芥川の二つの「尾生の信」
著者 仁平 道明
雑誌名 静岡大学教養部研究報告. 人文科学篇
巻 13
ページ 205‑217
発行年 1978‑03‑20
出版者 静岡大学教養部
URL http://doi.org/10.14945/00009343
芥川の二つの「尾生の信」
Two works, each entitled ttBisei no shiバ, by Akutagawa
仁 平 道 明
Michiaki NIHEI
(Received Oct.1,1977)
はじめに
大正8年1月12日,芥川龍之介は大阪毎田薪聞社学芸部の薄田淳介1》(泣董)に凍のような 手紙2)を書いている。
??
拝啓 突然こんなことを申上げるのは少々恐縮ですが私はあなたの方の社貝にしてはくれませんか。私は今 の儘の私の生活を持続して行く限りとても線な事は出来さうもない気がするのです。録な仕事が出来ないば かりではない。あなたの方の社から月に5◎円の金を貰ってゐながち一向あなたの方の社の為になる仕事が 出来ないだらうと思ふのです。今の私はあなたの方の社かち来る金と学校の報酬とで先づ生活だけは保証さ れてゐる訳ですがいくら飯を食ふ心配がなくっても自分のしたいと思ふ仕事も出来ずしなければ義理のす まぬ仕事も出来ないと云ふ事は決して愉快な事じゃありません。そこでいろいろ考へた来にこの手紙をあ なたへ書く気になったのです。(中略)私が社貝になると云ふのはあなたの方の社へ出勤する義務だけは負 はずに年に侮回かの小説を何度か書くことを条件として報酬を貰ふと云ふ事です。勿論さうすれば学校はや めてしまって純粋の作家生活にはいるのです。つまり私とあなたの方の社との今の関係を一部改造して小説 の原稿料を貰はない代りに小説を書く回数を条件に加へて報酬を一家の糊口に資する丈増して貰ふと云ふ 事になるのです。それが出来たら私も少しは仕事らしい仕事に取りかかれはしないかと思ふのです。(以下略)
内容は,これまでの社友の身分かち,夏目漱石の朝H新聞社入社にならった出社の義務のな いお抱え作家として正式に入社したいという申し入れで,その結果,同年3月海軍機学校教授 嘱託の職を辞し3》て大阪毎日新聞社に入社,「純粋の作家生活」にはいったことはよく知られる 通りである。しかし,「それが出来たら少しは仕事らしい仕事にとりかかれはしないか」と思っ て「純粋の作家生活」をはじめたこの年が,結果的に停滞期4}となり,il中央公論』大正9年4 月号に発表された小説「秋」に至る苦しい模索の時期が続くことになる。
ただ,注意しておかなければなちないのは,この停滞が単なるそれではなく,芥川の転機を 求めての模索の結果であったということである。そのことは,主としてこの時期の作品を集め た芥川の第四短篇集『影燈籠』(大正9年1月,春陽堂)を見れば明らかであろう。『影燈籠』
の目次は次の通りである。
蜜柑 沼地
きりしとほろ上人伝 龍
開化の良人 世の助の話
一一一
Q05−一
小品四種4}
あの頃の自分の事 じゆt}あの・吉助 疑惑
魔衛 葱
バルタザアル翻訳 春の心臓 同上
大正3年2月に発刊した第三次『新思潮』に載せたIE作である二っの魏訳(「バルタザアル」
「春の心臓」)と,大正6年の「世の助の話」及び「小品四種」のうちの大正6年の三つ(「女 体jr黄梁夢」丁英雄の器」)以外は大正8年中に書かれあういは発表されたものである。第一短 篇集羅生門』・第二短篇集纏草と悪灘 ・第三短篇集『塊偏師』と比べると,いわゆる時 代物よりも現代物が圏立って多い。なおこの『影燈籠』には収められなかったが,「路上」(6 月から8月『大阪毎日薪聞翻,前篇のみで中絶)「妖婆」(『中央公論灘9・10月)等がこの年の
ものとしてあげちれる。そしてこれらの多くが失敗作というべきものであった。そのことは,
実は芥jllがこれまでとは違った方向のものを求めながら失敗し,それにもめげず新生面をひら くために懸命の模索を続けていたことの証左として解釈すべきものであろう。
小論は,ちょうどこの時期に書かれた「尾生の信」という小贔の成立と位置づけを中心に,
あわせて.「尾生の信」とそれにつながるいくつかの小品をのぞき窓として,大正8年から9年 にかけての芥川の模索について考察するものである。
1 「尾生の信」の執筆時期とその典拠
芥川のヂ尾生の信」は,四百字詰の原稿用紙に直してわずか五枚足らずの小品である。しか し,片々たる小品である割には,「が,女は未だに来ない」というリフレインを持つ形式の特異 さに加えて,いわゆる中飼物であることや,最後の「それから幾干年かを隔てた後,この魂は 無数の流転を閲して,又生を人間に託さなければならなくなった。それがかう云ふ私に宿つて ゐる魂なのである。だから私は現代に生れはしたが,何一つ意味のある仕事が出来ない。昼も 夜も漫然と夢みがちな生活を送りながち,唯,何か来るべき不可思議なものばかりを待つてゐ る。丁度あの尾生が薄暮の橋の下で,永久に来ない恋人を何時までも待ち暮したやうに。」とい う部分の持つ問題ゆえか,これまでにも幾度か取り上げちれている。ただ,例えば稲垣達郎氏 の「このやうに,一種伝奇的なお話に,注釈をつけた類もまた,龍之介の歴史もののうちに一 ママ 系列をなしてゐる。『黄梁夢』『尾生の信』などがそれである。」6》とするような,「一種伝記的な お話に注釈をつけた類」としての「尾生の信」の位置づけは肯定しがたいし,また「尾生の信」
の成立の経緯に関しても,後述するように,従来の説にはまだ補われなければなちない点があ る。そこで,まず最初に,前捷となる,成立に関する基礎的な問題を整理することから話を進 めていくことにしたい。
「尾生の信」は,春陽堂から出されていた雑誌『中央文判の大正9年1月号に発表された ものである。この号は,奥付によれば,発行は大正9年1月1日,印刷納本は大正8年12月20 日(裏袈紙には23日とあり,いずれが正しいのかはわからない。)となっている。この「尾生 の倒の執筆時期について,鈴木秀子氏は,大正7年12月にf小品四種」が書かれた7》とし,
筑摩書房版『芥川龍之介全集』第一巻所収「尾生の信」本文未尾では(大正八年十二月)と注記 する。また同全集では,大正8年12月14付の岩野英枝宛のはがきに
一206一
久米のお嫁さんいろいろ難有うございました。十日会で御目にかかって御礼申し上げる所年末の原稿を書 くのが多忙な為とうとう行けなくなりました。未に出来上ちないで毎日催促されてはうんうん云ってゐる始 末です。
とある,「年末の原稿」の部分の注に「「鼠小僧次郎吉」「舞踏会」「尾生の信」などをさす」と している。
しかし,「小品四種」のうちヂ尾生の信」を除く三つは既に大正6年中に書かれるかあるいは 発表されており8),鈴木氏の「小品四種」を一一まとめにした大正7年12月という記述には従え ない。さらに,筑摩版全集の注記にしても,注を加えたはがきの文面かちは「尾生の信」と特 定しうるものは読みとれず,『中央文学雲の初出本文未尾及び『影燈籠』所収本文未尾にも執筆 年月日が記されていない以上,改めて検証を必要としよう。
前述したように,f尾生の信」は『中央文学』大正9年1月号に発表され,同月,同じ春陽堂 から出された短篇集膨燈籠』に収められた9)が,その『影燈籠』附記に,芥川は次のように記
している。
「世の助の話」は本来「{鬼傷師」に加ふべきであったが,当局の忌避に触れた為,やつと一部を溺って本集 に収める事が出来た。
二篇の翻訳は「羅生剛以前の旧稿であるが,紙数の不足を補ふ為,止むを得ず巻宋に加へる事にした。
その他は皆「塊儀師」以後の創作である。
大正八年十二月十五日
第三短篇集『塊偏師』が新潮社から出されたのは,大正8年ユ月である。それ「以後の創作」
というと,大正8年1月から12月までのものということになる。実際には,「小品四種」のう ち「尾生の信」を除く三つは大正6年中のものだったわけであるが,「その他は皆「塊儲師」以 後の創作」とされたのは,中国ものの四つの小品を一まとめにした「小品四種」のうちの「尾 生の信」が,『塊儀師』以後のものだったからであろう。
海軍機関学校を辞した大正8年は決して余裕のあった年ではない。5月に長崎旅行をしては いるが・以後「帰京後は例の如く文債の催促で毎日甚勿忙と消光しています」(5月22H付,
和気律次郎宛書簡),「僕は月評を書いたり朝(路上と改題)を書いたり毎臼うんうん云ってま す」(6月6日付・南部修太郎宛)という状態である。もちろん閑暇はあるが,習作時代のよう にあてもない原稿を書いている時期ではない。
ヂ尾生の信」も,おそらくは必要の生じたM月ごろから12月中旬までに書かれたと考える べきであろう。滝井孝作・小島政二次宛の大正8年12月17臼付の書簡には,それぞれ「やっ と今日で新年ものが書き上げられる筈だ」「やっと小説も今Hで新年号の文債を償却する筈で す」とある。また,先に引いたように,「膨燈籠』附記」のN付は12月15Hである。すなわ ち,「尾生の信」は,「その後私も新年号の小説を書く為風流地獄の苦を受けましたが幸どうに か身分を完うして居りますから乍陣御安心下さい」(大正8年12月25H付,龍村平蔵宛書簡)
と言っているように,大正8年末,幾つもの雑誌の新年号用の原稿に追われる中で書かれたの ではなかろうか。
「尾生の信」の執筆時期を以上のように考えておく。
さて,次に「尾生の信」の典拠について簡単に述べておきたい。芥川の「尾生の信」は,そ の題名も示すように,尾生という男が女と約束をして橋の下で待つうち,川の水が増してきた が約束を守って去らず,ついに溺れ死んだという,周知の中国の故事によっている。この話は 諸書にひかれており,『荘子』盗妬篇,硬記』蘇奏伝,織国策』燕策などにみえる。
芥川が何に拠ったのかということについては,吉田精一氏は硬記』蘇奏伝とされるゆが,
一一
@207一
話自体が,例えば硬記』のものll}をみても
信ナルコト罵生ノ麹キハ,女子ト梁下二期ス。女子来ラズ。水至ルモ去ラズ。柱ヲ抱キテ死ス。
というだけの短いものであり,他のものも大差はなく。何に拠ったかということをこれといっ て特定するのはむずかしい。例えば,大正9年2月25臼付の小島政二郎宛書簡の中で,『戦国 策』のこの尾生の儒の話が出ている少し前のところを引用していることから,『戦国策玉のもの を読んでいることは充分考えられるし,もちろん『史調もゼ荘子義もあるであろう。またr辞 書を読む」という文章t2}の中で, r生憎自分は,語に対してそれ程の感受性を備へてゐないが,
それでも暇な時に,故事成語大事典!3)を読む位な興味はある」と芥川自身書っているように,
他の本に引かれたもの等を読んだことも考えちれる、
従って,芥川の「尾生の信」について考える場合,典拠を特定することはあまり意味もなく,
また原話がごく短いこともあり,よく行われる典拠との比較という方法は,『今昔物語集』など を素材とした他の作品の場合とは違って有効ではない。
そこで,以上のような執筆時期と典拠についての整理を踏まえ,次に他のものによる影響の 問題の検討と作贔自体の読みという手続きによって,「尾生の信」を考えることにしたい。
2。「尾生の信」のリフレイン
r尾生の儒」はこのようにはじまる。
尾生は橋の下に停んで,さつきかち女の来るのを待つてゐる。
見上げると,高い石の僑欄には蔦羅が半ば逡ひかかつて,時々その間を通りすぎる往来の人の白衣の裾が、
鮮かな入臼に照らされながら,悠々と風に吹かれて行く。が,女は未だに来ない。
尾生はそつと口笛を鳴しながら,気軽く橋の下の州を見渡した。
橋の下の黄泥の州は,二坪ばかりの広さを剰して,すぐに水と続いている。水際の藍の問には,大方蟹の 棲家であらう,いくつも円い穴があつて,其処へ波が蟻る度に,たぷりと云ふかすかな音が聞えた。が,女 は未だに来ない。
尾生は稽待遼しさうに水際まで歩を移して,舟一艘通らない静かな川筋を眺めはした。
川の水が増して来る中で,女を待つ尾生の姿が,同じような筆致でこの後描かれて行く。そし てその問に,「が,女は未だに来ない。」というリフレインが繰り返し用いられる。最後の部分 を除けば四百字詰原稿用紙でわずか四枚足ちずの長さのところで七回である。
一体,芥潤の小説には,りブレインとも言うべき表現が用いられているものが幾つかある。
例えば初期のものでは,「羅生門」の最初の部分に,
広い門の下には,この男の外に誰もゐない。唯,所々丹塗の剥げた,大きな円柱に,幡蜂が一匹とまつて ゐる。羅生門が,朱雀大路にある以上は,この男の外にも,雨やみをする市女笠や揉鳥帽子が,もう二三人 はありさうなものである。それが,この男の外には誰もゐない。
という,りブレインと見なされる表現がある。また後のものでは,「六の宮の姫君」にもそれが 見られる。乳母が,暮しのために男を通わせることをすすめる二つの場面である。
??
姫饗は寂しい屋形の対に,やはり昔と少しも変らず,琴を引いたり歌を詠んだり,単調な遊びを繰返してゐ
た。
すると或秋のタぐれ,乳母は姫君の前へ出ると,考へ考へこんな事を云つた。
しかし姫君は昔の通り,琴や歌に気を晴ちしながら,ぢつと男を待ち続けてゐた。
するとその年の秋の月夜乳母は姫君の前へ出ると,考へ考へこんな事を云った。
これも一種のリフレインである。また,芥川は,このようなリフレインだけでなく,文末を倒 置法省略等で余韻をひびかせるという手法をよく用いている。
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しかし,芥川の文体にそのような傾向があるとは言え,「尾生の信」の場合,その度が過ぎた だけの散文詩的な小品として片づけることのできない事情があるa「毘生の信」のリフレインに は,その成立に由来する理由があり,また,それは,後述するように芥川のこの時期の方法上 の模索の一つのあらわれを示すものであったのである。
「尾生の信」のリフレインについて,従来は次の様な見方がとられている。
これ(注・The Ravenの弓ブレイン)と比較できるのは,芥川のやはり散文詩的な小品「羅生の信」で彼 がこころみている反復の効果である。〈中略)永久に復ちぬ恋人を空しく待つ男という主題の設定は「大鴉」
に似ているし,石の橋,川の水,空の光,青い薩などのイメージを反復し,また各章節の終りに,rが,女は 未だに来ない」という句を七回も反復使用している。単調な語句のくり返しといい,否定的な意味といい,
「大鴉」の Nevermore というリフレインの効果を模していることはほとんど疑えないe
この江口裕子氏の説i4)は,上掲したように,芥規の「尾生の信」がエドガー・アラン・ボー
(Edgar AIIan Poe>の詩「大鴉」(The Raven>を下敷にしたものであり,「が,女は未だに来 ない」というリフレインもそこから来ているとするものである。
確かに,芥川はPoeの TfOe Raven を読んではいた。芥川は,はやくからPoeに親しみ,
例えば,
彼はポオの短篇を一日に一頁つつ訳して行つた。しかしこれも容易ではなかつた。彼は複雑な従属句の前に 度たびペンを樋り出した。(中略)元来彼の志したのは完全にポイを訳すよりも,寧ろ大は一一篇の布置を,小 は文章の構成をポオに学ぷことに潜んでゐた。(「大導寺信輔の半生」別稿)
という後年の変形された回顧が,どの程度真実を伝えているかはさだかではないが,Poeの影 響が小さなものでなかったことはうかがえよう。The Ravenそのものについても,昭和2年5
月に新潟高等学校で行なった「ポオの一面」という題の講演草稿に
マ マ
Raven ノ創作仮定ヲ説明セルモノ15)
とある通り,読んでいる。またそれ以前のもので,芥川がThe Ravenを読んでいることを示す ものもある。大正9年頃のものと推定される「幽霊」という未発表の詩16)は,
蒼白いお前のすがたは,何時となく私達の部屋へはいつて来る お前は何が欲しいのだ
私の愛か それとも又 妻の愛か しかしお前は 私の問に答へない
さうして唯 部屋のすみにたたずみながら,おごそかな眼で しつかに私たちを見つめてゐる 星のいぶきのやうなお前のすがたの向うに
窓かけのわすれ草をちらつかせながら
というものであるが,これにはThe Ravenの影響のあとが色濃く残っている。なおこの詩に特 に深くかかわるのは,
Andしhe Raven, never fiitting, sti圭l is sitもing, stM is sitting
On出e pallid busもof Pallas just above my chamber d◎or;
A範dhis eyes ha▽e all thεseeming of a dem◎n s that is(lreaming,
And the lamp−light o er him streaming thows his shadow on the flo◎r;
And my sou]from out tha£shadow that lies fl◎ating◎n the floor
shall be lifted−nevermore!
という最終聯であろう。
しかし,実は,後述するように,『中央文学』のために書いた大正8年末ではなく,大正元年 から3年頃までに,芥川がThe Ravenを読んでいないと,江口氏の言う影響関係は成り立たな いのであるが,その点は不明である。さらに,芥川の「尾生の信」とPoeのThe Ravenを比
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較しても,影響関係を確認しうるほどの決定的な徴証はないようにも思われる。結局,両者の 影響関係は,肯定も否定もしがたいが,The Ravenの影響の問題は,「尾生の信」を考える上で,
もともとあまり意味をもたない。
肝心のリフレインにしても,芥川の小品r尾生の信」のりブレインをもつスタイルは,Poeの The Ravenの影響によって直接生まれたのではなく,別の理由があったのである。
3..1つの「尾生の信」
芥川は次のような詩を残している。大正元年から大正3年頃のものと推定される,「尾生の信」
という題の未発表の詩である17)。
尾生の信
たそがるる溜橋の下に 来む入を昆生ぞ待てる 橋欄ははるかに黒し そのほとりとぶは蝋輻 いつか来むあはれ明眸
かくて待つ時のあゆみは さす潮のはやきにも似ず さ青なる水はしつかに
lつ
履のへを今こそひたせ いつか来むあはれ明眸
足ゆ腰ゆ ふとはら 漫々と水は満つれど まこと さ弓やらず毘生が信
月しろも今こそせしか いつか来むあはれ明眸
ママざえ
わざ才をわれとたのみて いたづらに来むHを待てる われはげに尾生に似るか よるべなき「生」の礪下に いつか来むあはれ明鉾
『中央文学』所載の小品「尾生の信」が「いつか来むあはれ明眸」というリフレインをもつ 同題のこの詩に基づいていることは,もはや雪うまでもないであろう。
なお,この詩を大正元年から3年ごろのものとする,葛巻氏の根拠は明らかではないが,内 容から考えて,氏の推定は正しいように思われる。第四聯をみよう。
わざ才をわれとたのみて いたづらに来む臼を待てる われはげに尾生に似るか
fわざ才jは「わが才」の誤りであろう。この第四聯は,第三聯までの尾生の姿を自らの姿に 重ね,自らの思いを表白した部分である。ここには,この詩を書いた当時の芥川の思いという
ものが,かなり生な形で表われており,またそこから,この詩がどのような時期に書かれたか
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ということを,うかがい知ることができるようである。自らの才を侍んで「来むHjを待つ芥 川の野心と希望,そして不安。またそのような気持を持つ自らに対する幾分の含蓋と自潮。こ のような気持が,大正5年5月の「鼻」が漱石に認められ,以来次々と作品がいろいろな雑誌 に載り,9月のil新小説翌に「芋粥」を,そして10月にはついに『中央公論』に「手巾」を載 せ,「この頃僕も文壇へ入籍届だけは出せました」(大正5年10月24日付,原…善一郎宛書簡)
と書くような時期以前のものであるとは明らかであろう。
大正元年から3年頃といえば,一高から東大にかけての学生時代にあたり,f大導寺信輔の半 生」別稿の記述によれば,
ヂええ,わたしは何でもえらい学者になりたいのです。
下界の事から天上の事まで窮めまして,
自然と学問とに 通ヒたいと存じます。
「フアフスト」の中の学生はかうメフトストレエVスに語ってゐる。この言葉はそのまま学生時代の信輔に も当て嵌まる心もちだつた。尤も彼のなりたいものは必しも学者とは限らなかった。それは純粋の学者より も寧ろ学者に近いものだった。或は芸術家にも近いものだつた。が,兎に角「精神的にえらいもの」である には違ひなかった。彼は只この「精神的にえらいもの」になるのに満足してゐた。思想家になるとか,詩人 になるとか,或は又小説家になるとか,具体的には何も考へなかった。その又「精神的にえらいもの」は何 か無造作になれさうだつた。若し彼さへなりたいと思へば,一一彼さへほんたうになりたいと思へば!彼は かう言ふ空想の中に漫然と何年かの月日を暮した。
という時期であった。詩「尾生の信」が書かれたのは,このころと考えてよい。
従って,その詩r尾生の信」が,既に作家としての地位を確立していた大正8年末に小品「尾 生の信」として生まれかわった時,二つの作品の間には決定的な差異が生じる。最後の部分で,
それまでの尾生についての話が,実は自らの内面を吐露するためのものであったということが 明かされるという構成は両者とも変わりはない。しかし,尾生の姿に重ね合わせられた芥川の 姿と思いは,時期を異にする以上,詩「尾生の信」のそれと小品「尾生の倒におけるそれと は,決して同じものではありえないのである。その結果,二つの「尾生の信」に描かれた尾生 の姿はこのように異なる。
詩「尾生の信」では,
足ゆ腰ゆ ふとはら 漫々と水は満つれど まこと さりやらず尾生が信
という,迷いをもたぬたしかな愚直さが描かれる。それに対して,小品「尾生の側の,
尾生は稽待遠しさうに水際まで歩を移して,舟…v−一一艘通らない静かな川筋を眺めまはした。
(中略)
尾生は水際から歩をめぐらせて,今度は広くもない州の上を,あちらこちらと歩きながら,徐に暮色を加へ て行く,あたりの静かさに耳を傾けた。
(中略)
尾生は険しく眉をひそめながら,橋の下のうす暮い州を愈足早に歩き始めた。
(中略)
尾生はとうとう立ちすくんだ。川の水はもう沓を濡しながら,鋼鉄よりも冷やかな光を湛へて漫々と橋の下 に広がってゐる。
〈中略)
尾生は水の中に立つた儘,まだ一縷の望を便りに,何度も橋の空へ眼をやつた。
という姿は,いかに弱々しいことであろうか。焦躁と疲れとあきらめのはてに,尾生はもう女
一211一
を待ってさえないbそのことは,
が,毘生の魂は,寂しい天心の月の光に,思ひ憧れたせゐかも知れない・ひそかに死骸を抜け出すと・ほの かに明るんだ空の向うへ,まるで水の勾や藻の旬が音もなく川から立ち昇るやうに・ うらうらと高く昇つて
しまつたs・…・・という部分に示されていよう。小品r尾生の信」には,決してたくましいまでの愚直さは描か れていなV㌔
すなわち,詩f尾生の信」において芥川が待ち求めていたものは・文字通り「来む日」であっ た。それに対して,「来むHjがすでに訪れていた大正年未・芥川が小品f尾生の信jで示した ものは焦躁と疲労からの救いである,r何か来るべき不可思議なもの」への希求であったのであ
る。
4.大正8年の模索
ここで,大正8年末の焦躁と疲労に至る経過を概観しておく。そうすることによって,「尾生 の信」において芥川の表出したものを,前述したように理解することの妥当性も明らかになる であろう。
大正8年の芥lliの模索は唐突に理由なくはじまったわけではなく,当然,それは自ちのおち いっていたマンネリズムに対する自覚の結果であった。
普通には,この自覚を,大正8年10月の「芸術その他」(『新灘11月号〉に見る。
就中恐る可きものは停滞だ。いや芸衛の境に停滞と云ふ事はない。進歩しなければ必退歩するのだ。芸術家 が退歩する時,常に一種の自動作用が始まる。と云ふ意味は,同じやうな作晶ばかり書く事だ。自動作用が 始まったら,それは芸術家としての死に瀕したものと思はなければならぬ。僕自身r龍」を書いた時は,明 にこの種の死に瀕してゐた。(中略)危険なのは技巧ではない。技巧を駆使する小器用さなのだ。小器馬さは 真面冒さの足りない所を胡麻化し易い。御恥しいが僕の悪作の中にはさう云ふ器用さだけの作品も交ってゐ る。(申略)追々僕も一生懸命にならないと,浮ばれない時が近づくらしい。
しかし,芥川はこの「芸術その他」の時点ではじめてそれを自覚したわけではない。実は,
その自覚はもっと早くはじまっていた。大正8年4月に「龍」(『中央公謝5月号)を書いた 時でさえそれはあったのであろう:8)。そして,それはもう少し前にさかのぼり得る。三好行雄 氏に,「大正七年十月の「邪宗門」は「地獄変」の後日課に擬して書きはじめられているし,
大正八年二月の「開化の良人」は「開化の殺人」の本多子爵をふたたび登場させる。おなじく 三月の「きりしとほろ上人伝」は作品の完成度は確かに高いが,小説の趣向自体は〈これは予 が嘗て三田文学誌上に掲載した「奉教人の死と同じく,予が所蔵の切支丹版「れげんだ・おう れあ」の一章に,多少の潤色を加へたもの〉という小序のとおりに,「奉教人の死」の二番煎じ にすぎない。19》」という指摘があるが,マンネリズムが「龍」以前にはじまっていたことを,
芥川自身よく知っていたはずである。「「龍」を書いた時」とか「追々僕も一生懸命にならない と,浮ばれない時が近づくらしい」という書い方は,それより先既に追いこまれていた芥川の,
余裕をみせようとする精一杯の# Bffにすぎない。
例えば,ヂ今までは主として自己以外の生活,入物,.出来事を描いて来たが,漸く自己の生活,
自己の出来事の中に作品の題材を得ようとする新傾向を見せて来たj(宮島新三郎「本年度に於 ける創作界総決算」,『新小説』大正8年12月号)と評された,大正8年1月の「毛利先生」
(『新潮曇),「あの頃の自分の事」(『中央公論』)は,それ以前のマンネリズムに対する自覚に発 する模索を示すのであったろう。たしかに,「毛利先生」は,現代物であり,しかも一見作者の
絡己の生活・自己の出来事」に「題材を得」ているかのようによそおっていながら,実は,
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仮構の主人公である毛利先生を泳がせ,最後に「ああ,毛利先生。今こそ自分は先生を一先 生の健気な人格を始めて髪髭し得たやうな心もちがする。(中略)先生にとって英語を教へると 云ふ事は,空気を呼吸すると云ふ事と共に,寸刻と錐も止める事は出来ない。(中略)思へばこ の暇つぶしと云ひ生活の為と云ふ,世間の俗悪な解釈の為に,我毛利先生はどんなにか苦しん だ事であらう。元よりさう云ふ苦しみの中にも,先生は絶えず悠然たる態度を示しながら,(中 略〉不退転の訳読を続けて行った。しかし先生の眼の中には,それでも猶時として,先生の教 授を受ける生徒たちの一恐ちくは先生が面してゐるこの世間全体の一同情を哀願する閃き が傷ましくも宿ってゐたではないか。」という陣腐な落ちをつけただけのものであった6また,
自己の学生時代の生活の内面と外面をそのままさらけ出したかのように見せた「あの頃の自分 の事jにしても・三好行雄氏の「私的な体験をえがきながち,この小説に,作者の肉声がほと んどひびかない20)」という指摘の通りであった。しかし,「澄江堂雑記」の「たとへば僕も一茶 のやうに交合記録を書いたとする。それを又中央公論か何かの新年号に載せたとする。読者は 皆面白がる。批評家は一転機を来したなどと褒める。友だちは愈裸になったなどと,一考へ ただけでも鳥肌になる。(中略)誰が御苦労にも恥ぢ入りたいことを告白小説などに作るもの か・」(十六告白)という欝は,実は,「毛利先生」における小さな試みの失敗と,「あの頃の 自分の事」の中途半端な方向転換に対する後悔を,逆説的な表現で糊塗しようとするものだっ たのではなかろうか。
このように,退路を確保21)しながらも,模索ははじまっていた。従って,以前の繰り返しと しての「開化の良人」(2月〉,「きりしとほろ上人倒(3月),「龍」(4月)は,再び新しい試 みにとりかかるためのつなぎに,安全な「今までのブイイルド22)」で書かれたものにすぎず,
出来はともかくとして,それは苦い自覚を伴っていた。「芸術その他」はその繊悔でもある。
さて,大正8年4月,鎌倉から田端に引き上げた芥川は,いよいよ以前手をつけかけた新し い「ブイイルド」に取りかかる。この時期現代ものが増え,「今までのブイイルド」の作品が一 時姿を消すのはその決意の程を示していよう。
「龍」以後は,5月の『新潮蓋に「私の出遇った事」(「蜜柑」「沼地」)を載せ,そして6月 30Hかち『大阪毎臼新聞』に「路上」の連載を開始する。新聞への連載は勿論これがはじめて ではなく幾度かの経験がある。前年の大正7年について書えば,「地獄変」(『大阪毎日新聞』『東 京日日新欄』5月),「邪宗門」(『東京日臼新聞』10月〜12月)がある。この二っは社友として の契約により書かれたものであったが,「地獄変jは中編として完結するものの,r邪宗門」は 途中で投げ出される。そのことに対して責任を感じていたことは,はじめに引いた薄田淳介へ の入社の申し入れの手紙にあらわれている。正式入社後の連載第一作に芥川が力を入れたのは 当然のことであった。だからこそここで彼は,マンネリ化した王朝ものをえらばず,新しい「あ の頃の自分の事」の世界をとる。自らの学生時代を材料とし,「あの頃の自分の事」よりさらに 対象化の度を加えて描くのである。
しかし,こうして書かれた「路上jは,「芥川龍之介」が「安田俊助」となっただけではなく,
その世界自体が,虚と実がそれをつなぐものを持たないまま混在したものであった。よく知ら れるように,「路上」の幾つかの場面は,漱石の「三四郎」等を模倣する。そして,「路上」を 動かすべき「一人の初子に天国を見てゐる野村と,多くの女に地獄を見てゐる大井と」の二つ の愛にしても,いかにもありそうな仮構のものにすぎない。それが「彼自身の辰子に対する愛」
というものとからみ合い,芥Jllが自分の流した血を一吉田弥生との失恋23》だったにせよ,ま た妻となった文子との愛24)にもせよ一見せざるを得なくなった時,「路上」は中絶する。もっ とも,自らの血を流して見せたところで,仮構の部分が勝手に一人歩きをしている以上,それ
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らをつなぐことができずに破綻するのは眼に見えていた。このようなr路上」の方法上の失敗 は,「その後路上更に捗取らずまだ二三回の所を俳徊している。」(6月i8日,南部修太郎宛書 簡〉,f僕の路上はもう大阪に出てゐるe但し愈出で・愈愚作になりさうなので少なからず悲観 してゐる、この頃入に会ふ元気さへなし。」〈7月3H付,同〉というように,既に出発点から 芥川を苦しめつづけていたのである。
この後芥川は,r路上」の中絶の前にr疑惑」(ガ中央公論』7月号)を,そして「じゅりあの・
吉助」〈『新小説』8月号>r妖婆」(『中央公謝9月号・10月号)と書いていく。だが,結果は 次のようなことになる。
中央公諭の「疑惑」所々で人に褒められ候も小生の見によれば同じく愚作にてこれ又褒められる丈不快干万 に候。(7月30B付,薄田淳介宛書簡)
妖婆愈出で・愈愚なり。今度は自分ながら辟易した。(10月5臼付,南部修太郎宛〉
そのような中で,芥Blが「じゆりあの・吉助」や後のr鼠小僧次郎吉j(紳央公論』大正9年 ユ月号)などの,旧作の繰り返しの作品をどのような気持で書いたかを思うべきである。疲労 と焦躁は既に「蜜柑」「沼地jにあちわれているが,この時点に至って出ll 3はまだ見出されてい ない。私生活面で,その後ながく彼を苦しめる秀しげ子との恋愛という泥沼におちいったこと
も,その感をさらに強めることになったであろうa
そして,大正8年をふりかえって,芥川は10月27日付の小島政二郎宛の手紙の中でこう書
いている。
f窓」は俗悪創作生播を打破する記念に書いたのです。沢木さんに献じたのは漸塊の意を表し聾々精進の志 を決する為でした。これから手竪く押して行きたいと思つてゐます。どうも今年の創作生活は新年から調子 が狂つてゐた。
「これから手堅く押して行きたい」云々という言葉は,それが中途で失敗に終ったにせよとも かくも大正8年において新しい試みがなされたことを意味し,同時に,以後新しい試みからや や後退することをも意味している。
「手堅く押して」行った結果,大正9年には,「舞踏会」(『新潮』1月号)が,そして彼自身 をしてr僕は一つ難関を通過したよ。これからは悟後の修業だ。」(大正9年4月13日付南部 修太郎宛)と言わしめた「秋」(『中央公論』4月号)という佳作がうまれる。しかし,それら は所詮「手堅く押して」書かれたものである以上,例えば,写実的で,題材が新しく時代が王 朝時代ではないというだけのことで,もはや通説となっているように,方法的に新しいもので はない。従って,大正8年から9年にかけての芥川の創作が,例えば羽鳥徹哉氏に「大正八、
九年頃,芥川には現代小説が多くなった。その意味を考えるのが私に与えられた課題だが,あ まり気乗がしない。理由の第一は,そういう問題は,これまでにかなり論じられ,現代小説と いっても,それは自己告白とか薪しい現実の開示とか,要するにそれまでの芥川の作品と本質 的に違うところへ出ていったというものではない,というのが,行きついた大方の意見で,私 もそれはそうだろうと思うからである。25」と評価されるのも,それなりに理由のあることであ
る。
とは言え,芥ll{の模索は,前述したような,「秋」につながる形だけで終ったのではなく,別 のあちわれ方があったことを見落してはなるまい。ただそれは,行き詰った状況の中で焦躁と 疲労を,ある形で表出するという一見消極的なあり方をしただけである。
5.r尾生の信」の位置づけ
「尾生の倒は,以上述べてきたような状況の中で,学生時代の詩稿をもとにして書かれた。
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また,大正8年末に小品として書き直された時,そこに託されたものは,詩とは全く違ったも のであり,小品r尾生の信」から読みとれるその思いは,ちょうどそれを書いた時芥jllのおか れていた状況と重なり合うものであった。
だが,このように理解したところで,まだ依然として問題は解決されていない。それは,な ぜ小品r尾生の信」にブレインが引き継がれたのかという問題である。小品「尾生の信」のリ フレインのある形式が,詩「尾生の信」をもとにしたことに由来するというだけでは,説明に なっていない。
このことについては,例えば,幾つもの原稿に追われて,昔の詩稿をそのまま散文化して少々 手を加える位のことで片付けたためにのこされてしたった,というような解釈もあるかも知れ ない。「尾生の信]を書いたのが,同じころ書いた「鼠小僧次郎吉」の『中央公論」やr舞踏会」
の噺灘に比してややおちる『中央文学』のためであったから,その程度でお茶を濁したと いうことである。しカし,それはおそらく理由の一部にしかなり得ない。大正8年末に「尾生の 信」がリフレインをもったことには,もっと大きな,この時期の芥川の模索にかかわる本質的 な理由があったのではなかろうか。それを裏づけるのが,r尾生の信」につながる幾つかの小品 の存在である。
芥川に,それがそれまでの焦躁と疲労のもたらした錯覚であったにせよ,転機をつかみ得 たと思わせた「秋」の少し前,『改造』の大正9年4月号のために二つの小品が書かれる。3月 31日付の南部修太郎宛のはがきで,「頃来H々風流地獄に堕つ。僅に小品二,小説は三分の 一だけ稿成りしのみ。窮状幸に同情せよ。」と言っている,二つの小品がそれである。『改造』
を見ると,目次は「小品二種」とあり,「沼」「秋26}」の二っからなる。「沼」は,「おれは沼の ほとりを歩いてゐる。昼か,夜か,それもおれにはわかちない。唯,どこかで蒼鷺の喘く声が したと思つたち,薙葛に掩はれた木々の梢に,うす明りの灰めく空が見えた。」という書き出し ではじまり,「昼か,夜か,それもおれにはわかちない。」という言葉が度々繰り返される。こ のリフレインはr尾生の倒との関連を考えさせるが,事実,「沼」は内容的には「尾生の信」
の続篇としての世界を持っている。水とか藻とか,それらの匂,羅葛とかあこがれ,そして溺 死などの「尾生の信」と共通した道具だての中で,「沼」は次のように終わる。
畳か,夜か,それもおれにはわからないeおれの死骸は沼の底の滑な泥に横はつてゐる。(中略)この水の下 にこそ不思議な世界があると思ったのは,やはりおれの迷だったのであらうか。事によるとInvitation au V◎yageの曲も,この沼の精が悪戯におれの耳を欺したのかも知れない。が,さう思ってゐる内に,何やら 細い茎が… ・一すぢ,おれの死骸の口の中から,すらすちと長く伸び始めた。さうしてそれが頭の上の水面へや つと届いたと思ふと,忽ち白い睡蓮の花が,丈の高い藍に囲まれた,藻の匂のする沼の中に,的礫と鮮な蒼
を破つた。これがおれの憧れてゐた,不思議な世界だつたのだな。一おれの死骸はかう思ひながら,その玉のやう な睡蓮の花を何時までもじっと仰ぎ見てゐた。
「尾生の信」の焦躁と疲労からの,救済である。なお,この部分には,漱石の『夢十夜』の第 一夜の影響が明白であるが,その意味は後で明ちかになろう。もう一つの小品「秋」も,「沼」
と無関係ではない。「おれは日比谷公園を歩いてゐた。」という書き出しではじまり,「寸刻も休 みない売文生活」による「疲労と倦怠」の思いが語ちれる。そして最後の部分は「沼」と同じ
く,それらの救済である。
が,おれの心の中には,今までの疲労と倦怠との代りにs梅時か静な悦びがしつとりと薄明く溢れてゐた。
あの二人が死んだと思つたのは、憐むべきおれの迷いたるに過ぎない。寒山拾得は生きてゐる。永却の流転 を閲しながらも,今臼猶この公園の篠懸の落葉を掻いてゐる。あの二人が生きてゐる限り,懐しい古東洋の
一一Q15・一一
秋の夢は,まだ全く東京の町から消え去つてゐないのに違いない。売文生活に疲れたおれをよみ返らせてく れる秋の夢は。〈以下略1
さらに,この「秋」という小品は,同じ頃書かれた「寒山拾得jには,運慶が仁王を刻んでい るのを見て来た漱石の話や,「自分」が寒山拾得を見る話などがあって,ここにも「夢十夜」の 模倣が見ちれるのだが,ここでは触れないでおく。
さて,このような一連の小品,r尾生の側「沼」「秋」などを特徴づけているものは,焦躁と 疲労と倦怠」からの救いを求める思いが色濃く表出されていることである。では,「澄江堂雑記」
で縷はもの見高い諸君に僕の暮しの奥底をお霞にかけるのは不快である」(十六 告白)と語 る芥川にとって,行き詰って苦しむ自ちの内面をこのようにさらけ出すことが,なぜ可能であっ たのだろうか。
それに答えるものが,これち一連の小品に用いられている方法である。「沼」にしても「秋」
にしても,すぺて夢幻の世界の語りである。「沼」f秋」において用いられる「おれ」という一 人称も,実は,夢幻の世界における独白という形式に由来することは言うまでもない。また,
このような,夢という額縁をはめるという方法が,漱石の「夢十夜」に学んだものであること は,「沼」における「夢十夜」の影響のあとからもうかがえよう。「沼」において用いられるリ フレインは,詩的なヴェールをかけ,夢の世界としての性格をさらに強調する。
「尾生の信」においても,尾生の姿が自らの内面を託したものであることを明ちかにするに あたって,詩的な世界としての枠をはめた上でそれを行っているのであり,「が,女は未だに来 ない」というリフレインはそのためのものであったとは考えられないだろうか。詩「尾生の信」
に託された学生時代の芥川の思いは,おそらく詩という形式を借りなければ語るには抵抗を感 じる生々しいものであった。それを語ることを可能にした,「形式」という方法が,小品「尾生 の信」でも用いちれたのであろう、よく芥川の告白嫌いということが言われるが,自らを語る 気はずかしさを除くという方法上の解決がつけばよいのである。それ以前の「戯作三昧」はそ れを証するものである。リフレインのある「沼」は,「尾生の信」の方法を応用し,さらに漱石 の「夢十夜」の方法をあわせ用いたわけである。
結局,「尾生の信」は,同じ中国物でも,「黄梁夢」や「英雄の器」のような人生観や人物像 を従来の解釈とは違った形でひねってみせただけの作品とは,同列に論じることはできない。
薪しい「ブイイルド」と方法を模索しながら,それを見出し得ない,行き詰まり追いつめられ た状況の中で,現在の自らの内面を,「形式」という方法でさらけ出したものが,「尾生の信」
とそれにつながる一連の小品であろう。とすれば,芥川がそれらの小品を書いた時,実は,晩 年の「歯車」や「或阿呆の一生」はもはや一歩の距離にあったのである。
注
ママ 1)吉田精一犀芥川龍之介憲(昭和33・1)に,「彼は大阪毎日の学術部長薄田淳介と直接交渉して,今まで の役友をやめ,正式の社員として入社することを計った,」(p.133)とあるが,薄田淳介(泣童)が昇任 したのは大正8年6月であり,この時はまだ学芸部長ではない。
2)私に句点のみ補った。なお引用は筑摩書房版勝川龍之介全集爵による。
3)芥川の寮筆年譜によればr八年(中略)三月海軍機関学校嘱託を辞し,大阪毎B新聞社に入る。」どある。
但し,大正8年4月3鶏付池崎忠孝宛のはがきに「小生まだ免官の辞令出ず尻の落ち着き所に窮しつ・
あり」とあるので,あるいは辞令上の日付は4月以後であったかも知れない。
4)「彼の芸術活動の中たるみといった形で大正八・九年はもっとも精彩にとぼしい年度だった。」(吉田精
一前掲書P,141)。一216一
5)ギ女体」「黄梁夢jr英雄の器jr尾生の儒」の四つ。
61稲垣達郎歴吏小説家としての芥川龍之介」(illfi jil龍之介研究」所収。昭和17年7月)。
7)鈴木秀子ヂ芥川・短篇集の分析 第四短篇集膨燈籠jJ(『国文学』昭和52年5月号>e 8>ヂ小品四種」のうちr罷生の信」を除いた三つの発表年月は次の通り。
「女体」 大正6年IO月1臼(『帝国文学の。
「黄梁夢」 同上(『中央文学』)。
「英雄の器」 大正7年1月ユ臼く9人文」)。
一応三つとも大正6年中に書かれたものと考えてよいであろう。
9)『中央文学』の目次には「尾生の信(小説)……芥川龍之介」とあり,『影燈籠雲では,霞次は「小品四 種」として汝体jf黄梁夢」f英雄の器∬尾生の儒」を一まとめにしてある。なお両者における本文の 異同は殆どなく,紳央文学』において「僑の下の淵」とある誤植が,膨燈籠』所収のもので「州」と 正されている程度である。
le)吉田精一前掲書P.283その他。
11)表記の都合上書き下した。
12)葛巻義敏編窪芥川龍之介未定稿集』(昭和43年2月)所収。大正9年頃のものとしている。
13)明治4◎年10月に発行され,大正8年までに二十数版を重ねている明治書院の『故事成語大辞典』〈簡野 道明著)のことであろうか。なお,同書には「毘生之儒」の項圏があ弓,『史記凄『蓑刊の話などがひ かれている。
14>江ロ裕子『エドガア・ボア論考一芥川龍之介とエドガア・ポオー』(昭和43年U月)P.ユ36。
ユ5)Th・・Phiicsophy of G・mb・・itien ftさすか.この中でP・eはTh、・Rav、nのt」フv6ンについて述べて
いる。ヱ6)葛巻義敏前掲書所収。
ユ7) ヱ6 こ同ヒ。
18)大正8年4月15日付の江口換宛の田端からの手紙に「僕は今中央公論を十八日迄に書き上ぐべき義務が あってうんうん云ひながら小説を書いてゐる」とあるのは「龍」のことである。4月28H付の手紙(薄 田淳介宛)に「やつと今日鎌倉からこちらへ引き移りました」とあるように〜鎌倉の後始末のすまない あわただしさの中で書かれた。しかも,実父新原敏三が3月i6日に亡くなっている。そのため,やむを 得ず手なれた方法と材料で書いたという事情もあったろう。
19)三好行雄『芥lll龍之介論』(昭和5ユ年9月)p.198。
2◎)三好氏前掲書P.209。
2ユ)大正8年2月4臼付の南部修太郎宛の次の書簡にも,そのことがうかがえる。
正月に描いた二つの作品が今までの傾向と多少異つてゐるのは事実です。里見弓享看はそれを或身動 きを示すものだと云ひました。がその身動きは今までの私のブイイルドを全然捨てる為の身動き ぢやありません。それ程まだ私は「真」のカルトに雷同する勇気はないのです。私は唯私の今まで のブイイルドを広くしたいのです。(以下略)。
22)21参照。
23)森啓祐「大正三年の芥川龍之介一一その初恋をめぐっての新事実」(『国文学』昭和52年5月号〉。
24)進藤純孝『芥川龍之介』(昭和39年11月)p.271〜272。
25)鵬徹哉醜㈱の誤算〜「素数島削論」(掴蝉』昭和50年2胆)。
26)全集その他では,この「秋」を「東洋の秋」とするが,『改造』初出の題は「秋」である。
(付詑〕輔後・ 「E・kの側の執筆醐を大正8鯨と推鍛せる別の資料を見既たので付乱ておく。
俄魑晦操正8年10月IHの条1こ横梁夢,難の器誌女体」とあるのカ・それである.すな わち,この時点では,『影燈細に上記の四つ(既発表)をr小品四種」として載せるつもりであったが,
この後書かれた「尾生の信」が中国ものであったため,「蛙」が捨てられ,「尾生の信」が入ったと考え られる。従って・「尾生の信」が大正8年宋に書かれたことは確かであろう。
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