(解答番号 ~ ) 次の文章を読んで、後の問い( 問
1 ~ 8 )に答えよ。
実 は、科 学 的 な 客 観 知 識 が、か な ら ず し も 神 の 真 理 の よ う な
① な 存 在 で は な い 、 と い う こ と は 、 そ れ ほ ど 新 し ト
(注1)マス・クーンの「パラダイム理論」に関連して、さんざん言われた 、 ア キ
こういう相対主義の系譜をたどると、パラダイム理論が現れる以前に、さらに本書の主張に近い考え方を直接唱えた人 マ
(注2)イケル・ポラニーである。 この人物は一九五〇年代末に、 そのものズバリ、 『個人的知識 ( Personal Knowledge )』 という著書をあらわしている。
ョ イ キョ しようと努力すると、逆に知識は破壊されてしまうのだ。 日本では、 ポラニーの議論は 「暗黙知 ( tacit knowing ) の理論」 としてひろく知れわたっている。 人間の知識のなかに 明示的、 形式的に表現できない知があり、 それが個人だけでなく組織の活動においても非常に重要な役割をもつ ― 日本人なら誰しも納得する主張に他ならない 。 国 語
1 22
A
武道や踊りなどのコツは「習うより慣れろ」だ。弟子は寡黙なお師匠さんの背中から技を体得するのが、わが国の しである。芸事だけではない。近代的なオフィスや工場でも、現場ではいちいち言葉でいうより「あうんの呼吸」ですみ やかに仕事がすすむ。
一九八〇年代には、 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」 のかけ声とともに、 そういう日本の文化が高度成長期の驚異的な 経済発展を支えたと信じられたのである。海外で日本の企業組織の暗黙知的な活動が経営学者たちによって注目され、高 く評価されたことは記憶にあたらしい。
とはいえ、実はこういう暗黙知の解釈は、間違いとは言えないものの、あまりに常識的で狭すぎるのだ。たしかにポラ
ニーは、人間の知識のなかには明確に語りえないものがあるとのべている。だが、自転車に乗る技能のようなものを考え れば、 これは誰でも気づくことではないか。 すべてマニュアル通りに行動する新入社員は別として、 普通の企業マンなら、 マニュアルの行間をよむ行為が大事だと、指摘されるまでもなく分かっている。
暗黙知理論とは、単に非明示的な知があるというだけではない 。それは人間の知の本質的な構造をとらえた卓抜な議論 なのである。
いったいその構造とは何か。 ― 簡単にいえば、 「諸細目 ( particulars )」 と 「包括的存在 ( comprehensive entity の二項関係からなるダイナミックスである。前者は近接項、後者は遠隔項にそれぞれ対応する。
例として、誰かの顔を認識するときを考えてみよう。まず、相手の 眼
め、鼻、口、額、頰、顎などの「諸細目(近接項) にちらっと目を向けるが、いつまでも続くことはない。われわれの注意はすぐに諸細目から離れ、顔全体という「包括的 存 在(遠 隔 項) 」に 移 行 す る。と い っ て も、諸 細 目 は 完 全 に 忘 れ 去 ら れ る わ け で は な い。相 手 の 顔 を 認 知 識 別 し て い き、 われわれは相手の眼や鼻などの諸細目を無意識に、 「顔全体の姿」 のなかにしっかりと感知しているのだ。 それらは潜 在化し、明示的に語られないものの、顔全体の「意味」を構成しているのである。
B
そのほうが、 ハンドルやブレーキの微妙な操作が自然とうまくいくのだ。 細目の操作は、
を指摘した点にある。 暗黙知とは 「(近接項と遠隔項という) 二つの項目の協力によって構成されるある包括的 理解
00すること」 であるという。 この人物が強調したかったのは、 自分の身体的な体験を能動的に統合していく 「暗
明
めい晰
せきさにあると考えた二〇世紀の論理主義者 愕
がく然
ぜんとしないではいられない。
がえって一方、その樹木が細目となって、隣の樹木や建物や池など他の諸細目と関わりながら、庭という上位の包括的存 在 を 形 成 す る 。 い ず れ に し て も 、 あ る レ ベ ル に 注 目 す る と 他 の レ ベ ル は 見 え な く な っ て し ま う の だ (「 木 を 見 て 森 を 見 とい う ウ ケイ クもこうして出てくる) 。
こういった知識産出の構造は、空間的な対象に限らない。時間的な対象でもみとめられる。
一番わかりやすいのは映画の例だろう。映画というのは、言うまでもなく、カメラがとらえる瞬間的な映像の連続から 構成されるのだが、単に一次元で線上につながっているわけではない。カット(カメラ切り替え)からカットまで、つま り連続撮影された映像の断片が「ショット」である。また、複数のショットが集まって、ふつう一つの場所で撮影される
「シーン(場面) 」がつくられる。さらに、複数のシーンが集まって映画全体の「ストーリー」がつくられる。
要するに、ショットが細目となってシーンという包括的存在が構成され、シーンが細目となってストーリーという包括 的存在が織り上げられるのである。観客は、単に時間経過にしたがってダラダラと映像をながめているのではなく、そう いう階層的ダイナミックスのなかで、映画の「意味」を内的イメージとしてとらえるのだ。
さて、こういう時間空間にまたがる階層をふまえて人間の知識は形成されていくのだが、はたして諸細目(近接項)と 包括的存在(遠隔項)の二項関係のダイナミックスは個人の心のなかの出来事だけだろうか。
二人の人間が対話することによって、 そこに互いに通じあう共通の 「意味 (包括的存在) 」 が生まれることはないだろう か。もし、これが肯定できるなら、そういう対話を重ねて、複数のメンバーからなる組織において、あるていど共通了解 される三人称的な知識(包括的存在)がみとめられる可能性もないとはいえない。
ポラニーは、人間があつまった社会的組織における集合知の発生について本格的に論じてはいない。だが、興味深いこ とに、 二人の人間がいるとき、 「潜入 ( dwell-in )」 という努力によって、 一方が相手の生みだした知識 (包括的存在) るていど体得できる可能性はあると説くのである。
ある意味で、 「包括的存在の疑似的共有」 が芽ばえていると見なすこともできるだろう。 日本流の芸事の習得
。チェスの名
「人間は機械に負けるのか」などとおどろおどろしい見出しをかかげるものもある。
(いったい、 コンピュータが自分でプログラムを書いたとでも言うのだろうか) 。 つまり、 コンピュータという道
な エ カ シンは、そろそろ卒業し
ク
(注3)オリアをもとに成立する主観的なものである。だから、
前述のとおり、別人のあいだで容易に知識を共有することはできない。とはいえ、人間はトラのような単独行動の生物で はなく、群れをつくって生きる生物だ。それぞれの知識がまったく食い違っていれば、集団行動は不可能となる。
したがって、 現実生活では、 どの社会的組織においても、 三人称で記述される何らかの 「(疑似的) 客観知識」 がどうし てもヨ ウ オ セイ されることになるのだ。
具体的には、その組織における過去の前例だの、組織のボスの意向だの、世間の慣習だのがとかく「客観知識」と見な され、 組織にぞくする個人の主観知識は、 それに添うように調整されてしまう。 あえて言えば、 客観知識とは実は、 「権威 づけられた主観知識」に他ならないのである 。このことを念頭において、ネット社会の集合知の妥当性を考えていかなく
てはならない。
( 西
にし垣
がき通
とおる『集合知とは何か ネット時代の「知」のゆくえ』による)
(注)
1 トマス・クーン ― アメリカの科学哲学者(一九二二~一九九六) 。 2 マイケル・ポラニー ― ハンガリー出身の科学哲学者(一八九一~一九七六) 。 3 クオリア ― 感覚的体験に伴う独特で鮮明な質感のこと。
E
ア が 1 傍線部 ア ~ オ の漢字と同じ漢字を含むものを、次の各群の a ~ e のうちから、それぞれ一つずつ選べ。解答番号は 1 、 イ が
2 、 ウ が
3 、 エ が
4 、 オ が
5
a 人生の キ ロに立つ b フン キ して勉強する ア キ ソン c 持病や キ オウショウがある
d スウ キ な運命をたどる e サイ キ あふれる芸術家 a 今後の キョ シュウが注目される
b イン キョ 生活を送る イ ジョ キョ c 活動の キョ テン d 要求を キョ ゼツする e 新製品のトッ キョ を取得する a 紙の辞書を ケイ コウする
b ケイ ハツ活動を続ける ウ ケイ ク c 得票数をルイ ケイ する
d 電車が ケイ テキを鳴らす
e 飛行機のモ ケイ を作る
a 患者をタン カ で運ぶ b ハン カ 街を歩く エ カ シン c 台風のサイ カ を乗り越える
d カ チュウの人物に取材する e 選挙戦が カ ネツする a 世界 セイ フクを企てる
b 利用時間を セイ ゲンする オ ヨウ セイ c 教育格差をゼ セイ する d チームをヘン セイ する e シン セイ 書を受理する
問
2 空欄
① に補うことばとして最も適当なものを、次の a ~ e のうちから一つ選べ。解答番号は
6
a 観念的 b 絶対的 c 象徴的 d 倫理的 e 哲学的
とを言おうとしているのか。その説明として最も適当なものを、次の a ~ e のうちから一つ選べ。解答番号は 3 傍線部 A 「日本人なら誰しも納得する主張に他ならない」とあるが、このように述べることで筆者はどのようなこ
7 a 明示的、形式的に表現できない知が個人や組織の活動において重要な役割をもつという解釈は、日本では通用 しているが、ポラニーの理論とは相いれないものであるということ。 b 明示的、形式的に表現できない知が個人や組織の活動において重要な役割をもつという日本的な暗黙知の解釈 は、日本の文化の本質を理解したものとは言いがたいということ。 c 明示的、形式的に表現できない知が個人や組織の活動において重要な役割をもつという日本的な暗黙知の解釈
は、人間の知の本質をとらえたものではないということ。 d 人間の知識のなかにある暗黙知が文化の継承や企業の経済活動において重要な意味をもつという解釈は、日本 国内では常識的なものであるが、海外では通用しないということ。 e 人間の知識のなかにある暗黙知が文化の継承や企業の経済活動において重要な意味をもつという解釈は、日本 国内だけで通用するものではなく、国際的にも支持されているということ。
問 知理論」の説明として最も適当なものを、次の a ~ e のうちから一つ選べ。解答番号は 4 傍線部 B 「暗黙知理論とは、単に非明示的な知があるというだけではない」とあるが、ポラニーの提唱した「暗黙
8 a 人間は、対象全体を遠隔項として包括的にとらえながら、構成要素である諸細目が意識から隠れてしまわない よう注意し、認知観察している。 b 人間は、対象全体を近接項として包括的にとらえてから、構成要素である諸細目を遠隔項として無意識に感知 し、認知観察している。 c 人間は、対象の構成要素である諸細目を意識的に注視することと、全体を包括的な存在として感覚的に把握す
ることを組み合わせて、認知観察している。 d 人間は、対象の構成要素である諸細目を近接項として無意識のうちに身体で感知しながら、全体を遠隔項とし て包括的にとらえ、認知観察している。 e 人間は、対象の構成要素である諸細目にまずは目を向けるが、すぐに具体的な形や特徴を切り捨て、全体の包 括的把握に移行し、認知観察している。
つ選べ。解答番号は 5 傍線部 C 「生命的な認知のダイナミックス」とあるが、その例として最も適当なものを、次の a ~ e のうちから一
9 a 久しぶりに自転車に乗るとき、頭で操作方法を思い出しながら運転するのではなく、身体が運転の仕方を覚え ているため、無意識に運転している。 b たくさんの顔のなかから特定の人を探すとき、眼や鼻といった部分の特徴を無意識に感じとりながら、顔を全 体として認識している。 c カーヴしている高速道路でクルマを運転するとき、 熟練ドライバーは直前を行くクルマの動きに注意しながら、
ハンドルやブレーキを操作している。 d 庭を眺めるとき、 一本の樹木に注目することを通して、 庭にある他の樹木や建物、 池などとの関わりをとらえ、 庭全体の景観を認識している。 e 映画を観るとき、時間の経過にしたがって起こる出来事を、さまざまな記憶や身近な出来事と無意識に照らし 合わせながら、映画のイメージを感得している。
問 から一つ選べ。解答番号は う」とあるが、筆者はどういうことを言おうとしているのか。その説明として最も適当なものを、次の a ~ e のうち 6 傍線部 D 「ちなみに関連して、チェスや将棋とコンピュータの勝負について、世間のよくある誤解を指摘しておこ
10
a コンピュータが暗黙知をもつ名人に勝つには、高速なプロセッサと大容量のメモリを搭載するコンピュータだ けではなく、将棋用ソフトを開発する卓越した研究者の存在が必要だということ。 b コンピュータが暗黙知をもつ名人に勝つには、一般的な将棋用ソフトでは不可能であり、研究者によって開発 された卓越したソフトが、名人のもつ暗黙知を有している必要があるということ。 c コンピュータのソフトを開発する研究者が、名人に勝つ将棋用ソフトを開発するのは容易なことではなく、技 術開発のために必要な暗黙知を研究者自身が獲得した場合に限られるということ。 d コンピュータのソフトを開発する研究者が、暗黙知をもつ名人の心に潜入して、名人の技を再現した将棋用ソ フトを開発したために、人間はコンピュータに劣る存在になってきたということ。 e コンピュータのソフトを開発する研究者が、卓越した将棋用ソフトを開発したため、高速なプロセッサと大容 量のメモリを搭載するコンピュータに人間は打ち負かされるようになってきたということ。
問 か。その説明として最も適当なものを、次の a ~ e のうちから一つ選べ。解答番号は 7 傍線部 E 「客観知識とは実は、 『権威づけられた主観知識』 に他ならないのである」 とあるが、 それはどういうこと
の必要性を説いたが、この作業が成功する保証はなく、三人称で記述されている「客観知識」に添うよう社会的 b ポラニーは、複数のメンバーからなる組織における三人称的な知について、対話を重ねることによる「潜入」 なものに構築し集団行動を成立させるには、度重なる対話が必要であるということ。 知識を共有して内面化することは容易なことではないため、社会的組織において疑似的「客観知識」を三人称的 a ポラニーは、 「潜入」という手法を用いて、他者の生みだした知識を集合知として活用する可能性を説いたが、 11
組織に属する個人が自らの主観を調整することが、集団行動を成立させるには必要であるということ。 c ポラニーは、 社会的組織における集合知について、 「潜入」 という努力によって知識を共有する可能性を説いた が、こうした手法が成り立つのは名人と弟子といった関係に限定されるため、社会的組織において集団行動を規 定している 「客観知識」 は、 組織のボスの意向といった個人的なものであるのが現状にほかならないということ。 d ポラニーは、二人の人間がいるときには「潜入」という努力によって知識を共有できる可能性を説いたが、社 会的組織において優先しがちな過去の前例やボスの意向などといった「客観知識」は、組織に属する個人の知識 を共有したものではなく、権威に寄り添う形で調整された主観的なものにすぎないということ。 e ポラニーは、 社会的組織における共通の 「意味」 の発生について、 「潜入」 という努力によって知識を形成でき ると説いたが、その作業が成功するかどうかは定かではなく、社会的組織における過去の前例といった主観的な ものを三人称で記述されている疑似的な「客観知識」とすることでわずかな可能性が生じるということ。
問 うした主観的とも言える知識が集合知としても産出され社会的組織において必要とされているとまとめている。 ーの暗黙知理論を解説することによって人間の認知活動の構造および知の形成について詳しく解説し、最後にこ e 人間の知識は必ずしも客観的な手続きによってみちびかれるものではないということを述べたうえで、ポラニ 組織内での疑似的客観知識の形成方法とネット社会における集合知の活用方法について提言している。 で、ポラニーの暗黙知理論を詳しく解説することによって自説の正しさと汎用性について証明し、最後に社会的 d 科学的な知識は個人が主体的に対象にかかわることで形成された主観的なものに過ぎないと自説を述べたうえ 集合知として社会性を獲得していく経緯について潜入という言葉を用いながら説明している。 取り上げることによって人間の認知活動の特徴についてわかりやすく解説し、最後に個人的な一人称の暗黙知が c 日本的な暗黙知の解釈は非論理的で客観性がないと批判したうえで、筆者が推奨するポラニーの暗黙知理論を ける知の活用方法の違いに触れることで現実社会における人間の主観知識の限界について主張している。 解説することによって人間特有の知のダイナミックスについて具体的に解説し、最後に人間とコンピュータにお b 人間の知識は必ずしも明示的、形式的には表現できないということを述べたうえで、ポラニーの暗黙知理論を 的客観知識を潜入という努力によって社会的組織で集合知として形成していく必要性について論じている。 ることによって知識が主観的かつ包括的なものでしかないということを掘り下げて解説し、最後にそうした疑似 a 科学的な知識であっても個人的要素が含まれるということを述べたうえで、ポラニーの暗黙知理論を取り上げ 8 この文章の内容と展開についての説明として最も適当なものを、次の a ~ e のうちから一つ選べ。解答番号は
次の文章を読んで、後の問い( 問
1 ~ 8 )に答えよ。但し、設問の都合で、原文を一部省略した箇所がある。
それにしても ペ
(注1)ロタンらの曲は、今日の多くの人々にとって、まるで異世界の音楽のように響くはずである。この違和 感にはいくつか理由があるのだが、その最大のものは和声感覚の違いだ。われわれにとって「和音」といえば、たとえば 」が入っていてはいけなか ったのである。ためしにピアノで「ドミソ」と「ドソ」を弾き比べてみてほしい。柔らかい前者の響きに対して、後者は どこか 尖
とがっていてまろやかさを欠く、 空虚なものに聴こえるはずだ。 だが 中世の人々にとっては、 この ― 近代の和声法 では 「空虚五度」 と呼ばれて禁則とされる ― 「ドソ」 の響きの方が 「正しかった」 のである 。 つまり中世においては禁 欲的で 峻
しゅん厳
げんで威嚇するような響きこそが求められたのであって、 音楽は ― われわれがついそう考えがちな ― どこか しら甘美な存在ではなかったのであろう。
おそらくこうした音響が好まれた背景には、当時の人々の独得の音楽観があったはずである。ここで中世の音楽美学に ついて少し触れておこう。まず強調しておきたいのは、中世において音楽は、決して「音」を「楽しむ」ことではなかっ たという事実である。中世を通して広く読まれた理論書に、ボエティウス(四八〇?─五二四?年)の『音楽綱要』があ るが、 彼はここで音楽を三種類に分類した。 まず 「ムジカ・ムンダーナ (宇宙の音楽) 」 は四季の変化や天体の運行などを 司
つかさどる秩序のことで、これには非常に重要な意味が与えられていた。当時の人々にとって「本来の」音楽とは、何よりこ の 「世界を調律している秩序」 のことであった。 そして同様の秩序が人間の心身をも司っているとされ、 これは 「ムジカ・ フマーナ(人間の音楽) 」と呼ばれた。 「音楽」によるこの調律作用が狂うと、病気になったり性格が曲がったりすると考 えられたのである。そして実際に鳴る音楽(これこそわれわれが「音楽」と考えているものなのだが)は「ムジカ・イン ストゥルメンタリス (楽器の音楽) 」 と呼ばれ、 これは三種類の音楽のうちの最も下位に置かれていた (ここには声楽も含
A
まれた) 。 実際に鳴る音楽などどうでもよいものであり、 「本当の」 音楽とはその背後の秩序のことだとされたわけである。
こうした 「音楽は聴くものではない (
という意味で、一種科学に近いものと考えられていたのだろう。たとえばヨハネス・アフリゲメンシスの『音楽論(デ・ において、そしてそれ以後も、真にその名に値する「音楽」 (芸術音楽)とは、現象界の背後の客観的秩序を探求認識する すでに音楽は、 「振動し鳴り響く数字」 であり、 超越的な秩序 (数学的比率) の感覚的なあらわれであった。 おそらく中世 ると一オクターヴ上の音が鳴るといった、 音程比と弦の長さの比率関係を発見したのは彼である 。古代ギリシャにおいて ことができる。その代表は ピ タゴラスであって、彼は数学者であると同時に、音響学者でもあった。弦の長さを半分にす
(注2)⁉ )」 という考え方の源流は、 音楽を数学の一種と考える古代ギリシャにまで遡る
ムジカ) 』(一一〇〇年頃)は、音楽家を「ムジクス=理論を熟知している人」と「カントール=理論なしにただ音楽をす るだけの人」の二種類に分類している。中世の大学で教えられた自由七学科のうち、文法と修辞学と弁論術が基礎学科で あったのに対して、音楽は幾何学や代数や天文学と並ぶより高等な数学的学問とされていたこともつけ加えておこう。音 楽は快楽ではなく、科学や哲学に近いものだったのである。
このような中世の音楽観から考えて、ペロタンらの曲の背後にあったのは「神の国の秩序を音で模倣する」といった意 図ではなかったかと思われる。少なくともそれが「人間が聴いて楽しむ」といったものでなかったことだけは確かだ。た とえばペロタンの曲が今のわれわれにはすべて八分の六拍子に聴こえることは 右
(注3)に述べたが、これにも神学的な理由があ ったようである。つまり当時の音楽はもっぱら、 三
(注4)位一体をあらわす「三」拍子系で書かれたのである(後で述べるよう に、 一四世紀に入って二拍子系が導入されると、 教会から 「神への 冒
ぼう瀆
とく」 として大変な非難の声が上がった) 。 またわれわ れにとってまったく不可解にも思えるのが、低音に置かれたグレゴリオ聖歌である。これらのおそろしく引き延ばされて 唸
うなりをあげる音の振動を聴いて、 それが聖歌だと分かる人などいないだろう。 「聴いて分かりもしないものをなぜ?」 うのが、近代人の音楽観のはずである。だが当時の人々にとっては、人間が聴いて聖歌をそれと分かる必要などなかった
B
に違いない。耳で聴こえるものの背後に、神の秩序(聖歌)が確かに存在しているということこそが、彼らにとっては重 要だったはずである。
音楽の背後に超越的な秩序を作りたがるこの傾向は、われわれがよくなじんでいる「クラシック」のレパートリーの音 楽にとっても、実は無縁ではない。 バ
(注5)ッハが好んだ数の象徴、 シ
(注6)ェーンベルクの一二音技法、あるいは バ
(注7)ルトークの黄金 分割等々。こうした西洋芸術音楽独得の数学的な思考法を端的にあらわしているのが、 ト
(注8)ーマス・マンの小説『ファウス トゥス博士』の中の一節である。これは作曲家(モデルは ニ
(注9)ーチェだともシェーンベルクだともいわれる)を主人公にし た長篇小説であり、 そこでマンは登場人物の一人であるクレッチュマルという音楽教師に次のように語らせている 。 音 楽 は「耳 に 訴 え る」 、と は よ く 言 わ れ る こ と で す が、そ れ は 条 件 つ き で、す な わ ち、聴 覚 は、他 の 諸 感 覚 と 同 じ く、精神的なものに対する補充的な中間器官、受容器官である、という限りで認められることに過ぎません。おそら く、とクレッチュマルは言った、聴かれず、見られず、感じられず、出来ることなら感性の、そして情念の彼岸で、 純粋に精神的な領域で、理解され観照されることこそ、音楽のもっとも深い願望なのです。 (円子修平訳)
ち な み に 一 九 四 五 年 に シ ェ ー ン ベ ル ク は、マ ン の 七 〇 歳 の 誕 生 日 を 祝 っ て、非 常 に 複 雑 な カ ノ ン( 《四 声 の 無 限 の カ ノ ン》 )を献呈したが、これについて作曲者自身「ほとんど演奏不可能」と述べた。 「音楽は必ずしも耳に聴こえる必要はな い (音楽は現象界の背後の数的秩序だ) 」 という特異な考え方こそ、 中世から現代に至る西洋芸術音楽の歴史を貫いている 地下水脈である。
ここでもう一度中世音楽の「歴史」に戻ろう。これまで触れなかったが、地域的に見て中世音楽とは、ノートルダム楽 派に限らず、何よりまずフランスの音楽であった。中世はフランス音楽の最初の黄金時代なのだ。 ド
)(注(注
ビュッシーや ラ
)(((注
ヴェ
C
ルの作品にはしばしば「 古
アンティーク風 な……」という表現が見られるが、これらは中世音楽へのノスタルジックな回顧だと考え ていいだろう。また〈沈む寺〉 (《前奏曲集第一巻》一〇)の冒頭もオルガヌムを模倣している(ドビュッシーに中世音楽 に対する学術的な知識があったはずはないが) 。この中世フランス音楽が 爛
らん熟
じゅくの時代に入るのが、一三、四世紀である。
中世後半の時代の中心となるのが、オルガヌムから生まれたモテットというジャンルである 。これは三声から成るのが 普通で、グレゴリオ聖歌を低音に置き、その上に自由に考案した旋律を置くのはオルガヌムと同じなのだが、上にのせら れる旋律がフランス語で歌われる点が違う (「モテット」 の語源はフランス語の 「言葉 〔 mot 〕」 といわれる) 。 初期のモテ ットは、低音に置かれたグレゴリオ聖歌の内容を、俗語のフランス語で注解した歌詞をもった旋律を上にのせていたらし
い。当時の一般大衆はラテン語が分からなかったからである。だが後になるとモテットは、今日の目からはほとんど荒唐 無稽とも見えるパロディ芸術へと発展した。 《中略》
川柳を持ち出すまでもなく、パロディとはある文化が爛熟した時期に生まれるものであるが、力や壮大さではなくミニ チュア的繊細や洗練を追求するという点でも、モテットは典型的な爛熟期の芸術だといえる。響きは非常に親密になり、 技巧的でおそろしく凝った装飾的な動きが増え、 妖艶な甘さが音楽に漂いはじめるのである。 《中略》 相変わらずグレゴリ オ聖歌を低音に置いているとはいえ、これはもはや宗教を口実にした世俗の音楽(人が楽しむ音楽)であって、それを楽 しんでいたのはたぶん、宮廷人 や ア 刹那的 な 快楽に身を任せる一部の 不
ふ埒
らちな聖職者であったはずだ。
ちなみに中世末期の音楽といえば必ず目にするのが、 「アルス・ノヴァ」 という言葉である。 これはフィリップ・ド・ヴ ィトリ(一二九一─一三六一年)の『アルス・ノヴァ』 (一三二二年)という理論書に由来するのだが、くれぐれも誤解し ないでほしいことがある。 今風に訳せば 「アルス・ノヴァ」 とは 「新しい芸術」 となるわけだから、
① こ の 三二〇年あたり)から新しい芸術の夜明けが始まったような錯覚をしがちなのだが、実はこれがとんでもない間違いなの である。そもそもヴィトリの書物の正確なタイトルは『アルス・ノヴァ・ノタンディ(記譜法の新しい技法) 』であって、
D
。
、 イ 一筋縄でいかない 知的遊戯の性格と、 贅
ぜいを凝らした装飾性(演奏 頽
たい廃
はい的な甘さの点で、独得の魅力を 湛
たたえている。 か し な が ら、 「芸 術 の 自 立 / 自 律」が 自 明 の 今 日 に あ っ て は「た か だ か 二 拍 子 系 の リ ズ ム を 導 入 し た く ら い で ど う し と ウ いぶかしく 思われるかもしれないが、このヴィトリの新理論は当時の宗教者たちの 逆
げき鱗
りんに触れ、その是非をめぐ 音
スペクルム楽 の
・鏡
ムシケ』(一三二三/二四年)という本で、同時
教 皇 庁 か ら、こ う し た 音 楽 を 禁 止 す る 命 令 が ヨ
)(注(注