• 検索結果がありません。

(昭和

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "(昭和"

Copied!
6
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

19-24March 2014

1. はじめに

及川全三は、柳宗悦が起こした民芸運動に共鳴し、それ までの教職を辞して工芸の道に進んだ人物である。

民芸運動の同人誌が雑誌『工藝』であり、

1961

(昭和

6

) 年

1

月の創刊号から

1951

(昭和

26

)年

1

月の

120

号まで

20

年間刊行された。刊行の経緯について、柳は「四圍の 事情は、段々獨立した工藝の雜誌を要求する様になつた。

なせなら私達の心が引かれてゐる工藝の領域が、餘りに も世間のそれと違つてゐるのを氣附いたからである。」

1)

と述べている。この「私達の心が引かれてゐる工藝の領 域」が民芸であり、雑誌の刊行趣意に「何が工藝中の本 格なものであるかを吟味した結果、美からしても社会性 からしても「民藝」が工藝の本流であることを解するに 至ったのである。」

2)

と明言している。雑誌が民芸運動を 推進し、民芸の思想を広く浸透させた役割は大きい。

また、雑誌そのものが、工芸作品であったことも大きな 特色である。装幀や挿絵はもちろんのこと、表紙や誌面 の紙、小間絵、活字に至るまで民芸の思想が貫かれ、実 用の美が具体化されていた。柳は「表紙は布に手染、(中 略)又は和紙に漆(中略)それに挿繪が多いから金がか かる。」

3)

と述べている。経済面よりも美を大切にし、従 来にない美的な雑誌を読者に届けた意義は、美の「見え る人」

4)

を育成することでもあった。

当然のことながら及川も雑誌『工藝』の読者であった。

及川と雑誌の接点に言及している資料等

5),6)

をみると、色 染和紙が表紙に用いられたこと、ホームスパンや色染和 紙が雑誌で紹介されたこと等が述べられている。雑誌は、

民芸運動を推進した重要な媒体であり、及川の取り組み を考証する上で、雑誌との接点をふまえることは重要で ある。雑誌との関わりは、すなわち柳との関わりであり、

及川が柳の目を通して工芸作品の美をみていたことを裏 付けるものである。本研究では、他者の所有する雑誌で はなく、及川の所有した雑誌を通してホームスパンと色 染和紙の取り組みを考証した。

2 .調査方法

及川の使用した図書類は、本人と姪の及川惠美子氏によ って旧東和町教育委員会に寄贈され、同町中央公民館図 書室に所蔵されたが、花巻市立東和図書館の開館に伴い 同図書館に移管された。寄贈から年数がだいぶ経ち、元 の所有者が曖昧になっていたため、

2013

4

月に同図書 館において、及川のもとで

18

年間(

1957

(昭和

32

)年~

1975

(昭和

50

)年)内弟子をしていた野呂淑子氏に確認 作業を依頼した。及川の所有した図書類は、柳宗悦の著 書や陶芸等の民芸運動に関したもの、植物、染色、化学、

紡織、羊毛、和紙等の及川の仕事に直結したもの、美術、

宗教、哲学、歴史、民俗、風土記、郷土、農業、経済、

文学等の幅広い分野のものが確認された。

本研究では、所有の確認された雑誌『工藝』創刊号~

120

号、および花巻市東和ふるさと歴史資料館に所蔵されて いる及川宛書簡を調査対象とした。ただし、雑誌は、

1931

1932

(昭和

6

7

)年発行の

3

号、

14

号、

18

号が欠如し ていた。また、

5

号と

113

号は、古書店のシールの付いた パラフィン紙でカバーされており、及川が欠番を補充す るため、後々購入したものと推察された。調査に際し、

必要に応じて同図書館に所蔵されている柳と及川の著書 を参照した。調査時期は、

2013

4

月~

12

月である。

3 .ホームスパンと雑誌『工藝』

㻟㻚㻝㻌 雑誌での紹介㻌

及川のホームスパンが、雑誌『工藝』ではじめて紹介さ れたのは、

1934

(昭和

9

)年

5

月の

41

号「同人雜錄」の 頁である。その掲載文

7)

を資料

1

に示す。下線で示したよ うに販売や植物染色による色柄の情報であることにより、

羊毛の植物染色の技術は、

1934

(昭和

9

)年以前に完成さ れていたことが確認できる。晩年になって及川は、羊毛 の染色を始めた頃を振り返り「植物染を書いた本がない ので何年も何年も七輪で鍋で試験した。五年もかかり貧 乏もしました。」

8)

と述べている。羊毛の植物染色の研究 研究報告㻌

雑誌『工藝』を通してみる及川全三のホームスパンと色染和紙の取り組み㻌

A Study of Oikawa Zenzo’s Work on Homespun and Handmade Coloured Paper through the Monthly Magazine KOGEI (Chiefly Devoted to Oriental Handicrafts)

菊池直子

*

Naoko KIKUCHI

Keywords: Oikawa Zenzo, Homespun, Handmade Coloured Paper

及川全三,ホームスパン,色染和紙

*

生活科学科生活科学専攻

(2)

5

年も要したこと、

1933

(昭和

8

)年

11

月に帰郷した

9)

ことを考慮すると、東京在中に独学で羊毛の植物性染料 による染色技術を習得していたことが認められる。

一方、及川が羊毛の染色に取り組んだ時機については、

次のような諸説がみられる。

「まずは地元の伝統工芸である成島和紙の草木染めに 着手、編み出した技術を羊毛染色に取り入れ、…」

10)

「和紙での染色に成功した全三はホームスパンにもそ の技術を取り入れて、…」

11)

これらの説明は、及川の色染和紙の技術が高く評価され、

1937

(昭和

12

)年に農林大臣賞を受賞する等の和紙の功 績が顕著であったため、最初に和紙、次に羊毛という印 象で順序立てされたと考えられる。しかし、羊毛に先だ ち色染和紙に取り組んでいたという考証はみあたらない。

もっとも、関心があったという点においては、郷里が成 島和紙の産地であることや、和紙が日本のホームスパン に比べようもないほどの歴史がある等、ホームスパンよ りも先であったことは、十分あり得る。しかしながら、

実際の取り組みは、東京在中にホームスパンの羊毛染色 技術を完成させ、その過程で習得した植物性染料と染色 化学の専門知識を色染和紙に活用したと考えられる。

柳が、及川のホームスパンを再び雑誌に紹介したのは、

1937

(昭和

12

)年

2

月の

73

号「雜錄」においてである。

掲載文

12)

を資料

2

に示す。この頃の及川は、ホームスパ ンと色染和紙の両方に取り組んでいる。柳は、下線で示 すようにホームスパンの仕事の努力が報いられることを 願っているが、裏返すと、及川のホームスパンの努力が、

あまり報いられていない情況にあったことになる。

1937

(昭和

12

)年頃は日華事変が起こり、日本が大戦へと向 かった時代で、衣料品等の規制も年々厳しくなった時代 である。ホームスパンの仕事は、順調といえない厳しさ があったと推察できる。

そのような社会情勢の中、色染和紙が農村の産業として 期待できると述べられている。及川は、ホームスパンに

取り組む傍ら、色染和紙で農村を振興させようとしてい たことが窺える。色染和紙については、

で考証するが、

帰郷後、わずか数年で色染和紙を着実に成功させた背景 には、ホームスパンの羊毛染色における地道な努力と経 験があったからこそと考えられる。

柳は、翌年

4

月の

87

号「編輯後記」でも、ホームスパ ンを紹介している。資料

3

は、掲載文

13)

の前半部分を転 記したもので、及川のホームスパンと、当時の日本の一 般的なホームスパンの違いを述べた部分に下線を付けた。

文中の「正しいホーム・スパン」とは、英国の伝統的な ホームスパンを指すと考えられる。ホームスパンの原産 は英国であり、英国産羊毛は、コシが強く弾力性に優れ ている。しかし、当時の日本で入手できる羊毛は、細く て柔らかいものであったことが理解できる。メリノーや コリデールは、やわらかい織物や薄手の織物に適するが、

ざっくりしたホームスパンには、繊細すぎる羊毛であっ た。及川は、細く柔らかい羊毛であっても、しっかりし た生地をつくるため、紡ぎの縒りを強くしたり、織りの 打ち込みを強くしたり等の工夫をしていたことが認めら れる。野呂氏は「先生の場合、縒りをかなり強くして硬 くするので、生地が重たくなるんです。」と述べている。

強い縒りの糸は、及川のホームスパンの特徴であったと いえる。また、柳は、染色について、及川ほどの注意を 払っている作者はいないと述べている。及川は、色の美 しさを見極める力、表現する技術が卓越していたことが 認められる。

㻟㻚㻞㻌 メモが挟まれていた研究報告㻌

1

は、 雑誌に挟まれていた及川のメモの紙片である。

このようなメモは、

4

冊ほどの雑誌に挟まれていたが、う ち

3

冊が

1937

(昭和

12

)年の雑誌であった。メモには、

岩 手 縣 十 二 鏑 村 の 及 川 全 三 氏 の 努 力 に な る ホ ー ム ・ ス パ ン を

「 た く み

」 で 一 手 で 販 賣 す る こ と に な つ た

。 吾 々 の 知 つ て ゐ る 範 圍 で は 、 既 に 農 村 の 産 業 と な つ た ホ ー ム ・ ス パ ン で は 同 氏 の も の が 質 と し て 最 も よ い

。 全 部 手 紡 本 染 で 柄 も 色 調 も よ く

、 値 も 安 い 。 大 い に 前 途 を 祝 福 し て ゐ る 。

資料

1

㻌 『工藝』

41

号より㻌

岩 手 縣 の 及 川 全 三 君 久 々 に て 上 京 。 同 氏 の 努 力 に な る 色 染 和 紙 を 持 参 さ れ た 。 質 、 色

、 味 共 に 甚 だ よ く

、 地 方 農 村 の 産 業 と し て 最 も 未 來 あ る も の ゝ 一 つ と な ら う 。 發 展 を 望 ん で 止 ま な い

。 同 氏 の ホ ー ム ス パ ン の 仕 事 も 不 日 立 派 な 仕 事 に な る こ と ゝ 思 ふ

。 少 か ら ぬ 努 力 が

、 酬 ゐ ら れ る 日 の 早 く 來 る こ と を 希 つ て ゐ る 。

( 柳

資料

2

㻌 㻌 『工藝』

73

号より㻌 岩 手 縣 の 及 川 全 三 君 久 々 に て 上 京

。 同 氏 の 努 力 に な る 色 染 和 紙 を 持 参 さ れ た

。 質

、 色

、 味 共 に 甚 だ よ く

、 地 方 農 村 の 産 業 と し て 最 も 未 來 あ る も の ゝ 一 つ と な ら う 。 發 展 を 望 ん で 止 ま な い

。 同 氏 の ホ ー ム ス パ ン の 仕 事 も 不 日 立 派 な 仕 事 に な る こ と ゝ 思 ふ

。 少 か ら ぬ 努 力 が

、 酬 ゐ ら れ る 日 の 早 く 來 る こ と を 希 つ て ゐ る

。 ( 柳 )

本 號 の 口 繪 と な つ た 色 紙 の 作 者 及 川 全 三 君 は

、 嘗 て 慶 應 幼 穉 舎 の 教 員 で あ つ た

。 後 工 藝 の 仕 事 に 志 し て 、 陸 中 和 賀 郡 十 二 鏑 村 の 故 郷 に 歸 つ て 仕 事 を 始 め 出 し た

。 第 一 に 努 力 し た の は ホ ー ム ・ ス パ ン で あ つ た 。 私 共 は 日 本 の 各 地 で 勃 興 し つ ゝ あ る ホ ー ム ・ ス パ ン を 見 て ゐ る が

、 出 來 た 品 物 か ら 云 つ て

、 一 番 正 當 な 本 筋 の 品 は 及 川 君 の も の と

、 栃 木 縣 種 畜 場 の 海 老 名 君 の も の と だ と 思 ふ 。 日 本 で は メ リ ノ ー と コ リ デ ー ル 一 點 で あ る か ら

、 正 し い ホ ー ム ・ ス パ ン を 織 る こ と は 元 來 無 理 だ と 云 つ て い ゝ 。 却 て 毛 が よ 過 ぎ て 力 が 出 な い

。 併 し 其 の 性 質 を よ く 呑 み 込 ん で 適 宜 な 縒 り や 、 織 り や 、 厚 み や

、 縞 柄 や

、 特 に 染 め に 付 て

、 及 川 君 の や う に 行 き 渡 つ た 注 意 を し て ゐ る 作 者 は 他 に 殆 ど ゐ な い

。 大 體 岩 手 縣 は 試 驗 所 等 の 指 導 も あ つ て ホ ー ム ・ ス パ ン の 奨 励 が 盛 で あ る が 、 併 し 一 人 で 仕 事 を し て ゐ る 及 川 君 の 作 に 及 ぶ も の は な い 。 嚴 密 に 植 物 染 料 を 用 ゐ て 正 道 を 歩 み つ ゞ け て ゐ る こ と も 注 意 さ れ ね ば な ら な い 。

資料

3

㻌 『工藝』

87

号より抜粋①㻌

(3)

1

メモ

1

メモが挟まれた雑誌 号数 横島直道の研究報告

72号 植物染料による羊毛染の實際14)

74号 絹染の研究15)

75号 植物染色の日光堅牢度16)

1

に示す研究報告のタイトルと著者名の横島直道が書 かれていた。雑誌からはみ出した部分が日焼けしており、

及川が当該頁の目印にして読んでいたと考えられる。

横島は、材料、分量、濃度、時間等の染色条件を明示 した実験結果と考察を報告し、また、日光堅牢度試験に おいては、具体的な評価基準を示し数値で比較していた。

及川は、この前年に岩手県産の染草や染色方法等を解説 した『羊毛本染実驗覺書』

17)

を発行している。染色の著 書を発刊して間もない及川が、横島の科学的な研究報告 に興味をもったことは理解できる。

横島は、

72

号で羊毛の塩素処理の有効性と手法を資料

4

のように説明しており、当該箇所に下線を付した。羊毛 の塩素処理は、及川にとっても重要な工程であった。例 えば、及川の最初の内弟子であった福田ハレ子は「濃色 を染めたい時、及川工房では塩素処理をした。」

18)

と説明 している。しかし、及川の著書には、塩素処理の説明が みあたらない。及川は、著書刊行の以降に塩素処理を取 り入れるようになった

19)

と考えられ、横島の研究報告が、

そのきっかけになった可能性は否定できない。

それから

20

年余りが経過し、横島は、及川に書簡(

1958

(昭和

33

)年

12

月消印)を送っている。書簡には「お眼 にかゝったのが二十年も前のこと」と書 かれてあり、およそ

20

年前に及川と対面 したことが確認できる。対面の時期が、

雑誌

72~75

号が刊行されてからの時期と

近いため、塩素処理や染色方法が話題に 上った可能性もある。

4 .色染和紙と雑誌『工藝』

㻠㻚㻝 色染和紙と雑誌の表紙

及川は、柳からの依頼を受け、雑誌『工藝』の表紙に用 いる色染和紙を製作している。依頼が明確に確認できた 書簡は、表

2

に示す

4

通であった。柳は、

1

回目の依頼で 図

2

に示すように具体的な大きさ、枚数、出来上がりの イメージ等を丁寧に説明している。

1941

(昭和

16

)年以降の依頼はみられないが、この頃 の及川は、町長職(

1941

(昭和

16

)年

5

月~

1945

(昭和

20

)年

5

月)に就き、多忙を極めていた。また、柳は、

1938

(昭和

13

)年

3

月の書簡で、後に出版されることに なる『和染和紙』の計画を提案しており、それ以降の書 簡で毎回のように、及川が原稿、色染和紙等の催促に追 われていたことが確認された。

及川が表紙の色染和紙を取り組むようになってからの 柳の書簡をみると、蘇枋の色染和紙を強く要望している 点が注目される。蘇枋の用語が出現する書簡から当該箇 所を抜粋すると、次のようである。

1937

(昭和

12

)年

4

30

日消印

「皆の希望で「すおう」で染めた、赤色の紙もう一種加 へて頂かれずや、二種は既に出來近くと思ひますが、第 三のもの未着手の折はすおう染の紙に變更希へずや、」

た ゞ 普 通 の 羊 毛 に あ つ て は 、 玆 に 一 つ の 異 變 が 起 る

。 卽 ち 煎 汁 で 煮 沸 し て ゐ る 間 に 染 料 の 一 部 が 還 元 脱 色 し て

、 染 料 が 消 費 さ れ る 割 合 に 色 が 濃 く な ら な い 、 と 同 時 に 色 調 が 變 つ て 來 る の で あ る

。 然 し 此 の こ と は

、 豫 め 羊 毛 に 鹽 素 處 理 を 施 し て 置 け ば 殆 ど 起 ら な い 、 と 同 時 に 鹽 素 處 理 に よ つ て 染 料 の 吸 收 も づ つ と 增 し て 來 る

。 鹽 素 處 理 之 を 行 ふ に は 先 づ 羊 毛 一 瓩 を 湯 ざ ら し し

、 冷 や し て 水 を 含 ま せ て 置 き

、 別 に 漂 白 粉 二 十 瓦 を 木 綿 袋 に 入 れ て 四 斗 樽 に 八 分 目 に 張 っ た 水 の 中 に 振 り 出 し

、 濃 硫 酸 五 十 瓦 を 加 へ て よ く 攪 拌 し 、 先 の 羊 毛 を 入 れ て 手 早 く 攪 き 廻 は し

、 更 に 時 々 攪 き 廻 は し な が ら 十 五 分 間 置 き

、 引 き 上 げ て 水 洗 す る の で あ る 。 此 の 鹽 素 處 理 は

、 實 際 上 非 常 に 有 効 で あ っ て

、 發 色 が よ い 許 り で な く 、 槪 し て さ え た 色 が 得 ら れ る

資料

4

㻌 『工藝』

72

号より抜粋 図

2

㻌 柳宗悦書簡 (東和ふるさと歴史資料館 所蔵) より抜粋

依頼 消印 書簡より抜粋

1回目 1937

(昭和12315

先日も一寸お希ひ致しましたが君の手になる色紙で

「工藝」の表紙を得たく、二種又は三種至急お作らせ 下さいませんか、色は先日拜見せしものゝ中から自由 に選んで下さつてよく、萬事御一任します。

2回目 1938

(昭和1385

若しお仕事に差支へなくば「工藝」の表紙にする紙、

又三、四種お作り下さらずや、今度は藍、綠、黄等の 系統の色は如何、又顔料もいゝと思ひます、お希迄

3回目 1939

(昭和1424

三たび「工藝」表紙用の色紙三、四種お希ひ致した いのですが御配慮希へたら幸甚です。色は材料の 御都合で何なりとお委せ致します、

4回目 1940

(昭和15427

桑紙を漉かれる時、ついでに「工藝」の表紙、二、三 種希へませんか、一つは白のまゝで結構、板締めの 如き法で線入のものもよくはないかと考へます、お希 ひ出來れば此上ありません。

2

㻌 依頼の柳宗悦書簡㻌 (東和ふるさと歴史資料館 所蔵)

(4)

1937

(昭和

12

)年

6

17

日消印

「いつぞやお希ひせし蘇枋紙の件薄くともよいと思ひま すが裏打の時糊が作用して多少變色するのが殘念です。

次の方法は不可能にや、一旦相當の厚みに普通の白色の 紙を漉き、更に蘇枋を入れた別の舟を用意してその上に 薄くそれを漉き加える事出來ずや、上層だけが蘇枋紙と なるわけです。尤も後より染めるのでしたら此の方法は 不必要と思ひますが。いつぞや拜見した紙大變美しかつ たので何とかして用ゐたき心を強めてゐます。」

1937

(昭和

12

)年

7

14

日消印

「蘇枋染紙作つて頂ける由、大變嬉しく思ひました、お ついでに小生の爲に五十枚餘分お作り下さらずや、表具 に用ひたき考へ。」

1937

(昭和

12

)年

7

27

日消印

「蘇枋染紙の事て御厄介かけ恐縮、樂みにしてゐます、」

1937

(昭和

12

)年

8

20

日消印

「美しき紙お届け頂き嬉しく拜受、御苦心千萬感謝、蘇 枋のも樂しみにしてゐます、」

以上の

5

通に蘇枋が出現していたが、

1

種の色について 複数回にわたって述べているような色は、他にはない。

落ち着きと深みのある上品な蘇枋染の赤は、美しさが際 立っていたと考えられる。蘇枋染の紙が、和紙を特集し た

87

号の表紙に用いられたことも、柳の蘇枋染に対する 強い思いの表れと考えられる。

2

回目の依頼では、和紙の色について「藍、綠、黄等の 系統の色は如何」と具体的に要望している。藍が

94

号、

黄が

97

号、綠が

99

号に用いられており、及川は、柳の 要望に的確に応えていたことが認められる。

3

は、及川の作であることが確認された色染和紙の表 紙を示している。表紙の絵漆装幀は、すべて鈴木繁男の 作である。刊行からおよそ

75

年が経ち、変退色は否めな いが、表紙の折り込まれた内側や裏側で見る色は、当時 の美しい色を彷彿とさせる。雑誌の挿絵目次の頁には、

表紙の作が記されていたが、「陸中十二鏑」と「及川全 三」の二通りの表記が確認された。及川は、雑誌『工藝』

の編集に関わらないため、柳ら編集関係者による表記と 考えられる。ちなみに、

78

号の表紙は「野州烏山」、

77

号は「陸前中田」、

76

号は「雲州岩坂」となっており、

表紙に用いた和紙の産地が記されていた。その様式に倣 い「陸中十二鏑」となったのではないかと推察される。

しかし、

87

号の蘇枋染による表紙は「及川全三」となっ ており、和紙産地の和紙とは違う意味づけであったと考 えられる。すなわち、柳は、蘇枋染や藍、緑、黄の色を 要望し、及川が美しい色染和紙で応えたことを機に、和 紙工芸家として及川の名を表記したと考えられる。

ところで、柳は、雑誌

120

号の表紙について、

1948

(昭 和

23

)年

1

29

日消印の書簡で、「「工藝」百二十號の 表紙の事、深謝」と述べている。さらに、同年

7

14

消印の書簡では「工藝百二十號の表紙どうなつてゐるで せうか。」と進捗状況を尋ねている。

120

号表紙の色染和 紙も及川の作であった可能性は高い。しかし、表紙の作 が、絵漆の鈴木繁男のみの表記であったため、図

3

には 含めていない。

79

号 昭和

12

9

月 陸中十二鏑

*

車輪梅(石灰)

83

号 昭和

13

1

月 陸中十二鏑

*

山躅躑(鐵)

87

号 昭和

13

4

月 及川全三

*

蘇枋(明礬)

88

号 昭和

13

5

月 陸中十二鏑

*

楊梅(明礬)

93

号 昭和

14

2

月 陸中十二鏑

*

楊梅(明礬)

94

号 昭和

14

3

月 及川全三

*

97

号 昭和

14

6

月 及川全三

*

阿仙藥(重クロム 酸カリ)

99

号 昭和

14

10

月 及川全三

*

藍に、刈安(鐵)ま たは楊梅(明礬)の 上掛

102

号 昭和

15

3

月 及川全三

*

刈安(鐵)

注記)表紙の下段の説明は次のとおり㻌 㻌

103

号 昭和

15

10

月 及川全三

*

山躅躑(明礬)

図 及川の色染和紙による表紙(花巻市立東和図書館所蔵)

号数㻌 発行年月㻌

表紙の紙の製作者あるいは産地㻌 㻖推定される色染和紙の染料㻌

(染料は、及川の著書『和染和紙』

に収録された色紙見本を参照し、

著者が推定した)

(5)

㻠㻚㻞㻌 雑誌 㻤㻣 号の色染和紙

雑誌『工藝』は、

28

号、

59

号、

87

号の

3

回において和 紙を特集したが、そのうち

87

号の口絵

12

枚が、及川の 色染和紙である。柳は、同号の「色染和紙(口繪小註)」

で次のように述べている。

「及川君から紙漉の仕事に對して、何か寄稿を受けたく 切望したが、遠慮されて遂に書かれなかった。併し同氏 からいゝ手紙を受けたので、悦びを頒ちたくこゝに掲載 させてもらつた。」

20)

雑誌には、手紙の全文が掲載されたが、その一部を資料

5

に示す。色紙の美しさの説明箇所に下線を付した。植物 性染料による色の美しさが、自然の恩恵であること、時 とともに程よい渋さを有すること等が述べられている。

また、柳からの寄稿依頼に対し「何も書けません。」と

きっぱり断った理由は、県内の他の和紙産地(現在の一 関市東山町等)を見ていないからというものであった。

断りの理由は、柳に遠慮していると映ったようであるが、

及川の仕事に対する真面目さ、謙虚さの一面と窺える。

資料

6

は、資料

3

に続く柳の色染和紙の紹介文である。

及川が紙漉きを始めた場所が読み取れる箇所に下線を付 した。十二鏑村の古い紙漉場は、成島を指している。及 川が色染和紙を手がけるようになった経緯について、野 呂氏は、

2011

10

月に取材した折、次のように話してい た。

「ちょうど成島の方に和紙があって、そこでは傘を作っ てらしたんですね。そこで染めをちょっと頼まれたりさ れて、やっているうちに和紙の和染というものを思いつ いたようですね。」

傘用の和紙に着色したことが、色染和紙に取り組むきっ かけであったことが理解できる。ここで、和紙に着色す ることと、色染和紙の違いについて、及川が

1948

(昭和

23

)年に刊行した著書『和染和紙』をみると、資料

721)

に示す下線部の“成紙の染”と“紙料の染”の違いであ ることが確認できる。傘用の和紙に施した着色が前者に よる方法、口絵や表紙に用いた色染和紙が後者による方 法である。前者は紙の加工であるが、後者は紙漉の一工 程であり、出来上がる紙に大きな差があらわれるという。

和紙の色紙の多くは、前者の成紙染であるといわれ

22)

、 及川による後者の植物性染料の紙料染は、斬新で独創的 な取り組みであったことが認められる。ところで、紙料 染は、繊維の状態で染めることであるが、これはホーム スパンの染色と共通する。ホームスパンは、繊維の状態 で染色することがほとんどであり、及川は、ホームスパ ンの染色方法を色染和紙に応用したと考えられる。

色 の 美 し さ や 澁 さ は 、 染 め る も の ゝ 技 術 で は な く 、 本 染 の 功 徳

、 自 然 の 惠 み で 、 乾 し 板 か ら 剝 が し た 時 つ ま ら ぬ 色 で も 、 時 が 經 つ う ち よ き 程 の 澁 さ が 加 は り 、 色 が 内 か ら 吹 き 出 、 紙 の 質 に も 所 謂

「 な れ

」 を 得 ま し て 、 つ い 見 直 し て 了 ひ ま す 。 有 難 い こ と だ と 存 じ ま す

( 略 )

「 工 藝 」 へ は 何 も 書 け ま せ ん 。 圖 ら ず も 御 讃 め い た ゞ き 汗 を 搔 い て 居 り ま す の が 感 想 の 全 部 で ご ざ い ま す

。 陸 中 の 紙 に つ い て も 當 地 よ り も 大 き な 紙 漉 の 部 落 、 田 河 津

、 長 坂 、 眞 瀧 な ど の 現 地 を 見 て 居 ま せ ん の で 、 や は り そ れ ら を 見 て か ら 此 の 次 若 し 機 も あ り ま し た な ら

、 書 か し て い た ゞ く の が 本 當 だ ら う と 思 ひ ま し て 、 今 回 は 止 し ま し た 。 勝 手 を い た し ま し て 申 譯 も ご ざ い ま せ ん

資料

5

㻌 『工藝』

87

号掲載の及川の手紙より抜粋 㻌

此 の 植 物 染 料 へ の 注 意 は

、 引 い て 紙 染 め の 仕 事 に 同 君 を 誘 つ た 。 及 川 君 は 前 か ら 和 紙 に 對 し て 特 別 な 興 味 を 有 ち

、 其 の 選 擇 も 中 々 嚴 密 だ つ た 。 偶 々 故 郷 の 十 二 鏑 村 に 古 い 紙 漉 場 が あ る の で 、 其 の 仕 事 を 活 か し

、 苦 心 し て 立 派 な 紙 を 作 り 出 し た

。 質 が よ く 特 に 染 め が 美 し い

。 色 紙 の 點 で は 他 に 類 例 を 見 ぬ 程 本 格 で あ る

。 近 時 は 紙 漉 の 舟 を 自 分 の 工 房 内 に 設 け て 製 作 に 從 事 の 由 で あ る か ら 、 益 々 質 や 色 が 洗 練 さ れ て 來 た こ と ゝ 思 ふ 、 本 號 に 載 る 凡 て の も の は 、 同 氏 の 近 業 で あ る

。 又 蘇 芳 染 の 表 紙 も 特 に 本 誌 の 爲 に 作 ら れ た の で あ つ て 、 他 で は 求 め る こ と が 出 來 な い

。 是 等 の 實 物 が 示 す 通 り 如 何 に 本 染 の 品 物 が 美 し い か

、 又 是 等 の 紙 が 昔 の も の に 亙 し て 決 し て 引 け 目 を と ら な い も の で あ る か を 知 ら れ る で あ ら う 。 正 し い 仕 事 を ど こ 迄 も 守 ら う と す る 同 氏 の 努 力 に 深 く 敬 意 を 拂 ひ た い

。 及 川 君 の 仕 事 に は 護 摩 化 し た 所 が 毛 頭 な い

。 か う 云 ふ 仕 事 ぶ り は 誰 も 學 ぶ べ き 點 と 思 ふ 。 今 後 同 氏 の 紙 は 「 た く み 」 工 藝 店 で 得 ら れ る 筈

資料

6

㻌 『工藝』

87

号より抜粋②

色 紙 の 作 り 方 に 二 つ あ る

。 一 つ は 作 ら れ た 紙 、 卽 ち 成 紙 に 着 色 を 施 す 仕 方

、 他 の 一 つ は 豫 め 染 料 に 着 色 し て 紙 に 作 る 仕 方 で あ る 。 前 者 は 從 來 和 紙 に 普 通 の 仕 方 で あ り 、 量 的 な 生 産 を 行 う 洋 紙 の 場 合 で は 後 者 が そ の 本 筋 で あ ら う 。

( 略

) 布 帛 の 場 合 は 、 染 が 織 に 先 後 す る こ と に よ つ て 結 果 に 大 し た 相 違 を 見 な い し

、 手 數 の 上 か ら 無 地 の も の は 多 く 布 染 に さ れ る 。 し か し 紙 で は 、 色 料 の 相 違 は い ふ ま で も な い 。 成 紙 の 染 と 紙 料 の 染 と で は 大 き な 差 異 を 作 つ て し ま ふ の で あ る

。 こ ゝ で は 作 り 方 の 相 違 は そ の ま ゝ 色 紙 の 種 別 に な る 。

( 略

) 齊 し く 紙 へ の 着 色 な の で あ る が

、 成 紙 の 染 は 純 粹 に 紙 の 加 工 で 、 こ ゝ で 染 は も は や 紙 漉 の 仕 事 で は な い

。 し か し 紙 料 染 で は 、 一 連 の 紙 漉 工 程 中 か ら 染 の 仕 事 を 分 離 し 難 く 、 こ ゝ で 染 は や は り 製 紙 の 一 工 程 な の で あ る 。

資料

7

㻌 『和染和紙』 (花巻市立東和図書館 所蔵) より抜粋

(6)

5 .結語

本研究では、柳宗悦が主幹となった民芸運動の同人誌、

雑誌『工藝』と及川の接点に注目し、ホームスパンと色 染和紙の取り組みを考証した。

柳は、雑誌において

3

回ほどホームスパンを紹介してい た。最初の紹介は、

1934

(昭和

9

)年

5

月刊行の雑誌であ ったことにより、及川が帰郷した

1933

(昭和

8

)年

11

月 には、すでに植物性染料による羊毛の染色技術を習得し ていたことが確認された。晩年になって及川は、羊毛の 植物染色の研究に

5

年も要したと述べており、東京在中 に羊毛の染色技術を完成させていたことが認められた。

及川のホームスパンの特徴は、紡ぎの強い縒りであった が、これは、やわらかい羊毛でも弾力性のあるしっかり したホームスパンを作るためであり、このような紡ぎの 特徴は、当時の日本のホームスパンにあまりみられない ものであった。また、柳は、ホームスパンの染色につい て及川ほどの作者はいないと述べており、美しい色を表 現する技術が卓越していたことが認められた。

及川は、

1937

(昭和

12

)年発行の雑誌の中で、横島直 道の染色に関する研究報告

3

編にメモを挟み、関心を示 していた。そのうちの

1

編には、羊毛の塩素処理が説明 されていた。塩素処理は、及川にとっても重要な工程で あったが、及川の著書『羊毛本染実驗覺書』(

1936

(昭 和

11

)年発行)にみられないことにより、塩素処理を行 うようになったきっかけが、横島の研究報告であった可 能性はあると考えられた。

柳は、

1937

(昭和

12

)~

1940

(昭和

15

)年の間で

4

回 ほど、雑誌の表紙用の色染和紙を及川に依頼していた。

表紙の色染和紙が、及川の作であることを確認できたも のは、

1937

(昭和

12

)~

1940

(昭和

15

)年の間の

10

冊 であり、作として「陸中十二鏑」と「及川全三」の二通 りの表記が認められた。それ以前の雑誌をみると、和紙 の産地が表記されていたことにより、その様式に倣い「陸 中十二鏑」になったと考えられた。しかし、

87

号の蘇枋 染の表紙は「及川全三」と表記され、和紙産地とは違う 意味づけであったと考えられた。柳は、複数回にわたる 書簡で蘇枋染を強く要望しており、また、藍、緑、黄の 具体的な色を要望しており、及川が美しい色でそれらに 応えたことを機に、柳が和紙工芸家として及川の名を表 記したと推察された。

及川の色染和紙は、和紙を特集した

87

号の口絵に採用 され、当該雑誌のテーマの一つになる等、それまでの和 紙とは趣を異にするものであった。及川の著書『和染和 紙』をみると、和紙の色紙の多くは、成紙した後に染め られるが、及川は、紙料の段階で染める方法を取り入れ ていた。成紙の染色と紙料の染色では、出来上がりに大 きな差があらわれるといい、及川の紙料染色の方法は、

斬新で独創的な取り組みであったと考えられた。

文献㻌

1)

柳宗悦:工藝

12

号 編輯餘錄,聚楽社,

1931

年,

pp.59-60 2)

柳宗悦:柳宗悦全集 第二十巻,筑摩書房,

1982

年,

pp.57-58

3)

柳宗悦:民藝四十年,寶文舘,

1958

年,

p.79

4)

柳宗悦:工藝

12

号 編輯餘錄,聚楽社,

1931

年,

p.64 5)

工藤紘一:柳宗悦と岩手の民芸,岩手県立博物館研究報

告第

24

号,

2007

年,

pp.84-85

6)

盛岡市先人記念館:第

48

回盛岡市先人記念館企画展

「民藝に魅せられた人々㻌 岩手の民藝運動と先人たち」,

2012

年,

p.6

7)

柳宗悦:工藝

41

号 同人雜錄,聚楽社,

1934

年,

p.75 8)

東京民芸協会:及川全三を囲む会,民芸手帖

49

2

月号,

189

号,

1974

年,

pp.44-45

9)

菊池直子:及川全三の人間性とホームスパン取り組みへ の契機,岩手県立大学盛岡短期大学部研究論集第

15

号,

2013

年,

p.41

10)

盛岡市先人記念館:前掲,

2012

年,

p.6

11)

東和町先人顕彰事業推進協議会:東和町先人顕彰誌

「清流猿ヶ石」,東和町教育委員会,

2005

年,

p.120 12)

柳宗悦:工藝

73

号 雜錄,日本民藝協会,

1937

年,

p.77 13)

柳宗悦:工藝

87

号 編輯後記,日本民藝協会,

1937

年,

p.75

14)

横島直道:植物染料による羊毛染の實際,工藝

72

号,日 本民藝協会,

1937

年,

pp.42-49

15)

横島直道:絹染の研究,工藝

74

号,日本民藝協会,

1937

年,

pp.53-58

16)

横島直道:植物染色の日光堅牢度,工藝

75

号,日本民 藝協会,

1937

年,

pp.33-48

17)

及川全三:羊毛本染実驗覺書,岩手縣教育會出版部,

1936

18)

福田ハレ子:岩手の羊毛染め,染織と生活

No.19

1977

年,

p.21

19)

菊池直子:ホームスパン工芸への及川全三の取り組み,

岩手県立大学盛岡短期大学部研究論集第

15

号,

2013

年,

p.46

20)

柳宗悦:色染和紙(口繪小註),工藝

87

号,日本民藝協 会,

1937

年,

p.68

21)

及川全三:和染和紙,「工藝」編輯室,

1948

年,

pp.14-16 22)

前掲,

p.15

謝辞㻌

本研究を進めるにあたり、花巻市立東和図書館の皆様方、

東和ふるさと歴史資料館の皆様方にご高配をいただきま した。厚く御礼申し上げます。また、野呂淑子様には、

岩手に出向いていただきご協力をいただきました。心よ

り感謝申し上げます。

図 1  メモ 表 1  メモが挟まれた雑誌号数 横島直道の研究報告 72号 植物染料による羊毛染の實際 14)74号 絹染の研究15)75号 植物染色の日光堅牢度16)表1 に示す研究報告のタイトルと著者名の横島直道が書 かれていた。雑誌からはみ出した部分が日焼けしており、及川が当該頁の目印にして読んでいたと考えられる。横島は、材料、分量、濃度、時間等の染色条件を明示した実験結果と考察を報告し、また、日光堅牢度試験に おいては、具体的な評価基準を示し数値で比較していた。及川は、この前年に岩手県産の染草や染

参照

関連したドキュメント

横田基地将校クラブ 福生町役場 都水道局羽村取水所 村山貯水池畔 横田基地将校クラブ 横田基地将校クラブ 青梅市公民館 秋多町役場 日原鍾乳洞

キャンパスの軸線とな るよう設計した。時計台 は永きにわたり図書館 として使 用され、学 生 の勉学の場となってい たが、9 7 年の新 大

 昭和62年に東京都日の出町に設立された社会福祉法人。創設者が私財

1990 年 10 月 3 日、ドイツ連邦共和国(旧西 独)にドイツ民主共和国(旧東独)が編入され ることで、冷戦下で東西に分割されていたドイ

aTheTateModem3)4)5)(図6,7,8,9,10):ロン

 大学図書館では、教育・研究・学習をサポートする図書・資料の提供に加えて、この数年にわ

第 1.1.2-3 図及び第 1.1.2-6

昭和41年10月に、県木に指定され ている。石川県健民運動推進協議 会がケヤキ、アテ、ウメの3種の