7──「文化大革命」
に見たもの
特集 いまさら文革︑ いまなお文革︑ いまこそ文革 ││││││││││││││││││││││││││││││││ 「 文化大革命 」 に見たもの
文革の背景にある国際情勢︑伝統中国とさほど異なるところのない基層社会と民︒
二一世紀の中国は︑はたしてどこへ向かうのか︒文革以前から中国に関わり︑その変化を見つめるだけでなく︑
様々に有意義な提言を行ってきた両氏に語り合っていただいた︒
小島麗逸
︿大東文化大学名誉教授﹀×加々美光行
︿愛知大学名誉教授﹀司会 三好 章
︿愛知大学現代中国学部教授﹀三好 今日は︑アジア経済研究所︵現日 本 貿 易 振 興 機 構︵ ジ ェ ト ロ ︶・ ア ジ ア 経 済研究所︶調査研究部で一九六〇年代か ら一九八〇年代まで︑とりわけ文化大革 命とその後の変動する中国を︑政治経済 を中心に多方面の分野にわたり研究され ておりました小島麗逸先生と加々美光行 先生にお越しいただいております︒お二 人は︑ご紹介するまでもありませんが現 代中国に止まらず︑世界的あるいは歴史 的視角から中国に接近し︑中国と挌闘し て こ ら れ ま し た︒ そ の お 二 人 に︑
「文 化 大革命
」に見たもの︑と題して︑二〇世 紀の後半に入って間もなくの時期︑同時 代はもとより︑現在の世界にも多大な影 響 を 与 え︑ あ る い は 痕 跡 を 残 し て い る
「文 化 大 革 命
」︵ 以 下
「文 革
」︶ に 何 を 見 たのか︑民と社会にどのような影響を与 えたのか︑ということをお話しいただき たいと思います︒それによって︑現在も なお
「遺制
」と認識され︑時に復活が批 判されている文革について︑同時代史と しての文革を検討することで︑中国と世 界が二一世紀の現在直面している現実と 中華人民共和国の歴史とがいかに関わっ ているかが見えてくると思います︒ 文革期に人口が増大したのはなぜか 三好
まず︑経済面からのアプローチを していらっしゃった小島先生から︑お話 をお願いしたいと思います︒文革という ととかく
「混乱
」という言葉がつきまと い︑経済は混乱のきわみにあったとばか り言われることが多いように思います︒
そればかりがクローズアップされるいっ ぽうで︑小島先生は文革期においても人 口が増えているのではないかとご指摘な さったことがありました︒そうした︑一 見矛盾する︑混乱の中の人口増加の意味 するものは何か︑ということからお話を 始めていただきたいと思います︒ 小島 一九八〇年代︑国家統計局が前に 戻ってGDPを含めた各種統計を公表す るようになりましたが︑それを見るとや はり人口が増えているんですね︒一九六 〇年の後半から六一年︑六二年と︑三千 万人とか四千万人とか餓死者が出ている の で す が︑ そ の 後 は 安 定 し て い ま す︒ もっとも︑餓死者を三千万とか四千万台 とする人がいますが︑私の推計では一七 〇〇万人くらいではないでしょうか︒そ れでも大変な数です︒その後︑その反動 で農村でもの凄く人口が増えているわけ なんです︒
農村で人口が増えるとどうなるのかと いうと︑都市にまわす口糧を十分に取り 上げることができなくなるんですね︒そ の問題は︑かなり大きかったのではない でしょうか︒特に人民公社の整頓のため に六一年三月に広州で開かれた党中央工 作会議で︑劉少奇派が発した
「農村人民 公 社 工 作 条 例︵ 草 案 ︶
」い わ ゆ る
「農 業 六〇条
」というのがあったでしょう︒集 団化のレベルを下げて︑大躍進の行き過 ぎを是正しようとするものでした︒とこ ろ が︑ 毛 沢 東 は そ い つ は け し か ら ん と 言って批判したわけですからね︒それは 結局︑人民公社という組織をより集団化 の高い状態へと立て直そうとすることな んです︒それでは人民公社は何をやって いたかというと︑一つは農民から都市人 口と軍隊用の食料を取り上げること︑も う一つは金が無いから皆を動員して働か す︒この二つをやって︑しかも農民は外 へ出てはいかん︑ 生
せい地
ちで生きよという︑ それが人民公社ですよね︒生地で生きよ ということは︑農民が都市へ出た場合︑ あの頃の国際情勢からいって都市の食糧 をまかなえないからなのです︒一九六〇 年以後︑中国は食糧を輸入するようにな りました︒それまでは輸入したことはな かったんですが︑本当に飢えたこのとき に は 二 〇 〇 万 ト ン と か 三 〇 〇 万 ト ン と 輸入しました︒でも︑それは主に軍隊用 の食糧ではなかったのかと思います︒そ うした問題が︑人民公社整頓の背後にお そ ら く あ っ た の で は な い か と 思 い ま す ね︒文革期になると︑毛沢東が言ったと か言わないとかの言葉を並べた壁新聞が いっぱいありますが︑都市が肥大化した 場 合 に は ブ ル ジ ョ ワ 階 級 が 育 っ て し ま う︑だからむしろ都市を小さくして解体 していったほうがいい︑というようなこ とがスローガン的に壁新聞に貼り出され ていましたね︒でも︑それは文革初期だ けですよ︒後になると︑そんな話はもう どこかへいってしまうわけですね︒そこ には︑多分そんなことを言ってはいられ ない問題が入っているのではないでしょ うか︒ もう一つは︑中国の一九六〇年代とい うのは今の北朝鮮と同じです︒つまり︑ 近代的な武器体系を作っていく時期なん です︒この分野には︑文革が全く入って い ま せ ん︒ 全 く 荒 ら さ れ て い な い ん で す︒武器装備の近代化には資金が必要で
小島麗逸[Kojima Reiitsu] ・・・・・・・・・・・・・・・
9──「文化大革命」
に見たもの
すから︑農産物を農民から取り上げて輸 出しなければならないんです︒その問題 もおそらく背後にあったのでしょう︒だ から核実験や水爆の実験だとかミサイル の実験年表を作っていくと︑その回数が 一九六三年以後蓄積されていきます︒そ して︑今の北朝鮮と同じように︑その水 準が上がってくるんですよ︒超近代的武 器の基礎を作った時期はこれだ︑という ように︒軍事面での近代化を人民公社と いう制度が支えるという仕組みがあった のではないでしょうか︒北京には防空壕 まで作ってしまいましたね︒ハルビンで も作っていました︒あちこちで穴掘れっ て︒ソ連が核を撃ちこんでくるという前 提の国づくりをやらないと危ないぞとい う認識を︑あの頃の指導者の中では毛沢 東が特に強烈に持っていたのではありま せんか︒それを支える体制は何なのかと いえば︑いま言ったように農村からしぼ れ ば な ん と か な る と い う 人 民 公 社 体 制 だったんです︒それでも︑農村だけの人 口と農村の耕地面積︑食料生産量とをグ ラ フ に 作 っ て み る と 非 常 に 面 白 い で す よ︒ 急 速 に 回 復 す る ん で す よ ね︑ 生 産 量が︒ 加々美 文革期に回復するんですか︒ 小島 そう︑文革期に︒農民は外へ出る ことができないんだから︑土でも耕して いるしかないでしょう︒実際︑飢えで死 んでいるからね︒餓死者が何人も出てい るから︒摂れる栄養がなくなれば︑一生 懸命作るわけですよ︒
「出身血統主義
」と
「五 ・ 七指示
」三好 次に政治の側面から中国に関わっ てきた加々美先生に︑近代を克服してで きた社会主義ならばあり得ないはずの︑ 出身家庭の血統︑階級によって本人の価 値 を 決 定 視 す る
「出 身 血 統 論
」︑ あ る い は
「唯成分論
」についてお話しいただき たいと思います︒中国が今なお抱えてい る前近代性や普遍的価値観への拒絶反応 にもつながる問題かと思います︒ 加 々 美 こ の
「出 身 血 統 論
」の 問 題 で は︑周恩来がかなり核心として関わって きます︒一九六六年八月に文革の正式発 動が︑中国共産党中央委員会︵八期一一 中全会︶の
「プロレタリア文化大革命に 関する決定
」によって決まりましたが︑ 秋 に 周 恩 来 が
「促 生 産︑ 鬧 革 命
」︵ 生 産 に力を入れ︑革命をやる︶ということを 言 っ て 農 村 に 文 革 を 拡 大 し て は な ら な い︑としました︒それはつまり︑農村は こ れ か ら 秋 の 収 穫 の 時 期 に 入 る の だ か
・・・・・・・・・・・ 加々美光行[Kagami Mitsuyuki]
ら︑農村に文革を拡大してはいけないと いうことを絶対に守ってもらわなくては ならないということでした︒それに対し て︑ 極 左 派 と し て 出 て く る
「連 動
」︵ 連 合 行 動 委 員 会 ︶ と か
「五・ 一 六 兵 団
」︑ あ る い は 湖 南 省 の
「省 無 連
」︵ 湖 南 省 無 産階級革命派大連合委員会︶が批判を行 うわけです︒省無連はそれほど極左でも ないけど︑五・一六と連動は完全に極左 で︑むしろそういうことを主張する周恩 来を攻撃するわけです︒場合によっては 周恩来の身柄を拘束せよという方向に走 る わ け で す︒ そ の こ と と 出 身 血 統 主 義 は︑非常に深い関わりがあります︒出身 血統主義を主張して立ち上がった紅衛兵 というのは︑八月三〇日の天安門におけ る第二回紅衛兵大集会から登場してくる わけです︒ 小島 六六年ですか︒ 加々美 六六年八月末の天安門における 第二回の紅衛兵集会とは︑毛沢東が紅衛 兵を接見する大会ですね︒第一回集会は 百万人規模で六六年八月一八日に同じ天 安門広場で行われています︒これには初 期に結成された紅衛兵が参加しました︒ その後︑後れて結成された紅衛兵が第二 回大会に参加したのです︒ですから先行 していた極左の紅衛兵と比べれば︑出身 血統主義を主張する紅衛兵たちは出足が 遅いんです︒そのため︑必然的に農村ま で文革を広げるというよりは︑都市で文 革に専心するという傾向を持った人々で した︒それは︑極左紅衛兵から見ればど う考えても右翼日和見主義だったのです が︑そのグループが実は
「紅五類
」︵革命 幹 部・ 革 命 軍 人・ 革 命 烈 士・ 工 人・ 農 民︒先験的に革命的とされた︶ではなく て︑ む し ろ
「黒 五 類
」︵「紅 五 類
」の 反 対 に︑先験的に反動的であるため︑常に批 判粛清の対象とされた︶に近い︑つまり 地主・富農・反革命分子・悪質分子・右 派分子などの悪いレッテルを貼られた父 親母親の子どもたちが多かったのです︒ 社 会 主 義 教 育 運 動︵ 一 九 六 三 〜 一 九 六 六︶の時期までにそうしたレッテルを貼 られた青年たち︑つまり
「黒五類
」の親 を持つ子弟が立ち上がったのです︒悪い 出身であっても造反することができるの だ︑ と 言 っ て 六 六 年 八 月 末 か ら 立 ち 上 がったわけですね︒党中央は当初はそう した紅衛兵の造反を支持していました︒ しかし秋の収穫期を過ぎた翌六七年一月 から三月にかけて︑正確には始まりは一 月二〇日過ぎからですが︑黒類分子の造 反を弾圧するようになります︒初期紅衛 兵 の
「連 合 行 動 委 員 会
」と か︑
「五・ 一 六兵団
」という組織は︑むしろこの時期 に 活 動 を 活 発 化 さ せ て い き ま す︒ そ う やって︑この時期に周恩来を包囲して逮 捕し︑吊し上げよう︑という方向に向か うのですね︒
11──「文化大革命」
に見たもの ですから︑さきほどの小島さんのご説 明から考えていくと︑周恩来は︑中国と 自分が置かれた状況が分かっていたので はないでしょうか︒特に六四年に核実験 に成功して中国は核武装しますが︑それ からわずか一年あまりで文革が始まりま す︒本来は︑毛沢東・周恩来主導のもと で行われた核開発と文革とは︑関係して いなければおかしいのですが︑このこと を中央の指導層は表に出せないのです︒ 表面化すると︑武装の問題が造反の混乱 に巻き込まれ︑重大な問題が生じかねな かったからです︒つまり︑近代化の根幹 に関わる軍事の問題が︑障碍に乗り上げ かねなかったのです︒それで毛沢東は︑ 軍への文革の波及を抑えに回ってしまっ たのです︒毛沢東は︑もう少し早く林彪 問題を片づけておきたかったのではない かと思いますが︑結局一九七一年まで︑ 林彪問題の解決を長引かせてしまった原 因はそこにあります︒
それ以外の問題で言えば︑農村人口は 増えているわけで︑その意味で周恩来の 意図である農村に文革を拡大させないと いう点を︑毛沢東はまさしく強固に支持 していたので︑どれほど紅衛兵が周恩来 を敵視しようともそれを許さなかった︒ そ れ と も う 一 つ︑
「促 生 産︑ 鬧 革 命
」の 典 型として言えば︑毛沢東が六六年五月七 日に林彪に宛てた書簡を︑
「五 ・ 七指示
」として中共中央が全国に発しました︒こ れが︑毛沢東が林彪に頼ろうとした最初 で す ね︒ 本 当 に 重 要 な ポ イ ン ト で あ っ て︑近代化路線に向かう点で林彪を頼り に し た の で す︒
「五 ・ 七 指 示
」は︑ 日 中 戦争の最中︑延安モデル︵一九四一〜一 九四二年の日本軍・国民党による包囲で 直面した経済難を︑大衆動員で乗り切っ た︶の中のひとつ南泥湾モデル︵陝北の 荒 地 南 泥 湾 を 八 路 軍 が 開 墾︑
「自 力 更 生︑刻苦奮闘
」が旗印︶を念頭に毛沢東 が記したのです︒それは一言で言えばコ ミューン運動であって︑コミューンが生 産の非常に大規模な増加に繋がる︑と完 全に毛沢東は思っていたのです︒文革の 理念や理想について言えば︑その典型と して困難な時期の一九四二年前後に︑延 安 モ デ ル の 中 核 に あ っ た 南 泥 湾 モ デ ル が︑つまり南泥湾に入った八路軍が大規 模な土地開発を行い︑急激な生産増を実 現したのだという思いが︑毛沢東の中に あったのです︒そのことと︑秋の刈り入 れの時期に紅衛兵の反乱を毛沢東が抑制 さ せ た こ と と が︑ 表 裏 の 関 係 と し て
「五 ・ 七 指 示
」と し て 出 て く る わ け で す ね ︒ 小 島 要 す る に︑ こ の
「五 ・ 七 指 示
」と い う の は︑ 分 業 廃 止 や 生 産 と 教 育 の 結 合︑若干の中小工場の運営など︑延安時 代の南泥湾で一度やっていて︑それを全 国版でやらせるということですね︒しか し︑それだけで済むかと思いきや︑そう ではない︒スローガンとしては
「三大差 別
」︵ 農 業 と 工 業︑ 都 市 と 農 村︑ 肉 体 労 働 と頭脳労働の格差︶の解消というのを挙 げ て︑ 実 際 の 政 策 は
「五 ・ 七 指 示
」で 行 い︑それを今度は都市に導入しようとす るわけです︒それが一九六七年一月の上 海 コ ミ ュ ー ン︵ 毛 沢 東 が 一 時 承 認 し た が︑ 二 〇 日 ほ ど で
「上 海 市 革 命 委 員 会
」に 改編︑コミューン構想を断念︶なのです ね︒上海のような巨大都市でもコミュー ンをやれ︑と指示したのです︒当時の壁
新聞の中に︑一九六〇年に毛沢東が発言 したという
「都市を大きくしたら搾取階 級ばかり出てくる︑ だんな
000ばかり出てく る
」というものがありましたね︒農民を 村だとか郷だとかいう範囲内で循環させ ておいて︑都市で必要なもの︑国に必要 なものだけは取り上げる︑農民は外へ出 てはいかんという思想が徹頭徹尾あるわ け で す︒ そ れ が
「五 ・ 七 指 示
」と い う 名 前で出てくるわけですよ︒しかし︑指示 を受け取るほうの紅衛兵なんか︑そんな 歴史的なこと全然知らないし︑ましてや 農村に住んだことのない︑ 肥たご
000を担い だこともない都市の学生たちですから︑ 頭の中だけで考えを回転させているわけ ですね︒だから︑六六年には一時期︑陝 西省だったか甘粛省だったか︑三〇万と か四〇万くらいの規模の都市で︑実際に 住民の戸籍をみな農村へ変わらせて都市 人口が一〇万になったという記事が出た ことがありました︒それが本当にできる のかどうかと疑問に思ったけれども︑し かし︑本当だったら文革では凄いことを やっていると考えましたよ︒ ところで︑文革で私が批判しなかった もう一つのことに︑反腐敗闘争がありま す︒民衆レベルにおける腐敗ですね︒そ の腐敗は︑現在のような腐敗じゃなくて 小さな特権︑ちょっとした贅沢なんです ね︒例えば︑家なんか見に行くと︑高級 幹部の場合には広い部屋の真ん中にいく つかソファがあったりするでしょう︒そ う い う こ と を 含 め て︑ 家 の 分 配 も 同 様 に︑階級によって広いとこから狭いとこ ろへと変化していく︒そうしたことに気 を配って対応せざるを得なくなったとい うのは︑根底に軍事費の問題があるから ではないでしょうか︒あれだけ急速に近 代兵器を導入してゆくと︑軍事費の問題 が大変厳しくならざるを得ない︒それを 民から取り上げるには︑それなりの対応 が 必 要 と い う こ と に な る の で は な い で しょうか︒ 加々美 一九六九年三月に中ソ国境の衝 突︵珍宝島︵ダマンスキー島︶で中ソ両 軍が武力衝突︶が起きるんですよ︒そし て九全大会︵中国共産党第九回全国代表 大会︒林彪を毛沢東の後継者に指名︶が 六九年四月に開催されます︒その直前の 六九年三月頃が︑一番深刻でした︒具体 的には︑ソ連共産党中央委員会で北京を 核 攻 撃 す る と い う 話 が 持 ち 上 が る の で す︒その時︑つまりソ連は本当に中国を 核攻撃するというような重大な決定を下 すのに︑アメリカと全く何の相談も連絡 もなしでやって大丈夫なのか︑という問 題が出てきたわけです︒ 小島 それがソ連の中に出てくるの? 加々美 ソ連の中でのことです︒実際︑ 当時のニクソン政権にソ連から打診がな されたわけです︒北京を核攻撃するけど も︑賛成してくれとまでは言わないが静 観していてほしいと︒ところが︑キッシ ン ジ ャ ー︵
Henry Alfred Kissinger, 1923‒.ニクソン政権の国家安全保障問題担当大 統領補佐官︶が一番反対したんですね︒ その結果︑反対だけれども黙認するとい う態度さえもアメリカはとらないで︑基 本的にノーという回答をしました︒その 前からも中ソ国境は軍事的に相当不安定 になっていたのですが︑最終的に核兵器 の 使 用 を 想 定 す る と こ ろ ま で い っ て し
13──「文化大革命」
に見たもの
まったのが六九年でした︒ 小島 そうそう︑それが北京で地下壕を 掘り︑ハルビンでも作りということに繋 がっていたのですね︒もう一つ繋がって いるのは︑核関係の施設を四川省や貴州 省まで持っていくことを含めた
「三線建 設
」︵国防戦略上の配慮から進められた︑ 軍 事 工 業 の 内 陸 部 移 転 ︶ で す よ︒ 穴 を 掘ってそこでやれという︒そういう指示 が 出 て く る よ ね︒ そ の 背 後 に は ソ 連 と の核戦争が予定されているわけですよ︒ 安 藤 正 士 さ ん の
『現 代 中 国 年 表
1941‒2008』︵ 岩 波 書 店︑ 二 〇 一 〇 年 ︶ を 見 て いたらちょうどその頃︑六九年の一〇月 一四日に党中央政治局の決定として︑ソ 連の軍事的襲撃に備えて北京在住の高級 幹部の緊急疎開命令が出ています︒安藤 さ ん は︑
『中 国 二 十 世 紀 通 鑑
1941‒2000』︵ 綫 装 書 局︑ 二 〇 〇 二 年 ︶ を も と に そ れ を拾っていますが︑驚きましたね︒これ は も う 日 本 の 戦 争 末 期 と 同 じ な ん で す ね︒徹頭徹尾︑ソ連怖し︑ソ連の核が怖 い︑ い か に そ れ を 防 ぐ か と い う こ と で す︒指導部の頭の中にはそうしたことが あるにはあるのですが︑紅衛兵をやって いる中学生や高校生にはそんなところま で分かりっこないでしょう︒彼らは︑煽 れば高級幹部を引っ張り出して︑吊し上 げて喜んでいるし︑裕福そうな家に入り 込んでは略奪しているのですから︒ 加々美 そちらの方が面白いに決まって ますよ︒ 小島 もし︑毛沢東たちが核戦争対策に 専念して︑政治運動をやらなければ︑ソ 連にそれほど恐怖感を感じていない中国 の人もいたわけです︒そこまで︑ソ連と の核戦争に対応する必要があるのか︑と い う よ う な︒ だ け ど 毛 沢 東 は︑ 徹 頭 徹 尾︑ソ連の核に一番の恐怖を感じていた と 思 い ま す よ︒ そ れ が
「五 ・ 七 指 示
」だ とか
「三線建設
」だとか︑そういう実際 の生活や政治運動として現れていくわけ ですよ︒ですから︑中国がソ連とどのく らい対立して︑どのぐらい経済が困窮し ていたのかということが分からないと実 際のところは見えてこないのではないで しょうか︒紅衛兵運動だって︑当初は反 対 派 を 失 脚 さ せ る た め に や っ た わ け で しょう︒そのうちに混乱してしまって︑ 次第に滅茶苦茶になるけれど︒中共中央 の中の反対派連中の偉い人たちを落とす ために︑毛沢東がやったのですよ︒その ス ロ ー ガ ン と し て
「五 ・ 七 指 示
」だ と か
「三 大 差 別 の 撤 廃
」だ と か︑ 耳 障 り の よ い言葉を作ったわけですね︒それを︑文 革当時︑日本にいる人たちはそうしたこ とを
「都市の だんな
000は少なくなっていっ た
」などと書いたのです︒私もそれに近 いことは書きましたよ︑
『世界
』︵一九七 四年一一月号︶に
「都市化なき社会主義 は可能か
」などとね︒クエスチョンマー クがつけられるのは︑疑問があるからそ う や っ た の だ が︑ こ れ は 凄 い こ と だ と 思ったよね︑あの当時は︒
「
林彪事件
」と
「対ソ恐怖
」加々美 そういう
「三線建設
」などを進 める時に︑林彪の軍事掌握は毛沢東・周 恩来にとっても不可欠だったんですよ︒ だから九全大会で林彪を副主席において
しまうわけですよね︒文革が始まって以 来︑
「五 ・ 七 指 示
」も 含 め て 軍 事 と い う ものが生産を支えるし︑国力の衰退を防 ぐ要だというふうに毛沢東は思わざるを 得なかった︒それが特に顕著に出たのが 六九年の九全大会で︑やり過ぎてしまっ たのです︒林彪を党副主席にすると党規 約 に 書 き 込 む と い う ほ ど に︒ そ う な る と︑どうやって眼の前のソ連による核攻 撃の危機を防ぐかという問題で︑林彪を 情報戦の中に組み入れることを毛沢東は やめるのです︒つまり︑米中接近の最高 機密ですね︒そうした米中接近という最 高の国家機密を︑軍のトップである林彪 には知らせなかった︒ 小島 それは加々美さんの推測ですか︒ それとも︑あの当時に関する暴露文献か 何かに出てくる話ですか︒ 加々美 実際︑反ソ・反米︑反ソ修・反 米帝という︑アメリカ帝国主義とソ連修 正主義という二大敵を抱えることによっ て︑中国にとって軍事力は本当に不可欠 なものになっていくと林彪が信じていた という文献上の証拠はいくらでもありま す︒しかしその背後で︑米中接近を林彪 が本当に知らなかったということは︑実 は私の推測です︒周恩来が米中接近に関 して内々に毛沢東と話し合った︑という 記録はあります︒しかし︑それは内々の 会議で毛沢東と話し合ったわけで︑そこ に林彪は一切加わっていません︒そこか ら︑それを傍証として林彪は米中接近を 知 ら な か っ た︑ と 判 断 で き る わ け で す ね︒それは一九七〇年の国慶節の時に︑ 毛沢東が明言するのです︒だから︑それ 以前の六九年四月から七〇年秋まで︑林 彪はそれを知らなかった︒あるいは︑七 〇年の夏ぐらいには薄々気付いていたか もしれない︒だけど︑七〇年の秋に入る までは︑林彪は確信犯ではなかったので す︒そこで七〇年八月に廬山で中央委員 会総会︵九期二中全会︶が開かれた時︑ 陳伯達︵一九〇四
−一九八九︑毛沢東の
政治秘書︒
『中国四大家族
』長江出版社︑ 一 九 四 七 年︑ 人 民 出 版 社︑ 一 九 五 五 年︒
『人民公敵介石
』華東新華書店︑ 一九四八 年︑ 人 民 出 版 社︑ 一 九 五 二 年 ︶ が 国 家 主 席 復 活 と 毛 沢 東
「天 才 論
」︵ 毛 沢 東 を 数 百年︑数千年に一人の天才とする極端な 個人崇拝論︶をぶち上げ︑林彪がこれを 全面的にバックアップしました︒その結 果︑陳伯達を除いた文革小組と軍とが正 面衝突することになりますが︑この時に 毛沢東は文革小組の側に付いたんです︒ 江青︑康生︑姚文元︑張春橋のグループ ですね︒こうして林彪と毛沢東は敵対関 係にあることがはっきりしたのです︒つ ま り︑ 毛 沢 東 が︑ 中 央 委 員 会 総 会 の 席 上︑
「天 才 論
」を 明 確 に 否 定 し た わ け で す︒従って︑林彪はこれ以降︑毛沢東と 自分とは︑死ぬか生きるかの敵対関係に 陥ってしまったということに気付いたの です︒七〇年暮れにはもう完璧に分かっ てきたんですね︒実際に七二年二月︑ニ クソンが来るわけですよ︒ニクソン訪中 については︑七〇年の秋になるころには キッシンジャーが言い出していました︒ それが表面化する七〇年の国慶節には︑ 毛 沢 東 は エ ド ガ ー・ ス ノ ー︵
Edgar Snow, 1905‒1972︶ を 天 安 門 の 壇 上 に 上 げました︒それは︑毛沢東が対米接近を 表明するということです︒その後に行わ
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に見たもの
れた国慶節の宴会に︑スノー夫妻を招い て歓迎するわけですね︒その席上︑毛沢 東ははっきりとキッシンジャーの訪中の 問題が︑現在重要な課題になっている︑ と明言したのです︒ニクソンを北京に呼 んでもいいし︑来たければいつでも大歓 迎する︑ということをスノーを前に語っ てしまうのです︒ 小島 毛沢東が明言したというわけです か︒ 加々美 ニクソンが︑北京に来たければ 私はそれを大歓迎する︑ということを宴 会の席ではっきり言ったのですよ︒ 小島 だから︑誰にそれを伝えたわけで すか︒ 加々美 スノーに対してです︒林彪に対 しても︑ 間接的に伝えたということです︒ 小島 要するに︑毛沢東がソ連の恐怖を とことんまで感じていたのだということ は︑極めて重要ではないのかということ ですね︒その恐怖から脱却するための︑ 政治権力内部での争いが出てくるわけで すね︒そうしていいのかどうか︑けしか らんという人もいるだろうし︒文革期の 一連の政策をこのように見ていくと︑そ の根は毛沢東の中にあった︑ものすごく 強 い 対 ソ 恐 怖 心 に あ っ た の だ と 思 い ま す︒だから︑文革を考える場合に対ソ恐 怖の側面がまずある︒もう一つは︑対ソ 恐怖によって党中央政治局の中が︑政治 力学的にどのような権力構造になってい たのか︒それからもう一つは︑やはり紅 衛兵ですね︒紅衛兵あるいはそれにまつ わるもう少し下のレベルの騒動ですね︒ そういうふうに区分けして考えないと︑ なかなか整理できないのではないかとい うな感じがするのです︒ただ︑繰り返し 言えることは︑毛沢東がもの凄く強い対 ソ恐怖心を抱いていたのではないかとい うことです︒ 加 々 美 そ う で す ね︒ 一 九 六 九 年 の 三 月︑四月の国境紛争時には︑別にCIA を通さなくても︑ソ連が中国に核攻撃を 加えるのではないかという情報は結局︑ 中国に伝わっていくんですよ︒ 小島 核攻撃するらしい︑という可能性 について︒ 加 々 美 そ れ は 大 統 領 補 佐 官︵
Chief of Staff︶ の ハ ル デ マ ン︵
Harry Robbins Haldeman, 1926‒1993︶ の 回 想 録 の 中 で 出 て く る 話 で す︵
H. R. Haldeman,The End of Power, W. H. Allen & Co. Ltd.,1978︶︒ ハ ル デ マ ン は 一 九 七 三 年 に ウォーターゲート事件で大統領主席補佐 官を辞めます︒回想録は日本語に翻訳さ れていませんけど︒その中にあることな のですが︑毛沢東がわずか一年で態度を ひるがえすということは︑最高指導者と しては大変大きな矛盾ですよね︒いずれ にしても︑その結果七〇年の国慶節の時 に は 毛 沢 東 は ニ ク ソ ン を 招 待 す る と ス ノーのいる宴会の席で語ってしまう︒そ の時には︑キッシンジャーは周恩来に対 してすでに北京訪問の打診をしていまし た︒ですから︑ニクソン訪中受け入れと いう決定を下すには︑まず対米接近とい う事実を公にしなければなりません︒そ れを秘密のままにしておいて反米という ことだけを言い続けていれば︑ニクソン 歓迎などは難しいですよね︒毛沢東が国 慶節を機会として米中接近を公にしてし まった瞬間から︑林彪と毛沢東の絶対的
対決が始まるわけです︒ 小島 それは七〇年ですね︒ 加々美 そうです︒一九七〇年八月の盧 山での党中央委員会総会︑九期二中全会 が始まりますね︒もちろん林彪は薄々は 米中接近を感じていたと思いますが︑今 まで不倶戴天の敵としてきたアメリカ帝 国主義と仲良くしてもよいと毛沢東があ からさまに言ったということは︑軍事戦 略を立てる側にいる林彪にとっては決定 的なことですよ︒前年の六九年四月に九 全大会で林彪が党副主席になった時は︑ アメリカ帝国主義とソ連修正主義の両者 をともに敵として戦うのだから︑中国は 軍事を重視しなければいけない︑だから 林彪を副主席に抜擢するという路線が提 起されたわけですから︒ 小島 しかし︑毛沢東にとってはそれは 矛 盾 で は な い で す よ︒ 毛 沢 東 と い う 人 は︑現実の状況から考えてこういうふう な 方 針 に 変 え た ほ う が い い の で は な い か︑ そ う い う こ と を 平 気 で や れ る の で す︒別の言い方をすれば︑権力を全面的 に握っているからできたんだろうとは思 います︒普通だったら︑そんなことを少 しでも発言すれば︑同じくらいの権力の 人が数人いる中だったら潰されてしまう だけでしょう︒しかし︑毛沢東とか周恩 来は︑そういうことができる人なのです ね︒それは︑彼らにとっては矛盾ではな いのですから︒毛沢東はそういうことを
『矛 盾 論
』の 中 に 書 い て い ま す よ︒ 主 要 矛盾は何か︑ということです︒主要矛盾 はソ連との対決だ︑ソ連からいつ核爆弾 が飛んでくるか分からない︑これが最大 矛盾なのですね︒そうなると︑他のこと はそれに従属するもので︑毛沢東にとっ てはそれ以外は︑矛盾でも何でもないん だな︒ 加々美 毛沢東はそう考えたかもしれな い︒しかし林彪は違っていたのです︒確 かにそのころの中国は現在の北朝鮮と似 ていて︑軍事の近代化は毛沢東あるいは 周 恩 来 に と っ て も 最 優 先 だ っ た ん で す ね︒ 五 八︑ 九 年 頃 に︑ 中 ソ 対 立 の 種 が ま かれますよね︒その頃から自主自力で核 武装をやる︒ソ連の核技術者に依存しな いで︑事実核技術者は全部帰国してしま うわけですから︑自力で核武装を実現す るという道を敷いて︑そして︑六四年の 核実験の成功にいたります︒しかし︑毛 沢東の中国が核武装という軍事近代化を 実現したことが︑ベトナム戦争の引き金 になったのです︒ 小島 ベトナム戦争とは︑どことどこと の戦争ですか︒ 加々美 簡単に言えば︑ソ連がベトナム への援助︑実際上は介入の度を深めてい きます︒それに対して︑アメリカのジョ ンソン政権が︑それを放置できないとい うことになっていきます︒とりわけ中国 が核実験に成功した段階で︑東南アジア のベトナムを起点として︑赤化の波及と いうドミノ理論が他の地域にも及ぶとい う危惧を持つようになり︑結局本格的な 介入にいたったのです︒ 小島 アメリカの介入ですね︒ 加々美 アメリカの介入が始まるわけで す︒そのため︑ソ連修正主義とアメリカ 帝国主義の双方ともを敵に回す︑六五年 以降︑中国にとってそれが不可避なテー マになっていきます︒それが核戦争の危
17──「文化大革命」
に見たもの
機 と い う と こ ろ ま で︑ 六 九 年 の 春 に 高 まってしまいました︒そうなった時に︑ 毛沢東と周恩来は米ソ両方の敵を腹背に 抱えるというのではなく︑アメリカとは 和解するという路線を選択していったの です︒ 小島 要するに︑一九六〇年代の世界に 対して︑毛沢東ないしは中共首脳部が重 要な問題として描いている中で最も重要 とされたのは対ソ問題︑ソ連との関係を どうするかということではなかったので しょうか︒ 加々美 もちろんそうです︒ 小島 ベトナムへの中国の援助というの は︑そういう大きな枠の中での援助です ね︒アメリカだってそれなりに︑U
2型 偵察機を飛ばしたり色々しているのです から︒けれども基本的には毛沢東の言葉 で言うと主要矛盾です︒その主要矛盾の 側面というものがソ連の問題ですよ︒そ れと文化大革命運動とがどう関連してい たのかは︑私にはよく分かりません︒中 共中央の高級幹部の間の政治的な権力闘 争と︑紅衛兵の活動とは区別して整理し ないとだめでしょう︒紅衛兵の問題はよ く分かりませんが︑ともあれ︑そうした 一番困難な時にいつも毛沢東が立ち戻る の が︑ ま さ に こ れ で す︒
「三 大 差 別 の 解 消
」だとかのスローガンで︑民を引き付 け て や っ て き た わ け で す ね︒ あ の 当 時 は︑農業と工業︑都市と農村︑肉体労働 と精神労働の格差を解消するすばらしい 運動だ︑などと持ち上げて書いていた人 がいましたよ︑いま︑名前は出しません が︒私はそんなことまで書けなかった︒ そ れ は︑
「三 大 差 別 の 解 消
」な ど は︑ 毛 沢東が民を引っ張っていくために掲げた ス ロ ー ガ ン で あ っ て︑ お よ そ 実 態 と は 違っているからです︒いつもそういう形 で毛沢東の政治は動いていたのではない か︑と思いますね︒
「
腐敗は潤滑油
」加々美 いまの時点で︑文革を問題にす る意味を考えなければならないと思いま す︒そうなると︑やはり一番大きい問題 は二一世紀の現代と文革の時代との大き な違い︑時代のギャップというものが介 在していることだと言えます︒小島さん があげられた
「三大差別
」でも︑一九六 四年時点の
「三大差別
」と現在の農業と 工業︑都市と農村︑肉体労働と精神労働 の格差を比較してみれば︑最後の肉体労 働と精神労働の格差はさておいても︑前 の二つを見ても︑当時よりも現在のほう がはるかに深刻ですね︒場合によっては 何十倍という大きさに格差は広がってい る︒ 六 二 年 一 月︑
「七 千 人 大 会
」と 呼 ば れる中共中央拡大工作会議が北京で開か れました︒劉少奇と鄧小平が︑事実上主 導権を握って開催した大会です︒これ以 来︑
「調 整 政 策
」︵
「大 躍 進
」の 破 綻 を 背 景に︑集団化の緩和など︑一定の自由化 がはかられた︶が本格化しますが︑毛沢 東 の 目 か ら 見 れ ば︑
「調 整 政 策
」と い う のはここでいう
「三大差別
」をより大き く広げてしまうものであり︑そしてその 格差の拡大の中から実権派
「走資本主義 的当権派
」が現れるのだ︑と言い始めて いきます︒つまり格差が拡大していけば
実権派が現れて権力を握るようになって いくという︑荒唐無稽と思われた毛沢東 の予言じみた批判が︑いまの段階では現 実となっているのではないでしょうか︒ 特に
「改革開放
」政策は農村の改革から 始まって一九八四年には都市改革に移っ ていきましたが︑いずれにしても︑それ 以来︑八〇年代後半からは格差拡大が文 字通り現実の問題になっていきます︒と りわけ︑一定の年齢以上の世代の中国人 には︑毛沢東の予言が当たったという思 いが潜在的にあると思います︒ 小島 思いがあるというのですか︒ 加々美 中国には︑まだ極左派というの があります︒ 小島 いまでもあるのですか︒ 加 々 美 実 際 に 自 分 た ち を 極 左 派 だ と は っ き り と 意 識 し て る の は 少 数 派 で す が︑ 一 応 は 名 の つ い た 極 左 派 が あ り ま す︒私にメールを送ってくるんですよ︒ 小島 中国から? 加々美 そういうグループは︑早くから 毛沢東の文化大革命の再来はあり得る︑ と言っていました︒ 小島 現在でも言ってるわけですか︒夢 のような話ですね︒ 加々美 決して多くはなく少数ですけれ ど︑極左派は実際に存在します︒ただ︑ 習近平が現れた時から︑そういう人たち はあまり強く体制批判をすることはしな くなっています︒大変な集権化が始まっ て︑個人独裁の方向に習近平がいきます よ ね︒ そ し て 王 岐 山 の 下 で 腐 敗 除 去 に 突っ走るというように︑その路線は見か けは文革と似てますよね︒ 小島 いや︑違いますよ︒ 加々美 一番決定的に違うのは︑社会の 基礎から始められたものではないという ことです︒ 小島 要するに︑腐敗っていうのはいつ の時代でもどういう状況でも必ず発生す るのです︒それを民衆運動で潰そうとし たのが︑毛沢東︒ 加々美 そうなんです︒だからああなっ てしまったのです︒ 小島 民衆運動だね︒特に文革の初期は そ の こ と が 非 常 に 濃 厚 に あ っ た で し ょ う︒ところが︑習近平の場合は権力闘争 との関わりで︑相手を上からつかまえよ うというやりかたでしょう︒ですから︑ 民衆運動は関係ありません︒それ以外の やり方で腐敗を減少させていくことがで きるのかというと︑中国社会にはありえ ないのではありませんか︒毛沢東的なや り方はあるにしても︑いまでは誰が上に なったとしてもできません︒お前は公金 を懐に入れているではないかと民衆に呼 びかけて批判させたところで︑社会がつ いていきません︒そうすると結局︑上か ら や ら ざ る を 得 な い︒ 地 方 幹 部 に 対 し て︑ ず い ぶ ん 取 り 締 ま っ た と 思 い ま す よ︒この五年間に五三万人処分したとか 言っていますから︒しかしながら︑そこ までやったとしても︑中国社会はそれで 腐敗がなくなるというようなものではあ りません︒腐敗が構造的になっているの です︒
『財経
』︵北京財経雑誌社︶という雑 誌があります︒これはなかなか面白い雑 誌 で︑ 腐 敗 摘 発 の 特 集 を 時 々 掲 載 し ま す︒驚いたのが甘粛省あたりの県の党書 記が捕まった時には︑誰からいくらくら
19──「文化大革命」
に見たもの
い賄賂が贈られていたのか︑ざっと三〜 四頁にわたって書いてある︒同じ部署と いっても︑当然上下関係がありますね︒ ちょっと何かあると︑みな賄賂を持って いくのですが︑立場によっていくらいく らと︑例えば千元とか五百元とかのよう に相場ができている︒まさに︑腐敗が構 造化しているわけです︒本当に驚きまし たね︒底辺の幹部というのは︑そうなっ ているのだろうと思いますよ︒
そんなのがいくらでも︑あちこちにあ る︒それを中学生や高校生くらいの若者 に 批 判 さ せ た と こ ろ で︑ あ あ そ う で す か︑というだけの話にしかなりません︒ それに代替する腐敗の撲滅︑あるいは減 少させていく方法があるかというと︑そ れ が な い︒ 結 局︑ 習 近 平 が や っ た よ う に︑ 上 か ら 摘 発 し て い く し か あ り ま せ ん︒腐敗というのは︑中国の権力機構の 中の潤滑油ですね︒潤滑油をなくしては いけません︒潤滑油と見れば立派なもの ではありませんか︒それがないと︑社会 が動かないような状況になっているので すから︒日本のように官僚を含めてです が︑清廉潔白なものは中国にはありませ ん︒日本でしたら︑例えば数人でコンパ をやっても︑幹事が会費を集めて︑一人 あ た り い く ら か か っ た か︑ ど の く ら い 余ったかと計算して︑それをコピーして 渡しますよね︒それが当たり前になって います︒大東文化大学にいた大野盛雄先 生︵一九二五
−︑人文地理学者︑東京大
学東洋文化研究所名誉教授︑元大東文化 大学教授︶がおっしゃるには︑日本は不 思議な国だね︑幹事はそれだけ労働して るんだから二割くらいピンハネしても当 た り 前 な の に︑ そ れ が で き な い ん だ︑ と︒倫理がきつすぎる日本の清潔さは︑ 権力機構にある人を含めて︑世界的には ちょっと特別な存在ですね︒中国の場合 は︑もう少しどころか︑ほんとうにひど い︒歴史的にも汚職について書いた本が いくらでもあります︒名前を挙げきれな いくらいです︒それが中国の
「新常態
」︵ 二 〇 一 四 年 五 月︑ 習 近 平 が 河 南 視 察 時 に発言︑高度経済成長から
「安定成長
」路線への転換と見る向きもある︶か何か 知らんけど︑
「常態
」︑正常な状態なので す︒それを今から改めるなど︑そんなこ とできません︒政治運動でやるといって も︑そんなのできやしません︒ 加々美 劉賓雁︵一九二五
−二〇〇五︒
一九八九年
「六四
」でアメリカに亡命︶ の
『人妖之間
』︵
『人民文学
』一九七九年 第 九 期 ︶︒ 小 島 さ ん が あ げ た よ う な
「人 と妖怪の間
」に出てくる︑そういう人間 が︑自分がいる職場で汚職をやっている のを実際に目にした劉賓雁が︑それを題 材にして書いた小説ですね︒それが大評 判になりました︒ 小島 あの社会からは腐敗をなくせない し︑なくしたらかえって駄目ですよ︒腐 敗 と い う の は 潤 滑 油 な の で す︒ そ れ を ピューリタン的に︑あまりにもきれいな こと言ったって長持ちしません︒そんな ことは︑せいぜいやっても一年︒毛沢東 がいたからこそ︑あの一時期︑文革の初 期にできただけの話にすぎません︒あの 社会では︑誰であっても︑叩けばほこり がいくらでも出てきます︒ですから︑腐 敗が社会あるいは政治上の潤滑油として 機能していればいいのですが︑しばしば
そ こ が 落 と し 穴 に な る こ と が あ り ま す ね︒そうした落とし穴が発生するかどう かということを︑中国政治を研究してい る加々美さんに聞きたいのですが︒どの 程度腐敗したならば︑権力は崩壊するの か︑ということです︒
どのくらい腐敗すると
政権は崩壊するか
加々美 その判断は難しいですね︒最も 決定的だと思われるのは︑中共中央紀律 検査委員会というのが実質的には法治機 関ではないことです︒監察と検察︑裁判 所︑ 弁 護 士 な ど と い う 法 的 枠 組 み に は 入っていません︒つまり︑中央紀律検査 委 員 会 は そ れ ら か ら 完 全 に 独 立 し て い て︑情報公開を行う必要がほとんどあり ません︒それなのに逮捕権も身柄拘束権 も持っています︒それは中国共産党中央 の直属機関であって︑しかも法の枠から 外れているわけですね︒いわば超法規的 党内機関ですが︑同じ超法規的機関に党 建設工作指導小組というのがあります︒ 習近平は二〇一二年党の第一八次全国大 会直後の晩秋︑その指導小組組長に︑中 共中央政治局常務委員会の委員だった劉 雲山を責任者として任命し︑党内整風運 動を始めました︒劉雲山は一〇〇万人ぐ らいは摘発するし︑五万人ぐらいは党籍 剥奪のうえ粛清すると豪語しました︒し かし︑一年を経て実際は全くその数字に 達しなかった︒ 小島 そういっても︑二〇一七年の一〇 月に開かれた中共第一九回全国代表大会 では一五三万人といっています︒一〇〇 万人どころではありませんよ︒ 加々美 党内整風とは別に︑党内反腐敗 運動があるのです︒中央紀律検査委員会 とはその反腐敗の指導機関です︒この二 つは党再建運動の車の両輪だったわけで す︒二〇一二年秋に︑習近平はその中央 紀律検査委員会の責任者を賀国強から王 岐山に代えたのです︒王岐山に交代して から摘発がかなり順調に進みました︒一 方︑劉雲山は依然党内整風がなかなか進 まず︑二〇一三年の全人代を経て︑夏前 には批判が集中しました︒劉雲山自身が 汚職に影響されていたからだという議論 がありました︒党内権力闘争という側面 もあったかも知れません︒しかし︑劉雲 山は︑結局第一九次党全国大会まで実際 はまだ摘発を受けていません︒反面︑王 岐山は︑そこまで徹底してやったという ことです︒一九全大会では︑もともと七 〇歳停年という年齢の問題がありました が︑その年齢の制限枠を破って王岐山は 特 別 に 中 央 政 治 局 常 務 委 員︑ つ ま り
「ト ッ プ・ セ ブ ン
」と い わ れ る 枠 組 み の 中に残るだろうと︑前々からずっと言わ れていました︒それは︑汚職摘発の問題 で功績があるからというのです︒ところ が︑最終的には王岐山はその席から外れ ました︒ 小島 そういう細かい話を詳しく説明し てくれたことは︑ありがたい︒しかし︑ それはともかく︑中国の社会全体が︑共 産 党 支 配 の 社 会 が 腐 敗 で 崩 れ る か ど う か︑ということに話を戻しましょう︒そ うした時に延安時代の話はもちろん︑文 革初期では汚職よりも贅沢でさえけしか らん︑と摘発しましたね︒しかし︑それ
21──「文化大革命」
に見たもの
もうまくいきませんでした︒摘発をやる 方同士が対立してしまったのですから︒ 今度︑習近平になって
「トラもハエも叩 く
」といって腐敗を摘発し始めたわけで す︒
「ト ラ も ハ エ も
」と い っ て 摘 発 し て︑本当に中国共産党の権力機構という の は 汚 職 を 絶 滅 さ せ る だ け で は い け な い︒とはいっても︑そうした腐敗撲滅の 動きが社会の骨組を崩すような程度にま でいかないで収まるかどうか︑が問題で はないでしょうか︒
要するに︑一つの社会が腐敗していっ た場合︑それはどこまでいくのか︒文革 の 初 期 の 少 年 た ち が 立 ち 上 が っ た 時 に は︑とにかく︑何といっても清潔なもの が あ り ま し た よ︒ エ ド ガ ー・ ス ノ ー が
『中 国 の 赤 い 星
』の 中 で 描 い て い た の と 同じような清潔さが︒一九二八年に改編 された頃の紅軍が掲げていた
「三大規律 八項注意
」のような潔癖な倫理観もあっ たのです︒ ところが︑ 現在ともなると
「三 大規律八項注意
」などというのは︑全く 皆無︑もう影も形もなくなってしまいま した︒例えば︑習近平の義兄︑つまり妻 彭麗媛の兄の名が︑国際的租税回避行為 を暴露した
「パナマ文書
」に出てきます︒
また︑最近の中国の金持ちの海外投資 などを見ていると︑これもすさまじい︑ 桁外れのものですよ︒アメリカやオース トラリアに留学させるのに︑まず高級マ ンションを買って︑それから留学させて います︒これは財産分散と︑海外を利用 した財産の維持ですよ︒そんな者が︑数 限りなくいるのです︒オーストラリアの ようなところでは︑不動産価格が︑中国 の富裕層が投資するたびにグンと上がっ ています︒これはカナダやアメリカでも 同じです︒日本には︑まだあまり入って い ま せ ん ね︒ 北 海 道 な ど で 若 干 の 所 で は︑二束三文になった山を買っています が︒オーストラリアやカナダでは︑中国 の金持ちはそういう行動をとっています ね︒これは︑やはり合法的であろうと思 います︒しかし︑そうした行為が共産党 の体制︑官僚主義というものをつき崩す だけの要素となり得るのか︑ということ が知りたいのです︒その眼で見て︑文革 初 期 の 少 年 た ち の 清 き 心 が︑ い ま 現 在 いったいどうなっているのか︑というこ とを知りたいですね︒ もう一つ︑先ほど申したけれども︑大 都市というところには︑いわば大都市病 が出てくるものです︒この数年間︑中国 の住宅問題ばかり扱っているのですが︑ 住 宅 問 題 で は 腐 敗 が 限 り な く 出 て き ま す︒本当に︑凄いものです︒当然︑政府 も腐敗を押さえようとします︒例えば︑ 偽装離婚による不動産購入は︑深圳を皮 切りに五年前から始まったのですが︑今 で は 二 〇 い く つ の 都 市 で 出 て き て い ま す︒これは富裕層の
「上に政策あれば︑ 下に対策あり
」なのです︒不動産は一人 で複数購入してはいけないと政府が指示 を出すと︑偽装離婚して住宅を買ってい るのです︒そして︑それに対して国有銀 行までが︑平気で資金を貸しているのが 現実です︒ 中国は︑こうした状況でそれなりに上 手くいく社会なのではありませんか︒汚 職があったり︑不正が存在していて︑そ れがないと動かない社会なのです︒です から︑腐敗は潤滑油ということになりま
すね︒文革などの理想を真に受けたやつ が 悪 い ん で す よ︒ 例 え ば︑ 先 に あ げ た
「三 大 差 別
」で す︒ こ れ に つ い て︑ 一 生 懸命に論文を書いた人も日本にたくさん いました︒私も︑いくつも文革時代に論 文を書きましたが︑
「工農差別
」︵農業と 工 業 の 格 差 ︶︑
「城 郷 差 別
」︵ 都 市 と 農 村 の格差︶とか肉体労働と頭脳労働との格 差の解消に向かうための大運動って︑そ んなバカなことは書きませんでした︒こ れはスローガンとして掲げているだけな のです︒スローガンというのは︑どこの 政治運動だって実現されたためしがあり ません︒どこかにありますか︒フランス 革命の時のスローガンだって︑そんなも の実現されてなんかいませんよ︒ 加々美 行き過ぎると︑反動が起きるか らね︒ 小島 私はもうお墓が近いから︑あまり 真面目に考える気になれません︒腐敗や ら汚職に対する怒り︑ということはある で し ょ う ね ︒だ け ど ︑そ れ は 一 度 か 二 度 あ るとか︑一人か二人ではそう思うかもし れませんが︑千人とか一万人で不満を爆 発させるような問題ではありませんね︒ 加々美 僕らが中国人で︑もし中国国内 に住んでいたら
「怒髪天をつく
」くらい に感じるはずなのですが︑どうですか︒
民は︑しぶとく生きる
小島 あなたは文学者だからなあ︒私は そ う で は あ り ま せ ん か ら ね︒ さ き ほ ど 加々美さんが話されたことですが︑二一 世紀の今は︑一九六〇年代の農村と都市 の格差から比べたら︑何十倍︑何百倍も 広がっています︒でも︑それでもいいの ではありませんか︒飢え死にしているわ けでなし︑世の中で結構もがきながらも 子どもたちを学校へ入れてますよ︒それ の何が悪いというのですか︒腐敗があっ てもいいでしょう︒それだけの教育を受 け さ せ る 余 裕 が あ れ ば︑ 子 ど も た ち は しっかりするものです︒百人か千人のう ちに一人くらいは︑立派なのが出てきま すよ︒それでいいのではありませんか︒
昨 晩︵ 一 〇 月 二 六 日 ︶︑ B S
8チ ャ ン ネルに東大の阿古智子さんが出ていて︑ 加々美さんがさきほど言ったようなこと を 話 し て い ま し た︒ 二 〇 年 前 に 比 べ た ら︑大変なものだ︒農村と都市とを区分 けしたら格差が拡大しているし︑同じ都 市の中でも同じようになっている︒この 格差問題をどうするかが︑一九全大会で 問題になっていた︑と︒ヒマ人だな︑と 思いましたよ︒たくましく生きているの ですよ︑中国の民は︒そんなやわなもの ではありません︒結構生きることができ ます︒ 心配する必要は︑ 全然ありません︒ 加々美 僕の生活水準は中国の最低水準 と比べて何十分の一ぐらいかの大変さは あると思うんですけど︒社会医療や社会 保障から考えたら︑日本全体は別として 私自身の生活には︑特別不満はありませ ん︒ 小島 それは不満などないでしょう︒慢 性腎臓炎の人の人工透析には年間五百万 円 ぐ ら い 国 が 負 担 し て い ま す か ら︒ 実 際︑みな何かしら抱えてるわけですから ね︒ い い 社 会 で は あ り ま せ ん か︑ 日 本 は︒こんないい社会︑そうはありません
23──「文化大革命」
に見たもの
よ︒ 加々美 そんな大金︑自分で払わなけれ ばいけないとなったら︑多分︑今頃はお 金がとっくに底をついて生きていけない かもしれませんね︒ 小島 一年も持つはずがありませんよ︒ それがやれるのですから︑日本の社会は 立派ではありませんか︒いっぽう︑中国 は子どもを盗んで歩く社会ですからね︒ 一人っ子政策で子どもがいないから︑自 分の家の後継ぎというのか︑自分の老後 を見てくれる人がいないから︑他人の子 どもを盗むのです︒二歳︑三歳の子ども を︒それが大問題になっています︒盗ま れたほうだって︑たまりません︒涙流す だけではすみませんよ︒それでも︑あの 社会の連中はたくましいですよ︒あれこ れ 心 配 す る 必 要 な ん か あ り ま せ ん︒
「三 大差別
」の解消とか何とかっていって︑ これが実現できなかったから毛沢東は失 敗した︑などと言う必要はありません︒ そういうスローガンも必要だったのです よ︑ 民 を 引 き つ け る た め に は ね︒ し か も︑一時期はこれで成功しています︒で す か ら︑ そ れ で い い ん じ ゃ あ り ま せ ん か︒半年後に駄目になったっていいじゃ ありませんか︒そう思って研究していた ら楽になりますよ︒ 加々美さん︑もう一冊ぐらい本書けま すよ︒あまり真面目になったら駄目なん です︒ 加々美 実権派という言い方︑毛沢東が 一九六五年一月にいわゆる
「二十三条
」で作り出した言葉ですが︑今ごろ実権派 という言葉を使う人は︑中国にも日本に もいませんね︒その意味で文革は終わっ たのです︒今の中国で︑ブルジョワとプ ロレタリアの格差は︑本当は相当に大き いと思います︒日本でも︑財を成した人 と中ぐらいの給料がもらえて何とか生き ていけて︑老後をまかなえる人︑さらに 下の人もいます︒それに比べた場合︑中 国のほうが相当の格差があります︒日本 でも相当の格差ですが︑中国の最下層と トップの差は︑さらに大きいですね︒ 小島 中国の最下層の人は︑意外とニコ ニコしてるのではありませんか︒食べて いけますからね︒たくましいですよ︑あ そこの民族は︒要するに︑社会にはこう した格差があるわけです︒昔もあったし 今もある︒これを平準化するということ は︑できません︒ただ︑理想として人類 が到達したのは機会の均等だけです︒機 会の均等をどうやって実現するかが問題 なのです︒機会の均等があるにもかかわ らず︑そこへ入れなかったなら︑それは 実力の問題でしょう︑努力不足だと言え ばいいのです︒ところが︑中国では︑社 会的にそうした機会の均等がまだありま せん︒そういう問題について︑例えば文 革期にどう取り扱われてきたのか︑偉い 人たちを吊し上げて文革の中で動き回っ た連中に︑はたして機会均等というよう な発想があったのかどうか︒そういう視 点が︑文革が現在から見てどういう意味 を持つのか考える際に︑必要になるので はありませんか︒ 加々美 一九六六年秋から六七年春まで 紅 衛 兵 の
「大 串 連
」︵ 全 国 的 経 験 交 流 ︶ というのから始まって︑その流れの上に 上山下郷運動が重なります︒その時の人 間の社会移動率というのは︑大変高いも
のでした︒特に僻地の農山村の人民公社 に下放された紅衛兵は︑一九七〇年代初 期︑ 特 に 一 九 七 一︑ 二 年 頃 に は 農 村 の 暮 らしに耐え切れなくて都市へ舞い戻って しまいました︒ 小島 いや︑耐え切れなかったのではな く て︑ 大 学 が 再 開 さ れ よ う と し た か ら 争って戻ってきたのです︒あの時︑一六 〇〇万人とも言われますが︑私の推計で は一七〇〇万人の紅衛兵が
「下放
」され ました︒どうして
「下放
」されたのかと いえば︑それは先ほど言った食糧問題で す︒ 都 市 に 配 給 す る 食 糧 が な い か ら で す︒一人でも都市の人口を減らさなけれ ばならなかったのです︒そのためには︑ どういう人を都市から追い払えばよいか ということになりますが︑四〇歳︑五〇 歳の人を追い出すわけにはいきません︒ それで︑都市の進んだ文化を農村に持っ ていけ︑と紅衛兵たちを そそのかした
000000わ けです︒文革期に延安に行った時︑現地 の人が
「明日は下放青年に会います
」と 言うのです︒すると︑三人来ましたよ︒ みな︑北京から来た人たちでした︒彼ら に︑ 辛 く は な か っ た か︑ 憎 ら し く は な か っ た か︑ と た ず ね た ら︑
「い や︑ そ ん なことはありません
」と︑大体そう返事 する︒自分だったら絶対に文句を言った な︑と思いましたね︒都市では配給米が なかったのですが︑政府が半年間だけ生 活費を出してくれるのです︒その後は︑ 農村に行って食えということでした︒つ まりは農村の口糧︑農民の食糧︑他人の 食い扶持をついばめ︑というわけです︒ そんなこと︑うまくいくはずがありませ ん︒こんなことをやるのは無理ですよ︒ 本音は食糧を都市で確保できないから︑ みな農村に行け︑なのです︒そこを︑都 市 の 進 ん だ 文 化 を 遅 れ た 農 村 に 持 っ て い っ て 普 及 せ よ︑ な ど と 何 回 も ホ ー ム ルームでやられてみなさい︒中学生だっ たら︑みなコロコロ行きますよ︒ 延安の三人に訊きましたよ︑農村の仕 事はきつかったかって︒そうしたら︑向 こうはやはり模範解答が用意されている ん で す よ ね︒
「雨 が こ う 降 っ て き た 時 に は︑むしろの上でこう干して︑そうした ら農民たちは穀物を先にして︑自分たち は濡れてもかまわない︑私たちはそれを 学習しました
」とか︑いいことを言うわ けです︒こう言わなくてはいけないとい う答を用意しているに違いありません︒ だけど︑実態は仮病を装って一人︑二人 と︑ 知 ら な い う ち に 逃 げ て 来 き た の で す︒わずか一年半で全員が帰って来てし まったというわけです︒ だから︑毛さんのやろうとしたことは 無理なんです︑無理な政治なんです︒毛 さんの下で真面目にやった人は大変︑官 僚として可哀想だったと思います︒毛さ んの言うようなことは︑大体百分の一聞 い て お け ば い い の で す︒
「五 ・ 七 指 示
」は立派でございます︑本当に立派です︒
「三大差別
」︑これもありますから一生懸 命努力しましょう︑と言ってそっちを向 いていればいいんですよ︒ 先 ほ ど 言 っ た よ う に︑ あ の 苦 し い 時 期︑六〇年代に三千万人から四千万人が 餓 死 し た と も い う 時 期 に︑ 農 村 は ど う やって生きのびたのか︑そのことを分析 し て い る と︑
「隠 し 田
」が 凄 い︒ ま る で 映画の
「七人の侍
」だね︒用心棒として
25──「文化大革命」