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——大塚和夫さんを偲ぶ

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Academic year: 2021

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Field+ 2010 01 no.3

2009 年 8 月、ヴィク トリア湖畔にて散骨。

大塚先生は、ナイル川 の源流を始めとしナイ ル川、レバノン、そし て青海省は黄河の源流 から、またご遺族の手 で故郷の釧路の馴染み の川からも旅立たれた。

爽やかに筋を通す人

——大塚和夫さんを偲ぶ

野家啓一

のえ けいいち/東北大学大学院

 うかつなことに、大塚和夫さんが急逝されたことを、私は「お別れ会」

の案内をいただいて初めて知った。そのときに受けた衝撃は計りしれな い。フィールドワークで鍛え上げ、頑健そのものと見えた大塚さんがも はやこの世におられないとは、今もって信じられない思いである。

 私が大塚さんと最初にお目にかかったのは、神戸の居酒屋において であった。1995年10月のことだから、もう15年ほど前のことになる。

当時、神戸大学におられた倫理学者の水谷雅彦さん(現京都大学)が 私を集中講義に招いてくださり、たしか同じく集中講義に来られていた 大塚さんに引き合わせてくれたのである。

 盃が進むにつれて初対面とは思えないほど話が弾み、たまたま話題 は私が柄谷行人『探究Ⅰ』(講談社学術文庫)の巻末に書いた解説文に 及んだ。そのとき大塚さんは「野家啓一ともあろう者が、このような陳 腐な図式に寄りかかるとは何事であるか」とぴしゃりと言われたのであ る。それは「柄谷がウィトゲンシュタインとキルケゴールの中に発見し たものは、いわば『異人としての他者』である。それは、共同体の〈外 部〉から不意に到来し、共同体のアイデンティティを危機に晒す暴力 的存在にほかならない」という私の一文に関してのことであった。大塚 さんは慧眼にもこの文章の背後に山口昌男の「中心 ‐ 周縁」論がある ことを見抜かれ、それを援用した安易さを批判されたのである。

 私はグウの音も出なかったが、その率直な物言いに不思議と悪い気 はしなかった。まさに正鵠を射た爽快な批判だったからである。その折 の私の印象は、大塚さんとは「爽やかに筋を通す人」だ、というもので あった。その後の長い付き合いの間でも、この初対面のときの印象は一 貫して変わっていない。

 次に大塚さんとご一緒したのは、国立民族学博物館で杉島敬志さん が主宰された「人類学の解釈学的転回」をテーマとする研究会であっ た。1996~98年にかけてのことである。その頃はオリエンタリズム批 判やポスト・コロニアリズムの影響から人類学内部でも人類学という学 問そのものの存立根拠を問い直そうという機運が高まっており、この研 究会においてもそうした発言が目立っていた。それに対して大塚さんは

「われわれ人類学者はフィールドワークを行い、民族誌を書くことを通 じて、そうした批判に答えるほかはない」ときっぱりと言われたのであ る。これもまた、いかにも大塚さんらしい発言として私の記憶に刻まれ ている。

 2007年4月には大塚さんが所長を務めておられたAA研の共同研究プ ロジェクト「ムスリムの生活世界とその変容」にコメンテイターとして 招いていただいた。大変刺激的な研究会で、私自身も異分野の方々と の議論を大いに楽しませていただいたが、久しぶりにお目にかかった大 塚さんとは、互いに管理職の身にあることから「同病相憐れむですね」

と挨拶を交わしたことを覚えている。それがきっかけとなって大塚さん には私が編集委員の一人であった「岩波講座哲学」の第11巻『歴史/

物語の哲学』に、無理を言って「『オリエント』の歴史意識」を執筆し ていただいた。大塚さんからは「『管理職』のためフィールドに行く機 会が減り、ついつい理屈っぽい文章しか書けなくなっているこのごろで す」というメールを受け取ったが、西欧中心の巻にまさに画竜点睛とい うべき論文を寄稿いただいたことを今でも感謝している。

 大塚さんとの共同作業の最後となったのは、2008年初頭に行われた 稲盛財団主催の「京都賞」選考であった。鷲田清一さんを委員長とす る「哲学思想」分野の専門委員会だったが、狭義の哲学に留まらず、

社会倫理面での貢献や社会活動にまで選考の範囲を広げようというこ とで、大塚さんが加わられたのである。選考基準を決める最初の委員 会で、拡大方針に対して議論が百出し、ノーベル平和賞と同様に政治 的思惑や宗教的対立がからんでくることについて、多くの委員から危惧 の念が表明された。そのとき私は思いつきで「たとえばガンジーやマ ザー・テレサのような人なら文句は出ないのではないか」と発言したの だが、大塚さんは直ちに、彼/彼女らがいかに政治的・宗教的文脈に 深く関わっているかを説いて断固として反論されたのである。ここでも また、私は自分のうかつさ加減を反省させられ、大塚さんに白旗を掲げ たのであった。

 以上、大塚さんと私の幾つかの接点を素描してきたが、いずれも鮮 やかに記憶に甦る場面ばかりである。もはやこのような機会が奪われて しまったのかと思うと痛恨の極みだが、大塚さんもまた「神々に愛され た者」の一人であったと考え、瞑目するほかはない。仄聞するに、大塚 さんの骨灰は椎野若菜さんの手によってアフリカはヴィクトリア湖の湖 畔から散骨されたという。いかにも大塚さんに相応しい葬送儀礼だが、

今頃は悠然とナイル川へ下り、大河の一滴となって旅を楽しんでおら れるに違いない。ご冥福を祈るや切である。

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