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対馬の赤米神事と年中行事 [ PDF

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Academic year: 2021

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(1)対馬の赤米神事と年中行事∼その伝承と衰退に関する一考察∼ キーワード:まつり、年中行事、民間信仰、民俗、近代 発達・社会システム専攻 八坂 信久 1.はじめに. し、女子供はもとより、頭主さえもみだりに入ることは. 本稿は伝統的な民俗文化が消失する過程や、変容して. 許されなくなる。そして旧正月までの間に、氏神への参. いく様子を調査することで、 民俗文化とその担い手との、. 拝、赤米の新米を用いた餅つき、余った新米の分配など. さらには地域社会との関係性を考察することを目標とす. が行なわれる。旧正月 5 日には翌年度の頭屋の頭主が海. る。. 岸で禊を行い、旧 1 月 10 日の晩から翌朝にかけて、カ. ここで扱う「伝統」とは、恣意的に選択された過去を. ミサマとして祀られている米俵を翌年の頭屋の家に運ぶ. 再構築し、理想化する概念である[岩竹 1996] 。しかし. 神渡しが執り行われる。カミサマとしての米俵が新しい. これはあくまでも巨視的な意味で用いられる言葉であり、 頭屋の本座に吊るされると、その本座において頭仲間に 現実の「伝統的」な民俗文化の担い手たちが抱く、文化. よる予祝儀礼的な酒宴が開かれる。この旧 1 月 10 日の. の永続性や価値観といった期待は払拭されないことが多. 行事は頭受けと呼ばれており、赤米神事において最も盛. いように思われる。この問題を扱うには、具体的な民俗. 大かつ豪奢な、中心的儀礼である。儀礼の後もカミサマ. 文化を調査対象として扱い、そこに関わる人々と地域社. の米俵はそのまま吊るされ続け、田植えの季節になると. 会との関係性から考えることが重要であると思われた。. 苗を作るだけの種籾が取り分けられ、新たな頭屋を中心. そして特に衰退の間際に立つ民俗文化に注目した理由. にして再び米作りが始められる。以上が赤米神事の一年. は、今まで行われていた行事や慣習が消滅するかもしれ. を通した様子である。. ないという危機的な状況にこそ、それらの行事や慣習に. 一年間の行事や儀礼は、頭屋を務める家が中心的な役. 対する存在意義や価値観が、当該文化の担い手たちはも. 割を果たすが、全ての行事や儀礼において、担い手たち. ちろんのこと、その文化が根付く地域住民によっても再. である頭仲間の全員参加が原則であった。頭仲間は供僧. 確認されると思われたからである。. 家と豆酘在住の農家(もしくは元農家)により構成され る。供僧家とは、中世の神仏習合の様式を今に伝える民. 2.赤米神事内容. 間の宗教者、お坊(赤米神事の祭祀を行なう場合はお亭. 調査対象となる赤米神事は長崎県対馬市豆酘に伝わる. 坊と呼ばれる)を輩出する家柄を指し、豆酘には 9 軒の. 民俗行事であり、昭和 54 年には厳原町によって「無形. 供僧家が存在していた。頭仲間の縮小化の結果、明治 38. 民俗文化財」に、平成 14 年には文化庁によって「記録. 年の時点で 9 軒の供僧家と 17 軒の農家によって構成さ. 作成などの措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択さ. れていた頭仲間も、現在では 2 軒の供僧家と 1 軒の農家. れた。この行事は、赤米という古代米を栽培し、毎年収. しか残ってはいない。しかし赤米神事の各種儀礼は今も. 穫される赤米の新米を御神体として礼拝する、頭屋制に. お亭坊が祭祀することになっており、宮司や僧侶といっ. 基づく神事である。. た他の宗教者が関与することはない。. ここで赤米神事の構造と内容を簡単に説明すれば、稲. この赤米神事は一般的に、天道信仰という対馬特有の. 作労働との結びつき、祭祀集団と祭祀者の特殊性、諸信. 信仰体系に基づく神事であると説明されるが、同時に日. 仰要素の複合性、などの特徴が注目されるであろう。. 神信仰、山岳信仰、穀霊信仰などの古代的な信仰体系が. 赤米神事は一年間に渡って行なわれる諸行事の集合体. 神仏習合化して天童法師伝説が付与された信仰様式、と. であるが、その実践面においては、春から夏にかけて稲. 説明することも可能である[永留 1988] 。これは赤米神. 作栽培を行う時期と、秋から冬にかけて儀礼を行なう時. 事に見られる諸要素を単純に展開しただけの説明にも思. 期とに二分される。秋に収穫された赤米の種籾は、俵に. えるが、ここに見られる複合性と重層性は、赤米神事を. 詰められ、頭屋の家の本座という座敷の天井に吊るされ. 特定の信仰儀礼の延長線上に捉えることの危険性と困難. る。お亭坊という民間の宗教者がこれに祈祷し、米俵は. さを表している。. カミサマとなる。カミサマを祀る本座は一種の聖域と化.

(2) 3.年中行事の変化. というものである。. 本稿ではこの赤米神事を一行事として捉え、調査地で. ここで問題として想定できることは、赤米神事の一連. ある豆酘集落の年中行事と比較することで、その変化、. の行事群に、他の年中行事との共通項があまり見られな. 衰退の様子を考察するものである。しかしかつては数多. いことであった。また田中、和歌森の指標も分類の目安. く伝承されていた年中行事も、現在ではその多くが消滅. として用いることは可能であったが、それらが直接的に. していたり、変化を余儀なくされていたりしている。よ. 赤米神事の現状を説明しているとは言い難いものであっ. って実際の調査資料としては、先行研究[九学会連合対. た。. 馬共同調査委員会 1954,城田 1987]に見られる昭和 20 年代から 50 年代までの年中行事を基準に、現在までの. 4.考察. 変化とその様子を記述することにした。現時点ではこれ. ここで民俗文化の衰退という現象を、民俗学の枠組み. らの先行研究が、豆酘集落における年中行事の様子や社. の中で考えてみると、 「近代化に伴う伝承文化の衰退」と. 会背景を知る記録として最適であると判断したからであ. して説明することが可能である。それは大意において農. る。. 村と都市、前近代と近代、といった二分法で捉えられる. この先行研究と現地調査で得られた年中行事の様子は、 概念であり、 時代が下ることに比例する宗教意識の低下、 田中宣一、和歌森太郎などによる民俗の衰退論[田中. 思想の合理化、人口の変動に伴う都市化など、指標とな. 1965,和歌森 1981]を元に分類し、各々の行事の保有・. る幾つかの社会変動の複合体として捉えることが可能で. 衰退の諸要因を解説した。それにより得られた豆酘の年. ある。このことを念頭において、これまで調査してきた. 中行事の様子から、以下の諸要素を導き出すことが可能. 赤米神事の内実に目を向けると、赤米神事の存続・衰退. となった。. の様子には、民俗学的な前提との齟齬が浮かび上がって. ①寺関係の行事は残る. くることが分かる。. ②親戚が集まる行事は残る ③目に見える信仰の対象物がある行事は残る. その非相関性を説明するために、赤米神事に見られる 以下の 2 つのポイントを考えてみたい。. ④村や他家などの集団に関わる公的な行事は残る ⑤目に見える対象物がない行事は衰退する. ①赤米神事の祭祀集団である、頭仲間の規模縮小という. ⑥家や個人で行なわれる行事も衰退する. 状況. しかしこれらの要素は絶対的な基準とはいい難いもの であり、個別の行事に見られる一傾向を示したものに過. ②豆酘集落内部において、住民の大半が赤米神事に関心. ぎないとも考えられる。言い換えれば、文化消失の一因. を示していない現状. を元にした基準・指標としては確かに有用であるが、民 俗事象を広くカバーするものではない。事実、豆酘の年. 特に後者の特徴は、赤米神事に地域社会との接点が極. 中行事を俯瞰した場合にでさえ、少なからぬ矛盾点をあ. めて少なく、祭祀集団によってのみ特別視されている状. らわにした。それでもなお、それらの基準を用いて豆酘. 況を指し示している。それは赤米神事が豆酘集落から浮. の年中行事を分類すると、衰退した行事にも存続する行. いた存在であることを示唆している、とも言えるであろ. 事にも、巨視的ではあるが共通した傾向が見られたこと. う。その要因としては、赤米神事と豆酘住民の関わり方. は否めない。それらの特をまとめると、以下のようにな. が希薄化していることが考えられる。すなわち赤米神事. る。. の祭祀者である供僧・お坊(かつては供僧家の頭主全て. (a)盆行事はほぼ存続. がお坊であり、一まとめに供僧と呼んでいた)が、豆酘. (b)正月行事はほぼ消失. 社会における宗教者としての役割を失ったことに、その. (c)農耕儀礼や農事関連の行事もほぼ消失. 原因を求めることも可能である。赤米神事に見られるこ. (d)供僧、お亭坊が祭祀していた行事(赤米神事は除く)も. れらの特徴を詳細に検討すると、以下のような考察が導. ほぼ消失. き出せるであろう。. (e)神社で行なわれる行事は存続、しかし祭祀者がお坊か ら宮司に変化 (f)赤米神事の一連の行事はほぼ存続し、祭祀者はお亭坊 のまま. ①頭仲間の縮小 頭仲間の戸数は、明治初頭に大規模な減少を見せ、そ の後は緩慢な現象を示している。文字資料として参照可.

(3) 能な、明治 38 年から記載されている赤米神事記録簿を. の神職と神社庁との関係性の深まりや、他地域における. 見ると、供僧を除く家の頭仲間への参加、脱退は、かな. 神職の早期における神道統一化(供僧は豆酘にしか見ら. り流動的であったことが分かる。しかし明治 38 年から. れないが、戦後までは対馬全土において、宮司や神主な. 昭和後期に至るまでの間、供僧家の脱退は全く見られな. どの神職が神道様式にとらわれない民間巫者的な働きを. かった。これらのことから、供僧が豆酘集落の宗教世界. 担っていた)などが考えられるものである。. において重要な位置を司っていたと同時に、宗教者の輩 出という面を含めて、赤米神事の中心的な役割を担って いたことが推測される。. 赤米神事の衰退の直接原因としては以上の 2 つが考え られるが、両者に共通する点は、それらの変化や変化の. 昭和 54 年になって初めて、供僧・観音住持が頭仲間. 受容が、明治時代の神道化政策や戦後の生活改善運動と. を脱退することになる。その脱退の理由は記録簿に記載. いった社会生活の近代化を促進させる体制下にあって、. されていないが、聞き書きによれば、神社祭祀を巡る供. それらの変化に容易には迎合しなかった点である。言い. 僧内の人間関係のもつれによるものであった。この時に. 換えれば、国家レベルの政策に少なからぬ影響を受けつ. 辞めた供僧・観音住持は、9 軒の供僧家の中で最高序列. つも、既存の体制を保とうとしていたと考えられるもの. に位置する供僧であり、これ以降に相次ぐ、6 軒の供僧. である。ここから以下の仮説を導き出すことが出来る。. の脱退の契機になったとも考えられる。ここで強調した. まず明治初期の神仏分離令に対しては、表面上の国家. いのは、頭仲間の緩慢な縮小の原因としては、生活背景. 神道化を示すことで、従来の神仏習合的な信仰体系を維. の変化に伴う多種多様な理由を想定することが可能であ. 持している。これは既存の体制を維持するために、政治. るが、供僧の結束力が崩壊する直接の原因としては、供. 的な生活背景の変化に応じて、それらの変化を在来の体. 僧間の個人レベルでのコンフリクトが挙げられることで. 系の中に巧みに取り入れているとは言えないだろうか。. ある。この個人間の諸問題の背景に、生活世界の変化や. ここに見られる、近代の社会変化を伝統的な生活体系の. 近代化の流入といった要素を求めることは、半ば強引と. 中に内在化させようとする姿勢は、民俗文化の衰退を促. も感じられるものであった。. すものではなく、むしろ自身を発展的に保有する動きに もとることが出来るようである。. ②供僧・お坊の豆酘の宗教世界からの衰退. また対馬全土の神職が、近現代に至るまで民間巫者の. これは民間宗教者としての供僧・お坊が築いていた、. 働きを担っていたことから、お坊・供僧の宗教者として. 豆酘集落における宗教制度の崩壊とも表現できる。その. の実践の場が減少してもなお、民間宗教者としての役割. 一因として明治初期の神仏分離令や、戦後の生活改善運. を果たす場は残されていたことが分かる。これは意識的. 動などが想定できるかもしれないが、必ずしも断定でき. な動きとは言い難いが、豆酘集落の生活世界や信仰体系. ない側面が見受けられる。. を保つための一要因になっていたとは考えられないであ. 例えば明治元年の神仏分離令発布の際には、豆酘では. ろうか。. 神社本庁から派遣された外来の宮司を拒絶しており、お. さらにこれらの仮説の裏付けとなるかは心許ないが、. 坊の 1 人が宮司の資格を得ることで形上の神道化を行っ. 少なくともはっきりと言えることは、頭仲間における供. ていた。形上と言うのは、宮司となったお坊が長期間に. 僧の脱退とそれに伴う頭仲間の解体は、これまで例に挙. わたり、神仏習合的な様式を崩さなかったことを指す。. げてきたような、国家的な近代化政策が強力に推進され. つまり神仏分離令による宗教世界の近代化は、豆酘では. ていた時期ではなく、むしろ伝統文化の保護や継続が重. 早急な効果を生み出していなかったのである。また供僧. 要視され始めた近年においてこそ起こっている。無論、. が宮司化するというプロセスは、在来の宗教体系を保持. 近代化という志向が今現在影響力を失っているとは決し. するための一手段であるとも考えられる。それ以降、供. て言えるものではないが、ことさら赤米神事と豆酘の村. 僧・お坊が神職の位を得て豆酘の村社である多久頭魂神. 落社会においては、近代化という大枠での時代の流れに. 社の宮司を務めるという慣習は続いており、現在の豆酘. そぐわない面が多々見受けられるものであった。. の神職も宮司化したお坊である。お坊の民間宗教者とし. これらはいずれも、原因・時期ともに民俗学的な枠組. ての活動現場の減少は、聞き書きによれば近年になって. みとはあまり相関的ではなく、 「近代化に伴う伝承文化の. から顕著に現れるものであった。もっとも、集落内の神. 衰退」という文脈からの距離感を感じ得ない。. 社祭祀を、お坊に代わり宮司が神道形式で行なうことに. では赤米神事の衰退と頭仲間の縮小に見られる、これ. なった理由については、神社運営の困難さに伴う、豆酘. までの考察から生じる矛盾点、すなわち国家レベルでの.

(4) 近代化政策が強力に推し進められ、近代化志向の意識が. 城田吉六 1987『赤米伝承―対馬豆酘村の民俗』葦書房. 民間レベルに浸透し、民間伝承の破壊が引き金となり伝. 鈴木棠三 1972『対馬の神道』三一書房. 統文化復興の動きが生じ始めた、と言う一連の流れに相. 竹内弘明 1998「大正月と小正月」 『講座日本の民俗学6. 反する形で見せる赤米神事の衰退と変容の様相は、一体. 時間の民俗』雄山閣. 何を表しているのであろうか。先人の言葉を借りれば、. 対馬観光物産協会 2002『つしま百科』昭和堂. 「民俗文化の変化や変容が、近現代に特徴的なことなの. 永留久恵 1988『海神と天神―対馬の風土と神々』白水社. かどうか、という根源的な疑問を新たに提示し、さらに. 中西裕二 1999「なぜ、語らないのか?―伝承の不在に関. は そ の 回 答 の た め の 糸 口 を 与 え て く れ る 」[ 中 西. する覚え書き」 『民俗宗教の地平』宮家準 編、春秋社. 1999:65]ものであるとは言えないであろうか。本稿を. ホブズボウム,E、レンジャー,T1983(1992) 『創られた. もって上記の問題を解く足がかりに据えるには、依然と. 伝統』紀伊国屋書店. して力不足の感は否めないし、学術的に至らない点も目 立つものである。ただし、民俗文化の変化と衰退に関す る研究が、 民俗学の学問的な制度への再考を促し、 「伝統」 概念の恣意的かつ政治的な側面を相対化する手がかりを 与える可能性を持つという希望を抱くくらいであるなら ば、許されるかもしれない。 5.主要引用文献 田中宣一 1965「年中行事消滅の様相―神奈川県足柄下郡橘町明沢 の場合―」 『日本民俗学会報 41』日本民俗学会 1992『年中行事の研究』桜楓社 平山和彦 1992『伝承と慣習の理論』吉川弘文館 平山敏治郎 1984『歳時習俗考』法政大学出版局 福田アジオ他編 1999『日本民俗大辞典 上』吉川弘文館 2000『日本民俗大辞典 下』吉川弘文館 柳田國男 1997「民間伝承論」 『柳田國男全集 8』筑摩書 房 和歌森太郎 1981「歴史学と民俗学」 『和歌森太郎著作集 第 10 巻』弘文堂 6.主要参考文献 厳原町誌編集委員会 1995『厳原町誌』厳原町 岩竹美加子 1996『民俗学の政治性−アメリカ民俗学一〇 〇年目の省察から』未来社 折口信夫 1987(初版 1955) 「年中行事(民間行事伝承の 研究) 」 『折口信夫全集 第十五巻(新訂六版) 』中央公論 社 九学会連合対馬共同調査委員会 1954『對馬の自然と文 化』古今書院 小池淳一 2002「伝承」 『新しい民俗学へ』小松和彦、せ りか書房 佐藤良博 1975「民俗の保有度と家連合―新潟県十日町市 中条新水の場合―」 『日本民俗学 101』日本民俗学会.

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