NII-Electronic Library Service
梵
行
と
身
体性
に
つ
い
て
一 く津
田
仏教学
〉研 究
へ の試
み_中
條
裕
康
1
ブ ッ ダの教 えの
核
心は何であっ たのか ?そ れは、『
Sutta
−nipfita』(以 下Snp
)Mahavagga
ll
Nalakasutta
(pp
」31−139){南伝蔵 24r 経 集』大 品那 羅 迦 経 pp .
262
−269
} の釈 尊誕 生説 話を含む序 文のKaOha
−siri(
Asita
)大 仙の言 葉に端
的に示 されてい る。Sambodhiyaggarp
phusissat
’ayam
kumaro
, sodhammacakkalp
paramavi
−suddhadassi vattessat ’
ayalp
bahujanahitanukampi
, vitth5rik ’ assa
bhavissati
−
. こ の童子 は最 高の正覚を得べ し。 彼は最上の清 浄 を見、多 くの 人々 を利益 し ぐ づ う憐
愍 し、法輪
を転ずべ し。 彼の梵行 〔の教〕は広 く弘通 すべ し。 (693−15) “‘Buddho
’ti
ghosa
叩yada
parato
supasi ‘sambodhipatto vicaratidhammamaggalp
,’gantvana
tattha
samaya 叩paripucchiy
盈no carassutasmiTp
Bhagavati
brahmacariyalp
, ”若
し汝 (Asita
の甥、Nalaka
) 、後
に「
仏あ り
、 正覚
を成
じて、法道
を行 く
』 もと とい ふ声
を聞か ば、 その時彼処
に行
きて遍 問 し、 かの 世尊
の許
に て梵行
を 行ぜ よ。 (696.18)こ の ように、 ブ ッ ダの 教 えとは 「梵行
」
であっ たの で あ り、 しか も、 そ れは、『
Vinaya
−pitaka
』Mahavagga
(以 下MV
>1
.6
.12
p
.9
喃伝蔵3
『律 蔵』大 品第一大腱度
p
.171じこ、
yath
合nusiVVha 靼 七athapa
ipadjamanfi
na cirass ’eva
yass
,atth 盒ya
kulaputtfi
sammad eva ag 盒rasm 盒 anagariyalp
pabbajant
{,tad
anuttara 甲brahmacariyapariyosanam
ditVheva
dhamme
sayalp abhififia sacchikatvaupasampatja viharissatha ’
ti
(468)
51
NII-Electronic Library Service
梵行と身体性につ い て (中條)
教ふ る
所
に隨っ て行ぜ ば久 しか らず
して無
上の梵
行の究
盡 を現法
に自ら證知現
證 し具足 して住
すべ し、此 善 男子の在家
を出でて出家 する本壊
な り。と示 さ れてい るよ
う
に、 ブ ッ ダ に よっ て仮言 的命法
(Hyp
・thetischer Imperativ :1
.Kant 。一定の 目的達成 を条件とする命令 )とし て説か れ たもの で あっ た の で ある。 ブ ッ ダは、当 時の バ ラモ ン
教
へ の 批 判 を意 図 しつ つ 、 且つ「
梵行」
を行 ずべき本当
の意味
を 自覚
した上で、敢
えて「
性
的貞潔
を保つ」
という
原意
か ら同じ表現 を用 い た もの と考
え られる の であ
る。従
っ て ブッ ダの「
梵
行」
は、 バ ラモ ン教のそれ と違い 、「
命終
る まで (yavajlvarp
[MV
.1
.78
.2
p.96
ノ南伝蔵3p
.165
])」保
た れ なけ
れば な らない。2
続い て、
Nalaka
は後
に、 ブ ッ ダに対して 「牟
尼 行 (Moneyya
聖者た ること)」 を尋
ね るが、 以 下 に示 すその 「牟 尼 行 」 こ そ、 ブ ッ ダの 説 くとこ ろ の「
梵行」
の 内容であ り、実
に よ く当 時の 梵 行者
の生活
を具体
的に伝 えてい る と考
えら れ る。因み に、 これ と ほ ぼ 同 じ内容が 『
Mahavastu
(E
.Senart
:Le
Mahavastu
皿pp
.386
−389
)』に も伝承
され てい ること は注
目に値す
る。“
Moneyyan
te
upafifiissanti
BhagavS
dukkaralp
durabhisambhavalp
,handa
te
nalp pavakkhami, santhambhassu
dalho
bhava
.世
尊
宣は く、行
い難 く得
るこ と難 き牟尼行
を ば我
は汝
に知らしめ ん。い ざ
我
はそ を告
げん。 強毅たれ、 〔心〕堅固 た れ。 (701.23)Samanabhfivarp
kubbetha
garne
akkutthavandita 叩 , manopadosa 珥rakkheyya santo anu ロロato care ・
− いか
村に て は罵 らる るも
礼
さ る る も、平 等の態 度 もて臨むべ し。 意 瞋る ことを順 しみ〕
護
り、寂 静に して高
ぶ らず行
ぜ よ。 (702.24)Uccavaca
niccharantidaye
aggisikhUpama nariyo munirppalobhenti
,ta
suta
ヱp
mtipalobhayu
.園 中 にて も 〔黄赤大 小の〕火の如 く、
種
々 な る もの が現れ来る。諸
の女
人 は牟尼 を誘 惑す。 彼
女等
を して彼
を誘
惑せ しめ ざ れ。 (703−25)Virato
methunadhamma
hitv
且kame
parovare
aviruddho asarattop
的esutasathavare
,52
(467>NII-Electronic Library Service
婬
の法よ り離れ、 彼此の 諸 欲 を捨て て 、弱
き強 き諸生物
に対 して違背 (
瞋
害)せず 愛執せず。 (704.26 ) ‘
yatha
ahalp
tathfi
ete,
yatha
etetath
且 aha 甲, ’attana 叩 upama 叩
katva
na
haneyya
naghataye
.『
我は彼等と同等
な り、彼等
は我
と同等
なり
』とて、自
己〔
が害
せ らる る場
合
〕
に引 き較べ て、
〔
生物
を〕
害し殺すべ か らず。 (705−27)Hitv
且icehafi
calobhafi
ca , yattha sattoputh
岫ano , cakkhumfipatipatO
’eyyatareyya
narakarpimarp
.う げん じや
凡 夫が執 着す る所の 欲 求と
貪
欲 と を捨て て 、有
眼者
は 応 に行
道すべ し。 こ わ たの
〔
貪
欲の〕
地 獄 を度るべ し。 (706−28)UnUdaro
rnit巨haro
appicch’
assa alolupo
, sa ve
icchaya
nicch 齔o anicchohoti
nibbuto .
とん く’ あ
腹
を控
え、食
を節 し、 少 欲に して 貪 求すべ か らず。 彼 は実に欲 に〔
厭 き〕
離
れて、無欲
とな りて〔
煩悩〕
寂 滅す。 (707.2g )Sa
p
加φac亘raη〕 caritva vanantam abhih 百raye upatthito rukkhamUlasmirpasanUpagato
munl .ぎ よ う こつ お わ
彼
は行
乞 をな し已 りて、林
辺 に赴
くべ し。樹
下に止在
して、牟尼
は 座に就
〔
きて坐〕
す。 (708.30)Sa
jhanapasuto
dhiro
vanante ramito siya ,jhayetha
rukkhamUlasmirpat竡nam abhitosaya 耳
P
.かの
賢者
は禅定
を励
み林
辺 をば楽
しむべ し。自
らよく満
足 しつ つ 、樹
下 にて禅思 すべ し。 (70g−31)
Tato
ratya vivasanegamantam
abhih 且raye , avhanalp nabhinandeyyaabhih5rafi ca
g
亘mato .そ れ よ り夜 を過 ぎて 、
〔
翌朝〕村
に赴 くべ し。〔
信者
の〕
招待
を も、村より持 ち来
れ る〔
食〕
を も喜
ぶべ からず
。 (7ユ0−32)
Na
munigamam
盃gamma
kulesu
sahasa careghasesana
恥 chinnakatho, na
v 邑cam
payutalp
bharPe
.あ
牟 尼は村に来 りて 、 家々 を、急 ぎ行 くべ か らず。 唖
者
の如
くせ よ。食
を求
めんと策したる語 を語るべ か ら
ず
。 (711−33 )‘
Alattharp
yad
,
idarp
s巨dhu
, nalatthalp ,kusalam
’iti
ubhayen ’eva sot
且di
(466)
53
NII-Electronic Library Service 梵 行と身体性につ い て (中條 ) rukkham va upanivattati . 若 し
〔
食を〕
得 なばこれ可 な り。 〔若し食
を〕得
ざる も善 しとて両者を ば同 かえ 様に見做し、 平然と して彼は 還 り来る。 (712−34>Sa
pattap
的i
vicaran 七〇 amUgo magasammato apPamd
巨nalp nahileyya
,datara
耳P
n 盒vajaniya .お も
彼
は鉢 を手に して遊行 しつ つ 、 唖者
に非ず
して唖者
と謂
は れ、僅少
の 施 をも
軽
んず
べ からず
。〔
その〕
施者
をも軽蔑す
べ か らず
。 (713,35)Uccavaca
hi
幽
sam 叫 enapakasita
: naparalp
digupalp
yanti
, naidalp
ekagu 胆 m mutarp .沙 門 (仏)によりて
種
々 な る〔
至高の〕
行道
が説
か れ たり
。彼岸
に二 回至 る こ と な く、一
回にて これ (到彼岸 〉あるな し。 (714−36 )
Yassa
ca visata n,atthi chinnasotassabhikkhuno
,
kicc
巨kiccappahinassa
pari
↓aho
na v功ati,〔
輪
廻の〕
流れ を断
ちたる かの 比丘 には愛著 あ
るこ と な し。 種々 の所作
(善悪)を捨 断せ る
〔
比 丘〕
に は熱 悩 あること な し。 (7i5−37)Moneyyan
te
upafifiissan :ti
Bhagava
khuradharUpamo
bhave
,jivhaya
t
且lu
耳1ahacca
udare safifiato siy5 ,世
鍵
査
ま
は く、 牟尼 行 を汝に知ら しめ ん。
〔
食を摂る こ と〕剃
刀 の 刃〔
を嘗むる
〕
が 如 くせ よ。 舌を以て 口蓋 を抑へ 、 胃に対 し て自制す
べ し。 (716−38 )alinacitto ca siya
, na capi
bahu
cintaye , nir且magandho asitobrahmacariya
−
P
皇壁 ⊇9
・沈滞の心 あるべ か らず。 また多 くを思念 すべ か らず。
臭穢
な く、 依 著 あるな く、
梵行
を最後
の 目的とすべ し。 (717.3g )Ekfisanassa
sikkhetha sama ロopasanassa ca, ekatta 珥 monam akkhataIp eko
ce abhiramissati , しんこん
独
坐 (身離)と親
近 沙 門 (心離 ) とを応 に学す
べ し。 牟 尼行 は独 一 (離 ) と 称せ ら る。若
し独 り 〔
行
道を〕
楽 しまば、 (718−40)atha
bhasihi
dasa
disa
.Sutv5
dhiranarp
nigghosarpjhayinam
k5macfiginarp
tato
hirih
ca saddhafi cabhiyyo
kubbetha
marnako .然 ら ば
〔
名声 〕
十方に輝 く。禅
思 し、 諸 欲 を棄てたる諸の 賢者の名声を聞 ざん ぞ う じ よ う きては、 我 が弟
子は慚と信と を益
々増 長
せ しむ べ し。 (71g−41 )54
(465 ) N工工一Eleotronio LibraryNII-Electronic Library Service
N
弖laka
の 章は723
−45
まで続 くが、 要 する に 、 感情に動か さ れ ること な く、生 存の 継 続 と生命
の維持
に関わる性 欲 と食欲 を完 全に抑 制 し、 他 者及 び欲 求の 対象
となる事物
との 関わり
を必 要 最小 限に止 め、 独 り自由に、 禅定
(Jhana
)に励 む禁 欲 的生活で ある。 更 に こ の ような具 体 的内 容は 、 後に 「梵 行」 とい う表 現 か ら「
中道 (matihimapaVipada = samma 一正一)」即 ち厂
聖八 支道 (苦滅 道聖諦)」
とい う概 念に抽象化
されるこ と となる。3
さて 、で は なぜ
梵行
に住す
る の か ?なぜ梵行でな けれ ばならない の か ? そ れ は、
当時
の 人々 に とっ て も疑問
に思う
ことであ
っ たの であ
る。 『Jambukhfi
−daka
−sa甲
yuttalp
』4Kimatthi
(Salpyu
七ta−nikaya以下
SN
IV
pp.253
−254
) {南伝蔵15
pp.
392
−393
相応部 経典 閻浮車 相応 第四何在1
には、 次の ように説か れてい るQKim
atthiyam
且vusoSfiriputta
samapeGo
七amebrahmacariyalp
vussatiti 〃〃
Dukkhassa
kho
弖vusoparififiattham
Bhagavati
brahmacariyam
vussatiti !!〃
3
中略
Katamo
panAvuso
maggokatama
patipada
etassadukkhassa
parififiay
巨ti〃 〃Ayam
evakho
fivuso
ariyo atthahgo maggo etassadukkhassa
parififiaya
// seyyathidam 〃 sammaditVhi 〃pe
〃 sammfisamadhi 〃 ayarpkho
avuso
maggo ayam
patipad
巨 etassadukkhassa
parififiayati
//4
Bhaddako
avuso
maggobhaddika
pa
ipadfi
etassadukkhassa
parififiaya
〃alafica
panavuso
S
盈riputta apPam 巨dfiy
且ti
〃 〃5
く ど ん
「
友舎
利弗よ、 何〔
の利〕
あ りてか、 沙 門瞿曇に就て梵
行 を修 する」
と。 厂友よ、 苦を知悉せ んが ため に、 世尊に就て梵 行を修す」
と。(
三) 中略「
友
よ、 何を か こ の苦 を知悉
するの 道 とな し、行
道となすや」
と。「
友 よ、 この聖な る 八支の 道こそは この苦
を知悉す
るの〔
道〕
な れ。 そ れは しゆ い 即 ち正 見 ・正 思惟… 正定
な り。友
よ 、こ はこ の 苦を知悉
する の 道 な り、 行 道な り」
と。(
四)
「
友
よ、 この苦
を知悉す
るの道
は善
なり
、行道
は善
なり
。友舎利弗
よ、 また し ようご ん 精 勤する に 足 る」
と。(
五)
(464)55
N工工一Eleotronio LibraryNII-Electronic Library Service
梵 行と身体性につ いて (中條)
こ こに
「
実
に苦
の 全容
を知るこ とを 目的として (Dukkhassa
khoparififiatham
)」「聖な る八支の道 (ariyo aVthathgo maggo )」 即 ち
「
梵
行 」 を修
するの で ある と してい る が、 この
説
明は、Snp
Mahavagga
12
Dvayatanupassana
−sutta (「二 種随観経』十二 南伝蔵
24
pp
.272
−274
)の726
−727
の内
容に対
応す
るも
の と考 え
られ る。“
Ye
dukkhalp
na −ppq
挿nanti athodukkhassa
sambhavalpyattha
ca sabbasodukkham
asesarP uparutjhati,tafi
ca maggaTp najananti
dukkhUpasama
−
gamlnalp
, (724−1)cetovimuttihinA
te
athopafifiavimuttiya
, abhabbate
antakiriyaya ,te
vejatijar
ロpaga
.(725−2)苦
を知
解 する こ とな く、 ま た苦の発生 を〔
知 らず〕
、 また苦が 普 く残 りな く絶
滅す
る処 を〔
知 らず〕
、 また苦の寂
滅に至 る かの 道 を知らざる所の、 (724−1)人々 は心
解脱 あ
る な く、 また慧解 脱 も〔
あるなく
〕
、彼等
は〔
苦〕際
を尽
くす
能
はず。彼等
は実
に生 と老
に至る。 (725−2)Ye
cadukkha
単pajananti
athodukkhassa
sambhava 叩,
yattha
ca sabbasodukkharp
asesarp uparujjhati,
tafi
ca maggaIppajananti
dukkhapa
−
samagtiminarP
, (726−3 )
cetovimuttisampann 且 atho
pafifiavimuttiya
bhabbti
te
antakiriy 且ya, nate
jati
づarUpaga ”ti
,(727−4) されど苦
を知解
し、 また苦
の発
生 を〔
知
り〕
、 また苦
が普 く残 り
な く、絶
滅 に至る かの道を知
解する所の (726−3)人々 は心解
脱 を具 足 し、 また慧解 脱を〔
具足 す〕
、 彼 等は 〔苦 〕際を尽すを得。彼等
は実に生 と老に至 らず。 (727−4)つ ま り 「苦の全 容を知る
」
と は、自
己の身体性
(有 身Sakkaya
[SN
.皿 .p
.159 南 伝蔵 14p .248 ]自己が 身体である こ と=苦 =五取蘊〉 に おい て、 「梵
行 (聖八支道 )」を実践す
るこ とに よっ て 、 身体 と して の自
己の内的欲求
と して潜在 す
る、 純 粋主体
億 識せ ぬ主体〉で あっ た苦
の実 体 (Tarpha
渇愛〉が、自
己 にとっ て 対 象主体 (意識する主体)と して 顕在 化 (dukkhassa
sambhavarp 苦が具体 的な現象又 は内的言語 と して生起 ) したこ とを意 味 し、 その 結 果「
彼等
は 生ず
べき苦
を終滅す
る (bha −bba te antakiriyaya :S .Freud の 自我の防衛 機制 [
Abwehrmehanismen
〔独〕]が行使さ れる 心 的状 態に相当するもの と思 わ れる)
」
ことが可 能になっ た もの と考
えられ る。56
(463)NII-Electronic Library Service
また、 『
Khuddaka
−nikaya 』Itivuttaka
[Dukanipata
35
p
.28
喃 伝 蔵23
小部経典一 如是 語 経 35 p.2751 には、 次の ように説か れてい る。
…
Atha
kho
idam
bhikkhave
brahmacariyalp
vussati sarpvaratthaficaRahbang
!tth
llballga
−ti
.りつ ぎ
厂
… …却っ て比丘衆よ、 律 儀のた め と捨離の た め梵 行に住 する な り」
と。即 ち、
身体
としての自
己の内
的欲 求 を抑 制 (Sa
・pvara :S
.Freud
の抑圧Verdrtin
−gung
〔独 〕の 概 念に近い もの と考 えら れ る) し 、捨 断 (Pahana :S
.Freud の 昇 華Sublimierung
〔独〕の概念に近い もの と考えら れ る)す
る 目的で梵行
に住 す
るこ とが 理解
さ れる。4
で は次に、 本論題の核 心 部分 に迫る た め に 、 私 が
仮
に 「津
田 仏教 学」
と呼 ぶ とこ ろの 、 これ までの 近代
仏教 学に対 し、 新たに 「開
放系
(神)の仏 教学」
と ブル シ ヤ の う 称 する有神
論 的 〈有〉の 仏教学
のHorizont
(〔独〕地 平)を開い た津
田眞
一博
士の著書
「アーラヤ的 世界 とその神
』(大蔵出版)のIV
「
無 明 とは何か」六 に示 される 極めて重要 な記述に注 目したい 。 (丸 数字及び 下線は筆者に よ る)で は、
「
原 始 仏教の実 践 」を その ように規 定す る根拠である筈の無 明と は そ の
実体
におい て一体何
で ある の であ
ろう
か。 そ れ こそが ブ ッ ダの教
と して の集諦
におい て 、「
後
有 を齎
し、喜貪
倶行
に して随 所に歓喜
せ しむ る渇愛な り、すなわち
欲愛
kama
−ta
洫且、 有愛
bhava
−tarpha
、 無 有愛
vibhava −ta
ロha
な り」
(Mv
六 ・二 〇) と
定義
されて い る とこ ろの渇愛
なの である。ブ ッ ダが認識
す
る ところ、 わ れ わ れの 人間的世 界 をかくあ
ら しめ てい る根拠
と ザイン トリ ブ カ マ して の存
在
の本質
と は、宇宙
的な欲動、 力と して の愛
欲なの で あ り、 こ の、 ま さにシ ョ ーペ ンハ ウエ ル の 「生 き ん とす る意 志」、 ま た は
フロ イ トの リ ビ ド 一 (= エ ス〉の
観念
を思わ せ る根
源 的な愛欲
(kama =ta加亘)が私た ち人 間の生 を「
喜
と貪」
という
内的 衝迫と、 そ して縁と して の外 界の 対象
(「随所」) と を通 じ て生
存
欲 (bhava
−tarpha) とその逆の自
己 否 定欲 (vihava −tapha、 涅槃の滅へ の志 向 もそ あ らわ れの現象に他な ら ない …)との相 反する二
方 向
に断 え問な く駆 り、 かく
て私
たち人 間をその
苦
の世界
内に永 劫に輪廻
させ る の で ある。 そ して、 こ の渇愛が 当人 に とっ(462)
57
NII-Electronic Library Service 梵 行と身体性につ い て (中條 ) てい まだ 自
覚
さ れてい ない とき、すな わ ち和辻博
士のいう
「不
知」
の「
領 域 にあ
る」
とき、 そ れを無 明とい うの で ある。 … 〈中略
〉… た しかに無 明 が無 明と して「
認
識せ ら れ たとき
にはす
で に もう
無 明はない」
。 すな わちこの 認 識は教に よっ て無 時 間的に獲
得さ れ るのである が 、問題は そこ では終わ らない の であ
る。 その認 識に よっ て自
らの渇愛
が 「自覚
さ れ る」
の で あっ て、 その人には今 度
は その 渇愛
を滅 するた めに 、 その認識
=知
の メ ル クマ ール(
b
)
か ら「
甘露」・「不 死 」(メル クマ ール a )に向
かう行
=実 践の 時 間的 なプロ セ スが要求され るの で あ る。 だ か ら上 に示 した よう
にす
でに「遠 塵離 垢の 法 眼 」 す なわち正 し
き認識
を得
て 「悟
れ る」
もの となっ たコ ン ダンニ ャが改
めて 出家 を願い 出たの であ り、 そ し て、 そ れ に対 してブ ッ ダが「
正 しく苦
を滅
尽せ ん が た め に梵
行 を行ぜ よ」 とい っ たの で ある。しか し、 私 た ち個々 の人 間のそ れ ぞれの
努力
であ
る梵行
に よっ て どう
して宇 ザ イン宙的
なエ ロ ス と して万 人 共 通の存
在であるはずの渇愛
が滅
し得
るの か。 … 〈中略
〉…木村博
士の (伝 統 的に忠 実な)十二 縁 起理 解で は、 渇愛
は 必然
的 に 両義 的 タンv}− とな る。 そ れ は まず
、愛 → 取→ 有の 方 向 、 つ ま り渇
愛
縁 起 にお ける愛
で、 こ タンハ t. れ は まさに四諦
の 「集 諦 すな わち現 実 界の本 源 」と して の渇
愛で ある。 そ して も う一つ は「こ の欲を現 象 的に考えて 、 心 理
活動
中の 一現象
すな わち意 識活
動
の一」
と しての六 入→ 触→ 受→ 愛の系 列にお ける愛
で ある 。 … 〈中略
〉… こ タンハ の様
な二つ の あ り方が渇 愛 とい う一つ の事象
におい てい わ ば 「絶 対 矛 盾 的 自己 ザ イン 同一」的
に両立 して い るこ と、 そ れこそが 仏教 にお ける存在
の根本
的な性格
に 他な ら ない の であ
る。 で は、な ぜ
梵行
が その渇
愛 を滅 す る もの であるの か。 それは、梵行
とはその触
→受
→愛
の系列
に おける触
→受
をカ ッ トする ことで あるか らなの で あっ て 、 その個
人 的 なカ ッ トによっ て 、 (また して も 「カオス」に 関するハ イ デッ ガーの言い 方を真似る な ら)その 人の「
身 体を通して」、但
しその「
ただ わず
か な束
の間
の部分」
がで は なく
て 、その全
存在性
におい て流 れ る と こ ろ の「
生の ひ とつ の 流れ」
である渇愛は、 その 人に とっ ては、 その全体にお い て遮 られ る (その人の隣にい る人にはそれ は依 然と して全 的に存在してい るのである が…)の で あ り、 だか らこそ私たちは その 渇愛の カオス 的
「
奔流 に屈従す
るこ と な く、 その中に毅然と して立つ 」こ とが可 能で ある の で ある。 … … (以 上、 pp .244
−246
) 先 ず、と
に示 される
MV
か らの 引 用文
につ い て、Ernst
Waldschmit
の著
58
(461 ) N工工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service
書
『
Das
CatuSpariSat
−siftra』(「四衆経 』以 下CPS
>の サ ン ス ク リッ ト文
とパ ーリ文
MV
との比較にお い て、 特に次の二 箇 所に相 違 (下線 部分)が見 出だされ る。一
、 集 諦の渇愛の 箇所
MV
:tapha
ponobhavikfi
nandirfigasahagata tatratatrfibhinandiniseyyath ’
idam
kamata
ロh
且bhavataOha
vibhavata ロh
盈 /(
MV
p
.10
)ご う もたら ん Lよっ ロん _
後 有を齎 し、 喜 貪 倶 行に して 随 処に歓喜 する渇 愛な り、 謂 く、 欲 愛、
有愛
、無
有愛
な り。 {南伝 蔵3p
.19
}CPS
:tr
§p
亘paunarbhaviki
nandiragasahagatatatratatrabhinandini
(p.160
)再 生 (輪廻)を もた ら し、 生
及
び性
的喜
びや強
い欲求
へ向
かい 、 こ こか しこに
欲
求 を喜
び満
た そう
とす る、身体
として の自
己の 内的欲
求(渇愛)で
あ
る。 (以 上、 私訳)二、 コ ーン ダンニ ャ の
法
眼の箇所
MV
:virajam vitamalarpdhammacakkhum
udapadiyarp
kifici
samudayadhammam sabbam
ta
恥 nirodhadhammanti
(MV
p
.11
)つぼつ
遠 塵
離垢
の法
眼 生 じたり
、〔
謂 く〕
、集法
を有す
る もの は悉皆
此、 滅法
を
有
すと。 楠 伝 蔵3
p.211
CPS
:virajo vigatamalalpdharme
串udharmacak
串ur utpannam (p
.152
)諸
法
(四 聖 諦)につ い て、清
らかで、 汚れ なき法
眼 が生 じたり。 (以 上、 私訳 )こ の よ
う
に原 典に近い 経 典 と見 做 さ れ て い るCPS
が簡 潔
であ
る の に対
し、MV
には「
欲 愛」
以下と 「集法」
以下が付 け加 え られてい て詳 しい 。MV
の作 者
は、 実にその 原 典の 説 くとこ ろの 意 味を正確に理 解 してい たの で は ない だろ う か。先ず
、第
一の相
違箇所
につ い て 、津
田博
士はに おい て 「無 明の
実
体」
である渇
愛
(Tapha
)をSigmund
Freud
の くLibido
(〔ラ〕性 的欲動のエ ネル ギー)の 理論〉 及 びArthur
Schopenhauer
の くWille
(〔独〕意 志)の 概 念 〉から その 意 味を解 釈して い る。
即
ち、に おい て、
津
田博
士は、Kama
−tarphfi
(欲愛 :渇愛の本 質たるKama
愛欲)を
Freud
の欲動 (Trieb
〔独 〕人間を行動に駆 り立てる内在的 な力の ことで、心 的な もの(460 )59
NII-Electronic Library Service
梵行と身体 性につ いて 仲 條 )
と身体 的な もの との
境
界
廐念
である。 博士 はそれ を 「宇宙 的」と形容してい る)あるい は、Schopenhauer
の「
生き
ん とす
る意
志 (blinder
Wille
zumLeben
: 生へ の盲 目的意志 )」
に 同定し、 さ らに、 そのKama
た る欲 動は、Vibhava
−tapha
(無有 愛/自己否定欲 :博士はこれ を
M
。rtido と呼ぶが、 Freud のTodestrieb
死の欲動Thanatos
〔ギ〕に相当する)と、 それに
対
立す
るBhava
−taηha
侑愛 /生存欲 :博士 はこ れを Libid・ と して い るが 、Freud の Lebenstrieb 性ま た は生の欲動
Eros
〔ギ〕に相 当する) との相
反す
る二
方向
へ 駆 り立て る精神 分析 的欲 動 概念として解釈
するの で ある。津
田博
士のBhavaLtaphfi
をLibido
とする この解釈
は実
に興味深
い 。 何 故な らば、 こ の
解釈
を裏付
ける と 思 わ れ る経
典が存 在 してい る か らで ある。 そ れは 、『
Udanalp
』Nanda
−vaggam
−10
(Khuddhaka −nikayaV
−3
pp .32
−33
){南 伝蔵23
『自説 . . . . , コ ■ ■ ロ . . . . . ’ . サ 経』 第三 難陀品 10pp .135−137 )に 、 初めて 正覚
を成
じたブ ッ ダが、菩提 樹 下に七 日 . ゆ ロ ■ ロ サ ’ ■ . . . ロ . 間坐 した後
、定
より
起 ち、 仏 眼を以て世 間 を見渡
して ウ ダ ーナを説
い た 、 として 次の よう
に示さ れてい る。 (数字及 び 下線は著者 に よる)ayam
loko
santapajatophassapareto
rogaIp vadati attato ,yena
hi
mafifiatitatota
靼hoti
afifiath 盒. afifiathabhavibhavappatto
loko
bhavapareto
bhavam
ev,
abhinandati
.yada
’bhinandati
,
tarp
bhayalp
;
yassa
bhayati
,tarp
dukkha
恥.1bhavavippah
盒nayakho
panlidalp
brahmacariyarp
vussati ’七i
.ye
hi
keci
samapa vabrahmap
盒 vabhavena
bhavassa
vippamokkhamfiharpsu
, sabb’
ete avipparnutta
bhavasma
’ti
vad 盒mi .ye
vapana
keci
samapa va
brahrnarpa
va vibhavenabhavassa
nissara ロamahalpsu
,sabb ’eteanissa
a
bhavasma
’ti
vadami .yena
2
upadhihi
paticca
dukkham
ida
即sambhoti , sabbapadanakkhay 盒 n’
atthi
dukkhassa
sambhavo .lokam
imarp
Passa
puthu
, a而
jaya
pareta
bhtita
bhatarata
va aparimutta ・ye
hi
keci
bhava
sabbadhi sabbatthataya
, sabb
,
ete
bhavA
anicca
dukkha
viparipamadhamma ’
ti
〃10
〃evam eta卑
yath
盒bhatarp
sammappafifiayapassato
3
bhavatapha
pahiyati
,4vibhava
−tarPha
’bhinandati
. sabbato
tarPhanarP
khay
盒asesaviraganirodho nibbana 卑 ,
tassa
nibbutassabhikkhuno
anupada
punabbhavo
na
hoti
.abhibhato m 含ro vijitasafig 含mo ,upaccag 盒 sabbabhav 盒nitadi
’ti
.「この 世 は 、熱 苦の 性に して、触に累せ られ、 病を自己と して談ず。 こ れ蓋
60
(459)NII-Electronic Library Service しこ れ な りと思へ る こ との 、 そ れ とは異 なる こ とあれ ば な り。 変 化の質な る 世 間は 生
有
に達
して、 生有
の た め に累せ られ〔
な が ら〕
その 生 有 をこそ喜
ぶ なれ。 人喜
ぶ時、 そは怖
畏 な り。 人若
し怖
畏あ
らば、 そ は苦
なり
。1
生有を捨 離せ んが た めに こそ梵 行を行ふ。 沙門 に もあれ婆 羅門 に もあれ 、 生有に よ りて 、 生有の離 脱 を語 るあら ば、 これ等は総て生 有よ り離 脱せ ざる もの な りと我は い ふ 。然
る に又沙
門に も あ れ婆 羅門 に もあ れ、 非有 に よ りて生 有の 出 離 を 語 るあら ば 、 これ等は総 ほんぜち て生有
よ り出離せ ざる もの な りと我はい ふ 。 蓋 し2
この 苦は総て本 質に より
て生ず
るなり
、総
て取
の滅尽
より
して苦
の 生なければ な り。 広 くこの 世 間を見 よ。 生類は無 明によ りて累せ られ、 生 を喜
び、解脱
を得
ざる もの な り。 蓋 し如何
な る もの に もせ よ、 随 方 随 処 にて 、 これ等の 生 有は総て無常
・苦 ・転 変の法な れ ば な り」 と。「
是の如
く正智
に よ りて こ れ を如
実に見る もの には、3
生有
の渇愛
は滅し、4
非 有の 渇愛
は喜
な り。 総 て渇愛
の 滅 よ り して、貪
欲 を残
りな く滅 するこ と は涅槃な り。 その 涅槃に入 れる比 丘 に は、 取 な きこ と よ りして 再生 は あ らず
。 悪魔
は打 克た れ戦に敗
らる。 か か る もの は総て の生有に打 克て る な り」
と。こ こに説 く
Bhava
(生有 :下線1
/3
)は 、 そのContext
から考 えて、Bhava
−ta
ロh
巨 (生存欲 たる性ま た は 生の欲動 を意 味し、 しか もそ れ は 、 下線2
に 示 さ れ る よう
にUpadhi
(本 質 :生存の根拠、 存 在の拠処)で ある と して い る。 さ ら に 、 下線1
に 「生 有を捨 離せ ん が た めにこ そ梵
行 を行
ふ」
と示 さ れて い るように 、梵 行を 行ず
ることが生存
欲 (Libid
。)を抑
制 する こと と して 理解さ れて い るの である。 また、 下線
4
で は明
らか にVibhava
−ta
ロha
(自己否定欲た る 死の欲動)につ い ては、「
滅
し (pahlyati)」
とせずに「
喜
(abhinandati )」
と して肯定
してい るこ とは実に興 味深い 。しか し、 なぜ
梵行
によ っ て自
己の生存欲
(渇 愛 )を抑制 す
る こ とができ
る の か ?それ は、 先の津 田
博
士の記 述 中の〜
の問い と
答
えであ
るが、津
田博
士 は、 さ ら に 同著書 「1
釈迦の 仏教学か らプル シ ャ の仏教 学へ (山折氏 とのDia1
・gue) p .65」
の 中で 、 渇愛の 抑 制 億 志の否定 )の可能性の 根拠につ い て次の よう
に述べ てい る 。 (下線は筆者に よる)即
ち、 (458)6
ユ N工工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 梵行と身体 性につ いて (中條 ) ザ イ ン ア ラヤ 〈存 在 〉と して の渇 愛の宇
宙
的な流れ は、 私た ち 一個 の小 さ な 人間が受
を遮 断するこ と に よっ て遮 止 されう
るの です
ね。 こ こ にこそ仏 教に おける く存
く う在
〉 の秘密
がある の で あ り、 そ れ こそ が 空 という
こ との 唯 一の 内実で ある わけで す。 つ まり
、 私 た ち人 間に とっ て、事
実、「
意志
の否定
は可能」
なの だという
わ た ど けです
。 シ ョ ーペ ンハ ウエ ル は この「
可能」性
の根
拠 をさらに辿っ てそ れ を「
意志 と身体
の 同一性」
と して把
握 し、 そ れを 自 ら 「最 高の意 味で の哲
学 的真
理」
である、 と自慢
するわけです
。と して 、 津田博士 は、
Schopenhauer
の 「意 志 と身体の 同 一性 (ldentitat
des
Willens
unddes
Leibes
)」
という
「最
高の 意 味での 哲 学 的真理 」と して結 論づけてい るの で
あ
る が 、 私 はその 渇愛の抑 制つ ま り意志の否 定が 可能
である根
拠 を、MV
の作者 自身
も既に先
に示 し た第
二 の 相 違 箇所 (津田博 士の著 書 中の の 引用 ) に見出して い たの で は ない か と考 え
る の であ
る。 つ まり
、MV
の作者
はブッ ダの説法
に より
コ ー ン ダン ニ ャ に生 じた「
諸 法 (dharmesu
=四聖諦 )につ い て」
のr
法
眼」
を、渇愛 抑制の根 拠の真理を獲 得 したこ と を意 味 する表 現 と して、「集 法を有する もの は
悉
皆此、 滅 法 を有 す (yarpkifici
samudayadhammarp sabbarptarp
nir・
dhadhamman
)」 即 ち、 渇愛
が集法
(samudayadhamma ・p
:生起せ る もの)で あるか ・らこ そ、 すべ て