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霜   田   美 樹 雄

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ポベドノスツェフ小伝

霜 田 美樹雄

一 生い立ち

ポベドノスツェフ小伝

 一九世紀末︑ロシア帝政末期の政治と宗教の問題に大きな影響力を与えた政治家はポベドノスツェフ.コンスタン

ティン・ペトロピッチ︵口︒α舞02①メ ズO霧↓碧↓年頭︒陣門霞〜H︒︒b︒刈一一〇ミ︶である︒現代ソ連邦での彼の扱いは

当然のことながら極端な反動の教唆者︑反動的活動家︑南ヨーロッパ文化︑社会生活の敵対者としての政治家と評価

している︒だが一九世紀ロシアの政治と宗教を見る場合︑彼の活動を無視して通れない︒ここでは宗務長官︵oαo喝

銅6越宕℃6塁︒遷︶としての活動にしぼって考察する︒

 彼は一八二七年五月一=日モスクワ市アルバート街の当時としては静かな町に生まれた︒それはクレムリンや大学

に歩いて程近く︑古都の活動と生活の中心であり︑官僚人︑商人が主として住み︑一部は教師︑作家などの住居地で

あった︒そこは一八一六年いらいその家庭の住居であり︑一九〇七年彼が死んだときもなおその家の財産であった︒

シメナソ・ストルプニク教区教会に近く︑若いときから教会の鐘にしたしみつづけた︒

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 彼の母についての情報はきわめて少い︒彼女はコストロマ近くのうバショフという名の古い貴族の家の出である︒

彼女は無教育だったが深い宗教心︑けなげな性格の持主だった︒一七八○年生れで︑一九世紀のはじめ一五才年長の

夫に嫁し︑長い人生を通じてその家庭の中心となった︒彼女が子供達のうえに与える影響を正確に評価することは困

難だが︑少くとも強い宗教感情を与えたことはたしかである︒彼女は夫の死後約四半世紀生きつづけ一八六七年息子

コンスタンティンが妻帯しともに住むのをみとどけて死んだ︒コンスタンティンはその生涯の終るまで四C年間︑ペ

テルブルグからモスクワに毎年九月︑母の死んだ日に墓参しつづけた︒

 彼の父ピョートルはモスクワ・クレムリン赤の広場近くのニコルスキー街ザイコノスプラスカヤ・アカデミーロシ

ア正教司祭館で教育をうけた︒一七九六年聖職者としての教育を終え︑翌年モスクワ大学予備門でギリシャ語︑フラ

ンス語と修辞学を教えた︒同年モスクワ大学から哲学と文学のM・Aを授与さる︒一八〇五年アレキサンドロフスキ

ー大学にうつり︑そこで一八三一年まで良家の子女にロシア文学を教える︒一八=一年ロシア軍のフランス侵攻の直

前︑モスクワ大学メリッリアコフ教授の助手となり︑一八一四年同大学でロシア文学と修辞学の講師となり︑文法の

厳格な順守と口語の純粋性を強調した︒一八二六年教授となり︑︼八三五年退官する︒一八四三年九月モスクワにて

死す︒彼は退官するまでギリシャ︑ローマ文化の多産な翻訳者評論家であった︒彼はまた一八一一年から二七年まで

国勢調査委員であり︑この職務は家計を補助するのに大いに役立ち︑また国家の中の自己の役割へのはっきりした態

度を示した︒さいごに彼が富裕なモスクワの貴族や商人の子を教えたことが彼とその子供たちとの問に有利な関係を

もったことは否定できない︒

 この父母は=人の子供をもうけ︑少くともそのうち八人前成人した︒だが父がもっとも関心を払ったのはコンス

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ボベドノスツェフ小伝

タンティンであった︒

 それは主として父が六四才で退官したとき︑彼は七才で〜番若い息子であったことによる︒のちのロシア政治家は

その父の死の二年前学校で学ぶため一八四一年ペテルブルグへ行くまで父のもとで教育をうけた︒この父の影響は甚

大で︑彼の文体は明らかに一八世紀の用語と表現でみたされている︒

 コソスタンティンは父から家で仏︑独語︑ラテン︑ギリシャ語スラブ語を如何に読むかを学び︑彼自身さいしょギ

リシャローマの古典ついで西欧古典︑宗教諸著作に専心した︒また父の思想は彼の興味を政治や自然に目覚めさせ︑

その批判精神を洒養し︑美と鑑賞の評価を強化し︑それに関連する読み書きを増大した︒そして勿論かれはロシアの

歴史と文学に特に熱中し︑その影響をうけた︒それゆえ彼.の公刊した多くの著作はまことに注目すべき学殖により目

立っている︒

 ところで︑彼は二二才のとき前述の如く法学校へ行く許可を与えられて︑一八四六年そこを卒業する︒この学校は

一八三五年ニコライ一世の甥オルデンブルグ公により創立され︑一八八五年帝室法学校と改称されたものである︒こ

の学校は元老院各部の実務面での貧弱を補強し︑市民サービスの法律面で若い貴族を教育︑充当するため設立された

ものであった︒だから大部分の学生は貴族の子弟であった︒彼の入学許可は父の努力によったと思われる︒父は明る

く利発な息子に厚いな期待をかけたのだ︒彼の学生としての主要な特長は勉学への献身であった︒しかし︑同時に彼

は文化活動をし︑ペテルブルグでオペラや芝居を学校でやったり︑現代軽文学︑小説など読みふける時ももった︒彼

は学生としてのさいこの四年間の日記抄を一八八五年自費出版したので︑右のような学生生活の大凡もわかる︒だが      器      1反面︑友人の馬鹿げたこと︑朋輩の隠遁者的ふるまいを好まなかったし関与しなかった︒彼の喜ばしい経験はべテル

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ブルグで独り散歩することであり︑ときには二五時におき︑アレキサンダ⁝・ネフスキi修道院のミサに参加した︒       24かくて法学校はある面でポベドノスツェフのうえにほとんど注目すべき効果を与えなかったのかもしれない︒たとえ 一

ぽ彼の研究態度︑読書の好み︑関心は彼の父のもとでつくられたし︑本校によって変らなかった︒先生への敬慕︑尊

崇が特に強かったわけでもなく︑また級友に対する密接なむすびつき︑友情をもったわけでもなかった︒

二 元老院事務局

 いずれにしても︑ポベドノスツェフはこの法学校を二番で卒業すると︑元老院第八部の実務当局者として配属をさ

れた︒ 一七一一年ピョートル大帝によって最高統治機関として創設された元老院はその機能と責任を幾度か変えた︒彼が

元老院議員になる二年前の一八六六年に二つもの大法廷が訴訟法体系の最高審として元老院に付置された︒一つは民

事であり︑他は刑事であった︒それは一九世紀ロシアの統治機構合体を通じて︑人々に元老院は法の保護者であり︑

最高の権威ある法廷との信念を強化したのだ︒もちろんそれ以前においても元老院は法律問題や政府行政に関する訴

訟の実質的最終審と考えられたが︑なんと云ってもその責任と権限ははっきりせず︑その手段も効果も明確を期し得

なかった︒ところで︑若いポベドノスツェフが勤務した当時の元老院実務当局は一〇部に分掌され︑うち第一部から

第六部までは首都ペテルブルグにあり︑第七部︑第八部はモスクワにあり︑第九部︑第一〇部は帝国最西部を管轄

し︑ワルシャワにあった︒第一部は理論的には行政行為の合法性とか国家機能のうえのあいまいな権力の全法性につ

いての諸問題を決定した︒他の学部は民事の終審法廷としても働き各地域を管轄した︒ポベドノスツェフがさいしょ

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ポベドノスツェフ小伝

に配属された第八部は南ロシアの管轄であった︒

 元老院での仕事は彼の履歴にとって非常に重要であった︒事務官僚としてこのさいしょの一五年が幸運で︑彼の上

司に二人の有能な人物がいたことだった︒第八部長のツブコフと次長のウルリソフであった︒ツブコフは一八一四年

から統治行政に関与した有能な行政マンで一八四〇年第八部長となった︒ロシア及びヨーロッパ史の研究家として秀

で︑ドイツ話︑フランス語に堪能であり︑モスクワの法制度改革に関心を持った..総じて彼らは元老院を効果的現代

的にするのに熱心であった︒二入は新しい徒弟ポベドノスツェフの能力と方向を認めるに早かったし︑ロシアの政治

的方向についての彼らの理解と法制度の知識を伝えた︒改革前の元老院は非常にリラックスな機構で︑聞くに熱心︑

学ぶに意欲ある若者は関係部局から多くの情報と理解をうることができた︒元老院議員自身はしぼしぽ閑職の地位と

考えられ︑その役職行為は各部門の助言と補弼に重く依存していた︒各部長はまた多くの度合において各実務当局法

律官僚に依存する状態で︑彼らは祥細な慣行︑判例知識の集積を必要とし︑このような保守的法体系のもとでポペド

ノスツェフの有能さが次第に認められたといえよう︒

 その後の彼の履歴について簡単にのべると︑一八六〇年から六五年にかけて︑モスクワ大学法学科の教授︑同時に

のちに王位継承者となるアレキサンドル三世︑ニコライ三世に養育係として法律を教えた︒一八六八年から元老院

︵8=胃︒で︶議口具 一八七二年から国事院︵﹃oo富℃自︒切︒器角60器月9︒︶議員となり︑一八八○年から一九〇五年まで宗

務長官となる︒一八八○年代の彼はこの職でアレキサンドル三世に非常な影響力を与えた︒これにつき略記したい︒

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三 宗 務 院

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 ロシア史におけるポベドノスツェフの栄与は一八八○年四月から一九〇五年一〇月までの問︑ロシア正教会宗務院

宗務長官の活動におかれる︒二五年間彼は結果として宗教問題の実質的担当者であった︒それは民族教会も認め︑支

持し︑それだけ彼の教会への責任と権威ばつねに大であった︒彼は前述の如く︑元老院︑国事院議員であると同時に

一八八○年一一月以来内閣員の一員であった︒これらの公職とツァー帝室との関係は一九世紀のさいこの四分の一世

紀のロシア政治生活︑とくに宗教と国家の問題に大きな影響を与えずにはおかなかった︒

 ロシア帝国の支配的宗教はキリスト教正教宣方量道会・ロシア正教会と宣言されている︒それゆえこの正教会は多

くの重要な利権︑特権を亨署していた︒それは政府により保護助長された︒また政府は他の宗教団体に対し︑伝道活

動︑教区活動さえも否定した︒だから正教は宗教宣伝の独占権を保持し︑また宗教的道徳的問題を扱う検閲権を持っ

た︒宗務院の宗務長官は中央政府の意向を代表した︒また主教を通じて地方︑ゼムストボに対し教会の代表を任命す

る権を持った︒

 それに一七一八年以降︑教区教会は帝国公法布告の指定場所となった︒また教区教会は国家ないし主君に対して悪

意を持つ者︑謀反︑不満をもつ者を報告することが求められていた︒このように正教会はロシアにおける公式宗教組

織であるぽかりでなく国家の直接権威と支配に服したのである︒逆に︑支配的信仰の教義の至高の擁護者保持者とし

てのツアーは信仰の正統性と正教会の規範の監理権をもった︒それはツアーがポベドノスツェフを宗務長官に選任し

たことにあらわれている︒この重要な決定に当り聖職者やその階序制のいかなるメンバーにも相談しなかった︒そし

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ポベドノスツェフ小伝

て彼を通じてツアーは教会の重要問題に直接関与したからである︒

 この宗務院とは﹁七﹁二年ピョートル大帝によってロシア正教会のために樹立された組織である︒以降二世紀串

間︑宗務院は教会の上に全権を行使し︑教義︑典礼︑聖職者︑修道僧︑尼僧の教育︑教会制度︑社会管区行政︑教会

財産︑教区司祭の修学監督に及んだ︒高位聖職者たちもこの宗務院の規約に服し︑その支配に反したり︑抗したりで

きなかった︒

 宗務院はモスクワ総主教︑聖ペテルブルグ︑キエフ各府主教およびグルジア管区の総督︵翼ω巷図︶︑それに事務総

長であり︑俗人である宗務長官によって短期に指名された八︑九名の主教たちにより構成され︑それらはすべてツア

ーにより任命され︑召集された︒

 宗務院はふつう年三回心催された︒ふつう五︑六名の高位聖職者が出席した︒ポベドノスツェブの時代になると宗

務長官の実質的権力は強大となり︑彼自身︑会合の議事日程︑議案をつくり︑論議もほとんどなく終了した︒宗務院

は完全に宗務長官の支配下にあった︒ポベドノスツェブは教会におけるツアーの目とされた︒全権を握ったツアーの

代表としての宗務長官の教会行政への関与は絶大であった︒

 したがって高位職者は分離弱化され︑しばしば転封されたのであった︒ポベドノスツェフのもとである主教はほと

んど毎年転封されたし︑彼等の多くは一つの場所に引きつづき四年もいなかった︒それゆえ主役たちは彼等自身の管

区ではほとんど行政的権威をもたなかった︒なぜなら管区行政活動はそれぞれ俗人書記により準備された手続によっ

てなされ︑これら書記は宗務長官により任命された︒かくて長官は全管区の教会行政権を掌握した︒国家と同様にご       27の教会行政にかかわる腐敗と繁文褥礼の責任の大半はこの高度に中央集権化された支配体制に帰すべきである︒   −

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 各教区教会を運営する司祭は心身的に前記主教たちよりもっとも宗務院の支配に服することになる︒司祭のほとん      28どは司祭の息子であり︑彼等は教養も知識もなく︑貧困に喘いでいた︒無教養で貧乏そして過労な仕事は彼等自身の −

教区民によっても愛されなかった︒

 だがそれにもかかわらず司祭たちは教会雑務のほか前記国家業務も賦課され︑事実上下ッ葉官僚としての命令を従

順にうけた︒そして国家権威に対して大衆の尊信と崇敬が払われるべきことを示した︒

 教会は示達や布告を公示︑報知し︑重要な公式記録を保存し︑他方︑教会典礼で公式行事をとり行い︑宣誓その他

忠誠の表現をなした︒それは国家権威への服従を説き︑現状への尊敬と愛国心を示すものとされた︒

 ポベドノスッェフの生活全体はいうまでもなくその宗教組織を支持し︑うけ入れたところのもっともロシア的官

僚︑教会人であり︑まことはロシア人であった︒

 ところで︑ロシア正教会入信者の数について︑一八八一年から一九〇五年までの彼が長官として作成した年報に

よれば︑一八八一年六三〇〇万︑一八九五年七七〇〇万︑一九〇四年八八○○万と漸次増加した︒彼の報告はこの時

期︑異教からの入信者の増加によるものとした︒彼は一九〇三年︑人口約一・二五億のうち約七〇%は正教会信徒で

あり︑また旧教徒は二〇〇万以下であるとした︒

四 宗務長官

 ポベドノスツェフは良く献身する有能な官僚であったが敏腕の資質ではなかった︒彼は仕事を愛しそれをしない入

を侮った︒彼は任務を達成するに効果的であり︑現実を当面のありうべき理想につなげるに組織的であった︒

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ポベドノスツェフ小伝

 彼は仕事とのつながりから個人利益を求めるに異常なまでに忠実であった︒

 彼の生涯のさいこの四〇年間は準備し︑読まねばならぬ多くの報告︑出席を求められた諸会合︑会わねぽならぬロ

シアのあらゆる階層の男女︑彼の責任となるあらゆる種類についての働ぎの量に圧倒された︒

 彼は一八七八年彼のアパートに新たに一室を付加できたとき狂喜した︒請願者と効果的に会見できるからであっ

た︒一八七〇年代初頭から彼のアパートはロシア全土からの男女が謂集した︒修道院の基金募集︑鉄道建設の政府許

可を得るため︑新聞発刊︑無能な聖職老の転封︑学校建設の相談などの助言︑補助を求めてであった︒これらの訪問

者は昼となく夜となく彼のアパートに群り︑時間をむさぼったが︑同時に彼は決して誰にも会うことを拒否しなかっ

た︒ このような仕事への絶えざる献身が一八八○年宗務長官になったとき︑前述の教会行政組織化が効率化を目指した

のである︒このため彼は前任者と話したり︑宗務院における主要かつ緊急問題で補助者と話した証拠はない︒彼自身

の記録や友人で親しい間柄の高位聖職者たちのメモも彼が宗務院の会合をあまり重要と考えていなかったことをあら

わす︒彼は独自で情報収集し︑判断した︒

 彼の任期のさいしょの二年間︑彼はひろく旅行し︑特にヨーロッパ・ロシアの北西部︑ルター主義︑カトリック教

の強力な地域に行った︒これらの訪問はロシア正教会の強い点︑弱い点︑教会が当面している諸問題に重要な考察の

資料を与えた︒そのほかその後︑問題の起った地域︑ウラルの東方に公式使節として二度︑コーカサスへは査察使と

して三度の旅行をした︒      29 彼は主教や各地神学校長︑他の宗教制度︑高名な宗教指導者たちから判断や情報をあつめる体制を発展させなかっ ー

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た︒事実︑彼は教会における主教たちについて良く知らなかったし︑彼の仕事についての体系的観測をなさなかっ      蜘た︒彼はさいしょの八年間で長官として宗務会議︵8αo℃︶を三回開催したが実のあるものは何もなかったし︑さい

この一五年間の聖職者の地方宗務会議でもそうであった︒府主教たちとのつながりも密接ではなく︑モスクワとペテ

ルブルグの高位聖職者たちは彼とほとんどかかわりあいはなかった︒

 長官として彼は高位聖職者の特殊な友人に信を置いた︒たとえばカザソのニコラス・イル︑︑・ンスキーやスモレンス

クのセルゲイ・ラチンスキーであった︒彼等は教育をうけた貧農出の非ロシア人で回教徒であり︑辺地のこの宗教に

特別の関心を払ったためであった︒正教会についてはオデッサの主教ニカノール︑ボルタワの大主教イラリオンやト

ムスクの大主教マカリーたちであった︒彼等はスツンダ派や旧教徒たちの間に伝道活動の大きなエネルギーをささげ

たからである︒スツンダ派とは一八六〇年代から勃興した新派で正教会の典礼︑教義を拒否し︑友愛と勤労を高唱し

たものだが︑旧教徒とともに彼等は正教会への復帰を熱心に呼びかけたのである︒

 ツアーから特殊な栄冠と報奨をうけたこれら高位聖職者たちはポベドノスツェフからも愛顧をうけ︑また彼はこれ

らの人々から特別な情報をうけた︒このように彼はヨーロッパ各地の彼に共鳴する多くの友人からの手紙や訪問を宗

務院の行政装置をつかうより重用した︒

 ポベドノスツェフの妻であるカタリーナ・チェチェブナは一八八二年春に死ぬまで教会政策にしぼしば影響を与

え︑とくに高位聖職者や宗務院スタッフの任命などそうであった︒

 実際に彼が行った宗務行政手続の分析︑とくに高位聖職者に関する情報の入手︑叙任や昇進についての勧告の収集

について︑彼の判断の失敗を説明するに足る︒

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 ポベドノスツェフは宗務院の長官となったとき︑ウラジーミル・サブラーを顧問としてつれてきた以外は宗務院事

務局スタッフを任期中再構成したり︑増大改良したりはしなかった︒サブラーはポベドノスツェフがモスクワ大学に

いたさいこの年に民法の研究をはじめた人であるが︑学者として官僚人として目立った業績を残した人ではなかっ

た︒だがポベドノスツェフは彼の旺盛な仕事への献身とエネルギーを愛して起用し︑たえず彼にたよった︒サブラー

はまもなく事務局主任に指名され︑検閲官という特別任務をもち︑一八九二年副長官となり︑一八九六年元老院議

員︑一九=年宗務長官となった︒これはサブラーが教会政策に関して目立った指示︑行政手腕を発揮した証拠でも

ない︒逆に司祭たち︑高位聖職者たちの中でさえ多くの敵をつくらぬため仕事をしなかったとの評もある︒

 ところで︑ポベドノスツェフの宗務行政にもどれぽ︑ロシア正教会とロシア帝国の関係つまり彼の仕事の核となっ

ているのは彼の哲学である︒約言すれば彼はすべてのロシア人は原則的にロシア正教会のメンバーであるべきだと考

えた︒

ポペドノスツェフ小伝

五 む す び

 彼は教会の責任は大多数のロシア人に対する布教はその活動的メンバーのあり方によるとした︒教会の主要な機能

はこれらを通じて多くの入海に宗教行事︑指導︑啓発を行う︒主要な使命は正教の智識とその理解を増加することで

あった︒ 彼によると教会の第二の使命は迷える羊を救うことにあるとする︒たとえぽ︑ある戸シア人は正教会から脱落し︑

旧教やその他のセクトに走った︒これら背教者たちを真の宗教的国民的衿止にひきもどすことであり︑ライバル・セ

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クトを低下し減少することであった︒      32      1彼は帝国におけるロシア人の間に精神的統一体をつくることに努力し︑旧教や他のセクトと斗うため彼の時間とエ

ネルギーの多くをささげた︒また第三に彼の目は非ロシア人が住んでいる一般に帝国の西域や中央アジアのように帝

国首都から遠いところだった︒これらはフィンランド人︑ドイツ人︑ポーランド人︑ユダヤ人︑ウズベック人その他

であり︑宗教信仰としてはルター主義︑カトリック教︑回教︑ユダヤ教などであり︑それらは正教︑旧教その他のセ

クトからまったくことなった対策を必要とした︒つまり︑非ロシア人︑非正教信仰は正教にとって脅威︑とくにそれ

らの間に住んでいる正教徒にとって脅威であった︒

 彼等に関する限り︑彼の目標は非ロシア人に対しその信仰と影響を制限することであり︑その宗教的努力を少しに

ぶらすことであった︒

 このように彼の教会に対する政策は注目すべき受動的保守的性格であった︒

 だが︑布教を拡大し︑防衛するために︑ロシア社会のあらゆる部分に重大な影響を行使する第一線の司祭陣にロシ

ア正教の深い弱点をもったことは致命的であった︒

 前述の如く︑司祭の大多数は無学であり︑必ずしも連係もなくばらばらで︑過労であり︑彼等の義務のもっとも聖

なる仕事にも無関心であり︑彼等の多くはくだらぬ大酒飲みであり︑ある者は反逆的であった︒またあれかこれかに

おいてスキャンダルはふつうであった︒良き司祭は稀れでさえあった︒だが︑教会はあまりにも聖職者が少なかった

し︑多くの教会はこの不足ゆえに一八七〇年代には閉鎖したほどであった︒

 ポベドノスッェフはこれら農村司祭をひきいて正教会組織を保持し︑他に対して防衛したものといえよう︒宗務長

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官としてのこれら具体的政策は別の機会にゆずる︒

  ︹註︺       ・

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ポベドノスツェフ小伝

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