真意のはかり難さの研究 : W. D. ハウェルズの場 合
著者 石渡 周二
雑誌名 明治学院大学教養教育センター紀要 : カルチュー
ル = The MGU journal of liberal arts studies : Karuchuru
巻 4
号 1
ページ 39‑47
発行年 2010‑03
その他のタイトル An Apology for W. D. Howell's Infamous Remark : the more smiling aspects of life
URL http://hdl.handle.net/10723/81
真意のはかり難さの研究
W. D. ハウェルズの場合
石 渡 周 二
「 人 生 の 明 る く て 気 持 の よ い 面 (the more smiling aspects of life)」 に焦点を合わせて作品 を書くべきだ, というウィリアム・ディーン・ハ ウェルズがアメリカの同時代の作家に向けた発言 は, ハウェルズの作家としての限界を取りざたし, 切り捨てる際に必ず持ち出される。 アメリカの闇 に眼をふさいだまま, 中産階級の生温い自己満足 臭ただよう風俗小説を書いた作家であり, 中産階 級のための作家という立場を逸脱しようとしなかっ たというのである。 しかし, こうした見方はおそ らく間違っている。
ハ ウ ェ ル ズ は1886年 か らHarper’s Monthly に “Editor’s Study” と名づけたコラムを6年余 りにわたって連載した(1)。 問題の箇所はその1886 年9月号に掲載された文章の中に登場する。 執筆 はおそらく8月以前のひと月のあいだと推測でき るが, だとすると, 同じ年の5月4日, シカゴの ヘイマーケット広場で起こったヘイマーケット事 件の余韻がまだおさまらない頃になる。 事件は, 労働争議における警官隊の職権を乱用した暴力行 為に抗議し, また週8時間制労働確立を訴えるた めに催された集会でおこった。 解散直前に警官隊 に向けて何者かがダイナマイト爆弾を投げ込み, 警官側7名, 労働者側4名の死者の他多数の負傷 者が出た。 爆弾を投げた犯人は判明しないまま, 8人のアナーキストが裁判にかけられ, 翌87年 秋には4名が絞首刑になった。 緊張を高めていた
労使対決を背景に, 外国人排除の熱に浮かれたヒ ステリー状況のなかで公正な裁判が行われなかっ たと判断したハウェルズは, アナーキストという 思想・信条の立場故に裁かれようとしている少数 派の立場に立って公私ともに被告の減刑を求めて 行動したが, 功を奏さなかった。 事件がハウェル ズに少なからぬ影響を与えたことを伝記作者は筆 を揃えて記しているところである(2)。 ハウェルズ は自らのアメリカ観を訂正とはいわずとも, 再検 討を迫られた。 “Editor’s Study” はエイミー・
カプランのいう 「アメリカ・リアリズムの突撃隊 長」(3)としてのハウェルズがリアリズム小説をア メリカに確立するための主戦場として, 文学にか かわる考えや思いを思うまま開陳する場としても うけたコラムである。 「人生の明るくて気持のよ い面」 に焦点を, と主張したのはそうした時期に 書かれた文章であり, 評者たちがいうような能天 気で楽観的なアメリカ観を吹聴するためのもので あるとは信じがたい。 また, この時期にハウェル ズが上梓した作品, とりわけA Hazard of New Fortunes (1891) はハウェルズが作家の社会的責 任をひとときも忘れたことのない作家であること を如実に示している。 ただこの作品も通り一遍の 読み方では 「中産階級の生温かい」 生活を描いた ものと果ててしまうのである(4)。
ハウェルズは1886年1月号に掲載された第1
回目の文章冒頭で, “Editor’s Study” (「編集者 の書斎」) コラム執筆の動機と目的を述べている。
「この書斎でゆったりと座って, 読者の皆さんと いつでも歓迎したい 新刊書から生まれる 話題であれ, また, 読書生活の中から出てくるこ とであれ, 折にふれて文学的関心をひくことがら を語り合いたい」 というのだが, 続けて妙な 「断 り書き」 が現れる。
当然とはいえ, 読者は編集者が話をしている のを遮ることは許されない。 がその代りに, 編集者はじっと我慢をして, できるだけ結論 を急がないようにしたい。 どのようなことで も, もし読者が編集者に異論のあるときは, 公にすることを求めて手紙を書いていただき たい。 編集者というのは読者のおろかな考え を人目にさらすわけにはいかないと判断する と握りつぶしてしまいがちだからだ。 言うな れば, この書斎を率直な議論のできる場にし たいと考えているが, それは主宰する編集者 からみての話で, いわばひとりで行うシンポ ジウムなのである(5)。
ユーモアをまぶして読者との契約をくだけたも のにしているが, メッセージは明白だ。 何をどう 議論するか, 選択権は編集者 (=ハウェルズ) に ある。 編集者 (the editor) と自称する書き手の 立場と読者のそれとのあいだにははなから力の不 均衡があり, 編集者がこの力関係を背景に専門家 として語っているのである。 読み手のとしての読 者は, 専門家として読者に教え・諭す立場にたつ 編集者の発言を一方的に読むだけの受け手になる よう求められている。 だが, 専門家としての編集 者の特権はそれだけではない。 小説はいかにある べきかを説くときのハウェルズの発言は雑誌の読
者ではなく, 現在と未来の作家に向けたものにな る。 引用の後半は 「論破されることを覚悟の上な ら異論を歓迎する」 という, 専門家から専門家へ 向けたメッセージになるのである。 啓蒙家である と同時に専門家としての立場, これが “Editor’s
Study” でハウェルズがとった手法だった。
例えば, Armando (Palacio) Valdesを論じ た文章である。 ここではハウェルズはいつものよ うに特殊から一般へと論を進めるが, 結果として 生まれる記述は, 小説家として適切なものの見方 をテクストの起源つまりはテクストを生みだす創 作哲学の点から考察したものと化していく。
したがって, 小説家に, 現実に何かをつけ加 えたり, 改変・歪曲したり, 隠したりさせな いようにしたい。 小説家はものごとの中から 着想をえるという貴重な才能を自然から与え られているので, 目に映るままにものごとを 描けば見事な作品になる。 だが, 小説家が現 実から強く印象づけられることがないのであ れば, 他人に強い印象を与えようとしても画 餅に帰してしまうのである(6)。
このような記述を読んだとしても読者は読み手 として作品自体についてなんら有益なことを見出 すことはない。 ハウェルズが語っているのは作品 の着想そして執筆のことであって, 読者はどうし たらこの話に参加できるのか, 思案することにな る。 一般読者は, いわば専門家同士の仮想対話を 立ち聞きして学ぶことは許されていても, 対話の 相手とはなりえない。 ハウェルズが他の批評家た ちを相手に選んだときも同様だ。 「今日英国や米 国でおこなわれている批評のほとんどは 中略 誤った原理に基づき, 堕落した状態にあり, ひど いものである。 中略 それ自体まがいものであ
るので, 独創的な作品を前にしても正常でないと するほか思いがいたらない」 (Criticism and Fic- tion,27) と, 自らの批評の実践との違いを際立 たせながらハウェルズは断言している。 ここでも 読者は専門家同士のあいだでおこなわれる論議を 傍聴するだけである。 ときに謙虚にふるまうこと があるにしても, こうした主張をするハウェルズ の立場は何が正しいことなのか把握している専門 家中の専門家のもので, アメリカ社会における小 説本来のあり方をわきまえていないとハウェルズ が考える現在・未来の専門家たちに向けて言葉の 銃弾を放つ。 仮想対話はまさに論戦となる。 ハウェ ルズが展開したリアリズムはそれが描いた世界と の関係だけでは理解できないというカプランの指 摘は, こうした “Editor’s Study” 自体がもつ二 重性を了解するうえで考慮する必要があるだろう。
リアリズムは小説という様式のなかでおこなわれ た, ライバル関係にある表象の方法との討論であ るというカプランの指摘は正鵠を射ている。 ハウェ ルズは批評ではもちろん作品でも, リアリズムの 真実の価値を現実の生活に忠実であるという点だ けでなく, 大衆向けのジャーナリズムに対抗する 点にあると主張している(7)。
ハウェルズが “Editor’s Study” の連載をまと めて, Criticism and Fiction 批評と小説 と題 して1891年に刊行すると, 英国から出た書評は 芳しいものではなかった。 同書の, 「ほとんど疑 いのないこと」 として, 「アメリカ人であればだ れでもアメリカ小説」 の中に感じとれる 「思索と 精神の繊細な働き」 をイギリス人はどうしても理 解することができないと指摘し, その理由として, イギリス人は 「がさつな理解力のために, 簡単に わかる大ざっぱなものでないと現実感をえた気が しないからだ」 と述べた一節 (Criticism and Fic-
tion,60), とりわけ 「がさつな理解力 (thumb- fingered apprehension)」 という箇所が書評者 たちの気にさわった, と1959年版の編者は注記 している(8)。 実は, この箇所はまさに 「人生の明 るくて気持のよい面」 が登場する文章の一部にほ かならない。 文章全体はイギリスとアメリカの小 説を比較し, 後者の現代性と優位を語ったもので ある。
ハウェルズがアメリカの小説を論じてイギリス の文学界を騒がせたのはこれが初めてではない。
そのときも問題になったのはイギリス小説の旧弊 さの指摘だった。 波風をたてるきっかけとなった のは,Century誌1882年11月号に発表した“Mr.
Henry James, Jr.” と題するエッセーである。 当 時, イギリスにあって精力的に創作活動を続けて いたヘンリー・ジェームズの仕事を詳細に紹介し たものだ。 新人とはいえないが未だ文名を確立し たとはいえなかったジェームズを高く評価するう ちに筆がすべったのか, 結果的にハウェルズの小 説の現状に対する見解を披露する場になり, 英語 で書かれた小説の本家本元であるイギリスの大家 とその小説作法に向けた批判となった。
エッセーの眼目であるヘンリー・ジェームズを 筆頭とする新しい世代の作家の仕事によって小説 はより 「洗練された芸術」 となったとハウェルズ は述べる。 この優れた才能をもった新しい世代の 作家たちは, 英国ヴィクトリア朝初期の作家が定 法とした奇矯な登場人物を軸に奇想天外な筋立て や描写に走ることを排している。 人間性の 「あり ふれた (wonted) な面」 を注意深く観察し, そ のなかから強烈さはなくてもじつはきわめて重要 な動機が働いている倫理的な劇を典型として提出 している。 作品の叙述の流れを無視して勝手気ま まに割り込んでくる語り手の手法に頼ることも潔 しとしない。 こうして, (ジェーン・オースチン,
そしてジョージ・エリオットを例外に) フィール ディングをはじめ, ディケンズ, サッカレーはも ちろんトロロープも含めて, イギリス小説の大家 たちや同時代作家のほとんどが 「過去の作家」 と して否定される(9)。 「ありふれた面」, そして 「倫 理」 の協調と, ハウェルズにしてみると, かねて から持論としていたリアリズム小説の理念を述べ たものだった。 しかし, 文化的後進国のアメリカ からの発言はイギリス人の神経を逆なでした(10)。 その意味で, イギリスの文学界とってハウェル ズが唱えるリアリズム小説は英語圏の小説の新興 勢力からの声だった。 しかし, 皮肉なことに, 問 題の “Editor’s Study” は冒頭からあるイギリス 人評論家の手になる英米小説比較論の紹介から書 き起こされている。 ハウェルズはこれをリアリズ ムによるアメリカの現代小説の優位性を認めたも のとして, その抜粋を1ページ以上にわたって紹 介している (Criticism and Fiction, 5859)(11)。 リアリズム擁護の先頭に立っていたハウェルズは このイギリス人評論家の手になる論考を奇貨とし て, 時代遅れの文学的慣習を脱したリアリズムに よって真のアメリカ的経験に内在する状況に忠実 な文学を求めていた持論を展開する場としたので ある。 「人生の明るく気持のよい面」 はこのアメ リカ小説優位論をダシに語ったリアリズム小説の あり方を説くなかで生まれた。 そのなかには,
「実際のところ, 生まれながらに与えられている 権利を十分に享受することを選択したアメリカ人 は英国人とはまったく別の世界に住み, [中略]
別の言語を話している」 (同, 61) という箇所が あり, 独立宣言に見られる 「生命, 自由, 幸福の 追求」 に対する生得の権利に言及しながらアメリ カ人を定義している。 文章全体をみるに, これは リアリズム論であると同時に, ハウェルズにとっ てのアメリカがいかなるものであったのかを吐露
した文学者のアメリカ論でもある。
ハウェルズが先の評論家の論考からとりだした 抜粋のうち, 我われの主題との関連で注目したい 箇所がいくつかある。 他者に対する 「楽観的な信 頼」 こそがアメリカ小説の強みである, アメリカ 作家の作品の 「ページのいたるところに, どこか で会ったことのある知り合いが率直な姿をみせて いる」, アメリカ小説のもつ 「自然さは, ありふ れた日常生活の雰囲気につつまれており, アメリ カ小説が人をひきつけてやむことのない大きな魅 力のひとつである」 (Criticism and Fiction,59) といった指摘である。 アメリカの社会に対する根 本的な信頼, そしてアメリカの現実を忠実に反映 した作品という, ハウェルズのリアリズムの根底 を支える理念にそった受けとめ方である。
「人生の明るくて気持のよい面」 発言に関する 最大の問題点は, それがあたかも公序良俗を考慮 して無菌化された文学を推奨しているのではない かという点にある。 作家としての社会的立場を人 一倍意識していたハウェルズが, 同時に職業とし ての作家の生き方に精通していたのは事実である。
それで, 「読者を意識せずに執筆しているハウェ ルズを想像することはできない。 時代の流れに逆 らうことも, 先んじることもなかった。 ハウェル ズは徹頭徹尾, プロの作家だった。 完全にという か, 申し分のないほど見事に市場の求めるものに 通じていた」(12)という批判もある。 ハウェルズの 書くものといえば, 新しく生まれてきた都会に住 む平凡な中流階級の生活である。 ハウェルズの家 族自身がまさにその一角をなしていたので, 実態 は知りすぎるほど知っていた。 資本の集中と独占 が進むなかで, ますます富が一部の富裕層に流れ ていく産業資本主義体制の世の中をのろいながら も, その体制がもたらす経済的な恩恵をうけ, 物 質的な安楽を享受する立場にある。 ハウェルズ自
身も例外でなく, 自らの文化的財貨としての価値 を高めることで生まれてくる経済的利益を十二分 に認識して, また享受もしていた。 だが, 同時に そうした中流階級の生活がはらんでいる空虚さに いらだってもいた。 耐えることを余儀なくされて いる矛盾に満ちた生活を友人に半ばおどけながら も, 「 家庭生活を営む支出を賄うために働きづめ で 火のなかにいるようだ。 そのうちゆでダコに なってしまうに違いない。 娘にはこの卑しむべき 世界で生きる道を開いてやらなきゃならない そんな機会がなかったぼくはこうしてずっとまし ででいられるというのに。 息子は息子で, 学校へ やり, 大学へ進学させなきゃならない ぼくは そうしなかったお陰でずっと賢くなったというの に」(13)と打明けている。
世間の顰蹙を買うような題材には手を出さずに, 読者の動向に周到な目配りをしながら作品をもの にするという流行作家顔負けのイメージだが, こ れほどハウェルズの実像から遠いものはない。 実 際のハウェルズはそれほど単純に断じるわけには いかない。 ハウェルズが職業作家としての生き方 に精通していたというのは, 著述業としての作家 という仕事に十分に安定した経済的報酬をもたら す術を会得していたということ以上でも以下でも ない。 世間に受容されることと, 迎合することの 違いはわきまえていた。 ハウェルズはアメリカで も早くからゾラの作品を擁護し, しかも熱心さに おいて人後に落ちない, そういう作家であったこ とを忘れてはならないだろう。 売春婦に身を沈め ていく若い娘をヒロインにしたスティーヴン・ク レーンのMaggie : A Girl of the Streetsや, 淫欲 と強欲故に破滅をまねく男女を描いたフランク・
ノリスのMcTeagueは, 扱っている題材や主人
公の生き方が物議をかもしたが, ハウェルズは高 く評価している(14)。 すべてハウェルズが 「冷酷
な存在の問題」(15)と名づけたことがらに正面から 取り組んだ作品である。 リアリズム文学が扱うべ き領域・題材を制限している, との批判はあたら ない。 ハウェルズ自身, 例えば, A Modern In- stance (1882) では, 大きな社会問題となってい ながらほとんどタブー視されていた離婚問題をと りあげ, 作品を展開させる軸としている。 また, A Hazard of New Fortunes (1890) ではハウェ ルズが社会意識のさらなる深まりを見せて, 南北 戦争後, 農業国から産業資本主義国へと大きな変 貌をとげる米国社会にわき上がってきた問題に取 り組んだ作品である。 作品の外でも, ハウェルズ がためらわずに少数派の立場に立つ人間であるこ とはヘイマーケット事件への関わり方でも明らか だ。 公然と, また人目につかない形をとって, ハ ウェルズは容疑者のアナーキストたちを弁護した のである。
それにしても, ヘイマーケット事件は現代アメ リカの真の姿を反映した作品を書こうとするハウェ ルズにとって格好の素材となった。 事件はアメリ カの影の面を明るみに出した。 A Hazard of New Fortunes (Harper’s Weekly誌1889年3月23日 号から11月16日号に連載) はヘイマーケット事 件を生みだした現代アメリカに対する作家ハウェ ルズの答えである。 ハウェルズはアメリカ社会の 危機の中で, 社会的絆 (the social bonds) を強 める必要を感じ, そのあり方を探求した。 その基 礎となるのは人間としての共感である。
この作品でハウェルズはクライマックスに路面 鉄道のストライキを利用している。1889年にニュー ヨークで実際にあった交通労働者のストライキの 様子を詳細に調べて書いている。 そして, 簡単に 受けとめることはできない重大な点は, 作者の同 情が明らかに労働者側にあるということだ。 当時 はまだ圧倒的に資本家側が強くて, 世間でも資本
家側を擁護し, 労働者側を非難する議論の方が強 かった時代だった。 その点, あくまで両者を客観 的に描こうとするはずのリアリストとしては, 注 目に値する姿勢といわなければならない。
主人公としては作者自身を思わせる西部出身の ベージル・マーチが一応設定されている。 マーチ は作家として身を立てる夢をもって新聞記者をし ていたが, ボストン生れのイザベルと結婚生活に 入ると, 文学の道をあきらめ, ボストンで保険会 社に就職した。 2児を得て自己満足的な生活をす るうちに中年を迎えている。 このマーチが長年の 眠りから覚め, 新しい運命を開くべくニューヨー クに移り住む。 これまでにない新しい考えの雑誌 を刊行しよう, と友人から誘われて半信半疑だっ たところ, 妻イザベルに尻を押されて編集者とし て文学に関わることになったのだ。
ボストン人として自己完結した生活を送ってい たマーチとイザベルが繰り広げる新天地での住み か探し, アパート探しを通して, ニューヨークの あり様が写実的に描かれると同時に, マーチが人 間的 「同情心」 に目覚めていくことが示唆される。
マーチは信興成金ジェイコブ・ドライフーズの 所有する雑誌の編集者になり, いろいろな人物と 知り合う。 ジェイコブの息子で, ジェイコブに対 立して聖職者になる夢を否定された, 理想主義的 な息子コンラッド, ドイツから亡命後, 南北戦争 に従軍し, 隻腕を失った社会主義者リンドー, 画 家として懸命に独立して生きようとする若い女性, 奴隷制度こそがアメリカの社会問題を解決するカ ギだと信じてその復活を説いてやまない南部出身 の老人といった人物が登場し, 皆それぞれおのれ の新しい運命 (new fortunes) を切り開こうと 努力を重ねている姿が描かれる。 マーチはその苦 悩を自分の問題として理解しようとする過程を通 して, 社会や人間の理解を深めていく。
マーチが編集長として参加した雑誌はEvery Other Weekで, そのスポンサーのドライフーズ は農業出身だ。 ドライフーズは, 19世紀の初め にトーマス・ジェファーソンがアメリカ人の理想 として唱えた独立自営農民そのままの平凡な農民 だった。 それが, 土地に天然ガスが出たのがきっ かけで大金を手にし, それをもとに金融・投機の 世界に打って出て大金持ちになった男である。 ド ライフーズを通して, 南北戦争後にアメリカが農 業国から産業資本主義による工業国へと大きく成 長していくこの時代の大きな問題である 「成金 (New Rich)」 の問題が展開されている。 それに 加えて, 貧困, ストライキ・社会主義者の登場, 警察の挑発など, 社会問題への意識も積極的に取 り上げられる。 例えば, 貧困問題の扱いなどは巧 みである。 アパート探しをする際にニューヨーク における貧困と経済格差のありさまをマーチとイ ザベルは目にするが, 初めは風景のひとつとして 見過ごし, いわば見物・観光の対象とする。 しか し, それをニューヨークの確かな現実の一面とし てふたりが次第に認識していく様子がていねいに 描かれる。 それがマーチの人間的 「同情心」 の深 まりと重ね合わされる。 カニ漁船の様子を描いた 小説のような唐突感, プロパガンダ物語といった 印象は与えない。 それからまた, 画家という職業 に自分を賭け, 自立して生きていこうとする女性 を通して, 「新しい女 (the New Woman)」 の 問題も出てくる。 これはアメリカの過去を現在に 凝縮した社会小説でもある。 その中でモラルの問 題が展開する。 ドライフーズはマーチに, 社会主 義者リンドーを解雇するよう命じられる。 自分の 鼻先で熱弁をふるって社会主義の正当性を主張さ れたことを資本主義の権化ドライフーズが許さな かったのだ。 外国語に堪能でEvery Other Week 誌の翻訳ものを請け負っていたリンドーは, 少年
マーチに外国語を教え, 文学の世界へ導いた恩人 でもあった。 リンドーはあたかもヘイマーケット 事件に巻き込まれたマナーキストたちのように, 政治的意見故に断罪されようとしていた。 マーチ は良心と保身の間に悩むことになるが, マーチは 最終的に人間としての絆を優先する選択をする。
A Hazard of New Fortunesは全体として, 大 都会ニューヨークを詳細に観察・描写した都市小 説として先駆的な作品となっている。 同時に, ニュー ヨークという巨大なメトロポリスにアメリカを代 表させ, その全貌といわずとも, それを展望しよ うとした作品である。 世上の取り沙汰に小心翼々 とし, 文学が扱うべき素材を狭い枠のなかに閉じ 込めようとした作家の作品ではない。
アメリカの作家はアメリカの生活の 「明るく気 持のよい面」 に焦点を当てた作品を書くべきだと いうハウェルズの主張は, 公序良俗に配慮して小 説の扱うべき領域・題材を狭くとらえようとした ものではなかった。 ハウェルズはおそらく2つの 点を考えていたに違いない。 ひとつは, ハウェル ズがアメリカの生活の 「明るく気持のよい面」 と いうとき, アメリカの現実というものを忠実に描 いているアメリカ文学をリアルズムの作家につく りだして欲しいという希望の表明である。 もうひ とつは, 作家は自分の作品が読者に与える影響に ついて十分意識すべきだという戒めである。
問題の箇所に先行する部分で, 「 砂漠へ 連れ 出されて銃殺されたり, 仕舞いには極寒の冬にダ ルースに送られたりしたアメリカ人作家はほとん どいない」 とハウェルズは述べている。 これはド ストエフスキーが政治的意見故に処刑される寸前 に減刑され, シベリアに流されたことを踏まえて いるのだろう。 前述したように, 「自由の国」 ア メリカの市民として 「生得の権利」 をもったアメ
リカの作家はその作品の内容いかんで銃殺された り, 冬は極寒の地となる五大湖の最北に流刑され たりすることはないというのである。 そして, 次 のように続け, 問題の箇所にいたる。 当時のイギ リスを始めヨーロッパ諸国の労働者の境遇を考え ると, あながち不人情だ, 不誠実ということには ならないだろう。 ハウェルズの目はあくまでもリ アリストのそれである。
一人前の大工や配管工が4ドルの日給を要求 してストライキをする国では, 飢えや寒さで 苦しむ人たちは確かにごく少数であろうし, 階級間の不正も取るに足らないものである。
したがって, わが国の作家たちは, いかにも アメリカらしい, 人生の明るく気持のよい面 に関心をもち, 社会的関心事よりも個別的な ものの中に普遍的なものを探求しようとする のだ。 「新味がなく平凡だ (Commonplace)」
というそしりを受けるのも覚悟の上で, 米国 の裕福な実情を忠実に描くことは真価を発揮 することなのである。 (Criticism and Fic- tion,62)
ハウェルズがアメリカの生活の 「明るく気持の よい面」 というとき, アメリカの現実というもの を忠実に描いているアメリカ文学をアメリカの作 家につくりだして欲しいという希望の表明なので ある。 アメリカ小説の強みはその 「楽観的な確信」
にあり, また, アメリカ人は 「繁栄が広くいきわ たるなかで, 暗い影や不平等がほとんどない」
(Criticism and Fiction,61) 国に暮らしているの で, アメリカの作家は 「いかにもアメリカらしい, 人生の明るく気持の良い面に関心をもつ」 のであ る。 ハウェルズの論理は単純すぎるくらい単純だ。
アメリカの現実というものが人生の 「冷酷な」 と
いうより 「明るくて気持のよい」 面を特徴とする のであれば, そして, 真にアメリカの小説がアメ リカの生活を可能な限り忠実に反映するのであれ ば, アメリカの作家は人生の暗い面ではなく, 明 るい面に焦点を当てた作品を書くべきだというこ とになるのである。
ハウェルズが考慮したいまひとつの点は, 作家 の社会的責任にかかわってくることがらだ。 アメ リカの作家は自分の作品を読む読者が感受性のつ よい若い女性たちであることをつねに意識しなけ ればならない, ということである。 19世紀のア メリカでおそらくもっとも熱心に小説を読んだの は若い女性たちであったので, アメリカの小説家 は自らが世に送り出す作品がどのような小説であ るのか, 吟味する責任がある。 A Hazard of New Fortunesに登場する出版業界の鬼才で, Every
Other Week誌で経営と宣伝を担当するマーチの
同僚フルカーソンは読者層の4分の3が女性であ ると明言している(16)。 フルカーソンはこの認識 をもとに的をしぼったマーケティングに励むのだ。
とはいえ, ハウェルズをはじめ同時代の作家の一 部にとっては重大だったのは, 現実のあまりにあ さましい面を誇張した文学作品はアメリカの現実 の誤ったイメージを若者に与えかねないという懸 念だった。 読者の趣味に配慮しておもねるという マーケティングの戦略ではない。
誤解をさけるために, 重ねて言っておかねばな らないが, この立場はリアリズム小説というジャ ンルが扱う題材・領域というよりは社会的責任に かかわることである。 ハウェルズはリアリズム文 学が扱うべき領域は, つまりリアリズム小説がよっ て立つべき題材は道徳律によって制約されてはな らないと考えていた。 制限があるとすれば, それは リアル・現実であるという矩をこえてはならない ということだった。 この点,MaggieやMcTeague
のような冷徹な目をアメリカ社会に向けた意欲的 な作品にハウェルズが積極的に支持をあたえたの は当然なことだったのである。
悪名の高い 「人生の明るくて気持のよい面」 に 焦点を合わせた作品を, というハウェルズの発言 はリアリズム作家が使うことのできる題材につい てハウェルズが最終的に述べたことではなかった。
それはアメリカの現実の中核をなす特質について のひとつの見方であり, アメリカ例外論のひとつ なのである。 それをそれと認めずにおこなわれる 批判はむなしい。
注
(1) 連載をハウェルズ自身で選択・加筆して刊行し たのがCriticism and Fiction (1891) である。
(2) ヘイマーケット事件と事件に対するハウェルズ の関わり方に関しては以下を参照。 Edwin H.
Cady,The Realist at War(Syracuse : Syracuse University Press, 1958), pp.6780, な ら び に Kenneth Lynn, William Dean Howells : An American Life (New York : Harcourt Brace Jovanovich,1970), pp.288292.
(3) Amy Kaplan, The Social Construction of American Realism (Chicago : University of Chicago Press,1988), p.15.
(4) 例 え ば , Stanley Corkin, Realism and the Birth of the Modern United States : Cinema, Lit- erature and Culture (Athens : University of Georgia Press, 1996), pp.1750, およびRobert Shulman, Social Criticism and Nineteenth- Century American Fiction (Columbia : Univer- sity of Missouri Press,1987), pp.241267. (5) William Dean Howells, Editor’s Study, ed.
James W. Simpson (New York : Whiston, 1983), p.1.ハウェルズがCriticism and Fiction に含めなかった箇所も収めた総集版。
(6) William Dean Howells,Criticism and Fiction and Other Essays,ed. Clara M. Kirk and Rudolf Kirk(New York : New York University Press, 1959), p.38.これ以降, Criticism and Fictionか らの引用はこ の1959年版を使い, 引用の末尾の カッコ内に該当ページを数字のみで示す。
(7) Amy Kaplan, The Social Construction of
American Realism,p.13.
(8) “Notes to Part I :Criticism and Fiction,” No.
23, in Howells,Criticism and Fiction,p.387. (9) William Dean Howells, “Henry James, Jr.,”
Century Magazine,November1882, p.28. (10) Michael Anesko, Letters, Fictions, Lives :
Henry James and William Dean Howells(New York : Oxford University Press,1997), pp.168 169.
(11) ハウェルズはこの評論家を“an English essay- ist(Mr. E. Hughes)”と記している。 このHughes 氏に関する詳細は不明。 名前をカッコでくくり, 氏の素性はどうでもよい, 論考の中味とイギリス 人であることに注目せよ, というハウェルズの声 が聞こえてきそうだ。
(12) Aneskoが引いたAlfred Kazinの言である。
See Anesko,Letters, Fictions, Lives, p.187.と
はいえ, Kazinその人がハウェルズの作品自体
を評価していることは広く知られていることであ
る。 See Alfred Kazin,On Native grounds : An Interpretation of Modern Amreican Literature (New York : Harcourt Brace,1942), Chap.1. (13) William Dean Howells, Selected Letters,Vol.
3, ed. Robert C. Leitz, Richard H. Ballinger and Christoph K. Lohmann(Boston : Twayne, 1980), pp.120121.
(14) 伝記作者のKenneth Lynnは, ハウェルズの
称賛はMaggieがうけた数少ないもののうちのひ
とつであること, そして1896年, 別の出版社か ら再出版された際にハウェルズが進んでまえがき (Introduction) のペンをとったことを記してい る。 See Lynn,William Dean Howells,p.312. (15) William Dean Howells,Literature(1899), p.
24.
(16) William Dean Howells,A Hazard of New For- tunes,ed. Phillip Lopate (New York : Penguin Books,1990), p.126.