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憲 法 的 文 書 を 中心 と して 見 た韓 国 憲 法 前 史(上)

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(1)

憲 法 的 文 書 を 中心 と して 見 た韓 国 憲 法 前 史(上)

一 開 国 か ら上 海 の 大 韓 民 国 臨 時 政 府 の 樹 立 ま で一

弄 龍 澤

1

II

は じめ に

李 氏 朝鮮 末 期 の憲 政 史

(1)洪 範14条 の制 定 一 憲 法制 定 へ の胎 動 一

独立 協 会 の運 動(献 議6条)一 議会 設 立 の動 き 一

大韓 国国制 の制 定 一 絶対 君 主 制 「憲 法」 の制 定 一 (i)大 韓 国 国制 の制 定 経 過

(ii)大 韓 国国 制 の 内容

三 ・一 独 立運 動 の 勃発 と挫 折 一 臨 時政 府樹 立 へ の契機 一 独立 宣 言書 の宣 布 一 独立 建 国の 発 議 一(以 上 本 号)

皿.各 地 に お け る臨 時 政 府 の樹 立 一 組 織 的抗 日闘争 の展 開 一 (1)大 韓 国 民 議会(露 領 ウ ラジオ ス トック)

(i)成 立 経 過

政府 形 態

決議 案

(2)

上 海 臨 時政 府(大 韓 民 国 臨 時 政府) (i)成 立経 過

(ii)政 府 形 態

大 韓 民 国 臨 時憲章 (3)漢 城 政府(国 内 ソウル)

(i)成 立経 過 (iの 政府 形 態

約 法

(4)各 臨時 政府 の共 通点

IV各 臨 時 政 府 の統 合 一 大 韓 民 国 臨 時 政府 の樹 立 一 (1)統 合以 前 の各 臨 時政 府 の現 状

統 合 過 程 一 大韓 民 国 臨 時政 府 の誕 生 一 (3}政 府 形 態

(4)大 韓 民 国 臨時 憲 法 一 近 代 立 憲主 義 的 「憲 法 」 の制 定 一 結 び にか えて 一 韓 国 憲 法前 史 が 解放 後 の韓 国憲 法 に

与 え た影 響

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憲 法 的文 書 を 中心 と して 見 た 韓 国 憲 法 前 史(上)

は じめ に

1948年 の い わ ゆ る第 一共 和 国憲 法 の制 定 に中心 的役割 を果 した愈 鎮午 博 士 は,「 憲 法 制 定 の 由 来 」 と題 した論 文 を,次 の よ うな言 葉 で 始 め て い る。 す なわ ち 「檀 紀4281年(西 紀1948年)7月17日 に公 布 され た 大韓 民 国 憲 法 に よ り,我 々韓 民 族 が民 主 主 義 的 憲 法 を,は じめ て持 つ よ うに な り,自 主 独 立 の国家 で あ る大韓 民国 の成 立 を 国 内外 に宣布 す るよ うに な った こと は,ま こ とに有 史 以来,初 の盛 事 で あ った。 しか し,ロ ーマ は,一 朝一 夕 に建 設 され た もので はな い との古 喩 の如 く我 々 の この歴史 的盛 事 も,何 の準 備 もな く突 然 で き あが った もので は決 して な か った。

内 に は,自 由 と平等 を願 う我 が 民 族 の 民主 的精 神 が,長 い間 に成 長 発 展 して,日 本帝 国主 義 の暴圧 に も屈 せ ず,不 断 に抗 争 した結 果 で あ った し, 外 に は,第2次 世 界 大 戦 にお ける帝 国 主義 侵 略国 家群 に対す る民主 主 義 連合 国側 の勝 利 に よ り我 々 を抑 圧 した外 来侵 略勢 力 が,一 気 に 除去 され た結 果 で あ った 。 それ 故,大 韓 民 国憲 法 制 定 の由来 を明 らか にす るた め に は,こ の よ うな憲 法 の前史 を 簡単 で は あ るが,回 顧 しな けれ ばな らな い。」 と。1}

ま さ に,韓 国 憲法 史 は,1945年 の祖 国 解 放 を ま って 流 れ は じめ た ので はな く,そ れ以前の韓 国民 衆 による近 代 化 と祖 国解 放 の ため の苦 闘 か ら, その歴 史 は,徐 々にで は あ るが,流 れて い た ので あ る。 本稿 は,こ の 愈 鎮午 博 士 の示 唆 に基 づ き,李 氏朝 鮮 の 開国 か ら 日本植 民 地 時 代 に各 地 で 生 れ た 臨時 政 府 が大 韓 民 国 臨時 政府 に統0さ れ るまでの憲法 乃 至 は憲 法 的 文書 の変 遷 お よ び内容 を検 討 す る こ とで,韓 国 憲 法前 史 を概 観 し,解 放 後 の新 生 韓 国 の憲 法 に如何 に それが 反 映 したか を見 よ うとす る もので あ る。 た だ,こ の分野 が純 粋 に憲 法学 の分 野 とは言 い難 く,歴 史 学,法

(4)

史 学,と 競 合 す る と こ ろで あ る う え,現 代 韓 国 語 の み で は読 解 す る こ と の で き な い 文 献 を も利 用 しな けれ ば な らな い が 故 に,入 手 し得 た 資 料 の 範 囲 内 で,か つ 理 解 し得 た 範 囲 内 で の 考 察 と な ら ざ る を 得 な い こ と を,

2) 断 わ っ て お き た い。

ユ)愈 鎮 午 「 憲 法制定 到 由来」r思 想 界 』6巻7号(1958年)ユ8頁 。 この論 文 は,愈 鎮 午 『新 稿 憲 法 解 義 』(刈{≧,一 潮閣,1959年)8‑30頁 と同一 内 容 の もので あ る。

2)韓 国 で も,こ の分野の研 究 は,さ ほど進ん で い ない。例え ば,IY{<鎮午博 士 の前掲 論 文の末 備 に 『 思想界 」 の編 集部 によ る次 の よ うな断 わ りの言 があ る。

「我が 憲 法制定 の 由来 に関す る文章 と して は,愈 鎮 午先生 の表題 の論 文以上 の ものがな い と考 え られ るが故 に,筆 者の諒解 の下に過 去 にお書 きにな られ た表 題 の論 文 を,再 び収 め,読 者 の一 読 を勧 めるもので あ る。 」 と。 また,洪 淳 鉦教 授 も,「 西紀19ユ0年 隆 煕4年 に韓 日合邦 条約 が 日本 の実 力で施行 を見 た前 後 か ら,世 紀1945年 の 日本軍 国主義 の敗亡 で,我 が国 が解 放 されるまでを,我 が国 の 政 治史 は独立運 動 時期 に区分す る。 この時期 は,我 が 国 の 『 現代 』前期 に該 当 す るに も拘 らず,種 々の条 件 に因 り,歴 史 が整理 され て いな い。 このよ うな事 実 は,実 に国史 にお いて も,速 や か に章 ・節 で整 理 ・叙述 し,現 代 人 は勿 論, 子 孫 末代 に,そ の弊 を及ぼ して はな らず,更 に,東 洋史 を深 く究め よ うと して い る最近 の外 国人学 者達 に,そ の 虚点を つつ き出され,嘲 笑 を受 けて もな らな い ものである。」(洪 淳鉦 「大韓民 国臨 時政府 斗・ 憲 政」 『 政経 研究 』1968年12 月号 所収,ユ80頁)と 述べ る。 しか しなが ら,こ のよ うな状 況 の中 にあ って,最 近,臨 時政府 に関す る本格 的研究書 が,韓 国 で相 次い で 出版 され た。それ は, 金 栄 秀 著r大 韓 民 国 臨 時 政 府 憲 法 論 』(刈 苦,三 英 社,ユ980年)と,李 舷 煕 著

『大韓 民国 臨時 政府史』(刈 音,集 文堂,ユ982年)の 二冊 で あ る。 この二冊 の

書 物 は,前 者 が 法学博士 の,後 者 が文学博士 の学位 論文で あ り,そ れぞれ巻 末

(5)

憲 法 的文 書 を中 心 と し て 見 た韓 国 憲 法前 史(上)

に非常 に多 くの資料 を収 めてい る。本稿 の執 筆 に際 して も臨 時政府 の項 に関 し て は,こ れ らの書 物か ら多 くの示唆 を得 た ことを記 して お く。

1.李 氏 朝 鮮 末期 の憲 政史

李 購 羊の輝 か しい文化史 に も拘 らず その政治史 はほ 辰威 認 の,二 度 の外勢 による侵 略に代表 され るよ うに浩 痛 にみ ちた も

の で あ った 。 特 に,李 朝 末 期 に至 って は,王 権 の衰徴 と外 戚 の世 道 に よ 3)

り,そ の腐 敗 堕落 は極 度 に達 した。 この よ うな なかで,王 権 の再興 を図 ろ う と した人 物 が,朝 鮮 国 王 高宗 の生 父 で あ る大 院君 で あ った。 彼 は, 去勢 され た王 位 を包 囲 して い た威 党 達 の世 道 と腐 敗 無 能 が,傾 国 の 原

因で あ り,貧 官 汚 吏 と土 豪劣 紳 達 の苛劒 謙 求 が 民 生苦 の根 源 で あ り,硬 化 した社 会 構 造 の 不 通 が 民 族 発 展 の病 疾 で あ る ことを よ く知 って いた 。 た だ,お しむ らくは,彼 の視 野 は,世 界 的 規模 の動 き を洞 察 す る には, あ ま りに も狭 小 で あ った し,彼 の教 養 は,儒 教 的 王道 理念 を一 歩 も脱 す

るこ とが で きな か った 。万 一,彼 を して,国 際政 治 と西欧 列 強 の東 進 に 対 し,多 少 で も理解 が あ った な らば,韓 国 の運 命 は,或 は方 向を 変 えて いた か も しれ ない。 結 局,堅 固 な る意 志 と気 碗 は,頑 冥 と固牢 に終 始 し, 世 界 的潮 流 に同流 上 昇 す る機 会 を 自 ら拡 棄 して,そ れ に よ り朝鮮 を列 強 の餌 食 と した こ とは哀 痛 だ と言 わ ざ るを え な い・ す なわ ち,彼 の治 積 中・

最 大 の失 敗 は,そ の頑 猛 な鎖 国政 策 で あ った こ とは間違 い な い・ しか し, 洋 夷 を排 斥す る鎖 国政策 は,大 院 君 の執 政 の ときか ら始 ま ったので はな

い.元 来が事大磯 であ り濡 教 を崇 尚 し,こ れ腱 国齢 とす る輔 として は・ このよ うな融 文化以外 の文イヒに対す る寛容 性 と鮮 力を持

つ に は,あ ま り に も動 脈 硬 化 症 に お か され て い た と も い え る。 と もあ れ,

(6)

6)

西 欧列 強 の度 重 な る開 国要 求 を拒絶 して きた朝 鮮 の門 戸 は,明 治 維 新 を 達 成 し,近 代化 の道 を ひ た は しる 日本 に よ って 開 け られ た。 それ は,大

院君 が政 権 を退 い た2年 後 の1875年 の 雲揚 号 事 件 を 口実 と して で あ った。

翌 年12ケ 条 か らな る朝 日修好 条 規(丙 子 修 好 条 約 な い し江 華 島条 約 と呼 ば れ る)の 締 結 を見 たの で あ るが,そ の重 要 内容 と して は,朝 鮮 が 自主 の 国家 と して 日本 と平 等 の権 利 を もつ こ と,20ケ 月 を期 して釜 山 とそ の ほ か2つ の港 を開 港 す る こ とrま た,日 本 は随時 朝 鮮 の 海岸 を測 量 で き, 開港 場 に は 日本 人 の租借 地 を 設 定 で き るこ と,更 に は,開 港 場 に 居住 す る 日本 人 には,日 本 人によって,日 本 法 に基 づ いて 裁判 す る ことを規 定 し た治外 法権 の条項,を 挙 げ得 る。 朝鮮 を 自主 の国 と規 定 した の は,清 の 宗 主権 を排 撃 す る こ とに よ って,清 の干 渉 を受 け る こ とな く朝 鮮 に対 す る侵 略 を行 なえ る道 を 開 くこ とに そ の意 図 が あ り,釜 山 とそ の ほか 日本 の任 意 の2港 の 開港 問 題 で は,ロ シアの 南下 に備 え る こ とので き る港 で あるとの理 由か ら,元 山湾 と仁 川の2港 を選んだのである。 このように見て く る と,日 本 は,江 華 島条約 当時 か ら,朝 鮮 に対 す る政 治 的 ・軍事 的お よ び経 済 的 な侵 略の た めの計 画 に従 って,す べて 処 理 して い った こ とが わ

7}

か る。 わ ず か20余 年 前,日 本 が アメ リカの 艦 隊 によ り強 要 され た不 平 8)

等 条 約 を

,艦 隊 の威 圧 とい う同 じ手 段 を用 いて,朝 鮮 に押 しつ け たの で あ る。 これ は,日 本 の近 代 化が,脱 亜 へ の道 で あ った こ との象 徴 的 出来 事 の よ うに も思 わ れ る。 と もあ れ,こ の不 平 等条 約 の締 結 こそ は,日 本 が朝 鮮 を侵 略す る第一 歩 で あ った こ とは間違 いな い。 しか し,日 本 の こ の よ うな一 方 的 な意 図 に もか か わ らず,江 華 島条約 の もつ歴 史 的意義 は 決 して 小 さ くな い。 それ は,朝 鮮 が 国 際 的 な舞 台 に登 場す る最 初 の 出発

9)

点 となった か らで あ る。 そ して,西 洋文 明 は,「 隠 者 の 国 」 と呼 ばれ た 朝 鮮 に も流 入 す るに至 るので あ るが,「 新 文 明 の輸 入 は同 時 に,日 本 を は じめ とす る列強 の侵 略 を伴 な うもので あ った。 それ ゆ え,こ の開港 は,

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憲 法 的文 書 を 中 心 と して 見た 韓 国 憲 法 前 史(上)

開化 と 自主 の 両者 を どの よ うにす れ ば 同時 に満 足 させ る こ とが で き るの 10) か とい う大 きな歴 史 的 試練 を,韓 国 民族 に課 す る こ とになったのである。」

か くて,こ れ以 降,韓 国民 族 は,こ の課 題 へ の回答 を 求 め て,苦 闘 す る こ とにな るので あ る。

{1>洪 範14条 の制 定 一 憲 法 制 定 へ の胎 動 一

世 界 的 激 動 の 渦 中 に あ って,李 朝 内 部 に は,500年 間 の儒 教 的 専 制 王1ユ) 政 の つ も りつ も っ た 悪 癖 に よ り,病 状 が 一 気 に 吹 きだ して い っ た 。 しか

る に,王 廷 の な か で は,大 院 君 一 派 と高 宗 の 妃 ・閾 妃 一 派 と の 争 い に あ け くれ て いた の で あ る。 も っ と も,こ の 争 い が,日 本 と清 との,そ して 後 に は 日本 と ロ シ ア と の 侵 略 競 争 に 利 用 さ れ た こ と は否 定 しえ な い 事 実 で あ る が}こ の 争 い の な か に,真 に近 代 化 を願 っ て い た 人 々 も巻 き 込 ま れ ざ る を 得 な か っ た こ と は,そ の 後 の 歴 史 に0層 の 暗 雲 を 投 げ か け る も の で あ っ た 。 ま た,そ れ が1884年 の 甲 申 政 変 と1894年 の 甲 午 更 張 の 失 敗 な

12) い し不 十 分 な 成 果 しか 挙 げ られ な か っ た 理 由 の一 つ で も あ っ た 。

と こ ろ で,か くの ご と き状 況 の な か で,甲 午 更 張 の 総 括 と して,軍 国 13)

機 務 処 に よ り行 な わ れ て き た 諸 改 革 を成 文 化 した 洪 範14条 が 制 定 さ れ た の で あ る。 こ れ は,1895年1月7日,国 王 高 宗 が,大 院 君 ・世 子 ・宗 室 及 び 百 官 を従 え て,宗 廟 に 展 謁 し,歴 代 諸 王 の 霊 前 で 改 革 推 進 を 誓 っ た

もの で あ り,近 代 憲 法 制 定 へ の 足 が か り を 固 め た もの と い え る。

14) 洪 範14条 の 内 容 は次 の 通 りで あ る 。

1.清 国 へ の依 存 を や め,自 主 独 立 の 基 礎 を 確 立 す る。

2.王 室 典 範 を 制 定 し,大 位 継 承 ・宗 威 分 義 を 明 らか に す る。

3.大 君 主 は 正 殿 に 御 し,政 務 の 視 事 に あ た っ て は 各 大 臣 に 親 し く諮 詞 して 裁 決 し,后 嬢 宗 威 は そ の 関 与 を 許 さ な い 。

4.王 室 事 務 と国 政 事 務 を 分 離 さ せ,互 い に 混 同 しな い 。

(8)

5.議 政 府 お よび各衛 門 の職 務権 限 を明 白 に規 定 す る。

6.人 民 の納 税 は全 て 法令 の定率 に依 拠 し,勝 手 な名 目で徴収 を乱 行 して は な らな い。

7.租 税 の徴 収 お よび経 費 の支 出 は全 て度 支 衛 門(大 蔵省のこと)の 管 轄 に属す る。

8.王 室 の 費用 は率先 して節 減 し,各 衛 門 お よび地 方 官 の範 とな るよ うにす る。

9.王 室 費 お よび官 府 の 費用 は,一 年 の算 額 を予 め 定 めて 財政 の基礎 を確 立す る。

10.地 方 官制 を改定 し,地 方 官 吏 の権 限 を制 限す る。

11.国 内 の聡 俊 な子 弟 を広 く派遣 して,外 国 の学 術 技 芸 を伝 習 させ る。

12.将 校 を教 育 し,徴 兵法 を用 いて軍 制 の基礎 を確 立 す る。

13.民 法 ・刑 法 を厳 し く制 定 し,勝 手 な監 禁懲罰 を禁 じ,人 民 の生 命 と財産 を保 護 す る。

14.用 人 にお いて は門地 に と らわれ ず,人 士 を朝 野 に求 めて広 く人 材 を登用 す る。

この洪 範14条 の骨子 は,第 一 に,従 来 我 が 国 が名 義 上 で あれ,清 国 に 附庸 して い た こ とを完 全 に廃 棄 し,自 主 独 立 の 国家 とな る こ と,第 二 に, 王室 事 務 と国家 事 務 を厳 別 して,従 来 の封 建 的家産 国 家 的体 制 を清 算 す

る こ と,第 三 に,租 税 は,必 ず 法 令 に よ り徴 収 し,民 法 ・刑 法 を厳 明 に 制 定 し,人 民 の生 命 と財産 を保 全 す る よ うに し,従 来 の専 制君 主 政治 か

ら,一 種 の制 限君 主 政治 へ転 換 す る こ と,第 四 に は,す べ て の国 民 に, そ の門地 の如何 を 問わ ず,公 務 に就 き うる機 会 を均 等 に付 与 し,四 民 平

ユ5) 等 の 民主 主 義 的原 則 を採 用 しよ う とした こ とで あ る とい え よ う。 た だ, 議会 制 度 の創 設,三 権 分 立 制度 の採 用 の よ うな近 代 的憲 法 の必須 的 内容 が見 られ な い こ とは残 念 で あ るが,当 時 の東 洋 にお け る先進 国 で あ った

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憲 法 的 文 書 を中 心 と し て 見 た韓 国憲 法 前 史(上)

日本 で さえ,議 会 を創 設 してわ ず か4,5年 に過 ぎな い こ とを考 え る と 16)

き,や む を得 な い こ とで あ った と思 わ れ る。 しか し,憲 法 学 的 に見 る と き,議 会 制 度 の創 設 や,権 力分 立 に言 及 して い な いこ の洪 範14条 を,「韓

17)18)

国最 初 の憲 法 とい うべ き もの」,「韓 国 に お け る近 代憲 法 の 嗜矢 で あ る」

とま で断言 す るこ と には躊躇 せ ざる をえ な い。 洪 範14条 は,「 朝 鮮 に お ユ9)

け る最 初 の憲法 的意義 を有 す る もの」 或 は 「日本 の明治維 新 を模 倣 した 一 種 の革 新政 治 に関 す る憲章 」 と評 す る こ とが 適 当 で あ ろ う20)

と もあれ,洪 範14条 は,朝 鮮 の歴 史 に新 時代 を き りひ らこ うとの決 意 の表 明 で あ り,日 本 にっ ぐ近 代国 家 へ の胎 動 で あ った。 しか しなが ら,

この よ うな改革 を担 当 した開化 派 は,支 配 階級 のな か の少 数 派 で あ り, 従 って 又,こ の よ うな 改革 に反 対す る封建 的保 守 勢 力 に対抗 す るため に

日本 勢 力 に依存 せ ざ るを えな か った がゆ え に,侵 略的な 日本 と結 託 した

「親 日派」 との 印象 をぬ ぐいき れ なか った 。 そ して,日 本 によ る閾妃 殺 害事 件 を機 に極 点 に達 した反 日蜂 起 は,そ の対象 を親 日派 と 目され た 開 化 派 に向 け,こ こに,朝 鮮 近 代史 上 注 目す べ き開 化 運動 は挫 折 したの で

2玉) あ った。

独 立協会 の運 動(献 議6条)一 議会 設 立 の動 き 一

一 方,こ れ と前後 して,民 間 で も民 主 的 改革 のた めの運 動 が猛 烈 に起 きた。 それ は,い わ ゆ る東 学 党 の乱 で あ り,ま た独 立協会 の運 動 で あ っ た。 前 述 した 甲申 の政 変,甲 午 の更 張 と い う,政 府 内部 で の改革 運 動 は, 前 者 が,貴 族 内部 に お け る守 旧 派(事 大党)と 革 新 派(開 化党)の 勢 力 争 い の観 を,ま た,後 者 も,国 内の 民主 的 勢 力 よ り も,外 勢 の圧 力 によ る ものが 大 きか った との観 を,そ れ ぞれ否 定す るこ とが で きな い。 これ に反 し,独 立 協会 の 内政改 革 運 動 は,韓 国 の歴 史 上 最初 に あ らわ れ た,

22)

真 に民主 的な 先 覚者 達 によ る救 国愛 国 運 動 で あ った といえ る。 徐 載 弼,

(10)

罪致 昊,李 商在,李 承 晩,安 昌浩 らを中心 とす るこの運 動 は,つ い に18 98年10月29日,ソ ウル鍾 路 街 で官 民共 同会 を 開 き,議 政 署 理 ・朴 定 陽 軍部 大 臣 ・閾泳 換 をは じめ とす る政 府 の各 大 臣 を呼 び よせ,次 の よ うな 内政 改革 に関 す る要求 を提 出 し,そ の場 で 政府 の各 大 臣 に署 名捺 印 させ

23}

国王 の裁 可 を受 け るよ うに した。 す な わ ち,こ れが献 議6条 といわ れ る 24)

もので あ り,そ の内容 は次 の 通 りで あ る。

1.外 国 人 に依 存 せず,官 民 が 同心合 力 して 専 制 皇権 を強 固 にす る こ と。

2,鉱 山,鉄 道,炭 鉱,森 林 お よ び借 款r借 兵 や,外 国 との条 約 の事 は,各 部 大 臣 と中枢 院議 長 が 合 同 して署 名捺 印す るの で な けれ ば,施 行 で きな い こ と。

3.全 国 の財 政 は,い か な る税 で あ って も度 支 部(大 蔵省)に 管 掌 さ せ,他 府 部 と私会 社 は干 渉 で きず,予 算 と決 算 を人 民 に公布 す るこ と。

4.今 後,重 大 な犯 罪 人 は公 判 に付 し,被 告 が徹 底 して説 明 し,究 寛 自服 した の ち に施行 す る こ と。

5.勅 任官 は,大 皇 帝 陛下 が政府 に諮 詞 し,そ の過 半数 に したが って 任 命 す る こ と。

6.章 程 を実 践 す る こと。

この6ケ 条 の議 案 に賛成 署名 した 朴 定 陽政 府 は,国 王 を 説得 して そ の 裁 可 を受 けた ので あ る。

ところで,こ の献 議6条 の第1条 で,「 専 制 皇 権 を強 国 にす る」 との 語 句 が見 られ るが,こ れ は,君 主専 制 政治 を要 求 した もので はな く,む

しろ 「外 国 人 に依 存 せ ず」 とい うと ころ に力点 が あ り,対 外 的国家 主権 の確 立 を意 味 す る もの と思 わ れ る。 これ は第2条 と第5条 で,国 家 利 権 と勅 任官 の任免 に お け る国 王 の専 断 を制 限 して,そ の実 質 的権 限 を政 府 に移 そ う と して い るこ とか ら明 らか で あ る。 又,第6条 で 「章 程 を実 践

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憲 法 的 文 書 を 中心 と して 見 た 韓 国 憲 法 前 史(上)

す る」 との語 句 が あ るが,こ の 「章 程 」 と は,前 述 した洪 範14条 と各部 処 が備 えて いた章 程 とを指す もので あ り,具 体 的 には,立 法府 で あ る中 枢 院 の改 定 で あ る。 従 って,こ の献 議6条 にあ らわれ た国 家 主権 行 使 の シス テム は,国 王 の 実 質 的権 限 を政府 に移 し,行 政府 で あ る政 府 を立 法 府 と しての 中枢 院が 拘 束す る とい う もので あ る といえ よ う。 と もあれ, 政府 は,こ の6条 を実 現 す るため に,中 枢 院 の職制 を改正 して,官 選 お

よ び民 選 議 員 それぞれ半数(25名)に よる議 会の設立 を独立協会 に提 議 したの である。そ して,そ の民 選 議員 選 挙 が,1898年11月5日 に行 な われ る こ と が決 ま り,韓 国 の地 に,議 会 政 治 の芽 が生 れ 出 よ うとす るか に見 えた が, 民選 議員 選挙 を翌 日に ひか え た 同年11月4日,守 旧派 の趙 乗 式 らは,朴 定 陽政 府 を倒 して政権 を握 り,官 民共 同会 の決 議 事項 を無効 とす るば か

りか,独 立協 会 に対 して反 撃 を 開 始 した の で あ った。 つ いに,同 年12月 25日,独 立協 会 の解 散 を命 ず る詔 勅 が 下 り,こ こ に,独 立協 会 の運 動 は

25) 終 止 符 を うっ こ とに な った。

しか しなが ら,こ の独立 協会 の運 動 が,「 政 治 目標 にお い て は ブル ジ ョア民 主主 義 的要 求 が 議会 設 立へ の要 求 に まで 到達 した こ と,運 動形 態 に お いて は少数 革 新 派 の運 動 か ら大衆 的 な万 民共 同会 の運 動 に発展 した

26)

こ と」 は,高 く評 価 され な けれ ば な らな いで あ ろ う。

(3)大 韓国 国制 の制 定 一 絶 対君 主制 「憲 法」 の制 定 一 i)大 韓 国国 制 の制 定経 過

とこ ろで,日 清 戦 争後 の三 国干 渉 に よ り 日本 の勢 力 が後 退 した1896年 か ら1904年 の 日露 戦争 までの 約10年 間 は,韓 半 島 を間 と して,日 露 両 国 が鋭 く対 立 して いた た めに,明 日の 運 命 はわ か らな い とい う不 安定 な国 際状 況 の なか に あ って も,国 内 的 に は,高 宗 治下 で,最 も安 定 した時 代 で あ り,韓 国 の 進 路 を,韓 国 民衆 が,自 ら決 断す る こ とので き る最 後 の

(12)

27)

時 で あ っ た と思 わ れ る。 そ して,こ の 時 期 に,前 述 した 独 立 協 会 の 運 動 も起 っ た の で あ る。1898年 か ら翌99年 に か け て の 独 立 協 会 と守 旧 派 の 対 立 は,議 会 政 治 か 絶 対 君 主 制 か,と い う二 つ の 政 治 路 線 を め ぐ る政 争 で あ っ た と い え る が,独 立 協 会 が 解 散 さ れ る や,そ の 政 権 は 守 旧 派 の 手 中 に帰 し,こ こ に,韓 国 政 府 は,議 会 政 治 へ の 道 を 捨 て,絶 対 君 主 制 へ の 道 を 進 む 決 断 を 下 した の で あ る 。 そ して,そ の決 断 は,光 武3年(1899年)

8月17日 の 大 韓 国 国 制 の公 布 と して 表 明 さ れ る こ とに な った 。

大 韓 国 国 制 の 内 容 の 検 討 に入 る 前 に,こ の 国 制 の で き るま で の 経 過 を 28)

若 干 見 て お き た い。

高 宗 は,日 清 戦 争 後 の 三 国 干 渉 に よ り 日本 の 侵 略 が 鈍 化 す る や,自 主 独 立 と 自 主 政 治 を 模 索 した 。1896年(建 陽2年)8月14日,李 太 祖 朝 鮮

開 国504回 紀 元 節 を記 念 して 年 号 を 光 武 と改 定 し,更 に 同 年10月12日, 文 武 百 官 を 率 い て 皇 帝 即 位 式 を 挙 行 し,国 号 を 大 韓 帝 国 と改 称 した。 翌 年3月16日,高 宗 は,原 任(前 任)お よ び 時 任(現 任)の 大 臣 会 議 を 開 き,時 政 を 問 わ れ た が,参 席 した 多 くは 守 旧 派 に 属 す る人 々 で あ った が ゆ え に,開 化 派 の 意 見 は無 視 さ れ,甲 午 更 張 の 反 対 意 見 に 終 始 した。 し か しな が ら,そ の 大 臣会 議 で,特 進 官 ・鄭 範 朝 が 「奮 法 廃 棄 新 法 未 立

可 謂 無 法 之 國 」 との べ た よ う に,旧 法 は 甲 午 更 張 に よ り廃 棄 さ れ,新 法 も 甲 午 更 張 を 推 進 した 金 弘 集 内 閣 の 崩 壊 に よ って 実 施 で き な くな っ て

い て,「 無 法 の 国 と い うべ し」 との 状 況 で あ った た め に.法 令 の 不 備 と 制 定 の 必 要 が あ る と い う 点 で 意 見 の 一 致 を 見 た の で あ る。そ こで, 国 王 は,詔 勅 を 下 し,中 枢 院 に校 典 所 を 設 け,「 新 蕾 式 参 酌 互 用 之 例 」

を 基 本 と して 諸 般 の 法 律 を 制 定 す る よ う に 命 じた 。 校 典 所 は,議 政 府 議 政 ・金 嫡 始(金 弘 集 内 閣 が 倒 れ て の ち,内 閣 を 議 政 府 に復 旧 し,総 理 大 臣 を 議 政 と した),特 進 官 ・趙 乗 世,ら 守 旧 派 の 長 老 を 総 裁 と し,顧 問

に,ア メ リカ 人 顧 問 官 ・李 善 得(GerしLegendre),具 禮(Gen.Greathouse),

(13)

憲 法 的文 書 を中 心 と して 見 た 韓 国 憲 法 蔚 史(上)

柏 卓 安(Dr.Brown)そ して徐 載 弼(P.Jaisohn)を 任 命 した 。 この こ と は,1894年12月 ヱ7日に,軍 国 機 務 処 を 廃 止 し,中 枢 院 を設 置 したが, 立 法機 関 と して活 用 しなか った の にか んが み,法 令 の制定 ・改廃 を担 当 す る合 議体 の近 代 的立 法機 関 を,新 た に 自主 的 に創 設 した とい う意 味 で, 画 期 的な事 件 で あ り,特 に,顧 問 と して ア メ リカ留 学 か ら帰 って 来 た新 進 改革 主義 者 ・徐載 弼 を参 加 させたことによりy大 きな 期待 がかけ られた。

同校典 所 は,即 時,徐 載 弼 の能 動 的 な活 動 に よ り,実 務 を 担 当す る知 事 員 と して,ヲ}致 昊,李 商在,金 嘉 鎮 を は じめ とす る開 明 的 な官 僚 を任 命 した。 しか しなが ら}守 旧 派 の総 裁 達 の欠 席 で,合 議 体 と して の機 能 を 果 せ ず,せ っか く創 設 され た 立法 機 関 は,開 店 休業 の状 態 に おか れ,有 名 無実 に終 わ って しま ったの で あ る。

と ころが,押 しよせ る西 欧思 想 の波 及 と̲̲̲.般国 民 の 自覚,そ して 国家 意 識 の発生 は,韓 国 のみ がi漢 ・唐 の旧制 に安住 す る ことを許 さな か っ

た。 そ こで,前 述 の独 立 協会 が解 散 され た後 の光 武3年(1899年)6月

23日,高 宗 は再 度 詔勅 を 下 し,前 記 の校典 所 を差 し置 き,新 た な機 関 と して法 規 校正 所 を創 設 した。 その構成 員 は,議 政 府 議政 ・雰 容善 を総 裁 と して,す べ て守 旧 派 に よ って 固 め られ,外 国人顧 問官 か らも,ア メ リ カに追 放 されて しま った徐載 弼 は 当然 除 か れ て い た。 と もあれ,こ の法 規 校 正 所 の設 置 に よ り}議 政府 で 経 議 奏裁 した案 件 の うち,「 典 章 法 律 参 酌 新 旧校 正 事」,即 ちs法 令 の制 定 ・改 廃 に関 す る案 件 は,す べ て 法 規 校 正 所 に渡 し,経 議 した後 に,直 ち に上 奏 す る こと に決 定 を見,立 機 関 と して の役 割 を果 しうる素地 を用 意 した ので あ った。 これ は,政 府 が法 律 を制 定 し,執 行 す るので はな く,法 律 を制 定 す る立 法機 関が 別 に 存 在 しな くて はな らな い と い う ことを,政 府 首 脳 が 自 ら認 め た とい う点 で は意 義 あ る こ とで あ った が,中 枢 院 を 改造 して 官 選 お よ び 民 選 議 員 それ ぞれ半 数 よ りな る議会 の 設立 を要求 した独 立 協会 の運 動 と比 較 す る

(14)

と き,立 法 機 関 と して の 中枢 院 の 運 営 を 依 然 と して 拒 否 して ,法 規 校 正 所 の 新 設 を 見 る に至 っ た こ とは,議 会 設 立 運 動 の 時 代 的 潮 流 に 逆 行 す る

もの で あ っ た と言 わ ざ る を 得 な い 。

と もあ れ,こ の 法 規 校 正 所 は,前 記 の 校 典 所 と は異 な り,具 体 的 な 活 動 を 開 始 した 。 高 宗 は,同 年(1899年)8月17日,「 有 国 者 は ,国 制 を 頒 示 し,政 治 と君 権 を 明 示 す る もの で あ る が,我 が 国 に は,未 だ 一 定 之 制 の 頒 示 を 見 る こ とが で き な い で お り,法 規 校 正 所 は 国 制 を 相 議 し,朕29)

の 思 い に 従 い 登 聞 せ よ」 と の 国 制 の制 定 を 詔 書 で 明 ら か に した 。 そ こで , 同 日,法 規 校 正 所 総 裁 ・ヲ}容善 は,す で に 準 備 して い た 大 韓 国 国 制 の 奏 本 を 提 出 した 。 そ の 奏 本 の 前 文 は,「 国 家 の 創 立 に お い て は,必 ず,ま ず 政 治 の 方 法 と君 権 の如 何 を 規 定 した 〜 定 の 制 を 天 下 に 明 示 し,し か る の ち,よ ろ し く臣 民 を して 遵 守 し違 反 す る こ と の な き よ う にす る もの で あ りま す 。 昔,我 か 太 祖 大 王 は,天 命 を 受 けTI.%J業 な さ れ て 垂 統 され ま し た が,尚 今,こ の よ う な 定 制 を 頒 示 す る 暇 を 持 つ こ と が で きな い で お ら れ た と こ ろ,我 が 陛 下 に お か れ ま して は,上 代 聖 人 の 資 質 で も って ,中 興 の 課 業 を お た て に な り,す で に 皇 帝 の 宝 位 に の ぼ られ ,こ こ に 国 号 を 大 韓 と 改 定 さ れ ま した が,周 囲 の 国 が,よ しん ば 旧 邦 で あ れ ,政 令 を 改 革 して 維 新 し・無 窮 な る善 美 を誇 るこ とに違 い あ りませ ん。,詔 勅 を 承 り, 衆 議 を 合 せ,公 法 を 援 照 し,国 制 一 編 を 擬i定 し,我 が 国 政 治 の 基 本 と君

権 か 何 で あ る か を 明 示 しま した が,国 制 は,真 実 に 法 規 の 大 頭 脳 で あ り , 大 関 鍵 で あ り ま す 。 国 政 か 頒 示 す れ ば,千 法 万 規 が 自 ら刃 で 竹 を 割 る 如

く秩 序 が と られ る もの で あ り,こ の 校 正(立 法の意)を お か れ て ,ま た 何 の 校 正 が あ り ま し ょ う。 こ こ に 臣 等 は,会 議 を 経 て,標 題 の よ う に,

30) 大 韓 国 国 制

を 開 録 し,聖 裁 を 請 う も の で す 。」 と 記 述 さ れ て い る。 か く

て,法 規 校 正 所 の 構 成 員 の 満 場 一 致 で 可 決 さ れ た 後,高 宗 が 裁 可 して ,

1899年8月17日,こ こ に 大 韓 国 国 制 を 頒 示 した の で あ った 。

(15)

憲法的文書を中心として見た韓国憲法前史(上) 31)

大韓 国国 制 の全 文 は以 下 の如 くで あ る。

第1条 大 韓 国 は,世 界 万 国 の公 認 す る 自主独 立 の帝 国 な り。

第2条 大 韓 帝 国 の政治 は,由 前 則 ち500年 伝 来 に して 由後 則 ち万 世 に亘 り不 変 の 専制 政治 た り。

第3条 大 韓 国 大皇 帝 は,無 限の 君 権 を 享有 す 。公 法 に謂 う自立 政 体 な り。

第4条 大 韓 国 臣民 に して 大 皇帝 の享 有 す る君権 を侵害 す る行 為 あ る とき は,そ の既 遂 と未遂 と を問わ ず,臣 民 た る道 理 を失 うべき ものと認 む・

第5条 大韓 国 大皇 帝 は,国 内 陸 海軍 を 統率 し,編 制 を定 めて,戒

・解 厳 を命 ず 。

第6条 大 韓 国 大皇帝 は,法 律 を 制 定 し,そ の頒 布 と執 行 を命 じ,万 国 の公 共 た る法 律 に倣 って 国 内法 律 も改正 し,大 赦 ・特赦 ・減 刑 ・復権 を命 ず 。 公法 に謂 う自定 律 例 な り。

第7条 大 韓 国大 皇帝 は,行 政各 府部 の 官 制 と文武 官 の俸 給 を 制定 或 は改 定 し,行 政 上必 要 な る各 項 勅 令 を発 す。 公 法 に謂 う自行 治 理 な り。

第8条 大 韓 国大 皇帝 は,文 武官 の灘 防 任免 を行 い,爵 位 勲章 及 び そ の他 の栄 典 の 授与 或 は逓 奪 を行 う。 公 法 に謂 う自選 臣工 な り。

第9条 大 韓 国大 皇帝 は,各 有約 国 に使 臣 を派 送駐 紮せ しめ,宣 戦 講 和 及 び諸般 の条 約 を締 結 す。 公 法 に謂 う 自遣 使 臣 な り。

と ころで,こ の大韓 国国 制 は,か の有 名 な フ ラ ンス人 権 宣言(1789年) 第16条 「す べ て の権 利 の保 障 が承 認 され ず,権 力 の分 立が 認 め られて い

な い社会 は,憲 法 をを もつ ものでない。」 とい う意 味か らす る と,近 代 的 憲 法 と呼 ぶ こ とがで きな い こ と は勿 論で あ る。 しか しなが ら,前 述 した 制 定 経 過や,そ の権 力構 造 の規 定方 式 か らみ る とき,近 代 的憲法 思 想 に 基 づ い た立 法 で あ る こ とは否 定 し得 な い。従 って,こ の大 韓 国 国制 は, 権 力構 造 の 部 分 に限 られ て い るが,0国 の基 本 法 で あ り,憲 法 で あ る と

(16)

言 っ て か ま わ な い と思 わ れ る。 そ も そ も,国 制 のce制"と は,皇 帝(天 子)の 命 令,即 ち皇 帝 の 法 を 言 う もの で あ り,こ れ は,中 国 の 天 子 が 専

ら使 用 した 用 語 と して,王 の 命 令 で あ るct教"と 自 ら区 別 さ れ た も の で あ る。 ま た,国 制 と い うの は,国 家 の 政 治 制 度 の 意 味 と して も用 い られ るが,法 律 用 語 と して は,官 制 と同 類 の 言 葉 で あ る 。 官 制 が,君 主 国 でa 官 府 の 組 織 と権 限 等 を,皇 帝 の命 令(勅 令)で 規 定 した 法 律 を意 味 す る

よ う に,国 制 は,国 家 統 治 の 組 織 と統 治 権 の 行 使 を皇 帝 の 命 令 で 規 定 し た 国 家 基 本 法,即 ち憲 法(Constitution,Verfassung)を 意 味 しy大 皇 帝 が 親 し く定 め た 国 家 基 本 法 とい う意 味 で,国 制 と称 した も の で あ る。 従

32) って,大 韓 国 国 綱 は,大 韓 国 の 国 有 の 憲 法 の 名 称 で あ る と言 え よ う。

と もあ れ7こ の 大 韓 国 国 制 こ そ は,複 雑 な 国 際 状 勢 が つ く り 出 した と こ ろ の 一 時 の 国 内 的 安 定 期 に 制 定 さ れ た}李 朝 最 初 で 最 後 の 憲 法 で あ り, 余 命 い くば く もな い 大 韓 帝 国 が,そ の 独 立 と 近 代 化 を 如 何 な る政 治 体 制 の 下 で な し遂 げ よ う と した か を 知 り得 る も の で あ る。

{li)大 韓 国 国 制 の 内 容

大韓 国国 制の内容 を検討 す るため には,大 韓 国 国 制 に 度 々 言 わ れ る「公 法 」 に つ い て 一 言 す る必 要 が あ る。 こ こ で 言 わ れ る 「公 法 」 と は ,奏 本 前 文 で い う 「公 法 を 援 照(参 照)し 」 と の公 法 と 同 じで あ り}万 国 公 法(inter‑

nationallaw),す な わ ち 国 際 公 法 の こ とで あ る。 当 時 の 事 情 か ら察 す る と,西 洋 法 律 書 の 韓 国 最 初 の 出刊 に属 す る,歩 倫(JohannCBIuntschli)

著r公 法 会 通 』(Z)σ3Mo467%6yδ 鋳877θoん≠derciviZisierten 3吻 蜘aisRθ ・肋 う励4σ78魏 〃ちNδrdliRgen

,この本 は,ア 刈 力 人マーチン(WzlliamA.Mardin9丁 冠西)に よ り漢 訳 された。)を ,主 に 参 照 し3

3)

た もの と解 せ られ る。従 っ て,以 下 に逐 条 解 釈 を す る に際 して も ,随 時 こ

の灘 のr公 法会通』及 びその ドイツ語原文 を上ヒ轍 討 す ることにす 蛾 第1条 大 韓 国 は,世 界 万国 の公 認 す る 自主 独立 の帝 国 な り。

(17)

憲 法 的 文 書 を 中心 と して 見 た韓 国 憲 法 前 史(上)

こ れ は,中 国 の 明 帝 の 詰 命 を 受 け た 朝 鮮 の 国 号 を 廃 止 し,今 や 正 式 国 号 は 「 大 韓 」であ る とい うことを,国 制 で 明 文 化 し た もの で あ り,国 号 を 自 主 的 に創 定 し,法 文 化 した こ と に 意 義 が あ る。 又,「 世 界 万 国 の 公 認 せ る」 との 語 は,国 際 公 法 に参 与 し得 る 資 格 を 有 す る国 家 の 意 で あ り,「自 主 独 立 」 は,主 権 の 徴 表 と して の 自立 権(独 立 権)と 自主 権 を意 味 す る 。 そ して,「 帝 国 」 と い う語 は,言 う ま で も な く,皇 帝 が 主 権 を有 す る皇 帝 国 又 は君 主 国 で あ る こ と の意 で あ る。 即 ち,本 条 は,大 韓 国 に 国 号 を 維 新 し,日 本 お よ び 清 の干渉 か ら逃 れ た,自 主 独 立 の 完 全 な 主 権 国 と して

の 決 意 を 表 明 した もの と い え よ う 。

第2条 大 韓 帝 国 の 政 治 は,由 前 則 ち500年 伝 来 に して 由後 即 ち 万 世 に亘 り不 変 の 専 制 政 治 た り。

「由 前 則 ち500年 伝 来 に して,由 後 則 ち 万 世 に亘 り 不 変 」 と は,500 年 前 の 李 太 祖 の 朝 鮮 王 朝 の 建 国 か ら,将 来 に 至 る ま で,一 貫 して 世 襲 君 主 政 治 で あ る こ とを 表 現 した もの で あ り,「 専 制 政 治 」 と は,立 憲 政 治 で は な い 絶 対 君 主 政 治 体 制 の 国 で あ る こ と の 宣 言 で あ る。 従 って,人 民 主 権 の 唱 導 は勿 論 の こ と,イ ギ リス 流 の 議 会 君 主 制 度 さ え も許 さ な い こ

と を 表 明 した もの と解 せ られ る 。

第3条 大 韓 国 大 皇 帝 は,無 限 の 君 権 を 享 有 す る。 公 法 に 謂 う 自立 政 体 な り。

「大 韓 国 大 皇 帝 」 は,大 韓 国 の 元 首 の 正 号 を 言 う もの で あ り,「 無 限 の君 権 」 と は 「有 限 の 君 権 」 に 対 立 す る概 念 で あ って,【r公 法 会 通 』 と そ の 原 文 か ら解 す る と,有 限 君 主 政 治 は,dierepresentativeMonarchie

(代 表 君 主 政 治 又 は議 会 君 主 政 治)の こ とで あ り,無 限 君 主 政 治 は, dieabsoluteMonarchie(絶 対 君 主 政 治 又 は 専 制 君 主 政 治)の こ と と 思 わ れ る。 ま た,「 自 立 政 体 」 と は,r公 法 会 通 』 第68章 に あ らわ れ て い

る言 葉 で あ り,原 文 に よ れ ば,DasRechte,seineVlerfassungselberzu

(18)

bestimrnen,即 ち 自ら憲法 を制 定することのできる権 限とい うことができる。

従 って,本 条 は,大 韓 国 は,他 国 の干 渉 を受 け る こ とな く憲 法 を制 定 す る権 限 を有 す る 自立政 体 の国 で あ って,そ の権 限 は,絶 対君 主 で あ る大 皇 帝 が有 す る とい うこ とを宣言 して い る と解 せ られ る。

第4条 大 韓 国 臣民 に して大 皇 帝 の享 有 す る君 権 を侵害 す る行 為 あ る と き は,そ の既 遂 と未 遂 とを 問 わず,臣 民 た る道 理 を 失 うべ き もの と認 む。

大韓 国 の国 民 は,大 韓 国 が帝 国 で あ る こ とに よ って,当 然 に臣民 と い うこ とに な る。 本条 と類 似 した規 定 は,他 の 君 主 国 で も見 られ るが,他 国 の場 合,多 くは王 た る 自然 人 に対す る侵 害 行 為 を禁 止 す るの に対 し, 本 条 で は,「 大皇 帝 の享 有 す る君 権 」 と規 定 して い るの で,大 皇 帝 の享 有 す る君 権,即 ち大皇 帝 親 政 の 専制 政 治 体 制 に対 す る侵 害行 為 は一切 禁 止 され る こ とに な る。 従 って,人 民 主権 論 の 主張 は勿 論,司 法権 の独 立, 議会 の 開設 等 の主 張 を含 め,大 皇 帝 の統 治権 を制 限す る ことにな る主 張 は,全 く許 され な い もの と解 さ れ る。

第5条 大韓 国 大皇 帝 は,国 内 陸海軍 を統 率 し,編 制 を定 めて,戒 厳

・解 厳 を命 ず。

本 条 は,大 日本 帝 国憲 法(以 下,明 治 憲法 と略 す)第11条(統 帥), 第12条(編 制)及 び第14条(戒 厳)を 一 つ に ま とめ た もの の よ うで あ る。

ただ 明治 憲 法が,陸 海軍 の編制 権 は法 律 と予 算 の 制 約 を受 け る行 政事 項 で あ る との理 由で 統 帥権 か ら除外 した の に比 べて,本 条では,戒 厳 ・解厳

と同 じく大 皇 帝 の統 率権 に含 め,軍 令 事 項 に 属 さ した(元 帥府 官 制 第2 条,参 照)こ とは,注 目され る。

第6条 大 韓 国 大皇 帝 は,法 律を制 定 し,そ の頒布(公 布)と 執行 を命 じ.

万 国 の公 共 た る法律 に倣 って 国 内法 律 も改正 し,大 赦 ・特赦 ・減刑 ・復 権 を命 ず 。 公 法 に謂 う自定律 例 な り。

(19)

憲 法 的文 書 を 中 心 と して 見た 韓 国 憲 法 前 史(上)

本 条 は,立 法 権 の 所 在 と恩 赦 権 を 明 らか に した もの で,明 治 憲 法 第5 条(立 法),第6条(公 布 及 び 施 行)及 び 第16条(恩 赦)を,ま とめ た

もの の よ うで あ る。 大 皇 帝 が,法 律 の 公 布 及 び 執 行 を 命 ず る こ と は,他 の 君 主 と 同様 で あ り,別 に 問 題 は な い 。 た だ,当 時 の イ ギ リス,ド イ ツ,'

日本 を は じめ 世 界 の 主 要 な 君 主 国 がJす べ て 議 会 を 設 置 して お り,少 な"

く と も,君 主 の 立 法 に 協 賛 す る こ とが で き た の に 対 し,大 韓 国 国 制 で は, 立 法 権 は議 会 の協 賛 もな く,直 接 大 皇 帝 が 行 使 す る もの と規 定 して い る。

こ の こ と は,大 韓 国 国 制 が 意 図 す る専 制 君 主 制 が,何 で あ るか を 物 語 る もの で あ る。 大 赦 等 の 恩 赦 に つ い て は 説 明 す る ま で もな か ろ うが,条 文 の 体 裁 上,立 法 権 と恩 赦 権 の 規 定 を 同 一 条 文 に含 ま しめ た こ と は,両 者 の 性 質 か ら して,理 論 的 で な い と思 わ れ る。 尚,「 公 法 に 謂 う 自定 律 例 」

と は,r公 法 会 通 』 第68章 に 用 い られ て い る語 で,原 文 で は,C<das

Recht,selbstandigerGesetzgebungfu.rseineVolkandLand"と な っ て お り,「 国 民 と 国 土 の た め の 自 主 的 立 法 権 」 を 有 す る と の 意 で あ る 。 第7条 大 韓 国 大 皇 帝 は,行 政 各 部 府 の 官 制 と文 武 官 の 俸 給 を 制 定 或 は 改 定 し,行 政 上 必 要 な る 各 項 勅 令 を 発 す 。 公 法 に謂 う 自行 治 理 な り。

本 条 は,大 皇 帝 の 官 制 大 権 と 法 律 に 対 す る副 次 的 立 法 権 と い え る行 政

命 令 権 を規 走 した もので あ り,明 治 憲 法 第10条 の一 部(官 制,俸 給)と 第

9条(行 政 命 令)と を合 わせ て規 定 した もので あ る。 官 制 と 俸 給 に 関 して

は,説 明 す る ま で もな か ろ うが,「 行 政 上 必 要 な る各 項 勅 令 」 と は何 を

指 す か が 問 題 と な る。 他 の 君 主 国 憲 法 の 例 か ら推 察 す る と,法 律 の 施 行

に 必 要 な 命 令(執 行 命 令)と 公 共 の 安 寧 秩 序 の た め の 命 令(警 察 命 令)

の 二 っ を 含 む もの と解 せ られ るが,軍 事 上 必 要 な 勅 令(軍 令)は,既 に

第5条 に 規 定 さ れ て い る と解 す べ き で あ り,こ の 規 定 か ら は 除 外 さ れ て

い る と見 るべ き で あ ろ う。 と こ ろ で,「 公 法 に 謂 う 自行 治 理 」 と は,r公

法 会 通 』 第68章 に 出 て い る用 語 で あ り,そ の 原 文 ぱ̀dieSelbstregierung

(20)

undSelbstverwaltung"と な って い る の で,「 自 主 統 治 と 自治 行 政 」 を 意 味 す る と思 わ れ るが,本 条 の 趣 旨か らす る と,こ の 用 語 は不 適 切 と言 わ ざ る を得 な い。

第8条 大 韓 国 大 皇 帝 は,文 武 官 の 瓢 防 任 免 を行 い,爵 位 勲 章 及 び そ の 他 の 栄 典 の 授 与 或 は逓 奪 を 行 う。 公 法 に 謂 う 自選 臣 工 な り。

本 条 は,大 皇 帝 の 官 制 大 権 の一 部 で あ る文 武 官 の 任 免 大 権 と栄 典 授 与 の 大 権 を 規 定 した もの で あ り,明 治 憲 法 の 第10条 の 一 一部(任 免)と 第16 条(栄 典)に 該 当 す る。 「鶏 陽 」 と は,朝 鮮 王 朝 で 愛 用 さ れ た 官 用 語 で,

そ の 意 味 は,悪 徳 官 吏 を 追 放 し,善 良 な 官 吏 を 昇 進 さ せ る こ とで あ り, 後 続 の 「任 免 」 と 同義 語 と 解 して 差 しつ か え な い 。 従 っ て,本 条 は,す べ て の 官 吏 が 大 皇 帝 の 使 用 人 で あ る こ と を 規 定 した も の で あ り ,国 民 の 公 僕 と い う概 念 は 完 全 に否 定 さ れ て い る と解 さ れ る。 な お,「 公 法 に 謂

う 自選 臣 工 」 と は,r公 法 会 通 』 第68章 に 用 い られ て い る用 語 で あ り, そ の 原 文 は,て̀diefreiBesetzungderoffentlichenAmter"と な っ て い

る。 す な わ ち 「官 職 任 命 の 自 由」 を 意 味 す る もの で あ る 。

第9条 大 韓 国 大 皇 帝 は,各 有 約 国 に 使 臣 を 派 送 駐 紮 せ しめ,宣 戦 講 和 及 び諸 般 の 条 約 を 締 結 す 。 公 法 に 謂 う 自遣 使 臣 な り 。

本 条 は,大 皇 帝 の 外 交 大 権 を 規 定 した もの で あ り,明 治 憲 法 第13条 に 該 当 す る。 国 家 を 代 表 す る もの は 大 皇 帝 で あ り,外 交 使 節 の 派 遣,一 般 条 約 の 締 結 を は じめ,宣 戦 ・講 和 もす べ て 大 皇 帝 の 大 権 で の み 決 定 し得 る こ とを 明 言 した もの で あ る。 な お,「 公 法 に 謂 う 自 遣 使 臣 」 と は,r公 法 会 通 』 第68章 に 見 られ る用 語 で あ り,そ の 原 文 は,"dasRecht趾r

denVerkehrmitandernStatenseine5tellvertreterzubezeichnenand

zuermachtigen"と な っ て い る 。 従 っ て,「 外 国 と の 国 交 の た め に ,自 国 代 表 者 を 指 名 し,全 権 を 委 任 す る権 限 」 の 意 と解 せ られ る。

以 上,大 韓 国 国 制 を逐 条 解 釈 し,そ の 内 容 を見て きた が,そ こに示 され て い

(21)

憲 法 的 文 書 を 中心 と して 見た 韓 国 憲 法 前 史(上}

る もの は,大 皇 帝 の大権 事 項 のみ で あ る。 結局,大 韓 国 国制 は,0方 は,前 述 した 甲午 更 張 や独 立 協会 の 主 張 を採 用 して,日 本 お よび清 国 と の事 大 関係 を清 算 して 自主 独立の国 たることを規 定 したが,他 方では,甲 更 張の成 果 や独立 協 会 の議会 設 立 要 求 を否 定 した ものであった 。まさに,

「このどれほど反動 的 なる国 憲であることか/洪 範14条 とは異 な り,国 漢 文 を まぜ て書 いた点 は一 歩 進 ん だ といえ よ う し,ま た,そ の 用語 に おい て は 日本 の 明治 憲 法 の影 響 を 多 く受 け た痕跡 が 見 られ るが,そ の 内容 にお いて は,実 に頑 冥 固 随 で あ り,世 界 の進 運 と民衆 の要求 に応 じよ う とす る意 図 は秋 毫 も見 られず,か え って,こ れ に逆行 し,君 主 独 裁 の鉄 石 の

35)

よ うな 制度 を 確 立 しよ うと した もの で あ った」 との言 は,正 鵠 を えた も の と言 え よ う。 そ して,こ れ が故 に,そ の後 の 日本帝 国 主義 によ る主権 剥 奪 を容 易 に した こ とは,歴 史 の皮 肉以外 の な に もので もな い。 す なわ ち,主 権 の剥 奪 は,大 皇帝 個 人 に 対 す る脅 迫 とそ の譲 歩 に よ り可 能で あ

36)

ったか らで あ る。 か くて,1904年8月 の第1次 韓 日協 約,1905年11月 第2次 韓 日協 約(乙 巳保 護条 約),1907年7月 の韓 日新 協 約(丁 未7条 約), そ して,つ いに1904年 隆 煕4年8月22日,韓 日併 合 条 約が 調 印 されることで,37) 韓 国 は,日 本帝 国主 義 の完 全 な 植 民地 と化 した の で あ る。

1)豊 臣 秀 吉 の 朝 鮮 侵 略 の こ と。

2)1636年 の 清 の 朝 鮮 侵 略 の こ と。

3)李 朝 時 代 の 士 禍 と 党 争 に つ い て は,李 鐘 恒 『韓 国 政 治 史 』(刈 含 博 英 社, ユ974年)269‑308頁 参 照 。党 争 を 通 説 の 如 く否 定 的 に 見 るべ き で な い と主 張 す る も の と し て は,申 福 龍r増 補 版 韓 国 政 治 史 論 』(刈 金,博 英 社,工982年)89

‑98頁 。

(22)

4)い わ ゆ る 「事 大 」 「宗 属 」 の 関 係 と は,外 交 上,形 式 上 は 上 下 の 関 係 を 認 め な が ら,内 政 に お い て は 自 主 性 が 保 た れ る よ う な 関 係 を 意 味 し て い た 。 朝 鮮 史 研 究 会 編r朝 鮮 の 歴 史 』(三 省 堂,1974年)ユ28頁 。

5)大 院 君 の 政 治 に 関 し て は,李 鐘 恒,前 掲 書,332‑340頁 。 安 承 周 『新 韓 国 史 』(刈 音 学 文 社,ユ972年)270‑276頁 。 李 基 白 「韓 国 史 新 論(改 正 版)』

(刈 急 一 潮 閣,1982年)312‑317頁 ・ 南 都 泳 『韓 国 史 』(刈 亀 法 政 学 会 , 1977年)27027s頁 。

6)1866年 の 丙 寅 洋 擾(対 フ ラ ン ス)と1871年 の 辛 未 洋 擾(対 ア メ リカ)。 こ れ ら の 洋 擾 を 撃 退 で き た 理 由 を,李 基 白 教 授 は 次 の よ う に 説 明 す る 。 即 ち,「二 度 に わ た っ た 洋 擾 の 撃 退 は,朝 鮮 の 反 抗 が 頑 強 で あ っ た た め で も あ る が,一 方,

フ ラ ン ス や ア メ リカ が 消 極 的 で あ っ た た め で も あ っ た 。 彼 ら は ,未 だ 朝 鮮 を 武 力 で 侵 略 し,領 土 化 して し ま お う と の 意 図 ま で は 持 っ て い な か っ た 。 彼 ら は, 示 威 行 動 の み で 通 商 の 目 的 を 達 成 す る こ と が で き る と信 じ て い た 。 しか し,大 院 君 は,そ の よ う な 示 威 行 動 て い ど の 侵 略 に は 屈 しな い 強 力 な 意 志 と 実 力 の 所 有 者 で あ っ た 。 当 時,フ ラ ン ス は 安 南 の 経 営 に 忙 し く,ア メ リ カ は 南 北 戦 争 後 の 西 部 開 拓 に 余 念 の な い と き で あ っ た 。 そ れ 故 に,予 期 し な い 頑 強 な 抵 抗 を 受 け た の で は,こ れ を 打 ち 負 か す だ け の 強 硬 な 態 度 を と る こ と が で き な か っ た 。」

(李 基 白,前 掲 書,317頁)と 述 べ る。 同 旨,安 承 周,前 掲 書,274‑275頁 。 尚,開 国 に 至 る ま で に つ い て の 詳 細 な 研 究 は,奥 平 武 彦 「朝 鮮 開 国 交 渉 始 末 』

(刀 江 書 院,1969年)が あ る。 但 し,戦 前 に 出 版 さ れ た も の の 再 刻 で あ り,批 判 的 に 読 ま な け れ ば な ら な い 箇 所 も 多 々 あ る。

7)李 基 白,前 掲 書,3ユ9‑32ユ 頁 。 安 承 周,前 掲 書,276‑278頁 。 南 都 泳,前 掲 書,278‑280頁 。

8)も っ と も 鄭 敬 護 氏 は 「ペ リ ー 提 督 が 艦 砲 で 個 偶 し て 日 本 に 開 国 を 迫 り,そ の 後 日本 は 同 じ手 法 で,韓 国 の 鎖 国 を 破 っ た と は,お お くの 歴 史 家 の 述 べ る と こ ろ で あ る 。 しか し 両 者 の 手 法 が 全 く 同 じ で あ っ た と す る の は

,い さ さ

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憲 法 的 文 書 を 中心 と して 見 た 韓 国 憲 法 前 史(上)

か 言 い す ぎ で は な い か 。」(鄭 敬 護 『あ る 韓 国 人 の こ こ ろ 』(朝 日 新 聞 社,1972 年)98頁)と 疑 問 を 呈 し,両 者 の 違 い を 次 の よ う に 述 べ る 。 ま ず 「ペ リ ー の ば

あ い,占 領 を 目 的 と す る 兵 力 の 上 陸 は な か っ た 。 条 約 文 調 印 式 の 儀 杖 兵 や,病 死 水 兵 埋 葬 の た め の 兵 員 の 上 陸 は 別 で あ る 。 実 砲 を 撃 っ て 陸 地 を 攻 撃 した こ と

は,も ち ろ ん な い 」(同 書,同 頁)し,時 間 を 知 らせ る 号 砲 や 礼 砲 以 外 の 空 砲 さ え も な か っ た(同 書99‑io2頁)の に 対 し,日 本 の 韓 国 に 対 す る 開 国 要 求 の 手 法 は,次 の 如 く で あ った 。1875年5月25日 に 「日 本 の 軍 艦,雲 揚,春 日,第 二 丁 卯 の 三 艦 は,突 然 予 告 も な く釜 山 に 入 港 し,港 内 に碇 泊 し た ま ま 『演 習 』 を は じ め た 。 三 鑑 の 砲 声 は 釜 山 ・東 莱 に ひ び き 渡 り,韓 国 の 官 民 を 震 え あ が らせ た 。 参 観 の た め 乗 鑑 して い た 韓 国 側 の0行18名 は 周 章 狼 狽 し,あ わ て て 演 習 中 止 を 申 入 れ た。 威 嚇 の 目 的 は 十 分 に 達 せ られ た の で あ る。」(同 書,102‑103頁)。

そ の 後,「 同 年9月19日,雲 揚 号 は 江 華 島 沖 に 現 わ れ る 。r韓 国 西 岸 よ り,清 国 午 荘 に 至 る ま で の 海 路 を 研 究 す る 名 儀 の 下 に,暗 に 韓 国 に 対 す る示 威 運 動 に 従 え 』 と の 海 軍 省 の 内 訓(山 辺 健 太 郎 著r日 韓 併 合 小 史 』)に よ っ て 行 動 を 起 」

(同 書,103頁)し た 。 即 ち,そ れ が 江 華 島 砲 台 で の 衝 突 で あ る 。 か く て

「翌 年(1876年)1月,艦 隊 を 韓 国 に 派 遣 し,「 損 害 』 賠 償 と 開 港 条 約 を 追 っ た 。」(同 書,同 頁)の で あ る 。 ま た,そ の 内 容 に お い て も 「江 華 島 条 約 が,日 本 に 治 外 法 権 な ど の 特 権 を 許 した 不 平 等 条 約 で あ っ た こ と は い う ま で もな い が,

ペ リー が 浦 賀 で 成 立 さ せ た 修 好 条 約 に は,ア メ リ カ の 治 外 法 権 な ど を 規 定 す る 不 平 等 的 要 素 は な か っ た 。」(同書,ユ03頁)の で あ る と。 ま さ に,「 量 の ち が い が,あ る 限 界 を こ え る と,質 の ち が い に 移 行 す る の だ 。 こ の こ と は,井 上(雲 揚 号 艦 長 ・井 上 良 馨)と ペ リー の 関 係 に も あ て は ま る で あ ろ う。」(同 書,105頁) と い え よ う。

9)「 西 洋 人 は,大 部 分 韓 国 をHermitKingdom(Nation)と 呼 び,そ の 意 味 は 『隠 者 の 国 』で あ る。」(胡 春 恵 著 ・辛 勝 夏 訳 『中 国 蛙9{韓 国 独 立 運 動 』(刈 音, 檀 国 大 学 校 出 版 部,ユ978年)3頁 。)と い わ れ る 。 或 は,そ の 言 葉 は,英 人 学 者

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グ リ フ ィ ス の 著 書 名(ElliotGriffis,CoreatheHermitNation,)に 由 来 す る も の か も しれ な い 。 尚,『 中 国 蛙 釧 韓 国 独 立 運 動 』 は,中 華 民 国 国 立 政 治 大 学 の 胡 春 恵 教 授 の 博 士 論 文 を 修 正 し て 出 版 し た 『韓 国 独 立 運 動 在 中 国 』 の 韓 国 語 訳 で あ る。 こ の 書 は,中 国 人 の 眼 か ら見 て,韓 国 独 立 運 動 が い か に 映 っ た か を 知 る絶 好 の も の で あ る 。

ユ0)李 基 白,前 掲 書,32ユ 頁 。

11)代 表 的 な も の が,い わ ゆ る 「東 学 党 の 乱 」 で あ ろ う。 もっ と も,「 日本 で は

「東 学 党 の 乱 』 と い う よ び 名 が あ た り ま え の よ う に 使 わ れて い るが,こ の 言 葉 は 当 初,官 憲 側 がr賊 』 よ ば わ りす る 語 感 で 用 い,そ れ を そ の ま ま,日 本 人 が か りて 用 い る よ う に な っ て し ま っ た も の で,農 民 軍 側 に は本 来,r東 学 』 と い う 言 葉 は あ っ て も,『 東 学 党 』 と い う言 葉 は な か っ た 。 そ の う え,こ の 用 語 は, 歴 史 的 発 展 の 可 能 性 を は ら ん だ 大 農 民 反 乱 を,単 な る 媛 少 な 宗 教 反 乱 の よ う に 誤 解 させ る と い う意 味 で も,使 う べ き で は な い 。 な お,朝 鮮 で はr甲 午 農 民 戦 争 』 と も よ ば れ て い る が,あ ま り ヨ ー ロ ッパ の 農 民 戦 争 と 直 結 し た イ メ ー ジ で と らえ す ぎ な い よ う に,こ こ で は 『甲午 農 民 反 乱 』 と い う用 語 に 統 一 した。」(朝 鮮 史 研 究 会,前 掲 書,175耳 。)と の 意 見 が あ り,考 慮 に 値 す る も の で あ ろ う。

尚,手 元 に あ る 韓 国 で 出 版 さ れ た 歴 史 書 で は,「 東 学 農 民 軍 の 革 命 運 動 」(李基 白,334頁 以 下),「 東 学 革 命 と近 代 的 改 革 」(安 承 周,前 掲 書,29ユ 頁 以 下),

「東 学 農 民 軍 の 蜂 起 と近 代 的 改 革 」(南 都 泳,前 掲 書,29ユ 頁 以 下),「 東 学 ・ 農 民 革 命 」(姜 晋 哲 ・姜 萬 吉 ・金 貞 培 『世 界 史 州 日トを 韓 国,41歴 史 』(刈 音, 高 麗 大 学 校 出 版 部,1975)173頁 以 下)と な っ て い る し,又 韓 国 政 治 史 に関 す る 書 物 で は,「 東 学 革 命 」(申 福 龍,前 掲 書,161頁 以 下),「 東 学 乱 」(李 鍾 恒, 前 掲 書,34ユ 頁 以 下)と な っ て い る。

12)甲 申 政 変 と 甲 午 更 張 に つ い て は,李 基 白,前 掲 書,327‑334頁,345‑350 頁 。 南 都 泳,前 掲 書,288‑291頁,305‑314頁 。 安 承 周,前 掲 書,282‑287頁, 298‑304頁,を 参 照 。 尚,「 朝 鮮 近 代 史 上 に 注 目す べ き足 跡 を の こ した 開 化 運

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憲 法 的文 書 を 中心 と して 見 た 韓 国 憲 法 前 史(上)

動 は,ユ884年 の 甲 申 政 変 の 失 敗 で 金 玉 均,洪 英 植 ら 開 化 派 の 急 進 派 が 犠 牲 と な り,さ ら に 今 度 の 閾 妃 殺 害 事 件 と 関 連 し て 金 弘 集,金 充 植,魚 充 中 ら開 化 派 の 中 道 派 が 犠 牲 と な っ た 。」(姜 在 彦 「甲 午 改 革 ・独 立 協 会 ・活 貧 党 」r三 千 里 』 34号(1983年)所 収,ユ98頁 。)こ と を 銘 記 せ ね ば な ら な い 。

13)こ の 機 関 は 内 政 改 革 政 策 樹 立 の た め に 設 け られ た もの で あ り,総 理 大 臣 を 総 裁 と す る 合 議 体 的 な 審 議機 関 で あ って,政 策 の 執 行 に 必 要 な 立 法 活 動 を 行 な った 。1894年7月 に開 設 され て 約 半 年 の 間 存 続 した が,最 初 の3ケ 月 の 間 に,こ

こ で 審 議 決 定 し た 重 要 法 規 の み で も,208件 に 達 す る(安 承 周,前 掲 書298

‑299頁)と い わ れ る。

工4)洪 範 ユ4条の 全 文 は,安 承 周,前 掲 書,30ユ 頁,南 都 泳,前 掲 書,310‑311 頁 に 韓 国 語 で,ま た,愈 鎮 午,前 掲 論 文,20頁,同,前 掲 書,ユ0一 ユ1頁に 漢 文 で,そ れ ぞ れ 掲 載 さ れ て い る。 ま た,邦 文 に 訳 さ れ た も の と し て は,姜 在 彦, 前 掲 論 文,209頁 が あ る。と ころ で,こ の 洪 範14条 に つ い て,姜 在 彦 氏 は 「政 府 の 公 文 書 で 漢 文 の ほ か に,純 国 文,国 漢 混 合 の 文 体 を つ か っ た こ と は,画 期 的 な こ と で あ っ た 。」(前 掲 論 文,194一 ユ95頁)と 述 べ,ま た,李 基 白 ・李 光 麟 の 両 教 授 も,「そ の と き ま で の す べ て の 記 事 が 純 漢 文 で 発 表 さ れ た が,こ の 独 立 の 誓 告 文 と 論 音 を 純 漢 文 体 ・純 国 文 体 ・国 漢 文 混 用 体 の3種 類 で 作 成 発 表 した 。」(李 基 白 ・李 光 麟 編r改 訂 ・増 補 版 韓 国 史 到 基 本 知 識 』(刈 苦,一 潮 閣,1979 年)300頁)と 述 べ て い る こ と を 見 る と き,愈 鎮 午 博 士 の,「(大 韓 国 国 制 は) 洪 範14条 と は 異 な り 国 漢 文 を 混 ぜ て 書 い た 点 は 一 歩 進 ん だ と い え よ う が … … 」 (前 掲 論 文,23頁,前 掲 書,15頁)と の 叙 述 は 愈 鎮 午 博 士 の 誤 解 で あ る と 思 わ れ る。

15)愈 鎮 午,前 掲 論 文,20‑21頁 。 同,前 掲 書,11一 ユ2頁。 新 田 隆 信 「韓 国 憲 法 変 遷 史←)」r富 山 大 学 日本 海 経 済 研 究 所 研 究 年 報 』3号 所 収,2頁 。 16)愈 鎮 午,前 掲 論 文,2工 頁 。 同,前 掲 書,12頁 。

17)李 基 白 著,宮 原 兎 一 ・中 川 清 ・共 訳r韓 国 史 新 論 』(清 水 弘 文 堂,1971年)

参照

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