武内義雄の中国思想史学
呉 鵬
1.問題の提起
日本における近代的中国学研究は大正9年(1920年)『支那学』という雑誌の発刊を以て始め としたのである。「近代的」というのは、京都大学で狩野直喜・内藤湖南を始めとして形成され た支那学派が護教色彩の濃い伝統的な漢学の学風を反対して、中国文学・中国哲学・中国歴史学 などを含む中国に関する各領域の学問を実証科学として取り扱ったからである。狩野・内藤の両 教授の影響で、その門下の弟子たちは皆『支那学』に多く寄稿したばかりではなく、各自の研究 領域に於いてもかなり評価できる業績を取得した。武内義雄は正にその中の一人である。武内は 東北大学に於いて先秦諸子学研究という新たな研究領域を開拓して、またその門下より多くの有 名な学者が出てきたばかりではなく、中国思想史の研究領域に於いても、日本で初めて中国哲学 研究より中国思想史研究の転換を完成得たのである。
日本の中国思想史学の始祖としての武内義雄の学問はその影響が甚だ大きい。中国の偉い国学 大師である銭穆もその『先秦諸子繋年』に武内の校訂した「六国年表」を用いた。且つ武内義雄 の『中国思想史』とその前後世に問われた中国の哲学大家馮友蘭の『中国哲学史』とは並びに画 期的な著作として世界的に高い評価を受けて、中国思想史研究の魁と呼ばれる。何故日本の学者 が中国思想研究の魁と呼ばれるか、この疑問が私を刺戟して、武内義雄の学問、とくにその中国 思想史学については研究する意欲が起り始めた。そして、中国を含め、世界の研究に匹敵、いや、
最高峰の学者である武内義雄の学問方法論、惹いては京都中国学派の学問を祖国に持ち帰り、中 国の学界に伝え広めようと思う。
いままで、武内義雄の学問に関する先行研究は多くないが、諸先行研究は既にある程度武内義 雄の学問の特色を明らかにした。それは、訓詁学と校勘学を基礎とし、また原典批判を方法とし、
各々思想の内部における関連性を探究することによって、思想変遷の軌跡を辿って、最終的に独 創的な思想史学を樹立してきたということである。その独創性は正に文献学と歴史学との巧妙な 結びつけにある。本論文は、諸先行研究を踏まえて、文献実証的に、『支那学研究法』を中心に して武内義雄の文献考証学を解明し、『中国思想史』を中心にして、またそれを同時代の他の学 者の中国思想史あるいは哲学史に関する著作と比較することによって、武内義雄の『中国思想史』
の特色を明らかにし、それに加えて、実例を以て武内が如何にして訓詁校勘の文献学から中国思 想史学の樹立へ飛躍できたかを究明しようと思う。本論文に根拠とする文献資料は主に『武内義 雄全集』第八巻「思想史篇一」と第九巻「思想史篇二」である。それらを基礎として武内義雄の
と中庸の研究』・『老子と荘子』・『老子原始』・『老子の研究』などの実例を証拠としようと思う。
2.武内義雄の学術生涯
武内義雄は三重県内部村小古曾(現四日市市)の人、字は誼卿、号は述庵。明治19年(1886年)
真宗高田派の願誓寺に生まれ、父義淵は学僧として高名であった。笈を負って京都帝国大学で支 那哲学史を修め、卒業後、大阪府立図書館に勤務、懷徳堂講師となり、やがて東北帝国大学法文 学部教授として仙台に赴任、支那学第一(中国哲学)講座を開いた。学部長・図書館長等の要職 を歴任の後に退官、名誉教授となり、学士院会員としてなお東宮職御用掛、名古屋大学文学部講 師をへて、昭和35年に文化功労者として表彰を受け、昭和41年(1966年)八十歳の寿をもって逝 去した!。
金谷治によると、武内義雄の学術生涯が京都大学時代・東北大学時代・晩年時代という三つの 時代に分けられると言われる"。京都大学時代に武内義雄の清朝考証学を基礎とする学問風格が すでに確立されて、次の東北大学時代の武内は、東北大学を先秦諸子学研究の重鎮にさせて、晩 年時代の武内は、後学の為に『支那学研究法』を著して、一生の学問を集大成したと言われる。
3.武内義雄の学問
武内義雄の学問はおよそ二つの部分に分けられていると思われる。一つは、中日考証学の精華 が大成される文献考証学であって、もう一つは、文献考証学に基づく中国思想史学である。この 両者は決して無関係なものではなく、前者が後者の基礎であり、また後者が前者に基づいて、思 想研究・哲学研究が思想史研究への飛躍である。故に、武内義雄の中国思想史学が如何にして樹 立されたか、その特色がどこにあるか、という問題を考究しようとすれば、その文献考証学の考 察こそから発足するほかならない。
3. 1 文献考証学の確立
中国学の研究に於いて、武内義雄は訓詁学・目録校勘学・原典批判の方法を兼ねて備えて、そ の独創的な文献考証学を確立したのである。
3. 1. 1 訓詁学(小学)――文献考証の基礎
訓詁学は経典の字句を解釈する学問である。訓詁の目的は文字の義を正しく理解するのである。
中国の漢字は形・音・義の三つの方面が兼ねて有り、又その三つの方面が互いに関連的なもので あるから、何れの方面を無視すれば、文字の正しい意味を悟り難い。これは、武内義雄が文字学 研究についての考え方である。彼の中国学研究はまさに清朝訓詁学を中心や基礎として、正しく 原典の意味を理解することから始まったのである。
3. 1. 1. 1 字形の研究――構造から本義へ
武内義雄が言った字形の研究目的が漢字の構造に関する知識を身に付けさせることではなく、
文字の構造を研究することによって、最終的に文字の正しい意味を悟れるというのである。つま り、中国学研究において、訓詁を正すことこそは、字形研究の根本的或いは最終的な目的である。
また、文字の本義を明らかにすることは、文献考証のためでもある。
3. 1. 1. 2 音韻の研究――明古音以正訓詁
音韻の研究については、武内義雄が強調しておいたのは、文字の転義、特に仮借字を知るため に魏晋以前の古音を明らかにする必要があるということである!。つまり、文字の訓詁を正すた めに古音を明らかにしなければならないのである。それは完全的に清朝考証学の伝統の継承でも ある。また、武内義雄は古典の中で韻文と散文との混在しり情況を注意して、音韻学の研究を古 典の文献批判という作業に用いた。
3. 1. 1. 3 字義の研究――文字学の目的
字義の研究については、武内義雄は清朝考証学者の方法を受け継いで、亀甲文・金銘文の学問 を補助道具として『説文解字』によって文字の構造からその本義を究明し、『爾雅』と『方言』
によって文字の転義(転注・仮借)を悟るべきであると主張した同時に、魏晋以前の古韻の究明 も文字の転義の探求に必要なのであると強調した。
要するに、武内義雄は字形・字音・字義の三つの方面から文字学を説いたが、その根本目的は 文字の意味を明らかにして、そうして正しく古典を解釈するのである。例えば、字形の研究は文 字の構造から本義を究明するためであり、音韻の研究は「明古音以正訓詁(文字の訓詁を正すた めに古音を明らかにする)」"を出発点とするのである。武内の文字学については、金谷治は「先 生(武内義雄)の文字学は、その使用例を帰納する訓詁の面に重点があった。つまり、古典を正 しく読むための文字学であって、文字そのものを一義的に追求するといったものではない」#と評 価した。従って、正確に古典を解釈すること―正訓詁は、文献考証の基礎であって、それも武内 義雄の言った文字学の精髄である。
3. 1. 2 目録学――「辨彰学術、考竟源流
$」目録学については、武内義雄が強調したのは、既成の古書目録に基づいて文献の高等批判と校 勘をする学問のことである。つまり、小学と並んで目録学が中国の古典研究の基礎として強調さ れておくのであって、それと無関係な目録作成の方法などを講ずるものではない。
武内によれば、目録学の中心問題は、すなわち書名目録によって書籍の来歴と存佚を判別し、
分類と解題によって版本の源流を考究し、古典の錯誤を訂正し、またその真偽を弁明するという ことである。言い換えれば、中国学研究に於いて、武内義雄の目録学は一つの重要な問題に関連 しているのである。それは、目録学を方法として古典の真偽を判別し、異本異文を校勘し、版本
竟源流(学問の内容を弁明し、その系統を究明すること)」を目的とする校勘目録学については、
武内義雄の『論語の研究』を実例として取り上げて、また説明しておこう。
『論語』は最も広く読まれる儒教経典であって、その異本が多いことも自然であって、異本を 選んで校勘することも容易なことではない。武内義雄は「一体異本の対校は数の多きを尊ぶもの ではない。質のよい材料を系統立て取り扱って最も正しい本文を得ることを尊ぶ」!という方針に 従って、清儒阮元の『論語校勘記』に載せられる引拠書目により、中国の唐開元石経版『論語』
と日本の教隆本『論語』を標準のテキストと定めた。またこの両者を比較対照してその相違点を 留意し、さらに他の古書に引かれた遺文に遡って、やがて『論語』の本文を校訂してきた。武内 義雄により校訂された『論語』は既に昭和13年岩波書店によって出版された。これは、目録校勘 学の応用の一例である。
又、武内義雄は『何晏集解』の序文と『漢書』「芸文志」の著録によって、前漢時代に魯論・
斉論・古論という三種の『論語』があって、現行版『論語』が殆どこの三つの版本から出てきた ものであることを闡明した。これは、武内が目録学によって古典の版本源流を究明した実例であ る。
又、武内義雄は古書目録『漢書』「芸文志」を検討することによって、古来の『論語』注釈書 を『何晏集解』と『朱子集注』という二つの系統に分けて、現存の多くの『論語』の注釈書の源 が殆どその二つの系統にあることを明らかにした。これは、目録学によって書籍系統を定める実
例である"。
要するに、『論語の研究』に於いて、武内義雄は古書目録を利用することによって書物の歴史 を考え、亡失した書物や現行本の古い形を探った。武内が現行本『論語』の校勘や批判をするこ とは、何よりも先ず古代既成の図書目録と解題を検討することから発足したのである。書籍系統 の確定や版本の源流の究明や正確なテキストの確定という諸作業は何れも目録学に離れることが できない。従って、目録学が小学と並んで中国学研究法の基礎として強調された。実に目録学に 対する尊重は、もともと京都中国学派の伝統である。内藤湖南が『中国目録学』を著したことが あって、また武内の指導教授狩野直喜の『中国哲学史』でも、中国古典の研究法として、本文批 評、訓詁、校勘などを述べると共に、中国哲学史の文献資料を選別する上で、目録学の重要なこ とが強調された#。だから、武内義雄が小学と目録学を中国学研究の基礎とする立場は京都中国 学派の伝統衣鉢の継承、また押し広めでもあるといえよう。
3. 1. 3 原典批判――小学と目録学の綜合応用
精密な訓詁によって原典を正しく解釈して、目録校勘学によって古書の正確なテキストを確定 して後、武内義雄は更に一歩を進んだ。それは古典の内容を批判的に分析することである。これ は武内の原典批判の方法である。
原典批判の方法は西欧の古典研究の上で既に確立されたものであるが、武内義雄がそのヒント を得たのは京都大学の恩師内藤湖南の影響をうけたのであった。内藤湖南は江戸時代の学者富永 仲基の「加上法」を顕彰した。簡単に言えば、「加上法」とは「一切の思想学説は前に存したも
のの上に加えるところがあって発達して行くのだ」!というのである。つまり、思想学説は簡単で あれば簡単ほどその起源が遠く、高遠であれば高遠ほどその起源が近い。
武内義雄は内藤湖南の主張を受け継いで、更に「加上法」を原典批判の厳正な尺度標準として 中国各種思想の前後関係、相互影響についての研究に応用した。また、彼の唱えた小学と目録学 による研究法が古典の原典批判の作業にも広く用いられた。例えば、武内義雄が原典批判の方法 によって得た最初の成果は彼の博士論文『老子原始』であるが、更に高く評価されたのは、『老 子と荘子』及び『論語の研究』によってである。
例えば、『老子と荘子』では、武内義雄は道家が儒家の後に起こったべきものだということを 証明するために、或いは傍証を与えるために、「道」という文字については、以下のような考察 を行った。
現今の「道」の字は「 」に「首」をかいているが、周代の古銅器に刻られた文字は「行」の 字の中央に「首」をかいている。そうして「行」の字は殷の故墟から発掘せられた亀版に彫られ 形「 」となっている。これ「行」の字は四ッ辻を描いた象形文字で、その原義は道路を意味し、
道路は人の通行するところであるから転じて「行く」という意味となったものであることを暗示 するものである。しかし道路にも種々の種類があるから「行」の字の中央に種々の発音符を加え て術、街、衢、 など種々の字が出来た、これらはみな道路の特別なものをあらわす文字である。
爾雅という古い字書に「一達を道路といひ四達を衢といふ」とあるによって考えると道は一スジ 道を意味し、衢は四方に路の分岐するところを示す、また街の字は説文に「四通の道」と解釈さ れているから衢と意味が近く、術の字は「邑中の道」と解釈されて怪術と連用されるからおそら く小道を意味するのであろう。そこで道は大路、怪術は小路、街衢は岐路という意で、道の字の 本義は大路である。しかるに道は人間の通行して須臾も離るべからざるところのものであるから、
一転して人間として履行しなければならぬ道徳法則を示すようになる。論語に「吾が道一以て之 を貫く」といわれた道の字はすなわちこの意義で道徳法を指して居る。しかるに道徳法は人間が 便宜のために定めた約束でなくして、人間の本性に循って制定されたもの、言い換えれば先天的 に人間に賦与された徳性の発露だと考えるとき、それは単なる人間当為の法則ではなくして、宇 宙自然の必然的法則の一面と解釈される、ここに至ると道はもはや道徳的法則を示すに止まらな いで、一転して哲学的の本体を示す語となる。老子が道から万物を生ずるといったのはまさにこ の意味である。そこで儒家の道は道の第一転義であるが、道家の道は第二転義である。これ道家 が儒家の後に起こったことを立証するものである。"
儒家が「道」を唱えていたし、道家も「道」を唱えていたのであるが、それらの二つの「道」
の意味は如何なる相違があるか、ということを明らかにするために、武内義雄はまず金銘文字学 を以て「道」の最も古い形を探りながら、また『説文解字』や『爾雅』などの字書にある「道」
の字形と字義に関する解釈によって、「道」の最も原始的な意味、即ち本義を究明した。そして、
その本義から出てきた二つの転義及びその出来た順序も明らかにした。結局、二つの転義の出来
字構造の研究より発足して、文字の本義と転義とを究明することによって、思想の前後関係を解 明したのである。これは武内義雄による字形の研究が文献考証に応用された一例である。
又、『論語の研究』で武内義雄は『論語』の原文を正しく解釈し、正確なテキストを校訂した 上で、さらに『論語』の内容をも批判的に分析した。武内による『論語』の原典批判は日本と中 国の考証学者の研究成果を受け継いだが、それらが文章や言葉の比較吟味という単純な方法に頼 むのに対して、彼は目録学的に『論語』の来歴を考えることによってその原始の形を追求すると いう、新しい独特の方法を用いた。具体的に言えば、江戸時代の伊藤仁斎は『論語』が郷党篇を 界として上論と下論との両部分に分けられるべきであると主張していて、清儒崔東壁は『論語』
の季氏篇、陽貨篇、微子篇、子張篇、尭曰篇の五篇が後人の附加としてけずるべきであると主張 していたが、武内は一方仁斎の説を継承しながら、更にそれを古論章目に還元する基礎論理とし て用いた、一方崔東壁の説を批判的に選択的に受容して、季氏、陽貨、微子の三篇を削って、や がて現行本『論語』を三種の『論語』に分けた。従って、『論語の研究』、特にその「論語の原典 批判」をもって、武内義雄が中日両国考証学の長所を兼ねて、自らの方法論を樹立したといえよ う。その方法論の基礎とするものは、即ち小学と目録学である。だから、武内義雄が『支那学研 究法』の終始を一貫して小学と目録学の基礎性と緊要性を強調しておいたのである。
要するに、武内義雄の文献考証学は主に訓詁学・目録校勘学・原典批判の方法という三つの部 分に組み立てられてあって、訓詁学を以て古典を正確に解読し、目録校勘学を以て版本の源流と 系統を究明し、正確なテキストを確定し、「加上法」を尺度とする原典批判を以て古典の成立事 情を考察するということである。また、周知の通りに、訓詁考証の学風が中国で起こり始め、清 朝に至って最も隆盛になってきたが、古典の本文を訂正し考証学の基礎を定める学問の方法とし ての校勘学は日本の山井崑崙の『七経孟子考文』に渊源するのである#。故に、武内義雄の文献 考証学が中国清朝訓詁学と日本校勘学とを大成するものであると言ってよかろう。また、その独 創性が清朝訓詁学と日本校勘学との結びつけた上で、目録学の方法と原典批判の方法を加えたこ とにある。
3. 2 中国思想史学研究方法の確立
前文でふれたように、武内義雄は「加上法」を原典批判の厳正な尺度標準として中国各種思想 の前後関係、相互影響についての研究に応用したのである。もし、中国の各種思想の前後関係及 び相互影響が明らかにされるのであれば、中国思想それ自体の歴史的変化の流れ−中国思想史を 明らかにできるのも自明なことである。この意味から言えば、武内義雄の原典批判の方法は思想 の変遷、つまり思想史に関連しているのであって、それは正に武内義雄が文献考証学から思想史 学に飛躍できるキーポイントである。
例えば、『老子と荘子』では、武内義雄は古来道家思想の諸文献を批判的に分析することによっ て、道家諸思想の相互関係を整理し、やがて「宋に起こった原始的道家思想の面目」、「宋から楚 に波及した道家思想の実態」、「斉の稷下で道家が一転して法家になろうとする趨勢」、及び「稷 下の学士の分散以後、漢初至るまでの道家思想の推移」"!というような周末から漢諸に至る道家
思想の歴史的な流変(流れの変遷)の大略を究明した。ここに原典批判に基づく中国思想史学の 方法ははっきり樹立された。
また、『易と中庸の研究』では、武内義雄は『礼記』四篇或いは『子思子』文献の内容を批判 的に考察するによって、この四篇の相互関係を明らかにした上で、その成立の前後関係も説明し て、子思子学派の思想展開の軌跡を辿った。ここに於いて、武内の文献考証学に基づく思想史学 の方法はもう一度はっきり看取できるであろう。
上述の二つの例の示すように、武内義雄の文献考証学は、特にその原典批判の方法はいつも思 想史研究に関連しているのである。基礎的な文献学的操作を踏まえて、又本文批評(原典批判)
によって、諸思想の前後関係及び相互影響という関連性を分析し解明したうえで、その展開の跡 を追跡する方法は、正に武内義雄が樹立された中国思想史学の研究方法である。従って、武内義 雄が文献考証派の巨師であると共に、またまぎれもなく日本における中国思想史学の創始者であ ることを強調しておかなければならぬ。それを最も雄弁に物語るものが、『中国思想史』の著作 である。
3. 3 武内義雄『中国思想史』の特色 3. 3. 1 同時代の論考について
明治維新以後、中国にしろ日本にしろ、通史の形式を以て中国思想或いは中国哲学の進展を概 説する著作は少なくない。その中の代表的なものは、武内義雄の指導教授である狩野直喜の『中 国哲学史』、武内の同級生である小島祐馬の『中国思想史』及び武内と同時代の中国の国学大師 馮友蘭の『中国哲学史』というのである。彼らの著作は、中国と日本における中国思想史研究領 域においては、かなり評価できるものであると考えられる。従って、武内義雄の『中国思想史』
の特色を強調する為に、彼らの研究結果を一瞥する必要があると思う。
A 狩野直喜『中国哲学史』:金谷治によれば、狩野氏の『中国哲学史』は考証学と教義史の 研究であると言われる。考証学の研究というのは、漢唐訓詁(注疏)学と清朝考証学を指すので あり、教義史の研究とは、古典に対する解釈、演繹が、また古典内容が如何に発展、変遷してき たかを研究することを意味するのであって、宋明理学を指すのである。つまり、儒教中心の古典 研究史だけが狩野の『中国哲学史』の内容である。
しかし、狩野の『中国哲学史』の体裁は伝統的学案式の哲学書であって、学者の伝記と著書の 解題が詳細に説かれているが、思想そのものの自体の変遷を把握するのには不便である。
B 小島祐馬『中国思想史』:小島祐馬にとって、中国社会思想史こそが中国哲学史になり得 るのである。即ち、小島の『中国思想史』は社会思想史の観点から、社会的背景との関係で、中 国思想の発展及び変化を探求するものであり、中国思想を社会思想として解明するものである。
このように社会思想史の観点から思想を分析した為、小島の『中国思想史』では、思想と政治・
道徳・法律などの社会背景との関係が詳細に分析されている。しかし、思想と他の思想との相互
(表1)
特色 内容 考察重点
狩野直喜『中国哲学史』 学案式の哲学書 儒学中心の古典研究史 考証学と教義史 小島祐馬『中国思想史』 社会思想史の観点 中国社会思想 思想と社会との関係 馮 友蘭『中国哲学史』 史観(歴史進歩論)の確立 哲学色彩濃厚の中国思想 哲学議論の説明 武内義雄『中国思想史』 思想流変と三教交渉の観点 中国思想全体(儒仏道) 思想と思想との関係
C 馮友蘭『中国哲学史』:馮友蘭は『中国哲学史』をもって中国における中国思想史研究の 権威と評価されている。またこの著作は中国ではじめての中国哲学史に関する著書であり、歴史 進歩論の観点で、西洋的叙述式と中国的学案式との折衷の形を取って、中国思想にある哲学議論 について詳しく解説された。
しかし、馮友蘭による中国思想史の時代区分からいえば、中国の三千年の思想史がただ子学時 代と経学時代だけに区分されたことは、勿論不合理だと考えられる。また哲学色彩の濃厚的な思 想だけに関する考察は、勿論思想全体の歴史的考察とはいえない。
3. 3. 2 武内義雄『中国思想史』の特色
狩野直喜の『中国哲学史』・小島祐馬の『中国思想史』・馮友蘭の『中国哲学史』の同時代の著 作と比べ、武内義雄の『中国思想史』の特色としては、その上世・中世・近世に分けられた章目 から窺える。例えば、上世では、「孔門の両学派」、「墨子と其後学」、「老子と其後学」、「稷下の 学」など、中世では、「儒教より老荘へ」、「老荘より仏教へ」、そして「道教の成立」など、近世 では、「儒学の新傾向」、「仏教の新傾向」、「宋学の勃興」、「明学」、「清学の推移」などとされて おり、中国思想全体の上に視座が置かれ、仏教思想・道教思想も含まれる中国思想全体の進展・
経緯が俯瞰されている。これは、当時の学界において全く新しい視座であった。また、武内義雄 は、この新しい思想史の視座をもって、歴史的な手法で、精密な文献考証を通して、中国各時代 の各種の文献について、その歴史的前後関係を位置づけ、中国各時代の時代思潮の主流の変遷を 明らかにしたのである。同時代の著作と比較して言えば、武内義雄の『中国思想史』の視座と中 国思想「流変"!」の解明という著書の目的は、まったく新鮮的なものであるといえよう。思想の 流変が解明されば、思想の推移と展開の経緯というような思想の歴史も明らかにされたであろう。
従って、『中国思想史』を出すことで、武内義雄は中国哲学研究或いは中国思想研究から中国思 想史学研究への転換を完成させ得た。また、武内義雄は思想自体の歴史的考察を追求する為に、
個別の哲学書の体系を列伝式(学案式)に記述した従来の中国哲学史或いは思想史の形を避けて、
儒教中心に片寄っていた従来の著作に対して仏教・道教両教にも光をあてて、初めて三教交渉の 観点で中国中世及び近世思想の発展経緯を流動的に現わした。仏教思想の取り入れと三教交渉の 観点は同時代の著作に見られない優れたものであって、以後の中国思想史学の発展に大きな影響 を与えた。
4.武内義雄への評価
中国学研究に於いて、武内義雄は初めて小学・目録校勘学・原典批判の方法を兼ねて備えて、
その独創的な文献考証学を確立したのである。また、武内義雄の文献考証学は、特にその原典批 判の方法は常に思想史研究に関連していて、原典批判の方法、特に原典批判の標準である「加上 法」の加えたことは正に武内義雄が文献学から思想史学へ飛躍できるキーポイントであると思わ れる。基礎的な文献学的操作を踏まえて、又本文批評(原典批判)によって、諸思想の前後関係 及び相互影響という関連性を分析、解明して、中国各時代の各種文献についてその歴史的前後関 係を位置づけ、その展開の跡を追跡する方法は、正に武内義雄が樹立された中国思想史学の研究 方法である。従って、武内義雄が単なる文献学者、考証学者にとどまらずに、中国思想史学者で あるともいえよう。それを最も雄弁に物語るものが、彼の巨著『中国思想史』である。
武内義雄の『中国思想史』は思想自体の歴史的考察を追求する為に、中国思想の全体の上に視 座を置いて、思想そのものの発展プロセスを明らかにした。つまり、武内がはじめて本格的に中 国哲学を思想史学として研究したのである。武内の『中国思想史』が出たことで、日本の中国哲 学研究は思想史学としてはっきり確立されたと言われる。またこの『中国思想史』では、初めて 三教交渉の観点で中国中世及び近世思想の発展経緯を流動的に現わした。仏教思想の取り入れと 三教交渉の観点は同時代の著作に見られない、真に優れたものであって、後世の中国思想史学の 発展に大きな影響を与えた。
今日の中国思想史研究の状況からすると、武内義雄の中国思想史学が既に万全ではないのはい うまでもないことである。特に、民俗・神話・考古などの思想研究の補助学の発達及び史的唯物 論による研究・比較思想論による研究・マックス・ウエーバ社会学による研究の進展に伴って、
武内義雄の文献考証のみを中心とする思想史学にはその限界があることは段々明らかにされてき た。しかしながら、今日の中国思想史学の研究がどんなに科学的なものであっても、また将来の 中国思想史研究がどのように発展するにせよ、文献考証を中心とする作業が、いつまでも、どこ までも、最も基礎的なものであるのは、自明なことである。従って、武内義雄の文献考証学に基 づく中国思想史学の学問方法が最も尊重され、また継承されなければならぬのである。また、「百 花斉放、百家争鳴」というような今日の中国思想史研究の学界において、武内義雄の学問方法論 がどのように継承、更に発展されるべきか、ということは、勿論大きな問題であり、今後の課題 となるものである。
参考文献
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連 清吉、1998年、『日本江戸時代的考証学家及其学問』、台湾学生書局
連 清吉、2008年、「日本現代中国思想史学的創始者:武内義雄」、『鵝湖雑誌』393期、財団法人東方人文学術研 究基金会
!金谷治「武内義雄」参照 江上波夫編『東洋学の系譜』大修館書店 1992年11月1日出版
"前掲書
#武内義雄『武内義雄全集』第九巻「思想史篇二」p92〜p103参照 角川書店 昭和54年4月10日出版
$前掲書
p
431%前掲書
p
429&章学誠『校讐通義』
'武内義雄『武内義雄全集』第一巻「論語篇」p65 角川書店 昭和53年7月25日出版
(前掲書
p1〜p
65参照)武内義雄『武内義雄全集』第九巻「思想史篇二」p108 角川書店 昭和54年4月10日出版及び連清吉「武内義 雄:日本現代中国思想史学的創始者」『鵝湖』第393号 参照
*武内義雄『武内義雄全集』第九巻「思想史篇二」p52 角川書店 昭和54年4月10日出版
+武内義雄『武内義雄全集』第六巻「諸子篇一」p41 角川書店 昭和53年9月25日出版
,武内義雄『武内義雄全集』第一巻「論語篇」p43参照 角川書店 昭和53年7月25日出版
*#武内義雄『武内義雄全集』第六巻「諸子篇一」p492 角川書店 昭和53年9月25日出版
*$流変とは、思想主流の変遷過程というものを指すのである。