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(1)

地 図 と 言 語 ( そ の 1)

小 林

I は じ め に

地理学研究における地図の重要性はこれま でしばしば指摘されてきた。地図はある場合 には地理学の言語とされ( S a u e r , 1 9 5 6 ) ,また 地図によって研究されないものは地理学の対 象であるかどうかうたがわしいとも言われて いる( H a r t s h o r n e , 19 39 ,野村訳, 1957,p̲ 

282 )。実際,地図は地理学研究にとって不 可欠なものである。それなくしては,地理学 研究はなりたたなくなってしまうと言っても よい。

しかしながら,地図の重要性が強調される 一方で,地図そのものについての考察が非常 にすくないことはおどろくべきことである。

多くの場合,地理学における地図の役割は比 可量的に語られるだけで,その論理的属性は暗 黙の諒解事項としてとりあっかわれているの である。地図についての学問である地図学で も,この事情はかわらず, これまでは技術的 なことがらに議論が集中しており,地図的表 現の多くの側面はまだほとんど分析されてい ないと言われている( H a r v e y ,1 9 6 9 ,  p p .  3 6 9 ‑ 7 0 。 ) この傾向は最近すこしずつ変化しており , 地図にかんするややまとまった考察があらわ れるようになった 。たとえば B u n g e はその著 書『理論地理学』のなかで, 「メタ地図学」

という名のもとに地図にかんするやや認識論 的な考察をおこなっている( B u n g e , 1 9 6 6 ,西村 訳 , 1 9 7 0 , pp. 40  4 3 ,   46  81 ) 。 また B o a r d は,モデルとしての地図という視点から多く の議論を紹介している( B o a r d , 1 9 6 7 。 ) これら は地図が地理学において意識的な考察にあた いする対象としてみとめられるようになった ことを示すものと言えるだろう。地理学の理 論や方法のなかで,地図がどのような位置を しめるか.模索的に考察されているのである。

しかしながら,これらを検討してみると,

その地図のとりあっかいかたにはまだ議論の 余地がのこされているように恩われる。地図 は,現実の社会において言語,音楽,絵画な どのように重要な役割をはたしている。それ はコミュニケーションのー形式として,独自 の存在意義をもっている。これまでの研究で は,このようなコミュエケーションのー形式 としての地図の基本的性格について,ほとん ど考察をくわえることなく

3

地理学研究にお ける地図という側面だけが重視されているの である 。 Bunge においても B o a r d においても,

地理学研究における地図の位置と役割を明確 にし,その属性を示すことに努力がむけられ ている 。そこでは,地図はまず何よりも地理 学研究のためのものであり,それをはなれで もコミュニケーションの体系のなかで一定の 機能をはたしだいることが忘れられていると 言えよう 。

地図は地理学研究において重要な素材であ り,手段であるが,それ自体として地理学だ けに属しているのではない。また地理学にと って地図だけが唯一最大のコミュニケーショ ン手段ではない。地図は,現実の社会におい て,コミュニケーションの体系の一部として 一定の機能をはたしているが,問機に地理学 内部においても ,言語や数式とならんでコミ ュニケーションのー形式と しての役割をもっ ている。地図の論理的属性は,多くのコミュ ニケーションの形式のなかで独自の位置をし めるにせよ,それ自体独立して存在するわけ ではない。他のコミュニケーションの形式と 相互におぎないあうようなかたちで存在して いる 。地図の論理的属性の独自性は,このよ うなコミュニケーションの諸形式の相互補完 的な関係のなかではじめて発揮されるのであ

る 。

‑ 1 8  ‑

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このような意味で.まず言語そのほかをふ くむコミュニケーションの体系のなかでの地 図の属性を明確にし,それが地理学研究にと ってどのような意味をもつかを考察すること が必要であると恩われる。地図乞地理学研 究という枠組からいったん解放して,その属 性を他のコミュニケーシヨンの形式との関係 のなかでとらえることが,地理学研究におけ る地図の役割を考えるうえで不可欠のプロセ スだと考えられるのである。地図は地理学者 のあいだでしばしば誤ってもちいられてきた と言われている(B l a u t ,1 9 7 1 )。これは地図そ のものがもっ欠陥というよりも,コミュニケー ション手段としての地図にたいする地理学者 の理解が充分でないことによっていると息わ れる。

ところで,人間のコミュニケーションにあ らわれる,さまざまな記号の体系を研究する 科学として記号学とよばれるものがある。こ れは言語学者のソシュールによって提起され た新しい科学であり(d e  S a u s s u r e ,  1949 ,小林 訳 , 1972,  pp. 28‑31),  まだ充分に知られ るようになってはいないが,すでにさまざま なコミュニケーションの形式へのアプローチ をこころみている。そこでは,ひとつの記号 の体系といわれる地図も研究対象としてはっ きり意識されている。この記号学における地 図の研究は,コミュニケーションのー形式と

しての地図を考えるうえで非常に重要なもの と予想される。それはまだ開始されたばかり ( M o u n i n ,  1970 ,福井ほか訳, 1 9 7 3 ,p p .  1644,  W i n n e r  a n d  W i n n e r ,  1976 ,今井訳, 1978, p .   160 )とはいえ,おそらく地図の論理的属性 をあきらかにするうえで決定的な役割をはた すであろう』)。

この,記号学からのアプローチとの関連で 興味ぶかいのは H a r v e y のことろみである。彼 はコミュニケーションのー形式としての地図 の属性はほとんど考察されていないとしつつ,

Dacey の所説 D を引用しながら,地図の意味 論,統辞論,語用論について論じている(H a r v e y ,

1 9 6 9 ,  p p .  3 7 0 ‑ 3 7 6 )。もちろん,言語とおなじ ような意味でこれらのものが地図においても なりたっかどうか疑問があるが,このような

関心は記号学と共通するものを多くふくんで いる。記号学では,言語学の概念や用語をも ちいつつ,非言語的な記号の体系の研究がさ かんにすすめられているのである 3 。 )

本稿では,このような地理学,記号学両者 の収数しつつある関心をふまえつつ,コミュ ニケーションのー形式としての地図の属性の 考察にむけて,地図と言語との関係のいくつ かの側面をとりあげて若干の検討をくわえる ことにする。言語は人聞のコミュニケーショ ンの体系のなかで,もっとも基本的なものと 言われている(J a c o b s o n ,1 9 6 3 ,田村ほか訳,

1 9 7 3 ,   p .  6 )が,それは地図といかなる関係 にあるか,まだ充分に考察されていないので ある。

l l

  −地図における記号と言語

「地図と言語は基本的にあいいれないもの である」(R o b i n s o na n d  P e t c h e n i k ,  1 9 7 6 ,   p .   4 3 )  

と言われている。 ここでいう言語とはせまい 意味での,ことばによる言語のことであるが,

実際,地図によ って伝達されることがらを,

ことばによって正確に示すことは非常な困難 をともなう。逆に,ことばによって伝達され ることの大部分は,地図によって示すことは できないものである 。

この点を考慮 、 にいれるだけで,地図と言語 は基本的に性質のことなるコミュニケーショ ン手段であることはすぐに理解できる 。 しか し,コミュニケーション手段の体系のなかで みると,両者の関係は単純なものではない。

ここでは,地図によ っ て伝達されるものと,

言語によ って伝達されるものとが基本的にこ となることをみとめつつ,両者がいかなる関 係にあるかを, R o b i n s o n と P e t c h e n i k の 考 察 (Rob

s o na n d  P e t c h e n i k ,  1 9 7 6 ,  p p .  43 ・ 67 )を参 考にしながら検討してみよう 。

Rob 泊 s o nとP e t c h e n i kは,言語と地図の相

異をさまざまな角度から考察しているが,そ

の議論は全体としてみると,まとまりを欠い

た冗長なものである 。その意味で,彼らの議

論をはじめから紹介するのは無駄だと言って

もよい 。また彼らのあげている論点を網羅的

に検討することも非常に困難である 。それぞ

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れが重要な問題をふくんでおり, しかも容易 に解決できないことが多すぎるのである。た とえば言語が線条的(一次元)であるのに,

地図は平面(二次元)であることとか,地図 における意味と言語陪おける意味のちがいと かは,それぞれに両者の本質的な相異点と関 係している。これらは相互に複雑にからみあ って複雑な問題を形成することになる。した がって,ここではまず問題を限定して,もっ とも単純な論点と思われる 地図における記 号と言語の関係から検討することにしよう。

RobinsonとP e t c h e n i k は,言語,地図,絵 画,写真の同質性と異質性をさまざまな角度 から検討したあと,地図と絵画,写真のちが いについてつぎのように述べている。

地図は多 くの絵画的表示よりもはるかに 定型化したものだ。写真では,明暗の諸要 素が表示されたものに対応することばを正 確に一致するとは言えないが,ほとんどの 地図では,それとはちが って,図像的な要 素と表示された要素に対応することばとの 体系的な一致がみられる。たとえば同じよ うな赤い線は,地図のどこにあらわれるに せよ,特殊な道路に対応するというわけで ある。絵画とはちがって,地図にはふつう ことばによる表示から,図像的表示に至る,

またはその逆の翻訳を可能にする凡例とい うものがともなっている C   ・ P 52 。 ) R o b i n s o nとP e t c h e n i k がここで主張している ことは自明のことと言ってもよい。実際,凡 例のない地図というものを「解読」すること は不可能にちかいし,それがなければ地図と して用をなさないであろう。しかしながら,

このことの示唆するものは重大である。記号 学者の Mou

n はこの点についてつぎのように

言っている。

−地図というものは,すべて非言語的な コミュニケーションの体系なのだと認める には,一瞬考えてみる必要がある。地質図 や気象図は,取りきめに基く書法上の普遍 的なコードのおかげで読みとれるのであり,

そのコードによってそこに示されている指 示を命題や概念に翻訳することができるの である(Mounin, 1970 ,福井ほか訊 1973, 

p .  33 。 )

地図における,さまざまな記号はそれ自身が 何を示しているのか地図以外の手段で明示さ れていなければならない。というよりも,地 図はそこに表示された記号のはっきりした定 義をはじめからふくんでいるものなのである。

こうしたコード,つまり記号の定義は,地図 では,その大部分が言語によってなされる。

主として言語による定義にしたがって,はじ めて地図は理解可能なものになるわけである。

このことは, コミュニケーションのー形式 としての地図が言語に依存していることを示 すものであるが,同時に,さらに重要な問題 を示唆している。地図の上では,記号が地上 に存在するさまざまな要素や状況のうちの何 を指示しているか,ことばによって示される わけだが,このプロセスを逆にみると問題は 単純ではない。地上の要素や状況が符号化さ れ,表示されるということは,主として言語 を媒介としておこなわれると言えるが,ここ における媒介は単なる媒介以上のものなので ある。実際,言語そのほかによって,何らか のしかたによって定義することのできないも のは,地図上に表示することはできない。こ こでは,言語は地上の要素や状況と記号との あいだの単なる媒介物ではなくて,地上の要 素や状況のうちの特定のものをとりだす,ひ とつの分類のような役割をはたしている。地 上の要素や状況が分類され,そこから特定の ものが選択されたことが示されるのは,言語 によってであるが,そのこと自体,言語の内 在的性質をはなれてはあり得ないのである。

哲学者のカッシーラーは,言語のこの性質 についてつぎのように述べている。

一分類は,言語の基本的性質の一つであ る。命名という行為そのものが,分類に依 存している。物または行為に名を与えるこ とは,それをある類概念に包摂することで ある。もしこの包摂が,一度限りで,物の 性質によって定められてしまうならば,そ れは唯一,同様であろう。しかし,言語中 に出てくる名称は,決してこのように,一 定不変の仕方では解釈できない。それらの 言葉は,実体的なもの,すなわち人聞に依

‑ 20 ‑

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存せずに,存在する独立の実体を指示する ように設定されてはいない。それらは,む しろ人間の興味及び人間の目的によづて決 定されている。しかし,これらの興味は固 定して変らぬものではない。また,言語に みられる分類は勝手になされるものではな く,我々の感覚経験中における,つねに一 定していて,くりかえしてくる,いくらか の要素にもとづいている。このような,反覆 する性質がなくては,我々の言語的概念の 立場はなく,支点はないであろう。しかし,

知覚的素材を結合したり分離したりするの は,対象を表現するワクの自由な選択に依 存している。予め決められた固定した図式 があって,区分及び小区分が一度で行われ てしまうというようなことはない( C a s s i r e r ,  

1944 ,宮城訳 1 9 5 3 .p p .  187  ‑ 8 。 〕 地上の要素や状況の符号化の背後には,それ

らについての分類が存在し,地図の記号の定 義とは,この分類が主として言語によって示 しなおされることと考えられる。この分類の 操作には,言語そのものが大きく関与してお り,分類そのものと言語とをきりはなすこと は容易ではないのである。

このようにみてくると,地図はコミュニケー ション手段としての言語に依存しているのみ ならず,言語そのもののありかたにふかく規 定されることが理解されるであろう。地図は 言語をはなれてはあり得ないのである。

ところで,カッシーラーの言うような,分 類としての言語のありかたは,地図とそれが 表示していると言われる「現実」との関係に 決定的な影響をおよぼす。しかし,この問題 はひとまとまりの問題と考えられるので,あ

とで検討しなおすことにする。

] [   .地図による表示

地凶と言語との一次的な関係は大まかに言 って以上のようなものであるが,地図の諸記 号は図上に表記されるとそこでまた新しく言 語と二次的な関係、をもつことになる 。地図の 諸記号のうち,縮尺とか方位を示すものは,

図の大枠を設定し,それ以外のものはこの大 枠にしたがって位置をあたえられる。これに

よって,言語などによって定義された諸記号 は,相互に関係、をもつことになり,くみあわ さって,新しい意味を獲得するわけである。

地図によって表示されることと,言語によっ て表示されることの基本的な相違は,ここに はじめてあらわれる。

さて,ここで R o b i n s o nとP e t c h e n i k の議論 にたちもどって,彼らの見解をみてみること にしよう。 RobinsonとP e t c h e n i k は,この点 について,つぎのような理由づけをおこなっ ている。彼らは絵画,写真と言語のちがいに かんする哲学者の所説を紹介したあとで言う。

−−明らかに,絵画におけるように,地 図の誇要素は,その最終的な意味を全体に おいてもつ。それらはコンテクストに応じ て意味をかえる。というのは,ひとつの表現 から他の表現へと保持されるような s y n t a x がないからである。 s y n t a xとは,おそらく 地図と言語とを比較する文章で人がであう もっともよく使われることばである。言語 にかんして言えば,それは,語られる場合 にはことばの時間的(書かれるときには線 的)な関係、のことを示し,そこでは発語と 理解の継起は規定され,固定されている。

地図ではそのような時間的な順序はなく,

しかも空間的な配置をともなうひとつのア ナロジーには意味がない。というのは,こ れは地図化された領域によって,独自のか たちで規定されるからだ。言語と比較しう るような表示と理解の規定された継起とい うものがないし,いかなる要素も全体をはな れて意味をもたない(Robinsona n d  P e t c h e n i k ,  

1976,p.52 。 )

ここでは,地図における意味と言語における 意味がいかに存在するかについて議論してい るわけだが,実際》五万分の一地形図をとっ てみても,そこからひきだされる情報は不定 形であり,図をみる人によってさまざまであ る。このことは,一般図だけでなく,主題図 といわれているものでもおこり得る 。地図に は,言語とちがって規定された読みかたという ものはないのである。

RobinsonとP e t c h e n i kは,地図と,絵画,

写真との同質性を主張するが,この点につい

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てつぎのようにも言っている。

ものの空間における配置は,地図以外の やりかたでも表示できることはあきらかで ある。ことばや方程式も,あるものが他の ものとの関係でどこにあるか示すためにつ かうことができるが,それにもかかわらず これらの表示方法はこの分野ではほとんど つかわれない。というのは,空間的な配置 を符号化し,伝達するもっとも包括的な形 式である「イメー ジ」の性質をそれらは欠 いているからである。イメー ジの発達にお ける潜在力は,地図のもっ左も優美な属性 である。 B l a n c h a r d が言うように,イメージ はことばや思考よりも先んじたものであり,

基礎的なものである。それは配置にかんす る活動において,制面のできないほど重要 である(Robinsonand  P e t c h e n i k ,   1 9 7 6 ,   p .  5 5 ) .   RobinsonとP e t c h e n i k の所説は,このように 地図が視覚的なコミュニケー ション手段のひ とつであることを強調している。地図は,最 初の引用にみられるように絵画や写真と相違 する点もあるが,基本的には,視覚的,図像 的なものだというわけである。

地図がこのような点で言語とことなること は異論の余地がないと言える。 Mounin は,こ のレベルでの地図と言語との関係についてつ ぎのような指摘をおこな っているが,結論は 明らかであろう。

・ ー道路地図を調べるのは真のテキス ト の解読であり,そのテキストは訓練された 方向指示者が運転者のために普通の言語に 翻訳できるものであ っ て,実際に大声で翻 訳するのだということを悟る必要がある。

一方,地図の黙読もやはり話しととばの代 替的なコミュニケーションの体系なのか,

それとも訓練された直観的な読み手にとっ ては,これまた直接的な非言語的なコミュ ニケーションの真の体系なのか,が問題と なるであろう(Mounin , 1 9 7 0 ,福井ほか訳,

1973,  pp.  33  4 。 〕

ここでは,地図が非言語的コ ミュ ニケーショ ンといえるような性質をそなえているかどう かが問題とされている 。実際, 地図に表示さ れたものは言語に翻訳できる場合があるし,

それによ っ て,地図の諸記号のくみあわせは再 度言語に環流するというわけである。しかし ながら,地図から言語への翻訳は日常的にお こなわれるにせよ,これをふつうに翻訳とい われているものと同一視することには問題が ある。それは単なる翻訳以外のものであり,

ふつうの翻訳とはちがったプロセスを内包し ているのである。

この点について, H a r v e yはつぎのような興 味ぷかい指摘をおこなっている 。

地図に内包されている情報の識別や評価に おいて,地図使用者の能力は主観的要素を まぬがれないこととか,一枚の地図にふく まれている情報が多いほど,それについて 下される解釈において,あいまいさや不確実 さが大きいということが示されてきた(H

e y ,

1 9 6 9 ,  p .  377 。 )

これは,地理学研究において,地図がもっ最 大の問題でもあるが,このような事実は地図 が基本的にアナログ表示である(W i l d e n , 1 9 7 2 )   ことに関係していると言ってよいであろう。

次節では,このことについて主に検討してみ よう。

G

1 ) コ ミ ュニケーションのー形式としての,地図 の属性をあきらかにするには,他のコミュニケー シヨンの形式も考慮にいれた,組織的な努力 が 必 要である。地理学者や地図学者の , 個別的な,内 省による方法には限界がある。記号学はこの意味 で言語学,心理学以上に期待できる分野である。

2 )   H a r v e y はこの部分のかなりを Dacey の所説 によ って いるが, Dacey が地図につ いて直接言及 しているものについては参照できなか った。なお,

ここでは,地図の意味論において記号学が重要な 役割をはたすであろうという指摘もみ ら れる。

3 )記号学のなかに,言語学の概念や用語を無批 判にもちこもうとする態度については ,かなりて きびしい批判がある(Mo u

n , 1970 ,福井ほか訳,

197  3  ,  pp .  9  ‑ 1 5 ) 。

参 考 文 献

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B o a r d ,   C .   (  1 9 6 7 ) :   Maps  a s   Models .  i n   R . J .   C h o r l e y   and P .   H a g g e t t   ( e d s . ) :   Mod e l s   i n  

‑ 22 ー

(6)

G e o g r a p h y ,  Methuen, pp .  67

7 2 5 . Bunge,  W.  ( 1 9 6 2 ) :   T h e o r e t i c a l   Geography. 

Lund S t u d i e s  i n  G e o g r a p h y ,  S e r .  C .   (ウィリ

アム・パン~箸,西村嘉助訳 C

1970 )『理論地 理学』大明堂)

C a s s i r e r ,   E .  ( 1 9 4 4 ) :   An  E s s a y   on  Man: An  I n t r o d u c t i o n   t o   a P h i l o s o p h y   of Human  C u l t u r e   ( E .

カットラー著,

宮城音弥訳(1953)

『人間』岩波書店)

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H a r v e y ,  D .  (1969) :  E x p l a n a t i o n  i n   Geography .  Edward A r n o l d .  

J a c o b s o n ,   R .  ( 1 9 6 3 ) :   E s s a i s   d e   l i n g u i s t i q u e   g e n e r a l e .  L e s  E d i t i o n s  de M i n u i t .  ( ロ

7

ーン・

+ーコプソン著, 閏村すず子ほか訳(1973 )『一 般言語学』みすず書房)

Mounin, G. (1970

・:)

I n t r o d u c t i o n a  l a   s e m i o / o ‑ g i e .  L e s  E d i t i o n s  de M i n u i t  ( G .ムーナン著, 福

井芳男ほか訳( 1973 )『記号学入門』大修館 書店)

R o b i n s o n ,  A. R .  and  B . B .  P e t c h e n i k  ( 1 9 7 6 ) :  The  N a t u r e  of Maps: E s s a y s  toward U n d e r s t a n d ‑ i n g  Maps and M a p p i n g .   The U n i v e r s i t y   o f   C h i c a g o  P r e s s .  

S a u e r ,  C.O .  ( 1 9 5 6 ) :  The Education o f  a  Geo‑

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m u n i c a t i o n :   On t h e   R e l a t i o n s h i p   between 

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o f  t h e  D i s c r e t e  E l e m e n t .   S e m i o t i c a ,  6 ,  50

8 2 .

W i n n e r ,   J . P ,   . and  T . G .   , W i n n e r   (1976) :  The 

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1 0 1 ‑ 1 5 6 .  (アイリーン・ウィナー,卜ーマス・ウ

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門」『現代思想』(青土社) 6 巻 3 号, 110‑170)

参照

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