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柳田國男と牧口常三郎

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Academic year: 2021

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柳田國男と牧口常三郎

一   はじめに   柳 田 國 男 と 牧 口 常 三 郎 と の 交 遊 関 係 に つ い て は、 す で に 鶴 見 太 郎

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と 村 尾 行 一

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が 取 り 上 げ て そ れ ぞ れ 一 書 を 公 刊 し て い る。 柳 田 國 男 は 日 本 民 俗 学 の 創 立 者 で あ り、 特 に 戦 後 は 國 學 院 大 学 の 教 授 と な り、 国 語 や 社 会 科 の 教 科 書 問 題 等 に 情 熱 を 注 い だ 教 育 者 で も あ っ た。 一 方 の 牧 口 常 三 郎 は と い う と、 永 年 小 学 校 の 校 長 を 勤 め た 教 育 者 で あ る と と も に、 創 価 教 育 学 会( 現 創 価学会)の創立者として知られている。さらにふたりは、郷土研究を土台として民俗学あるいは人文地理学の華を開かせた。

  こ う し た 多 く の 共 通 点 を 持 つ 柳 田 と 牧 口 と の 関 係 に つ い て、 鶴 見 は 丹 念 に ふ た り の 成 長 過 程 を 追 い な が ら、 そ れ ぞ れ の 思 想 形 成 を 論 じ て い る。 最 終 章「 両 雄 対 峙 す 」 で は、 ふ た り の 葛 藤 を 次 の よ う に ま と め た。 牧 口 が 郷 土 研 究 者 と し て 柳 田 に 接 す る 時 に は、 ふ た り の 関 係 は 良 好 な 状 態 を 維 持 で き て い た の で あ る が、 牧 口 が 宗 教 者 と し て 対 峙 す る 段 に な る と、 柳 田 は こ れ を 突 き 放 し た。 そ れ は ふ た り の「 思 想 に お け る 方 法 と 視 点 」 の 違 い を 柳 田 が 感 じ 取 っ た か ら で あ る。 ふ た り の 間 に 大 き な 溝が存在したことを伝えるエピソードとして、牧口による柳田への折伏場面を取り上げている。

  あ る 時 の こ と、 牧 口 が 弟 子 の 矢 嶋 秀 覚 を 伴 っ て 柳 田 を 訪 問 し た。 矢 嶋 の 証 言 で は、 牧 口 が 話 題 を 法 華 経 に 転 じ た 途 端 柳 田

七九

柳田國男と牧口常三郎    ― ふ た り の 教 育 論 を め ぐ っ て ―

高   見   寛   孝

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柳田國男と牧口常三郎八〇

は 激 昂 し て ふ た り を 追 い 返 し た

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。 そ れ は「 哲 学 の シ ス テ ム 」 が 違 っ て い た か ら だ、 と 柳 田 は 後 に 回 想 し て い る

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。 こ の 発 言 か ら 鶴 見 は、 牧 口 と の 間 に「 思 想 に お け る 方 法 と 視 点 」 の 違 い の あ る こ と を 柳 田 が 認 識 し た、 と 見 な す の で あ る。 し か し な が ら、具体的にどのような違いであったのかについては論及していない。

  さらに鶴見は、 「柳田と牧口、 この両者はその生涯、 互いに影響を与えることはほとんどなかっ た

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」と断じているけれども、 牧 口 の 主 著 の ひ と つ『 創 価 教 育 学 体 系

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』( Ⅰ ~ Ⅳ ) に は、 柳 田 の 名 前 が 十 数 個 所 見 え る し、 柳 田 の 論 考 か ら の 引 用 も 確 認 で きる。少なくとも牧口は、柳田からある程度の影響は受けていたと考えられる。

  さ て、 も う ひ と り の 論 者 村 尾 行 一 で あ る が、 柳 田 が 述 べ た「 哲 学 の シ ス テ ム 」 を「 総 じ て 精 神 構 造 」 と し た 上 で、 「 柳 田 は 自 分 と 精 神 構 造 の 異 な る 人 物 に 対 し て 激 し い 嫌 悪 感 を 抱 く 人 間 で あ る

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」 と 断 定 し て い る。 村 尾 の こ の 推 論 が 誤 り で あ る こ と は、 柳 田 の 交 遊 関 係

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を 見 れ ば 一 目 瞭 然 で あ ろ う。 右 か ら 左 ま で、 実 に 多 く の 価 値 観 の 違 う 人 物 た ち と 親 し く 交 遊 し て い る。 価 値 観 の 違 う 人 物 を 毛 嫌 い す る の で あ れ ば、 天 皇 制 の 問 題 で は 柳 田 と か な り 隔 た り の あ っ た 石 田 英 一 郎 や 橋 浦 泰 雄 を 受 け 入 れ る は ず な ど な い で は な い か。 橋 浦 の 回 想 に よ れ ば、 留 置 場 か ら 出 て 来 た 彼 を 柳 田 は 優 し く 迎 え、 何 も 聞 か ず に 食 事 に 誘 っ てくれたとい う

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。筆者にはここに柳田の寛容性が見えるのだが、村尾の視界には入らないようだ。

  さ ら に 村 尾 は、 柳 田 が 仏 教 嫌 い で あ っ た こ と を 挙 げ

)(1

、「 こ う し た 柳 田 の 体 臭 に 嫌 気 が さ し た の か、 彼 と 距 離 を お く よ う に

な り、 ひ い て は 郷 土 会 に も 出 席 し な く な っ た

)((

」 と、 牧 口 の 方 か ら 柳 田 と 決 別、 さ ら に は 熱 心 に 出 席 し て い た 郷 土 会 か ら も 遠 のいて行ったと推論する。

  巷 間 言 わ れ て い る よ う に、 柳 田 は 本 当 に 仏 教 を 嫌 っ て い た の で あ ろ う か。 柳 田 の 近 く に い た 人 た ち か ら は そ う し た 話 が 伝 わ っ て い る け れ ど も、 柳 田 自 身 が 仏 教 そ の も の を 非 難 す る 論 説 を 書 い た こ と は な い。 柳 田 の 実 父 は 仏 教 を 嫌 っ て 仏 壇 や 仏 具 を 川 に 流 し 捨 て、 神 葬 祭 に 改 め た そ う で あ る が

)(1

、 柳 田 が そ う し た 行 動 を 取 る こ と は な か っ た。 む し ろ 仏 教 に 対 し て は 肯 定 的 対 応 さ え 示 し て い る。 例 え ば、 兄 弟 全 員 が 故 郷 を 離 れ て し ま い、 生 家 で あ る 松 岡 家 の 先 祖 を 祭 る 者 が い な く な っ た た め、 柳

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柳田國男と牧口常三郎八一

田 の 提 案 に よ っ て 故 郷 辻 川 に あ る 妙 徳 山 悟 真 院 に 祭 祀 場 を 設 け て い る

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。 も し も 柳 田 が 本 当 に 仏 教 嫌 い で あ っ た の な ら、 別 な 場 所 に そ う し た 施 設 を 求 め た で あ ろ う。 柳 田 自 身 の 墓 が 浄 土 真 宗 本 願 寺 派 寺 院 の 経 営 す る 春 秋 苑 に あ る の も、 生 前 に 柳 田 が 決めていたからで、熱心な仏教信仰者であったわけではないけれども、決して仏教そのものを否定していたのではない。

  結 局、 今 ま で の と こ ろ ふ た り の 交 遊 と 葛 藤 を め ぐ る 問 題 は、 十 分 に 解 き 明 か さ れ て は い な い。 近 代 日 本 が 生 ん だ 稀 有 な 思 想家でもあるふたりの関係を論じる中で、柳田民俗学のさらなる理解を深めたい。それが本稿のねらいである。

二   ふたりの生い立ち   ㈠柳田國男の生い立ち   柳 田 國 男 の 生 涯 に つ い て は、 既 に 柳 田 國 男 の 会 に よ る 詳 細 な 伝 記

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が 完 成 し て い る。 こ こ で は 紙 幅 の 関 係 上、 そ の す べ て を 紹 介 す る こ と が で き な い。 本 稿 の 展 開 上 必 要 最 小 限 を、 『 定 本 柳 田 國 男 集 』 別 巻 五( 筑 摩 書 房 刊 ) に あ る「 年 譜 」( 以 下「 年 譜A」とする)から略記する。

  柳 田 の 生 家 松 岡 家 は、 兵 庫 県 神 埼 郡 福 崎 町 辻 川 に あ っ た。 代 々 医 者 を 家 業 と し て い た 松 岡 家 の 六 男 と し て、 柳 田 が 誕 生 し た の は 明 治 八 年 七 月 三 一 日 の こ と で あ る。 裕 福 な 家 で は な か っ た が、 家 系 的 に 学 者 肌 の 人 物 を 多 く 出 し て い る。 祖 父 母 も 両

親 も と も に 頭 脳 明 晰 で あ っ た と 伝 え ら れ て い る。 そ う し た 脳 力 を 受 け 継 い だ の は 柳 田 だ け で な く、 兄 弟 た ち も そ れ ぞ れ に 功 成り名を遂げた。

  明 治 十 八 年、 高 等 小 学 校 を 卒 業 し た 國 男 少 年 は、 地 元 の 資 産 家 で 大 庄 屋 を し て い た 三 木 家 に 預 け ら れ た。 経 済 的 に 困 窮 し て い た 松 岡 家 に と っ て は、 口 減 ら し の 意 味 が あ っ た の で あ ろ う。 三 木 家 に 預 け ら れ て い た の は 一 年 間 で、 十 三 歳 に な っ た 明 治 二 十 年 に な る と、 次 兄 通 泰 に 連 れ ら れ て 上 京 し、 茨 城 県 北 相 馬 郡 布 川 町 に 開 業 医 と し て 一 家 を 構 え た 長 兄 鼎 の 許 に 身 を 寄 せることになった。今回もまた口減らしのためであったと思われる。

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柳田國男と牧口常三郎八二

  布 川 時 代、 長 兄 の 方 針 か ら か、 國 男 は 進 学 も せ ず に 読 書 と 遊 び に 興 じ て い た。 し か し、 実 は 長 兄 と 次 兄 と の 間 で 進 学 の 相 談 が 進 め ら れ て お り、 三 年 後 の 明 治 二 三 年 に な る と 下 谷 区( 現 台 東 区 ) に あ っ た 次 兄 宅 で 同 居 す る よ う に な る。 そ し て 翌 年 に は、 中 学 卒 業 資 格 を 得 る た め に 開 成 中 学 校 へ と 編 入 学 し て い る。 柳 田 の 説 明 に よ る と 進 級 を 早 め る た め に 明 治 二 五 年、 今 度は開成中学校から郁文館中学校へと転校している。

  明 治 二 六 年 七 月 に 第 一 高 等 中 学 校 を 受 験 し て 見 事 合 格 し、 九 月 か ら は 寄 宿 舎 生 活 を ス タ ー ト さ せ て い る。 同 室 の 乾 政 彦、 菊 地 駒 次、 今 村 幸 男、 松 本 烝 治 た ち と は 生 涯 に 渡 る 交 誼 を 重 ね る こ と と な る。 小 さ い 頃 の 放 浪 生 活 か ら 解 放 さ れ、 よ う や く 順 風 満 帆 な 人 生 を 歩 み 始 め た か に 思 え た の で あ る が、 二 二 歳 に な っ た 明 治 二 九 年 七 月 に 母 が 五 七 歳 で 亡 く な る と、 看 病 疲 れ

の た め 肺 尖 カ タ ル を 患 っ て 一 ヶ 月 の 療 養 生 活 を 余 儀 無 く さ れ る。 そ れ か ら ま た 一 ヶ 月 ほ ど 過 ぎ た 九 月 五 日、 敬 愛 し て い た 父 も 母 の 死 に よ っ て 傷 悴 し て い た こ と も あ り、 母 の 後 を 追 う よ う に 他 界 し て し ま う。 相 次 い で 両 親 を 失 っ た 翌 年 の 明 治 三 十 年、 柳 田 は 第 一 高 等 学 校( 第 一 高 等 中 学 校 を 改 称 ) を 無 事 卒 業 し、 東 京 帝 国 大 学 法 科 大 学 政 治 科 に 入 学 す る。 大 学 で は 松 崎 蔵 之 助に師事して農政学を専攻した。

  二 五 歳 と な っ て い た 明 治 三 二 年 に は、 次 兄 通 泰 の 和 歌 の 師 で あ る 松 波 遊 山 を 通 じ て、 嫡 子 の い な か っ た 柳 田 家 へ 養 嗣 子 と して入籍する話がもたらされた。柳田家は元々信州飯田藩堀家の家臣で、当主直平は大審院判事を勤める名家であった。

  明 治 三 三 年 七 月、 大 学 を 卒 業 し た 柳 田 は 農 民 の 貧 困 問 題 に 取 り 組 み た い と い う か ね て か ら の 宿 願 を 果 た す べ く、 農 商 務 省

農 務 局 に 就 職 す る。 そ し て こ の 年 の 秋 に は 柳 田 家 へ 養 嗣 子 と し て 入 籍 す る こ と が 本 決 ま り と な り、 牛 込 区( 現 新 宿 区 ) 加 賀 町 の 柳 田 邸 へ 頻 繁 に 出 入 り す る よ う に な る。 正 式 に 入 籍 す る の は 翌 三 四 年 五 月 二 九 日 の こ と で、 将 来 妻 と な る 柳 田 家 四 女 孝 は ま だ 十 六 歳 で あ っ た。 こ れ を 以 て 松 岡 國 男 か ら 柳 田 國 男 へ と 改 姓 す る こ と と な っ た の で あ る。 柳 田 の 長 男 為 正 氏 の 記 憶 に よ る と 柳 田 邸 は 部 屋 数 が 二 五 以 上 も あ る 大 豪 邸 で、 四 部 屋 し か な か っ た 典 型 的 田 の 字 型 間 取 り の 生 家 と は 格 段 の 違 い で あ り、 そ れ ま で 他 人 の 家 を 含 め て 転 居 を 繰 り 返 し て い た 柳 田 に と っ て、 柳 田 家 は ま さ に あ こ が れ の 落 ち 着 き 場 所 で あ っ た に 違 い な

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柳田國男と牧口常三郎八三

い。

  ㈡牧口常三郎の生い立ち   牧 口 常 三 郎 の 生 い 立 ち に 関 す る 資 料 と し て は、 三 代 会 長 年 譜 編 纂 委 員 会 編『 創 価 学 会 三 代 会 長 年 譜・ 上 巻 』( 宗 教 法 人 創 価 学 会、 二 〇 〇 三 年、 以 下「 年 譜 B 」 と す る ) と 美 坂 房 洋 編『 牧 口 常 三 郎 』( 聖 教 新 聞 社、 一 九 七 二 年 ) 所 収 の「 牧 口 常 三 郎年譜」 (以下「年譜C」とする) 、および熊谷一乗『牧口常三郎』 (第三文明社、一九七八年)を用いる。

  牧 口 の 故 郷 は 新 潟 県 柏 崎 市 で、 明 治 四 年 六 月 六 日、 船 員 を し て い た 父 渡 辺 長 松 と 母 イ ネ の 長 男 と し て 誕 生 し て い る。 柳 田

國 男 よ り も 四 歳 年 上 と い う こ と に な る。 幼 名 を 長 七 と い っ た。 父 長 松 が 働 い て い た 回 漕 業 者 は 牧 口 善 太 夫 と い う 者 で、 渡 辺 家 と は 親 戚 関 係( 叔 母 の 嫁 ぎ 先 ) に 当 た る 家 で あ っ た。 ど の よ う な 経 緯 を 辿 っ た の か は 不 明 で あ る が、 六 歳 と な っ た 明 治 十 年 五 月 九 日、 長 七 は そ の 牧 口 善 太 夫 の 養 嗣 子 と な っ て い る。 養 嗣 子 と な っ た 年 齢 は ず い ぶ ん 違 っ て い る が、 牧 口 も 柳 田 と 同 じ く 生 家 を 離 れ て 他 家 の 人 間 に な る こ と と な っ た。 こ の 当 時 既 に 父 長 松 は 北 海 道 へ 出 稼 ぎ に 出 た ま ま 行 方 知 れ ず と な っ て お り、 母 イ ネ は 渡 辺 家 か ら 離 縁 さ れ て い た と い う か ら、 長 七 少 年 の 養 嗣 子 問 題 は 生 家 の 経 済 的 事 情 が 絡 ん で い た の で あ ろ う。 こうした点も柳田と同じように、幼少期から辛い経験を味わっていたわけである。

  長 七 が 七 歳 と な っ た 明 治 十 一 年 頃 に 小 学 校 へ 入 学 し た よ う で あ る が、 養 家 の 仕 事 を 手 伝 う た め 学 校 は 休 み が ち で あ っ た。

そ れ で も 長 七 少 年 は 大 の 読 書 好 き で、 成 績 優 秀 で あ っ た と 伝 え ら れ て い る。 こ れ も ま た 幼 少 期 の 柳 田 に 似 て い る。 小 学 校 卒 業 後 数 年 間 は 養 家 の 回 漕 業 を 手 伝 っ て い た 牧 口 で あ っ た が、 十 四 歳 と な っ た 明 治 十 八 年、 単 身 北 海 道 へ と 渡 っ て い る。 小 樽 に 住 む 父 方 叔 父 渡 辺 四 郎 治 を 頼 っ て の こ と で あ っ た。 そ の 叔 父 の 紹 介 で 小 樽 警 察 署 の 給 仕 と し て 働 く こ と と な っ た 牧 口 は、 生 来 の 生 真 面 目 な 性 格 か ら 必 死 に な っ て 仕 事 を こ な し、 ま た 一 所 懸 命 に 勉 強 も し た。 そ う し た 牧 口 の こ と を 署 長 森 長 保 が と ても気に入り、目を掛けてくれた。

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  明 治 二 二 年 三 月、 森 署 長 が 札 幌 赴 任 の 際、 牧 口 は 誘 わ れ て 森 の 自 宅 に 書 生 と し て 住 み 込 む よ う に な っ た。 十 八 歳 と な っ て い た 牧 口 は 進 学 を 目 指 し て 勉 学 を 続 け、 森 署 長 の 勧 め る 北 海 道 尋 常 師 範 学 校( 現 在 の 北 海 道 教 育 大 学 ) の 編 入 学 試 験 を 受 け て見事合格する。師範学校への入学で、牧口長七は教育者としての道を歩き始めることとなった。

  師 範 学 校 四 年 生 の 時 に は、 教 育 実 習 生 と し て 附 属 小 学 校 の 教 壇 に 初 め て 立 つ こ と と な る。 現 在 の 小 学 校 五 年 生 に 当 た る ク ラ ス を 受 け 持 ち、 作 文 指 導 な ど を 担 当 し た。 こ う し て 自 分 の 進 む べ き 道 を 見 い 出 し た 牧 口 は、 そ れ ま で の 苦 難 多 き 過 去 と 決 別 し よ う と 思 っ た の で あ ろ う か。 明 治 二 六 年 一 月 十 一 日 に 名 を 常 三 郎 と 改 め て い る。 こ こ に 牧 口 常 三 郎 と し て 新 た な 人 生 を 切り開いていくのである。

  明 治 二 八 年、 二 四 歳 と な っ て い た 牧 口 は、 親 戚 筋 に 当 た る 牧 口 熊 太 郎 の 次 女 ク マ と 結 婚 し て い る。 そ れ か ら 三 年 後 の 明 治 三 一 年 一 月 二 日 に は 長 女 ユ リ が、 そ し て 翌 年 三 月 二 九 日 に は 長 男 民 城 が 生 ま れ、 公 私 と も に 充 実 し た 日 々 を 送 っ て い た。 と こ ろ が、 明 治 三 四 年 四 月 十 八 日、 牧 口 は 北 海 道 師 範 学 校 教 諭 兼 舎 監 と 同 校 附 属 小 学 校 長 を 辞 職 す る。 表 向 き の 理 由 は、 前 年 の 秋 に 師 範 学 校 で ス ト ラ イ キ が 発 生 し た こ と に 絡 む 生 徒 間 の 傷 害 事 件( 石 狩 事 件 ) の 監 督 責 任 を 問 わ れ た こ と に よ る。 し か し な が ら そ の 一 方 で、 牧 口 は 地 理 学 の 研 究( 後 に 出 版 す る『 人 生 地 理 学 』) を ま と め 上 げ て お り、 そ れ を 是 非 と も 世 に 出 し た い と い う 願 い も あ っ て、 元 々 上 京 す る 意 志 を 固 め て い た。 ス ト ラ イ キ 問 題 や 生 徒 の 傷 害 事 件 は、 そ の 意 志 を 実 行 に 移 す き っ か け で し か な か っ た よ う で あ る。 こ う し て 牧 口 常 三 郎 は 家 族 と と も に 北 海 道 を 離 れ、 東 京 で 暮 ら す こ と と な る。 そ し て 柳

田國男とめぐり会う。

三   ふたりのめぐり会い   ㈠上京後の牧口常三郎   「 創 価 学 会 年 譜 」( 電 子 版

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) に よ る と、 明 治 三 四 年 五 月 一 日 に 東 京 に 到 着 し た 牧 口 一 家 は、 現 在 の 文 京 区 で 借 家 暮 ら し を 始

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柳田國男と牧口常三郎八五

め る。 そ の 家 は 親 戚 の 者 に よ る 紹 介 で あ っ た と す る 説 と、 元 北 海 道 師 範 学 校 長 で 牧 口 と は 旧 知 の 間 で あ っ た 岡 本 常 次 郎 の 世 話 に よ る と の 説 が あ る。 岡 本 は 金 港 堂 と い う 出 版 社 に 勤 め、 雑 誌『 少 年 界 』 の 編 集 を し て お り、 牧 口 の 上 京 に 際 し て 相 談 役 ともなっていたという。   牧 口 は こ れ ま で に ま と め 上 げ た 地 理 学 研 究 を 世 に 出 す た め、 東 京 帝 国 大 学 教 授 で 歴 史 学 の 権 威 坪 井 九 馬 三 や 地 理 学 者 の 志 賀 重 昂 を 訪 ね て 教 え を 受 け て い る。 そ し て、 志 賀 の 尽 力 に よ り、 牧 口 の 地 理 学 研 究 は『 人 生 地 理 学 』 と し て 出 版 さ れ る 運 び と な っ た。 明 治 三 六 年 十 月 十 五 日 の こ と で あ る。 『 人 生 地 理 学 』 は 発 売 当 初 か ら 大 変 な 好 評 を 博 し た よ う で、 年 内 に 第 三 版 を 刷 り、 六 年 後 の 明 治 四 二 年 に は 増 訂 第 十 版 を 刊 行 す る ほ ど で あ っ た。 社 会 学 者 の 田 辺 寿 利 は、 後 に こ の 書 を 評 し て「 明 治

三 十 六 年 に 公 刊 せ る『 人 生 地 理 学 』 は、 現 時 流 行 の 人 類 地 理 学( 人 文 地 理 学 ) の 第 一 の 置 石 で あ っ て、 こ の 書 の 出 現 に よ っ て我が国の地理学がその外貌を一変したといわるるものであ る

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」と絶賛している。

教 育 者 で も あ っ た。 ま た、 一 九 一 九 年 か ら 一 九 二 六 年 ま で の 八 年 間 国 際 連 盟 事 務 局 次 長 と し て 活 躍 し、 帰 国 の 後 は 帝 国 学 士 国 大 学 や 東 京 帝 国 大 学 の 教 授 を 歴 任 す る と と も に、 第 一 高 等 学 校 校 長、 東 京 女 子 大 学 初 代 学 長 な ど も 勤 め た 農 政 学 者 で あ り、 新 渡 戸 稲 造 の 知 遇 を 得 た こ と が、 柳 田 國 男 と の 出 会 い を も た ら し、 郷 土 会 へ の 入 会 へ と つ な が っ た。 新 渡 戸 稲 造 は 京 都 帝   『 人 生 地 理 学 』 の 刊 行 は、 牧 口 の 生 活 に 多 く の 変 化 を も た ら し た。 著 名 な 学 者 た ち と の 交 遊 も そ の ひ と つ で あ る。 中 で も

院 選 出 の 貴 族 院 議 員 と な る な ど、 政 治 家 と し て も そ の 手 腕 を 振 る っ て い る。 そ の 新 渡 戸 が『 人 生 地 理 学 』 を 読 ん で 感 動 し、 面 識 の な か っ た 牧 口 に 手 紙 を 書 き 送 っ て 激 励 し た と い う

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。 こ の こ と が 縁 と な り、 牧 口 は 新 渡 戸 と 親 し く 交 流 す る よ う に な っ たのである。その新渡戸を中心に設立された研究会が郷土会である。

  ㈡郷土会について

  明 治 三 五 年 二 月 か ら 法 制 局 参 事 官 と な っ て い た 柳 田 國 男 は、 国 会 閉 会 中 に 出 張 と い う 形 で よ く 全 国 を 旅 し て 歩 い て い た。

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柳田國男と牧口常三郎八六

柳 田 の 説 明 に よ れ ば、 当 時 の 国 会 は し ば し ば 閉 会 す る こ と が あ り、 国 会 閉 会 中 の 法 制 局 は ほ と ん ど す る 仕 事 が な か っ た。 そ こ で 上 司 の 気 遣 い に よ り、 出 張 名 目 で 旅 行 に 出 し て く れ た。 旅 行 か ら 帰 っ て 来 る と、 そ の 見 聞 内 容 を 家 族 に 話 し て 聞 か せ る の が ひ と つ の 楽 し み と な っ て い た。 そ の 家 族 を 中 心 と し た 報 告 会 に 学 者 仲 間 が 加 わ る よ う に な り、 や が て 郷 土 研 究 会 と 称 さ れ る よ う に な る。 明 治 四 十 年 頃 の こ と で あ っ た。 「 段 々 会 員 が 増 え て 一 番 多 い 時 は 十 人 位 の 人 が 私 の 処 へ 集 っ た。 早 稲 田 大 学 の 小 田 内 通 敏 が 熱 心 な 分 子 で あ っ た が、 今 度 の 戦 争 後 に 創 価 学 会 で 世 間 に 知 ら れ て い る 牧 口 常 三 郎 な ど も よ く や っ て 来 た

)(1

」 と、 柳 田 は 当 時 を 回 想 し て い る。 小 田 内 通 敏 と い う の は、 郷 土 教 育 運 動 に 関 わ っ た 人 文 地 理 学 者 で あ る。 東 京 高 等 師 範

学 校 の 地 理 歴 史 専 修 科 を 卒 業 後、 早 稲 田 中 学 校 で 地 理 学 担 当 の 教 諭 を し て い た。 人 文 地 理 学 の 研 究 を 通 じ て、 新 渡 戸 稲 造 や 牧 口 常 三 郎、 そ し て 柳 田 國 男 と 交 流 す る よ う に な っ て い た

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。 山 下 紘 一 郎 に よ れ ば、 柳 田 と 新 渡 戸 を 引 き 合 わ せ た 人 物 こ そ 小 田 内 通 敏 で あ っ た

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。 新 渡 戸 は 農 政 学 者 と し て、 ひ と つ の ム ラ( 郷 土 ) を 調 査 研 究 す る こ と か ら 国 全 体 を 明 ら か に で き る と す る「 地 方 学 」 を 提 唱 し て お り、 や は り 郷 土 を 通 じ て 日 本 を 知 ろ う と す る 方 向 性 を 見 い 出 し て い た 柳 田 と は 学 問 的 に 近 い 関 係 にあった。この点は牧口常三郎も同じであったろう。

  公 務 に 多 忙 を き わ め て い た 新 渡 戸 へ の 配 慮 か ら、 柳 田 邸 で 開 か れ て い た 郷 土 研 究 会 は 会 場 を 新 渡 戸 邸 へ 移 し、 発 展 解 消 的 に 郷 土 会 へ と 生 ま れ 変 わ る の で あ る。 「 明 治 四 十 三 年

( 一 九 一 〇 ) 十 二 月 四 日、 小 田 内 通 敏、 小 田 島 省 三、 十 時 弥、 木 村 修 三、

石 黒 忠 篤、 柳 田 国 男 と い っ た 人 び と は、 新 渡 戸 邸 に 参 集 し た。 こ う し て、 新 渡 戸 を 会 の 後 援 者、 柳 田 を 幹 事 役 と し て、 郷 土 会は発足するのであ る

)1(

」と山下はまとめているが、もちろんそのメンバーの中に牧口常三郎もいた。

  郷 土 会 の 活 動 内 容 に つ い て は、 柳 田 國 男 編『 郷 土 会 記 録 』( 大 岡 山 書 店、 一 九 二 五 年 ) が あ る。 こ の 記 録 に よ れ ば 毎 月 一 回 の 割 合 で 定 例 会 が 開 か れ た。 会 場 は 新 渡 戸 邸 が 使 わ れ る こ と が 多 か っ た が、 何 か の 都 合 で 柳 田 邸 あ る い は 学 士 会 な ど に 移 さ れ る こ と も あ っ た よ う で あ る

)11

。 ま た、 定 例 の 研 究 報 告 会 に 替 え て、 会 員 一 同 で 調 査 旅 行 に 出 か け る こ と も あ っ た。 こ う し た 郷 土 会 の 研 究 報 告 会 や 調 査 旅 行 に も っ と も 熱 心 に 取 り 組 ん だ 会 員 が 柳 田 國 男 と 牧 口 常 三 郎 の ふ た り で あ っ た。 柳 田 は 牧 口

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の こ と を「 吾 々 の 郷 土 会 の 熱 心 な る 同 志

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」 と 呼 ん で エ ー ル を 送 っ て い る が、 そ の 一 方 で「 牧 口 君 も む ろ ん そ の 仲 間 に 入 っ て い た が、 も う そ の こ ろ 既 に 五 十 歳 に 近 く、 余 り 無 口 だ っ た か ら 人 か ら 愛 せ ら れ な か っ た

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」 と、 牧 口 が 郷 土 会 の 中 で は 孤 立 気 味であったことを伝えている。

  こ の 点 に 関 し 山 下 紘 一 郎 は、 当 時 の 牧 口 に と っ て 郷 土 会 は 自 由 に 参 加 す る こ と の で き た 唯 一 の 研 究 会 で あ っ た か ら、 人 一 倍 熱 心 に 会 の 活 動 に 取 り 組 ん で い た の だ と 指 摘 し て い る。 さ ら に、 柳 田 を 含 む 会 員 の 多 く が 帝 国 大 学 出 身 の エ リ ー ト た ち で、 その雰囲気に馴染むことができずに自然と寡黙になったと推測してい る

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  ㈢ふたりの出会い、そして旅 究 会 に 顔 を 出 す よ う に な っ た 牧 口 は、 次 第 に 柳 田 と の 交 遊 を 深 め て い く。 生 家 が 裕 福 で は な か っ た た め 幼 い こ ろ か ら 食 客 と ね た わ け で は あ る ま い。 お そ ら く 農 政 学 者 柳 田 國 男 と の 交 遊 を 求 め た の で あ ろ う。 そ れ 以 後、 柳 田 邸 で 開 か れ て い た 郷 土 研 月 に 民 俗 学 と し て の 処 女 出 版『 後 狩 詞 記 』 を 私 家 版 と し て 世 に 出 し た ば か り で あ る か ら、 柳 田 の 民 俗 学 的 研 究 に 魅 か れ て 尋 ト イ の 翻 訳 で も 知 ら れ て い る 馬 場 孤 蝶 の 紹 介 に よ り、 牧 口 が 柳 田 を 訪 ね た こ と に な っ て い る。 当 時 の 柳 田 は、 二 ヶ 月 前 の 三   「 年 譜 A 」 に よ れ ば、 柳 田 と 牧 口 が 初 め て 顔 を 合 わ せ た の は、 明 治 四 二 年 五 月 二 日 の こ と で あ っ た。 英 文 学 者 で、 ト ル ス

し て 他 家 の 世 話 に な ら な け れ ば な ら な か っ た こ と、 養 子 と し て 他 家 へ 入 籍 し た こ と な ど の 共 通 性 が、 互 い に 親 近 感 を 抱 か せ たのであろう。

  「年譜B」からふたりの交遊歴を拾い上げて見ると、次のようになる。

明治四四年五月十二日   柳田國男と、山梨県南都留郡道志村の農村調査を行う

( ~十五日)

。 明治四四年八月二九日   阿蘇山の見学へ向かう。柳田国男に絵はがきを送る。 大正四年八月二日     残暑見舞いの絵はがきを柳田国男に送る。

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柳田國男と牧口常三郎八八

大正十一年四月五日    柳田国男宅を訪問。 大正十一年五月一日    郷土会メンバーとともに、柳田国男の渡欧送別会に出席。柳田を囲んで記念撮影。 大 正 十 一 年 五 月 六 日    柳 田 国 男 宅 を 訪 問( 翌 五 月 七 日 は、 柳 田 の 二 度 目 の 渡 欧 の 日 で あ り、 そ の あ い さ つ に 行 っ た も のと考えられる) 。 昭和二年十一月十三日   北多摩郡砧村(現・世田谷区成城)の柳田国男の新居を訪問。 昭 和 十 五 年 七 月 三 日    柳 田 国 男 の 別 荘( 神 奈 川 県 高 座 郡 茅 ヶ 崎 町、 現 茅 ヶ 崎 市 ) を 訪 問。 柳 田 を 折 伏 し つ つ 一 夜 を 語 り明かす。

  こ こ に 見 る 通 り、 柳 田 と 牧 口 は 初 対 面 か ら 二 年 目 の 明 治 四 四 年 五 月 に 三 泊 四 日 の 旅 行 に 出 て い る。 余 程 ふ た り は 気 が 合 っ た の で あ る。 そ の 時 の こ と を 柳 田 は、 「 明 治 四 十 四 年 の 五 月、 私 は 牧 口 君 を 誘 っ て、 甲 州 の 谷 村 か ら 道 志 谷 を ぬ け 月 夜 野 を 経 て 相 模 に 出 た こ と が あ る。 そ の こ ろ 電 報 が 三 日 も か ヽ る と い う 山 村 を み な が ら、 農 村 調 査 の 方 法 を 研 究 し、 指 導 す る 目 的 で あ っ た。 非 常 に 気 持 の よ い 旅 で、 今 も 道 志 川 の 風 景 が 鮮 や か に 思 い 出 さ れ る ほ ど 印 象 深 い も の が あ っ た

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」 と 回 想 し て い る。 こ こ に「 農 村 調 査 の 方 法 を 研 究 し、 指 導 す る 目 的 」 と し て い る の は、 地 元 の 有 志 が 対 象 で は な く、 牧 口 を 指 導 す る 目 的 で あ っ た よ う だ。 牧 口 が 柳 田 に 書 き 送 っ た 絵 は が き に も「 何 れ 帰 京 の 節 前 陳 可 申 」、 「 何 奉 拝 趨 御 報 告 申 上 べ く 候

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」 と あ り、 柳 田

からの指導を仰ぎたいとの意向を読み取ることができる。

  た だ し、 柳 田 が 牧 口 を 指 導 し よ う と 考 え た の は、 純 粋 に 牧 口 の た め を 思 っ て の こ と で は な か っ た。 腹 蔵 さ れ た 目 的 が 別 に あったのである。その別の目的について柳田は次のように説明している。 兎 も 角、 富 士 の 麓 か ら 甲 州 を 越 え、 群 馬 県 の 東 部 に 至 る 一 塊 り が、 文 芸 の 上 で 妙 に 解 決 せ ら れ な い 異 誌 群 に 属 し て い る。 柳 田 家 の 先 祖 が 出 た と い う 山 北 の 川 村 城 な ど も そ の 一 部 と 見 て い い が、 牧 口 君 が う ま く 働 い て 呉 れ さ え す れ ば、 色 々 の 事 が 明 ら か に な る だ ろ う と い う 希 望 か ら、 私 は 彼 の 立 場 に 同 情 を 寄 せ て い た。 後 に 彼 の 著 書「 価 値 論 」 に 私 が 序 文 を 書

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柳田國男と牧口常三郎八九

いたのもそんな因縁からであ る

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  柳 田 は 牧 口 を 使 っ て 民 俗 誌 を 作 成 さ せ よ う と し た の で あ り、 そ の お 礼 の 意 味 を 込 め て 牧 口 の『 価 値 論 』( 創 価 教 育 学 体 系 第 二 巻 ) に 序 文 を 書 い た と い う の で あ る。 と こ ろ が 牧 口 の 方 で は、 柳 田 が 法 華 信 仰 の こ と ま で 理 解 し て く れ た と 勘 違 い し た。 先の文章に続いて柳田は次のように書いている。 所 が 先 方 は 私 が 信 仰 ま で を 一 緒 に や っ て く れ る も の と 誤 算 し た。 今 度 の 戦 争 に 入 っ て 間 も な く、 牧 口 君 は 一 晩 若 い の を 連 れ て 話 し に 来 て、 泊 り 込 ん で 行 っ た が、 私 は 大 し た 印 象 も う け な か っ た。 そ れ に あ れ の 哲 学 の シ ス テ ム が 少 し 違 っ て いると思ったので、深入りしても役に立たないと思いながら、一緒に話して泊ったのが最後であった。

  こ の 場 面 こ そ が、 鶴 見 太 郎 も 村 尾 行 一 も 取 り 上 げ て い る 柳 田 と 牧 口 の 葛 藤 場 面 で あ る。 柳 田 の い う「 哲 学 の シ ス テ ム 」 を、 鶴 見 は「 思 想 に お け る 方 法 と 視 点 」 と し、 村 尾 は「 精 神 構 造 」 と し た。 柳 田 は「 深 入 り し て も 役 に 立 た な い 」 と 言 っ て い る の で あ る か ら、 お そ ら く 学 問 上 の 方 法 論 に 関 す る 違 い だ と 思 わ れ る。 こ の こ と は、 ふ た り の 教 育 論 等 を 分 析 す る 中 で 明 ら か になるであろう。

  と こ ろ で、 矢 嶋 秀 覚 は 牧 口 と も ど も 話 の 途 中 で 柳 田 の 家 か ら 追 い 出 さ れ た と 書 い て い る が、 柳 田 は「 一 緒 に 話 し て 泊 っ た 」 と し て お り、 食 い 違 い が 見 ら れ る。 こ の 点 に 関 し て「 年 譜 A 」 で は「 牧 口 常 三 郎 を 伴 い 茅 ヶ 崎 の 別 荘 へ 行 き、 一 夜、 法 華 正 宗 の こ と を 語 る 」、 「 年 譜 B 」 で は「 柳 田 を 折 伏 し つ つ 一 夜 を 語 り 明 か す 」 と な っ て い る。 途 中 で 追 い 返 し た の で あ れ ば、

「一夜、法華正宗のことを語る」とか「一夜を語り明かす」という表現にはならないであろう。

  ふ た り の 別 れ の 場 面 に つ い て は さ ら な る 分 析 が 必 要 と 思 わ れ る の だ が、 村 尾 は 矢 嶋 証 言 を そ の ま ま 受 け 入 れ て、 「 柳 田 は 牧 口 と ま さ に 喧 嘩 別 れ し た

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」 と 断 定 す る。 さ ら に 村 尾 は、 柳 田 に 対 す る 嫌 悪 感 が、 牧 口 を 郷 土 会 か ら 遠 ざ け て し ま っ た と し て い る が

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、 熊 谷 一 乗 は 牧 口 自 身 の 文 章 を 引 用 し つ つ、 村 尾 説 が 根 拠 の な い 誤 り で あ る こ と を 指 摘 し て い る

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。 も っ と も、 熊 谷 の研究は村尾より二九年も前に公刊されている。村尾にとっては先行研究になるはずなのだが。

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柳田國男と牧口常三郎九〇

四   牧口常三郎の教育論   ㈠『創価教育学体系』における牧口の主張   牧 口 常 三 郎 の 教 育 論 が 凝 縮 さ れ た 研 究 成 果 こ そ『 創 価 教 育 学 体 系 』 全 四 巻 で あ る。 第 一 巻 が 出 版 さ れ た の は 昭 和 五 年 十 一 月 十 八 日 で、 こ の 日 を 以 て 創 価 学 会 の 創 立 記 念 日 と し て い る。 筆 者 所 有 の 同 書 は、 昭 和 四 七 年 か ら 昭 和 五 五 年 に か け て 復 刊 さ れ た 聖 教 文 庫 版 で あ る。 本 稿 で は、 こ の 聖 教 文 庫 版 に 依 り な が ら、 牧 口 の 教 育 論 を 概 観 す る。 な お、 引 用 文 末 尾 に 付 し た 数字は、同書の巻数およびページ数を示している。

  ま ず 牧 口 は 教 育 の 目 的 に つ い て、 価 値 創 造 力 豊 か な 人 格( 人 間 ) の 形 成 に あ り( Ⅰ・ 一 九 )、 そ う す る こ と が「 被 教 育 者

を し て 幸 福 な 生 活 を 遂 げ し め る 」( Ⅰ・ 一 四 九 ) こ と に な る の だ と す る。 で は そ の 価 値 と は 何 か と い え ば、 「 あ ら ゆ る 環 境 に 順 応 し、 利 を 生 し 害 を 除 き 善 を 就 し 悪 を 避 け 美 に 化 し 醜 を 去 る 等、 如 何 な る 方 面 に で も 活 路 を 開 拓 し て 進 行 す る こ と の 出 来 る 能 力

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」 と 述 べ、 利・ 善・ 美 の 三 つ を 挙 げ て い る。 つ ま り、 幸 福 を も た ら す 利・ 善・ 美 と い う 三 つ の 価 値 を 創 造 で き る 能 力 を身に付けるよう指導することが教育に他ならない。別の言い方をするならば自立性の確立を計ることであろう。

  そ う し た 教 育 を 郷 土 と い う 現 場 に お い て 実 践 し よ う と し た 牧 口 は、 地 方 学 の 提 唱 者 新 渡 戸 稲 造 や 同 じ 方 向 性 を 持 っ て い た 柳 田 國 男 と 親 し く 交 わ る よ う に な る の で あ る。 「『 郷 土 研 究 』 に 就 い て、 夙 に こ の 研 究 方 法 を 鼓 吹 し て 居 ら れ、 余 も 昔 か ら 指

導 を 受 け て 来 た 柳 田 国 男 氏 」( Ⅳ・ 一 〇 一 ) と か、 「 教 育 の 実 際 化 的 改 革 に 就 き、 多 年 郷 土 教 育 を 熱 心 に 提 唱 さ れ て 居 る 柳 田 国 男 氏 」( Ⅳ・ 二 六 七 ) と い っ た 牧 口 の 文 章 に、 柳 田 と 牧 口 と の 関 係 を う か が い 知 る こ と が で き よ う。 で は、 創 価 教 育 学 と は 何 で あ ろ う か。 こ の 点 に つ い て 牧 口 は、 「『 創 価 教 育 学 』 は 又 被 教 育 者 の 生 活 を 指 導 す る 方 法 上 の 因 果 法 則 を 探 求 」( Ⅱ・ 八 ) す る こ と で あ る と 説 明 す る。 つ ま り 教 育 の 方 法 と そ れ に よ っ て も た ら さ れ る 結 果 と の 間 に は 因 果 関 係 が 存 在 す る と 見 な し て い る

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。 で あ る か ら、 牧 口 は 教 育 学 を 自 然 科 学 と 同 じ レ ベ ル に 引 き 上 げ、 「 経 験 的 応 用 科 学 に 組 織

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」( Ⅳ・ 三 七 ~ 三 八 ) し よ う と す る。 ひ と り の 人 間 が 幸 福 に な る た め に は、 従 前 の 知 識 を 与 え る 教 育 で は な く、 自 分 自 身 の 努 力 に よ っ て 知 識 を 獲 得

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柳田國男と牧口常三郎九一

し、 そ れ に 基 づ い て 利・ 善・ 美 の 価 値 を 創 造 す る 主 体 性 を 確 立 す る 学 習 指 導 主 義

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に 依 ら な け れ ば な ら な い、 と い う の が 牧 口 教育論の骨子である。だが、これだけで牧口教育論は終わらない。次のように述べて、利他性を求めるのである。 人 間 は 郷 土 と い う 自 然 と 社 会 と の 環 境 に 調 和 し て 生 活 す る こ と に よ っ て 価 値 を 獲 得 し、 然 る 上 に 独 特 の 個 性 に 応 じ た 利・ 善・ 美 の 何 れ か の 価 値 を 創 造 し て 生 活 し、 そ れ に よ っ て 社 会 の 文 化 に 貢 献 し、 以 て 無 意 識 な が ら も、 世 に 生 ま れ た 本懐を遂げたことを満足するものである。 (Ⅳ・一八九)

  こ こ に 見 ら れ る よ う に、 創 価 教 育 学 の 目 指 す と こ ろ は 自 他 の 幸 福 で あ っ て、 利 己 的 な 幸 福 の 追 求 は 否 定 さ れ て い る。 自 他 の 幸 福 と は 大 乗 仏 教、 そ の 中 で も 特 に『 法 華 経 』 に 説 か れ て い る 菩 薩 行 に 通 じ る こ と か ら、 牧 口 教 育 論 に 見 ら れ る 思 想 は、

仏教の影響を受けて形成されたと考えられる。事実牧口自身、次のように『法華経』との関係について述べている。 仏 教 に 於 て 唯 一 絶 対 の 本 尊 の 主 旨 即 ち 釈 尊 五 十 年 の 説 法 中 の 最 高 位 な る 法 華 経 の 第 十 六 寿 量 品 に 於 て 説 か れ た る 御 主 旨 は、 人 生 の 苦 悩 に な や む 衆 生 を し て 悉 く 成 仏 せ し め て 永 久 無 死 な る 生 の 満 足 に 安 住 せ し め ん と の 御 約 束 に あ ら ざ る か。 (Ⅱ・一八七)

  『法華経』が世界の人々を救う教えであるのと同様に、

牧口の創価教育学も人々を幸福にするための学問に他ならなかった。 教 育 ば か り で は な く、 道 徳 や 科 学 を も 包 摂 し て そ の 存 在 根 拠 を 与 え る も の こ そ 仏 教( 『 法 華 経 』) で あ る、 と 牧 口 は 悟 っ た の だとされ る

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。では、牧口教育論に多大な影響を与えた『法華経』 、そして日蓮の法華信仰とはどういうものなのであろうか。

  ㈡法華経』と日蓮   諸 経 の 王 と 呼 ば れ る『 法 華 経 』 を 根 本 と し て 天 台 宗 を 大 成 し た 天 台 大 師 智 顗 は、 全 二 八 品 を 前 半 十 四 品 と 後 半 十 四 品 と に 分 け、 こ れ を 迹 門 と 本 門 と し た。 そ し て 迹 門 の 中 で 第 二 品「 方 便 品 」 を、 本 門 の 中 で 第 十 六 品「 如 来 寿 量 品 」 を 重 要 視 し た

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。 こ こ で は 本 稿 の 展 開 上 必 要 と 思 わ れ る「 方 便 品 」 と 第 十 五 品「 従 地 湧 出 品 」 を 取 り 上 げ、 内 容 を 確 認 し て お き た い。 テ キ ス

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柳田國男と牧口常三郎九二

トには坂本幸男他訳注『法華経』 (岩波文庫)を用い、鎌田茂雄『法華経を読む』 (講談社学術文庫)を参照する。

教え方が必要となる。といっても、衆生を導く基本的方法には四つの段階のあることが示されている。 し か し 仏 の 智 慧 は 深 遠 で 簡 単 に 理 解 す る こ と は で き な い。 衆 生 の 機 根( 理 解 力 ) に は 千 差 万 別 が あ る か ら、 そ の 人 に 応 じ た   『 方 便 品 』 で は、 釈 迦 が こ の 世 に 出 現 し た 目 的 を 説 い て い る。 そ れ は 地 球 上 の 一 切 衆 生 を こ と ご と く 仏 と す る た め で あ る。

  第 一 段 階 は、 衆 生 に 仏 教 の 教 え の 門 戸 を 開 く こ と で あ る。 門 戸 が 閉 じ ら れ た ま ま で は、 衆 生 は 仏 の 教 え の す ば ら し さ を 理 解 す る こ と が で き な い。 そ こ で 第 二 段 階 と し て、 開 か れ た 仏 の 世 界 を 遍 く 見 せ る こ と が 必 要 と な る。 そ し て 仏 の 世 界 の す ば ら し さ を 悟 ら せ る の が 第 三 段 階 と な る。 悟 る こ と が で き れ ば、 人 々 は お の ず と 自 分 の 意 志 で 仏 の 世 界 に 入 る こ と が で き る。

こ の 四 つ の 段 階 を 開 示 悟 入 と い う が、 熊 谷 一 乗 は こ こ に「 教 育 思 想 と し て の 性 格

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」 を 見 る こ と が で き る と す る。 牧 口 の 創 価 教育学も、この開示悟入の方法を取り入れているようである。

ち取ることを説いているからである。自立性の思想が示されている。 に 重 要 視 し て い る。 そ れ は、 自 分 た ち の 幸 福 を 他 者 か ら 与 え て も ら う の を 待 つ の で は な く、 自 分 た ち 自 身 の 努 力 に よ っ て 勝   『 従 地 湧 出 品 』 は 本 門 の 最 初 に 位 置 付 け ら れ て お り、 次 の『 如 来 寿 量 品 』 を 導 き 出 す 重 要 な 役 割 を 担 っ て い て、 日 蓮 も 特   前 品 の『 安 楽 行 品 』 に お い て 仏( 釈 迦 ) が 法 華 行 者 の 心 が け を 説 き 終 わ っ た と こ ろ か ら『 従 地 湧 出 品 』 は 始 ま る。 他 の 国 土 か ら 集 ま っ て 来 て い た 菩 薩 た ち が 仏 に 対 し、 こ の 国 土 に お い て 我 々 も 法 華 経 弘 通 の 手 伝 い を し た い と 申 し 入 れ た 時、 仏 は

即 座 に こ れ を 制 し、 こ の 国 土 に 法 華 経 を 広 め る 者 は こ の 国 土 の 菩 薩 で な け れ ば な ら な い と 告 げ た。 そ の 時 そ の 言 葉 に 呼 応 す る か の よ う に 大 地 が 裂 け、 中 か ら お び た だ し い 数 の こ の 国 土 の 菩 薩 た ち が 湧 き 出 て き た の で あ る。 こ れ が 地 湧 の 菩 薩 と 呼 ば れ る 者 た ち で あ る。 彼 ら の 中 に は 特 に す ぐ れ た 四 人 の 導 師 が い て、 そ の 第 一 位 を 上 行 菩 薩 と い う。 実 は 日 蓮 自 身、 自 分 は 上 行菩薩の生まれ替わりだと信じていた。

  『従地湧出品』の精髄を、

久保田正文が「人間の現実界の問題は人間自身が解決すべきであって、 誰れかが、 また、 何かが、

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柳田國男と牧口常三郎九三

救 っ て く れ る と 思 っ て 待 っ て い た の で は、 結 局 は 解 決 さ れ な い と い う こ と で あ る

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」 と ま と め て い る。 こ こ は ま さ に 柳 田 お よ び牧口の思想に通底している。

  自 立 の 精 神 を 促 す『 法 華 経 』 の 教 え を 広 め る た め、 日 蓮 は 生 ま れ 故 郷 の 清 澄 寺 に お い て 立 宗 宣 言 し、 『 法 華 経 』 に 帰 依 し、 念 仏 へ の 信 心 を 捨 て よ と 説 く の で あ る。 建 長 五 年( 一 二 五 三 ) 四 月 二 八 日 の 早 朝 で あ っ た と 伝 え ら れ て い る。 法 然 や 親 鸞 な ど 浄 土 門 の 人 た ち は、 民 衆 の 機 根 劣 下 ゆ え に 阿 弥 陀 仏 の 本 願 に す が る 以 外 救 済 の 道 は な い と 説 く。 こ れ に 対 し て 日 蓮 は 民 衆 の能力を信じ、民衆自身の自己改革を通じた社会改革を目指した。その思想的拠り所となったのが『法華経』に他ならない。

  田 村 芳 朗 は 日 蓮 の 思 想 に 触 れ て、 「 日 蓮 は 伊 豆 流 罪 以 降 の 四 十 歳 代 に な る と、 現 実 に 批 判 的、 対 決 的 と な り、 ひ い て は 現 実 変 革 を 通 し て の 浄 土 の 具 現 化 を 意 図 す る よ う に な る。 浄 仏 国 土 で あ り、 仏 国 土 建 設 で あ る。 こ の よ う な 浄 土 は、 時 間 的 に い え ば 未 来 浄 土 で、 わ か り や す く い え ば、 な る

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( 成 る ) 浄 土 で あ る

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」 と 述 べ て い る。 「 成 る 浄 土 」 と い う の は、 住 民 た ち 自 身の手によって創り上げられる浄土ということであるから、柳田國男の創造主義民衆史 観

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に通じる思想なのである。

  日 蓮 の 未 来 志 向 型 思 想 を 鮮 明 に 打 ち 出 し た 代 表 的 著 作 が『 立 正 安 国 論 』 で あ る。 「 旅 客 来 り て 嘆 い て 曰 く 」 に 始 ま る 有 名 な こ の 書 は、 日 蓮 三 九 歳 の 文 応 元 年 七 月 十 六 日 に、 時 の 権 力 者 北 条 時 頼 に 上 呈 し た 国 憂 の 書 翰 で あ る。 旅 客 と 主 人 と の 問 答 形 式 で 話 が 展 開 さ れ る 中、 旅 客 が「 国 土 泰 平・ 天 下 安 穏 は、 上 一 人 よ り 下 万 民 に い た る ま で 好 む と こ ろ、 願 う と こ ろ で あ

る 」 と 述 べ た。 そ れ に 対 し て 主 人 は「 も し、 ま ず 国 土 を 安 ら か し て 現 在・ 未 来 を 祈 ら ん と す る な ら、 す み や か に 情 慮 を め ぐ ら し、 い そ い で 対 策 を 立 て ら れ よ 」、 「 国 を 失 い、 家 滅 び て は、 い ず れ の と こ ろ に 世 を の が れ ら れ よ う。 あ な た が 一 身 の 安 堵 を思われるなら、まず四方の静かならんことを祈るがよ い

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」と答えるのである。

  熊谷一乗によると、 『立正安国論』を読んだ牧口常三郎は「世直しが必要だ、 世直しをするには心を変えなければならない、 心 を 変 え る に は ど う し た ら い い の か、 変 え る た め の 拠 り 所 」 が 必 要 で あ る と し て 辿 り 着 い た の が 日 蓮 の 法 華 信 仰 で あ っ た と し て い る

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。 こ こ に 見 え る 個 人 の 意 識 改 革 と 社 会 改 革 と の 関 係 は 柳 田 民 俗 学 に も 底 流 す る 思 想 で あ る が、 は た し て 柳 田 國 男 が

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柳田國男と牧口常三郎九四

『法華経』や『立正安国論』の影響を受けていたのかどうか。今はまだ不明である。

  柳 田 國 男 旧 蔵 書 目 録

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に『 立 正 安 国 論 』 は 見 え な い。 法 華 経 普 及 会 編『 妙 法 蓮 華 経 並 開 結 ― 訓 譯 』( 平 楽 寺、 昭 和 十 七 年 ) と 日 蓮 の 代 表 的 著 作 を 解 説 し た『 種 々 御 振 舞 御 書 略 註 』( 山 川 智 應 謹 述、 新 潮 社、 大 正 四 年 ) は 見 え て い る。 『 種 々 御 振 舞 御 書 』 と い う の は、 法 華 経 弘 通 者 に は あ ら ゆ る 災 難 の 襲 い 掛 か る こ と が 予 言 さ れ て い る こ と を 述 べ た 書 翰

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で あ る。 多 く の 迫 害 に 立 ち 向 か っ て き た 日 蓮 が、 自 分 こ そ は 上 行 菩 薩 で あ る と の 確 信 を 強 め る 内 容 と な っ て い る。 い わ ば パ イ オ ニ ア 精 神 を 綴 っ た書翰ともいえようか。その姿に牧口は己を重ね合わせたに違いないが、柳田はどうであっただろうか。

五   柳田國男の教育論   柳 田 國 男 の 教 育 論 を 論 じ た 研 究 も ま た 枚 挙 す る に 骨 が 折 れ る ほ ど の 数 が あ る。 公 刊 さ れ て い る 代 表 的 単 行 本 だ け で も、 庄 司和晃『柳田国男と教育』 、 長浜功『常民教育論』 、 井上浩二『柳田教育学と社会科教育』 、 関口敏美『柳田國男における「学 問 」 の 展 開 と 教 育 観 の 形 成 』 お よ び『 柳 田 國 男 の 教 育 構 想 』、 谷 川 彰 英『 柳 田 國 男 ― 教 育 論 の 発 生 と 継 承 』、 福 井 直 秀『 柳 田 国 男 ― 社 会 改 革 と 教 育 』、 森 本 芳 生『 近 代 公 教 育 と 民 衆 生 活 文 化 ― 柳 田 国 男 の〈 教 育 〉 思 想 に 学 び な が ら 』 な ど を 挙 げ る こ

と が で き る。 そ れ ら の 中 で も 杉 本 仁『 柳 田 国 男 と 学 校 教 育 』 は、 こ の 分 野 に お け る 白 眉 で あ る。 同 書 は、 高 校 教 師 と し て 学 校 教 育 に 永 年 携 わ っ て い た 杉 本 が、 教 育 を 通 じ て 社 会 改 革 を 目 指 し た 柳 田 國 男 の 教 育 論 に つ い て 論 じ た 研 究 で あ る。 こ こ で は杉本の研究に依拠しながら、柳田教育論の特質を確認することとする。

  ま ず 杉 本 は、 戦 後 の 教 育 改 革 に 取 り 組 む 柳 田 國 男 の 姿 を 跡 付 け る と と も に、 柳 田 に と っ て 学 問 と 教 育 と は 表 裏 一 体 の 関 係 に あ る こ と を 明 ら か に し て い る。 柳 田 の 教 育 論 は 国 語 教 育 と 社 会 科 教 育 に 分 け る こ と が 可 能 で あ る が、 杉 本 に よ れ ば、 柳 田 は 史 心 を 育 て る こ と こ そ 社 会 科 に 課 せ ら れ た 役 割 で あ る と 認 識 し て い た。 史 心 の 育 成 は 民 俗 学 の 実 際 化 に 関 わ る 大 き な テ ー

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柳田國男と牧口常三郎九五

マ で あ っ た の だ が、 そ の こ と は 無 視 さ れ た ま ま 今 日 に 至 っ て い る。 そ の 結 果、 民 俗 学 は 講 壇 化 し て し ま い、 教 育 へ の 取 り 組 み が な い が し ろ に さ れ、 ひ い て は 日 本 民 俗 学 全 体 を 衰 退 さ せ て し ま っ て い る、 と 言 う の で あ る。 こ の よ う な す る ど い 指 摘 は、 教 育 学 と 民 俗 学 と い う 複 眼 的 視 点 を 持 つ 杉 本 に し て 始 め て 捉 え る こ と が で き る の で あ る。 で は、 杉 本 が 重 要 視 す る 史 心 と は 何であろうか。   柳 田 に よ れ ば「 昔 の 事 実 を 知 り た い と い う 念 慮、 も っ と 自 分 々 々 と 関 係 の あ る 事 を、 出 来 る だ け 詳 し く 知 り た い と い う 向 学 心

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」 が 史 心 で あ る。 杉 本 は 史 心 を 主 意 的 精 神 に 裏 打 ち さ れ た 概 念 と 見 な し、 「 歴 史 学 で い う 実 践 を と も な う 主 体 形 成 と し

て の 歴 史 意 識 に 近 い 概 念

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」 と も 述 べ て い る。 柳 田 は「 国 民 全 部 に 史 心 を も た せ る こ と が 歴 史 教 育

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」 の 目 的 と も 語 っ て い る か ら、単に向学心を植え付けるだけではなく、国民に主体形成を促す目的で史心を育みたいと考えていたことになる。

  森 田 政 裕 も 史 心 に 関 し、 「 個 々 の 子 ど も が 自 身 の 置 か れ た 生 産・ 生 活 の 状 況 を 客 観 化・ 対 象 化 し て い く 力、 さ ら に は 自 身 の 人 生 行 路 を 主 体 的・ 自 主 的 に 切 り 拓 い て い く 力 に つ な が る は ず

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」 と し て い る が、 で は な ぜ 史 心 の 育 成 が 国 民 の 主 体 形 成 の 確 立 に つ な が る の で あ ろ う か。 こ こ に は 柳 田 の 歴 史 観 が 大 き く 関 わ っ て い る よ う で あ る

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。 柳 田 の 歴 史 観 を わ か り や す く 示 し ている文章をひとつ紹介しよう。 明 治 に は 明 治 の 生 活 が あ る、 大 正 に は 大 正 の 生 活 が あ る。 そ の 中 に は 軽 薄 と い う か、 せ ぬ で も い い 改 革 を し た り、 ま た

人 の 真 似 を す る だ け の 改 良 も あ る か も し れ ま せ ん が、 大 体 に お い て 時 代 時 代 の 要 求 が あ っ て、 変 っ て い る。 だ か ら、 も ど る こ と も あ る け れ ど も、 ち が っ た 方 に 行 く と い う こ と を 認 め る こ と で す ね。 そ れ が 一 番 大 事 な ん で す。 そ れ を す っ か り 知 り さ え す れ ば、 将 来 の 変 化 を 手 加 減 す る こ と が で き る。 こ れ か ら ど う 変 っ て 行 く と い う こ と を い い 方 に 向 け る こ と が で き る。 こ れ が 歴 史 の 学 問 を ほ ん と う に 忠 実 に や ら な け れ ば な ら ん 大 き な 理 由 だ と 思 う。 ま た 人 力 で 如 何 と も で き ぬ 変遷と人力でできる変遷とある。これさえ認めて行けば、今後世の中を導いて行け る

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  こ こ に 明 瞭 に 語 ら れ て い る 通 り、 我 々 の 日 常 生 活 も 含 め て 世 の 中 の あ ら ゆ る 事 柄 は 変 化 し て い る と 見 な す の が、 柳 田 の 基

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柳田國男と牧口常三郎九六

本 的 歴 史 観 で あ る。 そ の 変 化 に は 避 け ら れ る も の と 避 け ら れ な い も の と が あ る が、 国 民 を 不 幸 に 導 く 変 化 で あ る な ら ば、 な る べ く こ れ を 避 け る よ う に し な け れ ば な ら な い

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。「 将 来 の 変 化 を 手 加 減 す る 」 と は こ の こ と を 意 味 し て い る。 で は、 誰 が 手 加 減 す る 主 体 と な る の か。 一 部 の 政 治 家 や 学 者 あ る い は 官 僚 で は な い。 歴 史 の 変 化 を 手 加 減 す る 者、 つ ま り 歴 史 創 造 の 主 体 者 は 国 民 自 身 で な け れ ば な ら な い。 自 分 た ち の 責 任 に お い て 歴 史 を 創 造 し て い く と い う こ と に な れ ば、 必 然 的 に 主 体 性 を 持 たざるを得なくなる。

  主 体 性 を 獲 得 し た 国 民 は、 何 を 基 準 に 招 来 の 変 化 を 手 加 減 す れ ば よ い の か。 柳 田 は そ の 基 準 を 過 去 の 事 実 に 求 め よ う と す る。 「 あ ら ゆ る 社 会 現 象 は 原 因 な く し て は 起 ら な い。 そ う し て 此 国 限 り の 問 題 で あ る 以 上 は、 其 原 因 も 必 ず 国 の 内 に 在 る

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」 の で あ る か ら、 「 こ れ か ら 先 の 文 化 の 調 合 と い う こ と に つ い て、 他 に 参 考 に な る べ き 資 料 は な い。 失 敗 に つ け、 成 功 に つ け、 歴 史 の 跡 を 見 る よ り 吾 々 の 参 考 に な る も の は な い

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」 と い う の で あ る。 別 の 論 考 で は「 文 化 の 歴 代 の 変 遷 を 考 え た こ と も な い 者 は、 未 来 の 文 化 を 説 く 資 格 が な い。 だ か ら 最 初 に 先 ず 昔 は ど う だ っ た か を、 一 通 り は 知 っ て 置 か な け れ ば な ら ぬ の で あ る

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」とも述べている。

  こ れ ま で の 考 察 で 明 ら か と な っ た で あ ろ う。 史 心 と は、 ま ず 第 一 に 国 民 に 歴 史 へ の 関 心 を 持 た せ る こ と で あ る。 そ し て 第 二 に、 歴 史 に は 変 遷 が あ り、 そ の 変 遷 の 前 後 に は 必 ず 原 因 と 結 果 の 関 係 が 存 在 す る こ と を 認 識 さ せ る こ と で あ る。 そ し て 第

三 に、 歴 史 を 学 ぶ こ と で、 自 分 た ち の 生 活 を よ り よ く す る た め に は ど の よ う に す べ き な の か を 考 え さ せ る こ と で あ る。 こ の 過 程 を 経 る こ と で、 国 民 が 歴 史 創 造 の 主 体 者 で あ る こ と を 自 覚 し、 事 大 主 義 と い う 国 民 性 か ら 脱 却 で き る。 柳 田 が 教 育 に 求 めた役割は、国民に主体性を獲得させることであっ た

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。それを史心と表現したのである。

  た だ し、 牧 口 常 三 郎 の 教 育 論 と 違 い、 こ れ か ら 先 ど の よ う に す べ き な の か を 教 え る こ と は 求 め て い な い。 「 私 は 教 育 と し て は 事 実 を 教 え れ ば、 後 は め い め い で 考 え る だ ろ う と 思 っ て い る

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」 と 述 べ て い る の は、 教 育 は「 開 示 」 ま で は す る が「 悟 入 」 は し な い と の 意 味 で あ ろ う。 今 後 の 先 祖 祭 祀 の あ り か た を 論 じ る 中 で、 「 そ れ は 手 数 だ か ら 只 何 で も か で も 押 し 付 け て

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柳田國男と牧口常三郎九七

し ま え、 盲 従 さ せ ろ と い う こ と に な っ て は、 そ れ こ そ 今 ま で の 政 治 と 格 別 の 変 り は 無 い。 人 に 自 ら 考 え さ せ、 自 ら 判 断 さ せ よ う と し な か っ た 教 育 が、 大 き な 禍 根 で あ る こ と は も う 認 め て 居 る 人 も 多 か ろ う。 し か し 国 民 を そ れ ゞ ゝ に 賢 明 な ら し め る 道 は、 学 問 よ り 他 に 無 い と い う こ と ま で は、 考 え て 居 な い 者 が 政 治 家 の 中 に は 多 い

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」 と 述 べ て い る こ と が、 筆 者 の 推 測 を 裏 付けていよう。

六   おわりに   近 代 日 本 が 生 ん だ 稀 有 な 教 育 者 で あ り か つ 思 想 家 で も あ る 柳 田 國 男 と 牧 口 常 三 郎。 ほ ぼ 同 じ 時 代 を 生 き 抜 い た ふ た り で あ る。 生 家 が 裕 福 で は な か っ た た め、 ふ た り と も 幼 い こ ろ か ら 苦 労 を 強 い ら れ、 故 郷 を 離 れ ざ る を 得 な か っ た。 養 子 と し て 他 家へ入り、姓が変わったこともふたりの共通点である。

  長 じ て 後 は、 柳 田 が 民 俗 学 の 研 究 に 没 頭 し た の に 対 し、 牧 口 は 人 文 地 理 学 の 研 究 に す べ て を 捧 げ た。 ふ た り の 研 究 は と も に 郷 土 を 舞 台 と し て い た こ と か ら、 明 治 四 三 年 十 二 月 に 農 政 学 者 新 渡 戸 稲 造 と 柳 田 が 中 心 と な っ て 発 足 し た 郷 土 会 に 牧 口 も 参 加 す る。 も ち ろ ん そ れ 以 前 か ら、 牧 口 は 新 渡 戸 と も 柳 田 と も 交 流 を 深 め て い た。 郷 土 会 の メ ン バ ー の 中 で、 柳 田 と 牧 口 は

気 の 合 う 者 同 士 だ っ た。 幼 い こ ろ か ら の 生 活 環 境 が 似 て い た こ と に 加 え、 個 人 の 意 識 改 革 が 社 会 改 革 へ と つ な が る と す る 思 想

)11

を共有していた。ふたりしての甲州への旅行が何よりもこのことを物語っている。

  と こ ろ が、 牧 口 が 日 蓮 正 宗 に 入 信( 「 年 譜 C 」 に よ れ ば 昭 和 三 年 ) し て か ら は、 ふ た り の 間 に 埋 め る こ と の で き な い 思 想 的 違 い が 顕 在 化 す る よ う に な っ た。 牧 口 が 宗 教 に 依 り な が ら 社 会 改 革 を 実 現 し よ う と す る の に 対 し、 柳 田 は「 学 問 が 人 を 賢 くし、世を幸福に導く唯一の手段であ る

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」との立場を堅持し、牧口からの入信への誘いを拒否したのである。

  学問と宗教との関係について、柳田は次のように考えていた。

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柳田國男と牧口常三郎九八

わ れ わ れ は、 決 し て、 か く し な け れ ば な ら ぬ と か、 か く 心 得 な け れ ば な ら ぬ な ど と 強 制 し 主 張 す る わ け で は な い。 事 実 を 明 ら か に し、 そ れ を 資 料 と し て 各 自 が 判 断 す る こ と が で き る よ う に 整 理 す る の で あ る。 こ れ が 学 問 の 目 的 で あ り、 そ の正しい立場というべきであろう。学問が宗教とおのずから異なる所以がなければならないと思うわけであ る

)1(

  こ う し た 柳 田 の 考 え 方 に 対 し て、 牧 口 の 立 場 は 明 ら か に 違 っ て し ま っ て い た。 不 敬 罪 の 疑 い で 拘 留 さ れ た 際、 取 調 官 か ら 「広宣流布とはいかなる意味なりや」と問われた牧口は、宗教による思想統制について次のように応えている。 広 宣 流 布 と い う 事 は、 末 法 の 時 代、 い わ ゆ る 現 世 の ご と き 濁 悪 の 時 代 に、 そ の 濁 悪 の 時 代 思 想 を 南 無 妙 法 蓮 華 経 の 真 理 に よ っ て 浄 化 す る 事 で、 宗 祖 日 蓮 聖 人 の 教 え に 上 は 陛 下 よ り 下 国 民 に 至 る ま で 一 人 も 残 ら ず に 従 い、 南 無 妙 法 蓮 華 経 に

帰依するようになった時を広宣流布と称し、その時始めて一天四海皆帰妙法の社会相が具現するのでありま す

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  牧 口 は 宗 教 家 で あ っ た か ら、 こ の よ う な 立 場 を 主 張 す る の は 無 理 か ら ぬ こ と で あ っ た。 他 宗 派 を 攻 撃 し た 四 箇 格 言「 念 仏 無 間、 禅 天 魔、 真 言 亡 国、 律 国 賊 」 に 象 徴 さ れ る よ う に、 特 に 排 他 主 義 的 性 格 の 強 い 日 蓮 宗 で あ っ た か ら、 な お さ ら の こ と で あ る。 牧 口 が 宗 教 家 と し て 生 き よ う と 決 意 し た の に 対 し、 柳 田 は あ く ま で も 民 俗 学 者 と し て の 立 場 を 貫 こ う と し た の で あ る。 も ち ろ ん、 柳 田 が 生 涯 を 掛 け て 追 い 求 め た テ ー マ は 神 道 研 究 で あ っ た が、 人 々 を 神 道 信 者 に し よ う と し た わ け で は な い。 柳 田 の 神 道 論 は、 汎 宗 教 と し て の 神 道 で あ る。 こ の こ と は 民 俗 学 者 を 含 め て ほ と ん ど 理 解 さ れ て い な い。 昭 和 二 八 年、 法 政 大 学 の 中 村 哲・ 石 母 田 正 の ふ た り と 対 談 し た 柳 田 は、 石 母 田 の「 先 生 は ど う い う わ け で 神 道 を 問 題 に さ れ る ん で す か 」 と の

問 い に 対 し、 「 あ れ は キ リ ス ト 教 や 仏 教 の 起 る 前 の 全 世 界 人 の 信 仰、 そ の 状 態 を 曲 り な り に も 保 存 し て い る の が 神 道 だ か ら。 こ れ が わ か ら な く な っ た 場 合、 一 つ の 事 実 が 消 え る ん で す。 で す か ら 責 任 が あ る と 思 う。 だ か ら ど う し て も も う 少 し 日 本 の 神 道 系 統 を 明 か に し て や り た い と 思 う

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」 と 応 え て い る。 つ ま り、 神 道 は 日 本 民 族 独 自 の 宗 教 で は な く、 人 類 文 化 に 共 有 さ れ た 要 素 を 保 持 し て い る と 見 な し て い る の で あ る。 村 尾 行 一 の 言 葉 を 借 り る な ら ば、 牧 口 が 人 々 を 自 分 た ち の 精 神 構 造 に 統 一 しようとするのに対し、 柳田は人類に共通する精神構造を発見しようとするのである。 「哲学のシステムが違う」というのは、

(21)

柳田國男と牧口常三郎九九

まさにこのことであった。村尾が柳田に対して向けた非難の矢は、むしろ牧口に向けるべきであった。

註 

( 尾に(電子版)と表記した。   特に断りのない限り、柳田國男の著作からの引用は筑摩書房刊『定本柳田國男集』を使用する。また、インターネット上で公開されている論考については末

(     1)鶴見太郎『ある邂逅柳田国男と牧口常三郎』潮出版社二〇〇二年

(    2)村尾行一『柳田國男と牧口常三郎―ある遭遇と疎遠』潮出版社二〇〇七年

(     3)矢嶋秀覚「法華経かマルクス主義か」美坂房洋編『牧口常三郎』聖教新聞社一九七二年四七六ページ

(   4)柳田國男「故郷七十年」定本別巻三四六三ページ

(     5)鶴見太郎前掲『ある邂逅柳田国男と牧口常三郎』一八三ページ

(    6)牧口常三郎『創価教育学体系Ⅰ~Ⅳ』(文庫版)聖教新聞社一九七二年~一九八〇年

(    7)村尾行一前掲『柳田國男と牧口常三郎―ある遭遇と疎遠』二二~二三ページ

(    8)野村純一他編『柳田國男事典』勉誠出版一九九八年

(    9)橋浦泰雄「柳田国男との出会い」『季刊柳田國男研究』二白鯨社一九七三年

( 10)    村尾行一前掲『柳田國男と牧口常三郎―ある遭遇と疎遠』二三ページ

( 11)   同右二九ページ

( 12)    柳田國男前掲「故郷七十年」一八九ページ

( 13)   同右二三七ページ

( 14)   後藤総一郎監修『柳田国男伝』三一書房一九八八年

( 15)  三浦周次編『創価学会年譜』(電子版)

( 16)      田辺寿利「創価教育学の学問的および実際的価値」牧口常三郎『創価教育学体系Ⅰ』聖教文庫一九七二年二四五ページ

( 17)     熊谷一乗『牧口常三郎』第三文明社一九七八年五〇ページ

( 18)   柳田國男「故郷七十年拾遺」定本別巻三四六六ページ

19) 

石井清輝「戦前期日本における国民国家と『郷土』

」(電子版)

  『三田社会学』十

  二〇〇五年     野沢秀樹「柳田國男と小田内通敏」(電子版)

  『放送大学研究年報』二六

  二〇〇八年(

( 20)    山下紘一郎「郷土会とその人びと」後藤総一郎監修前掲『柳田国男伝』三九八ページ

( 21)  同右三九九ページ

( 22)   同右三九九ページ

( 23)    柳田國男「創価教育学の基礎としての農村研究」牧口常三郎前掲『創価教育学体系Ⅰ』二五七ページ

( 24)    柳田國男前掲「故郷七十年拾遺」四六五ページ

( 25)    山下紘一郎前掲「郷土会の人びと」四〇九ページ

( 26)    柳田國男前掲「故郷七十年」一八八ページ

( 27)     牧口常三郎『牧口常三郎全集』第十巻第三文明社一九八七年二六三~二六四ページ 28)    柳田國男前掲「故郷七十年」四六三ページ

参照

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