことのできる人間のひとりであった﹂︒家族というものを持たぬラズーモフの意
見や感情は︑家庭の影響によって形成されたものではない︒内紛に疹くロシアそのものが︑彼の家庭︑彼の意見・
狂信の誘惑
感情の形成者なのだと語られる︒が︑気立てのやさしい人が家庭内の争いで︑どちらか一方の肩を持つのを厭うよ
うに︑彼も国内の争いに巻き込まれまいとする姿勢をとっていた︒
小説の発端で︑彼は学年末試験の準備もすべて終えたので︑今度は文部省主催の懸賞論文に応募すべく︑論文の
作成にとりかかろうと心に決めながら︑下宿への道を急いでいる︒入選論文の書き手に︑卒業後りっぱな官職を約
束する今の体制がいつまで続くかは︑彼の問うところではない︒彼はどんなに激変に満ちた状況に置かれていて
も︑すぐれた先人や同時代人を手本にして生きる古典主義者のように︑成熟の可能性を信ずることのできる人間の
ひとりなのだ︒﹁人間の真の生は︑尊敬または自然な愛着に導かれるまま︑他者のことを考えるうちに授けられる
︵31︶
のである﹂︒
この種の人間は︑日常性にかけがえのない価値を見いだす︒ラズーモフの偉大と悲惨は︑日常の生活を営むこと
が最も困難な時代に︑日常の生活を営もうとした点に存する︒現にあるがままのこの地上の生を︑反復のきかない
一回限りのものとして︑大事に生きようとした点に存する︒これに反して︑ラズーモフの周囲に群れている狂信家
たちの偉大と悲惨は︑高揚された革命精神の不滅を信ずるあまり︑平常心を投棄し︑日々︑時々刻々一回限りのも
のとして現われては消えていく生を︑蔑視しえた点に存する︒
つまるところ︑この反復のきかない一回限りの日常の生にどう対応するかという問題が︑この作品には終始つきま
とっている︒そして︑その対応の仕方如何が︑正気︑狂気を決定するということも同様に小説の扱うところである︒
一方には︑専制政体の原理を受け容れているが故に︑自由への希望それ自体を破壊し︑公共の制度から自由の臭 ︵鵠︶いのする一切を根絶しようと︑決意している人々がいる︒他方には﹁現代文明は不正の上に築か九ている﹂という
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前提から出餐﹁歪がこの世から一掃されないうち.解﹁進歩の精神・真実の破壊養たる政府の民会暗殺
するのは︑破壊行為ではないと弁明するテロリストたちがいる︒そのどちらの行き方にも同ずることのできないラ
ズーモフは︑悪名高き高官が暗殺されたという噂を︑大学で小耳にはさんでも︑別段気にもとめない︒
が︑論文の入選を確信し︑元旦の新聞紙上に載る自分の名前が︑尊敬と愛着を寄せている人の目に触れるだろう
ことを想像しつつ下宿に帰り着いてみると︑高官の暗殺犯人ハルディンが彼を待ち受けている一これが事件の発
端である︒
特に親密な関係を結んでいたわけでもないこの学友の突然の来訪は︑予期せぬ出来事の形をとっている︒コンラ
ッドの特徴は︑日常性に浸り切って安全そのものの生を送っている人間が予期せぬ事件にぶつかって︑どういう行
為をとるかを克明に描くところにある︒予期せぬ出来事に見舞おれるとは︑この場合ファナティシズムに対面する
ことであって︑日常性とファナティシズムの関係こそ︑作者の最も興味を惹かれた点だろう︒
日常性とファナティシズムとの切っても切れない連関1ーファナティシズムに日常性が一方的に脅されるという
側面があるだけではない︒日常性の方でファナティシズムを呼び寄せるという側面もあるのだ︑この小説において ︵35︶は︒﹁起こるのはつねに予期せぬ事件なのだ﹂︵騨冨巴≦亀ω葺⑦巷①×喝①08山中置げ巷℃Φ冨・︶とは︑ コンラッド
が﹃ロード・ジム﹄︵卜︒ミ笥ミ嘘一九〇〇年︶で書きつけることばだが︑予期せぬ事件は自分には起こらないとい
う前提に立って︑ラズーモブが外界を締め出し︑彼の日常の世界を完壁の域に近づければ近づけるほど︑荒れ狂う
外界から侵入する事件は︑それだけ大ぎな衝撃を伴って現出し︑予期せぬ事件︑狂信の産物の刻印をいや言なしに
帯びるようになるのだろうか︒そういうふうに論じられないこともないが︑この小説の記述に即して言えば︑まず︑
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狂信の誘惑
ラズーモフのイギリス人のような寡黙︑その寡黙に象徴されるしっかりした性格が︑政治的動物たるハンディソの嗅
覚を刺戟するという面があるのだ︒暗殺の犯人は自分だと告げる時︑ハルディンは学友たちの噂にまでのぼってい
るラズーモフの性格上の堅固さ︑勇気︑寛大さを買いかぶっている︒左右の狂信と一切無縁に︑刻苦勉励の生活を あだひたすら送っているラズーモフの根本的な在り方は︑ハルディンの目に入らず︑ただそうした生活の上に咲いた徒
花のような評判だけが︑大写しになって彼の目にとびこんでくる︒一体政治的ファナティクにとって︑日常性の意
味は限りなく小さいものなのだ︒最も個人的な希望でさえ︑政治によって彩色されざるをえない︒ハルディンにと
っては魂の救済も高官暗殺に象徴されるような政治的行為を通じてしか達せられえない︒そういうハルディンがラ
ズーモフの堅実さ︑寛大さ︑勇気を強固な政治的信念の自然なあらわれと受けとったとしても︑少しも不思議では
ないのだ︒
ところで日常性の殻を打ち破られたラズーモフの方は︑テロリストから逃亡の手助けを頼まれる時︑我が身にふ
りかかる陰惨な結末を︑生々しく想い浮かべる︒これまで人前で不注意にもらしたことぼやそれ自体何の意味も持
たぬ些細な事実も︑ひとたび当局の知るところとなると︑このかかり合いに照らして︑犯罪の性質をどうしても帯
びさせられるだろうと思う︒
しかし興味深いことに︑ハルディンの図入はラズーモフに政治的恐怖の念を植えつけるにとどまらない︒突如ラ
ズーモフの眼には︑ツァーの体制が合理性と永続性と調和の力を兼ね備えた︑擁護に値する体制と映じてくるのだ︒
物事の道理と人性を徹頭徹尾解さない観念論者たちは恐るべき幼稚さをもって徳としているという洞察が︑次の瞬
間に生まれる︒この幼稚さは︑人の世を生きるに値するものにしてくれる一切を滅ぼし︑この地上の生を地獄に変
43
える隠微な疫病にほかならぬ︒この世に天国を招来しようとして奮闘すれぽ︑地獄を実現するのが落ちではない
か︒天国をこの地上に築くことはできぬ︑できるのはロシアを成熟させることだけなのだ︒そしてロシアの成熟 ︵36︶は︑深々と雪におおわれたロシアの大地その.もの︑その広大な土地に滋る﹁聖なる無気力﹂を通じてこそ達成され ︵37︶るのであって︑ ﹁狂熱に駆られた軽薄な行動や定めなき衝動﹂に身を任せることによってではない︒そういう考え ふちに胸を打たれる時︑ラズーモフは回心の縁に立たされていると語られるのだ︒
何故に与えられた眺めに応和しようとしないのか︒何故に火山の爆発を敢えて期待するのか︒ ﹁火山の爆発なる
︵錫︶
ものは︑肥沃な土地の破壊﹂しか意味さぬではないか︒専制政治をも含めて︑ロシアの土地の偉大な歴史的事実を︑何故に認めようとしないのか︒おそらく観念論者は︑自己自身に対するひそかな不信の念から︑不毛極まりな
い革命に希望を託するのだろうと︑ラズーモフは考える︒
愛と信頼の対象としては︑ロシアの大地しか持たぬラズ⁝モフにとって﹁ロシア国民が風の吹くままに漂うほこ
りのように︑ばらばらな状態に陥るよりはむしろ︑何干人もの人々が苦しい目に会った方がましなのだ︒反啓蒙主 ︵39︶義の方が煽動を事とする松明の光よりもましなのだ﹂︒そしてラズーモフは︑この広大な国︑膨大な数の人口に方
向を与えるには︑単一の意志が必要であるとの理由から︑専制君主の絶対的権力を肯定するに至る︒専制君主の到
来は︑歴史の必然であるとさえ考える︒ ﹁ロシアの仮借なき真実を採り︑自由主義などという魅惑的な過誤は斥け ︵40︶よう︒それが愛国心というものだ﹂︒
44
ハルディソの依頼で︑ラズーモフは︑国外脱出の馬車の用意をすることになっていた馬車屋に連絡をとりに行き
狂信の誘惑
はしたものの︑泥酔の上︑深い眠りに落ちたチミアニッチなるその馬車屋をたたき起こすことに失敗する︒が︑そ
の帰り途︑眼前の雪の上に︑ちょうど下宿の部屋に残してきたときと寸分違わぬ姿で︑ハルディンが仰向けに寝て
いるのを視る︒そしてその幻の像を思い切り踏みつけるという経験がいわぽ脱ぎ金になって︑ラズーモフはハルデ
ィソを官憲に引き渡そうと決意する︒
ところで︑この決意の後︑繁華街を往き来する優雅な閑人たちを︑峻厳な思索家が軽薄な群衆を眺めるような目
つきで眺めるラズーモフは︑一種の狂信に陥っているといえるだろう︒ハルディンの閣入によって日常性という支
え︑刻苦勉励の生活という支えをとりはらわれた今︑残されているのは孤独だけだという意識にラズーモフは領さ
れている︒真の動機は﹁裸の恐怖﹂なのだという意味の表現は︑日常性を壊され︑真の孤独に対面させられ︑恐怖
を味わった結果︑ラズーモフが︑ファナティシズムに必死にすがりつくことを意味する︒ ﹁どのような人も狂気に ︵41︶陥ることなしに︑精神の孤独を凝視することはできない﹂このことぽは︑正気はあの﹁表面的な真実﹂の支配する
日常性のなかにしか見いだされないということ︑日常性を奪われ︑恐るべき孤独の凝視を強いられた人間が︑狂気
を逃れようとして︑毒を制するに毒をもってするように︑ファナティシズムにしがみつくことを示すだろう︒
革命家やテロリストとは別種のファナティシズムに拠り︑ユートピア主義者のみならず︑街路を往き来する群集
にも軽蔑のまなざしを向けるラズーモブは自らを深い信念︑真摯な精神の持主とみなす︒無論︑この場合︑彼に深
い思想のようなものがあるわけではない︒彼が鎖製する未来の専制君主にしても︑自らが陥ったファナティシズム
を正当化するためにもちだされたものに過ぎないからだ︒自由の名において犯罪を重ねる人たち︑自由の狂信的愛
好者たち︑狂信的自由論者たちと︑ラズーモフに呼ばれる人たちとうズーモフは︑狂信に陥っている点では異なる
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ところはない︒ただラズ!モフは︑右であれ左であれ︑ファナティシズムの導く先は袋小路でしかないことを︑無
意識のうちに悟っている点で他のファナティクと決定的に異なる︒そして事物の現実への対応を失した︑度はずれ
な考えを抱きうる人間の精神は︑自己度量の住処となるほかはないということも︑後に彼の知るところとなるので
ある︒
我々が正気を保てるか保てないかは︑偉大な観念をどれほど信ずることができるかにではなくて︑むしろ日常生活の些事をどれほどまともに信ずることができるかに︑かかっているのではあるまいか︒日常の仕事︑習慣︑規範
といった外在的なもの︵外在的であるが故に公的なもの︶の価値を信じ︑それに依拠でぎるというところにこそ︑
正気の証があるのではないか︒ ﹁世界を活気づかせるような思想︑人間の品位を完壁の域にまで高めようと欲する
︵42︶ ︵43︶魂﹂そういったものは︑ ﹁厚かましい狂気﹂が時を得顔にまとう衣裳に過ぎないのではないか︒
革命前夜のロシアの不幸は︑日常性の欠落︑偉大な観念の圧倒的充満にあったと作者は考えているようだ︒日常 いとコ性の欠落によって︑思想は︑右であれ左であれ︑成熟する暇を奪われ︑いぎなり結晶を迫られるということが起こ
る︒こうして左右の思想に共通に流れるのは︑シニシズム以外の何物でもないということになる︒重ねて言えば眠
れる本能︑半ば無意識の思想︑ほとんど無意識のうちに育まれる大志一こうした一切がファナティクのかかげる
狂暴で独断的な正義や真理によって︑無理矢理結品させられるということ︑これが価値を腐蝕させるシニシズム︵犬
儒主義︶の発生の基盤である︒このシニシズムに染め上げられると︑徳でさえも燗れて犯罪の趣を呈してくるのだ︒ ・46
注意深い読者にとってハルディンに向けられたラズーモフの激しい怒りや憎悪が︑成熟の機会の剥奪という事実
に根差しているのは︑瞭然としている︒彼の怒りや憎悪は︑くどくなるのを恐れすに言えば︑彼が.兀来専制政体の