はじめに
入関後清朝の諸制度は明朝の制度を引き継いだものが多い。 しかしながら, 中央行 政に関しては明から入関後清へという流れの中で, 入関前清朝 (後金国) を経由して いることを忘れてはならない。 たとえば六部等, 順治期以降の漢地支配に明の制度を 用いる前に, 入関前の後金国に導入されていたものもある。 そのため諸制度が明から 清へどのように引き継がれていったかを探るためには, 入関前清朝における導入・運 用過程を明らかにする必要がある。
その一つの要素として, 考課や賞罰の付与等を含む官員に対する管理体制を明らか にすることが有用である。 それは, 対明をはじめとする大規模な戦闘が続く中で, 主 に武に関わる官員たちを如何に統制するかということは, 当時の後金国にとっては重 要な問題であったためである。
清朝入関前の官員に対する管理については谷井陽子氏の専論があり、 官員の功績に 対する評価としては, 「(銀の) 賞与―紀録―授官・陞官の順に高くなる」 と述べられ ている( )。
世職についての研究は松浦茂氏によって先鞭がつけられた( )。 氏の論を以下要約す ると, 世職とはヌルハチが整備した清朝独特の世襲官僚制度である。 官名は当初, 総 兵官・副将・参将・遊撃・備禦という漢語名が用いられたが, ホンタイジの天聡八年
( ) に ( 邦章京)・ (梅勒章京)・ (甲
喇章京)・ (牛 章京) という満洲語名に変更され, 更に順治四年 ( )
に (精奇尼哈番)・ (阿思哈尼哈番)・ (阿達哈
哈番)・ (拝他喇布勒哈番)・ ( 沙喇哈番) と再度改 称された( )。 天聡八年から順治四年までの間は, 世職の名称と八旗官の名称( )が同じ だったこともあり, 従来この二つは混同されてきたが, 実際は並立する二つの体系で あった。 世職を有することの特権としては, 世職の等級に応じた壮丁の官糧・徭役の 免除( )や刑罰免除権の付与があげられる。 これらの特権は世職の等級が高くなるにつ れて, 規模も大きくなっている。
ヌルハチによって世職制が導入されて以来, 論功行賞や裁判関係の記事を中心に,
清朝入関前における世職の継承次数付与に関する一考察
その成立時期を中心に
神 谷 秀 二
世職の授与・昇格・降格・革職・継承といった事例が頻繁に史料上に現れるようにな る。 官員に対して, 世職に免糧, 賞罰の相殺, 子孫への継承などが付随することで政 権への求心力を高めることが可能となる。 歴代の中国王朝が爵位等を用いてそうした ように, 入関前清朝においても, 官員を管理・統制する大きな 「餌」 として世職を用 いていたと想定できる。
本稿では, 世職の特権の一つでである継承次数について検討する。 継承次数とは、
世職継承に関して, 史料上に現れる 「あと○○次 (世) 継がせる」 といった表現のこ とである。
康煕朝の 大清会典 には順治十八年における, 世職の等級に応じた継承次数が示 されている( )。 しかし, 入関前における世職と継承次数に関する規定はない。 入関前 の継承次数自体が功績を反映する褒賞であるのか, 世職の等級に応じて与えられるも のなのか関しても, これまで述べられてきていない( )。 以下本論で述べるが, ヌルハ チ期には継承次数が出てこない等, 世職の継承に対する扱いが時期によって異なって いる。
そこで本稿では, 満文老档 ( ), 実録 , 内国史院档 等の世職授与 (継承) に 関する記事を集め, 世職の継承次数について検討する。 第一章では, 天命年間と天聡 年間以降の世職に対する方針の変化を概観する。 第二章では, 継承次数の成立時期, 第三章では各世職と継承次数の対応関係について明らかにする。 継承次数の問題は, 世職制度の一面にすぎないが, 入関前清朝の官員に対する方針・姿勢を明らかにする 手がかりになると考える。
また, 人事管理という一分野であるが, 当時の後金国が明の制度を如何に運用した のか, 或いはそこに満洲独自の要素がどれだけ存在するのかといった諸制度全般に通 じるケーススタディとして, より広範な問題に発展させることも可能だと考えている。
. 天命年間と天聡年間の世職継承に対する姿勢の違い
世職の継承次数に関する問題を扱う前に, 入関前をヌルハチの天命期とホンタイジ の天聡期以降とに分けて, それぞれの政権が世職継承に対して如何なる姿勢で臨んで いたかを概観したい。
) ヌルハチ期 (天命年間)
世職の継承自体はヌルハチの天命年間から既に行われていた。 ヌルハチの発給した 勅書に世襲を認める内容が書かれていた事例のあることが確認できる。
同じその日, が言うには, はいづれの戦においても先頭に立って 行動した功により, 一等総兵官の職を与え, 子々孫々代々この職を絶やさない。
のように政道を壊る罪を犯せばその身を殺すが, 誤って罪を得た 時はたとえ殺すべき罪を得たとて殺さず, 財貨を取るべき罪を得たとて財貨を取
らない。 一千二百五十両の罪を免ずる。 この言を書に書いて, 八王以下備禦以 上は頸に掛けている。 黄色の勅書に書いて捺印し, に与えてある。
満文老档 太祖, 頁, 天命八年五月三日 また, 以下のヌルハチの発言からも世襲を一般的に行おうとしていたと考えられる。
我が登用した諸大臣が功を立てて尽くせば, 戦死しても病死しても, 父の陞せた 職を子にそのまま与える。 諸官人よ, 汝等が政のために全うしようと公正に尽く せば, 汝等の子孫にも汝等の職をそのまま与えるぞ。
満文老档 太祖, 頁, 天命六年十二月
さらに史料上には病死であっても世職を継承させている事例が確認できる( )。 後述 するが, ホンタイジの天聡年間には戦死と病死の線引きが明確になされているため, 天命期の特徴の一つとして捉えられよう。
天命八年二月の から叔父 への継承の事例( )では, の遊撃の世職 を叔父 が継ぐ際には備禦に格下げされている。 さらに, 天命八年四月には 備禦の職を陞せて, 彼の父の参将の職を与えている( )。 ここでは彼の父の 参将を与えているが, 自身が保有していた備禦の世職は 「参将に陞せ」 た という扱いにされてしまっている。 つまり元来自分で有していた備禦の世職は, 高位 の世職である参将を継いだことによって吸収されたといえる。
また, 罪に伴って革職された場合, 誰かに職が継がれている様子はない上に, 革職 された者の身内が立職者の功を強調して誰かに継がせるよう嘆願しても聞き入れられ ない( )例もある。
総じて, ヌルハチの天命期はホンタイジの天聡期に比べて, 父や兄の功を子や弟に 引き継ぐという観念が基調になっていながらも, 世職の継承に関する扱いが形式化さ れていなかったことを指摘したい。
) ホンタイジ期 (天聡年間以降)
ホンタイジの天聡年間に入ると状況はやや変化する。 戦死と病死の線引きが明確に され, 世職を 「継ぐ功のある官人 ( )」 とそれ以外の者が差異化され ている( )。 つまり, 継ぐ功にも, 功 ( ) によって世職を継ぐことを生前に承認さ れている場合や, 死後に生前の功を勘案して継ぐ場合があった( )。
正黄の遊撃楊于渭が, 遼東の地の官を継ぐ功がないとして, 後に子孫に継がせる 功を求めて書を作って奏した言葉。 「…… (略) ……我の職を子孫に継がせる勅 書を与えるならば, 我の実の兄の子は三人, 孫は四人いる。 みな我の職を継ぐこ とができる。 そうなれば我が楊姓の職が絶えないことになる。 …… (略) ……」
と奏したので, この言葉はもっともであるとして, 官を継ぐ功とした。
「天聡五年八旗値月档」 三月十五日 歴史档案
この楊于渭の上奏から, 天聡年間には世職の継承が 「功」 による事前承認制であっ て, 官員の没後に世職がそのまま子孫 (近親者) に継がれるわけではなかったことが いえるだろう。 さらに, 功績を立てていても, 「継がせる功」 として承認されていな い場合には, この楊于渭の様に自ら上奏文を書いてそれまでの功績を主張し, 「継が せる功」 として認めてもらってようやく継承できたのであろう。
また, 世職継承では世職を保持していた者が明確にされている。 崇徳元年の の世職継承に関する記述では,
が病没したので, 子 に同じ三等 を継が
せた。 また十二度継がせる。 父の を に継がせたので, の代わりに弟 を同じ三等 とした。 継承は先の 通りである。
満文老档 太宗, 頁, 崇徳元年五月二十九日
とある。 ここではまず の三等 邦章京の継承が問題になる。 この三等 邦章京を子の に継がせるが, 彼自身は三等甲喇章京の世職を有してい るので, これを弟 に譲っているのである。
また革職者についても, 以下のような事例がある。
は得た俘虜が少なく, 捕えた羊を浪費しながら衆と共に送って来ず, 勝手に狩猟し, 一度は牛八頭を, 一度は牛四頭を盗み, 戸を編せよといっても編 しなかったので, 総兵官の職を革めたが, 父 の功の官であるからとて弟
に継がせた。
満文老档 太宗, 頁, 天聡六年九月五日
は彼自身の失態によって総兵官の世職を革職された。 しかし, その世 職は元来父親の功を引き継いだものであるとして, 弟に継がれている。 天聡期以降は このように世職を保有していた者が革職されても, その職自体は誰かに継がれるよう になっており, 立職者の功績自体が否定されないようにしている。
そのような立職者の功績を保存しようとする姿勢を示しつつ, 一方では, ヌルハチ に世襲や刑罰免除権を認められた人間に対して革職・勅書の剥奪が行われていた。 例 えば, 細谷良夫氏が既に論証されたことであるが, 天命年間に一等総兵官に陞せられ た は 「子々孫々死罪を得たとて決して殺さず, 財貨を取り上げる罪を得たとて 財貨を取らず, 二千四百十両の罪を免ずる」 とされ( ), 世職世襲権も認められていた
ようである( )。 しかしその後, 天聡三年から四年にかけての間諜隠匿や永平戦の責任 などによって革職され, の勅書は 原档 「黄字档」 から 「削除」, 剥奪されて いる( )。 つまり, ヌルハチの勅書によって保障されていた世襲権も天聡年間になって からは有効性が薄れたことになる。 ここにホンタイジ政権による天命年間からの方針 転換がうかがえるのではないだろうか。
. 天聡五年定例から天聡八年の継承次数設定
天聡年間以降, 世職授与の際に発給する勅書の記載事項に大きな変化が見られる。
刑罰免除権が世職継承権 (次数) へと変更されていった点である( )。
ヌルハチの天命年間においては, 世職の継承を保障する記録や, 実際に継承されて いる事例が多くみられる。 しかし, 実際に世職が子や近親の者に継がれる際にも, 史 料上には継承次数に関する記述はみられない。 実際の論功行賞などの褒賞として継承 次数を与えていることが史料から窺えるのは天聡五年以降である。
) 天聡五年の規定
継承次数に関連した記述が最初に史料上に現れるのは天聡五 ( ) 年である。
(原文)
(日本語訳)
この日 (天聡五年六月二十一日), ハンが功臣の官を継がせることを定めた。 他 国の貝子で, 自分の国を率いて来た者, 国が太平の時に進んで来た者であれば, 戦死しても病死しても功は同じである。 子孫をして代々官を絶やさない。 国に危
険が至り, 迫られて来た者であれば, 戦死すれば五度, 病死すれば三度官を継が せる。 戦毎に先頭に立って攻めて功を得た者や, 一二度城池を自ら先んじて取っ た者, このような功の者は戦死しても病死してももとの官のまま断たずに継がせ る。 この内, 生前罪過がないかを勘案して継がせる。 叛逆して国に悪事を働く大 罪を告発すれば, 相応の官を与えて六度継がせる。 他国から単身で来た者につい ては, 国が太平な時に来たのであれば, 戦死すれば四度, 病死すれば二度官を継 がせる。 他国から単身で, 危険が至って迫られて来た者であれば, 戦死すれば二 度, 病死すれば一度つがせる。 官がなくても, 善い者が我らが押され危うい戦い で先頭に立って攻めて死んだり, 城池に真っ先に攻めて死ねば, 二度官を継がせ る。 奸細を捕えた官は戦死すれば一度継がせ, 病死すれば継がせない。
順治本太宗実録 (満文) 天聡五年六月二十一日
史料上, この時点で初めて功績による継承次数が規定される。 功績としては帰順時 の状況, 戦死か病死であるか, 登城や奸細捕縛の有無といった点が勘案されている。
なお承志氏は 「以前から帰附していたマンジュの中核集団にはこの規定は適用されな かったと考えられる」 と指摘している( )。 しかし, 同実録記事冒頭に 「ハンが功臣の 官を継がせることを定めた」 とあり, 他国から帰順してきた者を含む, 功臣全般への 規定と考えるべきではなかろうか。
「天聡五年档」 の中にはごく少数であるが, ここで設けられた継承次数を反映して いるものと思われる記述がある。
呼什塔遊撃は病で亡くなった。 ワルカから家を連れて降って来た功により, 子の 渾泰をして遊撃を継がせる。 あと一度継がせる。
穆什 の子和敏を備禦とした。 (備禦と) した理由。 査哈喇と共に進み力を尽く して攻め亡くなったのは良いとして, 官を継がせる。 あと一度継がせる。
「天聡五年八旗値月档」 七月十八日 歴史档案
ここで挙げられている呼什塔, 穆什 については共に関連史料が無く, 詳細は不明 であるが, 少なくとも呼什塔についてはワルカから帰順した者であることは史料にあ る通りである。 彼らは共に自分の子供にそれぞれの世職を継がすことができ, さらに
「あと一度継がせる」 とあることから, 二次の継承次数を有していたことになる。 先 ほどの襲職例に照らしてみると, 呼什塔の場合は病死しているので, 「太平の時に他 国から単身で帰順」 して 「病死」 したので二度継がせていると考えられる。 「ワルカ から家を連れて」 とある 「家 ( )」 がどのような範囲までを示しているかは判 断に迷うが, それほど大勢ではなかったので 「国を挙げて ( )」 とは ならなかったのであろう。 穆什 の場合を見てみると, 彼は生前無官であったのでは ないかと考えられる。 その理由は, 呼什塔遊撃の呼什塔という名前に遊撃が付いてお
り, この記事の前後にも固山額真喀克篤礼, 備禦揚固礼, 備禦哈鐘阿等が世職を削ら れたり, 罰を受けたりする記述があるが, 基本的には名前に世職が付けられている。
穆什 は名前に世職を冠せられていない上に, 「継がせる理由」 ではなく, 「(備禦と) した理由」 とあるのも, 新たに備禦を授けたためと解釈できる。 そうすると, 彼には
「我らが危うい時に先頭に立って攻めて死んだ」 ために二度官を継がせられたと考え られる。 事実, 彼は五月に査哈喇と共に奮戦したことを評価されているが, この戦い は後金側にも大きな被害を出したものである( )ので, 「我らが危うい時に先頭に立っ て攻めて死んだ」 という条件にはあてはまるだろう。
管見の限り, 天聡五年六月の規定が適用されていると考えられる事例が史料上に見 られるのは, この呼什塔と穆什 の二例のみである。
天聡五年に世職継承の規定が定まった後の天聡六 ( ) 年正月の論功行賞( )では, 多くの戦死者の世職を子や兄弟に与えている( )。 しかし, 彼等の場合, 戦闘による軍 功 (戦死を含む) によって, 没後にその世職の継承が認められ子弟に継がれているが, 継承次数は明示されていない( )。 天聡五年定例と関連しそうなのは, とい う参将が 「異国から来帰した功」 によって子に参将の職が継がれている事例( )のみで あるが, これも継承次数に関する記述はない。 次節で詳しく検討したいと考えている が, 継承次数の記述が史料上にまとまって現れるようになるのは天聡八年以降である。
つまり, この規定が天聡五年に定められてからも, 広く適用されたかについては, 史 料に記述がないので確認できない。
また, この時規定された世職の承襲は上は 「世々官を承襲させる」 から下は 「継が せない」 まで幅があるが, 注目すべきはそれらの継承次数の差が世職の等級によるも のではないということである。 継承次数はあくまでも各人が 「どのような状況で帰順 してきたか」 「戦闘でどのような働きをしたか」 「戦死か病死か」 といった生前の功績 によって決められており, 世職の等級が高ければ高次の継承次数が与えられるとは限 らなかったといえよう。
) 天聡八 ( ) 年における継承次数設定
天聡五年の 「襲職例」 が定められた後, 世襲権の規定は天聡八年にも史料に現れる。
(原文)
壬寅, 始叙各官功次, 賜之勅書。 額 楊古利為左翼超品一等公仍帯六章京職。 三 等公額 和碩図子和爾本, 呉訥格, 一等 邦章京楞額禮子穆成格, 費札爾固齊三 等 邦章京英東子察喀尼, 巴図魯額亦都子遏必隆, 六人准世襲不替。 其余一等 邦章京, 二等 邦章京, 三等 邦章京, 一等梅勒章京, 二等梅勒章京, 三等梅勒 章京, 一等甲喇章京, 二等梅勒章京, 三等梅勒章京, 及牛 章京, 一切衆官, 不 論官職, 以功大小, 倶賜勅書。 仍諭吏部, 将国家開創以来諸功臣, 其祖父以部落 来帰, 及身歴行間, 率先功戦, 著有勲績者, 一一分別詳載, 撰給世襲勅書。 其無 功績而因才授職, 及因管牛 事授職者, 撰給不世襲勅書。 旧例勅書開載, 大臣及
各官以勤修政事, 約束兵馬, 授某職。 微員以不負任使, 著有成効, 授某職。 倶准 世襲不替。 其分別撰給両等勅書, 自此始。
(日本語訳)
壬寅 (天聡八年五月十七日), 初めて各官の功績を叙して, 勅書を賜った。 額 楊古利は左翼の超品一等公とし, 六章京の職を持たせる。 三等公額 和碩図の子 である和爾本と呉訥格, 一等 邦章楞額京禮の子である穆成格, 三等 邦章京費 英東札爾固齊の子である察喀尼, 巴図魯額亦都の子である遏必隆, これらの六人 は世襲罔替( )を許す。 その他の一等 邦章京, 二等 邦章京, 三等 邦章京, 一 等梅勒章京, 二等梅勒章京, 三等梅勒章京, 一等甲喇章京, 二等甲喇章京, 三等 甲喇章京, 及び牛 章京など, 全ての官は官職に関係なく, 功の大小で以って勅 書を賜った。 また, 吏部に諭するに, 国家開創以来の功臣たちを, その祖父が部 落を持って来帰したか, 軍歴があるか, 率先して戦ったか, 著しい功績が有る者 は, 一一弁別して細かく記載し, 世襲の勅書を発給せよ。 功績が無く, 才能によっ て授職されたものや, 牛 を管理することによって授職されたものには, 世襲せ ずの勅書を発給せよ。 旧例の勅書の記載では, 大臣各官は政事を修めることに勤 め, 兵馬を管理すれば某職を授け, 小役人が任務を果たし, 成果を挙げれば某職 を授け, どちらも世襲罔替を許していた。 弁別して二種類の勅書を発給すること はここから始まった。
乾隆本 太宗実録 ( ) 巻十八, 天聡八年五月壬寅
史料中の 「全ての官は官職に関係なく, 功の大小で以って勅書を賜った」 に該当す る箇所における, 順治初纂本 太宗実録 満文は, 「
(諸官人をして の等級を考慮 せず, 功の大小を弁別して勅書を与えた。)」 とある。 「その他の一等 邦章京…」 と いう文脈から, ここで勅書を与えられた者たちは, この時点で既に世職を与えられて いたと解釈できる。 そのため, ここで与えられた勅書が 「新たに の職を与え る」 という主旨の勅書であったとは考えにくく, 各人の保有する世職に対しての継承 に関する記述を付け加えた勅書と考えられる。
八旗通志初集 (以下 初集 ) によれば, 額 和碩図は天聡七年, 楞額禮は天聡 八年正月にそれぞれ没しており( ), 和爾本, 呉訥格は共にこの年に三等公を継承して いる( )。 よって最初に名前の挙げられている六人に関しては, この時点でそれぞれ世 職を承襲するとともに世襲罔替とされた, ということである。 その他の官人について は世職の等級によらず, 功の大小 (具体的な内容) で世職継承を保証する勅書を与え たと考えられる。
さらに, この上諭によれば, 旧例では世職の勅書を発給する際, 皆世襲を認めてい たが, それを改め, 各人の働きと功績を弁別して, 世襲を認める勅書と認めない勅書 の二種類の発給を行うようになり, 世襲を認める勅書には, 世職継承に関する記述が
加えられた。 後半部における 「旧例の勅書の記載」 以下の記述は, 世職が与えられる 際には, 世襲することが前提となっていたと見受けられる。 確かに天命年間にはその ような状況であったと考えられるが, 先に見たように天聡年間に入ってからは 「継ぐ 功 ( )」 の有無や, 戦死か病死かといった点が世職継承に大きく影響して いる。 天聡年間に入って徐々に世襲を功績と次数によって規定し, この天聡八年の上 諭によって世職の継承に関して, 天命年間からの転換が一層図られたと解釈できる。
継承次数に対する明確な記述が記されていないが, 少なくとも各人の功績の内容に よって世襲させるものと世襲させないものの差異化を図っていることは明確だろう。
史料上に継承次数が頻繁に現れるようになるのは天聡八年十月の記事( )以降であり, 満文老档 や 内国史院档 といった史料のこれ以降の記事には, 継承次数が数え 切れないほど登場する。 五月から各人の勅書に継承次数を付け加えるようになったと すれば, 半年ほどの時間差で史料に現れても疑問はないだろう。 先に挙げた天聡五年 の規定の運用が史料からはあまり確認できないのと対照的である。
天聡五年の規定は, あくまでも 「功臣襲職例」 として大まかな功績と継承次数の基 準を示すにとどまり, 天聡五年時点で世職を有していた人間全員に即座に適用するま でには至らず, その効用は極めて限定的であったといえるのではないだろうか。 天聡 八年の実録記事 (前掲) に 「始叙各官功次, 賜之勅書( )」 とあるように, 世職の等級 ではなく, あくまでも当人の功績を判断材料として世襲権を確定するようなやり方は, この頃から本格的に開始されるようになったということであろう。
. 世職の等級と継承次数の関係
管見の限り継承次数が史料上に頻繁に現れるのは天聡八年十月以降である。 事実, 天聡八年の継承次数と世職を表にしてみると (表 ), 世職の等級と継承次数が必ず しも比例しておらず, その等級と対応していない。
まず世職の等級別に見てみると, 牛 章京では 「戦死すれば継がせ, 病死すれば継 がせない」 という条件付き継承から六次まで, 甲喇章京は条件付き継承から八次まで と, 共に幅がある。 また, 甲喇章京の中で最も高次の次数を得ているのは
の八次であるが, 彼は三等甲喇章京であり, 二等甲喇章京の が条件付き 継承にとどまり, 一等甲喇章京の や がそれぞれ四次と,
の半分である。 そして, 牛 章京でも , , , , , 等のように継承次数が高いものは六次を有しているが, 三等梅勒章京の劉含英 は五次にとどまっており, 継承次数だけを見れば, 世職を四階級も越えて上回ってい る。
天聡九年においても同様に (表 ), 牛 章京の李進功が十次でありながら, 二等 甲喇章京の が二次, 一等甲喇章京の や二等甲喇章京の がそ れぞれ四次となっている。 さらに一個半牛 章京の や はそれぞれ六次もの
次数を有しているなど, 天聡八年とほぼ同じような状況が続いている。
このように世職の等級と継承次数が対応していないのは, 天聡八年五月の上諭に代 表されるように, 世職の継承に関しては等級によらず, あくまでも各人の功績の内容 を重視するというホンタイジの方針を反映したものであろう。 事実, 前節で検討した ように最初に世職継承について規定した天聡五年 「襲職例」 では, 継承次数の差異は 世職の等級によるもではなく, 各人の生前の働きによるものであることは明らかであ る。 つまり, そもそも世職の等級と継承次数とは一致しているとは限らなかったとい える。 当然高位の世職保持者であれば政権への貢献度も高く, 継承次数も高次になる 可能性は十分にある。 しかし, 低位の世職保持者であっても, 働き次第では高位の世 職保持者より多くの継承次数を付与された。
しかしながら, このような傾向は天聡十年を境に変化してくる。 天聡十年における 世職継承授与を見てみると, 世職の等級と継承次数の不一致は二等甲喇章京の薛大湖 と姜新の二人が 「戦死すれば継がせ, 病死であれば継がせない」 という条件付き継承 にされているため, 牛 章京の 回に劣っており, 牛 章京の が 回 と他の者より多いが, 他は全て世職の等級に比例して継承次数が付与されている。
続いて崇徳二 ( ) 年以降の世職と継承次数の対応関係についてみてみたい。 崇 徳二年については, 継承次数が世職の等級と若干対応していないが, 大きな矛盾なく 世職の等級と比例して定められるようになっている。 また, 崇徳二年の継承次数付与 では罪有りとして世職を剥奪されたり, 降されても, 新たな世職に対して継承次数が 確保されている。
(原文)
黒葉内有罪, 念其父功, 将牛 章京與弟色勒布, 承襲仍准襲二世。
(日本語訳)
黒葉内は有罪だが, 父の功を考え, 牛 章京を弟色勒布に与え, 承襲はさらに二度
継ぐことを許す。 太宗実録 崇徳二年七月十七日
(原文)
袞出格孤英原係一等梅勒章京, 以罪降為一等甲喇章京, 仍准襲六世。
(日本語訳)
袞出格孤英は一等梅勒章京であったが, 罪によって一等甲喇章京とし, また六ど継
ぐことを許す。 太宗実録 崇徳二年七月十七日
黒葉内の場合は, 世職を剥奪されているが, 父の功によって弟の色勒布に継がされ, さらに二回の承襲が許されている。 袞出格孤英は一等梅勒章京から一等甲喇章京に降 格されるが, それでもなお六回の承襲が保障されている。 しかも, ここで新たに設定 された継承次数は色勒布, 袞出格孤英共に世職の等級と比べて妥当な次数といえる。
つまり, 天聡八年ではあれだけ多く現れていた継承次数と世職等級の矛盾が, 崇徳二 年では降格されたものに至るまで, 世職の等級に応じた継承次数が付与されるように なっている。
崇徳三 ( ) 年以降では, 三等梅勒章京の綽爾濟, 索寧, 俄爾塞図がそれぞれ三, 四, 五回と一等甲喇章京を下回っているが, 綽爾濟, 俄爾塞図の二人は共に病没した 身内の世職を引き継いだため, 継承した時点で立職時の継承次数から一回分引かれて いるためであろう。 また, 索寧に関しては, 軍功ではなく, 考滿による勤務評定がみ とめられたことによる昇進であるためと考えられる。 考滿によって世職が授与・昇進 されることは多くみられるが, 概して軍功の方が評価されている( )。 若干, 対応して いない例もあるが, 崇徳三年〜八年の四年分 (六年を除く) をみて, これだけの例外 であれば, 天聡八年一年分だけの矛盾の数に比べ大幅に少ないといえる。
こうして, 年ごとに継承次数と世職等級の非対応が解消されていくのは, 各人の軍 功重視による世職継承次数付与から, 世職の等級に見合う次数を半ば自動的につける ように, 継承次数の根拠の重点が変化していったことを意味していると考えられる。
また, 天聡十年 (崇徳元年) を転機とする証左として, 康煕 大清会典 をはじめ, 入関後の諸史料に, 天聡十年に継承次数が十五次以上の者は世襲罔替とするよう定め た主旨の記述がある( )。 ところが, 満文老档 や実録にその記載はなく確認できな い。 そのため, 康煕 大清会典 が何に基づいて天聡十年の規定を盛り込んだかは定 かではないが, 管見の限り, 実録 や 満文老档 , 内国史院档 等, 入関前につ いて書かれた史料中には継承次数が十五次を越えているものは確認できない。 したがっ て, 事実としては, この康煕 会典 中の天聡十年の規定も実施されていたことにな るだろう。
当初 (天聡八年以前), 世職継承は新たな継承者の功績ではなく, 世職保持者の功 績によって継承の是非が判断されている。 天聡八年以降, 世職授与の際に継承次数 (乃至世襲の不許可) が生前に明記されるようになり, 同等の世職を有する者の間で も継承次数に差が開いたり, 下位の者が上位の者の継承次数を上回ることも起きた。
これらは継承次数の付与が功に対する賞与として, 陞官よりも容易に行い得たことに よるのではないだろうか。 谷井陽子氏も指摘しているが, 「さらに二次加えて, 四次 承襲する」 というように, 加算可能な点数扱いがなされ, 「細かい計算が行われるの は, 功過に対して少しずつであれ厳密に応じる方針の現われである。 実際の例からす ると, 陞官については, 少しずつしか応じてやらないのが実情」( ) であったと考えら れる。 つまり, 陞官などで賞与するには限界があるが, 継承次数を生前に付与するこ とで, それを一種の得点として扱い, 賞与として機能させていたのだろう。
おわりに
明の衛所制では基本的に衛所官を子に世襲させることを原則としており, ヌルハチ も与えた職を立職者の子や近親の者に継がせることに積極的な姿勢を示している。 し かし, 一方で世職保持者が革職された場合, それが当人の父の功によるものであって も革めている。 さらに 「子々孫々代々職を絶やさない」 という文言を含んだ勅書を与
えておきながら, 何度か塗改を経て抹消されてしまった の事例からも, 当時の 勅書にどこまで効力があったかもさだかではない。 総じてヌルハチの天命年間におい ては, 世職の継承はかなり流動的な面を有していたといえよう。
天聡年間にはいると, やや変化して 「継がせる功 ( )」 の有無が継承の 基準となり, 各人の生前の功績によって継承の可否が決定された。 世職を与えると同 時に世襲を認めるようなヌルハチの方針から脱却し, あくまで各人の立てた功績に細 かくこだわろうとするホンタイジの姿勢がみてとれる。
また, 天聡五年に各人の功績に応じた継承次数が設定される。 実際に史料からもそ の適用例は確認できるが, 天聡八年以降の事例に比べるとはるかに少ない。 ホンタイ ジが各人の軍功を重視しており, 継承次数を功績に対する評価 (賞与) として加算可 能な得点として用いた結果, 世職の継承次数と世職の等級とが対応していないことも 明らかになった。 つまり, 継承次数が設けられた当初は, 世職の等級と継承次数は対 応するものではなく, あくまで各人の生前の働きに応じる原則が徹底されている。
賞与として新しく世職を与えたり陞せたりすると世職に応じた丁数分の官糧・徭役 の免除が関わってくるため( ), 世職の授与・陞官を積極的に行うことは国庫収入の面 からしても現実的ではなかったと考えられる。 しかし継承次数を賞与の一つとして, 世職とは別に付与することで, 世職の授与・陞官と継承次数による二本立ての賞与が 可能となり, 功績に対してより厳密に応じられる。 天聡年間にみられる世職の等級と 継承次数の非対応は, まさしく継承次数の付与と世職の授与・陞官が別々の賞与とし て扱われ, 与えられていたことを示していると解釈できる。
しかし, このような継承次数と世職の等級の関係は崇徳年間以降, 徐々に対応して くるようになる。 つまり, 別々の賞与として扱われていた継承次数の付与と世職の授 与・陞官が一本化されて, 継承次数は世職と自動的に対応するものに変容していく。
ホンタイジが導入した各人の功に基づく賞与としての世職授与・継承制度は, 天聡年 間まではその継承次数にも反映されていたが, これは崇徳年間以降変化し, 順治年間 には世職に対応する継承次数が設定されることで, 当人の功績に基づいての官員に対 する管理は薄れていったといえよう。
天聡年間以降, ホンタイジがヌルハチ以来の方針を改め, 各人の功績を重視して継 承次数を取り扱った背景・要因については未だ明確になっていない。 俸禄制が成立し ていなかった入関前清朝の官員たちにとって, 世職を保有することによって得られる 利権は無視できなかっただろう。 世職制の更なる解明が, 八旗制とは別の側面から当 時の人的支配の構造を一層明確にできるかもしれない。
注
( ) [谷井陽子 : 頁]。 氏は, 世職ではなく 「官位」 という用語を用いているが, 世襲が制 度化されていなくても, 世襲とは切り離せないので本稿では 「世職」 という。 また, 杉山清彦氏 は, 功 ( ) について, 「数値化され継承や加減が可能な概念であり, これを表現するものが
世職とそれに付随する特権であった」 としており, 世職そのものについては, 「功績を基準とし た序列化という側面ばかりではなく, 門地に基づく階層性の確認・再生産の形式」 という性格を 強調している。 ([杉山清彦 : 頁, : 頁])
( ) [松浦茂 ]。
( ) 総兵官以下の等級がそのまま名称を変えたわけではなく, 等級が統合された名称もある。 詳細 は [松浦茂 : 頁]
( ) ・ ・ 等
( ) [上田裕之 : 頁]。
( ) 十八年題准, 一等精奇尼哈番襲十四次, 二等襲十三次, 三等襲十二次。 一等阿思哈尼哈番襲十 次, 二等襲九次, 三等襲八次。 一等阿達哈哈番襲六次, 二等襲五次, 三等襲四次。 拜他喇布勒哈 番襲二次。 沙喇哈番襲一次 (康熙) 大清会典 巻十三, 吏部十, 験封清吏司, 功臣世職 ( ) [承志 ] は世職 ( ) の継承をニル (佐領) の継承として論を進めている。 世職を有
している人間だからニルを管轄しているとは限らない。
( ) 本稿では, 東洋文庫満文老档研究会による訳注を参照した。
( ) 満文老档 太祖, 頁, 天命八年二月。 から叔父 への継承の事例。
( ) 満文老档 太祖, 頁 ( ) 満文老档 太祖, 頁
( ) 満文老档 太祖, 頁, 天命八年二月五日。 の事例。
( ) 「官人の没した時, の恩賜の礼物として五備禦の総兵官には紙二千張, 羊二頭, 焼酒五瓶 を与え, 訃を聞いた時, 埋葬の時, 墓祭の時と三度官人を遣わして送る。 総兵官には紙一千六百 張, 羊二頭, 焼酒四瓶を与え, 二度官人を遣わして送る。 副将には紙一千二百張, 羊一頭, 焼酒 三瓶を与え, 二度官人を遣わす。 参将, 遊撃には紙八百張, 羊一頭, 焼酒二瓶を与え, 一度官人 を遣わして送る。 備禦には紙四百張, 羊一頭, 焼酒一瓶を与え, 一度官人を遣わす。 世襲の功の ある官人 ( ) は, 戦死しても病死してもこの例による。 才能によって陞せら れた普通の官人 ( ) は, 戦死すればこの例によるが, 病死すれば半 分を与え, …」 満文老档 太宗, 頁, 天聡六年三月十三日
( ) 満文老档 太宗, 頁, 天聡六年正月, 大凌河戦の論功行賞。
( ) 満文老档 太祖, 頁, 天命八年三月二十四日
( ) 「書房秀才李棲鳳謹奏, ……如布三総兵, 此取遼陽第一功臣也。 世襲総兵永不革職。 先汗刊書 免死。 今為事革職。 ……」 天聡朝臣工奏議 天聡六年九月
( ) [細谷 ] [細谷 ]。
( ) [谷井陽子 : 頁]。
( ) [承志 : 頁]。
( ) 順治本 太宗実録 巻七, 天聡五年六月二十六日
( ) 前年 (天聡五年) の大凌河攻城戦や, 明の張春との戦闘に関する論功行賞である。
( ) 満文老档 太宗, 天聡六年正月, 頁― 頁
( ) 例えば 「 備禦は戦没したので, 子の に遊撃を与えて継がせた。 遊撃とした理由。 耀 州に来た敵兵を撃破したので馬二頭, 八両の牌, 縫いとりのある褂を与えられた。 で戦っ て一つ傷を負ったので牛一頭を与えられた。 我等の一人が小刀を持って馬二頭, 人一人を突いた のを殺したので牛一頭を与えられた。 大凌河で真先に突入したのを王が知っているが, 二度目に 出た敵兵に突入して没した。 は最初普通によいとして備禦を与えていたが戦没し, 五大臣
の親戚であるので遊撃を与えて継がせた。」 満文老档 太宗, 天聡六年正月, 頁
( ) 「 参将が病没したので, 異国から叛いて来帰した功により, 子の に元の参将 の職を継がせた。」 満文老档 太宗, 天聡六年正月, 頁
( ) 順治本では 「准世襲罔替」 と表記されている。
( ) ここでは乾隆本を用いた。 順治初纂本には吏部に降した上諭の内容が記載されていないためで ある。 なお, 康熙重修とされる 清三朝実録 には上諭の部分も収録されている。 順治初纂本に 上諭が収録されていない理由については 内国史院档 の該当部分が抜き取られていることと関 係がある可能性もあり, 別途考察を要する問題である。
( ) 初集 巻 , 巻
( ) 「和爾本, 和碩図子。 天聡八年, 襲父三等公爵。」 ( 初集 巻 ) 「八年五月, 始叙各官功次, 賜之勅書, 呉内格進封三等公, 與和碩図等六人准世襲不替」 ( 初集 巻 ) なお, 初集 によ れば他の者も職を継いでおり, 継承時期が天聡八年であっても矛盾しないものの, 不確実である ので例にあげていない。
( ) 天聡八年档 頁― 頁
( ) 順治本 太宗実録 (天聡八年五月十七日) の漢文では 「十七日始論功, 賜各官勅書」, 満文で
は 「 (はじめて功を弁別して, 大臣らに勅書を
与えるとき)」
( ) 崇徳三年三月に行われた考滿による陞職でも, 承襲次数の変化はない。
( ) (天聡) 「十年定, 世職官員准襲次数有越十五次以上者, 世襲罔替」
(康熙朝) 大清会典 巻十三, 吏部十, 験封清吏司, 功臣世職 ( ) [谷井陽子 : 頁]。
( ) [上田裕之 : 頁]。
世職授与者 世 職 継承次数 世職授与者 世 職 継承次数
三等 邦章京 牛 章京 陣亡准襲、 病故不襲
三等梅勒章京 牛 章京 陣亡准襲、 病故不襲
三等梅勒章京 牛 章京 陣亡准襲、 病故不襲
孫有光 三等梅勒章京 牛 章京
劉含英 三等梅勒章京 牛 章京 陣亡准襲、 病故不襲
一等甲喇章京 李大胡 牛 章京
一等甲喇章京 楊煦 牛 章京 陣亡准襲、 病故不襲
二等甲喇章京 陣亡准襲、 病故不襲 三分の二章京
二等甲喇章京 三分の二章京
二等甲喇章京 三分の二章京
三等甲喇章京 三分の二章京
三等甲喇章京 半個牛 章京
三等甲喇章京 半個牛 章京
( 藍) 三等甲喇章京 半個牛 章京
張朝 三等甲喇章京 半個牛 章京
三等甲喇章京 半個牛 章京
三等甲喇章京 半個牛 章京
牛 章京 三分の一章京
牛 章京 三分の一章京
牛 章京 三分の一章京
牛 章京 k 三分の一章京
牛 章京 三等甲喇章京 継承次数の記載なし
牛 章京 二等甲喇章京 継承次数の記載なし
牛 章京 二等梅勒章京 継承次数の記載なし
牛 章京 三等甲喇章京 継承次数の記載なし
牛 章京 二等甲喇章京 継承次数の記載なし
牛 章京 陣亡准襲、 病故不襲 二等甲喇章京 継承次数の記載なし 牛 章京 陣亡准襲、 病故不襲 二等甲喇章京 継承次数の記載なし 牛 章京 陣亡准襲、 病故不襲 二等甲喇章京 継承次数の記載なし 牛 章京 陣亡准襲、 病故不襲 三等甲喇章京 継承次数の記載なし 牛 章京 陣亡准襲、 病故不襲 金玉和 二等梅勒章京 継承次数の記載なし 牛 章京 陣亡准襲、 病故不襲 三等梅勒章京 継承次数の記載なし 牛 章京 陣亡准襲、 病故不襲 金勵 二等梅勒章京 継承次数の記載なし 牛 章京 陣亡准襲、 病故不襲 呉守進 一等甲喇章京 継承次数の記載なし
世職授与者 世職 継承次数 世職授与者 世職 継承次数
一等梅勒章京 牛 章京 革去
二等梅勒章京 牛 章京
三等梅勒章京 牛 章京
三等梅勒章京 牛 章京
李思忠 三等梅勒章京 牛 章京
一等甲喇章京 牛 章京
一等甲喇章京 牛 章京
一等甲喇章京 牛 章京
一等甲喇章京 牛 章京
二等甲喇章京 牛 章京
二等甲喇章京 李進功 牛 章京
二等甲喇章京 牛 章京
二等甲喇章京 牛 章京
三等甲喇章京 牛 章京
三等甲喇章京 牛 章京
三等甲喇章京 牛 章京 戦死病没
呉裕 三等甲喇章京 牛 章京 戦死病没
三 三等甲喇章京 牛 章京 戦死病没
三等甲喇章京 牛 章京
三等甲喇章京 半個牛 章京
一個半牛 章京 半個牛 章京
一個半牛 章京 半個牛 章京
一個半牛 章京 半個牛 章京
一個半牛 章京 半個牛 章京
一個半牛 章京 半個牛 章京
一個半牛 章京 半個牛 章京
一個半牛 章京 半個牛 章京
一個半牛 章京 半個牛 章京
一個半牛 章京 半個牛 章京 戦死病没
一個半牛 章京 半個牛 章京 戦死病没
一個半牛 章京 半個牛 章京 戦死病没
一個半牛 章京 一個半牛 章京 一個半牛 章京
世職授与者 世職 継承次数 世職授与者 世職 継承次数
一等 邦章京 一等甲喇章京
三等 邦章京 二等甲喇章京
三等 邦章京 二等甲喇章京 元のまま
三等 邦章京 范文程 二等甲喇章京 元のまま
祖澤潤 三等 邦章京 二等甲喇章京
祖可法 一等梅勒章京 薛大湖 二等甲喇章京 戦死病没
祖澤洪 一等梅勒章京 姜新 二等甲喇章京 戦死病没
張存仁 一等梅勒章京 三等甲喇章京
孫定遼 二等梅勒章京 三等甲喇章京 先の通り
韓大勲 二等梅勒章京 牛 章京 戦死病没
曹恭誠 二等梅勒章京 牛 章京
裴国珍 三等梅勒章京 牛 章京
長春 三等梅勒章京 牛 章京
陳邦選 三等梅勒章京 牛 章京
李雲 三等梅勒章京 牛 章京
三等梅勒章京 牛 章京
三等梅勒章京 牛 章京 不明
三等梅勒章京
世職授与(継承)者 世職 継承次数 世職授与(継承)者 世職 継承次数
阿山 一等 邦章京 世襲罔替 牛 章京
葉成 一等 邦章京 世襲罔替 牛 章京
沙木什哈 三等 邦章京 世襲罔替 周惟屏 牛 章京
呉把亥 三等 邦章京 布達禮 牛 章京
張承先 一等梅勒章京 胯奇他特 牛 章京
程希孔 一等梅勒章京 甘吉泰 牛 章京
席特庫 一等梅勒章京 兀塔奇 牛 章京
鰲拜 三等梅勒章京 阿藍 牛 章京
李一茂 三等梅勒章京 達什 牛 章京
諄塔 三等梅勒章京 巴特馬 牛 章京
阿什打兒漢納哈處 三等梅勒章京 牛 章京
馬傑 一等甲喇章京 仲金 牛 章京
袞出格孤英 一等甲喇章京 牛 章京
兀納該 二等甲喇章京 牛 章京
黄三約 三等甲喇章京 牛 章京
克申 三等甲喇章京 必力兎 牛 章京
李茂先 三等甲喇章京 呼加禄 牛 章京
阿育什 三等甲喇章京 富達里 牛 章京
益林臣 三等甲喇章京 諾雷 牛 章京
巴哈連 三等甲喇章京 漢 翰 牛 章京
瑣諾木 三等甲喇章京 和尚 牛 章京
麻格兎 三等甲喇章京 蘇里 牛 章京
哈兒糾 三等甲喇章京 邵色 半個牛 章京
馬兒泰 三等甲喇章京 納布亥 半個牛 章京
加木素 三等甲喇章京 喇木思夏布 半個牛 章京
張成徳 三等甲喇章京 阿古蘭 半個牛 章京
格兒圖 三等甲喇章京 多梅 半個牛 章京
和托 一個半牛 章京 阿隆阿 半個牛 章京
生珠 一個半牛 章京
邵占 一個半牛 章京
世職授与者 世 職 継承次数 世職授与者 世 職 継承次数
穆赫連 一等 邦章京 記載なし 陶虎 二等甲喇章京
阿喇納 一等 邦章京 記載なし 図美 二等甲喇章京
沃赫 三等 邦章京 世襲罔替 巴特瑪 二等甲喇章京
英古爾岱 三等 邦章京 馮志禄 二等甲喇章京
図爾黒 三等 邦章京 王自強 二等甲喇章京
増? 二等梅勒章京 孫思孝 二等甲喇章京
伊爾徳依 三等梅勒章京 高国忠 二等甲喇章京
呉巴希 三等梅勒章京 宗文鞠 二等甲喇章京
諾木齊塔布嚢 三等梅勒章京 徐思晋 二等甲喇章京
曹仁賢 三等梅勒章京 瀋永徳 二等甲喇章京
裴惟度 三等梅勒章京 甄永功 二等甲喇章京
孫沿 三等梅勒章京 張彦鴻 二等甲喇章京
綽爾濟 三等梅勒章京 宋文闊 二等甲喇章京
索寧 三等梅勒章京 呉拜 二等甲喇章京
俄爾塞図 三等梅勒章京 哈爾丹 二等甲喇章京
顎碩 一等甲喇章京再加半個前程 索海 二等甲喇章京
抗古 一等甲喇章京 綏赫徳 二等甲喇章京 承襲如旧
瀋志魁 一等甲喇章京 藏国祚 二等甲喇章京 承襲如旧
張昌文 一等甲喇章京 綽貝 二等甲喇章京 承襲如旧
金陞遥 一等甲喇章京 甘都 二等甲喇章京 承襲如旧
徐朝冠 一等甲喇章京 尼満 二等甲喇章京 記載なし
李応闊 一等甲喇章京 賀希米 二等甲喇章京 記載なし
蘇成武 一等甲喇章京 古蘇 三等甲喇章京
託博思 一等甲喇章京 多爾濟塔布嚢 三等甲喇章京
雍舜 一等甲喇章京 特濟 三等甲喇章京
海塞爾岱 一等甲喇章京 拜都喇 三等甲喇章京
高勒沁 一等甲喇章京 大諾爾布 三等甲喇章京
顎木布 一等甲喇章京 小諾爾布 三等甲喇章京
図頼 一等甲喇章京 承襲如旧 葉克書 三等甲喇章京
朱喇嘛 一等甲喇章京 承襲如旧 馬金孔 三等甲喇章京
楊文奎 一等甲喇章京 承襲如旧 薪広宇 三等甲喇章京
季占 一等甲喇章京 記載なし 王徳 三等甲喇章京
羅礼 一等甲喇章京 記載なし 張成功 三等甲喇章京
巴喇希礼 一等甲喇章京 記載なし 楊成亮 三等甲喇章京
陳有功 三等甲喇章京 希特庫 一個半牛 章京 陣亡准襲
呉朝祖 三等甲喇章京 何托 一個半牛 章京 承襲如旧
薪志成 三等甲喇章京 李茂芳 一個半牛 章京 承襲如旧
王希陞 三等甲喇章京 朱馬喇 一個半牛 章京 記載なし
李思功 三等甲喇章京 塔哈布 一個半牛 章京 記載なし
阿羅哈 三等甲喇章京 阿哈尼堪 牛 章京
塞稜 三等甲喇章京 虎沙 牛 章京
蘇班泰 三等甲喇章京 袞 牛 章京
阿桑 三等甲喇章京 布爾吉 牛 章京
満韜 三等甲喇章京 恩科依 牛 章京
海山 三等甲喇章京 伊蘇徳爾 牛 章京
碩色 三等甲喇章京 達蘭泰 牛 章京
阿庫礼 三等甲喇章京 阿希図 牛 章京
楊成義 三等甲喇章京 伯希 牛 章京
柯希呼 三等甲喇章京 根図 牛 章京
達渾 三等甲喇章京 弼札克 牛 章京
米勒扎哈 三等甲喇章京 牛 章京
色崔 三等甲喇章京 阿古 牛 章京
劉秉公 三等甲喇章京 布顔岱 牛 章京
趙乃 三等甲喇章京 博金 牛 章京
瓦爾喀朱瑪喇 三等甲喇章京 阿布尼 牛 章京
雷宏華 三等甲喇章京 陣亡准襲 瓦瓦 牛 章京
尼堪 三等甲喇章京 陣亡准襲 布泰 牛 章京
星耐 三等甲喇章京 承襲如旧 孟古爾岱 牛 章京
張屯 三等甲喇章京 承襲如旧 胡希納 牛 章京
黄雲龍 三等甲喇章京 不世襲 蘇拜 牛 章京
綽博依 三等甲喇章京 記載なし 布丹 牛 章京
星訥 三等甲喇章京 記載なし 納林 牛 章京
呉士俊 三等甲喇章京 記載なし 邦納米 牛 章京
沙里代 三等甲喇章京 記載なし 拉都渾 牛 章京
劉紹勲 三等甲喇章京 記載なし 孫達木図 牛 章京
阿希図 甲喇章京 記載なし 塔木布 牛 章京
布克沙 一個半牛 章京 葉克書 牛 章京
薩壁図 一個半牛 章京 王成明 牛 章京
哈爾松阿 一個半牛 章京 拉木拜 牛 章京
雅琴 一個半牛 章京 陣亡准襲 纏楚 牛 章京