修士論文
天下泰平と武士道
弘前大学大学院教育研究科 教科教育専攻 社会科教育専修 歴史学分野 08GP205 須藤 裕子
天下泰平と武士道
はじめに
第1章 新渡戸稲造の武士道
第1節 新渡戸の武士道
第2節 共通の価値観と武士道 (1)宗教教育に匹敵する武士道 (2)共通する価値観
(3)天下泰平の武士 第2章 天下泰平の世の実現
第1節 豊臣平和令
第2節 むさと殺し候事御停止 第3節 武家諸法度
第3章 武士道の創出
第1節 中世武士と武士道 第2節 泰平の世の武士道
(1) 朱子学と徳川幕府
(2) 山崎闇斎と武士道
第4章 一天下の人民一人も飢え凍え人なく
第1節 撫民仕置
第2節 平和を守ってくれるところの武士 第3節 仁政
第4節 仁政からみえる武士道の限界 第5章 むすびにかえて~今に残る武士道~
第1節 儒学は改革派を生み出す
(1)新井白石の政治 (2)大塩平八郎の乱
第2節 人倫の道
天下泰平と武士道
はじめに
藤沢周平は時代小説家で、江戸時代を題材にしたたくさんの小説を残している。その中 の一つに、2002年NHK金曜時代劇として映像化され、のちに映画化もされた『蝉しぐれ』
という作品がある。物語のクライマックスで主人公牧文四郎は、私利私欲で懐を肥やした 家老里村宅に一人乗り込む。死にゆく人々の気持ちを里村に知らしめようと、刀を抜き、
里村が座る机の足を二本スパンと切る。そして次の言葉を言う。「侮りを受けてはそれがし も武士、黙過しがたくかような振る舞いにおよびました。」
牧文四郎は下級武士である。家老である里村に、刀を抜くというのはあってはならない ことである。しかし牧は、「それがしも武士」といって、義を貫く。武士としての、高い自 立性、ほこりを感じる言葉である。
わたしたちが武士に対してあこがれを抱くとすれば、武士のどのような姿だろうか。そ れは、武士の自らを律していく姿、礼節を重んじる姿、また、私利より義を大切にする姿 などではないだろうか。
武士が志した道、生き方、生き様を「武士道」とよぶ。しかしその「武士道」は、中世 に生きた武士の「武士道」(中世には、「兵の道」「武士の習い」とよばれた)と、近世に生 きた武士の「武士道」とは、異なるものである。時代によって武士の生き方が違うのであ る。
それでは、私たちがあこがれをもってとらえる武士というものは、中世の武士だろうか、
近世の武士だろうか。現代の私たちが、生き方の指針としてみる武士の姿というのは、近 世の武士のあり方がもとになっている。つまり、泰平の世になり、職業戦士であるところ の武士が、モデルチェンジを果たした後の武士である。
ここで一つの疑問が生じる。なぜ、モデルチェンジをしなければならなかったのか、と いうことである。それは時代の変化に対応したものであった。別の視点から言えば、武士 が主体的に自らの存在を考え、姿をかえたものであった。
近世武士の生き方、生き様が、現代でなぜあこがれをもってとらえられているのだろう か。泰平の世となったとはいえ、身分制があり、市民社会とはほど遠い封建社会であった にもかかわらず、なぜ、武士の生き方に共鳴するのだろうか。本論文では、今もあこがれ をもってとらえられている武士道とはどのようなものだろうか、そしてそれはどのような 過程を経てできあがっていったのか、なぜモデルチェンジをしなければならなかったのか、
について追究する。そして、実際の武士がどのように行動したのか、また、行動した武士 を民衆はどのようにとらえていたかについても追究していく。その結果、武士がいない現 代にあっても、武士の心に現代人が共感し、あこがれを抱くその理由について、自分なり の答えを見つけていきたい。
第1章 新渡戸稲造の武士道 第1節 新渡戸の武士道
私が武士道に興味を持ち、はじめに手にしたのが新渡戸稲造の『武士道』である。『武士 道』は、1899年に英語によって書かれ、アメリカで発行された。
新渡戸が描いた武士道は、近世武士道がもとになっているが、正確に言うと中世武士道 でも近世武士道でもない。ある部分を強調し、新渡戸なりにとらえて描かれた『武士道』
である。このことは、これまでの新渡戸研究においても共通の認識になっている。
そのある部分とは何か。それは当時の世界情勢が大きく関係している。そして後に、「太 平洋との架け橋になりたい」と言った新渡戸の問題意識が関与している。
新渡戸は、『武士道』という書物を通して世界に発信したかったことがあった。それは、
日本が文明国であるということ、日本人が精神的に成熟した人々であること、それらをア ピールしたかったのである。開国、明治維新を経て世界に仲間入りを果たした日本が、欧 米諸国に本当の仲間である、仲間たり得る国であると認めさせるために描かれたものであ る。以上のことは、岩波文庫『武士道』で、矢内原忠雄氏が訳者序において指摘している ところである。
それでは新渡戸稲造が『武士道』によって主張すること、『武士道』の考え方はどのよう なものであっただろうか。新渡戸稲造『武士道』の構成を見てみよう。
第1章 道徳体系としての武士道 第2章 武士道の淵源
第3章 義
第4章 勇・敢為堅忍の精神 第5章 仁・惻隠の心 第6章 礼
第7章 誠 第8章 名誉 第9章 忠義
第10章 武士の教育および訓練 第11章 克己
第12章 自殺および復仇の制度 第13章 刀・武士の魂
第14章 婦人の教育および地位 第15章 武士道の感化
第16章 武士道はなお生くるか 第17章 武士道の将来
以上の 17 章は、内容から3つの部分に整理することができる。第1章と第2章は、武
士道の起源と定義づけについてまとめた部分である。武士道は道徳規範であり、体系だて られたものであると述べている。第3章から第 14 章が本書の中心となる部分で、武士道 の内容をあらわすさまざまな規範を12の項目から述べている。第15章から第17章は、
武士道が大衆に及ぼした影響について述べている。
新渡戸は、第二の「武士道の特徴と徳目」に多くの紙面を割いている。その中で、まず は「義」から始まり、「勇」「仁」「礼」と続く。新渡戸は、武士道が武士階級に特化した生 き方・道徳規範になるのではなく、人間としての生き方の参考になるものとして武士道を 捉えているとみることができる。つまり新渡戸は、武士道を人の生き方の指針となるもの としてプラス思考で捉えている。
しかしながら、武士道について論じた書は新渡戸だけではない。例えば山本常朝の『葉 隠』も武士の生きる道を説いたものである。
『葉隠』は、肥前藩士田代陣基が、先輩にあたる山本常朝の談話を書きとめたもので、
全十一巻からなり、享保元年に完成した。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という文言 は有名である。忠義を最上の徳目としており、これは事実、明治維新以後の戦時下ではこ の一語だけが軍国主義に利用され、武士は「主君の命なら喜んで死を超越できる気心を持 つ」というように解釈された。その反省から、戦後は武士道そのものが嫌煙されてきた。
『葉隠』の武士道観により、武士道全般が否定的イメージで捉えられてきた。その影響は、
例えば1963年公開の映画『武士道残酷物語』という作品にも見てとれる。『武士道残酷物 語』は、封建社会のもとでの理不尽さを強調している。
しかし現在はむしろ、藤沢周平の作品に根強いファンがいるように、新渡戸がとらえた 武士道を評価する潮流が活発になってきているようにみえる。つまり、武士道を封建社会 の負の遺産としてとらえるのではなく、人間の生きる指針としてみるプラスの姿勢である。
学問的にも、そのような姿勢による研究が行われている。その代表が日本思想史の田尻 祐一郎氏である。田尻氏は、泰平の世になり、武士が生きていくために試行錯誤して生み 出されたものが武士道であり、それが人々の行動規範となっていったということを指摘し ている(赤旗2007年5月○日 文化欄)。この指摘は、田尻氏の近世儒学の研究がもとに なっている(田尻祐一郎『山崎闇斎の世界』ぺりかん社 2006年 田尻祐一郎『荻生徂 徠』明徳出版社 2008年)。本論文では、田尻氏の研究から多大な示唆を受けた。
第2節 共通の価値観と武士道
(1)宗教教育に匹敵する武士道
私は新渡戸の『武士道』から研究をスタートさせたのだが、そもそも新渡戸稲造は、な ぜ『武士道』を書くに至ったのだろうか。新渡戸は『武士道』の序文で次のように述べて いる。
ド・ラブレー氏との散歩中に、話題が宗教の問題に向いた。ド・ラブレー氏は、「あなた がたの学校では宗教教育がない、とおっしゃるのですか」と尋ねた。新渡戸が「ありませ
ん」と返事をすると、氏は「宗教教育がない!では道徳教育をどうやって授けるのですか?」
と繰り返し言った。
新渡戸はその質問に愕然とし、即答できない。なぜならば、新渡戸が少年時代に学んだ 道徳の教えは学校で教えられたものではなかったからである。そして、この答えを探して いるうちに、「私に善悪の観念をつくりださせたさまざまな要素を分析してみると、そのよ うな観念を吹きこんだものは武士道であった」ことに新渡戸は気がつく。宗教教育がない ということは、欧米人にとっては理解のできないことである。宗教は、人が生きていくた めの指針となるものだからである。
さらに新渡戸は、第1章 道徳体系としての武士道 で次のように記している。
「封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお 我々の道徳の道を照らしている。」
以上の叙述から、新渡戸が『武士道』を書いた動機が明瞭である。
武士道は、人間が生きていく上で、方向性を指し示す共通する価値観であるという。つ まり、自らを律し、道徳規範にもなっている共通する価値観が武士道であり、武士道が宗 教教育に匹敵するものであると、欧米諸国に納得させるものとして『武士道』の本が書か れたと考えるのである。このことは、矢内原忠雄氏も、『武士道』訳者序で述べている。
(2)共通する価値観
そうなると次の問題は、新渡戸は武士道をどのような道徳規範としてとらえたのだろう か。どのような道徳規範を提示したのだろうか。これが問題である。
新渡戸武士道に対する批判として、その内容が現実の武士の姿とはかけ離れたものであ り、武士を必要以上に美化したものだというものがある。『武士道』は、日本社会にも生き る規範があるものと、それを裏付けるものとして描かれた。したがって、武士の姿とはズ レがあるのはたしかである。
しかしながら、新渡戸稲造の『武士道』は、武士の姿をまったく無視して書かれたもの ではない。近世の武士がモデルとなって新渡戸なりにとらえて構成していることも事実で ある。
例えば新渡戸は「義」について、「義」とは武士の掟の中でも最も厳しい規範であるとい い、一番始めに論じている。「義」とは何か、第3章で著名な人物の言葉を引用して「義」
を説明している。
林子平「義は勇の相手にて裁断の心なり。道理に任せて決心して猶予せざる心をいうな り。」
真木和泉「節義は例えていわば人の体に骨あるがごとし。骨なければ首も正しく上にあ ることを得ず、手も動くを得ず、足も立つを得ず。」
孟子「仁は人の心なり、義は人の路なり」
以上から、江戸に生きた人々の考えや儒学の古典の中であらわれていることを前提にし て論述していることがわかる。
ここであらためて、新渡戸が武士道の規範として説明している第3章から第 14 章まで を詳しく検証してみたい。第3章から第14 章は、その性質から2つに分けることができ る。第3章から第9章までが、武士の道徳規範についての論述である。第10章から第14 章までが、武士社会を形成している社会規範である。武士個人に注目した前半と、武士社 会に注目した後半とに分けることができる。
ここである特徴を見出すことができる。それは、道徳規範の冒頭に「義」を取りあげら れていることである。一般に、武士の規範としてなじみのある用語をあげれば、「忠孝仁義」
といったものではないだろうか。しかし新渡戸は「忠孝」をあげていない。葉隠武士道で は、忠のために死ぬる覚悟を説き、「忠」が前面に出ているのに対し、新渡戸武士道は、「忠 孝仁義」の最後に登場する「義」を一番の先に論じている。ここに新渡戸武士道の大きな 特徴がある。
それではその「義」とは、いったいどのような道徳規範なのだろうか。林子平は「義」
とは、道理に従い、ためらうことなく決断する力であるという。真木和泉は、義こそが心 髄・真髄であるという。孟子は人の路という。正しく行動するということ、正義、いさぎ よさなども「義」を説明するものである。
ところで、道理に従うことが「義」とすれば、道理とは何だろうか。正しく行動するこ とが「義」とすれば、正しさとはいったい何をいうのだろうか。
武士道はいろいろな徳目を含んでいるが、その中で新渡戸が「義」を最も先に取り上げ たのには重要な意味がある。「礼」よりも先に、「誠」よりも先に一番に論じたのは、「義」
が他の徳目を内包する大きな思考だからである。
それだけではない。「義」がいうところの正しさは、個人的な正しさだけでは成り立たな い。社会全体がよしとする共通認識があってこそ成立するものなのである。また、人々の 心が納得したものでなければならないものなのである。言い換えれば、正しさや道理とい うものは、ひとりよがりではならず、世の中の価値観を内包していなければならず、そし て人として腑におちるものでなければならない。世の中の成り立ちや心のあり方を追究し た結果の行動が「義」であるといえる。
この「義」は、わたしたちがあこがれをもってとらえる武士の道徳規範である。この「義」
は武士だけのものではない。江戸の民衆・社会が「義」の価値を認め、共通する認識とな ったからこそ、「共通する価値観」となったのである。
(3)天下泰平の武士
「義」は、中世の武士も近世の武士も大切にした徳目である。しかし、中世と近世では その「義」の意味するところや、「義」を達成させるための手段は異なる。中世の武士と近 世の武士のあり方が大きく違っているため、「義」の意味するところも異なるのである。
あらためて、新渡戸の武士道は近世社会の武士、すなわち天下泰平の武士のあり方がも
とになっている。今の社会で、武士の生き方があこがれをもってとらえられている大部分 は、近世武士の姿によるところが多いからである。
中世武士は戦士であることが本質であった。それは、中世という社会が戦さの絶えない 時代であったためである。武士は、自分の在地領主として所領を守るために戦わなければ ならなかった。戦いに勝利することが平和をつくりだすことであった。しかし、第2章で 詳しく触れているように、中世から近世に移行する中で大きく変化したことは、戦さを否 定し、戦争のない天下泰平の世の実現が目指され、達成したことである。そうなると、近 世武士は、戦士=武士の公式の変更に迫られる。戦さのない社会において、自らの存在意 義を考え、示していかなければならなかった。いわば、戦さを必要としない社会を維持す ることが、本来は戦士であり、支配者である武士に求められていく。実は、戦いによって 平和をつくりあげるのではなく、戦いを否定して平和を維持することにつとめた近世武士 の生き方の中に、現代の私たちが共感する姿があるのではないだろうか。私はそのように 考えるのである。
戦士のすべてである戦さを捨てて、どのようにして武士が世を治めることができたのだ ろうか。実はそれは「戦さを捨て」たのではない。戦さのない世を、積極的に求め、つく っていったのである。その中で、近世武士のあり方・生き方が形成されていったのだ。次 の章では、近世武士のあり方・生き方を生み出した時代背景について論じていく。つまり、
泰平の世がどのように実現に向かっていったのかについてまとめていく。
第2章 天下泰平の世の実現 第1節 豊臣平和令
天下泰平の世の実現には武力の凍結が必要不可欠である。戦さのない社会の形成にむか って大きく前進したのは秀吉の時代である。秀吉は天下統一にあたって、藤木久志氏の研 究によれば、豊臣平和令と総称される一連の法令を発布し、戦争と武力が凍結される社会 を目指した。天下泰平は、秀吉の時代に基本的に達成され、徳川幕府で完成したといえる。
藤木氏の研究では、豊臣平和令は次のような体系からなっている(藤木久志 『豊臣平 和令と戦国社会』東京大学出版社 1985)。
1 大名の平和=惣無事令
戦国の終わりにあらわれた豊臣政権の天下一統の政策は、中世をつらぬく自力 原則とそれに根ざす戦国大名の交戦権を否定し、戦争の原因になる領土紛争は豊 臣の裁判権によって平和的に解決することを基調として進められた。これが惣無 事令である。
豊臣政権の行った大名領土の確定と紛争の裁定もまた国分とよばれた。その国 分は、
① 戦国大名間の国分を通じて自立的に形成された領有関係を前提とし、
② 国郡を単位として領域の画定をはかり、
③ 係争地域については三分や折半、当知行や本主権の安堵などの基準を以て 国分し、
④ 裁定には命令に等しい拘束力をもたせ、従わぬ者は平和侵害の罪を以て誅 伐・成敗の対象とし、
⑤ 裁定の実現に当たっては、当事者の自力を排して職権的な強制執行の態勢 をとる。
戦国期の国分と峻別される特徴は④と⑤である。④および⑤は戦国期とどのよ うな違いがあるのだろうか。九州平定の過程から見てみよう。
九州では 16 世紀なかばすぎまで、豊後大友氏、薩摩島津氏、肥前竜造寺氏ら によって勢力争いが繰り広げられていた。島津氏は大友領侵攻をやめず、大友氏 は本国豊後まで危うくなるに及んだ。大友氏は秀吉に助けを求める。これを受け て秀吉は、九州諸大名らに停戦命令を下す。天正13年10月2日のことである。
そこではまず、何よりも天皇の命令であることを全面に出して、「関東から奥州 の果てまで天皇の命令に従い静謐なのに、九州でも今も戦争が続いているのはよ ろしくない。国郡の境目の相論は、秀吉が双方の言い分を聞いて裁定する。まず 双方とも戦争をやめよ。これは天皇の意向だから従わない者は成敗する」という 内容である。
戦争のもとになっている領土争いは秀吉の裁判で解決するから、即時に停戦せ よ、九州全域について領土の裁定権は自分にあるから従え、ということである。
これを可能にしているのが秀吉の関白就任である。その根拠は、日本六十余州の 支配権をもつ天皇から、秀吉が関白として土地と人民に対する実際の支配(進止)
を委任されているという考え方を打ち出し、天下統一にあたり、信長とは決定的 に異なる理論を編み出した。
この停戦令を大友氏はすぐに受諾する。島津氏も翌年正月に受諾を決定するも、
秀吉の国分令には従わなかった。このため秀吉は、停戦令に違反した「逆徒」島 津の「征伐」令を発して中国勢・四国勢を派遣したが、島津はそれらと戦い、豊 後を占領した。島津は自力で九州のほとんどを平定したのである。しかし秀吉は それを認めず、天正 15 年3月1日、二万五千余の大軍を率いて大阪城を出発、
4月17日、島津義久らは日向で秀長らの軍勢に大敗し、ついに降伏するに至る。
6月7日、秀吉は九州の国分を行い、大友氏に豊後を、島津氏に薩摩・大隅・日 向を安堵した。
九州への停戦令には「惣無事」の語はなかったが、その後に関東と奥羽に出さ れた同趣旨の停戦命令にはその語が使われているので、藤木氏は秀吉の停戦令を
「惣無事令」とよんだ。「惣無事」の「惣」とは「すべて」という意である。「無 事」とは「平和」という意である。つまり、すべて平和であるように、いっさい の例外なしに、すべて平和を命ずるという意味である。秀吉は、自力によって領 土問題の解決をはかる戦国大名の固有の自力救済権を「私戦之儀」として否定し た。関白である自らが「公」であり、かつ公的政権であることを主張し、「公」に
対して「私」・「私戦」として否定する。豊臣政権の領土裁判権の独占の下で、平 和的な解決を求め、それに違反した場合は、「公」に対する反逆である。したがっ て、武力征伐が行われるのである。
私戦の禁止は、戦さのない社会・平和な社会を築いていくときの土台となるも のと、私は考える。
2 村落の平和=喧嘩停止令
戦国領主層にたいして、領主間の境界紛争つまり国郡境目相論を解決する手段 としての戦争・交戦権を禁じて平和を強調した豊臣政権は、中世農民に対し、村 落間の境界紛争である山野水論の解決に、自検断権を用いることを固有の規制法 をもって禁じていく。その規制法というのは、喧嘩停止令である。
実は現在までのところ喧嘩停止令という法令自体は見つかっていない。しかし 藤木氏は、天正 20 年摂津の水論の分析から、村落間の紛争を武力の行使で解決 するという中世的な紛争解決の方法を禁じており、それを「喧嘩停止令」とよん で豊臣平和令の一つととらえている。
摂津の水論とはどんな紛争だったのだろうか。
天正 20 年の炎暑の夏に起こった日野家領の摂津国武庫郡鳴尾村と河原林村と の間の用水相論は、京都で双方の「年より」以下「在所衆」を呼び出して糺明が 行われ、「惣在所並びに籠者」とされた挙句、10月12日、豊臣奉行人によって関 係者の死刑断行のあと、検使の実地検分と証人・証拠にもとづく裁判が行われ、
鳴尾村の「百姓中」に勝訴の裁許が出される(「高須元之祐旧蔵文庫」)、という経 過をたどった。水論が「喧嘩」に対する刑事処分と、「水事」に対する民事判決と いう領域に分けられて執行されている。これを伝え聞いた興福多聞院の僧は、「夏 に水論で喧嘩に及んだ摂州の百姓83人が『ハタ物(磔)』に上げられた。その理 由は天下ことごとく喧嘩御停止したのに違反してけしからぬということだ」と記 している。
「天下悉ケンクワ御停止」令の発令された喧嘩というのは、「弓・鑓・馬上」な ど武器の行使を伴っていること、双方とも広く近郷の加勢を得ていること、多数 の手負・死人を出していること、つまり「合戦争論」である。豊臣政権によって
「曲事」とされた喧嘩の実態は以上のような「合戦争論」であった。この喧嘩に 対する処分というのは、水論の理非(勝訴・敗訴)を問わず当事者双方を対象と し、さらに加勢した村々にまで及び、一村一人宛の村代表をも処刑の対象に含め、
すべてに磔の極刑を課したのであった。
これは、村落における課題解決に村の自力による「合戦争論」の形をとること を認めず、争論の理非を問わず、武力行使することを「喧嘩」であるとして禁止 したものである。「喧嘩」というのは私的な争いである。それ自体、マイナスイメ ージでとらえており、村落における自力救済の否定、武力の凍結といえよう。そ して、争論が起こった場合は、村同士の自力救済ではなく、「公」権力である大名 に訴え、その裁判に解決を任せるというように方向転換することを強制していく。
つまり喧嘩停止令は、自力救済ではなく訴訟による解決方法に転換させる強制力 をもつものである。
3 百姓の平和=刀狩令
刀狩令は天正16 年7月8日に出された。第一条は「諸国の百姓が刀などの武 器を所持することを禁止する。理由は、それらをもっていると、年貢などを出し しぶり、一揆を企て、領主に反抗するからである。もちろんそのような者は成敗 する。しかし、そうすると田畠が不作となり年貢がとれなくなる。だから大名・
給人・代官は武器を集めて進上せよ。」と示されている。これは従来、専制権力に よる強制的な武器没収、武装解除と見られてきた。
刀狩令は、本来大名や領主向けの文書であって一般に公開された法令ではなか った。第一条の大名へのよびかけは、大名向けにこの法の真意を率直に打ち明け て協同を要請した、いわば極秘扱いの部分である。第二・三条は、大名のために 百姓向け説得用に趣旨を詳細に特記した、一般公表用の部分である。いすれも大 名領主層だけを相手にして書かれており、百姓に公布されたものではなかった。
第二・三条は次のように示されている。「没収した刀・脇差は無駄にせず、方広 寺大仏建立の釘やかすがいに使う、だから百姓は現世はいうまでもなく来世も救 われる。百姓は農具だけをもって耕作に専念すれば子々孫々まで長久である。(秀 吉)百姓へのあわれみをもってこのように仰せ出された。まことに国土安全・万 民快楽の基である。中国の尭の時代に天下を鎮めて宝剣利刀を農具に用いたとい うが、日本ではこのような例はこれまでなかった。各々がこのことをよく理解し、
百姓は農桑に精を入れよ。」
『多聞院日記』天正16年7月17日条の記事は、「百姓が刀を持てばつい闘争 に及び命を落とすことになる、そうした現世の惨禍から百姓を助け出したい、そ れがこの法の願いである」という趣旨の刀狩令宣伝が世間に流布されていたこと を示唆する。武器の没収は、争論による被害をくいとめるものであり、百姓を救 済するものだとして、刀狩令を正当化している。これは、刀狩令より先にあらわ れた喧嘩停止令と不可分にあるとしたのは藤木氏である。自力救済の論理にもと づく武力行使による村の紛争解決を「喧嘩」であるとして禁止し、被害をもたら す刀を取り上げた刀狩令はセットであるという。
また一方で藤木氏は、刀狩令が「刀・わきさし・弓・鑓・鉄砲・其外武具のた くひ」と武具一切を対象としながら、その没収実務が当時から「刀かり」とよば れていたことを問題にしている。第二条にも「右取をかるへき刀・わきざし、つ いへにさせらるる儀にあらす」と、とくに刀・脇指つまり大小一腰に的を絞った ような表現があることに注目している。
すなわち、中世社会における刀脇指とは、自己の属する社会で自立した成員た ることを認められたことを表示する、成人の標識であり自力救済能力の標識に外 ならなかった。その刀脇指を没収するということを通して、百姓でも武器を持つ こと、帯刀することが当然という中世村落の常識を支えている百姓の身分意識を、
根底から変革し、武力による解決は行わないというルールをもった農村を形成し ようとしたのではないかと考える。
4 海の平和=海賊停止令
海賊停止令は三ヶ条からなり、刀狩令と同じ日に発令された。第一条では、「諸 国の海上において賊船の儀、かたく御停止成さるるの処」、このたび伊津喜島で盗 船した者がいると聞いた、これはいけないことだ、といっている。そしてこれを 理由として、第二条では諸国の浦々の船頭・漁師ら船をつかう者を、その地の領 主が取り調べ、彼らに今後海賊行為をしないと誓約した連判状を提出せよ、と命 じている。第三条では、今後領主の油断で海賊する者が出たなら、海賊は(秀吉 が)成敗し、領主の知行は没収する、と罰則を定めている。
海賊とは、多くの船をもって水運などにたずさわるとともに、海辺や島々に海 城を築いて、ある海域を支配する海の武士団である。支配海域を通行する船から 警固料や安堵料などの名目で通航税を取り、安全通行を保障したが、それに従わ ない船は襲撃して積荷や船を奪うなどの行為を行った。
海の武士団にとってすれば、上記のような行為は地域支配の権利として当然の 行為であった。中世の国家権力は、海の武士団の存在を前提として認めて海支配 を行ってきたため、海の武士団による海上支配を解除することができなかった。
その海の世界のあり方を大きく転換させたのが秀吉である。
通行税を取ることに従わない船に対して、実力行使で積荷を奪うことは海の武 士団にとっては当然の行為であるが、その行為を「賊」であるとした。海の武士 団による海支配を「私的なもの」として禁止し、海上は「公」権力である豊臣政 権の支配下にあるとした。海上は秀吉の支配下にあり、海上通航の安全保障と違 反者処罰は、関白の権限であるという方針を明示した。そのようにして、水上交 通・流通・貿易から武力を排除していった。
自力救済の時代は、職業戦士としての武士だけではなく、一般民衆もまた、自分たちの 生活や家族、あるいは経営・生産を守るために自らが武装し、自衛しなければならなかっ た。問題解決を自らの手で行う自主・自立の精神があろうが、問題解決の手段は最終的に は武力によってなされる。武力の行使とはどのようなことであるかについて、わたしたち は想像しなければならない。武力の行使は、おそらく痛み、悲しみ、喪失、危険、不安、
おびえ、などといった感情や状態を引き起こすであろう。問題解決のためには、個の尊厳、
命までを奪い、おとしめることを辞さないであろう。そのような、自己解決が常識の社会 において、いつ起こるやもしれない戦さに、人々は心を落ち着けていることができようか。
戦さのない社会、武力によって傷ついたり傷つけられたりしない社会を望むのが、人とし て素直な感情ではないかと考えるのである。
従来は、豊臣権力による大名統制、専制的な農民社会の形成と理解されてきた。しかし、
藤木氏の研究は、これらと豊臣平和と定義し、自力救済をいっさい否定した法体系である とした。藤木氏の研究は、近世社会の平和の意味や、平和下にあってどんな過程で武士道
が生まれていったかを考える上で、大きな示唆を与えてくれるものである。以下は、藤木 氏の理解のもと分析を進めていく。
第2節 むさと殺し候事御停止
自力救済の否定は、統一政権にあらたな課題をつきつける。それは何か。
私戦の禁止は裁判への転換と同じ事である。統一政権は、訴えられてくるさまざまな問 題に対して、「公儀」として公平な裁判を行うことが求められていく。公平と人々に認識さ れるような判決を下すことが、統一政権の存在理由となっていく。この課題に取り組み、
天下泰平の世を実現させたのが徳川政権であった。武装による実力の衝突ではなく、問題 を解決するための新しい社会システムづくりに取りくんだ徳川幕府が最初に出した法令に ついて論じていく。
この法令は郷村法令といい慶長8年3月に出された。豊臣平和令を引き継ぎ、泰平の世 をつくっていくのだという家康のビジョンが込められている。
七ヶ条からなる法令の最後は、
一、 百姓をむさと殺し候事御停止たり、縦令科有るといえども、之をからめ捕り、奉 行所に於いて対決の上、申し付くべき事
とある。百姓は理由もなく殺されることはなく、たとえ罪があっても私的制裁を行っては ならず、奉行所における裁判を保証するというこの条項のもつ意味は大きいと、横田冬彦 氏は『天下泰平』序章で述べている(横田冬彦『天下泰平』講談社 日本の歴史16 2002 年)。
また、郷村法令の第一から六条を以下のように要約している。
○ 総じて目安は、直接家康に出してはいけないが、私領の領主に「人質を取られ、
せんかたなきに付いては」、幕府の代官や奉行所へ届けた上で、直目安を出してよ い。しかし、幕府代官の「非分」については、そうした届けなしに直目安を出す ことができる。
○ 幕府代官や領主に「非分」があって、百姓が「所を立ち退き」逃散する場合は、
たとえその領主が求めても、安易に強制送還されることはない。領主を告発する 場合は、所を立ち退く覚悟で行うように。
○ 年貢の率についての訴訟は受け付けないが、「近郷」「隣郷」の状況(つまり一般 的な社会的合意)を基準にするべきである。年貢納入さえ済ませれば、百姓の居 住はどこでも自由である。
百姓が「むさと殺され」たり、人質をとられたりしない、年貢米を一定水準以上に「無 理」にとられたりしない、総じて「非分」を申し掛けられない、こうしたことが現実に守
られるための制度的保障として、訴訟制度が必要となってくる。訴は人々の自力救済の伝 統が形を変えて近世社会に引き継がれたことを意味すると、横田氏は述べている。
ここで問題意識にのせたいことは、どんな訴訟制度がつくられたかということではない。
わたしが問題としてとりあげるのは、裁判をとりおこなう「公儀」がどのように全国を覆 っていったのかということである。そして「非分」という行いの何が「非」にあたるのか、
その時代の価値観、共通認識はどのようにつくられていったかということである。
以上のことを関心事とすると、戦さのない泰平の世をめざして徳川幕府がまずはじめに 取り組まなければいけないことがみえてくる。それは、現実に存在する大名の武力をどの ように凍結するかという問題である。厳密にいえば、武力の私的な発動をいかに凍結する かという問題である。
それは徳川幕府にとって最重要課題であったはずだ。なぜなら、徳川幕府が「公儀」と なるには、大名を権力下に再構成しなければならなかったからである。大名の統制につい て次の第 3 節で述べていく。そして、「非」について、平和な時代の価値観はどのように 形成されていったのかについては、第3章で検証していく。
第3節 武家諸法度
天下泰平の世の実現には、武力の私的発動の凍結が必要不可欠である。
平和を維持していくためには、争いの火種を完全に消さなければならない。火種とは何 か。所領紛争である。所領は大名のものではなく、公儀のものであり、大名はそれを預か っているだけにすぎないという論理を、諸大名に周知させる必要がある。そして、紛争を 可能にするものが、各大名がもつ武力である。大名が、自らの武力を行使して紛争の解決 をめざすことを凍結しなければならない。さまざまな政策が施されるが、制度としてこう した武力の私的発動の凍結を図ったのが、武家諸法度である。以下は横田氏『天下泰平』
から元和令を整理していく。
慶長20年4月から5月、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡する。その2ヶ月後、慶長20年7 月7日(7月13日に元和と改元)に秀忠から武家諸法度(元和令)が発布される。大坂夏 の陣以降、このあと戦争がない世であるという意味で「元和堰武」とよばれたが、この武 家諸法度発布は、この元和堰武を実現させるための法体系の一つとしてとらえられている。
「一、文武弓馬の道。専ら相嗜むべき事」ではじまる全十三ヶ条である。このなかで、大 名の武力の私的発動の凍結にかかわるものが、第四,六,七,十三条である。
第四条は、国々大名・小名・諸給人の抱える士卒について反逆・殺害人の告発があれば これを追放することが規定されている。この第四条は、ある領主のもとで問題(反逆・殺 害)を起こした武士を別の領主が抱えないことを領主間でお互いに認め合うというもので ある。つまりこれは、一人の大名の口を失えばすべての大名への仕官の道がなくなること を意味し、家臣はその覚悟なしに主君に対する自己主張ができなくなり、家臣集団に対す る大名集団の絶対的な優位が確立する。つまり、武家諸法度は、幕府による大名の統制と してあるわけではなく、大名に対する家臣による下剋上の凍結、大名身分相互の家臣集団
に対する共同利害を実現するための協約という性格をもっている。
第六条が、居城の補修であっても必ず届け出、新儀の造営は禁止するというもので、居 城のみを認めた先の一国一城令をふまえ、さらにその居城の修復についても届出を義務づ けたところに、その強化がみられる。それは個々の大名の自己領内軍事施設造営権と軍事 発動すなわち交戦権とを将軍のもとに凍結し、戦争準備ではなく、平時における管理へと 移行させるための処置であるといってよい。
第七条は、隣国において新儀を企て、徒党を結ぶ者があれば早速言上すべきことを規定 している。これは幕府に対する反逆とみなされた。幕府に対する大名の下剋上の凍結とい える。
最後の第十三条「国主は政務の器用を撰ぶべき事」は、『建武式目』を踏襲しており、「政 務」にふさわしい人材を撰ぶべきであるというものである。「政務」とは、領国の守護とい うよりは治国の能力が問われている。これも平時への構造的転換を示すものである。
このように横田氏は元和令を分析し、この法令の意義を次のように述べている。
武家諸法度は、大阪の陣で実現した戦時動員としての武家大名集団の統合を、恒常的な 平時の、すなわち下剋上を凍結した武家国家へと定着させていくための、しくみの転換を はかろうとしたものである。戦時であれば勝つための軍事的要請がすべての命令に根拠を 与えるが、平時においては一定の合意とそれにもとづく規範がなければならない。軍事的 覇権を戦争の継続ではなく、新たな武家国家の国制として定着させるという問題、それに 対する一つの解答が、統合された大名集団のあり方を法=規範によって定めるという仕組 みであった。
横田氏が指摘するように、「恒常的な平時」において武家大名集団を統合し、新たな武家 国家を国制として定着させていくための法規範が武家諸法度である。その武家諸法度をじ っくり眺めていると、中世から近世への大きな転換の中での徳川幕府の苦悩と、時代を切 りひらいていこうとする覚悟を私は感じるのである。武家諸法度は、武士のあり方に対し ても問題提起をして、武士を導いていこうとする意図を私は感じる。
たとえば武家諸法度は「一、文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」が起こりである。なぜ
「文武」なのであろうか。そのように疑問に感じるのは、文武ともに励むべしといいなが ら、「武」が発揮される場面が第二条以下に、まったくあらわれてこないのである。むしろ
「武」が用いられないような「恒常的な平時」をつくっていこうという徳川幕府の覚悟が あり、守るべき事が細かにあげられている。それにもかかわらず「文武弓馬の道」といっ て「武」を掲げ、しかも「弓馬の道」といって中世武士の姿を想起させる文言をつかって いるところに徳川幕府の意図を感じる。
武力をもつ政権である幕府が、どうしたら武力を発動しない世を実現できるか、本来武 人である武士が、平和な世を実現できるか、このジレンマを解消しなければならなかった。
武士は職業戦士であることが本質である。「武」を磨くことをなくしては、武士は武士でな くなってしまうのだ。「武」を磨くことを否定しない。徳川も自らが武士であるからだ。武 士のあり方は、中世と同じでは成り立たない。
横田氏は、統合された大名集団のあり方や武士のあり方を定めた規範として武家諸法度 をとりあげる。しかし私は、武家諸法度だけによって、新たな武家国家が形成されるとは
思わない。中世から近世への大きな転換のときに、豊臣を滅ぼし天下をとった徳川からの
「一方的な申し渡」された法度だけで、その大きな転換の荒波を越えることはできないの ではないかと考える。武家諸法度を補完したものがある。それが朱子学である。朱子学が、
武士の生きていく道に光をあてたといってもよい。次の章で、朱子学がどのように武士の 生き方を導いたのかについて論じていく。
第3章 武士道の創出
第1節 中世武士の武士道
天下泰平の世を目指し、達成していく過程の中で、武士は自らの存在意義を模索しなけ ればならなかった。近世の武士の生き方と、中世武士の生き方とでは大きな違いがある。
本論文は、近世武士の生き方に焦点をあてているが、近世武士の生き方をより鮮明に理解 するために、中世武士の特徴を、石井進氏の『中世武士団』(小学館 日本の歴史12 1974 年)はじめにからにまとめていく。
石井氏は中世武士団の特質は、「土」とむすびついたイエ支配権の強さ、その独立性であ るという。中世武士のあり方を『吾妻鏡』の一節からとりあげている。
平安末期から鎌倉時代はじめを生きた相模国西部出身の武士に河村義秀という人物があ った。秦野盆地中心に繁栄した波多野氏の一族であり、弓矢の達人であった。源頼朝の挙 兵当時、他の多くの武士と同様に平氏方に参加し、石橋山の合戦に頼朝を打ち破ったが、
富士川の合戦ののちは頼朝に降伏した。そこで、河村氏の名字のおこった本領である河村 荘を没収され、いったん、大庭景能にお預けの身になったが、ついで斬首にするようにと の命令が下された。治承4年10月、鎌倉幕府草創期のできごとであった。
ところがそれから十年ほどたった建久元年8月、鎌倉の鶴岡八幡宮の放生会のときのこ とである。例によってはなばなしく行われるはずの流鏑馬の行事で、肝心の射手にとつぜ ん、欠員が生じた。どうしようかと人々がとまどっているとき、大庭景能が頼朝の前に進 み出て申し上げた。「じつは囚人としてお預かりしている河村三郎義秀は弓馬の芸の達人で あります。治承4年のお旗あげのとき、敵方についた者のほとんどはすでにおゆるしを得 ておりますので、義秀もこのさい、お召しだしになってはいかがでしょう」と。頼朝はい ったん、「あの男はすでに斬罪にするように命じておいたのに、いまだ存命とははじめて聞 いた、けしからぬことである」と怒ったものの、「めでたい神事のおりだから、とくに許し てやろう。早く召し出せ。ただしそれほどの腕前でもなかったら、かえって重く処罰する ぞ」といって、義秀にその機会を与えた。ところが義秀はまことにみごとな技倆をみせた ので、見物人で感心しない者はなく、頼朝もすっかり機嫌をなおして、即座に義秀の罪を 許したという。
その半月ほどあと、また大庭景能が頼朝に申し出た。「例の河村義秀ですが、はやく斬罪 にしていただきたいとぞんじます」。頼朝はいう、「いったいなんたることだ、お前の申し 分はさっぱり筋が通らんぞ、以前処刑せよと命じたときには、ひそかに命を助けてやり、
せっかく流鏑馬の芸に免じてゆるしてやったら、こんどは首を斬れという。どういうわけ だ」。景能は答える、「じつはそこでございます。義秀はこれまでは囚人としてお預けの身 でありましたから、景能がほどこしを与え、それで生活をしてまいりました。ところが、
なまじっかおゆるしを得たあとには、一人前の武士としてまさかほどこしを受けるわけに はまいりません。そのため気の毒にも餓死しそうな状況です。こうなってはむしろ首を斬 っていただいたほうが義秀のためになるかと存じます」。これを聞いた頼朝は、はたとひざ を打っておおいに笑い、ただちに本領の河村荘を返しあたえるように命令を下したという。
『吾妻鏡』ののせるこのエピソードは当時の武士の性格について、そのありかたについ て多くのことがらを教えてくれると、石井氏は述べている。それは、河村義秀のように、
一人前の武士として頼朝につかえる御家人は「本領」「名字の地」などとよばれた所領を支 配する領主でなければならなかった、ということである。所領ももたぬ武士は結局他の武 士のほどこしを受け、その下に隷属するか、さもなけれな「餓死」の道をえらぶほかはな い。他の領主の下につかえるとは、別のいいかたでいえば、その主人の支配するイエの内 部に入ることであり、そのイエ支配の下に服することである。将軍頼朝が斬るように命じ た義秀を景能が十年間もかくまっておいても、将軍がそれを知らなかったという事実が端 的にしめしているように、武士のイエは、ある意味では将軍から独立した一つの支配圏を 構成していたのである。
さて、「独立した一つの支配圏を構成する武士のイエ」に生きる個々の武士は、何を重ん じていたのだろうか。何を存在の証として、心がけていたのだろうか。それはひとつに、
武芸に優れていることである。自立した武士としての名誉である。また、武士としての名 である。これらを徳目としてあげるその背景にあるものは、武士は、独立した戦士であり、
そして在地領主であるという中世武士のあり方である。
江戸時代の学者・政治家として有名な藤田東湖は、当時の武士団を「鉢植えの武士」と 評したという。ひとたび、将軍の命令がくだれば、大名はそれまでの領地をはなれて新た な所領へと移らなければならない。いわゆる国替え、転封である。家臣もこれにしたがっ て行かなければならないのだから、かれら「近世武士団」は、「土」から切りはなされた存 在であり、まさしく「鉢植えの武士」といわなければならない。これは「土」とむすびつ いた、根生いの武士団である「中世武士団」との大きな相違である。
石井氏は、「中世武士団」を「土」から生い立ったような在地の支配者であるという。そ して、その在地の平和を守るために「弓馬の道」に励み、職業戦士としての武力を行使し た。石井氏の論述に「中世武士道」という文言はでてこないが、在地領主であることが武 士の生き方を決定づける大元ではないかと私は考える。在地領主である武士の生き方を、
仮に中世武士道と呼ぶならば、「弓馬の道」「兵の道」「武辺の意地」「おのれの一分」など が、中世武士の生き方、つまりこれらを「中世武士道」ということができるのではないだ ろうか。
第2節 泰平の世の武士道 (1)朱子学と徳川幕府
中世は戦さの絶えない時代であった。在地領主は、戦さにそなえて準備を怠ってはなら ない。その準備のなかに「中世武士道」行動規範がふくまれる。
しかしながら戦さのなくなった天下泰平の世においては、武士は戦さに備える必要もな くなる。それでは本来職業戦士である武士は、どのように生きていけばよいのだろうか。
中世から近世への転換の中で、武士のあり方も大きく転換することをせまられていく。
第一は、それまで在地領主であった武士が城下に集められたことである。それは、自立し た武士のあり方を根底から覆した。第二に武家諸法度である。武家諸法度は、戦さのない 世の実現を目指し、戦時ではなく平時の武家集団を編成して武力の私的発動の凍結をはか っていく。戦争がないように、大名を統制していく。しかしながら、自立性をもっていた 大名たちが、中世以来の意識や価値規範を簡単に変えることができるだろうか。武家諸法 度の意義を簡単に飲み込んだのだろかと、私は考えるのだ。法度のほかに、その仕組みを 根拠づけて支える思想があってこそ成立するものと考える。武士を納得させる理論が必要 である。法度による大名集団編成の仕組みが、正当なものであるという納得が必要だと思 うのだ。
中世から近世に移行したときに、武士が納得しなければならなかったことは何だろうか。
それは、武士としてのアイデンティティである。
泰平の世は戦さがない社会である。職業戦士であるところの武士は、何のために存在す るのだろうか。存在意義の転換が求められていく。そして、戦わない武士が支配者として 存在しうる世の中のしくみをどうつくるかが、徳川の課題であった。
ある意味では、これは自己矛盾である。戦士である武士が支配者となり、しかも戦いの ない世をつくろうとした以上、どうしても避けては通れない問題である。戦わない武士の 存在意義を、何をもって説明、納得させたのだろうか。
それは儒学、なかでも朱子学による。朱子学の教え・理論が、徳川幕府・藩の課題に答 えを提供した。朱子学によって、武士のモデルチェンジが進められたといってよい。
では、朱子学の教え・理論とは何だろうか。徳川家康に出頭人として取り立てられた林 羅山について、山口啓二・佐々木潤之介著『体系・日本歴史4 幕藩体制』(日本評論社 1971年)に述べられていることを整理する中で、朱子学にスポットライトがあてられた理 由を明らかにしていく。
朱子学は、江戸時代の社会体制を正当化する理論として、幕府の官学とされた。官学 とされたのは、5代将軍綱吉の治世である。しかし、江戸時代当初から朱子学が新進気鋭 の学問としてもてはやされていたのではない。むしろ近世初期においては、儒学の通用度 も地位もきわめて限定されていた。以下、朱子学がどのようないきさつで徳川政権に取り 入れられていくのか、そして朱子学とはどんな学問なのかについて、論じていくことにす る。
儒学は古代以来、朝廷貴族にとって不可欠の教養たる治者の学問として学ばれ、儒学の
教授を職分とする明経家も成立してきた。そして中世に宋学すなわち朱子学が伝えられる と、明経家によってさらに幕府の学僧となった五山の僧侶によって学ばれてきた。室町幕 府や戦国大名は、これら学僧たちを側近において、為政者としての知的教養を満たすのに 用い、また、法令の起草や外交文書の取り扱いに当たらせた。家康が藤原惺窩を招き、林 羅山を登用したのも、同様からである。儒者の社会的職能は、ふつうの人では扱い得ない ような漢文を解読したり弄んだりできる技能であった。そして、儒者から学ぶ事柄は、知 的教養・知識にとどまっていた。
家康は、あらゆるジャンルの知識人を出頭人として側においた。そのなかで儒学という 分野は、その専門性がやっと惺窩によって標榜されたばかりで、仏教などの厚い蓄積をも った分野に比べたらまったくの新参者であった。儒学は、独自の資産や背景がほとんどな いところからスタートしなければならなかった。25歳の若い羅山が、取り巻く老壮年の僧 たちのなかで幕府に雇用されたとき、彼は命ぜられて剃髪し名を道春と改めている。それ は、儒者が新参者であり、身分上、僧としか位置づけることができなかったことを意味し ている。剃髪とは、そもそも入道者の姿であり、世の制外者の表示でもある。本来の意か らいえば斉家・治国を牛耳る知識であるはずの儒学が、外ものの刻印をもって出発しなけ ればならなかったのである。徳川幕府にとって当初、儒学の扱いは以上のものであった。
つまり、はじめから朱子学をもって幕藩体制の思想基盤にしようとは考えてはいなかった と思われる。泰平の世を固めるために、あらゆる知恵を総動員していた。
ちなみに、剃髪した林羅山に対して中江藤樹、山崎闇斎ら次の世代からは「世儒」であ ると怒りと軽蔑が投げられることになる。
このような新参者の儒学ではあったが、その将来には希望があった。なによりこれから もっと必要となるだろう治世の道だからである。
幕藩体制の成立は、儒学を為政者の教養ないし実務的知識にとどめてはおかなかった。
支配的思想として展開していく歴史的諸条件が用意されていたのだ。つまりそれは、在地 領主制を基盤とし、所領・のちには地域支配とそれを守るための領主間の戦いに勝ち抜く ことが主要なテーマであった中世の領主層とは異なって、近世は領主間の戦争を凍結し、
一方で兵農分離によって新たな体制が構築される。つまり、所領・地域支配という限定さ れた範囲にはとどまらず、徳川幕府を頂点とする封建的システムの中に整序していく必要 がうまれてきたのである。それぞれの支配階級の一員としての人格から天下国家までを構 想しうる思想体系をつくりだしていくことが求められた。それに答えうるものは儒学であ ると受けとめ直されたのであった。
藤原惺窩が歌学を家業とする冷泉家に生まれ、京都の相国寺の僧となって、公家や五山 の伝統の中で学びながら朱子学を唱道した創意を自負しているのは、それを単に貴族の教 養たる舶来の知識としてではなく、まさに幕藩権力者のあるべき思想体系として受けとめ ていたからであった。
それではその「幕藩権力者のあるべき思想体系」である朱子学とは、どんな思想をもっ ているのだろうか。
朱子学では、万物存在の根本原理を「理」とよぶ。「理」は、自然と社会を貫く普遍的法 則たる「天理」として実現するともに、人間の道徳的本性たる「性」として存在する。そ