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琉歌の源流とその成立

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(1)

琉歌の源流とその成立

著者 比嘉 実

出版者 法政大学沖縄文化研究所

雑誌名 沖縄文化研究

巻 2

ページ 97‑142

発行年 1975‑10‑20

URL http://doi.org/10.15002/00013111

(2)

琉歌の源流とその成立

比 嘉

f

、.̲/

琉歌の形態

琉歌とは沖縄諸島︑奄美諸島で作られ︑謡われてきた行情的な短詩形の歌謡のことである︒(但し︑奄美

諸島では島歌といっている)

その名称には和歌に対して

大和の歌ではなく琉球の歌であるという意識が投 影 さ れ て い る と

えよ

う︒

琉歌は形態的な特徴から

﹃南

島行

情﹄

の 分 類 従

t工

t

歌カ

2

風?

長歌

口〈

5

つらね(連歌)︑木遣り

の六つに分けられる︒内容的には︑祝歌︑

四季歌︑恋歌︑教訓歌︑四輪旅歌︑抱病歌などがあって︑多様な

展開を示している︒その中でも︑

八八八六調の短歌は

狭義の琉歌を意味するものであるが

︑ 創 作 さ れ た 数 が最も多く︑琉歌の特徴を最もよく示している︒仲風は十八世紀の初頭首里の支配階層によって創作され

97 

(3)

た琉歌形式で民衆のなかには定着しなかった︒仲風は琉歌形式の定律八八八六と和歌形式の五七五七七と

の折衷によって作られたもので︑七・五・八・六︑五・五・八・六の形式を持っている︒その由来につい

て︑﹁今風と昔風の中間にある﹂から仲風といわれたとの説もあるが

︑和歌形式と琉歌形式の混融した仲

(1

) 

風の歌形に因ると考えた方が無難である︒琉歌はこのように多様な形式と内容を有するものである︒

琉歌の発生については︑田島利三郎以来︑多くの研究者が論究

して

きた

が︑

まだ極めつくされていると

は言い難い︒琉歌の発生に関する研究史をふまえながら︑それに関する私見を述べておきたい︒

"......̲̲ 

J

琉 歌 発 生 論 に つ い て

琉歌成立についての学説は︑大きく二つに分けられる

一つ

一六

O

九年(慶長十四年)薩摩の琉球入

り以後︑本土の文学的影響を受けて琉歌が成立したというもので︑田島利三郎︑世礼国男︑小野重朗など

がこの説である︒もう一つには︑オモロを母胎にしながら︑琉歌の成立を沖縄文学の自立的な展開として

(3

) 

把握する︑伊波普猷︑仲原善忠︑比嘉春潮︑金城朝︑水︑外間守善などの説がある︒この二説の対立する見

解を整理し︑現時点における琉歌成立論をおさえておくことは︑それに言及するのに避けて通るわけには

︑ ︑

: ︑

Lb4

叙事的歌謡オモロを行情詩琉歌の直接の母胎とみる琉歌成立の考えは︑現在のところ他の説に比較して

可能性が高いように思える︒八八八六の音数律を有する短詩形行情詩琉歌の形式が︑オモロのなかに育く

(4)

まれ︑後期オモロの音数律が琉歌の基本的リズムの八音を豊かに包みこんでいることは︑すでに伊波普猷︑ 金城朝永などによって指摘されている︒琉歌形式歌謡の伝承が確かめられる奄美諸島︑沖縄諸島において︑

琉歌に先行し︑

且つ詩形的に直接琉歌の母胎として想定可能な歌謡は︑宮廷歌謡としてのオモロ以外には な

伊波普猷は琉歌成立の年代について明示はしていないが︑

田島利三

郎の慶長前後説を否定しながら琉歌

とオモロの関係について次のように述べている︒

オモロの中には︑

ま斗八八八六調の琉歌に近いのがある︒次にあげる二首の如きは︑

その代表的なも

ので

ある

第十四巻(天啓三年編纂) ︒

開ゑ

国 直

入りて

水包

ゑば

水無きゃん真神酒

琉歌の源流とその成立 出ぢやす

真国

とよむ

国 直 といふオモロがある︒これは最後の句を取去ったら立派な八八八六調の短歌である︑或は編纂する時︑

琉歌がもぐり込んだのではないかと疑う人があるかも知れぬが︑最後に﹁とよむくになおり﹂といふ折 返しがあるのを見ると︑やはりオモロであることがわかる︒第十二巻(天啓三年編繁)の七九章にも

99 

(5)

荒川舎場つくりきよ

きしゃばおなりしゃ

ゑけ

t

ま ひ

昨日見ちゃる

m UJ

真夜中の夢

J

夢や徒なもの

夢や

宅一

なも

おなり抱ちへと思て

つくり抱ちへと忠て

ーといふのがある︒﹁ゑけはひ﹂にオヤマヤという意味の嚇子で︑各分節で繰返されたものと思ふが

八六調の長歌に近くなっ

て来

る︑

(4 ) 

見て差支あるまい︒ 八

︑八

八︑

この二種は兎に角琉歌への推移を示す過渡時代のオモロと

伊波のこの説は︑慶長前後の琉球と日本との︑頻繁な交流が行なわれた歴史社会的背景を則的しながら︑

和歌の影

響を受けることによって琉歌が形成されたとする伊波以前の琉歌発生論を否定するものであった︒

沖純文学の自立的な展開のもとに︑オモロを母胎にしながら︑行情詩琉歌が成立したという伊波の論は︑

琉歌成立に関する論として︑今なお光彩を放っており︑画期的な労作であったといえる︒伊波のこの説に

拠りながらオモロから琉歌への発展過程をより詳細に検証したのが金城朝永の﹁琉球民謡の起源と変遷﹂

(6)

である︒金城はその中で﹃おもろさうし﹄巻十四の十八を引用しつつ阿者の関係を次のように説明してい

さでしかはのぼりあめふらん

つよ

の︑

ゑけり︑ぎや

みそでぬらちゑ(サデツ川︑上れば

雨ならぬ市内の妹か御袖のはしぞ濡しぬ)

このオモロを次のように

サデシガワノボリ(八)︑アメフランツユノ

(八

)

エケリギヤミソデ(八)ハナヌラチエ

︿六

)

イ ョ

切ってみま

すと後代の八・八・八・六形

一 二

十字(音)

の琉歌と全く同じ形式になります︒先に挙げたク

ニナオリのオモロも︑阿じ調子のものであることはキコエクニナオリ(八)︑イリテミヅコエパ

(八

) ミヅナキヤンマミキ

( 八 ) ︑

イヂャスマクニ

(六

)

この下旬の表記法︑きやとぢゃをそれぞれ実際の発音通り︑キヤとヂヤになおしますと︑

やはり立派な 琉歌になり

ます︒これを言

い換えますと︑琉歌は和歌をまねて作り出されたものではなく︑

やはり琉球 その中から白然に生れたと見るべきものであります︒

(5

は︑オモロに求むべきものであります

︒ の古

一 諮

オモロを母胎にして︑

つまり︑琉歌の阪芽

琉歌の源流とその成立 このような伊波︑金城の分析結果から帰納された琉歌成立論は︑琉歌形成が︑

オモロのなかに育くまれ︑

オモロを母胎として生れてきたことを示している︒但し

﹂の説に対しては小野重朗氏の強い反論もあり

ここでは伊波︑金城が琉歌の母胎としてオモロを想定していたことを

事実 としておさえておきたい︒更に

オモロと琉歌の関係の深さを示すものとして︑

オモロが琉歌に作りかえられている

事 実 も金城はあげてい

101 

(7)

オモロから琉歌への発展のプロセスしかし︑問題はなお大きく琉歌とオモロの聞によこたわっている︒ る

を首肯したにせよ︑オモロから琉歌へという言い方は余りに空漠とした物言いであることも確かである︒

﹃おもろさうし﹄に収録されたオモロについて仲原善忠は次のように言っている︒﹁おもろの起源は明ら

かでない︒十二世紀(平安末期)と認められるものがあるが︑

その上限はおそらく︑もっとさきではある

まいかと考えられる︒新しいものは一六一

O

年(伝尚寧王妃作)のがあるから﹃おもろさうし﹄は︑大体十

二l十七世紀までの五・六世紀間の歌謡の集積といえよう﹂これは︑﹃おもろさうし﹄が非常に幅の広い

歌謡集であることを示している︒だから︑オモロから琉歌へという言い方は︑琉歌の成立に関して︑

その

端緒を切りひらいたにすぎないので

ある

オモロが幾層かの時代の歌謡を複雑に混清させていることは確

突で

ある

とすれば︑編

纂に時 代的変

差はあるが︑幾層かの時代の影響を共時的に投影させていることは

﹃おもろさうし﹄に収載された全オモロについて

言え

る︒

そのために︑﹃おもろさうし﹄を歴史的に把握

することは至難に近い︒

しかし︑文学史の問題としてオモロから琉歌へのプロセスを解明する為には︑

﹃おもろさうし﹄を歴史的に把握する祝点がどうしても必要である︒これに先鞭をつけたのが仲原善忠の

﹃おもろ新釈﹄で

あっ

た︒

仲原はそのなかで﹃おもろさうし﹄全二十二巻を(一)地方おもろ

(二

)え

おもろさ一)えとおもろ(四)こねりおもろ(五)あすびおもろ(六)名人おもろ(七)神女おもろ(八)

公事おもろの八つに分類

し ︑

最も新しい形のおもろとして︑えとおもろを想定していたようである︒

仲原は後期おもろから琉歌への過程について

(8)

ヤワ

︑ 海外貿易は︑尚真王時代に頂点に達し︑王の船は︑日本︑朝鮮︑支那︑南方諸島︑安南︑シャム︑ジ

その他ーに往来した︒貿易は王家の独占事業で︑所謂仲継貿易である︑船ゑと(航海歌)とよば

れる新型のおもろがさかんになる︒一方において祭礼用のおもろ︑とくに王宮関係のものは︑外来宗教

(神

︑仏

︑道

)

の影響をうけ変質し︑難解なものとなる︒作者は一般のおもろとちがって︑学問のあ

る人々と見られる︒南方貿易はしかし

一五

O

年を最後に︑終止符をうつポルトガル船の北上

ついで日本船の南下が始まり︑仲継貿易の余地がなくなったのである︒貿易の衰退と時を同じうして︑

おもろも影が薄くなり

一六

O

九年の島津進入を境として姿を消してしまう︒

一 見 ︑

不思議な現象であ

るが十六世紀の後半に輸入された三味線のためであろう︒鼓又は手拍手にあわせて謡っていたおもろが︑

(7 ) 

新らしく出現した魅力的な新楽器に伴う歌謡に圧倒されたのである︒

と述べている︒仲原のこの説は︑宮廷歌謡オモロから琉歌への流れこみを明示している訳ではないが︑

仲原も琉歌の母胎はオモロであると考えているようである︒とすれば琉歌の直接的な母胎として︑えとお

いく

が︑

それについて触れる前に内間貫友の﹁おもろと琉歌﹂について論及しなければならない︒内聞は.

琉歌の源流とその成立

もろを想定していたと言えよう︒仲原のこのような考え方は︑後に外間守善によって発展的に継承されて

琉球文学研究の場に︑持情詩形成のための歴史社会的問題を取り上げると同時に︑行情詩を創造する主体

として︑支配階層の役割をはじめて取り上げた︒そして︑十四世紀の後半に琉歌の萌芽期を設定したので

( μ

︒このような琉歌発生に関する諸説をおさえながら︑叙事詩と持情詩琉歌の成立についての問題を文

103 

学史的構想のもとに設定したのは外間守善の﹁琉球文学の展望﹂が最初であったように思う︒外聞はその

(9)

なかで次のように述べて琉歌の母胎としてヱトオモロを明確にうちだしている︒﹁ヱトオモロの構造は

単に叙情性の匹芽だけではなく︑詩形も不安定な立日数から三・四・五・音数律に調律的であり︑さらに五

‑五音︑五

・四

音の文節的結合傾向から離れ︑五音と三音の結合が好まれる傾向をみせるなど定型化への

傾斜を窺うことができる︒また︑オモロ一般に三人称的宇宙観が特色だが︑ヱトオモロでは一人称あん(我)

の主張と頻度数が目だっている︒これらのいずれもが叙情的世界への近よりであることを思うと︑尚良王

時代におけるヱトオモロの流行は︑隆践と同時に自らの手でそれを打ち壊さなければならなくなる文学的

自己

矛盾

つまり︑叙情的思考の応芽を内育させていた時代とみなければなるまい︒叙事詩(改稿﹁沖縄

文学の展望﹂では叙事的歌謡)から叙情詩へという文学史上きわめて重要なジャンルの交替が︑叙事詩オモ

( 9)  

この時に重なっていることが認められる﹂と述ベ︑ロの凋落と新しい叙情詩の匪芽という形で︑つs

つけ

て︑

行情詩琉歌を脹芽させた条件として﹁十七世紀におけるオモロから琉歌への移り変わりは︑突如たるもの

それを触発せしめた外的条件(三味線楽器の渡来) ではなく︑十五世紀から十六世紀における首里士族達の貴族的成長過程と共に発酵を始めた内的条件と︑

(

)

の触れあいによって達成されたものである﹂と述べてい

外間守善のこの説は池宮正治の若干の批判を別にすれば︑伊波普猷以後琉歌の母胎としてオモロを想定 る

する琉歌発生論の代表的なものである︒琉歌を沖縄文学の自立的な展開のもとにとらえようとする場合︑

この説はいわば定説化されていると言っても言い過ぎではないであろう︒但し︑私は琉歌の直接的母胎

'として名人オモロを考えており︑その理由については後で述べるつもりである︒

(10)

視する立場に基づくものである︒これと反

対に

これまで紹介した伊波︑金城︑仲原︑外聞の琉歌発生論は沖縄に於ける文学の内在的な発展過程を重要

田島︑世礼︑小野のそれは︑琉歌発生の第一義的な要因

として外発的なものを想定している︒この二つの琉歌発生論は全く相反する立場にあると言える︒後者の

代表的な意見として小野説がある︒小野は﹁琉歌の発生については︑比嘉春潮︑金城朝永︑外間守善の諸

氏の説がほぼ一致していて︑十五世紀頃に︑オモロ歌形の第一節が定型化して作られるようになったと説

私はこの定説にまだ少々の疑問を残している﹂と実に慎重を期しながら﹁よく例としてあげら

れるオモロは確かに琉歌と同じ八八八六形をもっているが︑あれだけ長短自由で音数も変化の多いオモロ

の中に二︑三首同形のものがあるのは偶然と言えないこともない︒四句形︑

( ロ )

るこの琉歌形に落ちつく必然性がないように思う﹂と

言っ

てい

る︒

いて

いる

しかも絶句を六音に変化させ

実に慎重な語尾の結びながら︑発

一一 一

一 口の内容は定説に対する少々の疑問どころではなさそうだ︒このこと

は︑後に続く琉歌発生論を見れば明らかである︒先の引用文につε

つけ

これだけ短期間に一世を風廊するには︑もっと強力な理由がありそうである︒私は︑それを世礼国男

琉歌の源流とその成立

氏の説を借りて︑本土の小唄の七七七五の影響と考えている︒

lナ歌形で定律化していた五・三調

が八調と意識されるようになっていて︑小唄の七七七五調を八調化して八八八六の琉歌の形が作られた

と思う︒本土の小唄の七七七五形は更に﹁三四・四三・三二形﹂に固化しているが︑J二五・五三・三

五・

三三

形﹂

への傾斜を示しながらもまだ固化していないのは八八八六調か七七七五形の影響をうけた

後の形だという論拠になりうるだろう︒もし琉歌の八八八六形が本土小唄の影響として始まったのなら︑

105 

(11)

は そ あ の る 母 ま 胎 し、(を か日不 定 形

不定律のオモロに求めず︑むしろ五・三調定律的なクェlナ型に求めるのが適当で

と述べている︒疑問を付した仮説的な説の提唱の形をとっているが︑その後発表された﹁﹃おもろ﹄

みる海洋文学の展開﹂では︑琉歌の成立年代に論及し︑

﹁島津氏の琉球侵攻ご六

O

九年)を境に︑海外発

展の時代は終り︑大和文化が盛んに流入して来る事になる︒おもろの製作は終駕しそれに代って定形(八・

の行情歌は琉歌として迎えることになる﹂とやや断定的な説へ変っている︒この論と先

八・八・六音形)

の琉歌発生に関する仮説的な提唱をくみとって小野の琉歌発生論を要約すれば次のようになる︒即ち︑琉 歌はオモロに匹胎したのではなく︑島津氏の琉球侵略とそれに伴う日本文化との接触によって︑沖縄に流 入した小唄の七七七五調をひきがねとして︑すでに五・三調に定律化していたクェlナ型を母胎に形成さ

れたということである

又︑小野はオモロの読解法として︑分離解読法というユニークな説を提唱し︑叙事部分と反覆部分は意

味的につながらない(但し︑例外あり)ことを﹁朝凪ぎ・夕凪ぎのおもろ﹂で実証している︒そして反覆部

( )

分が行情歌へ発展していくという独特な叙情歌発生論をオモロの読解法を通して展開している︒しかし︑

小野論の場合︑難子を源流として育くまれた反覆部の叙情歌は八・八・八・六形という琉歌形式の行情歌

へは発展していかない︒反覆部が叙情的で不定形︑自由律であるという小野説に従えば︑反覆部分に育っ

た不定形の叙情歌が八・入・八・六形という定型的行情歌琉歌に育っていかないのは当然である︒その意

味で

は︑

小野氏が琉歌の母胎としてオモロを想定しないのは︑理論的に一貫している︒

(12)

これまで紹介した琉歌発生説の対立はその根底に︑伝統的なオモロの読解と小野氏の提唱した分離読解

法というオモロの読みそのものに対する考え方の違いがあると言ってよい︒

小野

氏は

おもろ詩形を共時的に形態分類し︑分類されたものを再構造化して︑おもろの詩形に時間を

与えていく方法と取っている︒そのために行情詩論の場合にも詩形の形態や構造分析が中心で︑行情詩を

生み出す歴史社会的な背景や行情主体の形成に関する考察がほとんど認められない︒オモロの反覆部の蛾

子にオモロ的叙情歌の源流をみる説ももっぱら分離解読法という詩形の構造分析にもとさついている︒宮古︑

八重山の古謡を見れば︑物語的な叙事部分と一人称的な叙情部分が混在しており︑叙情部分が雛子から発

達したものでないことは明らかである︒小唄の七七七五形を八調化して︑五三調定律的なクェlナ形に琉

歌形式の母胎を求める小野の考え方では長詩形の処理が困難である︒分離解読法はオモロの読み方に対す

る画期的な理論であるが︑オモロの全体の読みに普遍することには現在のところ爵踏せざるを得ない︒特

に反覆部が擁子から発展し︑オモロ的行情詩がこの部分に達成されるという考え方は問題である︒反覆部

は後述するように行情詩琉歌の形成にとって重要な役割を果したと考えられるのだが︑小野説の場合︑反

琉歌の源流とその成立

覆部の定型的でないことを理由としてオモロから琉歌への発展過程を否定的にみている︒私の考えと大き

く見解を異にする点である︒

107 

(13)

..̲ 

一 一

行情詩琉歌の源流

行情詩としての琉歌が南島の諸歌謡の何に伍芽したかという問題に触れる前に︑南島における行情詩の

源流について私見を述べておきたい︒西郷信網は叙事詩と打情詩の成立について次のように述べている︒

文学の発生史においては︑普通叙事詩が先行し行情詩は一足遅れて現われる︒けれどもこれを叙事詩

のなかから行情詩がでてきた意に解してはならない︒︑ぎりぎりの始源ということになれば話は別だが︑

両者の発生の系は同じではなかったと思われる︒行情詩の母胎は叙事詩ではなく共同体の歌謡であった︒

そして叙事詩が英雄時代にいわば共同体との祭式の紳を断ちきって文学の契機をつかもうとしたとき持

( )

情詩はまだ祭式歌謡の腹のなかに胎児として宿っていた︒

卓説であると忠われるしかし西郷の説はいわば仮説であり現在のところ日本文学の諸事象によっ

て検証されているとは言えないようで

ある

これに対し外間守善は﹁琉球文学の民望﹂のなかで行情詩の

成立に触れて次のように述べている

尚良王を頂点にして隆盛をきわめた海外貿易も︑十六世紀末にはポルトガル船の北上︑日本船の南下

という新しい潮流に侵蝕されて︑仲継利潤を失ない貿易の衰退とほぼ時を並べてエトオモロも生気を失

ないつつあったが

一六

O

九年︑島津琉球入りの頃謡われたオモロを最後のまたたきに

して

その創作は

まったくとまってしまった︒それから後のオモロは﹁伝承﹂の世界に入り込んだ形骸オモロと化し︑民

(14)

衆の支持も失なってしまった︒図式的にみるならば︑叙事詩オモロの終駕であり行情詩ウタ

( )

ムハ一以

Jd ι

迎えることになる︒(・印引用者)

(此

歌)

の・

叙ト山市場内から行情詩への発展をみている点で西郷説と相対立するように思える︒しかし︑ここで注意しな

ければならないのは︑外出が﹁琉球文学の民望﹂を改稿した論文のなかでオモロを叙事的歌謡と言い直し

てい

ることで

ある

︒ 外出の叙事詩オモロという

言い方

には

︑ オモロが共同体的︑祭式的歌謡や英旅叙事的 歌析を合む泌沌とした歌謡であるという認識が読み取れる

﹂のことは﹁琉球文学の展望﹂のなかで使刷

された叙事詩の概念が︑ギリシャの典型的な英雄叙事詩や四郷の叙事詩のそれとも︐主ならないことを先ず

理解しなければならないだろう︒

そのことは司おもろさうし﹄の中にギリシャの典型的な英雄叙事詩のよ

うなものが一筋も収載されていない事実を知れば言をまたない︒

しかし︑外聞の﹁叙事詩オモロの終鷲であり︑行情詩ウタ(琉歌)

の台頭を迎える﹂という言葉は池宮 正治の批判を生み出すこととなった︒池官の説は︑氏が明言しているように西郷説に依拠し︑叙事詩オモ

その叙事詩オモロの文体が漸次行情的に発芽したとするのである︒

しか

し︑

あるジャンルが別のジヤン

.

EM:;此の源流とその成立

ロという外聞の概念規定の間際をぬっ

て立論されたものであった︒池宮は

﹁叙事詩から叙情詩へという文学史上

︑きわめて重要なジャンルの交替﹂を﹁叙

事詩

オモロの凋落と新

しい叙情詩の匹芽という形で﹂考えてよいだろうか︑ということである︒オモロを叙事詩としてとらえ︑

ルを生むだろうか

と発

一一

一一

口し

︑琉

歌の

母胎

につ

いて

﹁琉歌はオモロの嫡子ではない︒琉歌の母胎はオモロの外に'とうとう

109 

(15)

と流れていたと考えるべきだろう︒我々が琉歌の源流としてオモロを観察するのは︑同時代歌謡として︑

(

琉歌の母胎がオモロに反照していると考えるからである︒﹂

と述べている︒先ほども言ったように﹂の論は︑外聞の叙事詩オモロという概念規定と西郷の﹁叙事

詩から叙情詩は生れない﹂という理論に十全に依拠してなされたもので︑現象する歌謡の実体に即しての

理論構築ではない︒池宮は琉歌の母胎として伊波普猷︑金城朝永がかつて指摘したように︑オモロを見て

いる︒琉歌はオモロの嫡子ではない云々は両氏の考え方を劃酌すれば立論が可能であるということに過ぎ

ない︒本当に琉歌がオモロの嫡子でないとは思っていない筈である︒池宮の前記のような理論の構築は実

りの少ない方法に思える︒何故なら︑外聞にしろ︑叙事歌オモロという場合の叙事詩にギリシャの英雄叙

事詩のような典型的な純化された叙事詩を想定していたのではないからである︒池宮の琉歌の母胎に関す

る考察が外出のそれとたいして差異がなく︑理論がかみあっていないのは︑池宮が叙事詩という概念にギ

リシャ的な純化された英雄叙事詩を想定しているからに外ならない︒池宮が理論的に依拠した西郷の叙事

詩︑叙情詩の理論は︑日本古代文学の諸事象のなかで検証された説ではなく︑あくまでも仮説的なもので

あり︑将来においても日本古代文学の諸事象のなかでのみそれを検証しようとするのであれば無理である

と言えないこともない︒その意味で言えば︑日本

一 語 の一大方言群である琉球方言で造型された諸歌謡を対

象に据えれば︑西郷氏の理論をより実証的に検証できる気がする︒実際に︑先達として﹃国文学の発生﹄

に見られる折口信夫の方法があるのだから︒日本古代文学研究で達成された説を無批判に導入するのでは

なく︑琉球文学の諸事象のなかから

︑沖縄的な叙

事詩︑叙情詩の問題を現象に即しての概念規定に基づき

(16)

理論を構築し︑把握することが必要であると忠われる︒このような意図に基づき以下叙情詩の源流につい

て私見を述べることにする︒

奄美︑沖縄︑宮古︑八重山と弧状につながる南島の島々には︑﹁農耕儀礼の周辺にその発生基盤を置き︑

共同体の信仰や︑経済や生産にかかわりをもっ祭式歌謡が

いろんな呼び名を持って伝えられているそ

して

︑ その歌謡群が文学の始源的な姿を伝えていると思われる呪詞︑呪言と深い紐帯を維持しながら祭式

( )

のなかで︑現在︑混融した形で伝承されてい﹂る︒このような祭式歌謡や呪言︑呪詞を奄美大

z品ではフツ︑

l

ブイ

オモリナガレ︑沖縄諸島ではミセセル︑

オタ

カベ

lナ

ウムイ︑テイルクグチ︑

アマオエlダ︑宮古諸島ではニlリi

フサ

︑ ピヤ

l

シ ︑

アーク八重山諸島ではカンフツ

ニガ

イフ

ツ︑

l

ユンタと呼んでいる︒

これら呪詞や祭式歌謡の修辞上の特徴は︑対話︑対句を畳み込みながら︑ことがらを叙事的に表現して

いくことにあるそして最も重要なことは﹂れら一連の叙事的歌謡が幻視的叙事詩群と英雄的叙事詩群

に分類されることである︒この両群を支えている歌謡主体の言語意識︑

それに伴う修辞法には大きな差異

琉歌の源流とその成立

が存在する︒このことは例証をあげて後で詳説する︒

ともあれ︑幻視的叙事詩という言い方は唐突すぎて

相反する一一一一日葉をつないでいるように思われるかも知れない︒が︑﹂れも例証を挙げればすぐに理解される

筈である︒外間守菩も言い方は違うが叙事的歌謡群に二つの系統があることを次のように述べている︒

一つは︑組先神を讃えるニlリの脈絡をつぎ︑現世的英雄もしくはそれに近い英雄を讃える英雄讃歌

で︑史歌的性格が強い︒(中略)﹁仲宗松豊見刻与那国攻入のアヤゴ﹂などはその白眉ともいわれるもの

111 

(17)

J こ ︑

HHHu u

で︑(中略)これらはいわゆる英雄叙事詩と称してもよいもので︑南島歌謡を豊かにするものであると同

日本文学の内容をも豊かにする貴重な素材である︒(中略)もう一つは︑英雄讃歌以外のすべてを 含むもので︑生活・労働歌とでも称したほうがよいかと忠われる︒民衆の生活を謡うもの︑航海の安全

( )

を祈願するもの︑作物の皇陵と世の中の平和を祈願するものなどがある︒

後者が即ち私の言う幻視的叙事詩で

﹂れが南品における行悩詩の源流的なものである︒

まず英雄的叙 事詩から見ていこう︒次に挙げる歌は﹁仲宗根豊見親与那国攻入のアヤゴ﹂である︒

(前

略)

大八重山ん下八重山ん

与那国の島ん走り行き

いくさみァもふあらみァを為しばど

あきす鮮ゅはべら舞ゆ踊り

前子んな百さるさ倒せば

後手んな百がなぎ倒せば

与那国の行極の鬼虎

行き向ひ走り向ひ立ち居とれ

空広が足投げいみはやて

県見親の膝なげいみはやて

﹁返

せ見

だ一

民し

みだ

畳見

親﹂

﹁あんやらば其りゃらば鬼虎我︑が万 走り行き大八重山に下八重山に馳せ行き与那国の島に馳せ行き軍

l戦をーしたら

︿まず﹀騎蛤の舞胡蝶の舞を踊り

︿愈々﹀大手には百突きに突き立て

揚手には百薙ぎに薙ぎ倒せば

与那国のいや極てなる鬼虎は

馳せ来て立向い

空広の足をはねとばしてそして

豊日比親の膝をはねとばしてそして

でどうだ!討ちかかってみろ控見親﹂

﹁左様かそれならば鬼虎我が万

(18)

治金

丸受

け見

る﹂

声掛

けば

丑一口

ひも

のひ

ば遅

させ

鬼 虎 を 大 木 如 倒 せ ば 運 添 へ 品 鋲 の 豊 ま れ

治金

丸を

受け

て見

ろ!

と︑

掛声も言う言葉も遅しと

︿掛戸諸共に鬼虎を大木の如くたおせばくドウ薙ぎ﹀

( )

武運は輝き添い島は鎮まり栄えたん

仲宗根立見剃は︑十五世紀から十六世紀にかけて歴史的に実荘した人物である︒彼は当時の宮古に於い

て有力な豪

族ではあったが︑古代的な専制君

ではなく︑彼の周辺には彼と同等の権力を有する多くの

族述がいたようである︒彼ら豪族同の戦争と殺りくによる自立的な惟史展開は︑古代国家形成への歩みを

確実に見せていたと思われる︒

しかし︑宮古における統一的な古代的国家はついに完成することなく終っ

てしまった︒仲宗根立見初のように︑幾人かの有力な豪族を従えていたであろうと忠われる人物達︑

の 人々は宮古の歴史社会が尚良王を頂点とする沖縄の古代的専制国

の枠内に統合されることがなかったな ら︑多分宮古諸島を統一し︑古代的な専制君主になりあがってい

ったであろうと思われる︒

頃は︑宮古島の原始社会が崩壊して新しい時代に移り変わろうとする歴史変革の時代でもあり︑その変革

J)ft歌の源流とその成立

外間は先にあげた歌認を英雄叙

事詩と規定し︑

その発生について﹁仲宗根政見親時代およびその前後の の動乱を強くたくましく生きぬこうとする英雄的人物を讃えるものとしてアlグが登場してきたわけであ

( )

る﹂と述べている︒このような英雄叙事詩アlグの生み出されてくる陸史社会は︑日本文学史における凶

郷氏の英雌時代に関する考え方即ち︑

﹁それは幼稚な原始にも属さず︑成熟した文明や法的国家秩序の時 代にも属さず︑原始から文明への一つの過波別であったとか︑父権制の確立則であったとかいう程度のこ

113 

(19)

とであろう︒

しかも社会のこのような段階自体を英雄時代といえるわけではない︒それは舞台の遠景にす

ぎない︒肝腎なことは︑

こういう段階を背景に共同体生活とは性格を異にする︑侵略や掠奪や遠征におけ それによって共同体につきまとう原始の伝統がしばしば残酷にひきさかれて︑

そのなかから新しい個性的人間像が誕生してきた点である﹂とやや符合するものであろう︒原始の伝統を る軍事生活が経験される点︑

残酷にひきさいてゑ場する新しい個性的人物がアヤゴにおける仲宗根豊見親のような英雄達に外ならない︒

南島の諸歌謡のなかで宮古のアヤゴが英雄叙

詩的性格を最も濃密に伝えていることは幾度となくいわれ

( )

てきた︒又︑オモロの中に英雄叙事詩断片があることも指摘されている︒知花按司を讃美した次のオモロ

がそれである︒

おとまこが節

一知

花お

わる

日眉清ら按司の

又知花おわる

歯日清ら按司の

又御鉢巻手強く巻き

又白掛け御衣

重 ベ 御 衣

又十重きL

しよ

わち

知花にいらっしゃる

目眉の美しい按司が

知花にいらっしゃる

口もとの美しい按司が

御八巻をきりっと巻き給いて

しよ

わち

白衣を重ね着し給いて

十重の御帯を

(20)

廻 し 引 き 締 め て 文大刀よ掛 け 差 し し よ わ ち へ 又股万よ厳 さ 差 し し よ わ ち へ

文ひぎや皮さば

うちおけくみしよわちへ

又馬曳きの

御駄曳きの小太郎

文真白馬に

金鞍に掛けて

文前鞍に

てだの形

又後岐に月の形 描ちへ

強 く 引 き 締 め て

大万を

掛け差し給いて

腰万を

丈々しく差し給いて

山羊の皮のぞうり

はき給いて

馬曳きの

御駄曳きの小太郎

真白馬に

金鞍を掛けて

前鞍には

太陽の絵を描いて

後鞍に

月の絵を描いて

事的に表現されている︒後にあげる幻視的叙事詩と性格を異にしている︒しかし例証としてあげた英雄叙

琉歌の源流とその成立

描ちへ

先にあげたアヤゴのような荒々しい戦闘の描写はないが︑馬上の漂々しい若武者の姿が対象に即して叙

事詩或はその断片の修辞法に留意した場合︑たとえそれらが西郷が言うように︑暴力的に共同体の祭式︑

115 

或は祭式歌謡との鮮帯を断ち切って英雄時代に文学化の契機を勝ち取ったにしろ︑対句対話を重ねて連続

(21)

的に対象を描写する文学手法は︑呪一マ一げや呪調︑或は持情詩の母胎である幻視的叙事詩との深い関係を示し ていると日えるだろう 次に幻制的叙事詩について見ることにする︒代表的なものとして︑沖縄のクェ

l

ナや奄美のナガレウタ があるが︑それらは余り長す︑記ざるので沖組に伝承されているアマオエlダーを初介する︒

アマオエl

l

(天親田)

しるみきょが始め

あまみきょが宣て

こしたう原下りて

泉口語てあぶしかたやにて

うねぎりもしちよち

泉口かねおろち

品川

高か

ねお

ろち

こんちゃこは溶浮けて

真綿閉まったうへ

九月も為たんだら

夏水つけて

冬水さとて

深山灼ふけら時をとて シネリキヨが事始めてアマミキヨが宣村の後方の平坦な耕地におりて水口を悟って(たずねあてて)畦形をつくって(神田を造って)ます切りも充て水口から田にかりいれおろして牛を田にかりいれおろして小土粉はかきまぜて浮けて

m

而が

真綿のように平坦にきれいになって

九月にもなったぞ

稲籾を夏水につけて

漬けた籾を立冬の水になった時取出し℃

深山伐の鳴く時に

(22)

九 年 花 き ら き ら と

真綿原旭やり

人々も揃はち

原々に配ぎねたち

百十日なたんだう

きるへに差柏ゑて

二月もなたんだう

よろり草かきやよれ

一一

一月

もな

たん

だう

ぬるり向日州も和々と

四月もなたんだう

木々に日ちやんだう

五月もなたんだう

南の風の押せば

北の畔枕しち

北風の押せば

市の畔枕しち 九年以の花がさらさらと散る時口(約のように美しい田を巡祝して村人たちを揃わせて原々に町内して荒扱きしてから百十日になったぞ一定に離ればなれにさしうえて二月にもなったぞ田平︑雑草をかきとりなさい一

二月

にも

なっ

たぞ

肌ざわりのよい市丸が和々と吹き

四月にもなったぞ

問えつけた稲の株がよく根づいたぞ

五月にもなったぞ

市風が吹けば

たり穂が北のあぜを枕にして

北川が吹けば

たり椋が南のあぜを枕にして

六月もなたんだう六月にもなったぞ

f正取の源流左その成立

人々そろはち

ハら

ない

卸取

揃は

村人を揃わせて

利鎌をとり揃えて

117 

(23)

朝露に刈りなえち

足四っそろはち

角高そろはち

すじ/¥に持上せて

あむされいよ算とれ

千乾も為ちやんだう

六つ股に稜込で

八つ股に積込で

真積迄為ちやんだう 朝露のうちに刈りやわらげて馬を集めて牛を集めて筋々(あちこちの広場)に運ばせて主婦よ稲束をかぞえよ

乾燥したぞ

六つ殿倉につみこんで

八つ殿倉につみこんで

稲積主でしたぞ

( )

稲作生稜のための予祝的な歌である︒対句対話を用いながら稲作に関する労働や︑播種から収穫される まで︑稲の成長に関する月々の状態が叙事的に詳細に描写されている︒対旬︑対話を用いる連続的な叙事 の方法は︑表現形態として︑先の英雄的な叙事詩群と著しく類似しているが︑叙事の内容は全く別である︒

4L

7 7

t

A L

T1L31H

M N U

岱 守 二 一 一 一

rF草

A f

ある

事件

︑ たとえば戦闘や若武者の漂々しい姿が拍手される時のその表現は︑事件

の展開や対象に密着して︑

しか

も︑

そこには表現主体の過去の経験や歌われる対象に対する感情はほとん どあらわれない︒ある事件の民間や対象の実体がそのまま事実として歌いあげられる︒しかし︑幻視的叙 事詩の場合は違う︒先に引用

した歌謡でいえば︑謡われる内容は︑稲作を山以藤に導く理想

的な稲の成長の

過程であ

り ︑ その為に行なわねばならない稲作労働のあり方である︒稲の成長に関する月々の理想的な状

ωはかって

この歌をうたう共同体の成

員やその祖先達が共有

した

経験的な知識や願望の表現であると

(24)

言 え よ う

︒ 稲 の 成 長 が こ の 歌 謡 に 謡 わ れ て い る よ う に 理 想 的 な 展 開 を 示 し た 時

︑ 過 去

︑ 幾 度 と な く 彼 等 に 稲作の投肢がもたらされたであろう︑

それ故に稲作に必要な労働や稲の理想的な成長過程を謡いこんだこ の歌謡の内容は歴史的に蓄積された稲作に対する体験的知識であると同時に神への稲作豊穣の祈顕である と言える︒このような歌謡の性格があるから文学の始源的な姿である呪一

一一日や呪詞と幻視的叙事詩とが祭式

の中で混化・混融した形で共存しえるのであるう

一一 一日霊にすがりながら

︑ 呪 術 的 に 自 然 に 立 ち 向 い

︑ 克 服 し よ う と す る 祭 式 歌 謡には

ひたすらに呪術的心 性 に の み 頼 る の で は な く

︑ 歴 史 的 に 獲 得 さ れ た 体 験 的 科 学 的 な 自 然 に 対 す る 認 識 が 基 層 に あ る こ と を 忘 れ

てはならない︒

幻 視 的 叙 事 詩 は 叙 事 的 歌 謡 で あ る が

︑ 歌 謡 主 体 が 謡 わ れ る 対 象 に 対 し

︑ 呪 術 的 で あ れ

︑ 感 性 的 な 働 き か け を 行 う

︒ こ れ は 謡 わ れ る 対 象 に 表 現 主 体 の 経 験 や 感 情 の 働 き か け の ほ と ん ど 見 ら れ な い 英 雄 的 叙 事 詩 群 と大きく

兵なる点であり

それ故に持情詩の源流としての幻視的叙事詩の設定が可能になる︒

歌 百 控 乾 柔 節 流

︑ 初 段 古 節 部

一穂花咲出は塵泥も附かぬ

白ちゃねゃなひち畔枕ら

︿訳﹀稲の穂花が咲き出ると鹿︑泥もつかず白実を包む穂はなびいてあぜを枕としている︒

銀春なかい金軸立て

計てっき徐そ雪の真米

作 田 節 赤 犬 子 音 東 両 人 作 と あ っ て

︑ 次 の 琉 歌 が 収 載 さ れ て い る

琉!款の源流とその成立 八八八六形の琉歌には先にみた幻視的叙

詩 の 伝 統 が 豊 か に 流 れ 込 ん で い る の を 見 る こ と が で き る

︒ 琉 119 

(25)

( )

銀の臼に黄金の軸を立て脱穀し︑計ると余って真米は雪のように美しい︒

(一)の上旬の︑稲の穂花が咲き出ると践泥もつかずということは︑稲の穏花に陸泥がつかない状態を事

実に即して叙十汎下しているのではない︒稲の生作の為には︑穂花の成長に告をおよぼす座泥は絶対につけて

はいけないものであり︑

﹁つ

かず

﹂と

いう

言葉

には

︑庫

︑泌

をつ

けな

いで

欲し

いと

いう

︑一

一一

一口

霊に

より

かか

りな

がらの呪術的な似望が包みこまれているのである︒下旬も︑豊かに実って畔を枕に穂が垂れている状態を

叙事しているのではなく︑畔を枕にするほど穂が生かに実って欲しいという願望︑祈願する心から生み出

されたものである︒このような表現の方法は叙事的であるが叙事ではなく︑まさしく幻視的叙事というに

ふさわしい︒このような表現法は(二)の下旬にも明確にあらわれている︒﹁脱穀し計ると盛って余って︑

真米のように美しい﹂という表現も容器におさめきれないほど豊作で︑行パ米は雪のように美しいというこ

とではなく︑容器におさめきれないほど控作にしてください︑

そし

て真

米は

計虫

など

に市

十一

日さ

れな

いで

雪の

ように白く美しいものでありますようにという意味であり︑それは呪術的な祈願の心性から発露されたも

ので

ある

幻祝的叙事詩を源流とするこのような表現の手法は︑県穣予祝の歌だけではなく︑泊済歌︑国讃め︑

二 七

地讃め︑支配者の読仰︑船旅の琉歌などに受けつがれている

叙情詩の源流である幻視的叙事詩は琉球弧の島々に豊かに伝承されてきた︒しかし島々の幻視的叙事詩

は独自の文学的成長のなかから琉歌のような定型的な行情詩を個別的に生み出すことはできなかった︒こ

れは行情詩琉歌を生み出したような階級主体を品々の歴史のなかで登場させることができなかったことを

(26)

意味しよう

幻制的叙事詩の担い手は︑

一 語

われる対象に対する感情を移入することはできたが︑対象に対して︑自ら

の心に﹁生起する喜びゃ︑苦しみ︑あこがれや︑哀しみなどの感情を小宇宙﹂として表現することができ

なかったことを意味する︒南島における文学形態の変革は先ず首里を中心とする支配者階層のなかに起り︑

漸次地方地方に伝播していくというのが一般的図式であった︒琉歌の発生も例外ではなかった︒

しか

し︑

琉歌形成の主体としては首旦貴族がその主流を占める以前に︑権力者に寄生しながら宮廷歌人として成長

していく歌人群がいたように忠われる︒

(四 ) お も ろ 歌 人

天啓三年に

れ一刷

抗された﹃おもろさうし﹄巻八の一扉に﹁首里天ぎやすへあんじおそいがなしおもろねやが

し か し

~t歌の源流とその成立

りあかいんこがおもろ御さうし﹂とある︒これがいわゆる名人おもろである︒﹂の巻には全部で八十三首

のおもろが収録されているがこの巻の解釈については︑伊波普猷︑仲原善忠の対立する二説がある︒伊

波普猷は最初︑あかいんこを放浪の詩人と規定し︑﹁オモロネアガリ﹂と

( )

歌人と考えていた︒彼等は詩人であると同時に︑音楽家︑築城家︑航海家でもあったという︒

( )

﹁あまみや考﹂で二人説放浪詩人説を訂正して同一異称説を出し︑第二尚氏の中央

集権

以前の南方米次の

﹁ア

カィ

︐ン

コ﹂

は別々のオモロ

領主がその人で︑領主であると同時に宮廷詩人でもあったと述べている︒﹂れに対し︑仲原普忠はふたり

121 

(27)

説を唱え︑詩人︑音楽家︑築城家︑航海家説を否定し︑オモロ名人は単なる歌唱者にすぎないと述べ︑巻

( 刊 さ

八は伊波説のように︑彼等を讃仰したものではなく︑彼等によって謡われたものであると述べている︒巻

入︑四三五と四三六の聞に﹁点数回十三﹂とあって︑前の部分が﹁オモロネアガリ﹂の歌で︑後の部分が

﹁ア カノ オヱ ツキ

の歌となって明確に二分されている︒これが仲原説の根拠の大きな理由である︒仲原

説を全面的に支持することはできないが︑大筋ではほぼ正しい説のように

思え

る︒

伊波普猷以来︑今日まで琉球音楽者の鼻組として﹁アカインコ﹂を想定することはほとんどの研究者が

認めている事実である︒巻八には︑﹁阿嘉のお祝付き﹂・﹁鏡波のおJ

付き

﹂・

﹁阿 嘉の 子・

鏡波

の子

﹂・

﹁鏡

波犬子

﹂ ・

﹁鏡波の犬お祝き

﹂・

﹁阿

嘉犬子﹂︑琉歌に﹁犬子音東﹂とあるがほぼ同一異称と考えて

誤 り は あ

るまい

琉球音楽者の'H押祖﹁アカインコ﹂に触れた論は少なくないが︑彼の果した沖縄歌話史上の役割や文学史

的評価について正当になされている

とは

一 一 一 口

い 難 い ︒

﹃ お

もろさうし﹄のなかに

は ︑

﹁アカノオヱツキ﹂

・﹁

モロネアガリ﹂の周辺に多くのオモロ歌人達がいるから︑その辺りから彼等の職能や役割を考えてみたい︒

﹃おもろさうし﹄全二十二巻のなかからオモロ歌人をぬき出し︑おもろ番号︑地名︑節名︑歌われている

地名︑内容︑重複を表にすると次のようになる︒

' * f

j l

一 名 一

中のしよ一中城地方の領主の讃歌か

すくか節

巻│番お l

ム ー

/

l

号ろ

一 ‑

L1ι

ちちl

らよ│

この!し│

(28)

二四

二四

四 二四 六

二四

二五

二 二五 三

二五

二五

二五

二五

五 五 九 八

ニ ム ハ

一 ニハ 一

一 一+ ハ

二六

二八

二八

二九

O

fJHi'J  1/

波嘉

んん

子子

あかわ

1/  もあ j;bF1  FF 

と か 見 みみ ね ね まま

J1J{ 

あ い あ ま 1/

ぢ ち か か

は や と る

ゑ は も こ

な い

?

?

首盟

首里

首盟

首里

首盟

首里

あおりやへが節さはちきょがおもろこがねもちろくやにが節おもろねやがりがせるもねやがりが節あおりやへが節あんのあかみねまくちまさあ物が節あおりやヘが節あおりやヘポ節おもろねやがりがあまゑわちへからいみやどよわまさりが節あんあかみねまあおりやへが節 御殿の落成の言寿ぎ首虫城の讃歌

一八物の献上と領主の言寿ぎ

年始の祝事と尚良王の長寿予祝

年始の祝事と尚良王の長寿子祝

須森の水の献上

王子の長寿子祝

の霊能と王子の長寿子

あかみねまのオモロの霊能と王の長寿予祝

あかみねまの霊能と支配者の讃歌

民衆に敬愛される領主の讃歌

尚民王の讃歌

まみちけのオモロの霊能と尚民王の長寿予祝

まみちけのオモロの霊能と王子の詩歌

尚慎一王への御酒の献上と王の繁栄と長寿予祝

尚員王による長久の支配と若松の植樹

王の長久なる支配

123  !Jk~訟の師、流とその成立

(29)

rqiJl1四 問 問 問 問 問 問 間 三三 三 三八 三 六

‑ 0 0 0 0 0 0 0  0  0 0九 九 九 九 九 九 九 二

0 九 八 七 六 五 凶 三 二 一O九 八 七 六 五 四 11  " お せお " " 1 / " "   1/  11  11  1/  11  お 計

もるも も 加

ろ む ろ ろ 那

殿 殿 Tf  志

原原

やまぐすくげら

へきよらが節

ときとたるまさ しゃが節

あまへわちへが

々 円μ

きみがなし節 すへのちにやう

うちいではおし

HLJμJvh

きみがな

し節 おもろねやがり

がひやくざぎや めカ節 ちにやう るわしが節

米須︑首型

きみがなし節 うちいではや

のきくたけが節

こへいろめき

JJh︿kp

おもろねやがり やきよらやが節

王による地方制主の征討チ祝 土地前め京の内ぬきまる

時取り 民衆の諮歌

下の世の主の

討歌 保栄茂按司の拝謁 下の世の主の

長久なる支配

︑長持予祝 井戸の発担と太陽神の守護 馬上の領主と征討予祝

下の世の主の

長寿予祝と国々を支配する手綱

の献

の世の主によるオモロの所望 おもろ政阪のオモロの霊能と城の前歌 剣 か 下 の ね の 讃 も 世 歌 ち の の 主

3

111: 

!)

三ヒ

1 ) :< 

日物の献上︑下の世の主の前批

(30)

せるむ音揚り

四 四 四 回 二 二 一

おもろ音揚り

四 四 六 五

おもろ真戸子

O

四 二

一 一

lt 里旦 米 京 樋 島

須 長rJ)JI

屋比久

首旦 あかいんこおりるが節うちいではわくのしつらいが節きながなし節おもろまこいしか節せしきよかなぐLd

¥J

V

︿ J '

︿

BKVあかる

ちにやうるわしが節

へどのしが節

の へ ま ね う す 節 く ね おどし、し、るへ にや

せ の し し わ の いが

ゃ あ の しち ぢり

が す 節 が に や が

節も 節 や 事 す

がと

下の世の主へのオモロの献上

民衆に敬愛される尚良王の前歌

下の世の主の詩歌

まて川の水浴と玉城一部の民衆の喜悦

鹿良間島の凝視

米須世の主の所有する鼓の讃歌

領主の讃歌

尚良王の長寿子祝

名高き領主の拝見

治金丸と下の世の主

下の世の主の讃歌

下の世の主︑屋比久殿原

下の世の主の御殿の讃歌

域の讃歌(﹁上て﹂とあるから首盟域のことか)

域の讃歌

125  fiiE歌の源流とその成立

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