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阿部浩己(神奈川大学法科大学院教授)といえ ば、国際人権法や難民法にかかわる者の間では、
誰一人知らない者はいないと断言できる国際法学 者である。しかも、人権に関わる訴訟において 数々の意見書作成や専門家証言にも労を惜しま ず、また、国際人権
NGO
ヒューマンライツナウ(HRN)の理事長を務めるなど、その人権への貢 献は単に学術の分野には留まらないはば広いもの がある。
そのように紹介してしまうと、読者は、既存の 国際法体系をふりかざして、閉鎖的な日本社会に 人権開国を迫る活動家像をイメージさせてしまう かもしれない。そのような物差しで、しかし、阿 部の業績を語ることは、多くの誤解を招くことに なる。一方で阿部は、そのような国際人権法を武 器に内外の不正と闘いながらも、他方で、その 依って立つ国際法を、その現代的な発展すらも、
その足もとから問い直し続ける。「第三世界アプ ローチ、フェミニスト・アプローチとともに批判 法学の手法を広く組み入れて、全編にわたりポス ト構造主義的な国際法観を前景化させている。」
(あとがき)と著者自身が評する本書は、まさに、
現在の国際社会をかたちづくる「国際法」を厳し く検証する。
本書は、大きく「国際法への眼差し─序にかえ て」、「第Ⅰ部 国際法の『原罪』としての暴力 性」、「第Ⅱ部 招喚される他者─女性、第三世界、
民衆、過去」の3つの部分から構成される。
「国際法への眼差し─序にかえて」においては、
まず、著者の鮮烈とも言える問題関心が提示され る。17世紀に直接の起源を持つとされる近代国際 法は、その当初から「文明国」同士の規律を対象 とし、それに属さないとされる野蛮や未開を排除 することで成り立ってきた。そして野蛮や未開に 対してもたらす暴力が、近代国際法の中に原罪と して埋め込まれてきたことを,著者は指摘する。
そのような国際法の持つ暴力性や原罪は、その後 の国際人道法(戦争法規)の確立や国際人権法の 登場によって封じ込められたかに見えた。しか し、それが虚構にすぎないことを示したのが、9.11 以降、アメリカを中心とする北の国家が、テロリ ストという名の「現代の野蛮人であり未開人」に 対して取った暴力行為であった。原罪はその命脈 を保ち続けたのである。そのような認識にいたる 著者は、あらためて「国際法の暴力性の契機を見 据えた上で、この法の持つ社会変革機能を最大化 する途を探っていくこと」を提唱する。そのため に著者は、国際法自体が排除してきた「他者」の 視点に寄り添い、呼び戻すことからはじめるべき だとする。
「第Ⅰ部 国際法の『原罪』としての暴力性」
は、そのような著者の問題関心を二つの論文に よって深化させる。
「第一章 「人間」の終焉──国際法における
〈再びの一九世紀〉」において著者は、直近におい て国際法の「他者」とされた「テロリズムという 書評
阿部浩己著
『国際法の暴力を超えて』
(2010 岩波書店)
東 澤 靖
(PRIME所員)
阿部浩己著『国際法の暴力を超えて』
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記号」を掘り下げる。そして、国際人権法で例外 のない強行規範と考えられてきた拷問禁止という 規範が弛緩していく過程を検証する中で、かつて
「野蛮人」・「未開人」を排除した近代国際法と同 様の構造を見いだす。著者は、また同様の構造を 難民の取扱いや、そこで発展したとされるジェン ダー・ガイドラインにも見いだし、「北」が「南」
に対してかつての「文明化」を「民主化」と言い かえて周縁化する様を描き出す。そのように進行 する事態の中で、国際人権法はなにができるの か、著者はその回答と方向性を模索する。
「第二章 愚かしき暴力と、国際人権の物語」
で著者は、国際法に向けた刃を、自らが依って立 つ国際人権法の物語に対して突きつける。国際人 権法は、主権国家間の法とされてきた国際法を、
個人(人間)をも包摂する法に大きく転換させた。
国際人権法がいかにして生まれたのか、その生成 史として語られてきた物語は、しかしつねに、
ヨーロッパにおけるナチスドイツのユダヤ人大虐 殺という出来事であった。国際人権法は、その成 り立ちにおいて、ヨーロッパの野蛮の克服に向け られていた。そうした国際人権法は、法実証主義 言説や自然権思想によって整備され、実際には
「南」の未開を訓育しようとする知的装置として 発展を続けることとなる。そのことが、国際人権 の物語をして、より多くの人々にとっての「不条 理な苦痛」の源となり、経済発展、市場経済と いった介入を正当化するものになってきたのでは ないか、と著者は自問する。それでは、国際人権 法をそのような物語の呪縛から解き放ち、その本 来の役割をどのようにして取り戻すのか。著者 は、その問いに、二つの方向性を提示する。
「第Ⅱ部 招喚される他者──女性,第三世界,
民衆,過去」は、いわば各論であり、国際法自体 が排除してきた「他者」をあらためて呼び戻す作 業を行う。
「第三章 ジェンダーの主流化/文明化の使命
──国際法における〈女性〉の表象」では、1980
年代以降、国際人権や国連の活動の中で国際社会 を 席 巻 し た「 ジ ェ ン ダ ー の 主 流 化(gender-mainstreaming)」を取り上げる。ここで前提とさ
れるのは、もちろん、従来の国際法の中で周縁化 され、保護主義的な掌の上に置かれてきた女性た ちである。それを克服してきたCSW(国連女性
の地位委員会)の活動、そして「女性の権利は人 権である」というスローガンのもとにフェミニス ト運動が進めてきた差別撤廃運動、さらには女性 に対する暴力撤廃キャンペーンを描き出す。しか し他方で著者は、ジェンダーの主流化によって行 われることとなった「国際法における知の配置転 換」に潜む権力の作用を著者は見のがすことをし ない。それを著者は、「フーコーやポスト構造主 義の提示する批評概念に触発されて批判的に読み 解いて」いく。そして、実際にジェンダーの主流 化がたどる様々な妥協、保護主義的言説への回 帰、そして運動そのものに内在した「北」の「南」に対する近代の残滓。異議申立の武器がいつしか 制度の保守に取り込まれていく隘路の中にあっ て、フェミニズムや国際法学が持つべき視座を、
著者は提起する。
「第四章 要塞の中の多民族共生/多文化主義
──なぜ「過去」を眼差さなければならないのか」
は、EUを取り上げる。多民族共生/多文化主義 を標榜しながら、その実質は多数派による「多様 性の管理」と非
EU
の創出による要塞化にすぎな いことを、著者は、定住外国人に対するEU
の政 策やヨーロッパ人権裁判所の判決から明らかにす る。そして、そこに絶対的に欠けているものとし て、欧米に植民地主義の過去の清算を迫った2001 年の反人種差別撤廃国際会議(ダーバン)の視座 を提示する。「第五章 新しい人道主義の相貌──国内避難 民問題の法と政治」において、著者は、従来の難 民とは区別された形での国内避難民問題をめぐる
阿部浩己著『国際法の暴力を超えて』
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法原則や国際政治の発展を追う。そこでも著者 は、冷戦終結後さらに深化した北優位の国際法秩 序の実相に切り込んでいく。
「第六章 グローバル化と国際法──『人権戦 略』の可能性」で取り上げられるのは、国家中心 主義を前提とする国際法の中で、局部に押し込め られてきた個人である。そして近年の市民の行 動、特に国内裁判所を舞台に展開するトランスナ ショナル人権訴訟と市民社会が組織する民衆法廷 を考察する。
「第七章 戦後責任と和解の模索──戦後補償 裁判が映し出す地平」で著者は、再度、「過去」
そして被害者としての個人と向き合う。現在もな お引き続く戦後補償裁判の考察を通じて、日本の 政府や裁判所が、伝統的国際法理論を盾に個人や
「過去」を法の他者に押しとどめようとしてきた 行為をきびしく検証する。そこで対置されるの は、過去と現在を二分する法構造の脱構築を目指 す
transtemporal law
の視点である。「海賊と,国際法の未来──終章」は、一転し て、法曹養成教育(法科大学院)に携わる著者が、
国際法自体も法教育の中で周縁化される悲哀によ せて、国際法の歴史を鳥瞰する。海賊を「人類共 通の敵(hotis humani generis)」と同定することに よって構築された国際法や「われわれ」が、また、
同様にテロリストを他者として「われわれ」から 区別していく。国際法はそうした構造を脱却して 新しい地平を切り開くことは可能であろうか、そ のような思いを抱かせる一章である。ただし、こ の章で著者が、近時発展しつつある重大な国際犯 罪に対する国際刑事裁判のシステムについて、
「犯罪化の力学に扇動された国際法」と否定的な 評価のみを与えるのはどうだろうか。国際刑事裁 判所(ICC)をはじめ確立しつつある国際刑事司 法は、少なくともその指向においては、国際法の 周縁に追いやられてきた、戦争や権力犯罪の被害 者そして過去に国際法の光をあてようとする試み
ではなかったか。
このように本書を通じて、著者が試みるのは、
国際法に潜む権力性と暴力性を、周縁化された
「他者」を招喚し、炙り出していくことである。
国際法は、その中立性と合理的思考の装いを以 て、国家やそれを支える国際法学者によって、特 定の勢力の特定の利益を実現し、正当化する道具 として用いられてきた。読者は、なにより著者の 本書における探究の中で、そのような国際法の実 像を過去及び現在にわたって見いだすことができ るだろう。その探究は著者の、国際法と市民社会 の未来への希望によって支えられている。国際法 に携わる者だけでなく、現在の国際社会と政治の 深みに分け入り、そしてその中での市民社会の可 能性を実感するためにも、ぜひ読んでおきたい一 冊である。
他方で、本書に対しては、脱構築やポストモダ ニズムの分析手法にしばしば投げかけられる問題 が同じように提起されるかも知れない。批評のた めに招喚される他者あるいは視座はどのように選 別されるのか、あるいは国際法が法としての一貫 性や体系性を要求されるとすればどのような国際 法の再構築が可能なのか。
2011年にアラブ社会を席巻した民主化革命、あ るいはリビアの事態は、9.11以降「他者」とされ てきたイスラムの人々の中に、経済や政治体制を めぐるさまざまな指向が存在することを明らかに した。それらは、西欧の価値基準をある面では受 け入れ、他面ではかたくなに拒否するという複雑 な立場かも知れない。またそれに対する「北」の 主要国の対応も、人権(保護する責任)を理由に 武力の行使や戦後への介入を正当化するという巧 妙なものである。そうした事態において存在意義 を果たしうる国際法とは何か、本書を読み終えて 読者は、そのような祈りにも似た問を持つことに なるだろう。