朝鮮王朝時代肖像画の類型及び社会的機能
著者 趙 善美
雑誌名 美術研究
号 374
ページ 1‑24
発行年 2002‑02‑25
URL http://id.nii.ac.jp/1440/00006230/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止
http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
朝鮮王朝時代肖像画の類型及び社会的機能
︑
序言
一 ︑朝鮮朝肖像画の類型及び社会的機能 御 真
1 2功 臣 像
3
香老図像
4一 般士大
夫 像
5
女 人 像 結 論 僧
像
6一 ︑序言
肖像画というのは特定の性格をもった特定人物を描く絵画で︑ひろくみる
と人物画の 一 部門に属する ︒
この言葉は近来作られた用語で︑韓国の先人た ちの文献記録や讃文をみると︑肖像画を指して真︑影︑真影︑影子︑真容︑
(1)
影像︑画像︑影帖子︑写真等と呼んでいた
︒
韓国の肖像画は 三
国時代の高句麗古墳壁画にあらわれた墓塚の夫婦像がは じめで︑それから統
一 新羅時代及び高麗時代をへて綿々と制作されてきた
︒
その後︑儒教を実践的指導理念として標梼した朝鮮王朝になると︑ いわゆる
朝
鮮王 朝 時 代 肖 像 画 の類型 及 び 社 会
的機能
越
主 口
美
忠孝思想を基盤とした報本観念
( 先祖を大切にすること ) や崇賢思想によっ
て享杷用に使われる肖像画の需要が多くな
っ た ︒ また有事の場合︑功臣号が
策録され︑また︑大体︑"立閣図形 ( 閣をたてて︑肖像画を奉安すること ) が
なされ︑それ以外にも老図像及び祖師像の制作も少なからず行われた
︒
一 方︑肖像画制作においては古来
二
事不似︑便是他人
( ひ
げ
一 本でも違
えば︑その人にはなり得ない ) という趣民の下︑迫真の肖像画を描くために
画力を傾け︑鑑賞者の場合にも像︑王への逼真だけではなく︑写心まであって
はじめて佳作になるという厳格な鑑識眼が作用した
︒
そのためか︑最高の画 師と挙国的配慮が動員された王の真影制作においても"七分貌︑即ち七
O %
描き出されていれば︑満足いくものだとしたほどで︑肖像画というジヤ ンルにおいて要求される芸術的水準は非常に高いものであった
︒
肖像画におけるこういった伝神への努力のためか︑現在韓国の各地で子孫 及び儒林によって奉安︑杷られている肖像画の中には卓越した作品が少なく なく︑これを通して韓国絵画のもつ性格の
一 面が充分うかがえる ︒
本考は︑朝鮮王朝時代の肖像画全般を対象に︑どんな社会的︑制度的条件 下で肖像画が制作されたか︑またこういった制作動機や諸条件が肖像画の像 容形式や性格にいかなる影響を与えたのか︑そして︑朝鮮王朝時代において
233
美
研
t:I
す
'7'c プじ
神 f
第
七 四
肖像画とはどういう社会的機能︑及び意味をもっていたかについて考察しょ
うとするものである ︒
二︑朝鮮朝肖像画の類型及び社会的機能
朝鮮王朝時代の肖像画は描かれる像︑王(巴
2 2
)
の身分によって︑大略六
つの類型に区分できるが︑それは御真︑功臣像︑者老図像︑
一 般 士 大 夫 像
︑
女人像及び︑僧像である ︒
これから各章でそれぞれについて考察したいと思う ︒
御真
御真とは王の肖像画を指
( 旬︑御容︑昨容︑真容︑聖容︑王影とも呼ばれ
てきた ︒ 韓国で王の肖像画がどの時期になってはじめて制作されたかはつま
びらかでないが︑﹃新唐書﹂ の高麗伎条には"高麗伎︑有弾等︑掬筆︑鳳首笠
篠︑臥笠模︑竪府空復︑琵琶︑以蛇皮為槽︑厚寸余︑有鱗甲︑椴木為面︑象牙
為拝援︑画国王形という字句が見られる ︒ これは高麗伎(唐高祖が即位して
設けた九部楽中の 一 つ)演奏用の琵琶の象牙拝援の装飾に︑王の画像を描き
こんだものを指していて︑単純な装飾用と思われるが︑実際に本格的な国王
(4 )
の図像化も行った可能性が高い ︒
統一新羅時代にいたると︑明らかに王の
肖像画が制作されたことがわかり︑"浮石寺新羅王像や"原州新羅敬順王影
(5 )
殿重修記は王の真影が寺利に壁画形式で描かれたことを示している ︒
高麗時代には︑御真制作が影殿制度の発達とともに進んだ ︒ 即ち︑都城内
には景霊殿を置き︑太祖及び歴代群王の五真影を循環式に奉安し︑到る所
(開城附近等)に各王及び王妃の願利(王族が祈願する寺院)を置いて︑ここ
(6)
に影殿を設け︑真影を奉安する方式が取られたという記録がある
︒ 現在で
は高麗時代の太祖王建の疏略本が旧崇義殿祉に伝わっているが︑原画の跡を とどめていない ︒ 又︑ほかにも︑宗廟
・ ・
・ 司
恭懸王影堂に伝恭助治王及び王妃像が伝
・ 司
わっている ︒
これについては後述する可
が︑服飾史的には高麗末期朝鮮初期の
様式をみせているものの︑写実第一の
迫真性は完全に欠如し︑肖像画史の上
ではあまり注目に値しない ︒
朝鮮時代に入ると︑太祖から純宗に
いたるまで彪大な数の御真が制作され
た ︒ 記録には朝鮮太祖の肖像画がおお
よそ二十六軸も描かれたとある ︒
そ の
中には乗馬する山円像画もあったとい
234
全羅北道全州市所在1614
年建立
慶基殿挿図1
い︑後代には御真の中にも軍服本︑晃服本︑幅巾本︑笠制本等︑多様な衣冠
の ︿ 太祖 をつけて描かれたという ︒ 現存している作品には慶基殿(挿図
1 )
御 真
﹀ (
挿 図
2 )
︑宮中遺物展示舘の ︿ 英祖御真﹀(挿図
3 )
があり︑王太子の
時の英祖の肖像画及び︿折口宗御真 ﹀
( 挿
図
4 )
と翼宗御真は一九五
O
年の韓
残幅しか残っていない ︒ 国戦争の時︑避難所であった釜山の保管倉庫の火事によって︑今は消失後の
そ の
中 で
︑
︿ 太祖御真 ﹀(
挿 図
2 )
は一八七二年︑当時慶基殿に奉安されて
いた御真が時間を経て古びたため︑永稽殿に奉安されていた太祖御真を祖本
( 挿
図
5 参照) にして移模させたものだ ︒ この御真は翼善冠︑衰竜袖という平服を着た正面
の交椅坐像(交椅は足が交差した椅子で︑それに坐ったという意
味)である ︒ 移模本でも︑朝鮮朝後期から相当に使われてきた陰影法より朝
鮮初期の山円像画法︑即ち︑線による五官部(耳目口鼻及び眉)を描写する技
及び肩龍(補は胸︑肩龍は肩の装飾物) 法をある程度忠実に反映している
︒
太祖の顔の表情は勿論︑華麗な毛髭︑補
いる臨朝時の厳粛な雰囲気をよく伝えている︒
の泥金効果によって諸大臣を前にして 朝鮮王朝時代肖像画の類型及び社会的機能
挿図2 太 祖 御 真 1872年 移 模 趨 重 黙 等 筆 絹 本 彩 色 軸218X 150cm
慶基殿
朝鮮王朝時代における 御真の意味を如実に見せ
ているのは﹃承政院日記﹄
イ 乍 に 過 記 程 録 で さ あ ( れ るヱて
。し ミ る 御 真 制 を
へ 御
ザ 盲l :7可ミt
進市Ij fz 」 複
れ 九 任
る
。E Z
巳月A
モ又
ま 階 ず︑臨時に管掌する組織
錫 色 舘
趨彩示が設置され︑御容画師が
本 展
模雨物選抜される︒御容画師は
移
︐ 遺
年豊中 ∞鴻宮一般的に図画署画院とよ
QJ
台T
しん闘伽ばれる宮廷画院の画師か
闘察以 祖︑山ら︑画像に巧みだという
英 晋 軸
即 定 評 あ る 画 師 が 選 定 さ れ
4甲
る が
︑ 適格者がいない場
輝一彬宮合には︑大臣たちの推薦
口問円キ直じ
作車市によって外部画師から起 昨 筆 m 話等
m刀l 哲以崩することもあった
︒ 時
真 漢 加
剤本一軸には︑王宮内の功臣像を
斤コ山内Hb﹂ま
E! 'f
描かせることによって公
バ斗図挿
開競争を通して選ばれる
こともあった
︒ 選抜された画師は三種類に分けられ︑ 一番目は執筆画師︑即
ち主管画師として龍顔を︑二番目は同参画師として龍体のあまり主要ではな い部位を担当し︑三番目は随従画師として彩色作業を補助した
︒
関わる画員 の数は大体六人程度であったが︑ある時は十三人に至ることもあった
︒
一旦︑画員が選抜されて︑また︑管掌機構が整備されると︑吉日吉時が選 ばれ︑草本が作られる
︒ 草
本の制作が進む聞に︑
一 方
では織紺(撚っていな
い絹糸で織ったもの)がなされる
︒ 草 本が
一 但承諾を得ると︑
日時を決めて 画絹の上に墨絵で図像を移す上紺(草本の上に絹をおき︑なぞって描くこと) の過程がある
︒ 上
紺が終ると︑彩色が進められる
︒ 御真図写の時には︑特に 王が臨席して画員が描くため頻繁に拝顔できる機会を与え︑監督のものたち と 不 備 な 所 を 指 摘 し あ っ た り し た
︒ 彩 色 過
挿図5 顔面角度関係参考図版『三才図会J
(明の王折、王恩義編輯、上海
古籍出版社)所収235
程が終ると︑又︑王以下諸大臣の審査をへ て︑この時︑未備な部分は見直し︑それから 厳 粛 に 拝 礼 の 儀 式 を 行 う
︒
これによって正
本彩色が全部終ると︑後補(裏面をあてたも
の)を注意を払って乾す
︒
御真制作のあい だ︑数回にわたって王の許諾を受けた玉軸︑
絡壊︑紅糸流蘇︑奉安索環等(表装の装飾物)
が 施 さ れ
︑ そ こ で 御 真 制 作 は 標 題 過 程 だ け を 残 す こ と に な る
︒
標 題 は 描 か れ た 御 真 が ど ん な 王 の 陣 容 で あ る か
︑ そ の 制 作 時 期 は いつであったかを知るいい資料である
︒ 朝
鮮 朝 初 期 の あ る 期 間 は 標 題 が な か っ た と み ら れ
︑ そ の 後
︑
あ
る
期
間
は
裏
面
に
書
い
た
こ
美
研
四
Eコ 可
術
'7'c プし
第
七 ともあったという
︒
しかし︑粛宗年間には標題書写は不可欠な段階だとされ
(9)
ていた ︒
標題は大部分大臣の中から筆名がある者が書いたが︑ある時は御 筆や太子筆になる場合もあった
︒
標題の後に続いて︑必ず儀註(儀礼の註釈書)に沿って︑二品以上の大臣 たちの審査手続きをし︑そこで︑御真制作過程はすべて終る
︒
以上︑考察したように御真制作に傾けた国家的配慮は実に相当なものであ
っ た
︒
さらに︑完成された御真を奉安︑享杷(供え物を配享し祭記すること) する真殿をめぐる諸制度及び儀式は︑朝鮮朝時代に王の肖像画がもっ社会的 意味を
一 層如実にあらわしている
︒
朝 鮮 王 朝 は 国 初 か ら 太 祖 真 殿 を な ん と 六 個 所 も 建 立 し
︑ 先 王 先 后 の 陣 容 を稽源殿(景福宮)に奉安する等︑真殿体制の輪郭を樹立した
︒
太祖真殿を 諸所におく方式は中国の漢の制度を模倣したといわ
( 旬
︑ 特 に 太 祖 に ゆ か り の深い場所にたてられ︑また三国時代以前から高麗時代に至るまで首都にも 設立され
( か
)O現在これら太祖真殿の中で唯
一 残
っ て い る の は 全 州 の 慶 基 殿 だけである
︒
一方︑太祖以後の諸王御真は景福宮所稽源殿に各々︑
一室を設け奉安さ
れた ︒
しかし︑戦乱及び事故等によって真殿自体が焼失したり︑御真が散逸 したものも少なくない
︒
そして︑永鵡殿︑稽源殿(昌徳宮)︑南別殿などの 新しい真殿ができる等︑真殿の開閉は甚だしかったが︑朝鮮朝の末期まで︑
御真奉安処としての真殿の存在や必要性自体が軽視されたことはなかった
︒
しかし︑朝鮮朝後期になると︑{呂や閣のような小さい建物に御真を奉安する
( ロ )
こともあった ︒
港︑源殿を除いた大部分の真殿は︑おおよそ元日つ寒良︑端午︑秋夕︑冬 至︑臓日に祭杷し︑王が自ら臨席していた親祭と一般祭があった︒勿論︑こ
四 の享記儀もやはり時代と場所によって差異がみられるが︑この儀註の種類や 進行時の威厳は宗廟の儀礼に劣らなかっ
( か
)O236
朝鮮王朝時代における真殿の重要性が何よりも強くあらわれたのは仁祖九
年 (
一 六
三 二 の 集 慶 殿 失 火 と 高 宗 光 武 四 年 ( 一 九
OO )
の稽源殿失火事件 を通してであった
︒
﹃仁祖実録﹄巻二十四︑九年(
一 六
三 一
) ︑三月辛巳条をみると︑
﹁ 江
陵 集
慶殿火︑即太祖真殿也︒躍曹啓日︑櫨云有焚先人之室︑即三日間犬︑告日︑新 宮 火 亦 三 日 間 犬 ︒
註日︑先人之室︑宗廟也
︒ 神主所入故︑日︑新宮︑以此見之︑
真殿与宗廟無異︑影帳与神主
一 体︑自上似当素服︑率百官
三 日間犬而止︑行慰
安祭於宗廟太祖大王神位前︑遣官江陵︑亦︑設位行慰安祭︑看審失火之処︑
然後真殿参奉及守僕等各別議罪
︒
答日依啓︑且慈殿亦当変服︑更議以啓
︒ 回
啓日︑自前各陵失火︑別自
内 殿 別無変服之礼︑但令此︑影頼 上変服而
之夫︑比陵上失火尤重︑上亦三日間犬︑則自内服膳︑視常日無変︑情所未安︑
慈殿内殿績宮亦進素膳︑而止似当
︒
上従之
︒ ﹂という記録がみられる
︒ これ
は︑太祖御真が奉安されている集慶応間に火事があって︑影臓が焼失した後
の処理策である ︒
その内容をみると︑影棋は位牌と一体であるとして︑以前 に位牌が焼失した後と同じく︑王は当然素服(喪服)を身につけ︑百官とと もに三日間突し︑また︑宗廟太祖の位牌の前で慰安祭を行った
︒
それと同時 に江陵集慶殿にも官をおくつて位を設け︑慰安祭を行った
︒ そ し て ︑ 影 柿 恨 の
火事は王陵の失火事件より大事であるから︑陵上失火の時は王のみが変服
(喪服に替えること)して︑王妃等女性の変服の例はなかったが︑今度は慈殿
(王の母親)︑内殿(王の后)︑績宮(王子の妃)もまた素服三日間突し︑それ
と合わせて︑朝市(朝廷と市井)をやめて両司(司憲府と司諌院)も共に休み︑
三日間減膳撒楽(食物を減らし︑音楽をやめる)することを命じた︒また︑光
武四年
( 一
九
OO)
の稽源殿失火事件もまた集慶殿失火の例にならい礼を尽
したが︑ただ七 王 の影慎が全部焼失したので︑宗廟にある七神位の前で︑慰
安祭を行った ︒ それ以外に︑朝鮮朝時代に発生した真殿近くの失火︑伐木事
(日)
件︑そして大雨︑大 雪 等の祭にも慰安祭を行った記録がみられる ︒
御真をめぐるこのような諸儀礼行事及び処理策を通して︑朝鮮朝で御真が
どんな意味をもっていたかが考察できる ︒
2
功臣像
第 二 番目の類型としては功臣像をあげることができる ︒ 功臣像はその制作
動 機
か ら
み る
と "
︒ 日
一 揚政教︑警戒臣民という多分に戒の意味をもって発達
してきた ︒ 御真が祖宗を代表する 一 つの象徴的意味として奉安追慕される反
面︑功臣図形はより現実的次元から国に功がある人物に功臣号を賜与すると
同時に"立閣図形することによって︑該当功臣及びその子孫には致賀とと
もに報償し︑その他の臣民には亀鑑をみせるという意味で︑君主国家では必
須の図像作業の 一 つとして積極的に推進されてきた ︒
功臣図像の源流は相当に古く︑まず中国側の記録によると︑前漢の宣帝甘
露 三 年 ( 紀元前五
一 ) ︑王が蘇武など十
一 人の功臣の像を画いて戯麟閤上に
掲げしめた
( ﹃
漢
書 ﹂
蘇武伝 ) といい︑その後の後漢の明帝永平 三 年(六
O)
︑
前世の功臣を追念して 二 十八将の像を南京雲台に画かせた
( ﹁
後漢書﹄朱祐等
伝 論
) といい︑また︑唐代の凌煙閣にも功臣像を描いたという記録がみられ
(日
) } ヲQE
韓国では新羅時代に録を受けた記録が累見されるが︑その当時の功臣の設
︐(口)
定如何は明らかではない ︒
従って︑功臣図形に関して言及できるのは高麗
時代からであり︑即ち太祖 二 十三年(九四
O)
の﹁是歳重修新興寺 置功臣
堂︑画 三
韓功臣於東西壁︑設無遮大会
一 昼夜︑歳以為常﹂という﹃高麗史﹂
朝鮮王
朝 時 代 肖
像 画 の類
型及び社
会
的機能
の記録がはじめてである
︒
ま た
︑
﹃ 新増東国輿地勝覧
﹂( 第五十 二 巻 ) には
﹁在米頭山鳳進寺之南︑中安太祖影頼︑東西壁 三 十七功臣十 二
将 軍
: ・
﹂ と
の 記録があって君臣共安制をみることができぷ
)O
高麗時代には衛社︑初難︑
掬戴︑拓境︑蕩冠︑其の他の事由と名分の下に︑
という称号で諸功臣の肖像画が描かれ ( 旬 ︒ いわゆる 壁上功臣︑図形
功臣
朝鮮王朝に入ると︑功臣図像作業は初期から活発で︑五百余年を通して︑
その種類だけでも開園︑靖社︑佐命︑靖難︑佐朝︑幼戴等︑なんと 二 十八種
に達する功臣号が策録され︑少ないときは 三 ︑四名︑多い時は︑ 一 種類につ
き百名を超えることもあった ︒ そして︑その都度︑土地︑奴鱒の下賜ととも
に︑大体 の命が下され︑数多くの功臣像が描かれた ︒
また制度的に功臣たちの業務を把握する為︑忠勲
( 駒 )
という官府が別に設置
立閣図形︑樹碑紀功
され︑その忠勲府内に紀功閣を置き︑功臣図像を奉安することにした ︒ 紀功
閣は牒閣︑または麟閣ともよび︑功臣図像は 二 本を制作して︑ 一 本は紀功閣
に奉安し︑また 一 本は宗孫家に与え︑閣を設立し︑この中に奉安させる方式
が取られた ︒
功臣像の像容形式は初期の
︿ 張末孫像
﹀( 挿図 6 )
︑中期の
︿ 李重老像
﹀
( 挿
図
7 )
︑後期の ︿ 李万国像 ﹀ 等にみられるように︑時代によって服飾及び
(幻)
いくつかの変貌をみせるが︑烏紗帽(黒い紗製の帽子)︑団領 (
胸 元
帽 制
上 ︑
を円形にくった身分を示す 一 種のガウン ) の正装官服を身につけ︑扶手姿勢を
とる厳粛な像容形式で 一 貫している ︒
︿ 張末孫像
﹀
( 挿
図
6 )
は敵慨功臣策録
( 一
四 六
七
) を記念した功臣像であ
るが︑制作は功臣号策録直後ではなく︑ 一
四 八
二 年以後と思われる ︒
烏 紗
帽 ︑
団領に︑扶手姿勢の左顔七分面(挿図
5参照) の全身交椅坐像である ︒ 団領
には双孔雀紋様の織金胸背があり︑品階が 一 品であることがわかる ︒ 顔は黄
237
五
美
号
神
f研
究 第
七 四
挿図6
張末孫像
1482年 頃 絹 本 彩 色軸
171X107cm 張師植所蔵 挿図7李重老像 1623年 頃 絹 本 彩 色 軸1715X知n
京総酎制│郡 清海嗣
顔面細部李重老像 挿図8
土色を主調に︑耳目口鼻を褐色線で描く技法で︑泣染も陰影も全くはいって
い な
い
︒
衣の衣摺処理は線描で︑団領の外郭線は角ばって表現されている
︒
敷物はない ︒ この像容形式は朝鮮初期の功臣像の典型である ︒
日世
議 集 収中期功臣像の
一 つの典型をみせる好例である ︒ やはり正装官服をつ 同 四所
一 勧
第
一叫け︑左顔七分面で扶手姿勢をとる全身の交椅坐像であり︑床には華
五 司
出
か い
ち
(
日民麗な紋様の毛髭が敷かれている
︒ そして団領についている狩場(想
版部 人
問
l﹂間物像上の動物で角が 一
本 あ
る
︒
論 争
中 に
是 非
︑
善 悪を弁する ) 胸背と腰に
骨訣防
人
Qノ園
長国 ︒
̲ . ̲
/'¥
現在︑清海綱に奉安されている
︿ 李重老像
﹀
( 挿
図
7 J
は朝鮮朝
つけた鶴頂金帯は功臣策録時︑李重老の品階が武官従 二 品であるこ
とを意味している ︒ 彼の顔は朝鮮朝中期の肖像画法を如実にみせる ︒
︿ 李重老像 ﹀ の顔面(挿図 8 ) 技法を察すると︑当時の肖像画師は顔
色の主調色を薄く明るい肉色で描いた後︑耳目口鼻等の構成要素及
帖 42X3
O c
mび外郭線は褐色線できめ︑骨相学での所謂五歳
( 挿
図
9 ) にだけは
赤味をいれた ︒ これは表象的な凸凹よりは骨自体の構造によって顔
絹本彩色
の彫りをあらわそうとしたものとみられる ︒
一 方︑朝鮮朝後期に入ると画帖本が流行し︑功臣像も大幅だけで
挿図10李 万 国 像 (画帖本) 1728
年作
忠清南道 唐津郡嗣宇
はなく画帖本も制作されるようになった ︒ 特に忠勲府では経済性と
便宜性のためか︑功臣像制作時に画帖本で制作したことがわかり︑
これもまた 一 本は忠勲府に︑ 一 本は功臣家に下した ︒ 画帖本は 一 七
二
八年に策録された奮武功臣であった
︿ 李万国像
﹀
( 挿
図 叩
)
に み
られるように左右見聞きになっており︑片面には該当功臣の姓名官
職と簡単な履歴を書き︑また片面には肖像画を描く方式になってい
る ︒ しかしながら︑朝鮮朝後期でも功臣号賜与の名 誉 を記念するた
め︑該当功臣の自家用にそれとは別に大幅肖像画(挿図日 ) を制作
大幅の したことも少なくなかった ︒
は朝鮮朝後期功臣像の典型をみせる
︒
左顔
︿ 李万国像
﹀
( 挿
図 日
)
八分面の全身の交椅坐像で︑烏紗帽に緑色袖を身につけていて︑胸背の紋様
は 二 羽の鶴であり︑また級金帯をしていて︑正二品の時の図像であることが
わかる ︒ 紗帽の高さが相当に高く︑砲の輪郭線が相当に角ばって表現されて
い る
︒ また虎の皮を敷いた椅子︑足座台の形︑その上の虎の顔が正面を向い
ている点等は︑十八世紀初の特色である ︒ 顔(挿図ロ)は褐色系の色調を基
調にして︑まず褐色線で耳目口鼻を描き定めながら︑挿図日で提示した骨相
での基本的な屈曲︑即ち眉稜骨︑尾輪骨︑牙関骨︑そして飯趨骨の部位を区
画し︑このまわりを暗く澄染処理し︑また人間普遍の肉理紋(挿図凶)
〈 、
の
理解も応用している ︒ つまり︑全体的に少しでも実体感を出そうとするわけ
だ ︒ その後︑十九世紀になると︑功臣策録自体が消滅したので功臣像ではな
挿図11李万園像 (大本)18世 紀 初 絹 本 彩 色 軸170X104
.5cm同洞字
挿図12李 万 国 像 顔 面 細 部朝鮮王朝時代肖像画の類型及び社会的機能
いが︑李采像の顔面(挿図日)にみるように肉理紋表現への意慾が顕しくあ
らわれている ︒ これは︿李重老像﹀ での骨相学への参照とは異なるが︑
や
は
り朝鮮朝の肖像画師達は普遍的人間骨相への研究を下敷にして具体的な作画
活動をしたことを証明している ︒
功臣像は肖像画研究における二つの面において重視される ︒ 一つは王命に
よって描かれたので︑少なくとも当代の図像に名望ある画師が描く可能性が
大きく︑従って︑画師の資質面で信窓性がある点である ︒ もう一つは功臣図
ある ︒ 像は作画時期がはっきりしているので様式考察上︑確かな基準になることで
挿 図 13 骨相図版(骨) I写真秘訣」
『芥子園画 伝』 所収 挿図14 骨相図版(肉理紋)
I
写 真 秘訣Jr芥子園画伝』所収
現在全国に散在する杷堂や影堂を見回した結果︑功臣像は概ね 画幅も大きく︑保存も
一 般士大夫像に比べて良好である
︒ それは
王旨によって不桃廟(永遠にその場において祭記する廟)と指定され
たり︑或いは︑先祖の勲業をたたえる意味で︑宗孫たちが
一 層大
切に保管したからだと思われる ︒
3
奮老図像
朝鮮時代肖像画の中で︑数的には多くないが︑功臣図像ととも
に記念的趣きを強くおびている類型としては香老図像がある ︒
色館
M
リ ウ ノ 物
↑i t
専
問料剣歳︑老は七十歳をさす i
中綿一回が︑者老になるために
司I
別加は単に歳を重ねただけ 像以ではなく︑寿︑貴︑徳
采
m w 李 軸
図挿
者老とは︑香は六十
を兼備する必要があっ
た ︒
239
七
美
神
f'7't:! プL
Eコ 可
耳 パ
γn H
第
七
四 香老会の源流は︑中国の唐宋高賢の結社からはじまって︑唐の白楽天︑宋
の文彦博等︑洛中会を聞きながら︑その当時の名手に絵を描かせたところに
あ 弱
︒
このような故事は韓国へも伝わり︑高麗時代には誉老の集まりが生
まれた ︒
海東香老会がそれで︑崖議(一二二五│
一 一 一 一 一 )
の致仕の後︑当
時︑士大夫七人とともに香老会を作り︑迫遥自適︑人は地上仙といい︑図形
(却 )
刻石して世に伝わったと記録されている ︒
このような私的な集まりとしての香老会はその後︑朝鮮時代にも続けられ
る ︒
そして︑朝鮮朝に入ると︑太祖三年(
一 三
九四)には者老所という公的
機関が設置され︑王が六十歳になると誉社に入り︑文臣︑宰臣で従二品実職 にある七十歳以上の者を選んで入仕を許諾し鳩︒その後にも誉老所は朝鮮
朝末まで実質的というよりも象徴的権威をもっ街門として存続した ︒
着目老図像は︑現在粛宗朝以前は本格的肖像画としてのものはなかったと言
(お )
われているが︑これに関してのもう一つの記録があって興味深い︒金尚憲
の﹁岩田老会図序﹂によると︑仁祖十三年(一六三五)秋八月︑その集まりで
弼雲山の清風洞に円く坐って画工に命じて絵を描かせた ︒ この絵は個人の本
格的な真容とは思えず︑
(幻 )
る
E一 種の点景人物画の形式を取ったものだと推定され
現存している香老図像は大部分画帖形式であり︑時には︑扉風や画軸形式
もみられる ︒ 扉風形式の一例には︑現在︑権龍沢所蔵の者老会扉風(挿図凶)
がある ︒
粛 宗 十 五 年
( 一
六 八九)に誉老所へ入仕した権大運及び八人が中国
式邸宅及び庭園を背景に︑あたかも雅集図のような形式により制作されたも
の だ
︒ しかし︑扉風の中の人物は︑個性がうかがえる厳密な意味での肖像画
とは見倣しがたい ︒
一 方︑画帖形式は現在の記念アルバムのようなもので︑粛宗四十五年(一
J¥、
七 一
九 )
︿ 者
社 契
帖 ﹀
240
の
挿図16 者老会扉風 17
世 紀 末 絹
本 彩 色 権 龍 沢 所 蔵及び英祖二十年(一七四
四)の︿者社慶会帖﹀が
伝わっている
︒ ︿
誉 社 契 帖﹀には香老十人の画像
(挿図口)とともに香老
所入仕に関連した二日間 の行事場面(
︿ 香社私宴図﹀︿奉盃行列図
﹀ )
( 挿図問︑川口)︑参席した者老の簡単
な履歴等が収録されている ︒ それは金振女︑張得万等︑当代最高の図画署画
員であり御真画家であった画師の技偏になっているが︑四三・二個×一三二・
二四の小幅半身像でありながら︑画一的な姿勢を取っていて︑顔面形容では
図式化が顕著にすすみ︑人物ごとの性格的特色はある程度見出されるが︑伝
神の妙は求めがたい ︒ 者老図像にはこのような集団作画ではなく︑個人的に
香老所入仕を記念して大幅肖像画を制作したものもあった ︒
上述したような番老図像の伝来本は数幅に過ぎないが︑その制作は王朝末
(犯 )
まで続いた ︒
このような香老図像類にふくまれる類型として︑賜九杖を記念する図像が
ある ︒ これは臣下が致仕(官職を君に返上すること︑即ち辞職するこ日)しよう
とする時︑王がこれを許さず︑九杖を下賜しながら引き止めることがままあ
った︒これは"賜九杖制として老大臣には最高の名誉であった︒この賜凡
杖を記念する図像が数幅みられるが︑権大運像はその好例である ︒
︿権大運像﹀(挿図初)は烏紗帽に団領をつけた正装官服本で︑左顔七分
面に扶手姿勢をとっている全身の交椅座像である
︒
人物の右側後には鳩杖 (挿図幻)が高くそびえていて︑賜九杖を記念する制作動機をみせていぷ
)O
そして虎の皮を敷いて椅子に坐る形式の図像は十七世紀の典型的な様式の反
映である ︒
しかしながら︑このような香老図像及び賜九杖等は︑わざわざ奉安場所を
別につくり設置していたようには思われない︒
4
一般士大夫像
四番目の類型としては 一 般士大夫像がある︒儒教主義観念が支配していた
朝鮮朝時代には"生きて奉ることを礼とし︑死んで葬礼をとり行うことを礼
とし︑祭杷を行うことを礼としてはじめて﹁孝﹂と言える
( 生
而 事
之 以
種 ︑
死而葬之以雄︑祭亦以櫨可謂孝)という論旨の下に︑記廟が特に発達した ︒
組廟とは先人の位牌または影偵を奉安して︑ 一年に数回︑祭紀をとり行いな
がら︑霊魂を慰める場所である杷堂廟宇の総称所
) O
この廟宇や把廟発生の
深層的根源は︑先祖が人と家族の根本であるから︑これに報答しなければな
挿 図17香 杜 契 帖 1719‑1720年 作 金 振 汝 、 張 泰 輿 等 筆 絹 本 彩 色 帖43.6X 32.5cm 梨花女大博物館
向上 香杜私宴図 挿 図18
朝鮮王朝時代肖像画の類型及び社会的機能
らないという︑ いわゆる報本反始思想から生まれた家廟(先祖のみたまや︑
祖廟︑普通杷堂と呼ぶ)にある︒家廟は高麗末朱子学伝来以後︑本格的な発
生をみせたこの時期は仏教による色々な病弊があらわれた時期で︑特に朱子
学︑その中でも"朱子家礼は礼俗の醇化のための方便として︑知識階層に
より斬新な刺激剤と見倣されていた
︒
このような趨勢は結局︑恭譲王元年
(一三八九)︑士庶間の祭礼を制定し︑また三年(一三九一)六月には家廟制
の実行を命じるに至つ ( か
)Oその後︑朝鮮朝に入ると︑性理学が統治理念として採択されることによっ
て︑朱子家礼はすなわちその実践倫理として国家的に勧奨され︑朝鮮朝の間
は朝廷と士大夫家の生活の根幹になった ︒ 朝鮮太祖は即位当初から杷堂の建
立を積極的に奨励凶︑"家を建てる時︑まず記堂を建でなければならず︑そ
の位置は正寝の東におく ︒ 杷堂がある家は宗子が代代守らなければならずく︑
挿 図20権 大 運 像 1689年 作 筆 者 未 詳 絹 本 彩 色
軸
178X98cm 権 龍 沢 所 蔵 向上鳩杖(細部図)
挿 図19 奉盃行列図挿 図21
241
九
美 相
ijq匂
プし
Eコ す
耳 ハ
γ刑ド
第
七 四
挿図22洞堂全図
止 む を 得 な い 場 合 を 除 い
洞堂内部図
要 う て で ほ 壊 あ ど し つ 、 て た 示
e~O
堂
iFそ の よ ; し 存
i六
て 在
J穫 は と 書 重 い 闘
に 身 分 に よ っ て 把 ら れ る
母 国
Tt
人 の 範 囲 は 定 ま っ て い た が︑礎書上の祭礼は一種の規範的秩序であって︑実際に慣行︑伝承される祭 杷慣習の事実的秩序とは必ずしも一致しないことも多く︑朝鮮朝士大夫家で
は概ね四代祭記した(杷堂関係の挿図
21
幻)︒高麗末の杷堂の場合︑影頗を
奉安していたが︑朝鮮朝には杷堂では原則的には位牌を奉安していた
︒
このように︑家廟が原則的に位牌を奉安することにくらべて︑影棋を奉安 しながら︑時には杷りをおこなう影堂というものもあった
︒
影堂の始まりは 相当に古く︑その類型は統一新羅時代の崖致遠影堂(挿図お)にすでにあら
挿図23 洞堂図 (外 部)
京畿道抱川郡 錦山嗣(崖益鉱像奉安処)
。
われ︑高麗朝に入ると︑王や功臣︑
2 4 2
僧侶は勿論︑ 一般士大夫の中にも影
堂に奉安したり︑または堂を作らな 郡 く て も 一 室 を 設 け
︑ 影 棋 を 奉 安 し た
原
邑 ヨ
¥ ( 泊 )
目的船という記録が散見される
o' Y︼ ﹃
﹁ ︑
出則前朝鮮王朝では初期から家廟の発達
申b待出向
的婦とともに影堂建立も発達したので︑
直演 げ例史籍に記録はなくても︑現存する影
図 堂 ( お )
唯一時堂は相当な数にのぼる︒
挿図24
このように︑家廟︑影堂が深層的 にくらべて︑もう一歩進んで血族関係ではなく偉人や先賢を敬慕崇拝しよう
根源いわゆる報本思想に基づくこと とする崇賢思想を基盤にして設立された一般杷宇があった
︒ ﹃ 新増東国輿地 勝覧﹄によると︑すでに︑新羅時代から鎮川に新羅武将金庚信記が建てら れたといい︑高麗朝には安東の三功臣廟を始めとし︑数多の一般杷字が記録
にあ ( 加
)Oその中で︑朝鮮朝一般杷宇建立にもっと拍車かけたのは書院内に設置され た先賢杷宇(先賢を祭記する建築物)であった ︒
白 雲 洞 書 院 建 立 ( 一 五
四 三
年 設立︑挿図お)を鳴矢として︑朝鮮朝後期儒教文化を主導した書院は元来の 趣旨は先代の巨儒と名賢を追慕し︑その偉徳︑遺訓を継承する為︑弟子や子
孫がこれを建立し︑
一方では儒学の経典を講論︑研究する特設の修養機関を 兼ねた教育機関として出発したものだが︑時代がさがると︑賢を杷る機能が 主になってきた
︒
記宇と書院に杷られる人物には︑はじめは区別があった
︒ 一般的に杷宇に
祭享される人物は行誼と忠節︑孝烈が尊崇対象であることに反して︑書院に
記られる人物はこれだけでは足りなく︑享記名目は家郷(本貫︑ 一族の出身
地)︑寓居︑卒地︑諭居(都落ち)等であり︑これは書院の祭享人物が主に
文臣や学者が多いからであ泌
o一 方︑記宇の享紀目的は赴任地︑殉節地(殉
職した土地)等での功労で︑武臣が多数記られた︒しかし︑書院が濫設され
るようになった十七︑八世紀に入ると︑このような区別が暖昧になり︑血縁
と地縁等を中心とした無原則の人物の選定と記られた人物の資格如何によっ
て質的低下を招いた ︒
記宇と書院の建立自体は子孫による場合︑文人による場合︑郷人による場
合にひろく分けられる ︒ 子孫が先祖を記る場合︑門閥や家門の威勢が政治的︑
社会的活動に利用される現実的利害関係もあった ︒ また文人による場合︑師
に礼を尽し︑師の説を支持して学問的正当性を保障し︑また各派の政治的結
束を強化する拠点の役割もでてきた ︒ 出身地の人々による場合︑善政を行つ
嗣堂享杷図(内部)
挿図
27洞堂享把図 ( 外部) 挿図
26朝鮮王朝時代肖像画の類型及び社会的機能
た者や流配されてきた名儒の徳望を尊んで︑郷内の富豪や儒林が中心になっ
て建てたので︑朋党政争(儒教における学問上の派閥争い) の郷村基地化する
危険性があった
︒
特 に 薪 宗 年 間
( 一
六 七 四
│ 一 七 二
O)
には書院はなんと百
六十六個所が設立され︑その勢力が拡張することによって様々な弊害がふえ
た ︒ 朋党政争を招いた主原因になり︑また書院田等を過度に所有し︑また良
民を動員︑使役する悪弊が増えて︑本来の建立意図とは外れ︑英正祖年間
( 一
七 二
五
l
一 八
OO )には朝廷からも数多の規制︑禁止令が繰り返されたが︑
あまり実効はなかった ︒ とにかく朝鮮朝での書院という名称は八道に四百十
(認 )
七個︑嗣宇まで合わせると九百九個に至ったと言う ︒
結果的に︑高宗八年(
一 八
七
一 ) ︑大院君が厳命した書院撤廃令によって︑
学問と忠節がすぐれた人物に対して
一 人 一 院(綱)以外のすべての書院をな
くし︑四十七個所だけが残された ︒ この撤廃令とその後の日本植民地下︑そ
勿論︑すべての書院︑一刷院が杷られ れにつづく韓国戦争によって︑各嗣院に奉安された影棋はほとんど散失した ︒
た人の肖像画だけを奉安したわけで はなかったが︑もともと書院自体の 数がかなり多かったことと︑また書
挿図
28崖致遠影堂京畿道抱川郡 清城嗣
2 4 3
紹修書院(旧称白雲洞書院)慶尚北道栄州郡所在
挿図2
9美
耳八
γ恥 引
F
Eコ す
究 術
第
七 四 院に奉安する先賢というのは 一 級士大夫であったために︑図画においても凡
手を使わず︑肖像画自体も作品面からみる時に一定のレベルを保っていた︒
また個人よりも儒林たちの保存の方がよかったので︑書院奉安肖像画の散逸
は非常に遺憾である ︒
一 方
︑
一般嗣宇の中では特異なものとして生綱がある︒大部分の一刷宇が肖
像画制作は生きているうちになされ死後奉安追崇することに対し︑生一刺は民
衆に与えた恩恵や功徳により奉安された人物がまだ生存中︑綱堂が建立され︑
その画像が奉安されることを指した ︒ 生絹の鳴矢は高麗末︑江陵府に建てた
安杷(恭懲王︹在位二二五
二 ! 一 三
七四︺年間の人物) の洞堂で︑朝鮮朝に入
ると開国原宗功臣であった柳亮︑趨云吃︑安宗原︑辛有定の生絹堂が江陵︑
そのあと︑金宗直の生一刺堂が成陽に建立され︑継続して生一刺堂の建立記録が
みられぷ
) O
けれども︑その後︑生嗣堂建立は阿訣として利用され︑粛宗三 十 八 年
一 七 (
二 一
)
には諌院で地方生絹の弊を論ずるまでになってい樋
o以上︑考察したように︑朝鮮朝の一刑廟は格別な発達をみせていて︑肖像画
制作が活気を帯びていたことは納得のいくところである ︒
一般嗣宇や書院附属嗣宇の中で︑ 一番多く奉安された人物としては宋時烈
( 一
六
O
七 l 一六八九)がある︒代表的文人であり︑老論(儒学者間で論争を
繰返した四色党派の 一
つ )
の領袖で︑性格は過激︑数多くの政敵があったが︑
すぐれた学識で多くの学者を育成したので︑死後︑追慕して把る影堂及び書
院が建立された
︒ ﹃
尤庵年報﹂によると︑影頼を奉安していた所だけでも十
六個所(位牌奉安を合わせると四十四個所)にのぼるという ︒ ここに奉安した
影頼が全部生きている姿を写した真像ではない︒文集によると︑尤庵影臓は
大略五種類の本が制作されて︑移模を繰返したという︒その中でも堤川本の
宋時烈像(挿図初)は芸術性という見地からも注目すべきで︑尤巌七十四歳 の真であり︑士大夫画家であった金昌業が草をし︑画師がしあげたと讃文に
244
ある ︒ この年(一六八
O)
は︑尤庵が長い配流生活を終えて︑領中枢府事
(朝鮮朝の中枢府に属する正一品の官職)を託された年だ︒讃文の内容をみる
と︑長い燕居の間のその長歎と静修による悟りへの苦しみが暗示されている ︒
顔は太い褐色線でいくつかの織をとらえて尤庵特有の骨太の骨格を表現して
いるが︑衣服のひだは相当に角ばって︑省略の妙をみせている ︒ また怒らせ
た肩と突き出した顔等︑老人特有の姿と"群儒の大成に百代の宗師とし
ての厳格な風貌をよくみせている ︒
影堂や一般嗣宇には普通︑ある一人の肖像画を奉安していることが多いが︑
血縁や学脈を 一 つにする人物を一緒に杷ることも少なくなかった ︒
一般士大夫像は︿宋時烈像﹀︑︿黄球像﹀(挿図出)にみるように儒服本に
なったものが多いが︑朝鮮朝末になればなるほど︑︿金正喜像﹀(挿図辺)に
みられるように功臣図像類︑即ち烏紗帽︑団領の正装官服本を着用した肖像
画がたくさん制作されて奉安されるようになった ︒
一般士大夫像は追慕や臨時拝︑享杷用肖像画が大部分であるが︑
一 方
で は
︑
画家が一種の作家意識をもって制作したジャンルであって︑自画像や任希寿
伝神画帖などがこれに属するものだ ︒
自画像についての記録は中国ではすでに漢代にあらわれるが︑韓国では高
麗時代の︿恭慾王照鏡自写図﹀(﹃眉受記言﹄原集下篇 巻
mU
)
が 記
録 上
︑
番
古い例である
︒
しかし︑この作品は伝存していない
︒ 朝鮮朝期に入ると︑
(引 )
︿金時習像一に老︑少二つの像があったという︒その後︑記録すら絶えてな
いが︑十八世紀に入ると︑ヰア斗緒︑李光佐︑美世晃等の自画像が作品として
伝わっている ︒ 朝鮮朝の自画像がこのように稀れな理由は次のように解釈さ
れ る
︒
自分の肖像画を描く為には
"まず自分自身という人物が描かれて
はじめて︑保存する価値があるという自負心とともに︑周辺の社会的認識を
得なければならない ︒
またそれとあわせて肖像画というジャンルは描く者の 写実的描写力を前提にする
︒ 職業画工の場合︑
は極めて低い身分で 画 工 あったので︑自分自身を尊重する意識が全然なく︑士大夫画家の場合は技術 的能力が備わっていなかった
︒
ゆえに︑朝鮮朝の自画像は極めて少ない
︒ け
れども少数の作品の中︑ ︿
予斗緒自画像
﹀
( 挿
図 お
)
は佳作である
︒
紙本墨画 のこの自画像は小幅
一 杯に顔だけを写して︑自我の認識を水準高くあらわし
ている ︒
画幅
一 杯に迫
真
感があり︑見る者にとっては自分自身とあたかも対
決しているように描か
挿 図30 宋時 烈像 1680
年作 金昌業草
絹 本 彩色 軸91X62cm 忠 清北道 堤川 黄 江 影 堂れているので︑正視す るのが耐え難いほどで
挿 図31 黄 珪 像 19
日年作 察竜臣筆
絹 本彩色 軸95X66cm 全 羅北道求 札 郡 梅泉嗣朝鮮王朝時代肖像画の類型及び
社 会 的 機 能 ある ︒
画法は当代の画法を応用したもので︑画面はさっばりした鈎勅よりは 無数の筆使いで︑筆の集まった所には暗い部位が形成されて︑点晴の透明さ たせる役目も果たしている
︒
が伝神の効果をだしている
︒
あまり濃くない連髪第形状のひげは顔を浮きた
︿ 自
画 像
﹀( 挿図弘 )
これに比べて︑十八世紀画壇の総帥美世晃の
は︑西 洋スケッチ式技法を使用していて当時の自画像としては興味深い
︒
四
一 七五
O年に描いた 一 方︑任希寿伝神画帖は︑十七歳で夫折した人物であった任希寿が
一 七九
︿ 任守輪像
﹀( 挿図お )
を含めて十七本の草本形式
の肖像画と︑ 一
本の柳炭略写本
( 柳の炭で簡略に描写した本 )
になっている
︒
彼は家が貧しく︑丹
青
) ( えのぐ
がなかったので︑簡率に淡
墨 で描いたとい
挿 図32 金 正 喜 像1857
年 作 李 漢 哲 筆
絹 本 彩 色 軸 131 . 5
X57.7cm当金 声 基 所 蔵
託
の 鑑 識 家 で
あ っ
た 美 世 晃 が 自 写
し て
し ば ば し 手
う
︒言
い伝えによると︑
挿 図33 予斗緒自画像 紙 本淡 彩
額
38. 5
X20.5cm全 羅 南 道 海 南 手 泳 善 所 蔵
いよいよ希 寿 を入れたが思うようにいかず︑
にたのんだ ︒
希寿が観頬聞に大略数
筆 加える
と
"その人
になり︑美世晃が歎服したと
いい︑任希 寿 の技備をしめしている ︒
朝鮮朝肖像画は︑このように嗣廟
奉 安 享 杷
用としての大幅の肖像画が大部分であるが︑
挿 図34 萎 世 晃 自 画 像 絹 本 彩 色 直 径15cm 国 立 中 央 博 物 館
245
美 術
耳 ハ
了刑H
4巴
7し
第
挿図
3 6
李章吾像 〈海東名臣画帖〉七
紙本j炎彩 3 O
.4X19.句n国立中央博物館郡
梅泉洞 挿 図37 韓 翼 暮 像 絹 本 彩 色 帖37X29.1cm 天 理 大 所 蔵
四
t=l
可
挿 図35 任 守 輪 像 油 紙 墨 画
〈任希寿伝神画帖〉 31.8X21.5cm
国立中央博物館
朝鮮朝後期に画帖本が流行する ようになってから︑任希寿伝神 画帖のように周辺人物を簡略に 実写して一つの画帖に仕立てる
ほかにも︑
いわゆる名臣画帖類 があらわされるようになる
︒ 名
臣画帖というのは︑在世年代は 違っても︑昔より崇敬され後世 に亀鑑すべき名臣たちの肖像画 を画帖に仕立てたもので︑代表 的な例をあげると︑仁祖年聞か
ら英祖年間(十七世紀初期 l
十 八
世紀後期)に至る名臣十一人の画
像を収集して装頼した︑︿海東名
臣肖像画帖﹀(挿図お)がその好
例としてある
︒
このような名臣 画帖は一般的に油紙や薄い紙本
南
尚 堂 色 慶 影
彩 好
都川和
主中門/象 内 心 郡
判列 目安適 l
戚 周 軸 道n δ
今 ︑
d図
エ閉
ι
四 で︑墨画彩色を若干加えたもので︑
246
完全な本格的作品とはいいがたい
︒
大きさも横二五センチ︑縦
三
Oセ ン
チ前後などで一定していない︑これ らの肖像画は後代に︑文臣で参判や 判書級以上の老人たちを対象にして
名臣画帖の中には︑このように草本類のものを収集したものではなく︑後 収集︑装憤したものである ︒
天理大所蔵の肖像画帖(挿図幻) 代崇敬された人物をあらかじめ定めて︑特定画家に臨模させたものもあって︑
はこの類に属する ︒ とにかく︑このような
画帖装棋の底辺心理はこれら先賢にならう︑また共通的紐帯感を持とうとす
る朝鮮朝後期の士族趣味の一端と解釈できる ︒
最後に一般士大夫像の中︑︿周道復像﹀(挿図お)という異色の作品が目に
つ く
︒ この像は構成が特異であり︑画面の上段部に"英祖大王国協服喪図
と書いてあり︑その下︑画面右側上段には塵幕(喪に服するためのあずま屋)
があり︑左側上段には碑閣とともに石で作った台の上に香炉と燭台が準備さ
れていて︑国岨の悲しみを象徴している ︒ その下には︑喪服をきた肖像画の
主人公︑周道復が坐っている︒また︑その空間の右側には"央壇序バ犬壇
吟"小祥吟"大祥吟とあって英祖大王に対する追慕の情を吟じたもの
うことができる ︒ である ︒ ここに朝鮮朝儒教社会が内包している忠誠心の一端を色濃くうかが
5
女人像
五番目の類型としては︑女人像を挙げることができ 朝鮮朝肖像画の中で︑
る ︒ 女人像の源流は高句麗古墳壁画に求められ︑︿安岳
3号墳夫婦像﹀︑︿双
いい例である ︒ 極塚夫婦像
﹀( 挿図ぬ ) ︑ ︿
梅山里四神塚夫婦像
﹀ にあらわれた肖像画はその
けれども︑このような肖像画は対看写生によるものとは見られず︑ 一 種の
類型的人物画と思われる ︒ 統 一 新羅時代には︑女人像に対する文献記録も作
品も伝わっていない ︒ 高麗時代には王の肖像画とともに王妃の肖像画が活発
に制作されて︑各種影殿及び願利の影堂に奉安されたとみられる ︒ 特に魯国
公主の場合には恭慾王が描いた肖像画に対する記録が伝わっていて︑また現
在宗廟には ︿ 伝 恭 助 松 王 夫 婦 像 ﹀(
挿 図
ω )
と称される肖像画がある
︒ そこで
本としての信窓性は低い ︒ は全体的な像容形式及び服飾では高麗末朝鮮初期の様式をみせているが︑原
朝鮮朝初期には
王
妃の肖像画が制作され︑王の御真とともに景福宮稽源
殿に 奉 安されたり︑あるいは︑高麗時代の遺風によって願利に奉安されたこ
とは記録で察することができる ︒
し か
し ︑
一 五九 二 年の秀吉による壬辰の乱
によって稽源殿及び諸寺利が焼失した
平安南道龍両郡所在
り︑壊されたりし︑遺憾なことに︑奉安
された昨容も持ち出されることなく焼
失してしまった ︒
壬辰の乱以後︑王后の陣容制作及び
5‑6世紀奉 安 記 録 は 全 く 考 察 で き ず
︑ 列 朝 の 陣容を奉安したという記録は全くあら
双極塚夫婦像
われていない ︒
ところが︑﹃粛宗実録﹄をみると︑王
挿図39
妃真影に関して断片的であるが︑関連記
録があって興味深い ︒
即 ち
︑ ﹃
粛 宗
実 録
﹄
朝鮮王朝時代肖像
画 の類型及び 社 会 的 機 能 二 十 一
年 (
一 六
九 五
) 八月丁亥条には﹁上命前応教金進圭︑図画中殿影子︑
諸臣争之︑不従・:中略・:最後右議政申翼相上剖日︑考之往牒︑既無前開求之︑
昭代未有明証︑而強欲行無稽之事者︑不待購究︑而知其不可︑鎮圭非宗戚︑
而執絵事︑使近於至厳至敬之地者︑不待 一 言而知其非礼 ︒ 上答日︑大臣之 言
至此︑当還寝駕
︒ ﹂という記録がみえる ︒ これは粛宗大王が当時継妃であっ
た仁顕王后関氏の影子を前王教金鎮圭に描かせたが︑諸臣が反対する剤 ( 上
奏 文 ) を上げて︑その不可を論ずることにより結局︑ 王 の命令を撤回したと
いった内容であるが︑王と諸大臣の論議過程には︑その時の支配層の意識及
び雰囲気がよくあらわれている ︒
最初︑粛宗が 王 后影棋を描こうとした時︑諸大臣はこの影偵をすでになく
なった仁敬王后の影子と誤り︑王族及び士人画家であっても宮殿に出入りす
ることは弊害になるという点を挙げて反対した ︒ ところが︑描こうとする影
臓が実は迫写
( 残後の肖像制作)ではなく当時生存している仁顕王妃の図写
( 対看写照による肖像制作 ) であったことがわかり︑益々反対した ︒
これは男女の区別が厳しかった当時の儒教的観念の下で︑臣下として中殿
の容姿を直接みながら描くのは 至 極無礼なことと見倣されていたことを証明
している ︒
このような諸大臣
挿図38周 道 復 像 絹 本 彩色 軸113X57cm 慶 尚 南 道 成 安 郡 舞j