A Study on Brancusirs Direct Carving Sculpture
登 坂 秀 雄
Hideo TosAKA
(昭和 61年10月 11日受理)
序
今世紀 は初期の段階 において,I美術史上嘗て見ぬ現象 を生 じた。 ヨーロ ッパ,ロシアを舞台 に発生 したイタリア未来派 を始め とする革命的芸術運動である。スイス 0チ ューリッヒに起 き たダダイスムはフランス, ドイツにおいてはシュール リアリスムとなって展開 し, ドイツでは 表現主義的造形表現が「バ ウハ ウス」の運動へ と引 き継がれ,ロシアにては絶対主義運動 を起 こし,ロシア革命の後,構成主義へ と向かった。その他,オランダの新造形主義,イギ リスの 渦巻主義 とい う様 に政治的・社会的条件 の許で発生 し,国際的 な芸術運動 となって拡が って いった。取 り分 け彫亥1における一側面か ら見 ると,未来派彫刻宣言 (1912年)の中で見 られる
新素材の使用に関する提唱や,ロシア構成主義 に見 られる空間 と時間の提示 はその後の彫刻の 世界 を拡大す るものであった。 この様 な芸術運動の背景には,自然科学 と産業技術の発展 とそ の結果 としての市民社会の繁栄,ま た,資本主義の発生 にともなって労働者階級 を生 じさせ, 結果 として社会主義思想が出発 し,広範 に拡が ったことなどが挙げ られる。 この様 な状況の下
に1904年よ り53年間を芸術 の世界の中心的な都市パ リに生活 し,彫刻制作活動 を したコンス タ ンチ ン・ ブランクーシは,この革命的芸術運動 に同調 した り,新しい文明に同化 させ ようとは しなかった様 に見える。パ リには世界 に名声 を博 して円熟期の頂点にあったロダンがいて伝統 的な技法 (mOdeling)の 中に人間の生命 を謳いあげていた。一時期 をロダンの許で過 ごしたブ ランクーシは,ロダンの許 を去 ると同時にヨーロ ッパ に継承 されて きた彫刻か らも方向 を転換 した。現代美術 の揺笙期 といえる中で革命的芸術運動の渦中に属する事 も,伝統的彫刻 の系譜 の中に浸 る事 もな しに,全く独 自の世界 を切 り開 き,今世紀 における現代彫刻史に一つの原点 ともいうべ き足跡 を残 した。ブランクーシにおける論評 は特 に多い とい う分 けではないが,取
り分 け少 ない とも思われない。 しか しなが ら,(ブランク早シ自身が伝記的発言 を好 まなか っ たようだが)他の彫刻家の伝記 (的)論証 と異 な り,人間ブラ ンクーシとしての存在が浮彫 り にされて くる所 までこない。ブランクーシの生活ぶ りと,同一テーマ を長い年月かけ繰 り返 し 作 られ,なお,幾つかのテーマが重複 して追求 される制作姿勢 と彫刻その ものの結実は,ブラ ンクーシに神格 さ,さえ与 えて きた。11年前のフランスにおけるブランターシの作 品 との出会
いから始まって,‐ 2年 前のノィァマニア旅行,そして今夏のアメリカ東部の旅行における作品と の対話をもとに考察.し',81年間燃やtた生命を再現すへく論証を企てるつもりである。
ホビッツァ・ 出発
ルーマニアの首都 ブカ レス トか らクライオヴァ を抜 けティルグ・ ジウに向 う列車の窓か らは,カ ルパチア山脈が空 との境 に帯状 に遠々 と連 らなっ ている。カルバチ山脈 までは平担で,遮る ものの 無い平原の連続である。見渡たす限 りの とうもろ こ し畑 そ して,ひまわ り畑。畑が途切れると放牧 地帯。牛や羊 の面倒 は老人 と子供の仕事の様であ る。夏 とはいえ肌寒いルーマニアの気候 の中で子 供 は上半身裸で裸足。折 れ枝 を片手 に している。
平原の中に夕 日を浴 びて一頭の牛 は,プロ ンズの ① ブラ ンクー シの生家
様で引 き締 まり厳 しく,美しい。ティルグ・ジウに近づ くとカルバチア山脈は迫 り,幾分高原 に位置するのであろう,樹々の緑が増 して くる。ティルグ・ジウはプランクーシのアンサンブ ルとも呼ばれているモニュメント「無限柱」,「接吻の問」,「沈黙のテ‐ブル」がある。「沈黙 のテ‐ブル」の設置されているす ぐ後にジウ川が流れているが,川を渡り,森林地帯の中を丘 陵に合わせ25キロ程行 くとコンスタンチン・ブランクーシの生家のあるホビッツァ小村がある。
1984.8.17 .
,1876年: 2月 19日 に コ ンス タンチ ン0ブラ ンクーシは次男 と して生 まれ た。 父 ニ コ ラエ に とって は母マ リアは二番 目の妻 で:先妻 との間に三人の男子が あ り,更に コ ンス タンチ ンの下 に弟 と妹が あ り,共に生活 を していた。 オルテニ アの高原地帯 の農民 は自ら土地 を持つ 自由農 民 で,ブラ ンクニシー家 も自由農民であ ったが土地 は狭く豊 かで はなか った。父親 は農業の み に専念 してぃた訳ではなかったようで,父親に関 して「放浪の人だった。」と語っているとこ ろから察すると出稼せ ぎの様な生活をしていたのであろう。現在 も残っている生家を見る限 り,
この大家族が住むには余 りに小さいち七歳の時に牧童 として奉公に出されている。生活そのも のに関しても相当厳 しい少年時代を過ごした事 と思われる。「末だ近代文明が全 く及んでいな かった辺境の地は,ま だ森林地帯 と小川のせせ らぎと鳥の群れがあ り,それは,彼の想像力の 世界に印象を永 く継続 したであろうと思 われる魅力的な風景であったし地方における厳 しい社 会的慣例 (風習)と哀愁の合は,人格形成に重要な事柄である。」は
'今で も我々の目に映るその 風景は非常に厳 しく感 じられるのであるが,当時は更に厳 しい社会情勢が少年期のプランクー シに与えていたと思われ,ブランクーシは数度にわた り家出をしている。9歳の時家出をして テ ィルグ 。ジウの染物屋で働 いている。 この時は母親に連れ戻 されているが11歳の時に家出を したブランクァシは再 び家 に帰 る事 はなかった。 この年令で意志 と自律心 は強 く,好奇心 に満 ち,向学心 に燃 えていた。テ ィルグ・ ジウか らスラチナ,スラチナか らクライオヴァに移る。
クライオヴァ̀では酒場で働 く。 クライオヴァがプランクーシの美術修業への窓日ともい うべ き 記念すべ き場所 となる訳であるが本人にとって も思い もよらぬ事であったろう。ホビッツアに いた頃にいつで もナイフを使 って本の枝 にV字型の刻みを彫 っていたとい うブランク=シは,
牧童の時に更に農工具の技術を教わったと思われる。タライオヴァで も木彫は続けられていて,
その技術は人の注 目を集めたようで,ブランク早シの運命的な出来事は,ジアヌーの『ブラン クニシ』の中に語 られている。「ブランクーシにとぅて木で出来ないものは無かったもある日, 酒場の一人がブランクニシにバイオリンが作れるかどうか挑戦 して賭をした。ブランタ‐シは 本の梱包用のみかん箱をよく曲がるよう薄 く削 り;手仕事でそれを完成 した6ジプシ■の演奏 家が弾 く為に呼ばれ,.楽器から流れる澄みきったその音色は聴衆を魅了 した。酒場の客の二人 であった資産家の工場主グレチェスコは,ブランターシを引き取 り,保護者 となって,1894年 にクライオヴァの美術工芸学校に入学 させた。」°18歳のこの年 まで文盲状態であったブラン ターシは全 ぐの独学で読み書 きを覚えたという。クライオヴァの美術工芸学校は,謂わば職業 学校で現在,格子などの木工品が残っている。木工 と彫刻においては特に優秀であったが,他
の全ての教科においても高成績を修め,首席で事業 している。塑造における彫刻への関心はタ ライオヴァの美術工芸学校で芽ばえたのであろう:1898年`,事業 と同時にブカレス トの国立美 術学校の彫刻科に入学 した。入学試験の時に作 られたラオコーンの胸像の模刻は写真で しか見 る事は出来ないが,その作 られたものの表情の中に,すでに優れた技術力 と彫刻からの感性の 表出を見い出す事が出来る。.ブカレス ト美術学校入学後半年近 く経ってからの制作にヴイテリ ウスの胸像頭部の模刻があ り,この習作で学校から賞を与えられているも(ブランクニシによ る現存の最初の作品である。)「 1902年 (卒業の年)¨・。この年の作品として残されているのは,
旧友ジョルジェスク=ゴルジャンの胸像だがプランクーシはクライヨヴァヘ戻 り,この旧友を 前にして,額のひろさ,鼻の長さ,日幅などをひとつひとつ測 り,それをあてはめながらこの 胸像をつ くらたという。こういう制作の仕方 もまたブクレシュチの学校でヘーゲルに教わらた のであろうも まさに,アカデ ミックなや り方である。これらブクレ
シュチ時代の作品は……正確 さということが特徴 となぅている。そ れはヘーグルの教 育によるものであったが また しか し,ク ライヨ ヴァで見せたブランクーシの職人 としてのす ぐれた技術 と結びつ く ものであったということができよう。そしてさらにもうひとつ見逃 せないのは,それが またこの彫刻家が終生ロマ ン主義 とは無縁で あったことともつなが っているという事実である。」0中原佑介氏の 論証の一部である力ヽ 胸像制作にあたってのプロセスと木工におけ る技術 と後のプランク,シが確立 した彫刻の形体 とその姿勢を結び つけての考察 と思われる力,,私は,この時期の作品 (写真のみで し か見 られず,彫刻を写真の中に語る事は議に反する事であるが)に は,前記 したラオコァン以来,ブランターシにとっての彫刻の要素 の一つに感情表出が認められ,取り分け顔の表情の中に見受けられ る。敢えてこの様に記すのは,後のブランクーシの変化の中に重要 と思われるからで,私はロマン主義的傾向の強 くなって行 く過程の 姿 として踏まえている。
ブランク,シのブカレス トの美術学校で最初の指導は彫刻家イワ ン・ジョルジェスクによって授けるが急逝 したためにヘーグルに引 き継がれたのである。F当時のルーマニアの彫刻界は謡笙期にあっ
た。彫刻 といえばモニユメント,胸像,墓の為の胸像 といったもの ②人体標本
雄
がすべてであ り, しかも公的なモニュメントはほとんどフランスやイタリアの彫刻家に依頼 し てつ くって貰 うという状況だったようである。イオン・ジョルジェスクはルーマニア人の彫刻 家 として公のモニュメントをつ くった最初の人物だった。ジ ョルジェスクの作品はロマン主義 的傾向の強いものとして位置づけられている。」0ク ライオヴァからブカレス トにまで行った理 由はただ彫刻科がブカレス ト美術学校にはあるというだけだったのであろうか。ジョルジェス クの名はどの程度知れ渡っていたのであろうか。彫刻家を目指 した青年は彫刻界の状況をどの 様な目で捉えていたのであろうか。粘土に接 したブランクニシは,その可塑性の中に自れの感 情を移入することに適 した材料である事を早い時期に知 り得たのではないだろうか。1898年に は胸像 を地方展に出品 してお り彫刻 に対する気持は昂揚 していた。解剖学の教授ディミトリ エ・ゲロタの指導を受け,二年をかけて制作 した く人体標本》があるが,これは口▼マ・カピ トリーノ美術館のAndnousの石膏像 (ブランク‐シ自身による写真の中に見受けられる)を モデルとしてつ くられている。人体彫刻の探求のために制作 されたのであろうが, ミケラン ジェロの若 き日の解剖の姿 ともイメージは重複する。デイミトリエ・ゲロタは後にブランクー シの生活の為に幾 らかの送金をした人物であるが,《人体標本》制作中の二年間に二人の間に どの様な会話がなされたのか興味深い。憶測になって しまうので,彫刻家を目指 した若 きブラ ンクーシがルーマニアにおける彫刻界の状況を芸術家特有の感覚を持って受け止め,ロマン主 義的傾向の中に自らの制作指針を向けていたという事のみを留めてお く。
1902年,ブカレス ト美術学校での4年間の修学の後,イ タリア留学 を国に申請 したが実現 し なか った。友人の中にパ リで ロダンの影響 を受 けたルーマニア人で最初 の彫刻家デ ィミ トリ エ・パチュレアがいた。ロダンの存在 を示唆 したのであろう。ブランクーシはパ リに向か う決 意 をして1903年,ルニマニアを出発する。途中 ミュンヘ ンに立寄 り,パリには1904年の7月 に 到着 している。ブカレス トか らパ リまでの殆ん どの行程 を歩いた。一銭 も持 たず出発 し,途中,
身に着けていた物 を売 って食 にあてた とい う。少年時代 に度々家出をし,また一人で生活費 を 得て きたブランクーシにとっては,働けば何 とかなる と思 ったのであろ う。オルテニアの農民 の子 として生 まれた生命力の強 さを思わせ る。パ リについたばか りのブランクーシは言葉 に不 自由 したのであろ う,ルーマニアの友人 と二人でシテ・ コン ドルセ9番地の8階に部屋 を貸 り た。 しか し,同年の うちにラ・ ブールス広場10番地の屋根裏の部屋 に一人で移 った。ブカレ ス ト美術学校時代の解剖学の教授デ ィミ トリエ・ゲロタより,生活費 としての送金 を受 けてい る力、 日曜 日はパ リのルーマニア教会で働 き,夜はレス トランや酒場で皿洗いをした。
1904年の初めの年 は制作が思 うように出来なかった様であるが, しか し,ラ・ ブールス広場 10番地の屋根裏部屋では作 られた。(浮彫 り 。頭像・胸像 は石膏 になってい るが,写真のみの 確認)1905年 5月 に ドーフイン広場16番地へ移 る。建物内にはルーマニアの留学生が多か った 事 もあるが,1制作の為 の条件 を少 しずつ よ くしていったのであろう。6月 には,パリの美術学 校 (エコール・ナシ ョナル・デ ,ボ ザール)へ入学す る。ルーマニアか らの留学費 を得 る。ボ ザールでは彫刻家アン トナ ン・ メルシェの指導 を受 ける。1905年の後半か らは制作量 も一気 に 多 くなるが,ブカレス トの頃の延長線上 にある。肖像 をかな り作 っているが,その中で くプラ
イ ド〉 と名付 けられた少女の胸像がある。ブランクーシにとって,最初の象徴的なタイ トルが 付 け られた作 品 とい う事で注 目される。 くプライ ド〉 はブロンズに鋳造 された。健康的なフォ
゛ ヽ
ルムの引 き締 まらた彫刻である。1906年になると肖像彫刻は少な くな り,子供の頭像や胸像が
多 くなる。形体上 に も変化が表 われてい る。 く少年の胸像〉では,頭部 は右 に傾 け,右方 の腕 は肩の付 け根か ら切 られている。顔の表情の中のみでは表現 しえな くな り,全体の中に,よ り 彫刻的に動勢 をとらえる方向が出て きた。 肖像彫刻の相称か らのこの変化 は,ロダンの影響 と 受 け止める事 も出来る。ブランク,シの年下の友人で画家の くニコラ・ ダラスクの胸像〉では, 更 に直接的な仕事ぶ りを見 る事が出来る。腰 までの半身像で,右腕 は肩の付 け根か ら切断 され 右 日と右耳 ははらき りと作 られているが,左目は閉 じられ,像の左側半分 は全体 の中にマチ ェールは統一 されている。像の右側 と左傾1は故意に異 なって制作 されている。 この非構造的に 作 られたブロンズ像 は,光の効果 に変化 を与 え生命感 を強 く表わ している。彫刻 において腕 を 切 られた画家の ダラスクとブランクーシの会話 も興味深い。 ダラスク「何 を して絵 を抽いたら よいのだろ うか」 ブランクーシ「 目を持 って」0。 く休息〉 と題 された作品の中には別の一面 を 見 る事が出来 る。石膏の魂の中に溶けこむように して斜めに横 たえる頭像 は,顔と頭部の一部 が形造 くられているだけで,「安息」の状態 を全体 の中に表 わ している。 ロダンの作品の中に 頭部の前面のみ を彫 り出 した作 品があるが,これは,ロダンが ミケランジェロの未完の作品か ら影響 を受 けて作 った もので,ブランクーシの く休息〉 とは大 きな違いがある。 く休息〉 にお ける表現 は,絵画的情感す ら感 じさせ,休息の雰囲気 を醸 し出 してい る。1906年の秋のサ ロ ン・ ドー トンヌにイタリアの彫刻家 メダル ド・ ロ ッソが,ロウの く少年の頭部〉 を含 む三点 を 出品 している。 この時の展覧会 には,ブランクーシも くプライ ド〉 を出品 しているので,当然 口 ,ソ の作品を見ている。ロダンの躍動感か ら,デリカシーやニ ュア ンスの領域 とで も言おう かロ ッソの持つ世界1に新 しい開拓 の 目を向け始めていた様子が伺える。パ リで彫刻制作 に入 っ てか らの変化 は著 しい。パ リに強い決意 を持 って来たブランクーシにとって,ロダンヘの傾倒 は最初の変化 を見て読み取 る事が出来る。 しか しなが ら,その始めか ら天性の才能 を発揮 させ,
彫刻制作 を推めて きたブ ンクーシにとって,自然主義的な再現性の強い塑造の制作 に,疑間を 感 じ始めて きたのではないか。天賦のオ能の他 に,真面 日で真剣 なその性格 は,精神的な純粋 性 を思考 しは じめ:表現すべ く葛藤 していた時期 と思われる。
ロダンとの出会い・別れ
1906年の秋のサロン・ ドー トンヌヘの くプライ ド〉の出品は,ロダンの 目に留 まった。助手 としてア トリエに来て働 くよう,ロダンに勧め られる。 この事の裏には,ブランクーシの友人 とパ トロンの二人の女性がロダンに働 きかけたようである。パ リのボザールにいたブランクー シは,ボザ∵ルの年令制限にかか っていた。 この働 きかけは,喜んだに違いない。1907年 1月 にボザールを出た後,すぐにロダンのア トリエで働 いている。 しか し,ロダンのア トリエ にい たのは 3月 までの 3ヶ 月間だけである。余 りに有名な「大樹 の下では何 も育たない。」 とい う 言葉 を残 してア トリエ を退 くのであるが,このエ ピソー ドが 二人の巨匠の別れ"と,美術史 の流れの中で捉 えれば美 しい。だが,大巨匠であったロダンと,31歳とはいえ遅 くに彫刻 を始 めた言わば青年期のブランクーシの状態 を考 えると,話は別である。ブランクーシのその後の 方向転換 と彫刻の仕業 を知 っている者 にとっては,この三 ヶ月の中にキニワー ドが隠されてい
る様 に思える。
この頃のブランクーシの状況 は,心境 か ら述べ ると,精神状態 は非常 にデ リケー トで鋭敏 な 状態であった と思 える。 この事 を作品 を通 して考 えるならば くプライ ド〉 の後 に「子供」の彫
秀 坂
刻制作が行 なわれ感情表現の追求がなされている事や,「画家の肖像」の ような,構造 を くず して まで光の効果 の為 のマチエールの研究的作品,そして,〈青春〉,く休息〉 の ようなロ ッソ に近い叙情的作品などがあげ られる。そ して,この様 な傾向が,一年間の中で進行 した とい う 事である。性格 は,生い立ちか ら見て くれば理解 される事であるが,ルーマニア出身の農民の 子 として,生命の遅 しさを感 じす ぎると見過 ご しかねない。真面 日で勤勉 な姿勢 は独学で文盲 状態 を脱去,し,人柄 となって人 を引 き付 けて きた。
この頃のロダンの状況 は,1989年のパ リ博覧会へ の出品以来,国際的 に名が知 られ る様 に なっていた。その事 を察知 したロダンは,1900年のィヾり博覧会 には自ら個展会場 を建 て,「ロ ダン展」 を行なっている。 この展覧会は,自 ら精力的に運動 した事 もあって大成功に終わるの である。ロダンはこの時の事 を「20万フランほどの売上げがあったが,これは もう少 し伸 びる はず だ。注文 もそれ以上 きている。 ほとん どすべ ての美術館が買っていった。 フィラデ イル フイアは『考 える人』 を買 った し,コペ ンハーゲ ンは8万フランを投 じて館内に独立 した部屋 をつ くった。ハンブルグ, ドレスデン,ブダペス トなどの美術館 もやってきた。」0と友人への 手紙に書いている。金の金額が出て来て嫌味な感 じは受けるが,ロダン自身にとって も,全盛
の時なのである。結局,彫刻の注文をこなす為に芸術家や技術者を雇うことになる。常時12人 以上の助手が働いたといわれる。この中には,大理石の主任をつとめたブールデルやデスピオ などの彫刻家が含 まれている。石の仕事は職人の仕事 という考えは,ヨーロッパ全土に広がっ ていた考えだが,ロダンも石に対 しては同様の考えを持っていた。
二人を同時に考える時,余りに違 う人間像が浮かび上がって くる。ブランクーシにとって,
当時,すでに教官的立場にあった,ブールデルやデスピオを職人としてのみ使 うロダンをどの 様に見たのか。ロダンの女性への行動 も,公然の事 として受けとれたのであろうか。ブラン
クーシにとって会 う前に描いていたロダン像 と目の前のロダンとの違いに驚いた事 と思われる。
多分:一番失望 した事は,彫刻の注文作品を手がけてない時の助手達に手や足をつ くらせ,注 文のあった時に,合体 させるというロダンの方法論であったろうと思う。失望無 くして,大巨 匠の許を3ヶ月で退 くはずはない。
祈 る人・ 接吻
1907年 4月 。 ロダンのア トリエ を去 るが,ルーマニアの ペ トレ・スタネスクの墓のモニュメ ン トの依頼は一つの契 機 となったであろ う。 ブランターシはモニュメ ン トの為 に 7000フ ランを得ているが,この金の一部で今 までの住 まい か らモ ンパルナス街54番地のア トリ■ を手 に入れた。墓の モニュメン トは,ペ トレとその娘の為の もので,ペ トレの
墓 の為 には胸像が作 られた。娘の墓の為 には,幾つ もの試 作 を試みている。写真 に示す ように前かがみになった裸像 に表現 されているが,始めの段階では着衣であった。左足 を少 し前 に出 してひざまづぃた若い女性が,体を前 に傾 け 頭部 は更 に下げて十字 を切 る動 きの中にまとめあげている。
左腕 はひ じの先か ら切 られている。
この作品は墓か らはず され,現在 ブカ レス トの美術館の ③祈 る 人
中に収 まっている。写真 による,マチエールなどの判断か ら,早計 に,稚拙 な勉強過程の作品 などと見ては間違いである。彫刻 は写真で判断出来ない事 を物語 る作品で,この彫刻 を目の前 に した時の感動 は今 も残 っている。彫刻のまわ りの空気 は厳粛で清澄 な深 さを現出す るも込み 上げる哀愁は,精神的な女性の裸 を美化す るё芸術家の真剣 な態度 はそのまま形 となって表わ れている。表面のマチエァルの統一は,肉感か ら遠 ざけ人格す らも退 ける。人間の肉感的躍動 を避 ける為 に単純化 された形体 は,彫刻の全体 を包み込んでいる。腕の切断は,細かな邪魔な
表現 とともにカ ットしている。
これまでブランクーシによって作 られて来た彫刻 と,〈祈 る人〉 との違 いは,その まま自ダ
ンの彫刻 との違いを現わ している。 ロダンのア トリエでの苦悩の結果がすでにブランクーシの 中にすつの方向を示 している。 ブランクーシの 〈祈 る人〉 における腕のカ ットは再現的具象彫 刻の表情の過多の消去の方法 を示 し,成功 している。 ロダンの生命表現 に必要な乳房の表現 も,
ここには見 られない。感覚 として腕の中にあるとい う事のみ確認出来る程度であるも体全体の 引 き締 まった中に統一 されている。若い女性 の姿 は,ロダンの追求の結果のエ ロチ ッチに近 よ らない。左足 は少 し前 に出 しているが,動勢の為でな く「祈 り」の中に穏やか さを示 している。
自然主義的表面の印象 を避 けたこの表現 は,ロダンの彫 刻の表現方法か らの別方向への転換 を意味 している。
〈祈 る人〉 と同年1907年の後半 に制作 され,ロダンの彫 刻 と決定的な相違 を示す く接吻〉 と題す る石彫がある。全 てにおいて,ブランクーシのそれ までの作 品 との違いを見 せ てい るので全 く別人の作 品の様 な印象 を与 える。 この く接吻〉 の制作以来,同一主題 を繰 り返 し取 り上げ,他の
テーマ と重複 して仕事が進 むようになる。他 の作家 に類 を 見ぬ長時間の中での連作 は,ブランクーシの特別 な探求方 法 と言 える。 この時か らブランク,シの彫刻の世界の開拓 は始 まった。7点ある く接吻〉 の第1作か ら第7作までの 制作年数 は33年間に及んでいる。 ロダンの彫刻の中に1886 年の く接吻〉があるが,ロダンとの一致性 を捜す とすれば,
タイ トルのみで,全ての点 で,ロダ ンに対 す るア ンチ0 テーゼである。ブランク,シの この く接吻〉の特質 をあげ るならば,'まず技術的な意味で,直彫 り (direct carving)
があげられる。19世紀のヨ■ロツパの石の彫刻はほとんど, 石膏のモデルから,カ リバスとポインティングマシーンを 使っている。 しか し,直彫 りの場合,モデルはない。腕は 想像力によって導かれ,想像力は彫刻の手順 と材料により 影響 されるのである。石は粘土の軟 らかさへの批判から来
る直線的形体 を生み出す。粘土のインスピレーション的な 仕事の発展に対 して石はいつ も確固たる形で彫刻家の許に 提示 される。直彫 りは,職人の介在無 しに,概念 と完成 を つなぎ合わせるのである。
形体の上では,乳房は輪郭が彫 られている程度で,男女
④接吻
⑤接吻 モンパルナス墓地
雄 秀 坂
の性的特色の形体は,合わ さった面の中に消失 している。 日と目を合わせ,唇は合わされて一 つ になっている。男性の髪は真直 ぐで,女性 の ものはウェープがかかっている。鼻 は合わ さっ た面の中に消 している。耳はない。男女の抱擁する姿だが全体 には一つの直方体の中に収 まっ ている。⑤の写真に示 されたものは唯一の全身像で,他は全て半身像である。繰 り返 し制作 さ れるうちに全体像は,丸みが薄れ,直方体に近づいて行 く。腕なども非再現的になり,日は記 号化 されてい く。素材については,石灰石か砂岩系の材料である。敢えてロダンと比較すると,
ロダンの く接吻〉 は,大理石で,磨かれ,光の反射が躍動感 を強めている。ブランクーシの く接吻〉においては,彫りは粗々しく,ロダンとは対照的である。③の写真の く接吻〉は,モ ンパルナス墓地にある1910年のモニュメントである。若 くして命を絶ったロシア女性の墓に,
残されたルーマニアの婚約者により依頼されて据えられたものである。この彫刻が墓に据えら れたことの解釈 と発想を探るにあた り,ルーマニアの研究家ペ トル・コマネスクの書いている ものを引用する。「昔,ル ーマニアや,そ の他の民族において,樹木は生きものと考えられ,
そ して,本は魂の化身であるとい う信仰があった。ルーマニアの農民は,若くして死 んだ墓の 上に しば しば木 を植 えた。又,愛す る男女の どちらか一方が死んで,結婚出来 なか った時に,
生 き残 っている者が死者の墓の上 に,枝がお互いにか らみ合 う様 に二本の本 をぴった りとくっ つけて植 えた。二本の本が葬式 に際 しては,永遠のかわ りなき愛の力 を表わす ように,又,結
婚 に際 しては,生,又は豊か さのシンボル となることもある。」0こ うした,イ ン ドョーロ ッパ 系の中の絡みあった樹々の伝説を関係づけた時,この墓に据えられた く接吻〉に対するプラン クーシの意図が明確化 され,そうして,その後のブランクーシの幾つかの作品のもつ両義性に は,同時 に死 に対抗 して生 と,後の新 しい世代 の産出を祝 う意味が含 まれて くるのであ る。
眠れ るミューズ
1907年 にロダンの ア トリエ を出た後,〈祈 る人〉
く接吻〉 に見 られる様 に反 ロダン的彫刻制作 を試み その中において,これか ら進 むべ き方向 を画策 して いるが,技法的開拓 の直彫 りは,翌1908年には,大
理石 によって行 なわれている。 く少女の頭部〉 く子供 の頭部〉 〈眠 り〉 〈眠る子供〉 くトルソ〉 などであるが,
ここにおいての形体表現 における追求 は,粘土 によ るモデ リングの仕事 を大理石 によるカーヴィングの 仕事 に変 えた程度 に見 えるだけである。その中で注
目されるのは,〈眠 り〉 と題する作品で,前出 した く休息〉(石膏)をルーマニア人の依頼 によ り,大理石に彫 り直 した ものである。現在 ブカ レス トの美術館 にあるこの作品は,頭部 とい う よ り顔面だけといった方が適切か も知れない彫 りにかかわ らず,「眠 り」の状態が よ く表現 さ れている。頭部の傾向きが,眠る時の傾きと呼応 して自然さを感じさせるのであろう。頭部だ けの彫刻であっても。「休息」が「眠り」にタイトルが変えられた,こ の事はプランクーシの 彫刻において重要なテーマであった事を思わせる。く眠る子供〉 という彫刻のタイ トルもこの 年の作品の中にあるが,「眠 り」は「子供」のモデリングの制作の中で二年前から続けられて いる。「眠 り」は,フロイ トなどの意識下の論に影響を受けていると思われる。1910年には
③眠れるミューズ
くBarOness R.F〉 と題する頭像がある。エ コール・ ド0パ リの画家モデ ィリアーニは1909年よ り2年間,ブランクーシのア トリエで石 を彫 っている。くBarohёss R.F〉 は,モデ ィリアーニ
の石の頭像や,描かれた女性の顔 に,引き伸 ばされた細長の顔の輪郭において,類似性 を見せ ている。モデ ィリアー■は黒人芸術やエジプ ト彫刻への関心 を持 っていたが,ブランクーシは 影響 されたか も知れない。1907年の く少女の頭部〉 とい う類似 した石の作品がブランクーシに あるが,モディリアーニの制作以前 にこの様 な作品がある所 を見ると,ブランクーシがモデ ィリ アーニに影響 したのか も知れない。いずれにせ よ,ブランクーシの彫刻の展開 としては,〈眠 り〉 の内面的思考が,〈 BarOness R.F〉 の形体 を踏 まえて く眠れる ミューズ〉へ と発展 させて いる。 〈眠れ る ミューズ〉 と題す る作 品は大理石で彫 られた,頭部 だけの彫刻である力ヽ「眠 り」の自然の状態 に,頭部 を少 し傾 けた程度 に置かれる様 に作 られている。く眠れる ミューズ〉
のテーマは繰 り返 し進め られ,進め られるに したが って,日,鼻,日の細部の表現 は,最少限
の起伏 を感 じさせ る程度へ と転開す る。その結果,頭部の持つ形 は卵形の,いかに も幾何学的
な形体へ と進展す る。実際に最後の形体,卵その ものの形体 を作 りあげるのであるが,ブラン クーシは,その作品に く世界のは じまり〉 とい うタイ トルをつけている。人間内部の心が形に 還元 されて行 く様 を明確 に言い得ている堀内正和氏の言葉 を借 りると,「幾何学的 な形 は自然 のなかには少ないが頭のなかでは容易に思い描 くことが出来 る。それは人間の内部 にある形体 秩序の感覚か ら生 まれる形だ。」m
ブランクーシは,〈眠れる ミューズ〉か ら直接 く世 界のは じま り〉 に至 った訳ではない。1910年か ら,
1920年までの10年間 を要 している訳で,その間に,
この為 に思考が繰 り返 されたであろ うと思 われる作 品 に は,くプ ロ メ テ〉 (1911)〈 眠 れ る ミュー ズ〉
(1914)く新 生〉(1915)くうぶ声〉(1917)〈新 生〉
(1920)があげ られる。
これ らの彫刻のひとつ ひとつが完結 した形 をとり,
形体の美 しさのみでな く,形体 と空 間 との緊張 をつ くり出している。それぞれの作品の大きさは,腕に かかえこめる大きさだが,「タイトル」との一致を見
せ,究極 的な大 きさを示 している。 く世界のは じま り〉が示唆す ものは,自己の世界・彫刻の世 界のは じま りと,宗教学者エ リアーデのい う宗教 における世界のは じまりともとれる。いずれ に して も,ブランクーシが1907年以降直彫 りの中で求めて来た形体 と,ブランクーシの思考 と の結実 を見る事がで きる。その結果,新たな世界への飛躍 をブランクーシの彫刻の中に,そし て押 し進めて来たプロセスの中に,己ず と発見 したのではないだろうか。く眠れるミューズ〉
くプロメテ〉く新生〉などは,大理石 (白)を光沢が出るまで磨 きあげているが,必ずプロン ズで も作 られ,やはり磨 きこまれている。その結果の材質 (素材)の特質性 と,形体による材 料の選択の厳密な使い分けがある。 しか し,この事 は,直彫 りを始めて以来,「テーマ」一
「 タイ トル」一「形体」一「材料 (素材)」 一「仕上げ (マチエール)」 の一致を見る時,初期 段階からの思考の範ちゅうにあったものととるべ きかも知れない。心 と彫亥1に内在する意味性 とブランクーシの思考形態を宗教学者エ リアーデの言葉を借 り,次の項 目への足がか りとした い。「インドの神秘主義の語彙の中に人間=家の同一視が,と りわけ頭蓋骨 と屋根あるいは円
⑦世界のはじまリ
雄
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一旦
屋根 との同一視が保持されてきた。…根本的な神秘体験,すなわち人間的状況からの解脱は
『屋根の破毀』と『空中への飛翔』という二重のイメージにようて表現されているのだ。……
大部分の古代的世界観においては,『飛翔』のイメージは超人間的な存在様態 (=神,呪術師,
『精霊』)への接近を表わし,そ して,窮極的には随意に動 くことのできる自由を,従って霊 的状態を自らのものとすることを指している。……神話的次元では,破壊という乱暴な行為に
よって この世界 を超越 す る典 型 的行為 は,宇宙 の卵 ,『 無知 の 機:轟鸞
殻』を『割 り』,『至福 とブッダの普 漏的
寺厳』 とを獲得
レをと 彗彗事:襲壽
空 間 の 鳥
〈世界のは じま り〉で結実 した一つのテーマは く空間の鳥〉
の連作へ と展開す る。テーマの重複 は,同一テーマ内での形体
の完結への方向 と,同時 に,テーマ同志の関連 をも示 している と考 えられる。ブランクーシの思考の内的作業が く世界のは じ ま り〉か ら く空 間の鳥〉へ と関連 を持 って進行 させ た として も 形体上か ら見て く空間の鳥〉の出発 は,1910年の くマイアス ト ラ〉 か らと見 るべ きであろ う。 〈マ イアス トラ〉 とは,ルーマ
ニアの伝説の中に出て くる鳥の名であるが,直接 的にルーマニ アに関連す るタイ トルが付 された唯一の作 品である。エ リアー デは「ブランクーシと神話」の中で,「『影響』 は彼 に一種の記 憶 回復 を起 こさせ,彼を不可避的に自己発見へ と導いた と言 え るだろ う。パ リの前衛芸術の作品や古代的世界 (アフ リカ)の
作品 との出会いは,彼の中に 『内在化』 の動 き,幼年時代の世 界であると同時に想像 の世界であるゆえに忘 れがたい秘密の も の となっているあの世界への回帰の動 きを,堰を切 ったように 開始 させ たのであろ う。」0と影響 を前衛芸術 やアフ リカ彫刻 に 見てい る。 しか し,直接 の引 き金は,ロダンとの出会いであ り,
決別が,自己の出発点へ引 き戻 したので はないか と考 える。前 記 したが,10年間続 けて来た技術 を捨 てた事。それは,10年間 に授 けた彫刻 の指導 とい う事 をも含めて完全 に捨 て去 ったので はないか。何故 ならば 〈祈 る人〉以前の作 品は,ブロ ンズに鋳 造 された作 品以外,〈人体標本〉 を除いて全て消失 している。
たぶん,ブランクーシの手で こわされたのであろう。(く人体標 本〉 は彫 刻 家 に指 導 され た もので はない。)こ こで,ブラ ン ク,シが帰依す る所 は何処であろうか。蓄積 して来た ものを,
自ら瓦解 して,尚 ,同じ世界 に生 きて出発 しようとす る時,34
歳 のブランクーシは,11歳で家出をした少年の頃に,必然の如
③ マ イ ア ス トラ
く考 え を巡 ら した ことと推 察す るも牧童 の頃聞いたであろ う伝 説 の話 と,その頃 ル‐マ ニ アで見 た空 を飛 ぶ鳥 は,ブラ ンクー
シの 明 るい未来 を示唆す る 自由べ の羽博 を持 って,夢を懐 かせ たのであろう。伝説の鳥 と,夢みた鳥は くマイアス トラ〉 と なって彫刻 された。一作 目の自大理石の くマイアス トラ〉は現 在ニューヨークの近代美術館にある。くDouble Car,atid〉 の上
に載 っていて,人の 目線か らはかな り上方 に作品があるように 感 じられ る6まずは威厳す ら感 じて しまう作品である。次 に豊 かに膨 らむ胸 は見 る者 と呼応 して安 らぎを与 える。全ては磨か れているが,照り返す輝 きは無 く,光は形の中に充満する。 こ の磨 きは作品の形体 と合い まって完壁 な ものである。 白大理石 の透明性 は,周囲の空間 と和合す る6ルーマニアの伝説 を彿彿 させ る。191o年の くマ イアス トラ〉か ら く空間の鳥〉 まで を連 作 として見 る と27点を数 え,30年間に渡 る連作 となる。 くマ イ アス トラ〉(7点)から く空 間の鳥〉(16点)の中間 に く鳥〉
(4点)の作 品があるが,形体的な意味での大 きな変化 として 捉 える と,四段 階 に分 ける事 が 出来 る。最初 の くマ イアス ト
ラ〉 か ら5番目の 〈マ イアス トラ〉 までは,首の傾向 きと胸の 膨 らみが微妙 に違いを見せ るだけだが6番目と7番目の くマイ アス トラ〉 は,足の部分 は変わ らないが,首か ら上 は真直 ぐ上
方 に向けられ,嘴の部分 は浅いVカ ットで示 されている。 く鳥〉(4点)に至ると,足の部分の 形体が消去 されて胸か ら一気 に下に向か らて絞 られた形 になる。上体 は, 6, 7番目と同様,
真直 ぐ上方 に向けられている。 この第3段階 までの変化の中に上昇のイメニジを見い出す事が 出来 る。その事 を裏付 ける様 に く鳥〉 か らの台座 は菱形の連結 した形 になっている。 このギザ ギザの輪郭 を持つ菱形の形 は, しぼ られた足の部分か ら豊かな胸へのフォルム と相侯 って上昇 への運動 を強める。この菱形の形体 は,ルニマニアの人家によく見 られる柱の形である。最後 の段階 く空間の鳥〉 に至 っては全体 は紡錐形 をして,嘴にあたる部分 は切断面 を残すのみ とな る。そ して,下の部分 に,下か ら上へゆるやかにすぼまる二段の形体が加えられた。第3段階 での台座部分の菱形が鳥の中に取 り入れ られたのであろう。 ここに上昇のイメージが形 となっ て完結す ると直 ぐ下の台座 は円柱の形体 に変わる。第3段階の 〈鳥〉 までは,プランクーシ自
らの タイ トルの様 に,形体 に鳥のイメージを残 している。 この事 は思考の中に「鳥」 に対する こだわ りが まだ見 られるか らであろう。 く空間の鳥〉 に至 って「上昇」のイメージの確立,「飛 翔」の概念 の思考が,別のルー トで押 し進めて きた く世界のは じま り〉 と合体 し,(自分 の)
彫刻の本質を確認 し得た時 と見たい。
〈空間の鳥〉 を見た者 は,誰で もが不思議 に思 うに違いない。特 に大理石の作 品 を見ると,
空間の中で夢 を見ている様で,作品が夢 を見ているのか,自分が夢 を見ているのか。形 は空間 の中に消 え入 る様でいて,よ くよ く見 ると確固 としてある。 この左右 シンメ トリカルな形体が 何故 に,この様 な現象 を感 じさせ るのだろうか。先端 にいって輪郭的には鋭いはずの,この細 長い形体 において,堅さはない。いやお うな しに心 を惹 き付 けるこの力は,精神の他 の何 もの で もない。人間の感性 との対話。全 て を意識下の状態の中に,自昼夢 の中に対話す るプ ラン
⑩ 空 間 の 鳥