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スロヴェニアからオーストリアへ 一ツァーンカルの作品集について1)

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スロヴェニアからオーストリアへ

 一ツァーンカルの作品集について1)

小泉 淳二

当地でドイツ語を使うのは/指図する 奥方様や旦那様/ならばスUヴェニア 語はというと、下男下女が下々で使う

一フランツェ・プレシェーレン2)

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 クラーゲンフルトのドラーヴァという、名前からしていかにもスラヴ系の書 店から、イーヴァン・ツァーンカル(1876−1918)の短編集が世に出たのは 1994年のことである。旧ユーゴスラヴィアが解体してまもない当時、スロヴ ェニアの国民文学への関心が、まずは隣りの国オーストリアで呼び覚まされた と見るべきだろう。

 ケルンテンの州都クラーゲンフルトは、スロヴェニアにごく近い。国境まで 幹線道路で27キロ、直線にしてほぼ20キロの距離である。町の南方を西から 東へ流れるドラウ川は、スロヴェニア領に達すると名を改め、ドラーヴァと呼 ばれるようになる。ドラーヴァ書店の名は、この川の流れにあやかったものに ちがいない。

 鉄のカーテンに遮られていたころは、ともすれば忘れがちであったが、川は 昔からっながっていたのである。ドラーヴァの水はスロヴェニアの大地を横切 り、やがてクロアチア領に入る。そしてハンガリーとの国境線を引きながら南

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東へ向かい、現在のユー一  t スラヴィア領にたどりつくところでドゥナヴの大河 に身を合わせる。

 ドゥナヴはもちろんドナウの別名であって、北へさかのぼればブダペストに 至り、その先はウィーンである。冷戦構造の崩壊とともに、ドナウの水系が育 んできた広大な文化圏への視界が、いちどきに開かれることになった。ツァー ンカルに対する再評価も、こうした大きな動向のなかに位置づけられるだろう。

 クラーゲンフルトのドラーヴァ書店からは、1994年以来、年に董冊という 着実なペースでツァーンカルの作品集が刊行されている3)。ドイツ語圏への紹 介は初めてではないものの、規模といい、内容といい、再発見と呼ぶにふさわ

しい。訳者のエルヴィン・ケストラーは2000年6月、オーストリア政府から 翻訳焔心を授与された4)。

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 翻訳はことばの境界を越え、新しい読者のもとへ作品を運んでいく。およそ 報われることの少ない地味な手作業だが、見かたによっては川の流れに通じる 営みでもあろう。ましてスロヴェニアは小国である。訳者の労が多とされた背 景に、なにかしらそのあたりの事情が手伝っているのではなかろうか。たしか に考えられそうなことではある。

 スmヴェニアの人口は190万。そのなかでスロヴェニア人は180万。イタリ ア北東部、クロアチア、オーストリア、ハンガリー南西部など、国外に四散し ている30万人を合わせても、スuヴェニア語を母語とする人びとの数は210 万程度といわれている5)。ことさらに多寡をあげつらうのは卑しいが、ヨー ロッパにおいては少ない部類に入るだろう。

 母国語を支えている集団の規模が比較的小さいため、ツァーンカルの場合に 限らず、一般にスロヴェニアの文芸作品は、そのままでは広範な読者層とは結 びつきにくい。翻訳者との幸せな出会いは、ドイツ語圏の新しい読者にとって はもちろんのこと、作品や作者の側から見ても、あるいは久しく待ち望まれて

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いたことなのかもしれない。

 けれども数の上での稀少価値とは別に、オーストリアとの歴史的なつながり が大いに働いていることを見過ごすわけにはいかないだろう。1282年、皇帝 ルードルフ1世のもとでハプスブルク家の支配下におかれて以来、第一次世界 大戦が終わるまで、スロヴェニアはオーストリアの圧倒的な影響にさらされて きた。かつてのクライン公領であり、帝国の一地方にすぎなかったという経緯

がある。

 公領は公国とも呼ばれるが、クラインという名称が実情を端的に表わしてい る。スロヴェニア語でクランスカ。地方、辺境、国境地帯の意味であり、セル ポ=クUアチア語のクライナやmシア語のウクライナと同じく、ドイツ語でい

うマルクにあたる。クロアチアが名目だけとはいえ、ともかくも王国の体裁を 保ちつづけたことに比べれば、スロヴェニアに与えられていた地位はかなり低 いものだったといわざるをえない。

 クmアチアがハンガリーとともに、のちのフェルディナント1世に王冠をゆ だねるのは1527年、対トルコ戦役に際してである。いっぽう早くからハプス ブルク家の庇護のもとにあったスロヴェニアは、トルコ人による支配を免れる ことができた。しかしながら帝冠の庇護下での繁栄の歴史は、同時に抑圧と抵 抗の歴史でもあり、自由と独立を求めるスmヴェニア人の闘いは、帝国が瓦解 するまで続いたのである。

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 このような経緯をいくらかでも念頭におけば、単なる物珍しさだけに気を引 かれて、スロヴェニアの国民文学に好奇の目を向けるわけにはいかなくなるだ ろう。オ・・一・一ストリアとスUヴェニアのあいだには、かつて何世紀にもわたる激 しい対立があり、両者は支配する者と支配される者の立場に否応なく立たされ ていた。その傷跡はいまだに残っている。

 第一次大戦終結後の1918年12月1日、クロアチア、セルビアとともに連合

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王国を結成したスロヴェニアは、オーストリアに対する領土要求を貫徹するこ とができなかった。旧シュタイアーマルクの南半分については、スロヴェニア への割譲が認められたが、スUヴェニア人が多数を占めていたもうひとつの地 域、旧ケルンテン南東部のドラウ川流域一帯は、1920年10.月IO日に実施さ れた住民投票の結果、ほぼそのままオーストリアに留められたのである。

 開票の内訳は、当該地域のオーストリアへの残留を支持する者22,025人、

セルビア人・クnアチア人=:スuヴェニア人王国への割譲を支持する者15,278 人というものであった6)。スロヴェニア系住民の内およそ1万人がオーストリ ア側に票を投じたといわれ、結果から見ると、彼らのそのような投票行動が全 体の帰趨を大きく左右したことが分かる7)。だからといって、このときの彼ら の判断に疑問を投げかけるのは当たらない。

 投票に先立って、ドイツ系住民の側からさまざまな働きかけがあったことは 事実だが、もともとカトリック教徒が圧倒的に多いスロヴェニア人にとって、

セルビア主導の連合王国に帰属することは、必ずしも望ましい選択ではなかっ たという側面がある。宗教が異なるばかりでなく、言語においても隔たりが あった。同じ南スラブの民族同士でありながら、文化的にも歴史的にもベオグ ラードは遠かったのである。

 スロヴェニア人の願いはあくまでも独立であり、セルビア人、クmアチア人 との大同団結は、イタリアの領土的野心から身を守るための窮余の一策にすぎ なかった。クラーゲンフルトを中心とする旧ケルンテン南東部は、カラヴァン ケン山地の北側に位置し、ウィーンとの距離も決して遠くない。発足後まもな い連合王国の混乱を目のあたりにして、スロヴェニア系住民のあいだに動揺が 広がったのは、むしろ当然のことであった。

 経済発展の可能性に賭けてオーストリアに留まるか、民族としての誇りのた めにあえてセルビアに庇護を求めるか。ドイツ人が唱える民主主義は本物か、

セルビア人は大セルビア主義を振りかざしていないか。いずれにしろ二級市民 の地位に甘んじるのであれば、どちらに運命をゆだねるべきか。およそこのよ

うな困惑のなかで、当時のスmヴェニア系住民は身を切られるような苦しい決 断を迫られたのである。まずはその苦哀を察するべきだろう。

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 こうしてスロヴェニア系住民の票は二つに割れた。連合王国への割譲を選択 した者のほうが多かったとはいえ、ドイツ系住民の票を合わせて全体の意思は オーストリアへの残留に傾いた。オーストリア領内に取り残されたスnヴェニ ア人の総数は、1921年の時点で4万!千人だったといわれている8)。現在もケ ルンテシ州の南東部を中心に、ほぼ2万人のスuヴェニア人が少数民族として 暮らしているという。

 ここで話はふりだしに戻るのだが、あらためて考え直してみると、ツァーン カルの作品集がクラーゲンフルトで出版されているという事実には、それなり の必然性が備わっているにちがいない。ドラーヴァという、表紙に印刷されて いる出版社の名称も、心なしか毅然とした姿勢を示しているように思われる。

ありきたりの外国文学の紹介にとどまらない、なにか確固たる意志のようなも のが伝わってくるのである。

 第一次大戦後、オーストリアに残されたスmヴェニア人は、第一共和国の時 代に同化を迫られ、その後のナチス政権下では厳しい迫害にさらされた。第二 次大戦後は、1955年のオーストリア国家条約によってスロヴェニア系住民の 権利が保証されたこともあって、さすがにドイツ人の側からのあからさまな敵 対行為は目立たなくなっている。それでも両者のあいだの軋礫が解消されたわ けではなく、折りにふれては潜在的な対立が表面に噴出する9)。

 国家条約というと、ドイツとの合邦禁止や永世中立宣言が主要な眼目として 知られるが、第7条には学校教育、地名標識、官公庁用語などにおけるスロヴ

=ニア語の併用を認める規定が盛り込まれている。しかし10月10日の住民投 票のわだかまりが尾を引いているケルンテン州では、二か国語で表記された地 名標識板をドイツ民族主義者が強引に撤去した事件をきっかけに、1972年以 降いわゆる地名標識板抗争が繰り広げられたことがあった。

 当時のユーゴスラヴィア政府との対外問題にまで発展したこの抗争は、1976

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年になってようやく終息した。あらたに少数民族保護法が定められ、同法の順 守を監視する少数民族委員会が設置されることになったのである。だが、それ にもかかわらず1987年には、学校教育におけるスロヴェニア語併用学級の存 廃をめぐって抗争が再燃した。廃止論者の急先鋒がまたしてもドイツ民族主義 者であったことはいうまでもない。

 法律の規定を無視して繰り返されるこのような侵害行為は、ドイツ系住民が 圧倒的多数を占めているという人口構成上の優位に支えられている。たしかに ケルンテン州の人口57万人の内、95パーセントがドイツ人であり、スロヴェ ニア系住民は3パーセント程度を占めるにすぎないといわれている。けれども 国勢調査にもとつくこれらの数字が、どこまで全体を表わしているかについて は疑問の余地があり、公の数値の背後に隠れているものは見きわめがたい。

 みずから少数者であると申告し、民族としての誇りを保つことは、差別や不 利益を我が身に招き寄せることでもあるだろう。民族聞の軋礫は家庭や個人の 内部にまで入り込み、さまざまな葛藤を引き起こす。スロヴェニア系住民の大 多数はドイツ語を自由に使いこなすことができる。結局は本人や保護者の申告 次第であって、スロヴェニア系住民の正確な規模については、州政府当局も把 握することができないというのが現状なのである10>。

 ケルンテン州でときおり表面化するこのような暴富は、一部の心ないドイツ 民族主義者だちが、数に物を言わせて無理やり事を運ぼうとした結果にすぎな いと考えることもできるだろう。だが、それだけでは済まされないような兆候 が現われているのも事実である。1989年には排外主義を公然と掲げる自由党 が州政府の政権を獲得した。ナチス時代の政策を肯定してはばからない党首の 言動に対し、内外から一斉に批判と憂慮の声が浴びせられたことは記憶にまだ

新しい。

 その後も自由党の躍進は続き、現在ではウィーンの中央政府において連立政 権の一翼を担うまでにいたっている。排外主義的な風潮が国内はおろか、ヨー

ロッパ全体に広がっていくなかで、オーストリアのスロヴェニア系住民は大き な不安に襲われているのではなかろうか。スロヴェニア人の歴史と文化に対す る十分な理解、そしてそのような理解にもとつく寛容の精神が、今こそドイツ

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人の側に強く求められているのである。

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 以上のような文脈のなかにツァーンカルの作品集をおいてみるならば、出版 それ自体のもつ社会的な意味合いは、もはや明らかであろう。スロヴェニアか らオーストリアへ送り届けられたメッセージであり、スnヴェニア人の歴史と 文化、そして心情がドイツ人に理解されることを強く求めている。出版社の名 称の由来に関しても、スロヴェニア人のアイデンティティを擁護し、ドイツ人

とのあいだをつなぐ架け橋たらんとする決意の表明と受けとめるべきだろう。

 7世紀から8世紀にかけてカランタニア侯国として独立していた一時期を別 にすると、スロヴェニア人はこれまで長いあいだ他民族の足元に膝を屈してき た。1992年1月の独立達成によって初めて、ドイツ人と肩を並べることので きる対等な地位を手に入れたのである。このような時機を逸することなく作品 集の刊行が始まったことについては、出版社側の目ざとさを云々することもで きようが、スロヴェニア人とドイツ人の新しい関係を築くためのささやかな第 一歩が踏み出されたのだと考えたい。

 こうした出版上の動きにオーストリア中央政府が関心を示し、翻訳者賞を用 意したことは、当然の反応であったと見るべきかもしれない。国内にスロヴェ ニア系住民を抱え、ただでさえ軋礫が絶えない。独立してまもない隣りの本国 は、同胞民族の処遇に神経を尖らせている。さらに2000年の上半期といえば、

連立政権への自由党の参加問題で国際的に孤立していた時期である。オースト リア共和国が寛容な国家であることを、内外に訴える必要に迫られていたのは 誰の目にも明らかであった。

 もちろんこのような穿った見かたは、たとえ当たっているにしても、それに よって翻訳の質や作品の価値が変わるものではないだろう。そろそろ本題に近 づくことにして、話の方向を文学に定めたい。これまでに述べてきたような オーストリアとの関係のなかで、なぜスロヴェニアの作家としてツァーンカル

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が真っ先に取り上げられるのだろう。その問いに答えるためには、帝政下にお けるスロヴェニア文学の流れに目を向け、ツァーンカルがどのように位置づけ られているのかを知る必要があるll>。

 国家をもたない民族にとって拠りどころとなるものは、なによりもまず言語 であろう。自由と独立を求める民族運動は、必然的に言語をめぐる闘争に結び つく。支配者の言語であるドイツ語の絶対的な優位を前にして、スロヴェニア 人の目標は、みずからの言語の地位を高めることに向けられた。新約聖書のス ロヴェニア語訳をはじめ、スmヴェニア語の文法書や辞典など、スロヴェニア 語で書かれた書物が初めて世に現われたのは16世紀後半のことである。

 しかし宗教改革の影響のもとで始まったこれら一連の言語改革運動は、ハプ スブルク家が掲げる反宗教改革の波に押しつぶされ、たちどころに消え去って しまう。民衆の話しことばとして蔑まれていたスロヴェニア語が、書きことば、

つまり標準語として本格的に定着し、国民文学を生み出す土壌が整えられるの は18世紀末から19世紀初頭にかけてであり、ヘルダーの思想やフランス革命 の余波が及ぶ時期まで待たなければならなかった。

 なかでも決定的な転機となったのは、ナポレオンによる統治であろう。わず か数年間とはいえ、オーストリアの足枷から解放されたことの意義には計り知 れないものがある。その後のウィーン体制下においても、また1848年の三月 革命が挫折に終わったのちも、このときの経験と記憶がスロヴェニア人に独立 への希望と確信を与えつづけることになる。そして、ひとたび燃え上がった民 族意識の高まりは、国民文学への希求となって一挙にその誕生と発展をうなが

したのである。

 スロヴェニアの国民文学がこのような状況のもとで形成されていったことは 肝に命じておく必要があるだろう。神聖n一一一マ帝国の解体からオーストリア・・

ハンガリー二重帝国の崩壊にいたるまでのおよそ1 OO年聞は、帝国内の各地域

S8

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で民族解放運動が勢いを増し、ついに分離独立を勝ちとるまでの時期と重なる が、スロヴェニアにおいては国民文学の形成過程とも重なり合うのである。図 式的な見かたに陥ることを恐れずにいえば、その過程は19世紀の前半と後半、

さらに世紀転換期の三つに分けて考えることができる。

 19世紀前半、とくに三月革命前のいわゆる三月前期は、スロヴェニア国民 文学の誕生期にあたる。形式において完成度が高く、内量的にも密度の濃い好 情詩が、この時期になってようやく生み出された。代表的な詩人としては、フ ランツェ・プレシエーレン(1800−1849)の存在が際立っている。スロヴェ ニア語が芸術的な表現に十分耐えるものであり、支配者の言語に劣らないこと が示されたのは、まさに画期的なできごとだったといわなければならない。ス ロヴェニアのプーシキンと称えられるプレシェーレンは、現在のスロヴェニア 国歌の作詞者でもあり、文字通り国民的詩人の座を占めている。

 三月前期が拝情詩の成立期であり、ロマン派の時代だったとすれば、三月革 命以後の19世紀後半はリアリズムへの移行期であり、小説の時代であったと 見なすことができるだろう。スロヴェニア語の新聞、雑誌、そしてなによりも 書籍の発行部数が大幅に伸び、読者層が次第に厚みを増していくなかで、ジャ ンルとしての散文が確固たる地位を獲得する。短編小説ばかりでなく、長編が 広く読まれるようになったのもこの時期である。スmヴェニア文学史上初めて の長編小説は、1866年から翌67年にかけて生み出された。代表的な作家とし ては、理論と創作の両面で主導的な役割を果たし、演劇の発展にも寄与したフ ラン・レーウスティク(1831−1887)の名が筆頭に挙げられよう。

 こうして19世紀末を目の前にした時点で、スロヴェニア文学はようやくみ ずからの足場を固めるにいたる。しかしながらドイツ語圏の文学と肩を並べる には、今しばらくの時間が必要であったといわざるをえない。書物の出現から 正書法の確立を経て、拝情詩や散文など国民文学が成立していく過程を一見し

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ただけでも、すべての面で大きく立ち遅れていることは明らかであろう。その ことに関連してもうひとつ付け加えるならば、民族運動との強固な結びつきが、

いわゆる純粋芸術を志向する際の妨げとなっていたことも否めない。19世紀 のスロヴェニアの文学者たちは、郷土の民衆の国語教育を担う存在として、多 かれ少なかれ啓蒙的な使命を帯びていたからである。

 いっぽうヨーロッパ文学の主流は、すでに大きな転回点に到達し、モダニズ ムの時代に突入しようとしていた。世紀転換期のスロヴェニアの詩人、作家た ちは、望むと望まないとにかかわらず、この大波に巻き込まれながらスロヴェ ニア現代文学の礎を築いていくことになる。いまだに地方性の殻を打ち破るこ とができないスロヴェニアの文芸を、一世代で一気にヨーロッパの水準まで押 し上げる力業が求められていた。そればかりか諸民族の自治を求める運動が頂 点に達し、ハプスブルク帝国の土台が突き崩されていくさなかで、スロヴェニ ア人の心情を一身に体現することをも求められたのが彼らの世代であったとい えるだろう。そのなかで先頭に立って旗手の役割を果たしたのが、好情詩にお いてはオートン・ジュパーンチチ(1878−1949)であり、散文においてはツ ァーンカルなのである。

 ジュパーンチチとツァーンカルは、スロヴェニア現代文学の起点に位置し、

第二次大戦以降に活躍する若い世代にまで強い影響を与えているt2)。スnヴ ェニアの場合に限らず、国民文学の成立と発展には、それぞれ独自の奥行きと 広がりがあり、安易な図式化を許すものではないだろう。また文学史における 位置づけは、あくまでもひとつの判断に過ぎず、決定的なものではありえない。

それでも現時点ではプレシェーレン、ジュパーンチチ、そしてツァーンカル、

この三人の地位には動かしがたいものがある。プレシェーレンはスmヴェニア 近代文学の始祖であり、ジュパーンチチはスロヴェニア現代詩の第一人者にほ かならない。二人が心情詩人としてスロヴェニア近現代詩の頂点に立っている

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とするならば、ツァーンカルはスロヴェニア散文文学の巨匠と見なすことがで きるのである。

 ツァーンカルの20年にわたる作家活動の期聞は、ちょうどハプスブルク帝 国の末期に重なっている。もともと芸術至上主義的傾向のきわめて強い作家で あって、政治的な資質を兼ね備えていたわけではなかったが、激動する時代の 奔流によって民族解放運動の渦のなかへ投げ込まれ、時事的な問題に積極的に 関与するようになる。1907年5月の帝国議会選挙に際しては、南スラブ社会 民主党から立候補して落選した13)。1913年4月に行なった講演では、今こそ 帝国から離脱すべきであるとスロヴェニアの民衆に訴えかけ、董週間の獄中生 活を余儀なくされている14)。第一次大戦開戦直後の1914年8月下旬には、セ ルビア側に好意的な要注意人物として6週間勾留された15)。1915年末に帝国 陸軍兵士として招集されたときも、厭戦的な態度を隠さず、軍紀を無視して罰 せられ16)、除隊を許されたときには、精神的にも肉体的にも崩壊寸前であっ たという17)。そして帝国が瓦解し、オーーストリアからの解放が宣言されてか

らle日後の1918年12月ll日、あたかもその報せを待っていたかのように リュブリャーナで病没したi8)。単なる偶然の符合とはいえ、民衆の側に立ち つづけた作家の最期として、読者の心には刻み込まれるものがある。

 スロヴェニア語による散文芸術をヨーロッパの水準にまで押し上げ、自由と 独立を求める同胞の心情を表現したツァーンカルの作品が、百年の歳月を経て ドイツ語圏で本格的に再評価されるにいたったことは、スロヴェニアからオー ストリアへ送り届けられたメッセージとして真摯に受けとめる必要があるだろ

う。またスロヴェニアの文芸作品が広範な読者層に結びつく機会を得たことは、

何をおいてもまず歓迎すべきことである。しかしそれだけのことであれば、あ えてこの場で取り上げるには当たらない。スロヴェニア文学研究ないしスラブ 研究の範疇に属する問題であり、たとえ間口を広げて論じることができるとし ても、ドイツ語圏への受容、もしくは民族問題の領域にとどまることになるか らである。

 ツァーンカルの作品がドイツ文学研究の場面で考察の対象となりうるのは、

ウィーンとのかかわりにおいてであろう。帝政時代のスnヴェニアの知識人た

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ちは、ドイツ語を自由に使いこなし、ドイツ語圏の文化から強い影響を受けな がら自己を形成していった。プレシェーレンは法学を、ジュパーンチチは地理 学と歴史学を、ともにウィーン大学で修めている。もちろんこれは帝国政府の 言語政策の結果であり、スロヴェニア語による高等教育の機会が最初から奪わ れていたということの裏返しにすぎない。リュブリャーナに大学が設置される のは1919年になってからのことである。

 そのような状況のもとでツァーンカルもまた、スロヴェニアからオーストリ アへ向かい、帝国の首都に足を踏み入れている。最初の滞在はちょうど二十歳 のときであった。1896年秋から翌97年春にかけてウィーン工科大学に1学期 問在籍したあと、いったんリュブリャーナへ戻っている19)。そして明くる年 の1898年H月に再度ウィーンを訪れるのだが、二度目の滞在の目的は勉学で はなく、一切を捨てて創作に専念するためであった。このときから1909年ま でのll年間、あいだに何回かの帰郷を挟みながら、ツァーンカルはスロヴェ ニアの作家として帝都に踏みとどまることになるのである。

 ll年間といえば、ツァーンカルの作家活動の半分を越える長い期間である。

ただ単に長いだけではなく、代表作の多くが生み出された実り豊かな歳月でも あった。なによりもまず興味を引かれるのは、作家としての自己形成がウィー ンの片隅で行なわれている点であろう。スロヴェニア語で作品を書くツァーン カルが、あえて帝都に踏みとどまった理由については、生家や故郷の文壇との 関係、ウィーン滞在中の部屋主シュテフィ・レフラーとの内縁関係など、いく つもの要因が絡んでいて性急な判断は控えたいが、本格的な作家活動を開始す るにあたってウィーンを拠点に定めた背景には、ヨーロッパ現代文学の最先端 に少しでも近いところに身を置きたいという、遅れてきた者ならではの切迫し た思いが強くはたらいていたにちがいない。しかもこの場合、模倣ということ ばは当てはまらないだろう。受容と創造が凄まじい速度で同時に進行していっ

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た跡が見てとれるのである20)。

 個々の作品に即しながら具体的に述べることは省くが、芸術至上主義者とし て出発したツァーンカルは、ホフマンスタールらウィーンの詩人、作家たちが 通っていった道筋をたどるかのように、やがてみずからの文学を蝕んでいたデ カダンスの克服にとりかかる21)。その際に手がかりとなったのは、やはり彼 らの場合と同様に、生という概念であったろう。しかしツァーンカルにとって 生とは、帝都におけるスmヴェニア人労働者の悲惨な生活以外のなにものでも なかった。過酷な労働条件と貧相な住宅事情のもとで、飢えに苦しみながら結 核に冒されて次々に因れていく。そのような同胞たちの姿を目のあたりにして、

ツァーンカルの作品は、単なる自然主義とも異なる独特なリアリズムの相貌を 帯びるようになってくる。そして登場人物たちの陰惨きわまる運命は、いつし か文章の背後にいる作者の祈りと結び合わされ、殉教者を思わせるような象徴 の域にまで高められていくのである。

 ウィーンのモデルネを通してヨーロッパのモダニズムを吸収し、スUヴェニ ア独自のモデルナを打ち立てたツァーンカルの作品は、いわゆるウィーン世紀 末文学のありようと比較してみる価値があるだろう22)。滞在期間が長かった だけに、ウィーンを舞台にした作品も数多く、ウィーン在住のドイツ語作家た ちの目には写らなかった、もうひとつのウィーンが描き出されている。華やか さと軽やかさに美しく彩られている帝都の裏側には、スロヴェニアの民衆の悲 惨な日常生活が隠されていた。彼らの運命に目を向け、その心情を代弁してい る作者の声に耳を傾けることにも意義があるだろう。そしてまた、ツァーンカ ルの作家としての自己形成過程を追っていくことによって、ドイツ語圏の域を 越えた広い枠組みでハプスブルク=オーストリア文学を考える際の、なんらか の手がかりが得られるのではないだろうか。およそこのような期待をもってツ ァーンカルの作品に向かい合うことは、おそらく訳者や出版社も考慮に入れて いるにちがいない。

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 エルヴィン・ケストラーの訳によってドラーヴァ書店から刊行されているツ ァーンカルの作品選集は、最初の三巻がウィーンを舞台にした作品でまとめら れている。第玉出と第2巻は短編集、第3巻が長編である。それぞれの作品の 内容と特徴については機会をあらためて論じることにしたいが、実際に第1巻 と第2巻に収められている短編を初期から年代順に追っていくと、まずはすで に触れたように芸術至上主義が高らかに宣言され、いわゆる芸術家小説と見な すべき作品がいくつか並んでいることに気づかされる。そして主人公ないし登 場人物の設定の重心が、芸術家から徐々に労働者階級へ移されていくなかで、

独自の作風が打ち立てられていく過程が浮かび上がってくるのである。その際 に指摘しておかなければならないのは、作者の視線が労働者の家族に注がれて いる点であろう。スmヴェニア人をはじめ非ドイツ系の工場労働者は大都市の なかでもっとも弱い存在にはちがいないが、彼らの妻や幼いこどもたちがおか れているさらに救いのない状況が、読者の目の前に突き付けられるのである。

 また、第3巻の長編は中期の傑作に数えられる作品だが、そこに描かれてい る少女たちの運命には、もうひとつの『鼠舞』とでも呼びたくなるような調刺 と批判がこめられている。それでいながら模倣や亜流に堕するところが見られ ないのは、ウィーンのモデルネの作家たちから影響を受けると同時に、彼らに 欠落していだ下層からの視点を際立たせることによって、最終的には彼らの文 学に対抗ないし拮抗しうる地点に到達しているからにほかならない。さらに付 け加えていうならば、作家としてのツァーンカルがスラブ系文学の良質の部分 を受け継いでいるということも忘れてはならないだろう。先に述べたことばを 用いるなら、それは祈りであり、描かれている対象つまり同胞に向けられた際 限のない慈愛ということができる。人間としてのツァーンカルは典型的な破滅 型であり、人間嫌い、ニヒリスト、無神論者でさえあった23)。しかし、スロ

ヴェニアの散文芸術をドイツ語圏の文芸に勝るとも劣らない水準まで押し上げ た原動力は、教会に拠らない世俗的な心添さをみずからのなかから引き出すこ とによって得られたとも考えられるのである24)。

 もちろん事は一朝一夕に行なわれたわけではない。双肩に負わされた重荷に

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耐えかねて放蕩に逃れることは日常茶飯事であった。絶望のあまり帝都を流れ るドナウの水のなかに永遠の安息を見いだそうとしたこともある。橋の上から 水面をのぞきこみ、上体を大きく乗り出したときにツァーンカルを背後から引 き止めたのは、亡き母親ネジャの面影だったというが25)、もしかするとこの 告白のなかに、ツァーンカルの作品全体を解く鍵が示されているのではないだ ろうか。苛酷な生に疲れ果てたツァーンカルが求めたのは亡き母親の姿であり、

彼女に再会するために死を決意する。しかし生死の境目に立ったとき、ぎりぎ りのところで生死を越えた世界が切り開かれ、死者である母親が生者であるツ ァーンカルに新たな生を指し示す。作品のなかの主人公たちが死を通じて初め て得るものを、作者は夕日に照らされた橋の上で一瞬の幻覚の内に垣間見てい るのである。

 ツァーンカルがドナウの川面を見つめながら求めたのものは、母親とともに 過ごした幼年時代の思い出でもあったろう。ツァーンカルの生後まもなく火災 で家を失った一家は、リュブリャーナ川のほとりの粗末な小屋に移り住み、ツ ァーンカルは川の流れを目にしながら幼少年期を過ごしている26)。リュブ リャーナ川はサーヴァ川の支流である。サーヴァ川は、ドラーヴァと同じくド ゥナヴの大河に流れ込む。ドナウの水はスmヴェニアとオーストリアをつなぐ とともに、ツァーンカルの故郷と帝都をもつないでいる。次に稿をおこす際に は、まず作者の生い立ちに触れなければならないだろう。そのときにはまた、

川について述べることになるにちがいない。

1)本稿は2000年2.月19日、N欧比較文化研究会2月例会(於一橋大学西

 キ・ヤンパス)において筆者が行なった口頭報告「lvan CaRkar(18 76一・1918)

 の作品について」に基づいている。今回は同報告の導入部分だけを取り上  げて大幅に加筆した。

2) Zitiert nach: Ernst Trost: Das blieb vom Doppeladler. Auf den Spuren der

(16)

   versunkenen Donaurconarchie. MUnchen 1981. S.174.

3)Drava書店から刊行されているツァーンカルの作品集は以下の通り。

  (D Vor dem Ziel. Literarische Skizzeit aus Wien. Aus dem Sloweitischen und mit    einem Vorwort von Erwin K6stler. Klagenfurt 1994.

  @ Pavli ceks Krone. Literarische Skizzen aus Wien. Aus dem Slowenischen    Ubersetzt uRd rnit einern Nachwort versehen ven Erwin K6stler. Klagenfurt 1995.

  @ Das Haus der Barmherzigkeit. Roman. Aus dem Slowenischen Ubersetzt von    Erwin K6stler. Klagenfurt 1996.

  @ Aus fremdem Leben. ErzahlungeR und Novellefl. Aus dem SlowenischeR    Ubersetzt und mit einem Nachwort versehen von Erwin KOstler. Klagenfurt 1997.

  @ Traumbllder. Aus dem Slowenischen Ubersetxt, mit Anmerkungen und    eine n Nachwort versehen von Erwin Kdstler. Klagenfurt 1998.

  @ Nina. Kurent. Zwei Erzahlungen. Aus dem Slowenischen Ubersetzt von Erwin    Kdstler und Kristina Kallert. Mit Anmerkungen und einefn Nachwort von Erwin   K6stler. Klagenfurt 1999.

4) Vgl. Michael Guttenbrunner: Rede auf lvan Cankar [gehalten am 25. Juni 2000   im Musil−Haus in KlageRfurt, im Rahmen der Feier zur Verleihung des   6sterreichischen Staatsprelses fur Ubersetzer an Erwin K6stler]. ln: Literatur und   Kritik. Nr.345/346. Salzburg Juli 2000. S.19−24.

5) Brockhaus. Die Enzyklopadie. 20.Aufi. 24 Bde. Leipzig 1996−1999. Bd.20, S.326.

  以下の本文で触れるスロヴェニアの歴史および文学史、ケルンテン、シュ    タイアーマルクとの関連などについても同百科事典をしばしば参照、してい    る。スロヴェニア語人口については、ロン・E・アシャーほか編『世界民   族言語地図』 (土田滋ほか日本語版監修、福井正子訳、東洋書林、2000   年)にも記述がある。

6) Sonderausgabe der Klagenfurter Zeitung. 14. Okt. 1920, IB: Herbert Zippe (Hg.):

  Illustrierte Geschichte Osterreichs. 7.Aufi. lnnsbruck 1992. S.201.

7) Vgl. Ernst Hanisch: Der lange Schatten des Staates. Osterreichische   Gesellschaftsgeschichte im 20. JahrhuRdert. Osterreichische Geschichte

66

(17)

 1890・・1990.Wien l994. S。273.1920年10月IO日の住民投票をめぐっては、

 バーバラ・ジェラヴィッチ『近代オーストリアの歴史と文化一ハプスブ  ルク帝国とオーストリア共和国』 (矢田俊隆訳、山川出版社、1994年)

 136頁以下も参照のこと。

8)Meyers Lexikon.7.Aufi.12 Bde. Leipzig l 924−1930. Bd. l l, S.390.『世界大百科

 事典』 (平凡社、1988年)によれば、第一次大戦後オース・トリアに残され  たスロヴェニア人の総数は10万人であったという。統計上の問題点につい  ては、次の第IV章の本文および註Ieを参照のこと。

9)以下、第二次大戦後のオーストリアにおけるスUヴェニア人少数民族問題  については、Vgl. Susanna Gassner, Wolfgang Simonitsch:Kleines  Ostereich−Lexikon. Wissenswertes Uber Land uRd Leute. MUncheB 1987.

 S.51・f.,62,74,93£ バーバラ・ジェラヴィッチ(前掲書、267頁以下)のほか、

 ジョージナ・アシュワース編『世界の少数民族を知る事典』 (辻野功ほか  訳、明石書店、1990年)、マイノリティ・ライツ・グループ編『世界のマ  イノリティ事典』 (マイノリティ事典翻訳委員会訳、明石書店、璽996年)、

  『世界民族問題事典』 (平凡社、1995年)にも記述がある。

10) Vgl. Leopoid Scheidl, Herwig Lechleitner: 6sterreich Land−Volk−

 Wirtschaft in Stichworten.4.Aufi. Unteraged 1987. SAI,76£ 統計を見るかぎ

 り、ケルンテン州のスロヴェニア語人口は、第二次大戦後ゆるやかな減少  傾向にあるといえる。しかし個々の数値に目を向けると、スnヴェニア人  が多数を占めていた村落のなかには、わずかIO年間でスロヴェニア語人口  の割合が80%からII%に、あるいは55%から6%に激減しているところ  がある。また、52%から89%に急増したかと思うと、次の10年間で60  %に下がっている村もある。それぞれの村の人口それ自体にはほとんど増  減が見られないため、こうした不自然な変動の原因を出生や死亡、転出入  などに求めることは難しい。さらに本文では触れなかったが、ヴェンド語  を話す人びとの数をどう扱うかという問題もある。ヴェンド語はスロヴェ  ニア語の方言だが、ドイツ語からの借用語を数多く含んでいる。

11)以下に述べるスロヴェニア文学史、またツァーンカルの位置づけに関して

(18)

 は、Vgl. aBch Der・Literatur Brockhaus.3Bde. Mannheim 1988.『世界文学大:事

 典』 (集英社、1996−1998年)も参照したが、ジョルジュ・カステランほ  か『スロヴェニア』 (千田善訳、白水社、2000年)にはかなり詳しい説明  がある。

12) Vgl. France Bernik: lvan Cankar. Ein slowenischer Schriftsteller des euro−

 paischen Symbolisinus. 1876一一1918. Aus dem Slowenischen von Klaus Detlef Olof.

 M ncheR 1997. S.12.

B)ツァーンカルが立候補した選挙区はクライン公領のL晦a−Zago塵。リュ  ブリャーナの東方に位置し、議席数は1であった。Vg1. Erwin K6stler:

 Vorwort. In:Ivan Cankar:Vor dem Ziel. S.llf.このときの選挙は帝国臣民男

 性に普通選挙権が認められて以来、初めて行なわれたものである。Vg1.

 dazu:Isabella Ackerl:Die Chronik Wiens. Dortmund I988. S.350,352.落選に

 よってツァーンカルの政治生命は断たれたと見るべきかもしれない。Vgl.

 Welfrarn Walder: lvan Cankar als KUnst1月遅pers6nlichkeit, Graz 1954. S.72.

14)講演はリュブリャーナ市民会館において「スロヴェニア人とユーゴスラヴ  ィア人」という題目で行なわれた。特定の政党に依拠することなく、一作  家としてツァーンカルは民衆に語りかけ、帝国政府の対バルカン政策を激

 しく非難した。Vgl. Erwin K6stler:Nachwort. In:Ivan Caitkar:pavliどeks Krone.

 S.186£

15)リュブリャーナ城塞内の拘置所に10月9日まで勾留され、尋問を受けた。

 Vgl. Erwin K6stler: Nachwort. IR: lvan Cankar: Traumbilder. S.185£, 200.

16)送り込まれたのはシュタイアーマルクのユーデンブルクにある部隊であっ  た。軍医の好意によって6週間で除隊になったという。Vgl, ebd.,S.193.

17)Vgl. Wolfram Walder, S.72£前註とは異なり、ツァーンカルが軍務に服し  たのは6週間ではなく,2年間だったと記されている。営倉入りの懲罰を  受けたのは、新兵たちを率いて行軍演習に出たツァーンカルが、命令どお  りに帰営せず、彼らを連れて居酒屋に入ったためであるという。

18)Wolfram Walder(S.73)によれば風邪が元で亡くなったとのこと。肺炎  だったともいわれている。Vgl. dazu E. A Rheinhardt:V◎rwort. In:Ivan

68

(19)

  Cankar: Der KRecht Jernej. Eine Auswahl. Eingeleitet von E. A. Rheinhardt.

  Autorisierte Ubersetzung aus dem Slowenischen von G. jirku. Wien 1929. S.18.

  ケストラーは階段から転落したことが遠因であったことを示唆している。

  Vgl. Ervvin K6t}er: Vorwort. ln: lvan Cankar: Vor dem Ziel. S.19.

19)Wolfram Walder(S.24)によれば、工学を学ぶためにウィーンへやってき   たが、実際に聴講したのはスラブ文学とドイツ文学であったという。

20)Vg1. z。B. France Bernik, S.12ff.ツァーンカルに影響を与えた作家としては、

  メーテルリンク、ヴェルレーヌ、ボードレール、モーパッサン、マルセル   ・プレヴォー、バール、アルテンベルク、ホフマンスタール、デーメル、

  ハウプトマン、リーリエンクU一ン、ゲオルゲ、イプセン、エマソン、ド   ストエフスキーの名前が挙げられている(S.66)。

21) Vgl. ebd. S.16ff.

22)シュニッツラー・、ホフマンスタール、べ一ア=ホフマン、アンドリアンら   の作品との比較については、Vgl. Stefan Simonek:Slowenische Weltliteratur,

 6sterreichisch geprtigt. Zum Werk lvan Cankars. ln: Literatur und Kritik. Nr.

 309/3 10. November 1996. S.87−88.

23) Vgl. Wolfram Walder, S.31£, 35.

24) Vgl. Josef Friedrich PerkoRig: lvaR CaRkar und sein Volk. ln: lvan Cankar: Aus  dem FloriaRital, Die Ubertragung besorgten Thomas Arko und Josef Friedrich  Perkonig. Klagenfurt 1947. S.10f.

25) Vgl. lvan Cankar: Pavligeks Krone. S.174f.

26) Vgl. Wolfram Walder, S.ll.

参考文献

Renate Basch−Ritter: Osterreich−Ungarn in Wort und Bild. Menschen und LaRder.

 Graz 1989.

Gerhard Stadler: Auf rotweiBroteB Spuren. Ein Reisefuhrer durch die Donaumonar−

 chie. Wien 1997.

参照

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