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駒澤大学佛教学部論集 41 013関 恭子「パーリ仏典における善友 : 中部経典を中心にして」

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(1)

パーリ仏典における善友

―中部経典を中心にして―

関   恭 子

【はじめに】  「パーリ仏典」において、仏及び仏弟子そして『経』は、善友であり、師又 は師ほどの指導者と称される。何故なら、善とは安らぎに導くもの。善友は、 他者を「苦滅に導く」智慧の成就を教導するために法の説示をするからである。  具体的には、善友は仏教の根底にある智慧の成就(苦滅)と、慈悲の実践で ある法を示し、他者に安らぎ(涅槃)を教導する仏、法、僧(三宝)である、 と解釈する事が出来る。  それ故、善友に親近し適切な聞法の者、及び『経』の読誦をする者は、善友 に教導され、法の随法を実践し、正法に導かれた世界(自己)を知る者、善友 となる。  善友とは何か。それを三宝として考察してみたい。  何故、仏は善友と言われるのか。善友としての師・仏を考察し、それととも に、仏の教えとしての法、そしてその実践者である仏弟子・僧を中部 47『観 察経』(Vīmam4saka-sutta M.I.317-320)、中部 122 『大空性経』(Mahāsuññata-sutta

M.III.109-118)、及び中部 24『中継車経』(Rathavinīta-sutta M.I.199-205)を中心に、 考察する。 Ⅰ.何故善友か  善とは涅槃に導くもの。善友は、他者を「苦滅に導く」智慧の成就を教導す るために法の説示をするからである。 私(仏)は、以前も今も苦と苦の滅尽のみを説いています。 (中部 22『蛇喩経』) 1.善友がある事は、梵行のすべてである。 (中部 47『観察経』)

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善友、善き朋友、善き友がある事は、梵行のすべてである。 何故なら、アーナンダよ、私を善友とする事によって、生まれる性質(法)のもの である有情は、生から解脱し、老いる性質のものである有情は老から解脱し…中略 …愁・悲・苦・憂・悩の性質のものである有情は、愁・悲・苦・憂・悩から解脱す る、と。 (MA.II. 379)(S.v.2) 2.善友は、輪転の苦の終わりを作る法を説示する。 (中部 122 『大空性経』) 私に対し、友誼をもって行動しなさい。…それは長い間、そなたたちの利益のため、 安楽のためになるはずです…ここに師は、憐憫者、利益者として、憐みを垂れ、弟 子たちに法を説きます。 (M.III.117) 3.慈悲によって顚倒のない五法門(根拠)を示す。  善友は、仏教の根底にある智慧の成就(苦滅に導く三毒、四漏からの解放)と 慈悲の実践である法を説く人であり、他者に安らぎ(涅槃)を教導する。そし て、智慧をもって観るならば、生滅の法である有情は、その苦から自由になる と、安らぎに導く法を説示する。 私(仏)は、削減、発心、回避、向上、涅槃の法門(根拠)を説示します。師が弟 子たちのために《慈 (mettā) によって》利益 (hitesinā) を願い、《悲 karun4ā によっ

て》憐みによって (anukampakena) なすべき事を私はそなたたちのために、憐みの 心をもってしました。 (M.I.46 MA.I.195)

Ⅱ.善友の同義語

 パーリ仏典には、善友と同じ意味を示す語として、善人・善知識(sappurisa)、 聖者(arahant―煩悩という敵 ari を打った者、殺した者 hanti)で表されている経があ る。たとえば、中部 1『根本法門経』(Mūlapariyāna-sutta)には、善人と聖者の 解釈がある。 1.聖者(arahant) < 比丘たちよ ここに  (仏教 sāsana において) < 凡夫であり   (puthujjana. 種々に煩悩を生むから) < 聞がなく    (assutavā. 聞く事、知識がなく、学得と証得がないために

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導かれるべき者 )

○もろもろの「聖者」を見ず (聖者 ariyānam4 adassāvī. とは、ārakattā 煩悩から

遠く離れている事から、非道において立居振舞せず、道におい て立居振舞する事から aye irīyanato、天を含む世界によって近 づかれるべきである事から aran4īyato、もろもろの仏 Buddha、

独覚 paccekabuddha、仏弟子 buddhasāvaka である。見ずとは、 眼 cakkhu によってではなく、智 ñān4a によって見ず)

< 聖者の法を熟知せず (ariyadhammassa akovido. 念処 satipatt4 4hāna などの種類の

法に巧みでなく)

< 聖者の法に導かれる事がなく (ariyadhamme avinīto. 律 vinaya に、防護律と捨 断律の二義が知られる…凡夫には、防護が壊れ、捨てられるべ きものが捨てられていない…) ○もろもろの「善人」を見ず  (sappurisa. ここでは如来と如来の弟子をさす。 かれらは出世間の徳に結ばれて輝く善人だからである) < 善人の法を熟知せず < 善人の法に導かれる事のない者がいます。 (M.I.1 MA.I.21-25)

2.善人・善知識(sappurisa Skt. sat-purs4a, mitra-bhadra)

 善人は正法を説く。生滅(縁起)の法、即ち、自己(五蘊)を知る事を説示 する。 善人たちに親しむ事です。…善人たちに親しめば…正法を聞く事になります。 正法を聞けば…法の随法を実践する事になります。法の随法を実践すれば…自ら知 り、自ら見る事になります。 『これら(五蘊)は病、腫物、矢である。…取著の滅から生存の滅がある。生存の 滅から生まれの滅がある。生まれの滅から老死が滅し、愁・悲・苦・憂・悩…が滅 する。この様にして、この全体の苦の集まりの滅がある』と。 (M.I.512)  以上の事から、聖者、善人、善知識ともに苦滅に導く法の説示をする善き指 導者、師である事が理解できる。 Ⅲ.善友とは何か <善友とは勝れた法を説く慈悲の実践をする人である>

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 善友の語義を辞書に見るならば、kalyān4a は、善、徳(puñña)を示し、その意

味のみに使われる語である。(『パーリ語佛教辞典』p.267) 否定の接頭辞(a,an,ni)

を付けて反対の「悪」の意味を表す事はない。(悪を表す時は、akusala, pāpa を用 いる。)

  語 根 は 善 き(bhadi)で あ り 善(kallāna)、 楽(sokhiya)と い う 意 味。(Saddanīti II.Dhātumālā p.381)

 同義語である bhaddaka(bhadraka √ bhand44)には、賢善、賢聖(skt.)、輝ける、

高徳の、具妙宝(pāli)の意味がある。(Saddanīti II Dhātumālā p.533)

 友(mitta)は skt. mitra. 友人、仲間…友、朋友、善友、知識、善知識(『梵和辞 典』P.1040)の意味がある。慈を表す mettā は、友(mitta, mitra)に由来。  善とは安らぎに導くもの。善(kalyān4a)友(mitta)とは、善を具え、徳を具え 「煩悩(三毒、四漏)から生じる不安という悪しき魔」の入る事のない、安らぎ を成就し、智慧を成就(苦滅)した、慈悲の実践をする人である。 慈 (mettā) は、友に利益と安楽をもたらそうとする事である。(与楽) 悲 (karun4ā) は、友の不利益と苦を除去しようとする事である。(抜苦) (Sn.v.73) <善友とは三宝である>  これより、善友を三宝として考察してみたい。  何故、仏は善友と言われるのか。善友としての師・仏を考察し、それととも に、仏の教えとしての法、及びその実践者である仏弟子・僧を考察する。 【仏】 善友とは師である 善友と称する梵行住への強い依拠を示す、その様な師が、比丘のために 勝れた法を説くならば、比丘は、師に対して浄心を得る。 【法】 世尊によって説かれた法は、解脱に資するからよく説かれている。 【僧】 その法を実践する僧団は、欠点のない実践を行うものであるから、よく 実践している、と。 (M.I.320) Ⅳ.善友としての師、仏について <何故、仏は善友、師と言われるのか>  友と言う時には、必ず他者がいる。その他者に対して、善という友の状態

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(kalyān4a-mittatā)が善友である。善(kalyān4a)という友(mitta)の状態(tā)である師 がいる。その師には又、善という友の状態を具えた弟子がいるからである。 善友とは何か。その中、善友性(kalyān4a-mittatā 善という友の状態)とは何か。 浄信、具戒、多聞、捨棄、有慧の人々(仏や仏弟子)が、かれ(梵行者)にいる。 そして、それらの人びとに従う事、仕える事、奉仕する事、親しむ事、親近する事、 信仰する事、信奉する事、親交する事である。これが、善友性である。この善友性 を具足している人が善友である。(Pp.24 Dhs.228)

Buddhā vā Sāriputtasadisā vā kalyān4a mittā etesan ti kalyān4amittā.

仏やサーリプッタなどの善友、かれらが善友性である。 (MA.I.189) …ここに師は、憐憫者、利益者として、憐みを垂れ、弟子たちに法を説きます。… 弟子たちは聞こうとします。耳を傾けます。了知して心を置きます。…師の教えか ら逸れずに行きます。…この様に弟子たちは師に対し、友誼をもって行動し、敵意 をもって行動しません。 (M.III.117) <友(1)たる資格のある善く住む慧者>  仏は、賢明な友、慧者を得たならば、共に歩むのがよい。愚者に依存して友 たるもの(資格)を得る事ができない、と摩訶迦葉長老に語られている。 もしも賢明な友、共行者、善く住む慧者を得たならば あらゆる危難を克服し かれと喜び、念じ、歩め……. 愚者には友たるものがない 独りで歩む方がよい 諸悪を作らず泰然として 独り歩め、森の大象のように (M.III.154)(Dhp.330) <善友とは賢者、善者であり、善き朋友、善き友がいる> 戒を具え、徳を具え、賢者、善者であるという、この善(安らぎに導くもの)とい う友の状態の者がかれ(梵行者)にいるから「善友」(kalyān4ā-mitta) である。 又、かれには、行・住・坐・臥(四威儀)において、ともに (saha) 行く (ayana) 友 人たちがいる、という事で「善き朋友」(kalyān4a-sahāya) である。心によっても、 身によっても(涅槃に)おもむき(涅槃に)傾き、(涅槃に)向かう状態とともに 行動する善き友がいる事が「善き友」(kalyān4a-sampavan 4 ka) である。 (MA.II.379-380)  師の教えを実践している仏弟子(梵行者)には、善友、善き朋友、善き友が いる。即ち、善という友の状態である師は、苦滅の法を説示し、仏弟子は、師

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の説かれた法を実践する。 <善友とは師である> 【仏】 善友と称する梵行住への強い依拠を示す師が、比丘のために勝れた法を 説くならば比丘は、師に対して浄心を得る。   ⑴仏・如来は「空性の住まい」という寂静、妙勝に住んでいる故に、仏は善 友、師と言われる。たとえ、 王や大臣などに取り囲まれて住んでいても…「輪囲山の周辺の会衆の真ん中に坐っ ていても、如来は、専ら遠離(涅槃)に向かっている事から (ekanta-viveka-ajjhāsaya) 専一者 (ekaka) である」。 諸仏が菩提(覚り)を獲得されて以来…涅槃に向かっている「心が極めて寂静であ り、妙勝の状態になっているからである」… 世尊は法を示される場合、教導されるべき者たちの智の熟成 (ñān4a-paripāka) を思 案され、それぞれの時間を超え過ぎず、法を示される。会衆を送り出す場合「遠離 に下る(煩悩に基づくもろもろの法を終結している)心によって送り出される」 (MA.III.160-161)  からである(対機説法)。それ故、指導者である仏は善友、師である。  ⑵善友、師である、指導者に禍はない。  中部 122『大空性経』おいて、三つの禍(師の禍、弟子の禍、梵行者の禍)があ る、と説かれている。師は、誰に対しても迷い、欲し、貪り、奢侈に転じる事 がない。故に、善友である仏は、師として禍のない指導者である。  しかし、梵行者の禍のみ、苦の果報が大きいと説かれている。何故なら、そ の師の弟子である梵行者が奢侈に転じた場合、安らぎ(涅槃)には到らないか らである。 …この世に如来が現れています。…如来(仏・師)は、森、樹下…といった静寂の 臥坐所に親しみます。その様に遠離して住んでいる師(仏)の処もとに…バラモン・資 産家たちが訪ねて来ます。… 師は…かれらに対して迷い、欲し、貪り、奢侈に転じる事がありません。 …その師の弟子もまたその師の遠離を増大させ、森、樹下…といった静寂の臥坐所

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に親しみます。その様に遠離して住んでいる師の弟子の処もとに…バラモン・資産家 たちが訪ねて来ます。 しかし、師の弟子は、…かれらに対して迷い、欲し、貪り、奢侈に転じます。… これが禍のある梵行者と言われます。梵行者の禍によって、汚れのある、再生をも たらす、恐ろしい、苦の果報を具えた、未来に生まれと老いと死がある、もろもろ の悪しき不善の法が、師の弟子を打ちつけます。 そのうち…(外教の)師の禍と(外教の)弟子の禍とがありますが、それらよりも この梵行者(仏弟子)の禍は、苦の果報が大きく、悩みの果報が大きいものです。 (M.III.115-117)  師の禍、及び弟子の禍があるのは、ともに外教者の禍である。外教の宗旨に おいては、世間の徳から衰退するにすぎない。  それに対し、仏教においては、四道、四果、涅槃(九出世間法)という証得 できる大きな徳がある。仏の教えから衰退している者は、九出世間法から衰退 するから梵行者(仏弟子)の禍は大きい。善友である仏は、師として禍のない 指導者であるからである。  ⑶五蘊をすべて知悉しているから、仏は善友、師と言われる。 仏、阿羅漢である…如来は、すべてを知悉している事から…(業の)生存より生ま れ(異熟の蘊)がある、生けるものには老死(蘊の老死)があると知っている事か ら、たとえば地を地と歓ぶ事がない。 涅槃を涅槃とよく知り、涅槃を歓ぶ事がない。 「如来は、出世間の道による最終の煩悩(四漏:欲・見・生存素因・無明)の滅尽、 消滅(預流道)、寂滅(一来道)、捨棄(不還道)、破棄(阿羅漢道)により正しく 自ら覚りを得た者である」と。 (M.I.8)  仏の教えを実践している梵行者は、苦滅を知悉する[たとえば、五蘊の色蘊 を形成する地・水・火・風を愛・見・慢の妄想によらず、歓ばず、自身に執す る法の根本が生起しない(M.I.1-6)]と、善友である師は教導される。それ故、 仏は善友、師と言われる。 <善友としての師の資格、師の徳について>  善友としての師の資格、師の徳について中部 47『観察経』(Vīmam4saka-sutta

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M.I.317-320)及び中部 122『大空性経』(Mahāsuññata-sutta M.III.117-118)を考察する。 仏は、弟子たちが速やかに苦の終わりを作るための依拠を示してくれる。 1.中部経典 47『観察経』(Vīmam4saka-sutta M.I.317-320)に見る善友としての師

 善友としての師の徳を観察する比丘が、如来をどの様に観察すべきか。梵行 住をするための強い力となる依拠を、仏自らが説かれている。 如来には「二つの法である 眼(身)と耳(語)」によって識られる 汚れの法が存在しない事、 清まりの法が存在する事、 善法に長い間入っている事、 名声を得ても危難がない事、 畏れがなく、静まっている事、 貪りがない事から欲に従う事がない事、であるとする。 (M.I.318) 二の法(眼と耳により識られる法)について、如来を吟味すべきである。 それは、善友の機根(善友と称する梵行住への強い依拠)を示している。 何故なら、この善友の機根は大きいからである。 大きい存在はこの様に眼(身)と耳(語)の二つの法によって知られるべきである。 (MA.II 378-379) 【仏】 その様な師が、比丘のために勝れた法を説くならば、比丘は師に対して 浄心を得る。 【法】 世尊によって説かれた法は、解脱に資するからよく説かれている。 【僧】 その法を実践する僧団は、欠点のない実践を行うものであるから、よく 実践している、と。 (M.I.320)  善友に親近し適切な聞法の者は、この様に法にも僧にも喜び、誰にも如来に 対する信仰が確立する。この堅固な信仰は、世界のいかなる者によっても除去 される事がない。  この様にして、如来に対する法性(自性によってのみ正しく)の吟味がなされ、 顚倒のない観察になる、と。  仏は善友の機根こそすべての最初である、と語られた。この善友の機根は、 大きいという事である。これらの事を示して世尊は、二法(眼と耳)において、 如来を吟味すべきである、と「師の徳について何が観察されるべきか」を説示 された。師の徳を観察する比丘が、梵行住をする強い力となる依拠として、善 友としての「師の資格」が述べられている。

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2.中部 122『大空性経』(Mahāsuññata-sutta M.III.117-118)に見る善友としての師  師に対し「友誼をもって行動しなさい(mitta-vatāya). 友の実践(mitta-pat4ipatti)

によって」と、仏は法を説かれる。  弟子は、たとえ拒絶されたとしても、どの様な道理を見て、師に従うべきか、 とその理由を述べられる。 弟子は、経・応頌・解答のために、師に従うべきではありません。聞の武器 (sutāvudha) を具えた聖弟子は、ただ聞のためだけに従うべきではありません。聞 の教え (suta-pariyatti) を学んで、適切な実践を行う者にのみ、その武器 (āvudha) は 生じるのです。 (M.III.115 MA.IV.164)  師に対し「友誼をもって行動しなさい」と、弟子たちが速やかに苦の終わり を作るために、具体的に梵行者の実践法である三の遠離、及び十(2)論事を説示さ れる。 ここに、師は憐愍者、利益者として、憐みを垂れ、弟子たちに法を説きます。 「これはそなたたちの利益のためです。これはそなたたちの安楽のためです」と。 かれの弟子たちは聞こうとします。耳を傾けます。了知して心を置きます。また師 の教えから逸れずに行きます。…それは長い間、そなたたちの利益のため、安楽の ためになるはずです。… 一度教示して、私は沈黙するという事はないであろう。もろもろの過失を除去し、 除去し、何度も教示し、教示するであろう。 (M.III.117 MA.IV.166)  愛息のラーフラ長老には、常に教誡を与えられている。 善友に親近する様に      遠離した(騒)音のない辺地の臥坐処に住む様に 食に量を知る者になる様に   また衣、食、住、資具に対して これ等に対して渇愛を作らない様に  再び(輪廻の)世界に来ない様に、と。 (Sn.338-339)(MA.II.380) 私(仏)は法門を示し、そなたたちのために、すべき事をした。 何故なら、これだけが憐みのある師の務めだからである。 即ち、顚倒のない法を示す事である。 しかし、これ以降の実践は弟子たちの務めである。 (MA.I.46) 善友は、輪転の苦の終わりを作る法を説示する。 (MA.III.157)

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 善友である仏は、教えの根底にある智慧の成就と慈悲の実践である法を説き、 他者に安らぎ(涅槃)を教導する。しかし、実践するのは、自己自身である。 慈悲による説示が弟子に対する仏の務めであり、それ以降の実践は弟子の務め である、と。 (M.I.46)  善き師は、弟子たちが速やかに苦の終わりを作るために法を説かれる。これ が、善友としての師の資格、師の徳である。 Ⅴ.法としての善友 【法】 世尊によって説かれた法は、解脱に資するからよく説かれている。  善友に教導され、法の随法を実践し、正法に導かれた者は、世界(自 己)を知る者となる。

1.中部経典 47『観察経』(Vīmam4saka-sutta M.I.317-320)に見る法としての善友

 仏は、未熟の心の解脱を成熟させるために「五法」が導く、と以下の五法を 語られる。  一.善友の機根(強き原因、根拠)を限定する   「ここに比丘は、善友、善き朋友、善き友がある事である」と。  二.戒 善友、善き朋友、善き友がある比丘には、次の事が期待される。 持戒者となり、パーティモッカの防護によって守られ、正しい行いと托鉢場所を具 えて住む。 ほんの僅かな罪にも恐れを見、もろもろの戒律条項を学ぶ。  三. 十論事 蓋 (3) のない心(の解明)に適した、専ら厭離、離貪、滅尽、寂止、勝智、正覚、涅槃 に導く削減の話をする。即ち、小欲の話、[知(4)足の話、遠離の話]、不交際の話、精 進努力の話、戒の話、定の話、慧の話、解脱の話、解脱智見の話である。そうする ならば、この様な話を随意に得る者、難なく得る者、少なからず得る者となる。  四.精進努力 精進努力の者は、不善の法を捨て、善法を具足するために、力・勢いのある強い意 思で行動する者であり、善法において重荷の取り除かれた者となる。

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生滅に導く智慧を具えた、聖なる洞察をもって、正しく苦の滅尽に導くかれは、有 慧者となる。  五 . 削減の話 たとえば、畜生話等の無益な話をしない。…専ら遠離、離貪、滅尽、寂止、勝智、 正しい覚りの話をする。これ等の話は、削減のもの、心の障害を離れるために相応 しいものです。涅槃のためになります。 比丘は、これ等(上記)の五法を確立し、更にこの五法より上の「四法」を修すべ きである。即ち、 一.貪を捨てるために不浄を、 二.瞋を捨てるために慈(5)を、 三.尋(大まかな考え)を捨てるために数息観を、 四.我の慢の破砕のために無常相を修すべきである。何故なら、  無常相のある者は無我相を確立し、  無我相のある者は我の慢を破砕し、  現法において涅槃に到達するからである、と。 (M.I.317-320)  これ等を成熟し、最後に現法において涅槃に到達する、と説かれる。 2. 中部経典 122『大空性経』(Mahāsuññata-sutta M.III.117-118)に見る法として の善友  ⑴法の護持のため、仏は『大空性経』を説示された。 仏が入滅しても、五千年間「この経」に心を向け、群を除去し、専一の状態を喜ぶ 仏の弟子たちは、輪転の苦の終わりを作るであろう。 (MA.IV.157)  ⑵善友である仏は、善のため、涅槃のためになる法を説かれる。  この経には、梵行実践の成就のために「十論事」が三ヵ所に「三の遠離」の 形で述べられている。 【第一回目の十論事】 〔身の遠離 戒〕  独り自衆(自分の会衆)や別衆(異なる人々の集合)から離れて住む比丘に期 待されること。離欲の楽、遠離の楽、寂静の楽、正覚の楽という楽を得る者に なる。

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〔心の遠離 定〕  「時の楽心解脱」。入定時ごとにもろもろの煩悩から解脱している、色界・無 色界の心の解脱。四禅と四無色界定の時の解脱、世間の解脱。 〔生(6)存素因の遠離 慧〕  「不時の不動を成就して住む」。もろもろの煩悩によって動かされ得ない不 時・不動の解脱、究竟の解脱(accanta-vimutti)。四聖道と四沙門果である、出世 間の解脱。  仏は、内(自己の五蘊に依拠し)に空性を成就して住む事ができる「空性の住 まい」について説かれる。 アーナンダよ、私(仏)は、およそ貪染し、およそ歓喜する色しきに、変壊し、変化す る事によって、愁・悲・苦・憂・悩が生起しない様な色を一つも見る事がありませ ん。〔見の清浄〕 しかし、アーナンダよ、この住まいが如来によって覚られています。即ち、あらゆ る相(五蘊の有為相)を思惟する事により、内に成就して住む事ができる空性(如 来の住まい)です。 (M.III.111)  実践の内容は、阿羅漢果の足場となる究極の空性、観の得相である。 ① 色界禅定(止)である初禅から四禅までに達して住む事。 ②  次に内(自己の五蘊)、および外(他者の五蘊)、そして内外(自他の五蘊)に おいて空性を思惟すること。 ③  更に、不動の無色の禅定を思惟する。しかし、世間の禅定では、心が跳入 せず…解脱しない。空性は、色界禅定、無色禅定(三界禅定)では業処が 生起せず、心が解脱しない、とそれについて正知する。 ④  基礎の禅定を充分に何度も思惟し心を定める。それ故、業処に対する思惟 が、止(禅定)観(正見)の住まいによって、観の基礎となる禅定におい て、観の鋭い作用行為を運ぶ。内に、外に、内外に空性を思惟し、内に、 外に、内外に空性によって、次に、不動を思惟し、不動によって、心が跳 入し、…解脱する、とそれについて正知する。 (M.III.112 MA.IV.161) ⑤  止観の住まいに依って住んでいる心が経行、坐、臥、語る事などに向かう ならば、善に向かい涅槃のためになる様にする。

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たとえば、無益な話をしない。この話は、削減のもの、心の障害を離れるために相 応しいものです。専ら遠離、離貪、滅尽、寂止、勝智、正しい覚り、涅槃のために なります。それは、 と「十論事」を説かれる。〔預流道〕 (M.III.112-113) 【第二回目の十論事】  小欲の話、知足の話、不交際の話、戒の話 〔戒〕  遠離の話、精進努力の話、定の話     〔定〕  慧の話、解脱の話、解脱智見の話     〔慧〕 こうした戒・定・慧の話を語る様にしよう、とそれについて正知する。 (M.III.113) ⑥  これらの考えは聖者にふさわしい、解脱に資するものであり、その実践者を正しく 「苦の滅尽に導く」。それは、欲のない、怒りのない、害意のない考えである。こう した考えを考える様にしよう、とそれについて正知する。〔一来道〕 (M.III.114)  この様に、考え(欲、怒り、害意)の捨断によって、二の道(預流道、一来道) を語り、次に仏は、第三の道、不還道を語られる。 ⑦ 五種妙欲に対する貪欲は、不還道の成就によって捨棄される。 五種妙欲(眼耳鼻舌身の所縁である色声香味触)に対する貪欲が捨てられていない 時は、業処の不成就により、捨てられていないと正知する。捨てられていないと 知ったならば、精進に努め、それを不還道によって根絶する。それより、道の直接 の果を、果から出て観察し、業処の成就を知る事により、五種妙欲は、捨てられて いると正知する。〔不還道〕 (M.III.114)  今や仏は、阿羅漢道の観を語られる。 これらが五取蘊です。それについて比丘は、生滅を観つづけて住むべきです。 (M.III.114) 色…受…想…行…識に関わるもの、それらの法を、無常、苦、病、腫物、矢、禍、 疾、他(自分でない、自在でない)、破壊、空、無我、と観る。この様に三(7)相(無 常・苦・無我)に載せて見られる、入定中の、それらの五蘊の法から心を解き放ち ます。心を解き放ち、不死界(寂静の涅槃であると、無為の不死の界、要素)に心

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を集中します。<これは寂静である。これは殊勝である。即ち…一切の生存素因の 捨棄、渇愛の滅尽、離貪、 滅、涅槃である > と。 (M.I.435-436) これら五取蘊に対する欲、愛着、愛執、固執、これが苦の生起である。これら五取 蘊に対する欲貪の調伏、欲貪の捨断、これが苦の滅尽である。 (M.I.191) これら五(8)取蘊の生滅を観つづけて住むかれには、五取蘊に対する我の慢が捨てられ ます。…私にはこれら五取蘊に対する我の慢が捨てられている、と…承知する。… これら止・観、道・果の法は、専ら善の善より現れた、聖(9)なる、出世間のものであ り、悪しき魔が入ることのないものです。 (M.III.115) …比丘は、身において、身を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世※界 における貪欲と憂いを除いて、住みます。

※世界 (loka). ここでは「身」(kāya 身体 ) は破壊 (lujjana)、壊滅 (palujjana) の 意味により「世界」である、という事が意趣されている。又、「身」において のみ貪欲と憂いが除去されるのではなく「受」(vedanā 感受 ) 等[想行識]に おいても除去されるから「五蘊」も「世界」であると言われる。

(D.II.290 DA.III.758-759 DAT4373)

 阿羅漢道の観から自己(五蘊)とは、世界であり、五取蘊を三相に載せて観 る事ができるならば苦の滅である。 【第三度目の十論事】が示される。  少欲の話、知足の話、不交際の話、戒の話 〔増上戒学〕  遠離の話、精進努力の話、定の話     〔増上心学〕  慧の話、解脱の話、解脱智見の話     〔増上慧学〕  弟子は、たとえ拒絶されても、この様な法によって師、又は師ほどの人、或 いは『経』に従うべきである、と。  仏の教えを実践するために、どの様に修行実践してよいのか分からない時、 「この経」を読誦する。そして、身の遠離、心の遠離、生存素因の遠離である 三の遠離、即ち、十論事の実践をする。 「アーナンダよ、私がそなたたちのために説示し制定した法と律が、私の亡き後、 そなたたちの師なのです」 (長部 16『大般涅槃経』 D.II.154)  仏の法は、正しく因、方法、根拠により、その実践者の「輪転の苦の滅尽」 のためにその目的を完成させる。

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Ⅵ.僧(聖弟子)としての善友 【僧】仏弟子、僧団は、欠点のない実践を行うものである。  最後に中部 24『中継車経』(Rathavinīta-sutta M.I.145-151)により、僧(聖弟子) としての善友を考察する。  この経は、無礙解を具えている大漏尽者である二人の仏弟子による法の対話 である。少欲、知足、不交際、戒、遠離、精進努力、定、慧、解脱、解脱智見 (十論事)の者として、同梵行者を教誡し、尊敬されているプンナ・マンター ニプッタ長老(以下プンナ長老)と、法将軍であるサーリプッタ長老の「七種 の清浄」(十論事)についての問答である。  十論事(dasa-kathāvatthu)の円満は、三学を満たし、   少欲論、知足論、不交際論、戒論 〔増上戒学〕   遠離論、精進努力論、定論    〔増上心学〕   慧論、解脱論、解脱智見論    〔増上慧学〕に収まる。又、  三学の円満は、五の無学法蘊を満たす。   増上戒学は、無(10)学の戒蘊   増上心学は、無学の定蘊   増上慧学は、無学の慧蘊、解脱蘊、解脱智見の蘊を満たす。  又これら五の(無学)法蘊は、不死の涅槃を満たす事になる。 小欲、知足、削減、養い易さ、精進努力、これら五種の徳の円満は、十論事を満た す事になる。それにより、比丘(仏弟子)は最上法の相続者となる。 (M.I.13)  サーリプッタ長老は、プンナ長老に身元を明かさず質問をしていく。  ⑴ まず、世尊のもとで梵行につとめたのは「戒の清浄」のためであるのか、 と問うと<そうではない>と答える。  続けて「心の清浄」から「智見の清浄」まで質問をしていくが、いずれも< そうではない>と答える。 一.「戒の清浄」――「戒の清浄」は増上戒学 二.「心の清浄」――「心の清浄」は増上心学(定学)

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三.「見の清浄」――「見の清浄」以下「智見の清浄」までの五清浄は「増上慧 学」

「見の清浄」は、名色を確定する。

<名 (nāma) 色 (rūpa) を確定する者が、有情相 (satta-saññā) を 打ち破り、迷妄のない地にとどまる名色を如実に観察する事>。 色は、四大要素(地・水・火・風)と四大要素から成る性質のものであり、無常・ 苦・病…壊滅・空・無我であると見る者は、色への愛着(渇愛)が捨てられます。 (M.I.500) 苦諦は、色などの五蘊≪五取蘊≫である。…四大要素と四大要素から成る色を「色 (rūpa) である」と≪変壊 (ruppana) の意味によって混乱なく≫確定する。…≪その 色を所縁として生起する≫受・想・行・識を「名 (nāma) である」と…これらの二法 が名色であると確定する…≪見の清浄≫ (中部 43『大有明経』M.I.292 MA.II.338)  有慧者は、苦諦が五取蘊であることを知り、四諦を業処とし観の業処を確立 する。 四.「疑の超越の清浄」―― 集諦を如実に知り、確定するもの。正見。       名色の起こる因縁である無明、愛、取、業および食を観察する。 (『パーリ論書研究』p.379) 無明とは四諦に対する無知 (M.I.7 MA.I.67) …≪名色≫は無因ではない。有因であり、有縁である。その縁とは何か、無明など の法である… ≪無明などの≫縁と≪色、受などの≫縁已性法を≪「無明の生起により色の生起が あり、渇愛の生起により色の生起がある」と…≫」確定する…≪疑の清浄≫ (M.I.292 MA.II.338) 五 .「道・非道智見の清浄」―― 道と非道を知って確立した智。 五蘊の各々を無常・苦・無我と観察する智、思惟智。 諸法の変化を観察する生滅随観智など道諦を確定するもの。 (『パーリ論書研究』p.379) ≪無明などの≫縁と≪色、受などの≫縁已性法… 「これらの法はすべて非存在の意味によって無常である」と無常の相に載せる。それより 「生・滅・圧迫の様相によって苦である」

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「無力の様相によって無我である」と、三相に載せ 観の順序により思惟し、…出世間の道に到達する。 (M.I.292 MA.II.338) 六.「行道智見の清浄」―― 八種の随観智と第九の諦随観智。 一.生滅随観智:無常・苦・無我を思惟し、有為法の生滅を観察する智。 二.破壊随観智:尽滅破壊のみを観察する智。 三.畏怖随観智:一切処・一切時の有為の諸行は滅する事を観察し、これについて 畏怖する智。 四.危難随観智:一切法において危難を観察する智。 五.厭離随観智:諸行の法を厭離する智。 六.脱欲智:一切の諸法を解脱したいと欲し、願望する智。 七.省察随観智:一切の行法は、無常・苦・不浄・無我であると省察、観察する智。 八.行捨智:世間的な諸行を超越して、これに無関心となる智。   この智によって、空・無相・無願の三解脱門を得る。 九.諦随観智:行捨智の次に諸行を所縁として随順智が得られる。   これらの八智により最上に達した観に随順して諦随観智が得られる。 七.「智見の清浄」―― 四聖道智   預流道:有身見(自身見)・疑・戒禁取の三結の滅尽。   一来道:三結の滅尽、貪・瞋・癡の減少。   不還道:欲貪・瞋恚・有身見・疑・戒禁取の滅尽。   阿羅漢道:色貪・無色貪・慢・浮つき・無明の滅尽。 (D.III.132)(『パーリ論書研究』pp.377-383)  尊者プンナは、四種清浄戒などを確立しても、梵行につとめ住む事が頂点に 達するものではない事から、<七の問い>をすべて否定した。  ⑵ それでは、何故、世尊のもとで梵行につとめたのか、と問う。 <執着のない完全な涅槃(煩悩の滅尽)のためである>と答える。  ⑶ では「戒の清浄」は<執着のない完全な涅槃>であるのか、と問う。 <そうではない>と答える。  続けて、「心の清浄」乃至「智見の清浄」については<完全な涅槃>である のか、と問う。

(18)

いずれも<そうではない>と答える。 もしも「戒の清浄」乃至「智見の清浄」を<完全な涅槃>とするならば、執着 のあるものを<完全な涅槃>であるとする事になる、と答える。  ⑷ そこで、プンナ長老は、サーリプッタ長老に七台の中継車の譬えを示し、 その意味を明瞭にする。  譬えとは、老死を恐れる禅定者が、自己(五蘊・有(11)為)という都に住んでい る。そこで、かれに未だ現観されていない四聖諦を現観する事態が生じ、どの 様に涅槃に到達する事ができるのか、である。その答えは、   「戒の清浄」は「心の清浄」までを目的とし、    増上戒学   「心の清浄」は「見の清浄」までを目的とし、    増上心学   「見の清浄」は「疑の超越の清浄」までを目的とし、   「疑の超越の清浄」は「道・非道智見の清浄」までを目的とし、    増上慧学   「道・非道智見の清浄」は「行道智見の清浄」までを目的とし、   「行道智見の清浄」は「智見の清浄」までを目的とするものである。   「智見の清浄」は<執着のない完全な涅槃>までを目的とする、と。  即ち、諸清浄における   「戒の清浄」は四の論事  少欲の話、知足の話、不交際の話、戒の話   「心の清浄」は三の論事  遠離の話、精進努力の話、定の話  諸論事における   「慧の話」は五の清浄  「見の清浄」「疑の超越の清浄」         「道・非道智見の清浄」「行道智見の清浄」         「智(12)見の清浄」である。  この様に、諸論事において省略されているものは、諸清浄において敷衍され ている。  「友よ、執着のない完全な涅槃のために、世尊のもとで、梵行につとめ住む のです」と。  この対話が終わり、二人の尊者は、互いに名前を明かし合う。そして、 「…聞のある弟子が、師の教えを正しく知るとおりに、まったくそのとおりに、プ ンナ尊者が、甚深の質問に、つぎつぎ触れて、解答されたとは。…プンナ尊者に会 う事ができ、近づく事ができるならば、同梵行者たちには利得があり、利得がよく

(19)

得られます…」と。 「……サーリプッタ尊者にお会いする事ができ、近づく事ができまして、我われに も利得がよく得られています」と。 …かの両大龍は互いによく説かれた事を同じ心になって喜びを示した、と。 (M.I.150-151 MA.II.158-159)  以上、この経は二人の仏弟子、二人の善友によって「七種清浄」という涅槃 に到る道について説かれたものである。それは又、仏の教えの実践である戒・ 定・慧の三学を内容とするものである。 【むすび】  善友としての「師の徳を観察する者」に言及された中部 47『観察経』、仏が 「師に対し、友誼をもって行動しなさい」と言われ「如来の住まい(空性の果 定)」により仏の教えとしての法を説かれた中部 122『大空性経』、及びその実 践者である仏弟子・僧を中部 24『中継車経』を中心に善友とは何か。それを 仏(師)、法(教え・経)、僧(仏弟子)の三宝として考察した。  何故なら、善とは安らぎに導くもの。善友とは、智慧の成就した人であり、 他者を苦滅に導くために、智慧の成就を教導するために、法を説示する。即ち、 仏教の根幹を説き、慈悲の実践を行い、他者に安らぎ(涅槃)を教導する。苦 の解決のために、自己自身(世界)である執着の対象となる五蘊(五取蘊)を 知悉する事を教えてくれる師、又は師ほどの人、及び『経』であるからである。  たとえば五取蘊は、縁已生法である、と五取蘊の生滅を観つづけて住むべき 事を示してくれる。色は、四大要素(地・水・火・風)と四大要素から成る性 質のものであり、無常・苦・病…壊滅・空・無我であると見、その色を所縁と して生起する受、想、行、識を名であると確定し、これらの二法が名色(五 蘊)である、と変壊の意味により混乱なく確定する様に教導してくれる。  確定する者は、名色への愛着(渇愛)が捨てられる。それ故に、五蘊を、愛 (渇愛)、慢(慢心)、見(我見・邪見)で捉えない事にある。五取蘊は、無常

(anicca)、苦(du)不安定・空虚(kha)、無我(anattan)即ち、空性である、と知悉す る。

(20)

 梵行者には、戒・定・慧の三学が、仏の教えの実践として示される。具体的 な実践は、身の遠離(戒)、心の遠離(定)、生存素因の遠離(慧)の三遠離に より、空の随観によって入定できる「空の果定」、空性の住まいである。即ち、 究竟の阿羅漢の果定である。  我われが、見聞覚知する有為相は、因縁生起の法である。即ち、無我性であ り、空性である。仏の教えの根幹は、縁起の法、因果の道理を知る事である。  善友としての仏、法、僧は、仏の解脱味を示し、我われに世界(自己)とは 何か、世界(自己)の外に見るべき、識るべきものはない事を示してくれる。 それ故、善友とは、仏、法、僧の三宝である、と理解できる。  善友に親近し適切な聞法の者は、善友に教導され法の随法を実践し、正法に 導かれた世界(自己)を知る者、善友となる。 【略号】 Be 『パーリ聖典』ビルマ第六結集版

Re Pāli Text Society Oxford U.K.(使用テキストは、PTS 版)

M. Majjhima-nikāya MA. Majjhima-nikāya Att4 4hakathā

D. Dīgha-nikāya DA. Dīgha-nikāya Att4 4hakathā

DAT4. Dīgha-nikāya Att4 4hakathā-T4īkā Dhp. Dammapada

DhpA. Dhammapada Att4 4hakathā Dhs. Dhamma-san 4

gan4i

Pp. Puggala-paññatti S. Sam4yutta-nikāya

SA. Sam4yutta-nikāya Att4 4hakathā Sn. Sutta-nipāta

Vism. Visuddhi-magga VismMT4 Visuddhmagga Mahā-T4īkā

【参考文献】 Saddanīti II.Dhātumālā PTS 2001 『南伝大蔵経』1-64 巻 大正新脩大蔵経刊行会 1993-1999 片山一良 パーリ仏典『長部』・『中部』各全六巻 大蔵出版 1997-2006      『パーリ仏典入門』大法輪閣 2008      『ダンマパダ全詩解説』 大蔵出版 2009 水野弘元 『パーリ論書研究』春秋社 1997 小林圓照 「善友 (kalyān4a-mitta) 思想の展開とアジア文化」第 23 回パーリ学仏教文化学 会学術大会資料 2009 【註記】 ⑴ 友たる資格 . 善友を求め行きつつ、もしも自己の戒・定・慧より勝れた者、或いは 等しい者を得る事がなければ、独りで堅固に行くがよい。愚かな者を友とすべきでは

(21)

⎱ ⎱ ⎱ ない。何故なら、友の徳、友の資格がないからである。小戒・中戒・大戒、十論事、 十三頭陀、観、四道・四果、三明、六通、これを「友の資格」という。 (Dhp.61 DhpA.II.23-25) ⑵ 十論事  1.少欲 . 渇愛のない事。少欲には   ⑴…四資具 ( 衣・食・住・薬 ) に対して欲がない、   ⑵…自分に頭陀支が受持されている事を知らせる欲がない、   ⑶…多聞である事を知らせる欲がない、   ⑷…預流などのいずれかでありながら、その事を知らせる欲がない、という四種。  2.知足 . いかなる ( 四 ) 資具に対しても満足を具えている。  3.遠離 . 三種の遠離を具えて住んでいる。   ⑴身の遠離 . 行・住・坐・臥をすべて一人で行う。   ⑵心の遠離 . 八禅定   ⑶生存素因の遠離 . 涅槃  4.不交際 . 五種の交際を離れている。   ⑴聞く事による交際 ⑵見る事による交際 ⑶語る事による交際   ⑷食べる事による交際 ⑸身体による交際   これらによって生起する貪りから離れている。  5.精進努力 . 身心ともに満ちた努力。  6.戒を成就 . 四種清浄戒   ⑴パーティモッカ防護戒 ⑵根防護戒 ⑶生活清浄戒 ⑷資具依止戒  7.定を成就 . 観を基礎とする八禅定。  8.慧を成就 . 世間、出世間の智。  9.解脱を成就 . 聖果。  10.解脱智見を成就 . 観察智。 (M.I.145) ⑶ 蓋(五蓋).貪欲、瞋恚、沈鬱・眠気、浮つき・後悔、疑い (D.III.234) ⑷ 知足の話、遠離の話(ビルマ版により挿入) ⑸ 慈 .〔慈・悲・喜・捨:四梵住・四無量心〕   【慈】一切の有情を慈しむ:瞋恚の対治    慈心解脱   【悲】苦しむ一切の有情を憐れむ:不害    悲心解脱 第一禅~第三禅(喜受)   【喜】喜ぶ者(にのみ)すべてに:不快の対治 喜心解脱   【捨】業自性・業果を如実に観る:無貪    捨心解脱 第四禅(捨受) (Vism. Be 315 Re 322) ⑹ 生存素因の遠離 .「生存素因は、苦の根本である」と見て、執着を離れ、生存素因 の滅尽において解脱する者になります。

  生存素因は苦の根本 upadhi dukkhassa mūlam4.< ここでは五蘊が生存素因と呼ばれ

ている。それが苦の根本《一切の輪転の苦の根拠》である、とこの様に知って、煩悩 の生存素因から、生存素因のない者になる。捉われのない者 (nigahan4a)、渇愛のない

(22)

⑺ 三相(無常・苦・無我)に載せて見られる  無相随観とは無常の随観によって、常相の捨断が生じる:無常随観  無願随観とは楽の願い、楽の希求の捨断が生じる:   苦随観  空随観とは我があるという執著の捨断が生じる:    無我随観 (Vism. Re 695) ⑻ 五取蘊の生滅   色とはこのとおりである、色の生起とはこのとおりである、色の消滅とはこのとお りである。受…受の生起…受の消滅…、想…想の生起…想の消滅…、もろもろの行… もろもろの行の生起…もろもろの行の消滅…、識とは…識の生起とは…識の消滅とは このとおりである、とこれら五取蘊の生滅を観つづけて住むかれには、五取蘊に対す る我慢が捨てられます。 (M.III.114-115)

⑼ 聖なる ariya. 過誤のない (niddosa)、出世間の (lokutara) という事。何故なら「無過誤」 とは「聖」と言われているからである。なお《もろもろの過誤 (dosa) から遠く離れてい る (āraka) から「聖」(ariya) である》。 (中部 117『大四十経』 M.III.71 MA.IV.130) ⑽ 無学の戒蘊 . 聖なる戒蘊 (ariyasīlakkhandha). 聖なる戒の集まり。聖とは仏、独覚、 仏弟子をさし、清浄、無過誤が内容。…もろもろの戒を足場とする無後悔・満足・喜 び・軽安の法によって包摂された身心の安らぎ。 (D.I.70 DA.I.183)   無学とは、預流道、乃至阿羅漢道の有学の者に対し、既に学び終えている者、即 ち、阿羅漢[果の者]、漏尽者。 (D.III.271 DA.III.1052 DAT352) ⑾ 有為 (san4khata) とは、もろもろの縁 (paccaya) が集合して作られたもの (kata) であ

り、五蘊 (pañca-khandha) の同義語である。 (M.III.63 MA.IV.106) ⑿ 智見の清浄.『清浄道論』Vism. XXII. Ñān4adassana-visuddhi-niddeso における如実

智見、及び無相随観、無願随観、空随観の三随観。

  Yathābhūtañān4adassanan ti sappaccaya nāmarūpapariggaho;

  如実智見とは、自己の属する縁と名色の把握である。

  Animittānupassanā ti aniccānupassanā va; tāya niccanimittassa pahānam4 hoti.

   Appan4ihitānupassanā ti dukkhānupassanāva; tāya sukhapan4idhi-sukhapatthanāpahānam4

hoti.

   Suññatānupassanā ti anattānupassanāva; tāya atthi attā ti abhinivesassa pahānam4

hoti. (Vism. Re 695)

  無相随観とは無常の随観によって、常相の捨断が生じる。   無願随観とは楽の願い、楽の希求の捨断が生じる。   空随観とは我(自己)があるという執著の捨断が生じる。

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