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プリンス・アルバート ーサブ・リーダーの条件一

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(1)

プリンス・アルバート

ーサブ・リーダーの条件一

黒岩 徹

キ ー ワ ー ド : プ リ ン ス ・ ア ル バ ー ト サ ブ ・ リ ー ダ ー 副官

P r i n c e  A l b e r t ,  s u b ‑ l e a d e r ,  f o l l o w e r s h i p  

19

世紀、大英帝国は、その頂点に立った。日の沈むところなしとされた広大な版図は、英国 の軍事力に支えられた植民地経営の成果であったが、それを可能にしたのは、経済繁栄である と同時にヴィクトリア女王治世下の政治的安定があったからである。ヴィクトリア女王は、大 英帝国繁栄の基礎を築いた立役者である。だが彼女を支え、帝国をより強固にしたのは、その 夫君プリンス・アルバートだった。ドイツの公国の次男としてヴィクトリア女王の夫となった 彼は、女王である妻をたて、新しい故国となったイギリスのために献身的に尽くした。その行 動は、女王を支える副官、サブ・リーダーあるいはナンバー

2ともいうべき指導者の一つの好

例である。プリンス・アルバートの生涯をたどりながら、トップに仕えるためにはなにが必要 で あ る か に つ い て 考 え た い 。 そ れ は リ ー ダ ー シ ッ プ と い う よ り フ ォ ロ ワ ー シ ッ プ

( f o l l o w e r s h i p )

の研究でもある。(なおサブ・リーダー、ナンバー2、副官という言葉は厳密に いえば、概念がそれぞれ異なるが、ここではリーダーに従い、支えるものという意味で同義語

として使用する)。

1

「出会い」

1オにならずして父ケント公を失ったヴィクトリアは、いずれイングランドの女王になる高 位の人として小さいときから大人の間で育てられ、叔父レオポルドを父親代わりに尊敬してき た。レオポルドは、ドイツのコーブルク家の王子だったが、後のジョージ4世の長女シャーロッ トの夫となった。シャーロットがいずれ女王になるはずだったから、レオポルドは、摂政とし て英国の頂点にたつはずだった。だがシャーロットが難産のあげく、急死してしまったために、

一人身となった。英国政府からの給付金で十分生活できたレオポルドは、姉ヴィクトワールと ケント公が結婚して生まれたヴィクトリアに目をかけた。姉の経済的苦境を救っただけでなく、

ケント公に代る父親役としてヴィクトリアに接した。そのレオポルドが、ヴィクトリアの夫候 補として、兄エルネストの次男プリンス・アルバートに目をつけた。彼にとっての甥と姪、つ

(2)

まりいとこ同士を姿わせようと画策したのだ。

コーブルク家はじめドイツの公国は、各国の王族の花嫁、花婿の供給地となっていた。ヴィ クトリアの母ケント公妃の妹、アントワネットは、ブッテンブルク公妃となっていたが、その 息子たちアレクサンダーとエルネストが

1833

年ヴィクトリア十四オのとき、彼女の住むケン ジントン宮殿を訪れた。訪問の目的は、花婿としての売り込みだったが、適齢期前のヴィクト リアにとっては早すぎる話だった。さらにオランダのオレンジ公国から二人の王子たちがやっ てくるなど、 ヴィクトリア獲り の試みがいくつも繰り広げられた。

ヴィクトリアの信頼する叔父レオポルド(すでにベルギー国王になっていた)が花婿候補と して胸に温めてきたプリンス・アルバート(実兄ザックセ・コーブル・ゴータ公爵の次男)は、

1836

年兄エルネストと英国を訪れた。

17

オのアルバートは、舞踏会、晩餐会など打ち続く行 事に疲れて、はやばや自室にひきこもってしまうほど、体力もなく、少年の面影を残していた。

それでもヴィクトリアは好印象を受け、 2人の従兄弟について日記に「彼らを見れば見るほど 楽しくなり、愛してしまう。・・・彼らはよく学んでおり、賢い。とりわけアルバートはそう だ。 2人の中で最も思慮深い。アルバートは朝食のときをはじめ、いつでも面白かったし、賢 い機知あふれた答えをした」 1と書いている。

1837

年ウィリアム

4

世の死去でヴィクトリアは

18

オにして女王となる。老いた前国王と まったく違う若き女玉に国民は、歓喜した。枢密院のメンバーたちも、娘か孫の年齢にもかか わらず、一種の威厳をもった新女王に安堵と長敬の念をもった。ヴィクトリアは、女王として の仕事を精力的にこなしていった。彼女は日記にこう記している。「私はとても多くの情報を閣 僚から受けている。しかし、それがとても面白い」凡

女王としての職責をはたすために、若い女王には、やはりアドバイザーが必要だった。その 役をつとめたのが、メルボーン首相であった。首相はホイッグ党の老練な領袖として英国政治 に君臨していたが、ヴィクトリアにとっては、父親的存在にもなった。それまで父親的役割を はたしてきた叔父レオポルドがベルギー国王としてロンドンを去っていただけに、メルボーン がその代理としてうってつけだった。

57

オの一人身の貴族。娘を亡くした後だっただけに彼も ヴィクトリアを娘のように養育する責任を感じていたといわれる。ヴィクトリアは書いている。

「彼(メルボーン卿)と一緒だととても安心できる」3。7ヵ月にして父を亡くした彼女は常に父 親的人物を必要としていた。夫となるアルバートがいずれその役を引き受けることになるだろ

叔父レオポルドが、夫候補として再度アルバートをロンドンに送ったのは、ヴィクトリアが 女王としての活動も 2年を過ぎ、トップの座に精神的充実を覚えていたときだった。それだけ に、結婚間題を先送りにしようとする姿勢がありありだったし、叔父レオポルドに「たとえア ルバートをとることになっても(結婚するとの意)、今年には最終的約束はできませんし、早く

52 

(3)

プリンス・アルバートーサブ・リーダーの条件一

とも今後 2、3年以内にそのようなことは起こらないでしょう」 4と手紙を送っている。だが案 ずるよりは産むは易し。ウィンザー城を訪れたアルバートを見るなり、ヴィクトリアは恋にお ちてしまった。メルボーン卿に「結婚に関しての意見を大いに変えました」と語り又翌日決意 を固め、アルバートに結婚を申し込んだ。 2人は、正式に婚約し、結婚式を待つだけとなった。

翌年

1840

2

人の結婚式がセント・ジェームズ宮殿王宮附属礼拝堂で行われ、アルバートは、

婿養子的存在としてイギリス王家の一員となった。

2章 「サブ・リーダーとして」

トップの指導者を支えるサブ・リーダーの第一にして最大の条件は、トップにならないこと である。もしトップの座を狙うような人物だったら、けっしてナンバー 2にはなれない。リー ダーのいうことを唯々諾々と聞くだけでは、よりよきナンバー 2にはなれないが、リーダーの リーダーシップを左右するような決定的なことに関して、リーダーに逆らうことが許されない。

もし決定的に逆らうような行動にでるのなら、サブ・リーダーとしての地位を失う。

歴史上最大のナンバー 2といわれた周恩来の政治的人生を見ていくと、彼が共産党主流の中 にいながら、トップの座をねらわなかったことが分る。中国共産党の指導者が、陳独秀、龍秋 白、李立三、王明、毛沢東と替わっていったにもかかわらず、つねにナンバー 2、あるいはナ ンバー 3としてトップを支えてきた。不倒翁(中国の起き上がりこぼし)と椰楡されながらも、

彼が中国政治の主流からはずれなかった最大の理由は、最高の政治的指導者になろうとする意 志を示さなかったことにある。

この点アルバートの場合、制度的・身分的にトップになる心配も可能性もなかった。結婚し たときから女王の地位を脅かす恐れはなかったし、どんなにがんばってもナンバー 2の地位で 留まるだけだった。問題はサブ・リーダーになれるか、有能なナンバー 2になれるかどうか、

であった。それを知っていたからヴィクトリアは当初からアルバートを摂政にしようとしたし、

財政的にもアルバートのために年金の額を高くしようと努力した。だが、議会とぶつかる。

ヴィクトリアが目指したのは、ドイツの王子であるアルバートをイギリスの階級社会で認め させることだった。まず彼を「

KingConsort ( P r i n c e  Consort

「摂政王子」より位の高い、国 王に准ずる摂政)」にしたいと議会に要請した。トーリー党を中心に議会から反対が出て、アル バートは摂政の称号どころか、貴族の地位も得ることができなかった。後、アルバートは女王 に万ーがあったときに皇太子または皇女が成人するまで固王の代理としての「摂政」に任命さ れるが、はじめはドイツ人への反感からなんの称号もえられず「女王の夫」でしかなかった。

また年金にしても、要求をねぎられ、叔父レオポルドがもらった年金額5万ポンドにも満たな い 3万ポンドというヴィクトリアにとってきわめて不満の残る額で議会と決着がついた。ヴィ

クトリアは、トーリー党の大立て者ウェリントン卿(ワーテルローの戦いでナポレオンを破っ

(4)

た英雄)がまった<役に立たないと怒り、日記にウェリントンを「邪悪でまぬけのあの老公爵」

と誹謗し、「極悪非道な者たち、お前たちトーリー党全員をいつの日か懲らしめてやる。復讐、

復讐」とかきなぐっている見

アルバートは、結婚後、イギリス階級社会の中で自分の公的地位がないことを知っで愕然と する。女王の夫としての地位以外、イギリス貴族にもなれなかったし、枢密院のメンバーにも なれず、王室のいかなる法的地位もないことを知った。

107

年後、ギリシャ国王の甥であった プリンス・フィリップがエリザベス王女と結婚し、王女の女王就任で「女王の夫」になったと き、自分に全く法的地位のないことに気付いたの同じである。フィリップ殿下は、枢密院会議 にも、女王と同じ正面人口からは入れてもらえず、横からそれもメンバーでない臣下の入口か ら入るように指示され、激怒した。「おれはたんなるアメーバーか」と叫んで物議をかもしたの である互アメーバーとは、アメーバーのように増殖することのみを期待された、子孫を産むた めの道具であるとの怒りの表現である。アメーバに雌雄の別がなく、フィリップ殿下が男のア メーバーとは生物学的にいえないにもかかわらず、女王の夫としてベッドの中での役割しかあ たえられていない、と思ったとき、誇り高かった男には耐え難かったのだ。

だがアルバートは、その状況に耐えて自分の役割を見つけることに精力を注いだ。一つには、

ヴィクトリアの秘書的役割をはたすことだった。ウィンザー城で婚約した時に、書類と令状に 署名したヴィクトリアの脇にいたアルバートは「親切にも彼女のために吸い取り紙を使ってイ ン ク の 跡 を 乾 か し て く れ た 。 こ れ は 、 彼 の 未 来 の 公 的 任 務 を ま さ に 象 徴 し て い た 」 8 すなわち彼のヴィクトリアとの公的関係は、彼女が書いた書名のインクの跡を乾かすような、

下積みの仕事をこっこっこなしていくことだった。結婚した後もヴィクトリアの最も有能な補 佐官、秘書官として仕えたのである。それによって実は政治的発言力を、増していく。

その際、最も重要なことは、サブ・リーダーとしての第二の資質、「リーダーに忠実

( l o y a l )

である」という鉄則を、アルバートが生涯守ったことである。アルバートは、その後独自の決 定をする場面に何度も直面するが、判断基準は「ヴィクトリアのためになるかどうか」であっ た。生涯ナンバー2であることを選択した彼は、自分の妻であり、国王のヴィクトリアに生涯 忠実だった。

このトップに忠実でなければならないというのは、ナンバー2の永遠の責務であり、役割で あった。米政治のナンバー2副大統領職をみればこれが鮮明になる。過去の副大統領の選出を 基準を見れば、大統領への忠節度の高さか、大統領候補の選挙に有利となる大選挙区出身であ るかどうかである。たとえ後者であっても大統領当選後に副大統領が政治的影響力をもっては ならなかった。副大統領、すなわちナンバー

2

は、大統領の政治運営に

D

出してはいけないの

ウッドロウ・ウィルソン大統領の下で副大統領をつとめたトーマス・マーシャルは、 8年間の

54 

(5)

プリンス・アルバートーサプ・リーダーの条件一

任期中、政策決定にはまった<参加させてもらえなかった。彼は副大統領職について、璧え話 で自嘲的に説明している。一「昔二人の兄弟がいた。一人は海の仕事にでていってしまった。

もう一人は副大統領に選出された。二人ともその後どうなったか、だれも聞いていない」,0

忠節度、選挙への考慮から選ばれれば副大統領は当然、政治力に欠けていた。副大統領になっ てからも大統領に忠実であることを要求されるため、大統領辞任後には、大統領の業績によっ て副大統領の資質が判断された。良きにつけ悪しきにつけ、副大統領は大統領の影を引きずっ ていくのだ。大統領の任期満了の際、批判や中傷にさらされて退陣するのがほとんどである。

ということは、その誹謗、非難の声は、副大統領にも投げられる。だから、米国大統領の中で、

大統領の死や辞任以外で現職副大統領がそのまま大統領になったのは、わずかマーティン・

ヴァン・ビューレンとジョージ・ブッシュしかいない。

l o y a l

という言葉は、忠実と同時に誠実であることをも意味するが、アルバートは女性関係で も妻に誠実だった。宮廷に出入りする女性には美貌や性格の魅力的な人物も多かったが、アル バートは見向きもしなかった。ヴィクトリアと9人もの子供をつくり、生涯浮いた噂がなかっ た。その点でもヴィクトリアに

l o y a l

であった。

だがいかに副官がリーダーに忠実であっても、リーダーが副官を全面的に信頼しなければ、

副官としての立場はない。ここからサブ・リーダーの第三目の条件である、「トップに信頼され ること」があげられる。それは

l o y a l

であることの裏返しであるが、上官が副官に少しでも疑 念をもつ場合は、フォロワーシップとしては完全ではない。その点アルバートには、愛という 強固な絆があり、ヴィクトリアからの全面的信頼があった。人間的信頼だけでなく、のちに政 治面、外交面でも女王の代理として{言頻される力を自らつくりあげた。

だがアルバートに最初に与えられた役割は少なかった。女王の夫というだけで、公式な肩書 きがなかった。彼を摂政にしようとしたヴィクトリアの努力は、議会の抵抗にあってすぐには 実現せず、アルバートは、英国憲法上になんの役割もないという奇妙な存在だった。だが、彼 はそれにめげず、まず自分の得意分野、科学、文化、学問の世界を広げることに力を入れた。

宮廷の晩餐会や昼食会に積極的に学者、画家、音楽家、作家などを招待し、宮廷の集まりに知 的雰囲気を導入した。その姿勢から学問的グループのパトロン(保護者)になったり、ケンブ

リッジ大の総長になるなど学問、芸術の世界に通暁した。

もう一つ、アルバートが試みたのは、宮廷改革である。きっかけは、エドモンド・ジョーン ズというやや精神に異常をきたした

17

オの少年が、バッキンガム宮殿に侵入し、女王や王女を 驚かせた事件だった。宮殿の安全が守られていないことからアルバートは宮廷の制度、仕組み などを調べ、宮廷財政があまりにも乱脈であることを知った。例えば王室には王有地「コーン ウォール公領」から上がる利益、年間

36000

ポンドのうち

3

分の

1

が、管理事務費に消えてい ることをアルバートは発見し、その無駄をのぞくための経費節減を行なった。これによって王

(6)

室が自由にできる資金がかなり増大した。あるいはウィンザー城での夕食が一年で

11

3000

人分も用意されるとの統計があったが、それが水増しされた数字であり、だれかのふところに 食費が消えた可能性が高かった。数百本のローソクが毎日購入されたが、一度も使われずにそ のまま捨てられることをアルバートは発見した。捨てられるといっても結局職員がくすねるだ けである。こうした伝統的に見逃されていた無駄を発見しては、改革していった。そこにアル バートの行政的手腕が見い出せる。

行政的手腕があるということは、実はサブ・リーダーとしての第四の条件である。権力者の 意を体して、あるいは権力者の気持ちを察して、行政的にすぐれた実績を上げることは、ナン バー 2の必要不可欠な条件である。周恩来がナンバー 2あるいは 3として常に中国政治の主流 に位置していたのは、その類いまれな行政能力があってのことだった。政治的状況をつくりだ すことにはきわめで慎重でありながら、トップからの命令、指示、あるいはトップが望むこと には、積極的に介入し、解決する能力こそ、副官に求められる。その片鱗をアルバートは宮廷 改革に見せた。その 10年後彼の行政的能力は、水晶宮(クリスタル・パレス)の建設による万 国博の開催で花開く。

第 3 「万国博の開催」

アルバートの業績の中で、現在なお語られていることは、世界初の万国博開催である。彼が その提唱者であり、推進者であり、最大の功労者であった。万国博が話題になるたびにアルバー トの名がもちだされるのは、そのアイディアが世紀を超えて世界に影響をあたえた全人類的事 業となったからである。

きっかけは、アルバートが

1842

年に加入し

45

年に会長となった芸術協会が、英国の技術推 進を目的として

46

年に展覧会を開いたことにある。アルバートは優れた技術に賞を出すことに した。

47

年の展覧会には、

2

万人、

48

年には

7

万人が集まり、アルバートはもっと大規模な博 覧会を開催し、英国の技術を飛躍させようとのアイデイアを抱いた。

1949

6

月、アルバート は芸術協会の主要メンバーをバッキンガム宮殿に招き、軋界の技術を披露した万国博の開催を 提案した。彼は博覧会の形として、工業原料、機械の発明、製品、造形芸術の 4部門に分ける という案を提案したが、より壮大な意図をいだいていた。すなわち「機械、科学、芸術にいか なる制限を設けてはならず、一国ではなく文明社会すべてに属するものにし、他国との公正な る競争によって英国産業に資する」10ことをねらっていた。この会議で芸術協会は、

1851

年に

「すべての国の産業展示会」すなわち「万国博覧会」を開くことを決めた。これを国家的行事に するため、アルバートは首相のラッセルを招き、王立委員会の設置を要請した。

この計画が発表されると、アルバートが推進者であることが明らかにされ、その構想への批 判、懸念が強くなっていった。アルバートにとっては開催場所、資金に不安があったが、まず

56 

(7)

プ リ ン ス ・ ア ル バ ー ト _ サ ブ ・ リ ー ダ ー の 条 件 _

は資金集めに奔走した。女王がこのために

1000

ポンド、アルバート自身が

500

ポンド寄付した のを皮切りに、政治家、銀行家、産業家らからの寄付を募った。当時の風刺雑誌「パンチ」に は、アルバートが空の帽子を手に寄付を募っている漫画が出ている。開催に奔走するアルバー トを「勤勉な少年」と椰楡し、「どうか、博覧会を忘れないで」とのタイトル付きである110

開催場所をハイドパークに決めたとき、猛然と反発が起こった。「建物のために木を切れば、

ハイドパークの景観が壊される」「巨大なレンガづくりの建物は、壊すときにつくる費用と同じ くらい高くつく」・・・。

だがアルバートは批判を熟知しながら計画を進めた。最も頭を悩ましたのは、主会場となる 建物をどのような形にするか、である。公募したが新しい時代を先取りするようなプランがで てこない。最後の段階で建築家ジョセフ・パックスマンが出したガラスの宮殿「水品宮」の案 をアルバートが決定した。長さ

560

メートル幅

124

メートルという巨大なガラスでできた建造 物は、まさしく当時の技術の最高水準を示したものであると同時にデザイン的にも超現代的 だった。

1850

年に水晶宮の建設が始まり、その進行にまつわるもめごとの処理、各国への出品招請や 打ち合わせなどアルバートは万国博開催に向けての仕事の主要部分にすべてかかわった。毎年 秋スコットランド・バルモラル城に休暇を過ごすのが、王室の慣例となっており、ヴィクトリ アぱ[亡しさを理由にロンドンに留まろうとするアルバートを説得してバルモラルに一家ででか けた。だが、アルバートは万国博に関する手紙、電報のやりとりをする一方、万国博の準備に ついて相談にくる人々を城で迎えて協議した。スコットランドの休暇は休暇にならず、むしろ かえって彼を忙しさに追い込んだのである。いまの言葉いえば彼は「ワークホリック」だった。

それが彼の健康を損なっていく。まだ

31

オというのに、年齢以上に老けていた。

水晶宮も完成し、国内外から展示用の出品物が到着、開催も迫ったころ、批判の声も高鳴っ た。いわく「開催日には暴動か革命が起こるだろう」「ガラスの屋根には穴が開き、

5000

万羽 のスズメの糞が展示品を汚くするだろう」「万国博は人間の傲慢さを示している。バベルの塔 が神によって壊されたように水晶宮もまた神に破壊されるだろう」・・・。

だが、アルバートの不屈の意志が実を結び、

1851

5

1

日、開会式となった。この日槻界 最初の万国博の開会を宣言したヴィクトリアは、愛する夫の偉業に興奮を抑えられなかった。

ベルギー国王の叔父レオポルドに抑えかねた感情のまま書き送っている。「私たちの歴史の中で 最高で、最も美しく、立派で、感動的な光景が見られたのです。私の最愛のアルバートの勝利 です。私の生涯で最も幸福で誇り高い日であり、私は他のなにも考えることができません。ア ルバートのいとしい名前は、この偉大な構想とともに永遠です。彼自身の、そして私の自身の このすばらしい国が価値あるものであることを示したのです。計り知れない大成功です」 12

事実、大成功だった。

5

ヵ月の会期期間中に当時の総人口の

3

分の

1

にあたる

600

万人が入場

(8)

し、純益が

18

万ポンド以上になった。それには、旅行業の父と目されるトーマス・クックが安 いパック旅行を世界で初めて組織し、労働者らを大量に万博会場に運んだことも役立っている。

アルバートのアイデイアは、トーマス・クックによるパック旅行を生み、現代の集団観光旅行 の先達となった。

アルバートは、この万博開催において優れた行政的手腕を発揮した。アルバートの情熱と事 務的能力が世界初の万博を成功させる原動力となった。サブ・リーダーとしての条件の一つ、

行政能力の高さを実証したのである。

第 4章 「政治的行動」

アルバートは、婚約時代に、英国人が外国人からの政治的干渉を極度に嫌うとの警告をヴィ クトリアから受けていた。ドイツ人のアルバートが、女王の夫であれ、政治に口だした場合、

しっぺ返しを受ける危険性を諭されたのである。だからアルバートも慎重だった。当初、政治 問題に自らかかわることを避ける姿勢をとった。しかしヴィクトリアと「二人の間で秘密をも つことをやめよう」と約束し、妻の仕事も見守ることにした。ヴィクトリアは、はじめ宰相メ ルボーンと女教師として身近にいたフロイライン・レーゼン(ミス・レーゼンの意ー独身だっ たため、こう呼ばれた)に相談してからアルバートに話す姿勢だった。しかしヴィクトリアが、

妊娠してから体調がすぐれず、緊急外交文書をアルバートに読んでもらう機会が増した。赤箱 に入れられた外交文書のどれが重要で、女王が読むべきかを判断するのがアルバートの役目に なったため、アルバートの非公式影響力が増大した。

アルバートは、自分とヴィクトリアとの間にあってヴィクトリアヘの影響力を確保すること に執念を燃やすレーゼンが、王室一家に不協和音を奏でると同時に、宮廷改革の妨げになるこ とを知って、レーゼン排除への行動に移った。レーゼンは5オからヴィクトリアのもとで身の 厠りの世話をし続け、女王の信頼のもと、ヴィクトリアの個人経費を一手に握って彼女の承認 がなければ宮廷内の仕事が進まないといわれるほどの実力者であった。アルバートが自分と家 族にとってレーゼンの存在がマイナスと判断し、その排除に動きだしたとき、レーゼンだけで なく、ヴィクトリアも抵抗した。だがアルバートは子供の教育、宮廷費使途のずさんさなど具 体的例をヴィクトリアに示して一家のために彼女を退職させる方途を講じていった。ヴィクト リアがしぶしぶこれに従ったのは、愛する夫の協力こそが一家を支えるかなめになると認めた ためだった。サブ・リーダーの第三の要件として「トップからの全面的信頼」があるが、ヴィ クトリアはアルバートを全面的に信頼し、かつ全面的に愛していたからこそ、アルバートの進 言にしたがったのである。アルバートのレーゼン排除は、いわば宮廷内の政治に彼が勝利した ことを意味する。つまり強力な指導者の意志を曲げてまで政治的判断を優先しうる能力があっ たのである。それがサブ・リーダーの第五の条件となる。

58 

(9)

プ リ ン ス ・ ア ル バ ー ト _ サ ブ ・ リ ー ダ ー の 条 件 _

ナンバー

2

に求められるのは、上からの指示、命令にただ唯々諾々と従うことだけではない。

ナンバー

1

の領域を犯さずに、政治的判断も求められる。トップの政治生命を左右するような 政治的決定をしてはならないが、 トップの政治生命を左右するような問題が発生したとき、

トップが最善の道を選べるように助言したり、お膳立てしたりする能力、すなわち政治的能力 が要求される。アルバートは最初に宮廷内でその能力を示したが、実際に新首相ピールとの間 で宮廷改革について、政治力を発揮する。

ヴィクトリアが女王になって2年後、与党ホイッグ党が選挙で少数与党に転落し、最も信頼 し頼りにしていたメルボーン首相が退陣し、トーリー党のロバート・ピール党首と交代する情 勢となった。ピールは宮廷改革の一環としてメルボーン首相が任命したホイッグ党系の宮廷女 官を替えてトーリー党系の女官を任命しようとしたが、女王はトーリー嫌いの上、自分の領域 を冒されることへの反発から一人の女官の更迭も認めない、との強硬姿勢を示し、結局ピール は女王に人事まで反対されるならと組閣に二の足を踏んだ。そのとき、メルボーンらホイッグ 党幹部は、女王がそこまで執着するなら自分たちがかんばらねば、と少数内閣を組織し、その

まま政権の座に居座ってしまった。

だが、少数与党では法案通過もままならない。弱体政権のまま 2年後の次の選挙でまたホ ィッグ党は敗れて、ついにトーリー党のピール政権が成立することになったとき、アルバート は、女王とピールとが宮廷女官問題で再び対立し、女王の地位が傷つけられることを恐れた。

彼は信頼する秘書アンソンをピールのもとに送り、ピールも女王も妥協する必要を強調し、ホ ィッグ党色の強い女官

3

人の自主的辞任を提案した。結局のこの女官

3

人が勧告通り辞任を申 し出た上、宮廷の幹部職員でホイッグ党員2人が辞任することで妥協が成立した。これには女 王もアルバートの政治的手腕に感銘し、王室のために大きな力があったことを感動して日記に 記している。ピール自身もアルバートの役割を高く評価、「プリンス・アルバートは、まるでわ れわれと一緒に行動しているようだ」と述懐している13。アルバートは

22

オにして政治的妥協 を生み出す才覚を発揮したのである。

その後ヴィクトリアが9人の子供を産む度に、憂うつ状態に陥るとヴィクトリアに代わって 政府文書・外交文書を読み、ヴィクトリアに進言するようになる。政治的役割をヴィクトリア に代わって果たすようになるのだ。

だが、ヴィクトリアが妊娠の度に政治への無関心さを見せるために、アルバートの助言が、

ヴィクトリアの意見そのものになるケースが増えてきた。とりわけ彼が外交問題に強い関心を もっていたために外交問題では、アルバート自身の意見が女王の意見となった。外相のパーマ ストン卿が女王に通告なく外交問題を処理して女玉と険悪な関係になったとき、外相に勧告し、

警告する役目はアルバートが担った。

アルバートの役割はますます増大し、クリミア戦争では、英軍部隊の位置、装備、作戦など

(10)

詳細なレポートを出すよう担当大臣に申しつけ、戦争の行方を注視した。戦況を改善するため に、クリミア半島の東端カーチにある敵の基地を奇襲攻撃する作戦をつくり、実行させるとい うリーダーシップも見せた。

あるいは、死の直前、トレント事件で類いまれな外交手腕を発揮した。米国内で南北戦争の 最中、北部の合衆国連邦の軍艦がイギリスの郵便船を拿捕し、乗っていた南部連合の外交官 2 人を逮捕連行したことに英国の世論が激昂、当時のパーマストン首相、ラッセル外相は、北部 軍との開戦も辞さない覚悟で強硬な抗議文を送ろうとした。北部の意図は、イングランドとの 戦闘に入り、これにフランスを巻き込もうということだった。フランスは裏でケベック返還を 約束されていた。だがこの抗議文が戦争を引き起こすと判断したアルバートは、戦争を嫌う ヴィクトリアの意をくんで、北部が受け入れられるような妥協的文に変えて、ラッセル外相に 突き返した。この文こそアルバートの絶筆となったのだが、死の寸前で米国との戦争を回避す る措置をとった。後の史家は、もしアルバートの介入がなかったなら、フランスを巻き込んだ 米英戦争が勃発しただろう、と指摘している H

クリミア戦争といい、米英摩擦といい、ナンバー 2としての領域を逸脱してはいたが、ナン バー1のヴィクトリアが彼に全面的に頼っていたからできたことである。彼自身ヴィクトリア のためになさねばならない、との使命感に燃えていた。だが彼が外交間題に力を入れれば入れ るほど、「ドイツ人が英国の利益を外国に売り渡している」との批判の声が起こった。当時の パーマストン外相は、もしアルバートがもっと長生きしたら、独裁者になったのではないか、

と恐れたことを告白している15。それを知っているアルバートは、できるだけ黒子に徹しよう としていた。そこにサブ・リーダーの第六の条件が姿を現してくる。

5 「ワークホリック」

サブー・リーダーにとっての第六の条件とは、リーダーより名声をえてはならない、ことで ある。リーダーより脚光を浴びることは、リーダーの存在価値を薄めることになる。それでは リーダーがサブ・リーダーの存在を疎む事態を招きかねない。ニクソン政権を外交面から支え たキッシンジャーは、その危険をこう述べている。「大統領は、人々の注目を集めて大統領と競 争するような部下を好ましく思わなかった。とりわけ、私が故意にニクソンから人気をさらっ ている、とニクソンの側近が主張したとき、大統領は私を好ましく思わなかった」 16。名声は リーダーにのみ存するのである。アルバートはそれを知っていた。英国の英雄ウェリントン将 軍の申し出に躊躇したのは、そのためだった。

結婚後

9

年を過ぎた

1849

年、アルバートは突然、ウェリントン公から英軍最高司令官の職 を引き受けてほしい、との申し出を受けた。ナポレオンをワーテルローの戦いにやぶって救国 の英雄となった将軍は、永く最高司令官の職にあったが、老齢のために職務遂行が困難になっ

60 

(11)

プ リ ン ス ・ ア ル バ ー ト ー サ ブ ・ リ ー ダ ー の 条 件 一

たとの理由で後継者を探していたのである。アルバートに白羽の矢をたてたのは、アルバート が女王の夫であるというだけでなく、彼の政治的・行政的能力を高く評価してのことである。

突然の申し出は、アルバートにとって驚きであったが、きわめて魅力的だった。アルバート は熟慮した。 英国の'軍隊が 女王のドイツ人の夫 の指揮下に甘んじるだろうか。女王の夫 は、女王より晴れの舞台にたってよいのだろうか。結局彼の出した結論は、女王の夫は、自ら の存在を国民の前に華々しくさらしてはならず、女王と一体になっていなければならないとい うことだった。大きな公的任務をになうことによって女王の名声、名誉に拮抗することになれ ば、女王の権威を損なうことになりかねない。国民の前では女王の夫は女王の一部であり、い かなる公的権力ももってはならない、との判断だった。アルバートは後に、良き相談役だった ドイツ人顧間ストックマー男爵に語っている。「女王の夫としての役割は、もともと弱いもので ある。静かな影響力こそうまく働き、善をなす。たとえ影響力を認識する人がいても、すぐ影 響があったと分ってはいけない。国民大衆にはその影響力を知らしめてはならない。立憲君主 が慈悲心をもって進み、国家が繁栄し進歩するという事実のみに私自身が渦足しなければなら ない」 17

アルバートが

40

オに近づこうとするころから、女王を支えることに費やされた献身的努力ゆ えに、かえって女王を支えることができない事態に入ろうとしていた。過労が彼の体にストレ スを貯めさせ、突然に胃の痛みや体のけだるさをつくりだした。とりわけアルバートが直接か かわったクリミア戦争やインドでの反乱事件のために、体調が思わしくなくなった。ヴィクト

リア自身、 ドイツ皇太子のもとに嫁した長女ヴィッキー(ヴィクトリア)にこう書いている。

「われわれの最大の懸念はいとしいパパが、働き過ぎ、自らを消耗しつくしているということ です。それが私を惨めにします」 18

彼はヴィクトリアのもとに連ばれた文書すべてに目を通し、とりわけ外交文書に念を人れた。

外交については、英国の政治家のだれよりも情報を握っているとまでいわれた。ここにサブ・

リーダーの第七の条件、情報通であることをアルバートが見事満たしていたのである。枢密院 の書記だったチャールズ・グレヴィルは、「彼(アルバート)の知識と情報は驚くべきものがあ り、これほど彼ほどの情報をもつ省はなく、彼ほど有能な大臣もなかった」と日記に書いてい る19。アルバートが 静かな影響力'をもちえたのは、その情報力に基ずく判断力だった。そ うしだ情報を集めるために彼は寸暇を惜しんで働いた。まるで自分の寿命を知っていたかのよ うである。

1861

12

月14日の朝、ヴィクトリアが見守る中、アルバートは永遠の旅に向かっ た。ナンバー

1

を愛し、支え続けた男は、ナンバー

2

としての類いまれな資質を示して去って いった。

(12)

結 語

サブ・リーダーあるいはナンバー 2と称される組織の幹部の資質として①トップになろうと してはならない②トップに

l o y a l

である③トップからの全面的信頼をうる④行政的手腕に 優れる⑤政治的判断もできる⑥トップよりスポットライトを浴びてはならない⑦情報を把 握している ことがあげられる。アルバートの生涯をみていくと、英国の最高責任者を支え 続けたナンバー2の好例をみることができる。アルバートはこれらの条件をすべて満たしてい た。初めから女王の夫というトップになれない宿命もあった。あるいは政治判断をしすぎた嫌 いもあった。政治的行動がナンバー2としての条件を疑わせる事態も生じた。しかし、トップ である女玉から愛に裏打ちされたとはいえ、絶大な信頼があったからこそ、ナンバー2の条件 を踏み越えてでも女王との関係を損なわなかった。

だが、彼自身女王の夫としての尊厳を捨てたわけではない。画家の

E.M.

ワードは、アルバー トが王立美術院の評議員と晩餐会で会食中、女王の伝令がきて声高にバッキンガム宮殿に帰る よう伝えたのを聞いた。アルバートは伝令をさがらせたが、

2

番目に伝令がまた来た。これも 無視すると3番目の伝令が「帰るように命じている」との女王の命令を伝えた。アルバートは その日使者を追い払い、宵越しで居残ることにし、最後はバッキンガム宮殿ではなく、クレー ルモント館に帰った20

あるいは、伝説的なこんな話もある。

ある日ヴィクトリアと口論したアルバートが怒って自分の部屋に鍵をかけた。それほど怒っ ていなかったヴィクトリアは部屋の戸を叩き中に入ろうとした。「だれだ」とアルバートがいう と「イングランド女王」との答えが返ってきた。だがアルバートは動かなかった。何度も戸が 叩かれたが、女王の同じ答えが返ってくるかぎり戸は動かない。最後にやさしく「あなたの妻 です。アルバート」との声がしたとたん、戸は開けられた21

「女王の夫」という地位は実は最良のナンバー2になりうる要素を備えていたのである。

1 .   Lytton S t r a c h e y ,  Queen V i c t o r i a ‑ A n  Eminent I l l u s t r a t e d  Biography Black Pog & 

Leventhal P u b l i s h e r s  1998 p . 4 1 .   2 .   I b i d .  p . 6 3 .  

3 .   Richard Hough, V i c t o r i a  &  A l b e r t  F .  

A. 

Thorpe P u b l i s h i n g  1997 p . 6 2 .   4 .   I b i d .  p . 1 0 6 .  

5 .   Lytton S t r a c h e y ,  Queen V i c t o r i a  Penguin Books 1971 p . 8 2 .  

6 .   E l i z a b e t h  L o n g f o r d ,  Queen V i c t o r i a  Weiden f e l d   &  N i c o l s o n  1964 p . 1 5 .   7 .  

黒岩徹『物語英国の王室』中央公論社

1997p . 9 4 .  

6 2  

(13)

プリンス・アルバートーサブ・リーダーの条件一

8 .  

スタンリー・ワイントラブ『ヴィクトリア女王(上)』(平岡緑訳)中央公論社

1993p . 2 0 8 .   9 .   Vance R . K i n c a d e ,  J r . ,  H e i r s  A p p a r e n t ‑ S o l v i n g  t h e  V i c e  P r e s i d e n t i a l  Dilemma P r a e g e r  

P u b l i s h e r s ,  2000 p . 5 .  

1 0 .   E . F .  Armstrong, The I n f i u e n c e  o f  t h e  P r i n c e  C o n s o r t  on S c i e n c e  The Royal S o c i e t y  o f   A r t s ,  1945 p p . 4 ‑ 1 4 .  

1 1 .   Stanley Weintraub, Uncrowned King ‑The L i f e  of P r i n c e  A l b e r t  The Free P r e s s ,   1997 p . 2 2 6 .  

1 2 .   Richard Hough, V i c t o r i a   &  A l b e r t  F .  A .  Thorpe P u b l i s h i n g  1997 p . 2 3 5 .   1 3 .   S t a n l e y  Weintraub, Uncrowned King‑The L i f e  of P r i n c e  A l b e r t  p . 1 2 1 .   1 4 .   I b i d .  p . 4 2 3 .  

1 5 .   Denis J u d d ,  P r i n c e  P h i l i p  Sphere B o o k s ,  1991 p . 1 8 8  

(アルバートと同じような女上 の夫であるフィリップ殿下とプリンス・アルバートとの比較)

1 6 .   Henry K i s s i n g e r  Y e a r s  o f  Renewal I I I ‑ T h e  Concluding Volume of His Memoirs Touch  s t o n e ,  2000 p . 4 4 .  

1 7 .   S t a n l e y  Weintraub, Uncrowned King‑The L i f e  of P r i n c e  A l b e r t  p . 2 7 4 .   1 8 .   I b i d .  p . 3 7 1 .  

1 9 .   I b i d .  p . 3 5 1 .  

2 0 .  

スタンリー・ワイントラブ『ヴィクトリア女王(上)』(平岡緑訳)

p . 2 2 6 .   2 1 .   Lytton S t r a c h e y ,  Queen V i c t o r i a  ‑An Eminent I l l u s t r a t e d  Biography p . 9 9 .  

{参考文献}

上記の各章で引用した文献の他には以下のような文献を参考にした。

D.Bennet King w i t h o u t  a  Crown, Heineman 1 9 7 7 .  

M . C h a r l o t ,  V i c t o r i a ,  t h e  Young Queen, B l a c k w e l l  P u b l i s h i n g  1 9 9 1 .   R . R h o d e s ,  A l b e r t ,  P r i n c e  C o n s o r t ,  Hamilton 1 9 8 3 .  

C h r i s t o p h e r  H i b b e r t ,  Queen V i c t o r i a ‑ A  P e r s o n a l  H i s t o r y ,  Da Capo P r e s s  2 0 0 1 .   C h i r s t o p h e r  H i b b e r t ,  Queen V i c t o r i a  i n  Her l e t t e r s  and J o u r n a l s ,  Sutton 2 0 0 0 .   C h r i s  B r o o k s ,  The A l b e r t  Memorial, The V i c t o r i a  S o c i e t y  1 9 9 5 .  

C h a r l o t t e  Z e e p v a t ,  Queen V i c t o r i a ' s  F a m i l y ,  Sutton 2 0 0 1 .  

E . T . B e n s o n ,  Queen V i c t o r i a ,  Barnes & Noble 1 9 9 2 .  

小池滋『島国の世紀』文芸春秋

1 9 8 7 .

(14)

P r i n c e  A l b e r t  ‑The C o n d i t i o n s  o f  Sub‑Leaders ‑

KUROIWA  Toru 

P r i n c e  A l b e r t  was t h e  husband o f  Queen V i c t o r i a  who pushed t h e  B r i t i s h  Empire t o  t h e   h e i g h t  o f  i t s  p r o s p e r i t y .  A l b e r t  was t h e  d r i v i n g  f o r c e  o f  V i c t o r i a ' s  r e i g n  behind t h e  s c e n e .   When we l o o k  upon t h e  l i f e  o f  P r i n c e  A l b e r t ,  we can s e e  an e x c e l l e n t  example o f  a  s u b ‑ l e a d e r  o r  a  Number Two man. 

I n  l o o k i n g  back upon t h e  c a r e e r  o f  P r i n c e  A l b e r t ,  t h e  c o n d i t i o n s  o f  what a  good "Number  Two" man must f u l f i l l  come t o  mind. F i r s t l y ,  t h e  most important c o n d i t i o n  o f  a  s u b ‑ l e a d e r   i s  t h a t  they p o s e s s  n e i t h e r  t h e  d e s i r e  o r  w i l l i n g n e s s  t o  become Number One. I f  they show  t h e  w i l l i n g n e s s  t o  be t h e  l e a d e r ,  N o .  l  w i l l  never r e l y  on them. The Chinese p o l i t i c i a n ,  Chou  En‑Lai had always been i n  t h e  c e n t e r  o f  t h e  Chinese p o l i t i c a l  stream i n  h i s  c a r e e r  because  he had never wanted t o  be t h e  t o p  l e a d e r .  P r i n c e  A l b e r t ,  who married t h e  E n g l i s h  q u e e n ,   was d e s t i n e d  never t o  be Number One. 

In 

t h i s  c o n t e x t ,  he f u l f i l l e d  t h e  f i r s t  c o n d i t i o n  o f   b e i n g  a  worthy Number Two. 

S e c o n d l y ,  s u b ‑ l e a d e r s  must be c o m p l e t e l y  l o y a l  t o  t h e  l e a d e r .  

T h i r d l y ,  they must be a b s o l u t e l y  r e l i a b l e  p e r s o n s  f o r  t h e  l e a d e r .  T h i s  i s  t h e  o t h e r  s i d e   o f  c o i n  o f  f u l f i l l i n g  t h e  second c o n d i t i o n .  P r i n c e  A l b e r t  was l o y a l  t o  Queen V i c t o r i a  both  f o r m a l l y  a s  her B r i t i s h  s u b j e c t  and p e r s o n a l l y  a s  her husband. T h e r e f o r e  he r e c e i v e d  f u l l   s u p p o r t  and c o n f i d e n c e  from Queen V i c t o r i a .  

F o u r t h l y ,  s u b ‑ l e a d e r s  must have o u t s t a n d i n g  a d m i n i s t r a t i v e  a b i l i t i e s .  I

n 

o r d e r  t o  e x e c u t e   t h e  d i r e c t i o n s  o f  t h e  l e a d e r ,  they have t o  be s k i l l f u l  i n  managing t h e  o r g a n i z a t i o n .  P r i n c e   A l b e r t  e x c e l l e d  i n  o r g a n i z i n g  and managing t h e  e x i s t i n g  system a s  he demonstrated i n  h i s   o r g a n i z a t i o n  of'The Great E x p o s i t i o n ' i n  Hyde P a r k .  

F i f t h l y ,  they should have t h e  a b i l i t y  t o  implement o r  e x e c u t e  p o l i c y  although t h e i r   p o l i t i c a l  a c t i o n s  should never be a g a i n s t  t h e  w i l l  o f  t h e  l e a d e r .  During t h e  r e i g n  o f  Queen  V i c t o r i a ,  P r i n c e  A l b e r t  on o c c a s i o n  t o o k  p o l i t i c a l  a c t i o n s  on b e h a l f  o f  t h e  q u e e n .  Those were  o f t e n  n o t  c o n s i s t e n t  with t h e  c o n d i t i o n s  o f  what i s  u s u a l l y  c o n s i d e r e d  a  number two s u b ‑ l e a d e r .  For example, P r i n c e  A l b e r t  even l e d  t h e  m i l i t a r y  o p e r a t i o n s  o f  t h e  Crimean War,  and t h e  war was sometimes c a l l e d  A l b e r t ' s  w a r .  However, he d i d  n o t  l o s e  t h e  c o n f i d e n c e  o f   t h e  queen a s  h i s  a d v i c e  t o  t h e  M i n i s t e r s  concerned was a p p r o p r i a t e .  

64 

(15)

プ リ ン ス ・ ア ル バ ー ト ー サ ブ ・ リ ー ダ ー の 条 件 一

S i x t h l y ,  a  good s u b ‑ l e a d e r  must n o t  a c h i e v e  more fame than t h e  l e a d e r .  K i s s i n g e r  who  was the No.2 f o r  President Nixon on f o r e i g n  a f f a i r s  once s a i d ,  " P r e s i d e n t s  do not take  k i n d l y  t o  a s s i s t a n t s  who compete with them f o r  p u b l i c  a t t e n t i o n  ‑ e s p e c i a l l y  when some  o f  N i x o n ' s  c l o s e s t  a d v i s e r s  were arguing t h a t  I  was upstaging him d e l i b e r a t e l y . "  

P r i n c e  A l b e r t  always thought t h a t  he s h o u l d  n o t  p l a y  t h e  l e a d i n g  r o l e  on t h e  s t a g e .  He  t o l d  h i s  a d v i s e r  Baron Stockmar t h a t  a s  much a s  h i s  r o l e  a s  merely t h e  Queen's husband  was a  p r e s u p p o s i t i o n  o f  i n f e r i o r i t y ,  he would keep t o  it.'Now s i l e n t  i n f l u e n c e  i s  p r e c i s e l y   t h a t  which o p e r a t e s  f o r  t h e  g r e a t e s t  and f u r t h e s t ‑ r e a c h i n g  amount o f  g o o d ,  and t h e r e f o r e   much time must e l a p s e  b e f o r e  the value o f  t h a t  i n f l u e n c e  i s  r e c o g n i s e d  by t h o s e  who can  take c o g n i s a n c e  o f  i t ,  w h i l e  by t h e  g r e a t e r  amount o f  mankind i t  can s c a r c e l y  be understood  a t  a l l .  I  must c o n t e n t  myself with t h e  f a c t  t h a t  c o n s t i t u t i o n a l  monarchy marches u n a s s a i l a b l y   on i t s  b e n e f i c e n t  c o u r s e ,  and t h a t  t h e  country p r o s p e r s  and makes p r o g r e s s . '  

Seventhly and l a s t l y ,  s u b ‑ l e a d e r s  must have a  g r e a t  amount o f  i n f o r m a t i o n  t o  keep h i s   p o s i t i o n  and i n f l u e n c e .  Prince Albert was most knowledgable about f o r e i g n  a f f a i r s  and  most informed about government p o l i c i e s .  Charles G r e n v i l l e ,  a  c l e r k  t o  P r i v y  C o u n c i l  who  wrote a  famous d i a r y  on t h e  V i c t o r i a n  e r a ,  mentioned'His ( P r i n c e  A l b e r t ' s )  knowledge and  i n f o r m a t i o n  a r e  a s t o n i s h i n g ,  and t h e r e  i s  not a  department o f  t h e  Government regarding  a l l  t h e  d e t a i l s  and management o f  which he i s  n o t  much b e t t e r  informed and more c a p a b l e   than t h e  M i n i s t e r  a t  t h e  head o f  i t . '  

P r i n c e  A l b e r t  f u l f i l l e d  t h e s e  seven c o n d i t i o n s .  Although he sometimes went beyond t h e   b o u n d a r i e s  o f  a  s u b ‑ l e a d e r ,  he had been a  s p l e n d i d  N o . 2 .   I t   was because he was most t r u s t e d   and l o v e d  by t h e  Queen. However, he d i d  n o t  g i v e  up h i s  p r i d e  a s  a  husband. The f o l l o w i n g   legendary anecdote r e f e r r e d  t o  h i s  a t t i t u d e  towards h i s  w i f e .  

When, i n  w r a t h ,  t h e  P r i n c e  one day had l o c k e d  h i m s e l f  i n t o  h i s  room, V i c t o r i a ,  no l e s s   f u r i o u s ,  knocked on t h e  d o o r  t o  be a d m i t t e d .  

"Who i s  t h e r e ? "  he a s k e d .  "The Queen o f  England" was t h e  a n s w e r .  He d i d  n o t  move,  and again t h e r e  was a  h a i l  o f  k n o c k s .  The q u e s t i o n  and t h e  answer were repeated many  t i m e s ;  but a t  l a s t  t h e r e  was a  p a u s e ,  and then a  g e n t l e r  k n o c k i n g .  

"Who i s  t h e r e ? "  came once more t h e  r e l e n t l e s s  q u e s t i o n .  But t h i s  time t h e  r e p l y  was  d i f f e r e n t .  

"Your w i f e ,  A l b e r t . "  And t h e  d o o r  was immediately o p e n e d .  

参照

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