1 八 世 紀 以 降 の 大 名 金 融 市 場 と し て の 堂 島
‑借銀担保の米切手をめぐって‑
鶴岡実技子
はじめに
堂島「浜方先約」創始の時代的背負前期の「浜方先約」先約取次人の存在について 四明和期の肥後蔵米販売機船(先約と蔵元)
五後期の「浜方先約」おわりに
はじめに.
幕藩体制社会における畿内tと‑に中央市場としての大阪の地位は、米納地代制を基盤とLt中央政梅に貨幣発行
権を独占された大名領主経済の正貨獲得の場として、頗る大きな比重を占めていたことは'こと新しく論ずるまでも
ない。
領主の土地所有権の実現としての貢租米の上方における販売が'能内の先進性に支えられて近世初頭から始まって
いたことは既に指摘されている。しかし'全国経済の中核としての大阪の地位の碇立の時期については'未だ論の分
一八世紀以降の大名金融市場としての堂島(鶴岡)二二三
一八世紀以降の大名金融市場としての堂島(鶴岡)
れるところである。
ここで当時最大の領主的商品であった米に限定してみると'近世前期の中央市場における領主米の販売が'必ずLBE)も領主経済にとって正貨獲得の絶対的手段ではなかったとする東北諸藩の事例や、また領内市場の狭陸佐は必ずしも
貢租米の中央市場への集中をもたらすとは限らず、全国的に平準化されない隔地間の封鎖的小市場の価格差を利用し(2)た利潤抽出が行なわれたことが、元和・貫永期の細川藩につ,いて明らかにされている。大阪の米価についてみても、
寛永初年から鎖国以前の一〇年迄は一石二〇匁台を低迷し'米穀需要の増大を示さない。寛永一五年(一六三八)加賀
藩が初めて大阪廻米を試みた際の米価は'金沢で一石三二匁四二であったのに対し'大阪では三二匁と在地直段の方(3)(4)が高値を記録しており'この時期の領主米の販売が隔地間の相場見競の形で行われ、大阪が絶対的販売の場ではなか
ったことを示している。また貢租米の引当を主とした西国領主の上方借銀も'貢租米の販売とは直結しない京都商人
への依存度が大きかったことは'朝尾氏の前掲論文や'冥文・元禄期の京都商人の大名貸を扱われた松本四郎氏の近(5)業で明らかにされている。「町人考見録」に見られる元禄‑享保期の京都富商の倒産が'直接的には大名貸の焦げつ
きによるものが過半を占めていたことは周知の通りであるが'海外貿易による高利獲得の根源を閉鎖した鎖国政策・(6)(7)地方的に通用した領国貨幣の消滅過程・西廻海運の開通による中継地商業都市とそれに連なる地方都市の後退等々'
中央政権の確立に伴って拡大された大阪の経済的地位の確立が'京都の金融業者の黄退を間接的にもたらしたと考え
られるのである。
領主米の大阪への集中化に伴ってみられた大名金融市場の京都から大阪への移動は'寛文期に発生したと伝えられ
る町人蔵元による新しい大名貸商人の拾頭と関連づけ.て考えられるのが常識的である。しかし主として大阪の本両替
商に委託された蔵元業務については'従来明らかにされている限り'利貸資本の側面は認められても、蔵米の販売を
(8)行なう商品取扱資本としての機能は認め難いと思われる。また彼らの行なった蔵米を引当とする大名貸にしても'担
保米の売捌きに直接タッチする形のものではなかったと思われるLtその貸付が確実性を持ち'有利であったという
例証は見受けられないように思われる。それでは大阪の中央市場としての碇立が生み出した大阪の大名貸商人と'同
じく年貢米を担保とした貸付を行ない乍ら倒産していった京都商人との質的な相違は何処にあったのであろうか。
1八世紀以降大名貸に「純化」したと云われる鴻池家については'先学の共同研究によって着々と成果が発車されて
いるのであるが'不良貸付の累頓、利子率の低下など史料の上では絶望的と思われる大名貨の論理は'知行・扶持米(9)の収益を利子の転化形態として把える以外に理解し難いのである。小稿の材料として取扱う大阪の富商加場屋長田家(10)についてみても'多量の不良貸付の証左たる大名貸証文からは'この疑問を解‑鍵はないように思われる。殊に加鴫
屋長田家の場合'大名貸の筆頭格鴻池家が専ら守成に転じたと云われる一八世紀の前半に米商人として身を超し'以
後領主経済を悩ましつ.つけた恒常的米価の低落期を迎えた宝暦・化政期に'大名貸商人として飛躍的致富を遂げ'幕
末には拍池・広岡と肩を並べる迄に至った経過は'史料的に何ら袈付けてくれないのである。
小稿は、このような疑問を念頭におきつつ'当時最大の街主米取引市場であった堂島の市場楢造が領主経済に如何(̲1)なる機能を果していたかを'加場屋店に残された倍銀担保の米切手を中心に検討してみようと思うのである。
註(‑).渡辺信夫﹃茶辞制拓立期の商品流通﹄(2)朝尾直弘「上方からみた元和・究永期の細川藩」(大阪
歴史学会編﹃幕藩制成立期の諸問題﹄所収)(3)佐々木潤之介「加賀讃成立に関する考察」(社会経済史学二四の二)
]八世紀以降の大名金融市場としての堂島(鶴岡) (4)延宝期の津軽蕗の事例が中井信彦﹃幕藩社会と商品流通﹄1八三頁に紹介されている。(5)松本四郎「寛文〜元禄期における大名貸しの特質」(≡井文庫論召創刊号)(6)領国貨帖の廃止の時期は寛文‑元禄期とされている(榎本宗次「近世前期における領国増幣について」史料館研究
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一八世紀以降の大名金融市場としての堂島(鶴岡)
紀要第一号)(‑)小野正雄「寛文期における中継商業都市の樺造」(歴史学研究二四八号)(8)このことは'絹地の例について安岡垂明氏も指摘されている(「前期的資本の蓄積過程的」同志社商学Iの五)(9)森泰博「大名貸の収益」(大阪大学経済学1七の二二二 一三六
合併号)(10)文部省史料館所蔵。本文中「注記」のない引用史料は総て「加嶋屋長田家文書」である。(1)米切手の基礎的知識については'島本得一﹃蔵米切手のt基礎的研究﹄に負うところが多い。
一'堂島「浜方先約」創始の時代的背景
本題に入る前に'堂島米市場の沿革と'堂島独自の大名金融としての浜方先約の始まる時代的背景について簡単に
触れておきたい。
大阪が近世初頭から西国大名の領主米販売市場であったことは前にも触れたが'慶長一四年には既に毛利氏の蔵屋
敷が設けられていたことが明らかになっている。蔵米売捌のために大阪に設けられた諸藩の蔵屋敷は延宝年間九一・'(‑)元禄年間九七、天保年間一二四とされているが'「堂島旧記」によれはt.寛永・正保の頃'淀屋米市が立ち、多数の
米商人が盛んに米の売買を行なったとしている。法令の上では'承応元年(一六五二)八月番衆の姶米を延売買した(2)米仲買や素人が処罰された町蝕が'米売買取締りの初見である。承応三年三月、手形の転売と蔵屋敷の先手形発行に
よる三歩一敷銀微取を禁じたことは有名であるが、その町触中に「いにしゑ無之手形之売買付候由」と'この頃から
米手形売買が始まったことを示している。米価の騰貴をもたらすものとして、先手形の発行・米手形の転売・蔵出
期限厳守の禁令は'以後享保十三年(一七二七)の蔵米切手延売買解禁まで'屡次に亘って発せちれているが'蔵出
期限厳守の法令は'三十日(寛文三年以後tl時期十日に短縮)の法定期限に代銀を完納することを義務づけることに
なったから、元来倉庫の蔵出証券的な性格であった米手形の流通証券化が進行するという逆数県を生じたわけであ(3)る。(4)蔵出期限の法定が有名無実であったことは'「浜方記録」の冒頭に記された正徳六年(一七一六)七月四日の加州蔵
類焼にかかる落札人の焼米陪依請求事件で'四月二十八日の入札米がその対象に入っており'手形文言をたてに田倍
を拒む同蔵奉行に対し'「御米手形表御法日限過候ハゝ可為反古と有之候'然共夫過候両も御預り被下候儀は互之勝
手を以て御座候」という米仲買の主張が受理されており'蔵出し前の四月二十八日札から七月二日札迄の落札人数三
六人は'払米請取の段階には札主六二人となっておslp.蔵出前の手形転売の事実を物語っている。
市立の禁令も万治三年(一六六〇)十一月に出されているが'淀屋没落後の元禄十年(一六九七)'取引場所を堂(5)島新地へ移したのが堂島米市場の発端とされている。「堂島市場史」には元禄一四年頃米仲買間で戒講が成立してい(6)たと記しており'元禄十四年九月書日付の掃磨屋八兵衛の米仲買札が同雷の口絵に見えるから'内仲間としての組織
化がこの頃行われたことが知られるが'その人数などは不明である。
帳合米取引の公認は享保一五年(一七三〇)八月であるが'それ以前から相当に行われていたことは'公認告示の
町蝕に「大坂米商之儀古来致来り候通仕方を以'流相場商諸国商人井大坂仲買共勝手次第一l可仕候」と'従前禁止に
も拘わらず行われてきた取引仕法追認の形をとっていることでもわかる。堂島の正米取引が他に効のない程の大量取
引であり'然も米切手による売買であったから'度々の禁令にも拘わらず'買占・国定、空米相場の投機市場へ発展
するのは自然の趨勢であったといえる。
幕府が不実商・はた商と枚志してきた帳合米取引を一転して公認に踏み切らせた時代的背景は'こと新しく述べる
までもない。享保七年頃から顕著になった中央市場における米価の低落である。前代からの収噂の強化による増徴完
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