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―《北宋志伝》と《楊家府伝》の二系統とその対比―

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明刊本《楊家将演義》小説の基本問題

―《北宋志伝》と《楊家府伝》の二系統とその対比―

关于明刊本《杨家将演义》的基本问题

―《北宋志传》和《杨家府传》的两个系统和对比―

HIRAHARA Maki 平原 真紀

 本稿以从明代流传至今的历史演义小说《杨家将演义》为研究对象。

 《杨家将演义》可分为福建建阳书坊主熊大木编著的《北宋杨家将传》(即《北宋志传》)

和南京下层文人纪振伦所校阅的《杨家府世代忠勇演义志传》(即《杨家府传》)这两个系统。

这两个系统小说目前都仍保存有明代万历年间的板本。

 这两部文本资料的详略各异,故事情节,登场人物,都不尽相同。对此学问界仍留有各 种各样的疑问和课题。原因之一可归结为这两个系统《杨家将演义》小说内容之间有着不 可忽视的密切关联。

 本着解决此类疑问的态度,笔者先通过详细的对比、严密的分析,继而有效地利用这些 结果来考察,并试图解说此类问题,力争提供一部条理清晰的《杨家将演义》的资料。

摘要(中文)

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  はじめに

  十七世紀末、わが国大衆文化の象徴ともいえる元禄文化を代表する文学作品のひとつといえば、﹃仮名手本忠臣蔵﹄を挙げることができる。この作品は元来、いわゆる通俗小説としてではなく、大衆芸能のひとつである操人形浄瑠璃の脚本として記されたものである。その後、近世より現在に至るまで、歌舞伎等を中心とした様々な大衆芸能の分野において、常に絶大な支持を受ける人気演目であり、この作品自体も時代の流れの中で大きく変容・発展を遂げてきた。また近代以降、多くの文学者の筆を通じ﹁読み物﹂としての小説形態をとり、一般大衆に受容されながらも、﹁忠臣蔵﹂が我が国において圧倒的な認知度を誇り続けるのは、依然として演劇・映画・テレビドラマなどの視聴覚芸能の分野に負うところが大である。現代に至っても﹁忠臣蔵﹂は、多種多様な表現形態を取り込み続け、更なる変化と発展を遂げ続けて いる。このように非常に長い時代を経てもなお、わたしたち日本人を魅了し続ける作品は他に類を見ない。  では、中国において、この﹃仮名手本忠臣蔵﹄同様、中国の大衆芸能が生み出し、一般大衆に絶大な人気と認知度を誇る作品はと問われれば、筆者は本稿で取り上げるこの︿楊家将演義﹀という作品を即座に挙げる。︿楊家将演義﹀の主要登場人物の一人である武将・楊業︵楊繼業・楊令公とも称されることがある︶は、五代末期に実在した人物である。数多くの史書にその名を残す悲劇の名将・楊業︵楊繼業︶とその一族が辿った非業の事跡は、当時より多くの民衆の共感を呼び起こした。その後、楊一族にまつわる様々な伝説は、︿楊家将﹀説話として宋・元代の講談や演劇などの大衆芸能の中で陸続と取り込まれ多様な発展を遂げた。  現在の中国においても︿楊家将﹀は、﹃三国志﹄﹃水滸伝﹄に比肩するほどの人気を博しているが、その絶大な認知度の大部分はやはり﹁忠臣蔵﹂同様、書物によるものではなく多彩な大衆芸能によるところが大きい。明代以降︿楊家将﹀説話が民間文芸として最も精彩を放ったのは演劇の世界であったが、上記の傾向が最も顕著なのも同じく戯曲においてである。清代以降、中国伝統劇の最右翼として発展を遂げた京劇において、︿楊家将﹀演目は歌舞伎演目としての﹁忠臣蔵﹂さながらに、現在もなお最大の人気演目のひとつとして君臨し続けている。他にも豫劇・楚劇・越劇等、中国各地の地方劇でも欠かすことのできない人気演目として様々な︿楊家将﹀関連演目が上演を重ねている。  本稿にて取り上げる明代刊行の︽楊家将演義︾小説は、これら大衆芸能や特定の地方にだけ流布する︿楊家将﹀故事や伝説などが、﹁読み物﹂としての筋立てや体裁を整えながら、様々な取捨選択を繰り返した後に﹁小説﹂として結実したものである。  本稿では、この明代に刊行された二系統の︽楊家将演義︾小説のプロット構成やその内容について、二系統それぞれの板本の内容を丁寧に精読した上で、そのプロットの内容や登場人物についての差異を整理して、対比・考察を試みたい。 目  次

一  はじめに二  明刊本︽楊家将演義︾小説の系統とプロット対比

  二│一

  ︽北宋志伝︾と︽楊家府伝︾の概要

  二│二

  ︽北宋志伝︾プロット別あらすじ

  二│三

  ︽楊家府伝︾プロット別あらすじ

三  二系統の︽楊家将演義︾小説内容の対比

  三│一  主要登場人物の楊一族についての対比

  三│二  楊家を巡る登場人物についての対比

  三│三

  ﹁西夏遠征﹂

と﹁十二寡婦征西﹂のプロット内容についての対比四  おわりに

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  明刊本《楊家将演義》小説の系統とプロット対比

  二―一

  《北宋志伝》と《楊家府伝》の概要

  現存する明代刊行の︿楊家将﹀小説には、前述の通り、大別して二系統の異なった系統の板本があることが知られている。

  第一は、作者不詳、一般に熊大木編次として通用する明刊本﹃南北両宋志伝﹄全百回中の後半﹁北宋伝﹂五十回であり、三種類の板本の現存が確認されている︵以下︽北宋志伝︾と称す。︶。同系統に属するとされる板本には、他に﹃宋伝続集﹄﹃北宋金槍全伝﹄等と題された多数の板本が存在する

  他方は、同じく作者不詳、明の紀振倫校閲と題される五十八回本、原題﹃楊家府世代忠勇演義志伝﹄︵別名﹃楊家通俗演義﹄﹃楊家府演義﹄。以下、︽楊家府伝︾と称す。︶であり、この系統に属する板本には他に清代に刊行された数種の存在が確認出来る

  明代刊行の二系統の︽楊家将演義︾小説の中、現存する板本がより古いものは、︽北宋志伝︾の系統に属する﹃新刻全像按鑑演義南北宋傳﹄の方である。現存最古の板本は、万暦二十一年︵1592 年︶刊の建陽余氏三台館本と金陵唐氏世徳堂本であり、北京と日本の内閣文庫にその所蔵が確認できる。また、これよりやや遅れて蘇州で刊行された葉昆池刊玉茗堂本﹃南北宋伝﹄︵原題﹃玉茗堂批点按鑑参捕北宋楊家将傳﹄︶も内閣文庫にその所蔵が確認できる。

  孫楷第著﹃中国通俗小説書目﹄などによると、︽北宋志伝︾の系統には他に、﹃宋伝続集﹄、﹃北宋志伝﹄、﹃北宋金槍全伝﹄、﹃楊家将伝﹄、﹃楊家将演義﹄などと称する板本も存在する。また、厳密には同一系統の板本ではないが、﹃万花楼演義﹄と称する、︽北宋志伝︾の中盤以降に登場する主要登場人物たちが異なる設定で物語を展開させる外伝的派生作品も存在している。まずは、これら二系統の明刊本︽楊家将演義︾小説の概要についてそれぞれ整理したい。

  そもそも本稿において︽北宋志伝︾と称する作品は、﹃新刻全像按鑑演義南北宋傳﹄全百回本のうち、﹁南宋伝﹂五十回に続く﹁北宋伝﹂、 すなわち後半五十回の部分のことであり、五代時代の末より宋にかけての時代を背景とした作品である。  ただし、その﹁南宋伝﹂﹁北宋伝﹂という命名の由来については不明な点が多い。﹁南宋伝﹂が前半部分であることからも知れるように、ここでいう﹁南宋﹂﹁北宋﹂は一般的な王朝の歴史区分とは異なっている。一説によれば、宋の太祖趙匡胤が嘗て﹁南宋王﹂と称されたことに命名の由来があるともいうが、その詳細については現在も不明である。﹁南宋伝﹂は、五代晋朝の祖である石敬塘の事跡に始まり、宋の太祖である趙匡胤が南唐を平定するところまでが描かれている。  この︽北宋志伝︾と、二系統の明刊本︽楊家将演義︾小説のもう一方、︽楊家府伝︾とが、その内容的に重なるのは﹁南宋伝﹂第三十三回から三十五回の部分である。︽北宋志伝︾では物語の主軸を担う登場人物となる、漢の王室に連なる血筋を持ち、﹁楊無敵﹂と称された楊業︵楊繼業、楊令公︶という人物と一族についての物語が、その家族構成などと共に記載されている。また、五台山で修行に励む高僧が、楊業に対して今後の一族それぞれの運命を暗示する予言を与える場面や、楊五郎に対して窮地に陥った際に開くようにと小箱を手渡す場面、︽楊家府伝︾の系統本には登場しない養子の八男を迎え入れるまでの経緯や、物語の後半、﹁破天門陣故事﹂の部分で、︽楊家府伝︾では唐突に登場する楊家の親類、王貴や金刀馬などの武将達と楊家の関係についてなども、こちらには詳細に描かれている。  一方、︽楊家府伝︾系の板本で現存最古のものは、前述の︽北宋志伝︾三台館本および世徳堂本刊行から遅れること十三年、明の万暦三十四年︵1606年︶臥松閣刊行の紀振倫氏による校閲、と題される全八巻五十八則本である。北京図書館及び北京大学図書館所蔵、他に台湾中央図書館、米国国会図書館においても同種の板本の所蔵が確認できる。また、﹁鐫出像楊家府世代忠勇演義志傳八卷﹂が国立国会図書館に所蔵されている。  前出﹃中国通俗小説書目﹄によると、原題は﹃新編楊家府忠勇演義志傳﹄で、別名として﹁楊家通俗演義﹂、﹁楊家府演義﹂等の名称が記

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されている。書目には、この関連作品として﹃天門陣演義十二寡婦征西﹄十九回本を取り上げており、概要については﹁析楊家府後半為之﹂︵楊家府の後半部分を分けてこれを為した︶との記載があるが、実際には︽北宋志伝︾の後半部分を描いた内容のものである。この︽楊家府伝︾という作品は、その名が表す通り楊業︵楊繼業︶に端を発する楊一族にまつわる諸説話がその主要な内容である。

  現代の中国において、その筋立てや内容に大きな変化と多様な発展を伴いながらも、依然として絶大な人気と知名度を誇る︿楊家将演義﹀であるが、この二系統の︽楊家将演義︾小説は、前述の通り本国である中国においても、これまであまり厳密に比較・区別されることがないまま現在に至っている。一般的には、同名の長編白話小説に複数のテキストが存在する時、板本によってプロットの構成や配置、人物の設定などに不統一が生じるのはどの作品にも見られる一般的な現象である。またその場合でも、それぞれの物語や説話の大筋は共通であり、その違いは部分的なものに過ぎない為、幾つかの異本を総称して一つの作品とすることにそれほど不都合はないと言える。

  しかし、本稿にて取り扱う二系統の︿楊家将﹀小説の板本に関しては、その様相は大きく異なっている。この二系統の作品はそれぞれ全く別のストーリーを有しており、物語の骨格を形成する重要なプロットにさえ共通しないものが多い。人物設定についてもまた然りで、物語冒頭で既に、主要登場人物が全く異なっている。その相異は、物語の中盤以降では更に明白なものとなってくる。

要人物が担っていたり、主要登場人物である楊家の家族構成にも、大 いる。一見すると同一に見えるようなプロットを、それぞれ異なる主 い半の︾伝部分は、︽北宋志伝︾にはかてし有記りをば容内なの載後 志伝︾に見えないプロットが非常に多く存在している。特に︽楊家府 い部分が非常に不規則に分布している。当然、ストーリーにも︽北宋 みにすぎない。また、後半の﹁北宋伝﹂とは、重なる部分とそうでな 分である﹁南宋伝﹂の一部とも重なっているが、それはほんの一部の   ︽部楊家府伝︾の筋立ては、前述し半たとおり﹃南北宋志伝﹄の前 数度再版されただけで現在に至っている。 直後から現在に至るまでそれほどの支持を得ることができず、僅かに しながら広く民間にも流布した。これに対して︽楊家府伝︾は、出版 を博し、明末から清初にかけて度々版を重ね、派生小説なども生み出 向か出版直後常ら非間な人気の年暦志けると、︽宋北伝︾は、明代万   また、これら二系統の︽楊家将演義︾小説の出版・販売状況に目を と称されている。 現在は一般にこれらはまとめて︿楊家将演義﹀ものばかりではあるが、 んどは、二系統のテキストを並べて読めば一見してそれと判る明白な きな差異や食違いが生じていたりもしている。このような差異のほと

  こうした二系統それぞれの小説の現在に至るまでの出版販売状況が影響を及ぼした可能性もあってか、今日、専門家の間ですら︽北宋志伝︾と︽楊家府伝︾は厳密に区別されることなく、両者を混同したままの状態で発表された論文などもしばしば見受けられる。これらの論考においては、作品内容の説明に際し、系統別の相違を念頭に置かず記述に混乱をきたしていたり、一系統の作品の中に他系統の作品の方にしか含まれないプロットがあるかのような表現をしている事例などが散見される。

  筆者は、このような現状を勘案するとき、この二系統の︽楊家将演義︾小説を他の長編章回体小説のように同じ︿楊家将演義﹀の名で一括りにするには、その内容の相異があまりにも大きすぎると考えるに至り、これら二系統の︽楊家将演義︾小説の詳細な内容整理と対比作業の必要性を痛感した。

  現在、わが国には、明代刊行のこれら二系統の︽楊家将演義︾小説の邦訳はどちらも存在していない。また、それぞれの筋立ても相当複雑に込み入った作品になっている。そこで、本稿での考察を円滑に進める為に、筆者﹁﹃楊家将演義﹄再考﹂において作成したプロット分類表に基づき、そのプロットごとに物語のあらすじを提示する。なお、各プロットのあらすじにおいて、双方に重複する部分については出来

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る限り省略し、その相異点のみを簡潔に記載することとした。また、分類した各プロットには便宜上の記号を振り当ててある。この記号は、二系統の︽楊家将演義︾小説それぞれにおいて、同一内容を有するプロットには同一記号を振り当ててあり、その差異を明白に読みとれるようにしたものである。

  二―二

  《北宋志伝》プロット別あらすじ   ︽北宋志伝︾は明代福建の書肆・熊大木編纂、全五十回。宋の時代、

名将と誉れ高い呼︵胡︶延賛将軍の出生から流転、宋へ帰順するまでの半生を冒頭に物語が始まる。

プロット①  趙匡胤の出自と楊家将の平話

       ︽北宋志伝︾には記載なし。

  ただし、︽北宋志伝︾と対を成す︽南宋志伝︾第三十三回~三十六回部分に記載有。また、前述した通り、プロット④破天門故事に登場する楊家の親類達、王貴や金刀馬などの武将達も、︽南宋志伝︾では、このプロットで一度登場している。

プロット②  宋の将軍、胡延賛などの平話。

       ︵第一回~九回︶

  呼︵胡︶延賛将軍を始めとする宋朝建国の功臣の活躍を中心とする情節が続き、楊業やその息子達は、あくまで脇役としての役どころに過ぎない。

プロット③  楊業の宋へ帰順と息子達の平話

       ︵第十回~四十五回︶

  元々漢王室に連なる血族を持つ武将として、漢主に仕えていた﹁楊無敵﹂と呼ばれた孤高の武将、楊業︵楊継業︶が徐々に主人公となって楊家一族のストーリーが展開。楊家第一世代の主人公である武将、 楊業が一族と共に、漢王室からのいわれなき逆臣の汚名を着せられたことが発端となり、これまで全力で忠誠を尽くした漢王室を見限る決意を自らの意志で固め、一族を引き連れて自主的に宋へと帰順。また、宋にとっては北狄である遼と、死闘を繰り広げ楊一族は大活躍。長男をはじめとした数名の息子達の犠牲によって、宋主を窮地から救い出す。  しかし、最後には同じ宋の重臣である藩仁美将軍の、積年の言われなき恨みによる陰謀によって、遼軍に追い詰められた挙句の果てに、李陵碑に自分の頭を打ち付けて自害へと追い込まれ、物語の第一世代の主役である楊業はこの物語の舞台から姿を消す。

  この遼との戦いで、宋主の身代わりとなった長男延平を筆頭に、次男、三男が戦死、四男延郎もまた、その死闘虚しく遼の捕虜となり、本名を偽って皇女の婿となり、遼を滅ぼす機会を伺いながらも、家族と会えないままに遼での暮らしが続くこととなる。五男は戦いの最中に、かつて五台山の高僧から受け取った小箱の中の剃刀で、自らの髪を丸め、そのまま五台山へと出家、その後、楊家の誰かが危機に陥るたびに度々僧兵として出征、大活躍することとなる。七男は、遼軍に追い詰められた父親楊業を助ける為にと、援軍を求めに戻った味方の陣営で、潘仁美の命令によって縄で縛られ目隠しされたあげくに矢を放たれ、射殺されてしまう。

  遼との死闘を経ても生き残った楊業の六男で、楊家第二世代の楊六郎が次の主役として登場。その六郎の息子が、楊宗保。また、六郎の熱意ある説得や調略により新たに楊家の家来となった、岳勝、孟良、焦賛をはじめとする個性的で勇猛果敢な武将達などが新たに登場。これらの主要登場人物達が力を合わせて共に、新たな難局に立ち向かって行く。

  父親や七郎の憎き仇である潘仁美へのかたき討ちの本懐、宋の朝廷の重臣に潜り込んで楊一族を亡き者にと次々わなを仕掛けてくる遼の間者、王欽昭吉の陰謀による流罪、死刑宣告、逃亡と、次々事件が起こる中、宋主が再び遼軍に包囲され窮地に陥る。

(6)

  宋主からのこれまでの罪の赦免状と共に届けられた、救援依頼の勅令に、今ひとたび宋主を救出せんと立ちあがる六郎と腹心の武将たち。楊家軍の武勇の見せ場となる、楊六郎を総大将とした宋軍と遼軍との再決戦の火ぶたが切って落とされる。

プロット④  楊六郎と息子宗保による破天門陣の故事

       ︵プロット③のうち第三十二回~三十六回︶

  この物語中盤にして最大の山場。仙人が遼に加担して布陣させた、難攻不落を誇る七十二天門陣が出現。楊宗保が、父の戦場に援軍に向かう。夜道で道に迷った宗保は、そこで出逢った仙女からその天門陣の攻撃方法を伝授される。

  楊宗保を始めとする楊家の武将たちが、妖術、武術を織り交ぜながらも、次々見事にその難攻不落の陣形を打ち破ってゆく。楊六郎の妻である柴太君は、戦場で激闘の最中に陣痛が始まり、そのまま宗保の弟となる楊文広を出産する。楊業の死から長きにわたりその名を偽り王女の駙馬となり、遼で暮らし続けた四郎が楊家軍を援護、生き残っていた楊兄弟の再会。遼の䔥太后の自害と宋軍の大勝利。

  楊一族と家臣たちは、大勝利を治め、意気揚々と都へ凱旋。夢枕に現れた亡き父、楊業からのお告げにより、﹃本物の父・楊継業の遺骨を遼より取り戻せ﹄と腹心の部下、孟良に密かに命じる六郎。ところが、共に六郎の部下で孟良を兄と慕う焦賛が後を追う。暗闇の中、焦賛を敵兵と勘違いした孟良は、実弟のように可愛がっていた焦賛を殺めてしまう。深い悲しみと自責の念から、無事に奪還した楊業の遺骨を人に託すと、焦賛の後を追って敵地で自害して果てる。大切な部下を二人も失った喪失感から病に倒れてしまう楊六郎の死去により、また一人その時代を彩った楊家第二世代の主役が舞台から姿を消す。

プロット⑤  楊宗保の西夏達達国遠征と        穆桂英ら十五人の楊家女将の故事

       ︵第四十六回~五十回︶   物語の終盤。楊六郎の息子であり、楊家三代目となる楊宗保の西夏遠征。西夏達達国の国王、李穆が宋の領地である雄州に侵攻する。時の宋主である真宗は、宗保にこれを平定するように命じる。西夏達達国は、新羅国、黒水国にも使者を派遣して借兵し、迫りくる宋との激突に備える。  敵の宰相の謀略により、谷底へと追い詰められ、絶体絶命の窮地に追い込まれた楊宗保。そこで、宗保を救出するため、今は亡き楊業の長男楊延平の妻、周夫人を総帥に、楊家の第二世代を中心とした十二人の寡婦達に加え、楊六郎の妻である穆桂英に八娘、九妹、総勢十五人となる武勇の誉れも高い楊家の女将達による救援部隊が雄州へと出陣。物語は、これら武勇に優れた女将達の、見事な立ち回りと壮絶な戦いの中で勝ち取った大勝利によってそのクライマックスを迎える。  物語の最後、西夏へ遠征し激戦の末に大勝利を収めた楊宗保が総勢十五人の女将達と無事に都へ帰還。宋君より、多くの褒美を賜り、楊業長男の延平夫人である周氏と共に令婆の待つ楊家の屋敷である無佞府へと凱旋。一族皆が揃って大団円となり、令婆は捕虜として連れ帰って来た新羅国の皇女である百花公主を、宗保の弟でこの時十五歳の文広の伴侶にと決めて大団円。この物語のすべての幕が閉じられる。プロット⑥  楊宗保と文広による柳州儂智高征伐の故事

       ︵第五十回︶

       最後の詩編部分に一行のみ記載あり

プロット⑦  楊文広の東岳参拝の故事

       ︽北宋志伝︾には記載なし

プロット⑧  楊文広とその息子懐玉の西番新羅国遠征と        十二寡婦征西の故事

       ︽北宋志伝︾には記載なし

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プロット⑨  楊懐玉の太行山隠遁の故事

       ︽北宋志伝︾には記載なし

 

二―三

  《楊家府伝》プロット別あらすじ

  ここでは、前述した通り、あらすじの重複を避けるため、︽北宋志伝︾との相異点を中心に述べるものとする。

  明代の下級文人、紀振倫校閲。全五十八則本。原題﹁新編楊家府忠勇演義志傳﹂は、宋の太祖、趙匡胤の出生と受褝を冒頭に、その物語は始まっている。

プロット①  趙匡胤の出自と楊家将の平話

       ︵第一則~四則︶

  宋の太祖、趙匡胤の出生と受褝。その頃、漢の国に、元々漢王室に連なる血族を持つ武将として、漢主に仕えていた﹁楊無敵﹂と呼ばれた孤高の武将、楊継業︵楊業︶とその妻、七男二女の一族がいた。漢と宋とは、いく度にもわたる戦を繰り返し、その中で武芸、知略共に秀でた天賦の才を発揮する楊業と息子たちは大いに宋を悩ませ、宋主をしてわが配下にと所望されるほどの活躍ぶりを見せていた。

プロット②  宋の将軍、胡延賛などの平話。

       ︽楊家府伝︾には記載なし。

プロット③  楊業の宋へ帰順と息子達の平話

       ︵第五則~第三十二則︶

  ︽北宋伝志伝︾とほぼ共通するプロット

と、とうとう漢主自らが説得に動くまで、頑なに投降を拒否。 を捨てて、宋へと帰順することは武士として到底できることではない﹂ た﹁だ、まも後順しれ漢主が宋こでま帰忠誠を尽くして来た漢王室に   ︽し、は、家府楊伝︾では、楊継業宋伏と漢の戦いによって漢が降   プロット④楊六郎と息子宗保による破天門陣の故事 ちあがる。 から、今ひとたび宋主を救出せんと、六郎の腹心の武将たちと共に立 六郎は、宋主に対する﹁忠﹂ではなく、その母に対する﹁孝﹂の思い 令を拒み愚痴までこぼす六郎に、母親令婆の檄が飛ぶ。母親想いの楊 においては、一度は世捨て人として旅に生きる方が良いのではと、勅 この︽楊家府伝︾と共に届けられた救援依頼の勅令。この勅令に対し、 再び遼軍に包囲され、窮地に陥った宋主より、これまでの罪の赦免状 郎が次の主役として登場。その六郎の息子が、楊宗保と設定されている。   遼との死闘を経ても生き残った楊業の六男で、楊家第二世代の楊六 矢がその体に突き刺さり、射殺されてしまう。の 句、まるで雨のような無数の矢を放たれ、七十二本も酔させられた挙 方の陣営において、藩仁美の命令によって、無理矢理酒を飲まされ泥 軍に追い詰められた父親楊業を助ける為にと、援軍を求めに戻った味 戦死、四男延郎もまた、その死闘虚しく遼の捕虜となる。七男は、遼 男扮する偽皇帝の駕車警護を務めた長男延平を筆頭に、次男、三男が   楊四り、なとりこの遼との戦いで、︽家府伝︾では、楊業の身代わ 子達の犠牲によって、宋主を窮地から救い出す。 陥った宋主を、宋主の身代わりを務めた四男をはじめとする数人の息 闘を幾度となく繰り広げて大活躍。遼軍に完全に包囲され絶体絶命に ようやく宋に帰順し、宋の臣下となった楊業は、北狄である遼との死

       ︵プロット③のうち第二十四則~三十二則︶

  ︽北宋伝志伝︾とほぼ共通するプロット。

  天上界では、二人の仙人の些細な行き違いから、一人の仙人がその力を誇示せんがために遼に加担し、西夏を始めとする異国軍まで総動員し、遼陣営に難攻不落を誇る七十二座天門陣を布陣させる。この︽楊家府伝︾では、この天門陣を布陣するに至る経緯が詳細に記されている。

プロット⑤楊宗保の西夏達達国遠征と

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       穆桂英ら十五人の楊家女将の故事

       ︽楊家府伝︾には記載なし

プロット⑥  楊宗保と文広による柳州儂智高征伐の故事

       ︵第四十一則~四十五則︶

  楊家第三世代の物語は、楊六郎の息子である楊宗保が主人公。宗保は、長男楊文広を先鋒に据え、南蛮の異民族であり、また怪しい妖術を巧みに使う儂智高を征伐するために、儂智高が侵犯する柳州へと出陣。

  儂智高の陰謀により、柳州城へ閉じ込められてしまった文広を救出せんと、都に残された楊家の家族が立ち上がる。文広の姉であり楊家第三世代の女将軍、宣娘もまた文広同様にみごとな仙術使いでもあった。

  ここからこの物語では、妖術や仙術が次々に繰り出されるという荒唐無稽な展開を更に強めてゆく。文広の姉、楊宣娘や文広、そして再び太行山から応戦にやって来た五郎らの大活躍によって、儂智高は成敗され、皆揃って意気揚々と都へ凱旋する。大勝利を収め凱旋してきた宗保に、朝廷に蔓延る奸臣の嫉妬による陰謀が襲いかかる。屋敷内に放たれた刺客との攻防の後、病に倒れた楊宗保は、そのまま静かにこの世を去る。こうして、この物語の第三世代の楊宗保がその姿を消す。

プロット⑦  楊文広の東岳参拝の故事

       ︵第四十六則~第四十九則︶

  楊宗保の姉で楊家第三世代の女将、楊宣娘と、楊宗保の妻である穆桂英が、五十歳にして出産した楊家第四世代である楊文広、そしてその腹心の家来である魏化らによる活躍が新たに展開。

  儂智高征伐で功績を挙げた後、時の宋主である仁宗の命により、山賊に奪われた宝物を奪い返し、その宝物を東岳へ進供する旅へ出立する楊文広。その文広のあまりの美少年ぶりに、次から次に襲いかかっては結婚を迫る、武勇に優れた三人の絶世の美女山賊たち。東岳参拝で、聖帝より仙桃を賜り、魏化と共に鳥に変身することが出来るようになる。   無事に任務を遂行した文広のもとへ、仁宗の姫・長善公主が、正式に降嫁する。父親の宗保もすでに病でこの世を去っている。奸臣の謀略を恐れ朝廷への不信感をぬぐいきれない文広は、皇帝の目の前で鶴へと変身し大空高く飛び去ってしまう。その後、こっそり楊家の屋敷に舞い降りた文広は、そのままその身を隠し、屋敷の外の人間には誰にもその姿を知られないよう楊家屋敷内での隠遁生活に入ったところでこのプロットの幕がおりる。プロット⑧  楊文広とその息子懐玉の西番新羅国遠征と

       十二寡婦征西の故事

       ︵第五十則~五十七則︶

  時が流れ、神宗の時代。楊文広は屋敷で、自身の子供四男一女をもうけ、共に日々学問と武芸に励みながらも、誰にも知られることなくひっそりと暮らしていた。物語の最後のストーリーは、この文広の四男であり、楊家第五世代の楊懐玉がその主人公となって終焉へと進んでゆく。

  この時、西戎の地、新羅国では、国王の李高材が、西夏より張奉国︵八臂大王︶という家臣を召し抱えて、宋に反旗を翻した。この新羅国の反乱により、出兵を余儀なくされる宋軍。再び立ち上がる楊家の男達。蟹の妖怪、八臂大王の妖術で敵軍に包囲され逃げ場を失った楊文広と懐玉。二人の絶体絶命の窮地を知った楊家の女達もまた、再び立ち上がる。

  穆桂英が既に他界している現在の楊一族の女達による話し合いの結果、宣娘と文広の娘である満堂春を筆頭に、楊家の第四世代、第五世代の十二寡婦による征西が行われる。妖術と妖術のせめぎ合い、八臂大王との最終決戦を経て、またしても宋軍の大勝利、楊家軍は都へと凱旋。

プロット⑨  楊懐玉の太行山隠遁の故事

       ︵第五十八則︶

  意気揚々と都へ凱旋した楊懐玉であったが、代々続く楊家への朝廷

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の文臣たちの嫉妬による陰謀、朝廷のあまりの身勝手な仕打ちにほとほと嫌気がさし、ついには宋の朝廷を見限り、楊一族を陥れようとし続けていた佞臣である張茂一族を、自分たちの手で皆殺しにし、その後、その地位も屋敷もすべてを捨て、一族郎党一人残らず皆引き連れて太行山へと去って行く。楊家の一族は、ただの百姓となって、自分たちの為に生きて行く道を選び、この物語のすべての幕が閉じられる。

  二系統の《楊家将演義》小説内容の対比

  三―一   主要登場人物の楊一族についての対比

  明刊本︽楊家将演義︾の主要登場人物の一人である楊業︵楊繼業︶を始祖とする楊家一族は、前述した通り、中国五代末期から宋の時代にかけて実在した一族である。その楊業の孫であり、﹃宋史﹄にもその名を連ねる楊文広がまだ存命中であった頃にはすでに、楊家一族の諸将たち、とりわけ始祖である楊業の名は悲劇の名将として世に広く知れ渡り、絶大な人気を博していた

  ここでは、この二系統の明刊本︽楊家将演義︾小説、︽北宋史伝︾と︽楊家府伝︾それぞれに、主要な登場人物として描かれている楊一族の相異点を、関連する史実や雑劇なども踏まえながらから整理・対比してゆく。

  まず、明刊本︽楊家将演義︾小説において、楊家第一世代の中心的存在である楊業︵楊繼業︶について整理する。﹃宋史﹄︵巻274 ﹁楊業伝﹂︶に記載される楊業の履歴を要約すると、楊業は並州︵山西︶太原の人、父楊信は五代後漢の麟州刺史。業は若くして劉崇に仕えたが、当時から勇名を馳せ建雄軍節度使となって軍功を累ね﹁無敵﹂と称された。宋太祖との抗争の際には、主君に投降を勧め、のちに業は太祖の求めに応じて右領軍衛代将軍となる。時に契丹がしばしば侵入したために、その防御にあたり功績があったが、雍熙三年、朔州での契丹︵遼︶と抗争において、勝機なしとみて撤退を主張するも容れられず、襲来する敵の大軍に対しても力戦及ばず、敗れて捕虜となるもその節を守り、食を断って死んだとされる。   また、伝の末尾には、事跡に併せて太宗が業の死を痛惜したこと、朔州での籠城中に部下の命を惜しんで逃走を促すも、一人としてこれに従わず、全軍が壮絶な死を遂げたことなども記されている。楊業という人物は、その死の時点ですでに後世幾多の伝説を生むに足る、勇将のイメージが出来上がっていたことがこの記述からも伺える。  ﹃

宋史﹄の伝に記載があるのは、この他にその子延昭と孫の文広のみで、延昭については父と同様に、契丹遼の侵入に対する防御で功績多く﹁楊六郎﹂の名で声望が高かったこと、文広については名臣范仲庵に認められ狄青の南征に従ったこと、英宗の時代に契丹討伐において活躍したことなどが記されているに留まっている。

ろうか。以下、筆者により作成した家系図を順に示す。 家系には史実と小説の間にどのような相違が存在しているのであ 重要な意味を持つと考える。では、楊業を中心とする楊一族のに そのものの骨格であり、非常物語設定の中でも、家族構成は作品 く範囲を血族集団に限定した極めて珍しい小説と言える。従って、 あり、いわゆる演義小説と呼ばれる一群の長編小説の中でも、描   ︿家る家将﹀説話は、楊で語物語のを史歴た楊辿が党郎族一っ

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  まずは楊文広について、双方の設定を対比してゆく。文広の楊一族における輩行には、二系統の板本間に見逃せない相異がある。演劇等も含めた現行の︿楊家将﹀説話では、楊文広という人物は、一般的には楊宗保の息子として描かれている。︽楊家府伝︾はその典型であり、そのため文広は楊家第四世代として登場することになる。

  ところが︽北宋志伝︾では、史書等に記された家系譜と一致するように、楊六郎延昭の息子という設定で描かれている。前述のプロット④の︽北宋志伝︾第三十七回において、楊六郎の妻である柴太君が、七十二座天門陣での戦闘中に出産したとの記述がある。︽楊家府伝︾ のほうでは、プロット⑥の第四十二則で、穆桂英が五十歳で生んだと自ら述べている。これらの相異は一体何を意味するものであろうか。  この︽北宋史伝︾の編纂を手掛けた熊大木は、その冒頭、序詩の部分に次のような記述を残している。︵下線筆者︶

   仁宗統御陞平盛,蛮王智高兵寇境。

   楊府俊英文廣出,旌旗直指鹹歸命。

   更有姨娘法術奇,炎月瑞雪降龍池。

  下線部において﹁南蛮の王智高が国境を侵す﹂、﹁これを楊家の俊英である文広が出征して退治する﹂、また﹁姨娘︵宣娘︶の用いる妖術は更にたいしたものだ﹂等の記述を確認できる。

  これらは、︽楊家府伝︾の方に記載されている楊家第四世代が活躍するプロット⑥︵前述のプロット分類記号に対応︶以降の故事について詳細な内容を示している。さらに、本編第五十回、結びの部分に至っては、﹁時文廣十五歳也﹂︵この時文広は十五歳であった。︶と記載するだけでなく、﹁楊文廣征服南方﹂︵文広が南方を征服する︶との記述まで残し、この時十五歳の文広が、後に南方へ遠征することを、わざわざ記載している。現実には︽北宋志伝︾中に文広が登場することはないにも拘らず、わざわざ序に付されたこれらの文字は一体何のためのものなのであろうか。非常に不可解であると言わなければならない。

  又、前記の家系図からも分かるように、その基づく資料によって、またその成立年代、作品の性格等によって、楊一族の家系はまさに千差万別の様相を呈している。中国の歴史物語を描いている作品の中に、多様な民間伝承が混入してゆく事で、その史実が自在に書きかえられてゆくのはよくある事であり、とりわけ登場人物の設定や形象の変貌が頻繁に見られるという点においては、﹃三国志演義﹄や﹃水滸伝﹄などの例をみれば明白であろう。しかし、実在の一族の内部構成に関して、これ程までに史実から乖離して書かれた作品は、︽楊家将演義︾をおいて他には存在しないだろう。

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  以上の点から、筆者﹁﹃楊家将演義﹄再考﹂において詳細に述べた通り、︽北宋志伝︾では、その編纂方針が史実に忠実である﹁志伝﹂としての編集にこだわった為に、その輩行が史実と合致したものになっているのではないか、と考えている。実在の楊文広が契丹討伐でめざましい活躍をしたのは仁宗の即位以降であって、真宗時代で話を打ち切る︽北宋志伝︾には、文広が登場する場がないのである。そして神宗即位以後︽北宋志伝︾の続きが﹁文広の儂智高征伐﹂のプロットへスムーズに展開してゆくことを計算した上で編纂されたという可能性が浮かび上がる。また、︽楊家府伝︾の方では、その編集過程で参考にした︿楊家将﹀関連の旧説話や雑劇などの設定をそのまま継承しただけ、と言えるのではないだろうか。

  次に、楊文広の花嫁について確認したい。複数の先行研究で、楊文広の花嫁についていくつかの見解が示されているが、新羅国の姫・百花公主か、宋の仁宗の姫・長善公主のどちらが楊文広の花嫁なのか、という指摘が存在している。これもまた、実際の小説を詳細に読めば一目瞭然である。

けである。 だわせと決めた時、文広は十五歳るっ確た。だきで認るが︶記のと載 嬉が婆令也楊﹂︵歳五さ十し主のあまり、百花公を文広と娶文廣時室 る勝百花公主について、﹁令婆不歡で喜遂以百花公主配與楊文廣為あ   ︽姫第宋志伝︾では、最終回の五の十回、最後の部分に、新羅国北

  一方、︽楊家府伝︾においては、宋の仁宗の姫・長善公主は、前述のプロット⑦部分で、正式に楊文広のもとへ降嫁しているとの記載が確認できる。また、この長善公主と文宏との間には、楊家第四世代の物語の担い手である楊懐玉が誕生している。

  確かに︽楊家府伝︾には、紀振倫が追記したと思われる﹁長善公主とは百花公主のこと﹂という注釈があるが、これについては、上田望氏が紀振倫の注釈の誤記の多さを指摘し、紀振倫がその注釈部分についてはあまり丁寧な仕事をしていたとは考えられない、とも指摘している十一。   そもそも︽楊家府伝︾の注釈には︽南宋志伝︾、︽北宋志伝︾の本編部分に対応しているものが非常に多く、︽楊家府伝︾編纂の段階で︽北宋志伝︾が使用されていた可能性は氏の指摘するところである。ただ、氏はこうした誤記の原因については言及していない。筆者自身は、その背景に熊大木・紀振倫両編者の編纂時におけるプロセスと執筆意図の違いがあると考えている十二

  ゆえに、この二人の姫は別人であると考えるのが自然であろう。二系統の︽楊家将演義︾小説の時間軸を、宋の歴代皇帝を基準にして見る時、楊令婆が百花公主を文広の伴侶にと決めたのは、第四代皇帝真宗の時代であり、その後が仁宗であることから、その間に何らかの事情があり百花公主は文広の妻にならなかったと考えれば、その後の物語の設定や展開に矛盾や不都合は生じない。

 

三―二   楊家を巡る登場人物についての対比

  次に楊家を巡る登場人物についての対比を行う。まず、楊家の養子、楊八郎について考察する。現在の中国において、上演・制作される京劇や映画などの現代版︿楊家将演義﹀では、前述した養子の八男が主要人物の一人として登場し、一般の認知度も高い。楊八郎は、もともと武将王錦の息子、王順のことで、後の楊順︵楊亮、楊懐亮とも︶のことである。

  前述した︽北宋志伝︾と対になる︽南宋志伝︾の第三十三回部分にその記載を確認することが出来るが、︽楊家府伝︾の方には登場しない。王金の戦死により、楊家に養子に入った八男は、後日、高懐徳のもとへ投降して高姓となるのだが、一九二〇年以降に刊行された﹃楊家将全伝﹄などの新しい小説や映画などでは、最後まで楊家の人間として描かれ、四郎と共に遼の第二王女の駙馬になる、などを始めとする複数のストーリーが存在している。

  こうした現象は、ある意味においては︿楊家将﹀説話の人気を示すものであると言うことも出来るであろう。他の演義小説もまたそうで

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あったように、歴史に取材した物語文学は、民間伝承の中で多くの派生的伝説が形成され、小説・戯曲といった通俗的な文芸の分野に頻繁に取り入れられて作品自体の再生産を繰り返してゆく。物語の人気が高く、再生産のプロセスが量的に多ければ多いほど作品の変貌も著しくなるのが常である。︿楊家将﹀説話はその一つの好例をといえるであろう。

  他にも楊家の小間使いであり、後に楊家の養女となる少女、楊排風が京劇の脚本の中で楊一族に加筆され大人気演目となり、一躍人気キャラクターに上り詰めた。この楊排風は、もともと明刊本︽楊家将演義︾小説のどちらの系統本にも登場しない人物であるが、現代京劇の演目﹃打焦賛﹄や前述の小説﹃楊家将全伝﹄などには、主要登場人物の一人であり、武勇に優れた女将として描かれている。また、テレビドラマや映画などの現代版︿楊家将﹀作品でも、勇猛な女将として大活躍を見せている。

  更には、新しい︿楊家将﹀小説や映画などにおいて初登場し、本来の︿楊家将﹀説話には全く登場しない新たなキャラクターであるにも関わらず、︿楊家将演義﹀物語の進行上、非常に重要なキーパーソンになっている場合も見受けられる。宋の譜代の武将、藩仁美の息子である藩豹がそれにあたる。前述の﹃楊家将全伝﹄や映画﹃楊家将﹄などにおいて、藩豹は、武術試合中に楊七郎に誤って殺されてしまい、それが原因となって、藩仁美が楊一族に恨みを抱く設定になっている、というような脚色が加えられるといった事も起こっている。

  最後に、楊一族を長年に渡り事あるごとに庇い、支援し続ける王族・八大王︵八王︶について対比した考察を述べたい。︽北宋志伝︾においては、この八王は、史実とは異なり太祖・趙匡胤の息子・徳昭として設定されている。しかし、前述したように史実にこだわる編集を目指した熊大木は、︽北宋志伝︾の按語において、その人物はすでに自殺していることを指摘し、史実との不一致を嘆いている。︽楊家府伝︾では、この趙匡胤の息子徳昭は、太祖が即位した際には皇太子に封じられている。

ても、八大王︵八王︶は太祖の子として設定されている。 明雑劇﹃八大王開詔救忠臣﹄や、京劇﹁賀后罵殿﹂などの演目におい の設定について、︵八王︶と記載されている。この八大王︶おりました。 び申し上げ、もっとも才能ある方でしたので、人々は皆敬服いたした なっており、︵人々は八大王とお呼﹁人遂稱八大王最有才能人皆敬服﹂   ︽王崇家府伝︾では、この八大と徳の子・息の兄の楊匡趙は定設胤

  これら二系統の︽楊家将演義︾小説の人物設定に関しては、他の登場人物についても同様の現象がいくつか確認される。そして、それらは、前述したように、両者の成立段階における編集方針の相違を物語るものであると筆者は考える。

 

三―三

  「西夏遠征」

と「十二寡婦征西」 プロット内容に

     ついての対比

国においては絶大の認知度を誇っている。 家将演義﹀そのものを体現していると言っても過言ではない程に、中 ︿楊この二つのプロットはロットであることは周知のとおりである。プ 気と知名度を誇るプロットと言えば、夏遠征﹂と﹁十二寡婦征西﹂﹁西   ︿とん家将演義﹀を語る人たできき、抜もりよ楊ッロプのどの他ト

  だが、明刊本︽楊家将演義︾小説の二系統それぞれに、本当に﹁西夏遠征﹂と﹁十二寡婦征西﹂プロットは、存在しているのだろうか。また、﹁西夏征西﹂を行ったとされるのは、果たして楊宗保なのか、楊文広だったのか。

  まずは、一般にも、また、研究者の間でも、︽北宋志伝︾では﹁楊宗保が西夏遠征﹂へ行き、︽楊家府伝︾では﹁楊文広が西夏遠征﹂へ行くと認識されているこの﹁西夏征西﹂プロットについて対比、考察を行いたい。

るで受け、﹁西夏達達国﹂の国王あ命る﹁李穆﹂の侵略を食い止めを 載がある。このプロット⑤では、楊宗保が、時の宋主である真宗より   ︽ト宋志伝︾においては、プロッ北記の第四十六回にその詳細の⑤

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ために﹁遠征﹂する。この﹁達達﹂とは﹁韃靼国﹂のことである。もちろん、第四十六回の回題にも﹃楊宗保兵征西夏﹄とはっきり記載されている。つまり、確かに︽北宋志伝︾ではプロット⑤において、﹁楊宗保が西夏遠征﹂へ行っていることが確認できる。

  一方、︽楊家府伝︾ではどうであろうか。該当すると思われるプロット⑧の第五十則の字句を詳細に確認してみる。すると、このプロットで楊文広が、宋の時の天子、神宗の命により、﹁西夏﹂から士官したばかりの張奉国︵八臂大王︶という人物を家来に持つ、﹁新羅国﹂の国王﹁李高材﹂の侵略を阻止するために、﹁西へ遠征﹂する。また、第五十一則の題目に着目すると、そこには﹃文広領兵征李王﹄︵文広が兵を領して李王を征する︶との記載があるのみで、この則題部分にも、もちろん本編の物語中にも﹁西夏遠征﹂の文字は一切書かれてはいない。このプロットの舞台は甘州一帯であり、本文中にも﹁西蕃賊寇﹂等の文字が見えるのみである。

  つまり、﹁西夏﹂出身の家来を召し入れたこと、また国王の姓が同じ﹁李﹂であるということから、この間の経緯がやや紛らわしくはなっているものの、この部分の中味は︽北宋志伝︾のプロット⑤とは一致しない。つまり、︽楊家府伝︾においては、楊文広は﹁西夏遠征﹂には行っていない事となり、︽楊家府伝︾には﹁西夏征西﹂プロットは存在しない事になる。

  次に、﹁十二寡婦征西﹂プロットについての対比、考察を行う。

  ﹁西夏征西﹂プロット同様に、

︿楊家将演義﹀を語るときには、非常に有名なプロットであり、一般的に、明刊本の二系統の︽楊家将演義︾小説どちらにものプロットにも﹁十二寡婦征西﹂故事が存在するとされている。これについても双方のテキストを精読することで明白な事実が見えてくる。

  これについては、双方の板本を詳細に対比するため、筆者が作成した図表を提示して考察したい。後記の図表は、前述の楊家系譜図、及び両作品本編の記述に準拠して作成したものである。また、前図表を見れば明白な通り、やはり﹁十二寡婦征西﹂故事もまた、二系統の︽楊 家将演義︾小説共通のプロットではないことが判明する。  これに関しては、︽北宋志伝︾において大変興味深い記述を見つけることが出来る。︽北宋志伝︾第四十八回以降の記載や該当する回題部分を全て確認しても﹁十二寡婦征西﹂の﹁征西﹂という表記はどこにも存在していない。確かに﹁十二寡婦能効力﹂や﹁堂前十二寡婦計開﹂等の記述は見えるが、そのいずれにも﹁征西﹂の文字はない。さらに楊業の長男である、楊延平の未亡人である周夫人らの名前、︵この人物は、︽楊家府伝︾の﹁十二寡婦﹂には含まれない︶を含めながら﹁周夫人ら十二員﹂という表現を用いている。

《北宋史伝》第四十六回   《楊家府伝》第五十五則

・穆桂英(楊宗保妻)

・耿金花(楊二郎延定妻)

・楊八娘*

・楊九妹*

・周夫人(楊太郎延平妻)

・杜夫人(楊七郎延嗣妻、異星人の 設定13。)

・黄瓊女(楊六郎妻)

・単陽公主(䔥太后娘)

・楊七姐(楊六郎延昭娘、宣娘)*

・馬賽英(楊五郎延徳妻)*

・重陽女(楊六郎延昭妻)

・楊秋菊(楊宗保妹)*

・孟四娘(楊太郎延平第二夫人)*

・董月娥(楊三郎延輝妻)*

・鄒蘭秀(楊二郎延定妻)*

総勢 十五人

(《北宋志伝》本編より)

・宣娘(楊七姐、楊六郎延昭娘)*

・満堂春(楊文広娘)

・鄒夫人(楊二郎延定妻)*

・孟四娘(楊太郎延平第二夫人)*

・董夫人(楊三郎延輝妻)*

・楊太郎延平妻周夫人の娘

・秋菊(楊宗保妹)*

・楊二郎延定妻耿氏の娘

・馬夫人(楊五郎延徳妻)*

・白夫人

・劉八姐:

・殷九妹*

総勢 十二人

(《楊家府伝》本編より)

   ︵*のついた人物は、二作品ともに出征した人物。

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  さらに厳密に言えば、︽北宋志伝︾において、窮地に陥っている楊宗保を助けるために立ち上がった楊家の女将達は十二人ではない。本編記述内容によると、楊六郎の妻である穆桂英や楊八娘、楊九妹らと共に、周夫人を筆頭とする﹁十二員﹂を含め、合計十五人の女将達が救援に向かっている。しかも、これら十五人の女将達は従来一般的なイメージとして定着している﹁征西﹂の語に反して、実際は宋の領土である﹁雄州﹂へ救援にむかうのみである。この雄州の位置を地図上で確認すると、﹁雄州﹂とは、現在の河北省雄県にある﹁保定﹂近辺のことであり、時の都からすればほぼ北の方角に位置している。つまり、正確には、﹁十二人の女将達が征西する﹂のではなく、﹁十五人の女将達が征北する﹂プロットだということになる。

  一方、︽楊家府伝︾では、どのような記述になっているのだろうか。︽楊家府伝︾第五十五則の則題ですでに、明白に﹁十二寡婦征西﹂と記載がある。また、前の図表で確認しても、実際に楊宗保の姉、楊宣娘︵七姐︶を筆頭に、確かに﹁十二寡婦が征西する﹂プロットとなっている。

  以上のことからも明らかな通り、この二系統の︽楊家将演義︾小説の各プロットは、﹁同じプロットであるが、主要登場人物が入れ替えられているものである。﹂とは言い難い。

  そもそもこの二系統の︽楊家将演義︾小説には、何度も何度も繰り返し同じ内容のプロットが現れるという特徴がある。楊家の何人かが敵軍に包囲されて窮地に陥る場面、あるいは異民族討伐のため楊一族の将が方々へ出征する場面、更には五台山で修行する楊五郎が幾度にもわたって戦闘に駆り出される場面など、類似したプロットが何回も重複して用いられている。従って、この種のプロットは、その類似性から推して軽々に﹁同じプロット﹂とは断定できないケースも多々存在するのではないか。

  とは言え、︽北宋志伝︾のプロット⑥を見れば、使われたモチーフがあまりにも似通っているため、我々は︽楊家府伝︾の﹁文広十二寡婦征西﹂を非常に強く意識せざるを得ない。二系統の︽楊家将演義︾小説の間にはこうした現象が頻見される。   以上の考察により、従来同じプロットと認識されてきたものが、必ずしもそうとは言えない性格を帯びていることを述べた。勿論、これらのプロットを形成するモチーフが極めて似たものではあるが、二系統の板本を丹念に読み解くことで、明白な事実を確認できたと言えるのではないか。また、前述した楊文広の二人の花嫁問題に代表されるさまざまな齟齬などについても、結局はこの両作品の編纂方針と深く関わる一連の現象の一つであると考えている十四

  本稿において、この二系統の︽楊家将演義︾小説の内容や構成についての差異を明白にしたことで、それぞれの具体的な対比・考察結果が、今後、︿楊家将演義﹀全般の更なる調査・研究に役立つ具体的な資料の一つと成り得るのではないだろうか。例えば、現時点においてすでに相当数を確認できている、史実に記載された内容や地方劇・雑劇などの演目や情節、北方及び江南地方を中心に流布している多様な︿楊家将﹀説話十五のあらすじとの比較作業を行う事で、二系統の小説成立から現在に至るまでの伝承の軌跡について、また、これらの小説が、どの時代の、どの地方発祥の説話に基づいているのか、について詳細に調査する対比材料とも成り得るであろう。更には、それぞれの小説が拠ったとされる旧︽楊家府伝︾の同異や底本の存在の有無十六、その成立過程について、より詳細な事実を解明するための有用な資料とも成り得るのではないか、と考えている。

  おわりに

  本稿は、筆者修士論文﹃近世白話小説翻訳研究  ︱楊家将演義を対象に︱﹄(二〇一二年一月)の本編より一部分を抜粋、再構成、加筆したものである。

  本稿で述べてきたように、本国中国においても、また当然わが国においても、専門家・一般読者の別を問わず、二系統の︽楊家将演義︾小説、︽北宋志伝︾と︽楊家府伝︾は、従来、厳密に区別されること

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なく一括して︿楊家将演義﹀と称されてきたのだが、この二系統の作品はそれぞれ全く別のストーリーを有しており、内容や構成、結末などから見ても二種類のまったく異なる小説である。ただ両者に含まれるプロットについてはかなりの部分で共通しているものも存在していることは事実である。この二系統の作品は、ある意味においては互いに関連し補完し合う関係にあるということができると考えている。

  これら二系統の︽楊家将演義︾小説の内容や構成については、先行研究でもすでにいくつかの論考があるが、筆者の考えでは意を尽くしているとは言い難い部分が存在する。特に二系統の板本の相互関係分析については、従来からの曖昧さを払拭出来ていないと考えている。したがって、本稿ではまず、この二系統の︽楊家将演義︾小説の各プロットの構成や人物の対比に注目して精読し、その結果を図表にまとめて整理する必要があると考えた。

  次にそれらの結果を踏まえた上で、︽北宋志伝︾と︽楊家府伝︾の相異点について考察してみると、そうした相異を生じさせた主たる原因が、この異なる二系統の︽楊家将演義︾小説を刊行した、熊大木、紀振倫という二人の編者の編集方針の違い、ひいては彼らの履歴・性格の違いによる所が大きい事が明白となり、先の論文﹁﹃楊家将演義﹄再考︱︽北宋志伝︾と︽楊家府伝︾をその対象に︱﹂では、両作品の編集者それぞれの執筆意図についての論稿を行った。

物であることが知られている。 集段階から辣腕を振るい、当時の出版業界において大成功を収めた人 特に白話小説作品の中でも﹁演義物﹂の刊行において企画・立案・編 ように嘉靖から万暦年間にかけて福建省建楊を拠点に書肆を生業とし、   ︽︾行宋志伝なから明もで究研先のは、北いつに木大熊者、集編て

  一方、︽楊家府伝︾の編集者である紀振倫については、その字と号、江寧の人という祖貫以外にその出自を示す資料は全く残っていない。ただ、︽楊家府演義︾に付された自序や物語の途中に見える自作と思われる詩詞から推して、士大夫階級として必要十分な教養を身につけた人物ではあったらしいと推測できるのみである。恐らく彼も同時代 に白話小説の執筆・刊行に携わった他の知識人同様、官途においては出世には恵まれずに終わった下級文人の一人であったのだろう。  対照的ともいえるこの二人のキャラクターは、それぞれが残した︽楊家将演義︾小説に見事なほど鮮やかに反映されている。読者の好尚を熟知し、商業的な成功に導く秘訣を十二分に心得ていた熊大木は、楊家一族の事跡を含めた宋王朝成立時代の史実や伝説をまとめるに当たり、多種多様なエピソードを手際よく分類し、時間の縦軸に沿ってそれらを配置し、三部作以上の長編小説に作り上げるという、極めて周到な計画を立てそれを実行に移した。計画は結局、完結を見ないまま彼の死によって頓挫してしまったが、︽北宋志伝︾は熊大木の目論見通り、多くの読者の支持を得て売れ続けた。後世、小説︽楊家将演義︾はこの︽北宋志伝︾系に収斂することになり、清代以降多くの地方劇に作品を生んだ一連の︽楊家将劇︾も、︽北宋志伝︾系の物語に則った筋立てを有している。  一方、︽北宋志伝︾に遅れること十三年、万暦三十四年に刊行された︽楊家府演義︾の物語はその書名が示す通り、内容を楊家一族の人物伝に絞り楊家の英雄たちの数奇な生涯を描いたものであり、随所に娯楽的要素を盛り込んだ︽北宋志伝︾とは、明らかに異なった風格を備えている。文章もまた悲劇性を前面に押し出した描写が施されており、人物のイメージも武将としての高潔さが非常に強調され、しばしば編纂者個人の感慨や憤懣を交えた、激情的で高揚した調子が目立つ。紀振倫の文体は︽北宋志伝︾のそれよりやや文語的で洗練されており、挿入された詩詞にも意識的な彫琢が加えられている。  ︽楊家府演義︾は全体に文人趣味的な色

彩が強い作品となっており、このために却って読者である一般市民層の共感を得られず、清代以降になると︽北宋志伝︾系の板本に完全に凌駕されてしまった。筆者はそこに、時代の風潮を知り、読者の心を掴んだ者と、読書人的な発想から抜け出せず旧套に拘った者との差が明確に表れているのではないかと予想している。

  これらの調査・分析を踏まえた上で、本稿においては、二系統の︽楊

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家将演義︾小説の各プロットの関係性について対比し、従来とは異なる見解と可能性について述べてきた。従来同じプロットと認識されてきたものが、必ずしもそうとは言えない性格を帯びている可能性についても言及した。

  前述したように、この二系統の︽楊家将演義︾小説には、何度も何度も繰り返し同じ内容のプロットが現れるという特徴がある。勿論、筆者もこれらのプロットを形成するそれぞれのモチーフが極めて似たものであることは十分に承知しているが、二系統の板本を丹念に読み解くことで、明白な事実を更に多く確認してゆけるのではないではないだろうか。

  更には、本稿において、この二系統の︽楊家将演義︾小説の内容や構成についての差異がより明白になったことで、その対比・考察結果が、今後、二系統それぞれの小説研究における、極めて有用で具体的な資料の一つと成り得、更に詳細な調査を可能にすると考えている。

  以上が、二系統の︽楊家将演義︾小説の板本の対比により現在、筆者が得た結論である。ただこれは、あくまでも二系統の︽楊家将演義︾研究の途中経過において導き出した一部分の見解に過ぎず、今後、更に多くの疑問点や不明点の調査研究を継続する必要があるのは言うまでもないと考えている。またその過程で、更なる新しい発見や可能性が数多く導き出せるであろうと確信している。

参考文献【使用板本】・国立国会図書館所蔵・経国堂﹃玉茗堂批點繍像南北宋志傳﹄・北大学所蔵・維経堂﹃玉茗堂主人按鑑批點南北宋志傳﹄・東京大学所蔵・天一出版社﹃全像按鑑演義南北両宋志傳﹄・国立故宮博物院編輯/明代版畫叢刊﹃楊家府世代忠勇演義﹄・上海古籍出版社﹃楊家府世代忠勇演義志傳﹄・国立国会図書館所蔵﹃鐫出像楊家府世代忠勇演義志傳﹄ 【主要な参考文献】・大塚秀高﹃増補中国通俗小説書目﹄  汲古書院 1987. 5. 15・上田  望﹁講史小説と歴史書(2)       ︱﹃残党五代史演義﹄、﹃南宋志伝﹄構造と変容︱﹂      ﹃東洋文化研究所﹄第137 1999. 3・上田  望﹁講史小説と歴史書(3)      ︱﹃北宋志伝﹄、﹃楊家将演義﹄の成書過程と構造︱﹂      ﹃金沢大学中国語学中国文学教室紀要﹄第4 1999. 4・平原真紀﹁﹃楊家将演義﹄再考

      ︱︽北宋志伝︾と︽楊家府伝︾をその対象に︱﹂

      ﹃中国俗文学研究﹄第二十二号  中国俗文学研究会2013. 3・余嘉錫﹁︽楊家将︾故事考信録﹂﹃輔仁学志﹄ 19451・魯迅﹃中国小説史略﹄人民文学出版社 1958・孫楷第﹃日本東京所見中国小説書目﹄  人民出版社 1958・羅繼祖﹃楊業与楊家将﹄  吉林日報 1962. 7. 3・南開大学中文系﹃中国小説史簡編﹄  人民文学出版社 1979・趙景深﹁﹃楊家府﹄与﹃宋伝続集﹄﹂﹃中国小説叢考﹄  斉魯書社 1980. 10・趙景深﹁楊家将故事的演変﹂﹃中国小説叢考﹄  斉魯書社 1980.10・馬力﹁︽南北宋志伝︾与楊家将小説﹂﹃文史﹄第12  中華書局 1981. 9・周華斌﹁関于︽楊家将演義︾的版本和作者﹂﹃︽楊家将演義︾明・     秦淮墨客校訂本  序文﹄  北京出版社 1981・黄立振﹃八百種古典文学著作紹介﹄  中州書画社出版 1982. 8・孫楷第﹃中国通俗小説書目﹄  人民出版社 1982.12・徐朔芳﹁元明兩代的楊家将戯曲和小説﹂﹃戯劇論叢﹄ 19823・曽白融﹃京劇劇目辞典﹄  中国戯劇出版社 1989・丁錫根﹃中国歴史小説序跋集﹄  人民文学出版社 1996・郝艶霞﹃楊家将全伝﹄  湖南人民出版社 1998. 8・陳大靖﹃明代小説史﹄  上海文芸出版社 2000・孫旭・張平仁﹁︽楊家府演義︾与︽北宋志伝︾﹂﹃明清小説研究﹄ 20011・陳文新等﹃明清章回小説流派研究﹄  武漢大学出版社 2003・裴効維﹁楊家将故事的産生与変﹂﹃徐州師範大学学報﹄ 20051・常毅﹁元明時期"楊家将"戯曲小説研究﹂曁南大学﹄2005・謝伯梁﹃中国当代戯曲文学史︵第二版︶︱研究生教学用書﹄中国戯劇 2006.W.l.Idema Chinese Vernacular Fiction Leiden, E.J.Brill 1974 

 

参照

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