熊大教育実践研究第
51号.
.63-1531 8991実践報告
ミュージカル「飛ぶ家』をアナリーゼする
渡 邊 學 * A
n a l y s i
s Musical f o “ n g y i F l Home"
Manabu W A T ANABE
( R e c e i v e
d N ovember 41 , )7991
は じ め に
ミュージカルは音楽の各領域を統合し,子どもの 表現媒体のあらゆる側面(音楽に限らず)にまで関 与するとともに
r動き
j r即 興
j r環境音
j r手作り 楽器
jr 民族音楽」といったギーワードりの最後にあ ってそれらを集約する.そしてさらに他教科との融 合,いわば合科の核ともいうべき位置にあり,時間 的メディアとしての音楽において究極の到達点をな すそれであるともいえよう.
それらのコンセプトあるいはその因ってたつ論理 については過去に相当の時間とスペースを割いて世 に問うてきたし刊音楽教育に関するレクチュアを はじめ,またそれを裏付ける根拠としてのセツシヨ ンを重ねてきたつもりである叫
一方,今日の音楽教育の現場を振り返ってみる時,
過去に学習指導要領に“創造"の語が見られなかっ たことがなく,さらにすでに
02年以前より“作って 表現する~式"の創造教育が全国的視野で提唱され てきているにもかかわらず,依然として合唱・器楽,
あるいは読譜カなど技術の向上に終始する現実のみ 多いのはここ熊本周辺だけではないようである吋.
そこで,子どもたちを厳し{過ぎる)いスキルの 訓練に目標を置くことの呪縛(
!)から解き放ち,
聞かれた心で,あらゆるメディアをもってする自由 な表現の集合体としての「音と動きによるドラマ」
を,ステージ・プロジェクト天然木
5)制作のミュージ カノレ「飛ぶ家
J4/79'(・
7・
8月公演)の分析を通し て,今日の子ども達といっしょにする音楽の有り様 を探りたい.
自然に動く 何故音楽に「動き」か?
'音楽科
強制されるのでなく,リズムにのって自然に身体 を動かすのはだれしも快いことであるが,かといっ てなにも刺激せずには踊ってくれない.もっとも基 本的でしかし一般に行なわれてこなかった(わが国 では)のが「動き」についてのゼツションであろう.
しかしこの「動き」なくしてはミュージカルは成立 しにくいし,実は音楽も成立しないということに案 外無頓着できたのがわが国の音楽教育であったとは いえまいか.特に小学校レヴェ
Jレにおいて
ζそ,音 楽が子どもにとって聞かれた常に快適なそれである ための,自由に動ける状態,心とともに身体をもゆ り動かすことの出来る環境に置きたい.またそのた めにこそミュージカルをめざすといっても過言では ないのである.
それにはやはり事前に(事のはじめに)ウオーム
-153-
渡
i袋
アップとしての遊びが必要であろう.それもお義理 でする体操(? )ではなく,自ら進んでする「動き」
であるためには「遊び」でなくてはなるまい.音楽 は所詮遊びであるともいわれるが,また子ども自身
もそう思
lいたいのであっで,それは決して罪ではな い.むしろ音楽を仲間として親しく思うととのあら われといってよかろう.充分時間をかけて「遊び」
と取り組み r 動き」を伴うあらゆる遊びを(子ども と一緒に)集めて実際行なうし,行なえる条件を整 備したいものである.そのためには音楽室には相当 自由に動き回れる空間(フロアー)が必要であって,
階段教室は危険ではないかとさえ思えるのである.
そして,それら「動き
Jを誘い出す「遊び」の数々 は実に無限であり,子ども達は“遊びの天才"であ るからして大部分子どもを主役とし,おとなはいか にそれをリズム(ビート)にのせるかについて考え るだけといってよいであろう.そうすることによっ て,あるいはその延長線上に音楽劇が自然と浮き彫
りになってくるのではなかろうか.
『飛ぶ家』における「動き」について
天然木では舞台上の子どもの立ち方について絶対 的位置を指示するようなことはなく,演技している 子ども達相互の位置関係を考えさせるようにしむけ ている.つまり観客全体に向かつて自分がどう対す るかより,傍に居る演技者に対してどう位置するか の方が子どもにとってずっと考えやすく自然であり,
大人側からもそういった視線で見る必要があろうと いう判断といってよかろう.
立ってもいい,座ってもいい,歩いてもいい,そ の時やりやすいようにセッションの度に机・椅子の 位置・数をも変える.誰がどこでどう使うかその都 度違う.
川はどこにあるのか,窓は, ドアは(パントマイ ムで)いろんな場所をためしながら,皆で,自然に 演じられる(または見える)位置を探していく.ま たどんな場所でも,その場で対応できるように,周
りの演技から自分の演技を判断していくのである.
たとえば第二部での
(のぞみ) r おばあちゃん 乙こにもきのこ生え てるよ」
(家) r ばあさんこの木に生えてるきのこは食べ られるのか
?Jのところでどこを指してもいいが,その時に舞台空 間の中でのバランスを計りながら場所を選ぶ.人と
宰
人とが重ならないように,大きな人が小さな人の前 に立ちはだからないように,また特に座る演技には 気をつけるーーなど,子どもが自分で判断できるよ
うにはなっている.
上手から入るか下手から入るかさえも指定しない.
どちらかの必然性はセッションしながら見えてくる が,どちらであろうと,それに反応することがより 重要である.
人は普段棒立ちで話すことは少ない.座っていた り,立っていてもなにかによっかかったり,どこか に体重を預けていたり,または何かをしながら,身 体のどとかをさわったり動かしたりして(ものを持
っていたらそれをいじったり)話す.舞台上では現 実より物が少なく条件が悪いが,その中で少しでも 自然に話せるように,必要最小限の小(大)道具を 用意し,またパントマイムにより r l } l 原のシーン」
「ベロネの部屋のようす
Jr 風の運送屋」などのイメ ージをどこまでもふくらませ(自然な動きを引き出 す)ながら,その世界でリラックスできるように手 助けしていく.
踊りに関しては現在だれも嫌がる者はいないが,
つい最近までは好きでない(進んでしたくはない)
者が 2~3 人はいた.しかし舞台に上がり皆と一緒に踊らなくてはならない場に何回か立たされた結果 として,やはり身体を動かす楽しみを知ったという のであろうか,まったくの拒否反応は示さないレベ ルにきているといってよかろう.このことは何事を
も決して強圧的にさせることのない天然木としては 実に貴重な成果であって,すべてのパフォーマンス の原点をなすといってよかろう.
楽譜に頼らずに歌い・弾く 即興的にするということ
遊ぶときにテキストを見ながらあそぶ子どもはい ないであろうし,もしあるとするならばテキストそ のものが「遊び」の対象となる場合であろう.すな わち音楽でいうならば,楽譜のような約束事を作っ て遊ぶ図形楽譜(グラフィック),一一外で拾い集め た木の葉や実を床にならべてそれを楽譜に見立てて 自由に即興的に音を出してみる など.
ここではあらかじめ決められた歌やセリフを憶え てするのではなしその場で創造的に(あるいは想 像的に)語り・歌っていきたいのである.あらかじ めストーリーを話し合って標概は皆の共通意識とし て持った上で即興的にセッションするのであるが,
ここでも「遊ぴ」の時のようにあくまでリラックス
ミュージカル「飛ぶ家』
し,さまざまな歌やセリフ(踊り) ,そしてリズムが 涌いてくるるような雰囲気を高めたい.すなわちこ
こでいうミュージカルはオリジナルなそれであって,
既成のものを憶えてするのではないことをまず前提 としている.
天然木での「飛ぶ家
Jの場合
公演の日も迫っていたゆえテキストはスタップの ほうで(教師側で)呈示し,歌もある程度作ってか ら口移しで伝え,しかし子どもの志向するところに 従い自然に出来あがっていくといった方法をとった.
その問ー度も音符と関ったことはなかったが,十分 ハモッたしカノンにもなっている.むしろ耳だけに 頼ったが故にはやく合唱的な仕上がりをみせたとい
ってよかろう.即興的に三度で,あるいは五度・四 度で歌う感覚が備わってきたという意識が楽譜を見 てする場合に較べてよりいっそう確かに感じられる ようである.
そのことは楽器演奏に関しても全く同様であり,
スタップも子どもも一切楽譜というものと縁が無か ったといってよい.客観的にみると抜群の記憶力と いってよいかもしれないが,この乙とは実は文字と ことばの関係に似て,もし文字がなければ言葉のみ でコミュニケーションが行なわれ,とくに間違って いるとか正しいとかいうことなしに会話がおこなわ れていくに等しいとさえ思われる.そこでは記憶力 とはいっても日常的な会話をかわす上での語誌に似 た程度のものかとも思われる.
しかしなによりも楽譜にむける視覚神経をすべて 聴覚にまわしたという意味での省エネは大きい.
シ ナ リ オ に お け る 普 遍 性 市飛ぷ家
1の言おうとするところ
一体これから上演する劇のテーマを何にするか?
という問題はそのプロジェクトにとって最重
要課題であろう飛ぶ、家』においては現代における 社会や家庭,そして地球規模といってよい人間の生 きる上での哲学と真正面から取り組み,一つの結論 を出しまさにそれを実行しようとすでに歩みだした 自信といったものがあふれでいる.それでいて子ど ものもつ初々(ういうい)しさとファンタジー,好 奇心・官険心・科学的追究心,さらに中途辺りから タイムリーに発揮されるユーモア・奇抜さは小気味 よさを感じさせるものがある.
さらに詳しく述べるならば,先ず最大のテーマで ある家が“飛ぶ"ことであるが,あまりに忙(せわ) しなく過ごしているサラリーマン家族の現実を,そ こから逃避するというよりも,風の運送屋によって
“ムダを切り捨てる"という解決方法に代表されると ともに,そのムダが実は矛盾だらけの都会生活の物 寂しさの根源をなし,コンクリートを突き破って育 つ果樹園作りや,運動場をトラクターで掘削するこ とに象徴し,教育のマンネリズムへも一石投じる 等々,作者が「りゅう&チャコ」時代
6)から示してき た現実を見据える眼にますます方向性が定まってき たといえよう.
しかもそれら現実への眼差しだけでなく,ジヤツ クと豆の木をカヴァーして(古典的メルヘンタッチ の)人間の物欲への警告と見せて,時間とエネルギ ーという超!科学的判断,そしてふるさとの森の住 人の聞に伝わる言い伝え,知恵者ペロネ婆さん,虹 の染め物(実際にする草木染めによって)に成功す ることとともに,それらを通して家族の真の和合に 達するという大団円(? )を演出している.
何によって感動を得るのか?
以上,子どもがある程度時間をかりて上演までも っていくそれとしては,役作り(という学習)にじ っくり取り組む子どもなりの思考や期待に十分応え 得るもの(大人も)であったといえよう.
熊本での三回の公演,あるいは見に来られなくて ビデオを見た人の大部分が感銘を受け,新鮮な駕き を示したという確かな手応えが返ってきている.つ まり“子ども達に何を残すか"といった視点、におい てである.
会とてもすばらしい公演を見せていただきあり がとう.とても感激しました.家族のこと,
自然の大事さ,年寄り,大人から子どもに伝
えなくてはならないことが,このミュージカ
ルをとおして教えられた気がしました.私も
年寄りからおそわり,知っていることは,全
渡 遊 撃
部子どもに教えてあげたいと思いました.ミ ュージカノレをしている子どもたちがニコニコ して歌い踊り語っている姿をみて圧倒されま した.との自然の多い清和で育っているうち の子どもたちはしあわせだな,大人になって 清和をはなれる子どもたちが,自然,家族の ことを, ミュージカ
Jレを思い出してくオもるこ とだと思いました.うちの子どもたちも,日 をまるくして見ていました.見に来てよかっー たです.ありがとう. (清和村・松本・)
~ 原 文 の ま ま ~
会
~ 前 文 略 ~ ビデオさっそく見ました.す ごく長いミュージカルを子どもたちよくやっ たね.最初,学芸会劇的なのが内容と共にど んどんひろカまっていって,みてる方はどんど ん入っていきますね.その中でたあこの染は 充分役割をはたしてるね.染めてる人にとっ てはたまらない内容のミュージカルですね.
たあこが草木染めにこだわりたかった気持ち ょーくわかります.一見発色の良いサテンや らケミカル染めの方が説得力ありそうですが,
時間や人の手がかかる分,色がちゃんとうっ たえてくれます. (私はそう思いました)こう いうミュージカルを全国の子どもやいそがし いお父さん・お母さんにもゥともっと見ても らいたいですね.わたしもビデオを飛ぶ t , デ . オにしてまわします.とのミュージカ
Jレと草 木染めは切り離せない!ティピの照明とかも
よかった.タイコ,ザップママのようなコー ラスどっきりしました.よかった.子どもは すごいね
1いろいろと書きましたけど よか った!
~ 後 略 ~ 後者はビデオだけで見たスタッフ(草木染めを担 当した)の友人からの感想であるが,誰もが心の隅 に,あるいは腹いっぱいにおもっている,昔から伝 わっている古い良いもの,中でも自然をそのまま残
したいという願いに触れるものがあるようだ.
ドラマの構成と音作り
劇的構成に従って音が作られて行くことはミュー ジカ
Jレであるからして当然のようなものであるが,
ドラマとしてでなく単に器楽曲・声楽曲として演奏 される作品にあっても,その曲に内在するドラマを たしかにとらえて音にするととによって説得力ある
演奏を導きだすことが出来る.
そういった演奏における劇的発想をより明確に演 出し,集団でするディナミークやアゴーギクを焦点 化するといった技術的な問題のみでなく,そこで発 せられるどんな音をも意味ある音としてとらえるセ ンサーを,“ミュージカ
Jレ"あるいは“音と動きによ るドラマ"の体験が養うに違いない.そこではまさ に“~を表す"音が抽出され,子どもに解りやすく 具体的に提示されるという意味においてである.
劇中歌・音楽・ダンス(動き)の構成 一劇中歌一
(第一部)
~ 音 楽 ~ [動き]くダンス〉
[
S].l
r 干柿のネックレス」 [のぞみと母]
~あなたのネックレスは~
くのぞみと母>
[M 1. J~家が廻る(飛ぶ)~[M2.J~古さとの森(泉へ)~
[ S 2 .
J r 飛ぶ家」
~お父さんこんなに疲れてる~
くのぞみと母〉
[ S 3
. J r 何でも知ってるベロネ婆さん」
~大人になって~
く母・のぞみ・家・ベロネ〉
(第二部 J
[ S 4 .
J r 風の運送屋」
[M3.J~ 父の太鼓(アコ)~
[家/即興の踊り]
[M4.J~光の娘~
[弾ける踊り]
~ 風 の 娘 ~
~ウインド・エクスプレス~
〈風と
2人の運送屋〉
[要らない荷物を外へ]
[M5.J~}11 原にて~
-156-
ミュージカル『飛ぶ家也
[M6.J~魚獲り~
く火の精達> [M7.J~火の精達の踊り~
(第三部)
[ S 5 .
J
r退屈しているおかみのロック」
~あああなんて退屈なんだ~
〈退屈しているおかみ〉
[大男のおかみと大勢の踊り]
[ S 6 .
J .r
運動場を耕す歌」
~可愛い娘が困っていたら~
〈ハーちゃんとその父母>[トラクターと豆まき]
〈子ども達>
[M8.J~ のびたのびた豆の木~[ S 7 .
J
r権力者グループ」
~けんけんけん権力者~
[権力者達の登場]
[ S 8
.
J
r三つの宝
J~3 つの宝,人食い大男の宝~
[ 3
つの宝達の踊り]
< 3 つ の 宝 達 > 以 下 何 回 も 繰 り 返 し 出 る )
[S 9
.
J
rどんどんのび、る」
く全員による歌と踊りと合奏>全員の踊り]
(第四部)
[M9.J~収穫の踊り~
[ 4 人の踊り]
[ S l O .
J
rムカニエ」
~カグ
Pルカラーラ カムェーネギトロロ~
く 全 員 合 唱 > 木 の 娘 の ソ ロ ] スピーチ「自分の未来について」
(クジであたった
2人) (第五部)
[ S
l . 1 J r水の歌
J (ヴォカリーズ) く水の娘〉
[MIO.J~泉の傍で~
詩{今日は死ぬのにもってこいの日だ}くべロネ〉
[ M l l .
J
[M12.J~虹色の染め物~
[ 5
人の妖精達の踊り]
[ S 2
.
J (フィナーレ)f飛ぶ家」
~お父さんこんなに疲れてる~
〈全員〉
以上,第一回公演のシナリオによっているが,第 二 ・ 第 三 回 に は 大 幅 な 改 訂 が 行 な わ れ て い る 後 述 ~
ストーリーの展開に基づく音や動き 話は五部に要約できる.一・二部では母と父それ ぞれのグループが自然なるものを求めて旅するが,
第
3部での諮謹の大転換を経て,四・五部に帰結す 右.虹色の染め物が森の妖精たちの援けで完成し,
一家は改めて家族愛の鮮を認識させられるーーと いった,現代の都会での家庭生活における矛盾を正 視して考えぬき,ひとつの解決を見出ださせる構成 を築きあげているといって良かろうか.一ーすべて を文字に括ることは到底不可能ではあるがその至難 さを覚悟の上で,以下順をおっての分析を試みてみ よう.
・第一部
家の精が登場する前の〈母とのぞみ(
5才)の対 話),前奏曲(序曲?)といったものはなしきわめ て自然で日常的な,軒に干柿を吊す母とその傍らで ビーズのネックレスを作っている少女との会話では じまる.ピアノと日ギターにのった親子の二重唱.
E
.
ギターが目が回り家が飛ぶ不思議な感じを出す.
[
S
1.】干柿のネックレス・・・・(のぞみ・母)
~私のネックレスはきれいなビーズでできてる あなたの
Mは赤い柿の実で
刀ララララララララおしゃれしてどこいくの 干柿
Jのネックレスがよく似合う家~
歌いながら踊るうちに少女は目が回り,家が廻っ
ていることに気付くが,そこへインデアン風の衣装
をつけた家の精が登場し,子どもは干柿のネックレ
スを見て家(の精)とすぐわかる.何時の間にか家
が飛んでいて
r生きている家は空を飛ぶ」と告げら
れるが,それがどんな家か
r最近は殆どの家が死ん
渡
iを
でいる」ともいう r 何処へ行きたいか」との聞いに 母は「おいしい水のあるところ」と答える(汚染さ れた都会の水を思い起させるに家のふるさとの森の 中にある泉へと飛ぶ.
家が飛ぶテーマ【
M1.],泉の傍へと誘うテーマ
仏1].2へといずれも即興のピアノで流れ,知恵者ベ ロネ婆さんの登場.茸の食べ方とともに薬用,そし て“枯木の腐るのを扶ける茸"のことなど自然の生 成について教えられて家に帰る.
家が飛んで森へいった話をするがだれも聞いてく れない.がっかりするのぞみを慰めて歌う二重唱
【 S 2 . 】飛ぶ家
・・・・(母・のぞみ)
~お父さんこんなに疲れてる いつのまにかすれちがう心と心
こんなに不思議な出来事だから ゆっくりゆっくり話
Lたい この子が大人になる前に みんなで一緒に話したい
この家は飛ぶのよ わたしたちの家が はてしない宇宙をいく鳥達のように この家は飛ぶのよ わたしたちの家が はてしない宇宙をいく青い星のように~
乙うしていつも森へ飛ぶようになった母と娘の気 持ちを歌う.アコーデオンが加わり軽くまた明るく なる.
染め物にあたっての森の妖精たちの気紛れ等,こ こで歌われる四重唱はこのミュージカ
Jレのキーワー ドともいうべき重要な言葉“学校では教わらなかっ たもっと大事なこと"“この染め物の中に森を分けて 貰おう"がうたわれる.
【
]3.Sなんで・も知ってるべロネ婆さん
・・ (母・のぞみ・家・べロネ)
~大人になって母親になって
知りたくなってきた もっと大事なこと 学校では教わらなかった
もっともっと大事なこと~
なんでも知ってるべロネ婆さんなら ず、っと昔から どこへ行っても 変らない大事なこと
母「まあ,きれいな花.
Jベロネ「虹の花じゃ
. ζれで染め物をし ようと思つてな.
J母「虹色の染め物!私も一緒にやらせて ください.
J~生まれては消えていく森の色 ほおっておけば枯れていく虹の花
撃
この染め物の中に ほんの少しだけ 森を分けてもらおう
そして私も森になろう
なんでも知ってる ベロネ婆さんなら ずっとむかしから どこへ行っても 変らない大事なこと~
そしてさらにベロネ婆さんのいう“その色を染め たのはわしら人間ではない"も非常に象徴的な言葉 であり
,自然の力の大きさ・人間の慢(おご)りへの戒めでもあろう.
・第二部
そんなある日,学校から帰った長女と長男は母達 が不在の上,部屋の真ん中にひとり座っている家の 精に出喰わし慌てて会社の父を呼ぶ.急ぎ帰宅した 父は妻と娘の居場所を訪ねるが r ここに居るが貴方 たちには見えないのだJr それは貴方たち自身の力ても い・」と意味深なことを言い r 家を回せ」という.
即興でする太鼓またはアコーデイオン(キャストに よって)の演奏を求め【
M3】,みように楽器を大切 に思う父親に向かつて大事なのは楽器よりもあなた の「音楽」ではないのかと,音楽をすることへの厳 しい言葉を吐く.家は父の即興に合わせてやはり即 興で踊る.
【
M3 .】に合わせて踊り意気投合した父と家.乾杯 の梅酒に酔って目が回った息子により家は回り(飛 び)はじめる.【
Ml】
飛んで旅をしはじめた父と子等が先ず出会うのは
光【
M4.】と風の娘【
4S】の軽くユーモラスな動き
と歌であり,前者は独特の個性をもってする弾ける
ミュージカル『飛ぶ家』
ソロダンス(空缶を打ち鳴らすユニークなアンサン プ
1レで) ,後者は運送屋とともに
3人またはステージ 上の総踊りによってする非常にオドケた幼年児の魅 力溢れたダンスを伴うが,この辺りからステージは 次第に賑やかになり,その広さに応じてダンス(全 員での)も手のとんだものになったりもした(第三 回)し,家の中にある不用な物を捨て去るには相応 のエネルギーを要する.
【 S4. 】風の運送屋・・・・ (3 人の風の精)
~ウインド・エクスプレス ぽくらは風の運送屋 どんなものでも運びます たとえばやさしい川の音 あなたにとって大事なもの ほんとはとっても大事なもの でもまだ気が付いていないもの ぽくらがあなたへお届けしましょう ウインド・エクスプレス
ぽくらは風の運送屋 どんなものでも運びます たとえば冷たくかたい箱 あなたにとっていらないもの ほんとはちっともいらないもの でもまだ気が付いていないもの ぽくらがあなたへお届けしましょう~
(本当に要るものと要らないものを区別する)
【
M5. 1】
')原にて(第二回ではここ夕日の場面には 美しいフルートが入る) ,魚獲り【
M6.】,そして
【
M7.】火の物語と即興ピアノによって綴られる自然 との交流.この辺りは回を重ねる毎に互いに相い前 後し,様々な形で第三部の物語りへとつなげられる.
【
M7.】水を背景とする火の踊りは火の神秘さととも に,ヴィルトゥオーゾといってよい即興ピアノにの って相当エネルギッシュ,そして灰かな恋心の芽生
えを象徴するかのようにみえる場面の故かややシリ アスなピアノ演奏で括っている.
・第三部
場面は突然,大男(ジャックと豆の木)のおかみ のブルース調の歌(第一回のみ 二・三回では劇 中劇の中に組み込まれる.特に第三回では
3人で歌 われる)は後半のロック調に備えてオルガン(ハモ ンド)で伴奏される.
【
.5S】退屈しているおかみのロック・・・・
(おかみ)
~あああ,なんて退屈なんだ こんなに広い空の果て
ぽつんとひとつ一軒家 それが我が家 誰か遊びにきてと言いたいところだけど
こんなとこ来ちゃいげないよ いくらあたしが退屈だからって
誘っちゃいけないんだ だってだってだって うちの亭主は あのジャツクと豆の木の人食 い大男さ
うちの亭主の大好物 ノトさな男の子の丸焼き はさんだサンドイツチ
ああだれか命がけで私に会いにきて 命の保証はないけど私に会いにきて~
「うちの亭主は」からロック調に変わり,最後「イ エーイ!
Jと掛け声とともに全員踊り廻る.
雲の上で退屈したおかみのところへ訪ねてきた父 グループはおそるおそる大男のところに泊めて貰い 次のような話をきく一一アスフアルト・ジャングル に最近少し緑が増えてきた,そのワケは
下界での話, (以下第二・三回公演では劇中劇とし て)運動会がなくなればいいと思っている女の子ハ ーちゃんの家
r任しておけ」と父親は運動場を一晩 で耕し,母と娘はそこに種をまく.
運動場を耕す歌<ハモンド
.Org(第二・三回+太 鼓)の陽気なリズムにのって>
[S6. 】(父)~可愛い娘が困っていたら
なんとかするのが親ってもんだろう
ららららら 燃える男はトラクター ららららら 俺は土を耕す 明日に向かつて どこまでも遠く遠くその身体を横たえる土 いつまでも深〈深く土よ患を吹きかえせ
(母)ららららら 果物の種をまきましょう (娘)ねえお母さん乙の豆何の豆?
(母)さあお母さんそんな豆知らないわ (娘)ねえお母さんこの豆きっと ジャック
と豆の木の豆だ
ー上
渡 漫 筆
(皆)植えましょう 昼下りに
J1 rハープよ歌え」刀
お楽しみに お 楽 し み に ~ 夜寝る前に
JIrさあ,金貨を数えよう
J ~この歌は「果物の種をまきましょう ~J と自由に 金の卵を生む鶏とハープ,そして金貨は,先の風 変っていくが,いわばふたつの歌が自然に合体した の運送屋とともに
6才児による愛らしさを生かした といってよいであろう
.三重唱く軽快なハモンド伴奏(第二
・三回では鉄琴その種の中にジャツクと豆の木の種が交っており,
一晩で雲の上まで伸びるまでに,子ども達や話のわ
かる校長先生によるいくつかのエピソードが,ピア ノ即興
[M8. 】にのって演じられるが,それを登つで大男の宝を手に入れようという権力者とその子分 が現われる(第一回). (オルガンによるセンセ
ーショナルな前奏にのつで)
【S7. 】~りんけんけんけん権力者~
登った
3人組はあちこち家捜しするが宝は見つか らず,たまたま居眠りする大男の鼻提灯の中に隠さ れていることを発見する.
【S.8 ] ~ 3
つの宝,人食い大男の宝
朝一番にご主人様が 「卵を生め」と申される
も入る)>,そしてパフォーマンスで鼻提灯とともに 出たり入ったりするが,割れるのを気長に待つ三人.
一方地上ではぐんぐん伸びる果樹園の四季が全員 でエネルギシュに歌い踊られる
.(太鼓・アコ・ピア
ノっき) 【.9S ]~どんどん伸びる 芽が伸びる
運動場の芽が伸びる あっという聞に伸びていく 運動場が森になる
どんどん過ぎる過ぎていく
春夏秋冬過ぎていく あっという聞に過ぎていく 四つの季節を繰り返す
春 はっぱの赤ちゃん目を覚まし 夏 小 さ な 小 さ な 花 を つ け 秋 大 き な 大 き な 実 を 結 び 冬枯葉は静かに散っていく
春 あんずを摘んでジャム作ろう 夏 梅 干 し 梅 干 し 赤 く な れ 秋ぶどうを踏んでワインの仕込み 冬 きんかんたいて風邪薬
どんどん肥える 土が肥える はっぱが落ちて実が落ちて あっという聞に肥えていく 豊かな土の工ネルギ
一広がれエ ネ ル ギ ー 広 が れ エ ネ ル ギ ー 広 が れ 運動場から町中広 コンクリートを突き破れ
ららららら あっという聞に森になる 町 中 が 森 に な る ~
中聞にエピソードとして春・夏・秋・冬を叙情的 に歌い込まれるが,子ども達によって作られたそれ ぞれの「踊り
」が挿入される.以上,第三部は曲ががらりとプルース調に変わる
.ロック風の総踊りに始まり,そして運動場を耕すト ラクター,欲に眼の舷んだ権力者と鼻提灯の中の宝 達 一 一と, (ある文化ジャーナリストの言を借りれ ば)“底抜けの明るさ"で,実は人間の醜さをも含め ての真実を語っている.そして最後に大男の宝は夢 の中のものであったこと,しかも昇提灯というなん
ともきたないパフ。ルであったという皮肉とともに,
それを待ち続けた権力者逮は鼻水バブルに一回一年 という時聞を吸い取られ,すっかり年をとってしま いもラ宝などどうでもよくなっている.そして「ど
-160
一
ミュージカル
r飛ぶ家」
んどん伸びる」というエネルギーに昇華されていく.
実は三つの宝は大男の夢であって,ジャックに宝 を奪われでからの大男は律儀でマメな亭主になった と述懐するおかみ.物欲への執着を明るく風刺して いるといえよう.
・第四部
下界の果樹園に降り,母の消息を尋ねる父子は翌 日の収穫祭にくるようすすめられる.
一夜明けての収穫祭
【
M8.】どこかヨーロツパ近郊の民族舞曲を思わす 軽快なリズム(ピアノとアコ)に子ども達がつけた
「収穫の踊り」はいつも観客から圧倒的な支持が得ら れる. (第三回では第三部の始めに持ってこられ,し かも
4人のみでなく他の妖精や人間違も一緒になっ て踊る.)
,..主宰E室長~ー一
ー ・~也ーτ;;:'-~F診 ー'
つづく「ムカニエ」は大曲である.頻出する完全 五度・大胆な対位法(リズムも)・変拍子
.cteふる
さとの村を讃える歌,祈りの歌ということになって いる.
[SlO.J~ カグノレカラーラ カムェーネギトロロ~
ND]E MUKANIE
(マリー・ド
1レヌ作曲)
~CD「ザップママ」より~
↑ (アフリカにルーツを持つベルギーの女性
5人のア・カペラ・グループ)
3
つのピグミー部族の歌を混合して対位法的に 作られている.完全
5度・
4度の自然な共鳴,
3
つの違う拍子感のメロディーを合わせること によりポリリズム的うねり音をたのしめる.自 分の音(小さな世界)が皆の音楽(大きな世界) へと広がる.それも楽譜を通す事無く耳でわか
るはんいでわりと楽に.
民族音楽の持つ誰にでも共通して感じられる,
やさしい・気持ちのいい重なり,リズムのずれ,
うねり等・・・・.子ども達が乙の曲を通してどん
な曲をもハモったりずらしたりして遊べるよう になってきた.
歌の聞に無作為に選んだ子どもの“将来の自分"
というメッセージがはいり将来も自分はこういう ミュージカルをやっているだろう
Jという言葉に妙 に感動させられる.
ムカニエの合唱とともに舞台中央のティピの中か らはじめシルエツト(第一回のみ)で,そして外で ひたむき踊る「森の妖精」はもうすぐお母さんに逢 えると予言する.父グループはその予言を信じ,
【
J.llS水の歌(ヴォカリーズ)<水の娘>
を頼りに霧の中を進み【
MIO. (4手ピアノ)】,いつ の聞広か森の中の泉の傍に来るが,<氷のようなピ アノ>ベロネ婆さんの身体を気遣う E . < ギターの グリッサンド>家は皆をベロネの小屋に連れて行き,
母達の消息を知るとともに,ベロネの死が近いこと をも知らされる.
第二・三回公演ではここに
.21S[J が挿入され,
べロネへの悼みが心に泌みるように静かに歌われる (姉のソロ).<オルガンにテナーリコーダーが効果 的に入る>
【S12.]~青い夜青い月
しず、かにしずかにおりてこい
光る光るきれいな目 白い森の狩人よ 誰も知らない洞穴の家で
じっと耳をすましてる 一人ぽっちの狩 人よ
あんたの家に遊びにいくよ 小さな小さなパンを焼いて あたしの歌が聞こえるかい 白い森の狩人よ~
<ベロネのモノローグ>
今日は死ぬのにもってこいの日だ
生きているものすべてが,わたしと呼吸を合 わせている
すべての声が,わたしの中で合唱している すべての美が,わたしの中で休もうとしてや ってきた
あらゆる悪い考えは,わたしから立ち去って いった
今日は死ぬのにもってこいの日だ
わたしの土地は,私を静かに取り巻いている
わたしの畑は,もう耕されることはない
わたしの家は,笑いに満ちている
渡
jを
こども達は,うちに帰ってきた
そう,今日は死ぬのにもってこいの日だ
(原著名
Many Wintersナンシー・ウッド著金関寿夫訳)
乙の本にでてくるインデアンの古老たちのイメ ー ジから知恵者ベロネのキャラクターが生まれ,人が どのように死んでいくか,それはその全生涯の象徴 ともいえる.この詩を原文(訳)のまま劇中に組み込 み,大人も子どもも「死」について考えることが,
どう「生きる」のかを考えることになったように思 う 作 ( 曲 ) 者 の こ と ば ~ 一冬をそこで過ごして春を待った父グループ,娘 はべロネ婆さんに聞いたとおりに染め物をやってみ ようと決心するが咲いているのは白い花ばかりであ った.それでも・・・・と一途に立ち向かう娘の傍には いつの間にか森の妖精たち(光・風・水・木・火) が集まって自由に祈ったり踊ったり
[Mll.】してい
る.その間空缶アンサンプルとピアノの即興が情景 をったえ,そして染め物ができるまでの【
M12.](第 二回+フルート〆第三回
+E.ギター)へと自然に 移っていく.
染める白布をもってしたり,置いてそのまわりを 廻ったり,娘も踊りの輪にひきいれてときには儀式 のように舞ううちに虹色の染め物をは見事に仕上が る.いつの間にかあたりの花(白かった)も虹色に 染まり,遥か向こうには母と妹がいる.
園第五部
、こうして家に帰った
3人はさりげなく母と娘に迎 えられ,しかし父は草木染のパンツを妻からプレゼ ントされて胸がいっぱいになり,みんなで抱き合う.
そして「どこか水のきれいなと
ζろヘヲ|っ越そう」
ということに・・・・・暗転)
・・・明るくなると全員で【
M2.】を回想的,且 つ願いをこめて歌うフィナーレ.晴れ晴れとした充 実感に満ちたハーモニー
(暮)そしてカーテンコール
キ ャ ス 卜 の 都 合 ( 7 ) に よ っ て 変 る ス ト ー リ 一 子どもの個人的な都合でストーリーが変ってくる.
このことは天然木の真骨頂ともいうべき有り様であ って,そう世間にままある(出来る)ことではない と自負している.
すなわち,第二回・三回公演にあたって第二部後 半「風の運送屋」以後は森の分校/収穫祭』とい
うことになり,もうすぐ廃校になる森の小学校の先
1 6 2
撃
生や生徒・給食の小父さん小母さん,第三回では探 偵とその助手,大男の大勢の子ども達と登場人物が 増える.
その分,曲も増え,【
.]S5から【
S8】にかけて
は rζ こはハーちゃんのお家 ~J r登れ登れ~J r採 偵と助手登場の歌
J r走れ走れ大男が~J ,さらに【
].12S r青い夜青い月 ~J と新キャストによる新演出は興味深くまたいっそう実りある歌や即興・パフ ォーマンスを生む結果にはなった.
子どもひとりひとりのためのミュージカル 子どもの人数の変動は第一回
03名・第二回
22名・
第三目指名というものであったが,第一回では
5つ の役をダブルキャストとした.
すなわちメンバーが入れ代わりながら人数が変る のであって,もともとその子に合った役を考えつつ ストーリーを作って来ているからして,子どもが変 れば当然変った話になるわけである.とはいっても そこには新しい労作が加わり,作者としては台本と 歌・踊りを同時進行で新しく加わる子に合わせると ともに,旧キャストの交換も当然考えざるを得ない.
その上練習計画をも考慮した配役と,実に多角的な 思考を必要とする.既にある舞台美術・照明等との 兼ね合いもふくめてである.
しかしどんなに手聞がかかろうと,子どもを出来 合いのドラマの型にはめこむのでなく,それぞれの 子どもの持っている個性を伸ばすことを第ーとする ならば,このような方法にならざるを得ないという 姿勢からする厳しさであり,真のやさしさでもあろ う.子ども達が音楽を好きになり夢中になる所以で もあり,子どもと音楽をする時に心を聞き(お互い に)演ずるために集中出来ることへの根源的力とな っているものである.
子ども自身でする舞台転換
第二回においては全面的に舞台転換を子ども達自 身でやるということを試みてみたが,それは思った より困難なことであった.それ以前においても多少 はそうしてきたが,全部任すことは最初抵抗があり しばしば進行がさまたげられる結果を生んだりもし た.しかしそれでも(忍耐強く~負けずに~)自主 的になることを促し続け,そして本番をやり遂げた (僅かの滞りはあったが)彼(女)等の身につけたも のは大きい.
この教育システム(
!)は天然木特有のそれであ
って,常に人員の入れ代わっていく学校などではや
や強制的に行なわせ得たとしても~その乙とは実に
多くの矛盾を生む,一時的なそれでしかないであ
ミュージカル
『飛ぶ家』
ろうが,常に固定したメンバーによってするステー ジプロジェクトならではのことかもしれない.
禍を転じて福となす
実にあらゆる場面で新しい演出(実験)が試みら れたが,特にダンス場面は殆ど変ったといって良い.
会場の空聞がまったく異なることからして当然のこ とでもある.すなわち第二回の清和村では相当旧式 の公民館であり,正面に
4~50 センチの高さで演壇がステージをなしていたため,主な演技はそこで行 ないそれより広いスペースで下のフロアーを使って 踊ることにしたからである.すなわち新しい会場は 新しい踊りが出来るチャンスにもなった.
ストーリーで変った点はなんといっても第三部に 劇中農
]1 r街が森になる」が取り入れられたことであ るが,第一回においてステージの中央に常時置かれ て重要な背景をなしていたティピ(インデアンのテ ント)が会場の都合で置けなくなったこともひとつ の原因ではあったし,権力者をした子が不参加とな ったこともひとつの原因であった.しかしそれらの マイナスは常に新しい創造につながり,ハーちゃん のボーイフレンドとの葛藤を加え,さらに第三国に は金貨が一枚足りないという疑惑に対する探偵が登 場する場面を増やし,廃校となる分校での収穫祭と いう,世間に現実にあってきている不幸な出来事を とらえてする改編であり多くの観衆の共感を得なが ら,話をよりシンプルにし,なにを言おうとするか のコンセプトをより明確にする結果をもたらした.
お わ り に
ミュージカノレ・シアター「天然木」あるいはステ ージ・プロジェクト「天然木」による最近作『飛ぶ 家』について,その活動の実態と今日まで育ってき た積み上げの一端についての分析をしてきたが, ド ラマについて語る時いつも十分意をつくせないのは 舞台美術と照明,そして
PA関係の仕事である.
それらは公演の度にその施設や資材,空間時間の 諸条件によって左右され,偶然性(? )に従う場合 があまりに大きいため,一般にわれわれ音楽を主と する者を超えた世界であるかの感なきにしも非ずで
あるが,実は「舞台は照明次第」ともいわれ,また それら三次元的空間をもってして超時間的アイデア を引き出すなど,専門セクトに陥らずクリアーして いくことが望ましい.即ち音楽
.PA・照明などの専 門性に偏ることなく各分野に接するようにすること こそ, C ・オルフのいう「エレメンタリーなレベルに おげる(音楽)教育にあっては,歌・器楽・動きそ
して鑑賞などに分かれていない混沌とした状態で行 われるところにその意味がある」に準ずるといって よい.
さらに特筆すべきことは,これらの活動を通して 子ども達どうしの仲間意識が高まり,集まる日は勿 論そうでない日も常に行き来し交流する(遊ぶ)よ
うになってきていることである.そして現在「天然 木」の活動において,ひとつの目標として東京を経 て西日本各地のツアーをする計画がある.そのため に子どもたちは舞台作りのみでなく,日常生活を自 立的に改善すること,すなわち衣食住についての自 己管理をめざし実行しつつあり,各家庭においても,
これを機会に『飛ぶ家」的新生活が始まったという 声も聞く.
それらのことは勿論ミュージカル作りに反映し,
すべての面で良い結果をうみだしつつある
ζとを報 告して今回の買を終えたいと思う.
、 迂
1)渡遁 皐・久ヶ枝隆子「ミュージカル制作による教材開 発の試み
J)3(熊本大学教育実践研究第
6号(1
)989 2)渡遁製・久ヶ枝隆子「現代の音楽教育~その理論と実
践~J)VI( (V) (V
I)熊本大学教育学部紀要、/人文科学第
36
・
73・
93号
7891(・
88・
)093
)渡迎撃・久ケ枝隆子「即興表現のための教材づくり」
熊本大学教育実践研究第
7号(1
)099 4) 3) に同じ5
)渡海 祭「自然体によるミュージカル・シアター天然木
“
Tennenboku" J熊本大学教育学部紀要/人文科学第
64 号)7991(6
)渡港 事・久ヶ枝隆子「音楽科における集団創作の可能
性J ()2Xl熊本大学教育実践研究 第
9号・第
01号(1
929・
93 )