92 彦根論叢第233号
た。 残念なことには,その後における学部再建の基本的態度および方針に,総退陣の精神が 十分にいかされていないと判断されることが現れてきました。これに納得することが出来 ず,河野さんは他の3人(白杉庄L・郎氏,杉原四郎氏,それに私 白杉庄一郎氏と私は 後に滋賀大学に奉職しました)とともに京都大学を去りました。 京都大学に別れをつげたこの4人の者が.しばらくして食事をともにしたことがありま す。話は当然京大辞職のこと,教官総退陣のことになりました。さきに紹介した「真理の 探究者として……自己の良心に反して語らざりしか」ということに話が進みました。それ はさきにもふれましたように「総退陣」に結集していく若い学究たちの真清を現わすもの でした。4人はこのことを確認しました。このとき河野さんが「これからですよ」といっ たことを私はよく覚えています。いかなる権力にも屈することなく,真理の道を歩み,き ぜんとして学問の自由を守ろう。戦争は終った。しかし占領下における学問研究が始まっ ていたのです。こうした事態を直視しつつ.河野さんは社会科学の学究として,自分にき びしい戒律を課したのだ,と思います。河野さんの原点を見る思いがします。河野さんの 学問一それをつらぬき,それを支えている誠実さと気骨はこのようなものであったと私 は思うのです。 京都の西南一乙訓の長岡で住居が近かったこともあって河野さんはよく私宅を訪ねて きました。昨年はとくにしばしば顔をみせてくれました。最後の訪問ぱ11月下旬であった と思います。血圧が高いので酒をやめた,と寂しそうにいうので.元気を出せ,と励まし ました。帰りぎわに「近く孫が生れる」と少々照れ気味に微笑したところがとても印象的 でした。私の古稀を祝い,河野さんの定年退官を記念して,来年(85年)は,北陸の,か つて私たちが遊んだ思い出深い温泉へ出掛けよう,と旅の約束をしました。もはや2人で 旅をすることも出来なくなってしまいました。しかし私はひとりで旅をし,河野さんを偲 ぶつもりです。 心から河野さんの冥福を祈ってやみません。河野さんを偲ぶ
松 尾
博 河野教授,河野先生と申し上げなければならないのですが,河野さんと呼ぶことを許し ていただぎます。 河野さんは,自然年齢においても,大学卒業年次においてもJ私より一年先輩でした。 したがって,京大で,戦前同じ時期に学んでいた筈なのですがJその頃にはついに,私は お近づぎになることがありませんでした。お近づきになったのは戦後になってからです。 私事にわたりまずけれども,そのきっかけを,まずお話ししなければなりません。93 先程有田先生がおっしゃったように,河野さんは,学部総退陣事件が起こって,京大を 退かれた後,二,三の大学で非常勤講師を勤めておられたわけですが,そのひとつが大谷 大学でした。ところが,やがて,関大に専任で行かれる話が決まった矢先に,その大谷大 で,専任になってもらえないかという話が出たようでした。そこで河野さんは,自分は関 大に行くことになったので,誰か代りの人を推薦しようと答えられて,白皮先生に相談さ れたのです。当時,私は,大学院に戻ったもののまだ定職ができず,かなり不安定な状態 にいたために,白杉先生が,その河野さんの話にもとづいて,私を大谷大に推薦して下さ いました。これが,私の河野さんにお会いする最:初のぎつかけになったのですが,私とし ては,その後学界で研究に精進することができる契機を作っていただいたという意味で, 河野さんに非常な恩義をこうむっているわけです。 ところで,河野さんは,こうして関大へ移られた直後に結婚されたのですが,結婚後の 最初のご新居を,たまたま京都の山科,しかも偶然にも私と同じ町内に定められました。 そのため,ほんのしばらくの問ではありましたが,私たちはお互いに家族ぐるみで親しく おつきあいすることになったのです。はじめに申したように,河野さんは,すべての点で 私より一年先輩なのですが,結婚生活だけは私の方が先輩でした。そこで私は,家内とも ども,得意になっていろいろと結婚生活にかんして「御指導」申し上げた次第でした。も っとも,家内はすでに二更をもって奮闘の最中でしたから,まさに蜜月のお二人を見て非 常にうらやましがっていました。ふりかえると,当時はお互いに随分若かったなあと懐か しまれますが,それも今となってはまことに悲しい思い出になってしまい.ました。 その後,河野さんが長岡に移られ関大に勤務しておられた20年ほどの間は,あまり親し く交わるチャンスに恵まれませんでした。ただ,その閲,有田.先生もおっしゃったよう に,白杉先生J有田先生.私の問で,たえず,河野さんや杉原さんに滋賀大へ来ていただ いたらという話が出ていました。そして,これは白杉先生がお亡くなりになってからにな ってしまいましたけ’れども.ついにその話が実を結んで,昭和44年に河野さんに滋賀大へ 来ていただくことになったのです。それから,私たちは,再び親しくおつきあいできるよ うになりました。 お互いに京都方面から通勤しているので,たえず往き帰りの電車を共にしたのですが, その際話しながら非常に印象づけられたことは,河野さんが,単に専門の社会政策学だ けでなく,その他の学問領域についても実に広い知識を持っておられることでした。こと に,これは商学部におられたからかもしれませんが,私たち経済学専攻老にとっては案外 縁遠い経営学の領域にかんして非常に詳しく,啓発されるところが多かったことを記憶し ています。それから,勤務先を同じくするにいたって改めて気付かせられたのは,河野さ んがきわめて責任感の強い方だということでした。それは,まず,有田学部長のもとで, 補佐として学務委員をやられた時にあらわれました。当時学務委員としての河野さんが取 組まれた一番大きな仕事は,カリキュラムの改革であったわけです。河野さんはそのため の検討委員会を組織して,その委員長として実に頻繁に会議をもたれましたが,その熱心