四天王像の配置形式における変化原理と朝鮮時代の 四天王の名称
著者 朴 銀卿, 韓 政鎬, 金 正善
雑誌名 美術研究
号 409
ページ 1‑25
発行年 2013‑03‑22
URL http://id.nii.ac.jp/1440/00006023/
四天王像の配置形式における変化原理と朝鮮時代の四天王の名称一
四天王像の配置形式における変化原理と 朝鮮時代の四天王の名称
朴 銀 卿 韓 政 鎬
はじめに一、四天王像の持物と名称二、方位による四天王像の配置形式の変化原因三、向方の変化による四天王像の配置原理の適用事例四、朝鮮時代の四天王像の名称問題
おわりに
はじめに
経典や儀軌に則ってつくられる様々な仏教尊像には、その特徴として各図
像に方位的属性が伴っている。そして、これらの尊像が仏教美術として造形
化される時、尊像が有する方位的属性を造形に反映させるために多様な配置
形式が考案された。尊像が持つ方位的属性は、三次元空間において立ち現れ
る彫刻では、相当する方位に尊像を置くことで充分な効果を期すことができ る。しかし、二次元平面に表現される仏教絵画の場合、特別な設定なくして尊像の方位をあらわすことは難しい。この二次元平面上に様々な尊像をそれぞれの方位的属性をもってあらわす最も効果的な形式として考案されたのが密教の曼荼羅のようである。 一方で、顕教の美術においては、その尊像が有する方位的属性をあらわす
ために、画面に観念的な方位原理が導入されているはずであるが、問題はこ
の観念的な方位原理が視覚的にはっきりと立ち現れないため、その原理が明
らかにならない限り、方位を読み解くのは難しい。
四天王は、東南西北の四方を守護する仏教の代表的な方位神である。四天
王の持つ東、西、南、北という方位的属性は、それぞれの尊像がどの位置に
配置されるかによって、画面のなかに内在する方位を理解するための重要な
基準になる。四天王は本来、東南西北の正方に位置するが、仏教美術ではよ
り上位の尊像と共に造形される場合、概して上位の尊像が有する方位の正方
金 正 善 訳
美 術 研 究 四 〇 九 号二
を避けて、間方に移動し配置する傾向が窺える。しかも、四天王像の配置形
式はすべて同じではなく、作例によって様々に展開してきた。
筆者は、四天王像の配置形式が時代や作例によって多様に変化することが
何に拠っているかについて、かつて別稿で言及したことがあったが
((
(、本研究
はまさにその問題についての具体的な試論である。造形作品のなかに設定さ
れた方位は、何を基準にするかによって、その位置が変化する流動的な概念
である。したがって四天王像における配置形式の変化の背後には、仏教美術
の方位体系の運用にかかわる一定の法則と原理が内在している可能性があ
る。朝鮮後期の仏教美術研究の争点である四天王図像とその名称に関する問
題も、詰まるところ、方位体系の問題と直結しており、仏教美術における方
位体系に関する一定の原理原則を探ることで、朝鮮時代の四天王の図像と名
称の混乱を招いた原因を明らかにすることができると考える。
一、四天王像の持物と名称
四天王は四大天王、四王、護世天王とも呼ばれ、欲界六天の内、初天に当
たる四王天の天主として須弥山の中腹に住む護世天である。彼らは東方の持
国天王(提頭頼吒dhr
. tarās
.t.ra、持国・治国・安民(、南方の増長天王(毘楼勒叉
virūd.haka、増長・増広(、西方の広目天王(毘楼博叉virūpāks.a、雑語・悪眼・不好眼(、
北方の多聞天王(毘沙門vaiśraman.a、多聞・普門(で構成される
((
(。
四天王像の造形は、時代と地域によって様々な様相を呈して展開する。四
天王の図像と持物については、『陀羅尼集経』をはじめ多くの経典に言及が
あるが、各経典ごとにその内容が異なっており、実際に制作される四天王像
の図像と持物が経典の内容と一致する事例は多くない。四天王の図像のなか
で、時代と地域にかかわらず一貫性を保っているのは、宝塔を持つ北方多聞 天王が唯一である。このことは、同時期に制作された感 カ恩 ムン寺 サ跡の東塔と西塔
の舎利外函に彫刻された四天王像のうち、北方天王のみが右手に宝塔を持っ
て、他の三天王はすべて異なる持物を手にしている事実からも窺えよう(挿
図
((。
感恩寺舎利外函の四天王像の彫刻は、古代の四天王図像において北方多聞
天王以外の三天王の持物がまだ定まってなかったことを意味する。よって、
四天王の各名称をその持物から確定することは不可能である。ただ、北方多
聞天王のみは宝塔を持つ姿が経典と作例において固定的に現れており、多聞
天王像を基準にして、他方位の天王像の名称を明らかにすることは可能と考
える
((
(。
このように宝塔を持つ北方多聞天王の形式が、時代と地域にかかわらず維
持されたのは、塔という持物が、四天王をほかの神将像と区別する最もはっ
きりとした図像的特徴であったからに違いない。表
(において窺えるよう
に、古代に漢訳された多数の経典に明示されている四天王の持物は、宝塔の
ほか、槍、剣、棒などの武器類が主流をなしている。しかし、こうした武器
挿図 ( 北方多聞天王(感恩寺跡東塔金銅舎利 外函北面 部分)統一新羅時代(68( 年頃)
四天王像の配置形式における変化原理と朝鮮時代の四天王の名称三 は時代や地域によって形が変わる可能性があり、ほかの神将像も持つことのできる持物という点で区別が付かない。これに比べて、宝塔は四天王の図像的な特徴をあらわす要素であり、四天王が武装を解除し、聴聞衆として登場 する場合にも所持できるという点で、大変重要な持物として定着したものと思われる。 北方多聞天王像の宝塔のように、すべての時期に現れる形式ではないが、弓と矢を持物にする東方持国天王像は九世紀末から十二世紀にかけて制作された。『不空羂索陀羅尼自在王呪経』には弓と矢(箭(が西方広目天王の持
物であると述べており、また、九世紀後半に制作された中国・西安の法門寺
地宮の方形舎利函に彫られた西方天王像のように、実際、西方天王像に適用
された例が全くないわけではない。しかし、敦煌石窟で発見され、現在、大
英博物館に所蔵されている四天王図(八九〇年作(には、弓を持つ四天王像
に「東方提頭頼吒天王」という墨書が認められ、九八五年頃に板刻されたと
される京都・清凉寺所蔵の北宋時代の〈霊山会上変相版画〉や、中国・山西
省応県にある遼代の仏宮寺釈迦塔(一〇五六年(の壁面に描かれた東方持国
天王像にも持物に矢が認められる
((
(。また、十二世紀後半に張勝温が描いた南
宋の『大理国梵像図』における東方天王像(挿図
((も弓と矢を持つ姿で描
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表 ( 経典に説かれる四天王の持物
本表は、註 ( の심영신(シムヨンシン)前掲論文 (( 頁で紹介された猪川和子「平安時代四天王彫像の形成について」
『MUSEUM』((6 号(東京国立博物館、(97( 年)掲載の表((6 頁)をもとに、一部加筆して作成した。
挿図 ( 東方持国天王(張勝温筆 大理国梵像図 部分)
南宋時代((( 世紀後半)
美 術 研 究 四 〇 九 号四
かれており、弓と矢はある程度、東方持国天王像の持物と定着していたと見
て問題ないであろう
((
(。
このように弓と矢が東方持国天王像の持物となる図像形式は、浮 プ石 ソク寺 サ祖師
堂の壁画にも登場する。浮石寺祖師堂の内壁に描かれた壁画のなかには、右 手に弓を持って、左手に二本の矢を持つ姿が描かれており、この図像は傍の墨書の判読によって東方持国天王像ということが確認された
(6
(。このことは、
弓と矢を東方天王像の持物とする図像形式が高麗にも伝えられたことを意味
する。また、この形式は、絶対的とは言えないまでも、北方多聞天王像と同
様、持物を根拠にして四天王の名称を判断する際の補助材料として活用でき
ると思われる。
南宋時代まで継承されてきた中国の四天王図像の伝統は、チベット仏教文
化を受け入れた元代になると大きく変わる。この時期、新たな四天王像の持
物は、東方・琵琶、南方・剣、西方・大蛇、北方・宝塔(または宝鼠(など
であり、これらにはチベット仏教の四天王図像の影響が反映されている。こ
のように持物が変化した四天王図像は、一三二二年に完成された『磧砂蔵』
の変相版画にも確認できるが、図像と尊名が明確な代表的な作例としては、
一三四五年に建立された居庸関雲台の四天王像を挙げることができる
(7
(。
居庸関の四天王像は、北方多聞天王像に一部の変化が認められるものの、
以後、明代を経て朝鮮時代に至るまでの四天王図像の典型として定着した形
式という点で大変重要である。とくに各像には尊名をあらわす名札があり、
変化した四天王像の名称を把握する上で貴重である。
伝統的に宝塔が北方多聞天王像の持物であったことに比べて、チベット仏
教の多聞天王像は宝鼠を持っており、そこにはチベット仏教の地域的特徴が
反映されていたと思われる。居庸関の北方多聞天王像は宝鼠を持物としてい
るが、多聞天王の脇侍格の人物が宝塔を持っており、宝塔が北方多聞天王の
象徴的な持物であるという伝統は維持されている。
そして、琵琶と剣をそれぞれ東方持国天王と南方増長天王の持物とする経
典上の根拠は、元代に翻訳された『薬師琉璃光王七仏本願功徳念誦儀軌供養
挿図 ( 東方持国天王(中国北京・居庸関雲台 北東面 部分)元時代((((( 年)
四天王像の配置形式における変化原理と朝鮮時代の四天王の名称五 法』にある。とくに東方持国天王は八部衆のなかで音楽を司る神である乾闥婆を眷属として率いており、琵琶を持物と見る解釈は注目される
(8
((挿図
((。
一方で、西方広目天王像の持物は初期には大蛇と如意珠であったが、次第
に大蛇は龍に変わる(挿図
((。広目天王の持物が龍や大蛇であるという経
典上の直接的な根拠はいまだ明確にはなっていないが、ただ『雑阿含経』を
はじめ多くの経典に、諸龍王と富多那を西方広目天王の眷属と記しており、
龍が広目天王の持物である可能性を間接的に示している。実際の造形におい
ても、広目天王は片手に龍または大蛇を持って、もう一方の手には龍の超越
的な力の源泉とも言える如意珠を持っており、龍を支配する威信力の所有者
として表現されている。こうした姿について松 ソン広 グァン寺 サに伝わる記録には、「大
龍の主人である西方広目天王が、怒る龍を如意珠でからかっている」と描写
している
(9
(。 以上のように、元代チベット仏教の影響のもとで変貌した四天王の新しい図像は、伝統的に続けられてきた四天王像の形式からの変化とはいえ、経典をもとに成立した図像であったことを確認した。また、北方多聞天王の場合、
宝鼠を持つ作例も存在するが、依然として宝塔が北方多聞天王の持物として
現れている。また、このような図像形式は、以後、明・清時代だけではなく、
朝鮮時代四天王像の典型として定着していったことが、多数の版本と彫像、
仏画の事例から認められる。
このように成立した四天王像の形式は、図像的な特徴が明確であるにもか
かわらず、尊名がわかる事例は少なく、依然として尊名の判断は宝塔を持っ
ている北方多聞天王像を基点に、その他の天王像の尊名を把握するしかな
い。しかし、尊名が記されている明時代と朝鮮後期の一部の作例には、塔を
持っている天王を西方広目天王、琵琶を持っている天王を北方多聞天王と記
録した事例が存在するため、その図像と名称について、多くの論議を巻き起
こした。
これまで朝鮮時代四天王像の名称が図像と別に明記される理由について
は、多様な意見が述べられてきたが、いまだに納得できる結論には至ってい
ない。そこで本論文ではこの問題について、四天王が方位と密接な尊像であ
る点に着目して、方位に則る配置形式の変化が上述の事象についての根本的
な原因であったことを明らかにしたい。
二、方位による四天王像の配置形式の変化原因
四天王は四つの方位を守護する方位神であり、各尊に合わせて東南西北の
正方に配置することが原則である。しかし、四天王像が正方に配置された例
は、彫刻においては方形の舎利函や塔身石のような立体的な構造物の四面に
挿図 ( 西方広目天王(中国北京・法海寺大雄宝殿壁画 部分)明 時代((((( 年)
美 術 研 究 四 〇 九 号六
単独で彫刻される場合と、絵画では胎蔵曼荼羅の外金剛部院の四門に配置さ
れた四天王以外には見当たらない。このように正方に位置する四天王像の事
例が数少ないのは、四天王が外護神将としての性格を持つゆえに単独では造
形されにくく、主に仏や菩薩のような守護の対象と共につくられるからであ
ろう。もちろん、四天王像のみを奉安する朝鮮時代の天王門のような例も存
在するが、寺に出入りするための中央通路を確保する上で、四天王像を正方
に配置することは不可能である。
仏像や仏画は宗教美術であるから、四天王より上位の尊格である如来や菩
薩と共に造形される場合、四天王像は正方ではなく、間方に移動して配置さ
れることになる。つまり、中央に位置する主尊の方位や視線を遮りながら、
下位の四天王を正方に配置することはできないからである。したがって、本
尊の正面にあってその視野を阻む位置にある四天王像は、本尊の左や右の間
方に移動させて配置することになる
(((
(。
彫刻や絵画で、四天王のうちの一尊が本尊の正面を避けて間方に安置され
る場合、本尊の方位と一致する天王像以外の三方位の天王像も順次に間方に 移動される。この時、たとえば本尊が南を向く場合、これを基準にして南方天王が本尊の左側(時計回り(に移動するか、または右側(反時計回り(に
動くのかという点が重要であり、これによって配置形式は全く変わる。
従来、仏教彫刻や絵画に認められる間方に移動した四天王像の配置形式に
ついては、多様な見解が提示されてきた。まず、最初に挙げられるのは、中
央の本尊を基準にその前後に南方天王と北方天王を、左右に西方天王と東方
天王を対称に安置する基本配置から、時計回りに移動するものを
a型とし、
反時計回りに移動するものを
b型として、この二つの形式が時代を異にして
認められるという見解である。とくにここでは
a型は統一新羅時代の石窟庵
と高麗仏画の四天王像の配置に、
b型は朝鮮時代の四天王像の配置形式とし
て展開されたと解釈するものである
(((
((挿図
((。
こうした解釈は、韓国国内に現存する普遍的な四天王の配置形式にも当て
はまり、以後、多くの研究に引用されたが、なぜ統一新羅時代と高麗時代の
a型式が、朝鮮時代になって
b型へと変わったかについては、いまだ解決が
なされていない
(((
(。
と 北方
天王
に
西方 本尊
東方
7H天王
天王
な 南方
天王
と 西方
北方 天王 北
天王
に
西 本尊
東
7H
な 南方
南東方
天王
天王
と 北方
東方 天王 北
天王
に
西 本尊
東
7H
な 西方
南南方
天王
天王
挿図 ( 四天王配置形式図解
(()基本概念
(()a 型
(()b 型
四天王像の配置形式における変化原理と朝鮮時代の四天王の名称七 一方で、別の見解としては、前述した内容とほぼ同じではあるが、日本の四天王彫像の配置について、東方天王を基準にして時計回りに移動させ東南位に安置した東南法と、反時計回りにして東北位に配置する東北法の二つに区分し分析するものである。こうした区分は表記上の違いであり、結局、東南法は a型と、東北法は
b型と同じ配置法である。ただ、その形式の変化原
因については見解を異にしており、時代的な違いではなく、東北法(
b型式
(
は西向や東向の壇に用いられた配置形式と判断している
(((
(。この解釈は、朝鮮
時代天王門の四天王像の配置にも適用でき、四天王像の正しい配置法として
提示されることもあった
(((
(。しかし、東北法(
b型式(が西向や東向の壇に用
いられたという理解は、実は史料の誤釈によるものと思われ、また、いかな
る原理によって配置形式が時計回り、または、反時計回りへと変わっていっ
たかについては明確な解釈がなされてない。
ところが、近年、四天王の配置形式を時計回りと反時計回りに区分し、二
つの配置法が存在するという既存の解釈から離れ、時計回りに移動する
a型
のみで一貫するという新たな見解が提示されるに至っている。この研究で
は、まずヒンズー教の八つの方位神のうち、北方のクベラ(Kuvera(が東北
位に、西方のバルナ(Varuna(が西北位に位置するという事実に注目している。
つまり、本尊の位置を考慮して、正北位に北方天王が置けない場合、北方天
王は東北位、もしくは、西北位のどちらかに四五度ずつ移動して安置される
ことになるが、その際、とくに時計回り、すなわち太陽が回る東北位が好ま
れた。したがって、四天王像はほとんど
a型と同じ方位に安置することにな
るが、これは仏教の右繞三匝と無縁ではなかったと解釈している。さらに、
こうした配置形式と一致する『不空羂索神変真言経』の四天王の配置法を例
にあげ、その教理的な根拠を提示した
(((
(。 この解釈では、尊像が間方に移動・配置される場合、右繞(時計回り(と
いう一貫した原則が存在することを明らかにし、四天王の配置形式の理解に
新たな視点を提示したと言える。しかし、四天王の配置形式を
a型のみで理
解するという見方では、多様な四天王の配置形式を説明できないという限界
がある。また、右繞の根拠と提示したヒンズー教の方位神の配置は、そもそ
も儒教文化圏の南向配置とは異なるもので、東向配置を基本とするインドの
宗教建築に従って現れる現象と理解される。さらに、その教理的な根拠とし
て引用された『不空羂索神変真言経』における四天王の配置法は、内容の一
部を落としたまま解釈した結果であり、根拠として認めることはできない
(((
(。
結局、右繞の原理に基づいて四天王の配置が
a型で一貫されるという見解
は、朝鮮時代の一部の仏画と彫像に明記された四天王の名称を根拠に四天王
の持物が変わるとしても、統一新羅時代や高麗時代の四天王の配置形式と変
わることなく、そのまま朝鮮時代まで継承されたと考えた結果であろう。
ここまで紹介した四天王の配置に関する既存解釈の大きな盲点は、四天王
の配置を南北子午線軸(向きを南向(に限定して考えたところにある。四天
王配置の向きを南方に限定するのは、極めて儒教的な見方である。五方仏と
十方諸仏の存在が示すように、仏教はすべての方位を包括しており、四天王
配置の基準を南方に限定する必要はない。実際に仏教の方位観を最も克明に
あらわしている曼荼羅を見ても、たとえば金剛界曼荼羅では東向で配置して
いるが、胎蔵曼荼羅では西向を基準にすべての尊像が配置されている。こう
した事実は、本尊の向きを南方に限定して、四天王配置形式の変化を解釈す
ることの困難さを示すとともに、本尊の尊格によって東南西北のすべての方
位が本尊の向きになれるという事実を雄弁に物語っているといえよう。
東南西北の四方は固定された概念ではあるが、何を基準にするかによって
美 術 研 究 四 〇 九 号八
配置は変化する。たとえば風水地理でよく言われる「左青龍(東(・右白虎
(西(」という意味は、向きを南に置いた時の方位概念である。もし、向き
を北にした場合には「左白虎(西(・右青龍(東(」へと配置が変わる。この
ように基準方位の設定の仕方によって左右の方位が変わる原理こそ、四天王
の配置形式が変わる原因になる蓋然性がある。
四天王の配置形式に働く原理を理解するためには、まず、古代の四天王像
に影響を及ぼした『陀羅尼集経』の四天王配置法に注目する必要がある。 四肘の壇を造るのだが、まず白粉を敷いて境界を作り、壇には四つの門を開ける。壇の中心には蓮花座を造って、烏枢沙摩像を安置する。東門に再び蓮花座を一つ造って跋折囉施可囉を安置する。南門にも蓮花座を一つ造り、弥嚕室陵伽を安置する。北門にも蓮花座を一つ造って漢陀釈吉智を安置する。西門には跋折囉杜地を安置し、西門の外には呪師の席を用意する。東北の隅には提頭頼吒天王(東方持国天王(を安置して、
東南の隅には毘盧茶迦(南方増長天王(を、西南の隅には毘嚧博叉(西
方広目天王(を、西北の隅には鞞沙門天王(北方多聞天王(を安置する。
挿図 6 『陀羅尼集経』所説の四天王配置 法(南向図解)
挿図 7 『陀羅尼集経』所説の四天王配置 法(西向図解)
挿図 8 四天王配置形式案
(()A 型(東向法)
(()B 型(南向法)
(()C 型(西向法)
(()D 型(北向法)
四天王像の配置形式における変化原理と朝鮮時代の四天王の名称九 この四天王も共に供養する
(((
((傍線ならびに括弧内は筆者による(。
この経説には、本来、四天王が位置する東南西北の四門に跋折囉施可囉、
弥嚕室陵伽などの四天王より上位の尊格が安置されたため、四天王はその正
方を避けて、間方に移動させたことが述べられている。これを図解したのが
挿図
6であるが、ここで注目されるのは、四天王が間方に移動して配置され
る場合、時計回りではなく、反時計回りに移動するという点である。つまり、
北方天王を西北の隅に安置するということは、反時計回りによる移動を意味
する。もし従来の主張通り右繞の原理が適用されたとすれば、北方天王は西
北の隅でなく東北の隅に配置されることになろう。
間方に移動する四天王すべてに右繞の原則が適用されるという予測に反し
て、反時計回りに移動する原因については、今後さらに追求すべきであろう
が、ただ、本尊の向きと重なる方位の天王像が、本尊の向く方位を基準にし
てその左に移動するという事実に着目すれば、一般的に左側に上位が位置す
る尊像配置の原則に基づいているとも考えられる。
そして、ここで認められる配置法は、固定した方位という従来の解釈と異
なり、実際の方位に従って三次元上に求められた配置であり、この作壇法で
は、四天王の配置形式が見る方向によって四種類に変化するという事実を示
している。たとえば、仮に挿図
6の配置形式が南側から見た形式であるとす
れば、儀式を執り行う呪師が位置する西側から壇を見た場合は、挿図
7のよ
うに四天王の配置形式が変わる。実際に仏教の方位観が厳格に適用された胎
蔵曼荼羅の四天王の配置では、西向を基本にして展開するため、下段の中央
には西方天王が置かれ、これに対する上段の中央には東方天王が、右側中央
と左側中央には南方天王と北方天王が、それぞれ対称に安置された。 以上のように、見る方向によって四天王の配置形式が変わるという原理
を、四方向からそれぞれ適用した場合、四天王の配置形式は挿図
8に見る
A、
B、
C、
Dの四種類に展開することになる。本論文ではこのように整理
された四天王の配置形式を、その向きに従って
A型は東向法、
B型は南向法、
C型は西向法、
D型は北向法に、それぞれ分類して論を進める。ただし、挿
図
8に図解した四天王の配置形式は基本概念であり、論文では仏壇あるいは
画面での位置や構図にかかわらず、東方―西方、南方―北方がそれぞれ対角
線をなす作例を対象とした。
ここまで分析した結果を、すでに論じられてきた四天王の配置形式に適用
してみるならば、
A型と
B型の違いは、四天王が時代によって時計回り、ま
たは、反時計回りに移動したというより、本尊の向きに従って変更されたこ
とが明らかになる。本尊の向きによって四天王の配置形式が変わるという事
実は、一一四〇年頃に撰述された『図像抄』四天王の条に収録されている次
の記事からも確認できる。
西北方向に北方多聞天を立て、東北方向に東方持国天を立て、東南方向
に南方増長天を立て、西南方向には西方広目天を立てることが一般的で
ある。ただし、法輪寺のように寺院が東向の場合には西北位に西方広目
天を、東北位には北方多聞天を、東南位に東方天を、西南位に増長天を
置くようにするが、この配置は東大寺や東寺の講堂にも見ることができ
る
(((
(。
この記事に見られる四天王の配置は、実際の方位によるものではなく、本
尊の向きを基準に設定された方位である。もしここで四天王が実際の方位に
美 術 研 究 四 〇 九 号一〇
従ったとすれば、建物の向きによって四天王の配置形式を変える必要はな
い。つまり、日本において南向きの寺院には南向法の
B型が、東向きの寺院
には東向法の
A型が用いられ、また、建物の実際の方位と関係なく、東大寺
や東寺の四天王には、東向法が用いられたことが述べられているのである。
さて、ここで前述した内容を簡略に整理しておくと、四天王の配置形式
は、本尊の向きによって四種類に区分でき、間方に移動した場合は、反時計
回りに回転することを確認した。したがって本尊の方位は、本尊の前方左側
に配置される天王像の方位と一致し、四天王像全体が本尊の前方に配置され
る場合は、その左側に位置する像の方位と一致することになる。次に、こう
した四天王の配置原理が、実際の作例の上でどのように適用されたのかにつ
いて、具体的な事例を挙げて検討してゆきたい。
三 、 向 方 の 変 化 に よ る 四 天 王 像 の
配 置 原 理 の 適 用 事 例
前章で提示した四天王の四つの配置形式のうち、
A型の東向法は、古代東
アジアにおける四天王像の配置形式の大半を占める。日本の寺院に現存する
ほとんどの四天王像が、この東向法を用いており、ほかに韓国高麗時代の仏
教絵画でも本尊の尊格に関係なく一貫している(挿図
9(。
東向法による作例のなかで、実際本尊の向きと四天王像の配置が一致して
いる代表的な事例は、統一新羅時代の石 ソッ窟 ク庵 ラムの四天王像である。石窟庵の四
天王像の配置は、本尊の向きを基準にして左の内側に塔を持つ北方多聞天王
像を、外側には剣を持つ東方持国天王像を配置し、東向法に基づいているこ
とがわかる。とくにこうした配置形式は、東を向く石窟庵本尊像の実際の方
位を反映し、東向法を適用したという点で注目される。 しかし、石窟庵のように方位の基準を東に設定し、これに基づいて行われた四天王像の配置形式、すなわち東向法は、実際の方向や本尊の尊格にかかわらず、古代東アジアにおける四天王像の配置に普遍的に用いられ、北宋時代と高麗時代の仏画に至るまで継続された。高麗時代末から朝鮮時代初期の間に造られた僧塔の四天王像にも北方多聞天王像を東北位に配置して、実際の方位とは異なる東向法が適用されている
(((
(。
このように古代東アジアと高麗時代の四天王像の配置形式が、本尊の向き
にかかわらずに東向法であった原因については、今後、インドと中国の四天
王像の資料を加えて別の議論が必要になると思われるが、少なくとも統一新
羅時代と高麗時代の事例に限定するなら、華厳信仰との関連性が指摘できる。
すでに多数の先行研究が明らかにしている通り、統一新羅時代の華厳宗の
主尊である智拳印の毘盧遮那仏は、中国の中期密教の金剛界大日如来の手印
を採用して、抽象的な法身仏を形象化したものである。華厳と金剛界密教と
の関連性は、新羅の華厳世界を具現した五台山文殊信仰の構造と概念が、金
剛界密教の五方仏から始まったという事実からも裏付けられる
(((
(。新羅の華厳
尊像の成立に金剛界密教の図像が影響を及ぼしたとすれば、それとともに金
剛界密教の方位概念が受容されていたとしてもおかしくはない。周知の通
り、金剛界曼荼羅は東向を基準にすべての尊像が配置されており、そのうち
一部を独立させた別尊曼荼羅の場合も、その方位の基本は変わらなかった。
よって、古代東アジアと高麗時代に、本尊の向きとは関係なく用いられた東
向法は、金剛界密教とその影響を受けた華厳の方位体系による配置形式であ
る可能性が高く、これは阿弥陀仏を本尊とする方向とも関係していると思わ
れる。
次に
B型に当たる南向法は、向きの基準を南に設定した四天王像の配置形
四天王像の配置形式における変化原理と朝鮮時代の四天王の名称一一 式である。南向法は一般的に知られるような南宋時代以後に出現した形式とは言いがたく、統一新羅時代に造られた華 ファ厳 オム寺 サの四獅子石塔や、金剛山の長 チャン
淵 ヨン寺 サ石塔に浮彫りにされている四天王像に、その先行例が確認できる
(((
(。これ
らの作例は、古代にも実際の方位を意識して四天王像を配置する傾向が、す
でに存在したことを窺わせる。
しかし、南向法が本格的に用いられたのは、南宋時代の紹興年間(一一三
一~六三(に板刻されたと推定されている京都・雲龍院所蔵の〈法華経変相
版画〉(挿図
(0(からである。この作例に認められる四天王の配置形式は、
宝塔を持つ北方天王が本尊の右側後方に位置しており、南向法に従ってい
ることがわかる。これと同じ図像配置の作例としては、三星美術館リウム
(leeum(所蔵の一二八六年に刊行された小字本〈法華経変相版画〉があり、
一三三二年に制作された〈紺紙銀泥法華経変相図〉(挿図
(((や、上院寺木
造文殊童子像の像内から発見された一四〇四年の〈法華経変相図〉にも継承
されている。こうした状況を見る限り、南宋時代に浙江省抗州地域で板刻さ
れ始めた南向法の〈法華経変相図〉が、高麗に伝来し、高麗時代末期から朝
挿図 (0 法華経変相版画(部分)南宋時代((((( ~ ((6( 年)京都・雲龍院
挿図 9 地蔵十王図 絹本着色((((.( × ((.9cm)
高麗時代((( 世紀)静嘉堂文庫美術館
美 術 研 究 四 〇 九 号一二
鮮時代前期まで広く流通したと推測される
(((
(。
南向法は、朝鮮時代の四天王像の配置に最も多い割合を占める形式であ
る。伝統的に受け継がれてきた東向法が、なぜ南宋時代に南向法に変化した
のかということは、朝鮮時代後期の四天王の名称とも深く関わる重要な問題 である。これに関連して一つ注目されるのは、先に提示した南宋時代と高麗時代、朝鮮時代の南向法による作例のすべてが『法華経』に関わる変相図であったという事実である。つまり、南向法の出現は釈迦仏の方位と深く関わっていたと言うことができよう。 『
長阿含経』には、釈迦仏の方位が北方であることを暗示する次のような
一節が載せられている。
その時、世尊は拘尸城に入って、末羅族の本生処である双樹の間に向かっ
て行くなかで阿難におっしゃった。「君は私のために双樹の間に横にな
る席を用意して欲しいが、頭は北に顔は西側へ向かうようにしなさい。
これは私の法が広く広がって将来、北方に長らく留まるからである
(((
(」。
そして、密教の四方仏のうち、北方位に安置される不空成就仏は釈迦仏と
同一視された。『仏頂尊勝心破地獄転業障出三界秘密三身仏果三種悉地真言
儀軌』にも、五方仏のうち、北方位に位置する如来を釈迦牟尼仏と明記して
おり
(((
(、新羅でも釈迦仏の方位を北方と認識されていたことが『三国遺事』台
山五万真身条の次のような内容から確認できる。
ある日、兄弟が五峰に礼を挙げるために登ると、東台満月山には一万の
観音の真神が現れ、南台麒麟山には八大菩薩を始め一万の地蔵が現れ、
西台長嶺山には無量寿如来を始め一万の大勢至菩薩が現れ、北台象王山
には釈迦如来を始め五百の大阿羅漢が現れた。中台風盧山は地霊山とも
言われるが、ここには毘盧遮那仏を始め一万の文殊菩薩が現れた。兄弟
はこの五万の菩薩の真神に一々に礼を挙げた
(((
(。
挿図 (( 紺紙銀泥法華経変相図(部分)高麗時代((((( 年)佐賀・鍋島報效会
四天王像の配置形式における変化原理と朝鮮時代の四天王の名称一三 以上の内容は、釈迦仏の方位的属性が、北方仏であることを窺わせる。したがって、法華経変相図に用いられた南向法は、北方位の釈迦仏が北側に背を向けて南を向く時に適用される四天王像の配置形式といえる。このように南宋時代に認められる、釈迦の方位仏的属性が反映された法華経変相図の南向法は、以後、元時代に新しく確立された図像形式とともに、明・清時代
と朝鮮時代の霊山会上図の四天王像の配置形式の典型として定着した(挿図
(((。
ところで、一つ興味深いことは、釈迦如来を本尊とする仏画のなかで、京
挿図 (( 妙法蓮華経変相版画 朝鮮時代((((9 年)三重・西来寺
挿図 (( 三仏諸尊集会図(部分)趙璚筆 絹本着色((((.( × (8.(cm)南宋時代((( 世紀)
京都・満願寺
美 術 研 究 四 〇 九 号一四
都・満願寺に所蔵される〈三仏諸尊集会図〉のような、南向法と逆のD型の
北向法が用いられた作例が存在する事実である(挿図
(((。北向法は南に背
を向けて北を向くように設定され、合わせて配された四天王像の配置形式で
ある。南宋時代の作品と推定される〈三仏諸尊集会図〉は、画面最前方の向
かって右側に宝塔を持つ北方天王を配し、これと対称になる向かって左側の
最前方には弓と矢を持つ東方天王を配して、方位に基づく配置形式に忠実に
従っている。ただ、前述した法華経変相図とは違って、宝塔を持つ北方多聞
天王が本尊を基準にして左側最前方に配置されたことは、この作例において
北向きを基準にする北向法が適用されたことを意味する。
このように同じく北方位の釈迦仏を本尊にしながらも、南向法と北向法と
いう正反対の配置形式が用いられた理由については、両界曼荼羅における尊
像の配置形式の違いと同じ脈絡で理解できると思う。つまり、両界曼荼羅は
すべて大日如来を中心に展開されるが、金剛界曼荼羅は東向を基準に、胎蔵
曼荼羅はその逆方向の西向を基準にすべての尊像が展開する。そして方位仏
の代表ともいえる西方阿弥陀仏像の作例を見ても、例えば仙 ソン桃 ド山 サン磨崖三尊仏
が西に背を向けて東向に配置されている一方で、掘 クル仏 ブル寺 サ跡四面石仏のように
東に背を向けて西向に配置される事例もある。同一の方位仏でありながらそ
れぞれ異なる方向を採る現象については、信仰的な裏付けを含めて今後究明
すべき課題である。ただ、北方位を象徴する釈迦仏の造形に、南向法と北向
法が共存するという事実は、すべての方位仏の方向が本向と逆向の二つに展
開された可能性を裏付けると言えよう。
釈迦仏画に北向法が用いられたのは、十二世紀後半に張勝温が描いた大理
国梵像図の〈釈迦牟尼仏会図〉(挿図
(((の例によって一層明らかになる。
大理国梵像図には〈釈迦牟尼仏会図〉と〈薬師琉璃光仏会図〉(挿図
(((が
挿図 (( 釈迦牟尼仏会図(大理国梵像図 部分) 張勝温筆 南宋時代((( 世紀後半)
四天王像の配置形式における変化原理と朝鮮時代の四天王の名称一五 続いて描かれており、本尊の方向によって四天王像の配置形式が変わる事実を最もよく示している証拠資料である。まず、〈釈迦牟尼仏会図〉は、横幅
の広い画面を用いて、釈迦三尊を中心にして十大弟子、四天王、八部衆、金
剛力士など多数の眷属を描いており、画面左側の傍題には「南無釈迦牟尼仏
会」という墨書が認められる。この作例における四天王像の配置形式は、前
述した南宋の〈三仏諸尊集会図〉と同様に、本尊釈迦を基準に左右両側の前
方に宝塔を持つ北方多聞天王像と、弓と矢を持つ東方持国天王像をそれぞれ
配置する北向法が適用されている。これに対して、続いて登場する〈薬師琉
璃光仏会図〉は、東方琉璃光世界の薬師会を描いた図であり、四天王像の配
置形式は東向法となっている。さらに付言すれば、二つの図に描かれた四天
王像の図像と持物に大差はないが、向きを北方にした〈釈迦牟尼仏会図〉で
は、本尊を基準に左側前方に位置した北方多聞天王像が、東向きの〈薬師琉
璃光仏会図〉では左側後方に移動しており、多聞天の位置には東方持国天王
像が配置されている。
以上のように大理国梵像図に描かれた〈釈迦牟尼仏会図〉と〈薬師琉璃光
仏会図〉は、四天王像の配置形式において本尊の方位によって変わるという
原理が、実際の仏教美術に適用された格好の事例である。この作例から、
東南西北の正方の四天王像が間方に移動される場合、時計回り(右繞の原則(
という従来の指摘と反して、反時計回りに移動するという事実が再確認でき
たと思われる。
続いて
C型の西向法は、本尊の向きを西にして定立された形式であり、西
に向う仏壇や方位的属性を持つ仏身のうちで、本向が反映された西方の阿弥
陀仏、または、逆向が反映された東方の薬師仏や阿閦仏に用いられた四天王
像の配置形式である。しかし、東アジアにおいて西向きの仏殿はあまりその
挿図 (( 薬師瑠璃光仏会図(大理国梵像図 部分) 張勝温筆 南宋時代((( 世紀後半)
美 術 研 究 四 〇 九 号一六
例が見当たらず、また、阿弥陀仏が本向である西に向かって四天王像と共に
造形される例も多くない。さらに、西向法の適用が最も容易な東方阿閦仏と
薬師仏の場合も、阿閦仏が単独で造られた例はなく、薬師仏も十二神将を眷
属として登場するため、四天王像は省略される場合が多い。したがって、西
向法は北向法と共にその適用事例がほとんど見られない四天王像の配置形式
と言えよう。
四天王像に西向法が用いられた事例は、明時代の正統五年(一四四〇(に
板刻された〈仏説阿閦仏国経変相版画〉(挿図
(6(をはじめとして、一部の
変相版画に確認できる。これらの変相版画では、中央の阿閦仏を基準にして、
左に宝剣を持つ南方増長天王像を、その前方に大蛇を握っている西方広目天
王像を配置しており、阿閦仏の右には琵琶を持つ東方持国天王像を、その前
方には宝幢と宝鼠を持つ北方多聞天王像を配置し、本尊の向きに基づいて西
向法が用いられたことがわかる。
一方、韓国国内における西向法の適用例としては、一般的な朝鮮時代の天
王門の四天王像と全く異なる配置形式と言われてきた洪 ホン川 チョン・寿 スダサ陀寺鳳凰門の
四天王像が注目される。朝鮮時代の天王門の一般的な四天王像の配置は、内
部中央から入口を見た時に、左側の前・後に剣を持つ南方増長天王と琵琶を
持つ東方持国天王像が配置され、右側の前・後には龍と如意珠を持つ西方広
目天王と宝塔を持つ北方多聞天王像が配置される。この四天王像の配置形式
は、向きの基準を南にした時に用いられる南向法であり、朝鮮時代の仏殿配
置のほとんどが、南北子午線を軸として建立されていた事実と無関係ではな
い。
ところが、一六七六年に造られた洪川・寿陀寺鳳凰門の四天王像の配置は、
内部中央から入口に向かった時、左側前方に龍と如意珠を持つ西方広目天王
挿図 (6 阿閦仏国経変相版画 明時代((((0 年)
四天王像の配置形式における変化原理と朝鮮時代の四天王の名称一七 を、その後方には剣を持つ南方増長天王像を配置している。さらに、右側前方に宝幢を手にする北方多聞天王を、その後方には琵琶を持つ東方持国天王像を安置し、朝鮮時代の一般的な四天王像の配置と全く異なる形式を見せている〈表
(〉。従来、寿陀寺鳳凰門の四天王像の配置形式については、極め
て異例的な配置と見なされており、四天王像が反時計回りに安置された事例
と解釈されてきた。さらに、宝幢を持つ天王像を西方広目天王像と見なす根
拠として提示される場合もあった
(((
(。しかし、この寿陀寺鳳凰門四天王像の独 特な配置形式を理解するためには、鳳凰門の向きが朝鮮時代の一般的な天王門の方向とは違い、西向であることを見逃してはいけない。寿陀寺鳳凰門における四天王像の配置形式は、まさに西向法であり、表
(のような四天王像
の配置原則と、鳳凰門の実際の方位を正確に意識して、これを反映した作例
と再解釈しなければならないと思う。
さて、ここまで本尊もしくは中心に位置する向きの変化に応じて変わる四
天王像の配置形式の適用事例を紹介した。その結果、前章で理論的に導き出
した四つの形式が、実際の作例の上でも全て適用されることを確認した。ま
た、一つ注目される変化は、南宋時代以前には本尊の向きにかかわらず主に
前方を東向に設定する東向法を中心に展開したが、南宋時代になると、本尊
の向きに従って四天王像の配置形式が多様化する点にある。このような変化
は、統一新羅時代と高麗時代に用いられた東向法が、朝鮮時代に至り南向法
へと転換した現象とも関わる。高麗時代以前と以後で変わる向法の変化は、
暫定的には東向法に基づいた華厳信仰の方位体系が、南向法に基づく法華信
仰の方位体制へと転換されたとも考えられる。結局、方向に基づいた四天王
像の配置形式の変化は、朝鮮時代の四天王の名称の混乱を招いた直接的な原
因であった可能性が高い。次はこの問題について触れてみる。
四、朝鮮時代の四天王像の名称問題
これまで見てきたとおり、元時代のチベット仏教美術の影響を受けた四天
王図像は、朝鮮時代の四天王像の典型として定着し、彫刻・絵画のジャンル
を問わず、朝鮮時代の仏教美術にその影響を及ぼした。ところが、四天王の
尊名の判断基準となった宝塔を持つ北方多聞天王像が、泉 チョヌン隠寺 サの〈阿弥陀仏
会図〉(挿図
(7(をはじめとして、一部の朝鮮時代後期の仏画では西方広目
表 ( 洪川寿陀寺四天王像の配置
íę ºĈ~itÀG%ăÛ
³¦ktÀ ÃÄ X¦rÝtÀ
|
³
5
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J^
Z¦oĆtÀ S î¦ÊtÀ Ĕ#uÁ
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|
³
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J^
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美 術 研 究 四 〇 九 号一八
天王と記されることが確認されるに及んで、朝鮮時代の四天王の図像と名称
に関する問題として朝鮮時代後期の仏教美術の問題として浮上した。四天王
の図像とその名称が合致しないという理由については、仏画と彫刻が別々の
系譜のもとで互いに異なる伝統に従うという多少留保的な見解もあるが、大
きくは絵師あるいは尊像の名称を記した筆者の錯誤や、彼らの恣意的な解釈
による結果とみる見方と、記されている名称そのものを重視して、朝鮮時代
の四天王像の図像と名称が変わったとする見方の二つに大きく分かれる
(((
(。
この相反する二つの見方のなかで、まず、仏画を描いた絵師による錯誤や、
名称を記した筆者の恣意的な解釈による結果とする主張は、四天王図像の成
立と変遷過程をもとに、経典と儀軌に則って造られた尊像の名称は根本的に
変わることはないという点を重視したものである。とくにここでは、朝鮮時
代後期を新たな仏教美術が確立される段階と見るより、既に確立された図像 が変容し土俗化してゆく時期と見なして、四天王の図像と配置を究明する上で、朝鮮時代後期の仏教美術をもって基準とするのは困難という立場をとっている
(((
(。しかし、こうした指摘の通り、絵師の錯誤や未熟と理解してしまう
には、あまりも四天王像の図像とその名称が異なって記された事例が多く、
また、その事例が一貫して北方多聞天王の図像を西方広目天王と記すことに
ついて何ら言及がなされていない。もちろん、仏教美術の図像体系は複雑で
多様に展開するため、制作者の図像に対する理解が足りない場合は、間違っ
て制作される可能性は充分あり得る。しかし、制作者の不理解による誤りで
あったとしても、その事例が頻繁であり、その誤りが一貫して展開している
としたら、この誤認が生じた原因について明らかにする必要があろう。
次に、朝鮮時代の四天王像の図像と名称そのものが変化したという見方
は、泉隠寺蔵〈阿弥陀仏会図〉に記されている四天王像の名称を尊重しつつ、
チベット仏画の四天王像のうちの西方広目天王が塔を手にしている点に注目
したものであった
(((
(。以後、四天王像の名称が残っている朝鮮時代後期の仏画
の作例が新たに発見され、さらにまた、仏画だけではなく順 スン天 チョン・松 ソン広 グァン寺 サや
梁 ヤンサン山・通 トン度 ドサ寺の天王門安置の四天王彫像にも、その図像表現から推定される
尊名とは異なる名称が確認されるに至って、以前よりも一層深化した見方が
述べられた。そこでは、四天王像の図像と持物が経典ごとに異なっており、
絶対的なものではないことから、北方多聞天王が必ずしも塔を持つことが絶
体的ではないと主張している。また、新たな四天王の図像と配置形式は、一
四一七年に明の永楽帝が編纂した『諸仏世尊如来菩薩尊者名称歌曲』におい
て定立され、朝鮮にも広く流布し、以後の四天王図像の手本になったと見
て、中国・河北省毘盧寺毘盧殿に描かれた四天王像に付された傍題を根拠に
して、宝塔を持つ天王像が西方広目天王へと変わったと判断した。したがっ
挿図 (7 阿弥陀仏会図 絹本着色((6(.( × (76cm) 朝鮮時代
((776 年)泉隠寺極楽宝殿
四天王像の配置形式における変化原理と朝鮮時代の四天王の名称一九 て〈名称歌曲変相版画〉をもとにして定着した朝鮮時代の四天王像の配置と持物による名称は、塔を持つ天王像を西方広目天王とし、琵琶を持つ天王像を北方多聞天王像と呼ぶべきであると主調している
(((
(。
しかしこうした主張は、〈名称歌曲変相版画〉に登場する、塔を持つ像と
琵琶を持つ像が、それぞれ西方広目天王と北方多聞天王像として造られた根
拠がないため、すべてに同意することは難しい。前述の居庸関の雲台四天王
像の事例から窺えるように、〈名称歌曲変相版画〉の四天王像の配置形式と
図像はすでに元時代に確立された図像とほとんど変わらない。とすれば、正
確な名称がある居庸関雲台の四天王像のうち、北方多聞天王と東方持国天王
像に似た図像について、なぜ尊名が記されていない〈名称歌曲変相版画〉を
根拠に、西方広目天王と北方多聞天王像と判断したか、適切な根拠を提示し
なければならないであろう。
昆盧寺壁画に現れた四天王像において、塔を手にした天王像が西方広目天 王と明記されているからといって、〈名称歌曲変相版画〉の、塔を持つ天王
像を西方広目天王像と判断することの根拠にはならない。というのも、明時
代・十五世紀に板刻された〈撰集百縁経変相版画〉(挿図
(8(には、琵琶を
持つ天王像と塔を持つ天王像について、経典に説くところの図像に合わせ
て、それぞれ「東方天王」と「北方天王」と正確に記している版本が存在し
ているからである。また、朝鮮時代の尊名の付された四天王像の事例が、一
貫して塔を持つ天王像を西方広目天王と記しているとしても、朝鮮時代に塔
を持つすべての天王像を西方広目天王と認識していたとも考えにくい。さら
に、前述した通り、類例を見ない四天王の配置形式と分類された洪川・寿陀
寺鳳凰門の四天王像は、実は経典の説くところの図像と実際の方位に基づい
た配置形式である可能性が高く、また、寿陀寺とは異なる形式ではあるが、
嘉靖二十九年(一五五〇(に制作された道 ト岬 ガ寺 サ旧 プ蔵(現在は京都・知恩院蔵(〈観
音三十二應身図〉(挿図
(9(では、塔を持つ毘沙門天身が描かれた例も存在
挿図 (8 四天王像(撰集百緑経変相版画 部分)明時代(((
世紀)
挿図 (9 観音三十二應身図(部分) 朝鮮時代((((0 年)
京都・知恩院(道岬寺旧蔵)
美 術 研 究 四 〇 九 号二〇
している。
一方で、順天・松広寺と通度寺天王門の四天王像や、一七五八年に制作さ
れた弘益大学校博物館所蔵の四天王図のように、単独で制作された作例にお
いても、塔を手にした天王像を西方広目天王と記した例が認められる。こう
した事例は、当時、四天王の図像に対する認識に混乱が生じていたことを物
語っていることは明らかであるが、そうであるとしても、その名称を朝鮮時
代の事例全般に適用するのは難しい。
朝鮮時代の四天王像の名称についての問題は、尊名のある事例をもって、
これをもとに作例すべてに適用させるという視点に立つか、あるいは、特殊
な事例と見るかによって、その結論は大きく変わる。尊名が記されている事
例を絶対視する観点から見れば、朝鮮時代において塔を持つ天王像を北方多
聞天王像と認識していた可能性は高い。しかし、四天王像に名称の付される
事例は、多数の作品のうちの一部に過ぎず、何よりも朝鮮時代の仏画総体に
おいて、最も多く制作された霊山会上図にその例が一つも存在しないという
点を考慮するならば、やはり特殊事例として解釈すべきである。
朝鮮時代の四天王像に記されている名称は、現在確認される限り、経典が
説く図像とは異なってはいるものの、その方位体系は一定の傾向を維持して
いることがわかる。つまり、尊像の配置形式は北方多聞天王像を本尊の右側
後方に配置する南向法に基づいているが、実際は本尊の左側後方で琵琶を持
つ像を北方多聞天王像と記しており、東向法に基づく名称記載を行ってい
る。このように南向法による尊像配置の形式に東向法の名称が用いられたこ
とは、朝鮮時代の四天王像に記された名称が、向法の特殊な運用に関わって
いた可能性を窺わせる。
この点に着目し続いて、朝鮮時代の四天王像のなかで尊名の記される仏画 の本尊と、その向きの分析を試みた。朝鮮時代の仏画のうち経典の説くところの図像と別の名称が記され、議論になった作品を整理したのが、表3である。 表
(に挙げた作例における各本尊は、報身盧舎那仏の図像が反映された華
厳系仏画と、阿弥陀仏画という共通点があり(挿図
(0(、明時代の毘盧寺毘
盧殿の壁画もその寺名が示すように同じ脈絡で理解できる。上述した通り、
阿弥陀仏と金剛界密教の影響を受けた華厳系仏画の方位体系は東向となるた
め、四天王像の配置形式が東向法に従うのは当然である。華厳系仏画の向き
表 ( 朝鮮時代における四天王像の名称のある仏画
CDbÏ 年 @ 畵 rÝtÀ%½ Ćú~ ¢= ĘĜĝĚ fy ÃÄ ēú~ ¢= ĘĜĜĝ ßy ÃÄ µ~ é\ Ęĝĝė Fm é連 ¼
¸ĉ~ ćĈ=Ç ĘĝĝĜ Fm é連 ÃÄ
?~ é\ ĘĝĞė 4û ĕ¼Ė
¸ĉ~ 1§
ćĈ=Ç ĘĞěĚ »ċm Éù ÃÄ s7~ ¯P Ē® ĕ°óĖ ÃÄ
íĚ Ē¨@$(itÀG%bÏ%(=Ç
四天王像の配置形式における変化原理と朝鮮時代の四天王の名称二一 が東向に展開するという事実は、松広寺と仙 ソナ岩 ム寺 サに伝わる華厳系仏画の事例
によって一層はっきりとする(挿図
(((。松広寺蔵〈華厳変相図〉(挿図
(((
における四天王像の配置形式は、傍題を通じても東向法であることが確認で
きるが、最も興味深い点は、正面向きや側面向きに描かれた多数の聖衆とは
別に、後ろ姿で描かれている東方諸首菩薩であり、この様子から本尊が東向
きであることを象徴的に示している(挿図
(((。
挿図 (0 掛仏(全図)ならびに同部分(四天王) 麻本着色(809 × (66cm)朝鮮時代((687 年)
長谷寺
挿図 (( 華厳変相図 絹本着色((8(.( × (68cm)朝鮮時代((770 年)松広寺華厳殿
美 術 研 究 四 〇 九 号二二
以上の事実から、明時代や朝鮮時代の仏画に見られる、経典の所説に合致
しない四天王像の名称は、図像とは別に、本尊が東向きにあるということを
意識して記された名称であることが確認できよう。それでは、なぜ四天王像
の配置を東向法に変えず、名称だけを東向法に合わせて記したのであろうか。
これに関して、『諸仏世尊如来菩薩尊者名称歌曲』に代表される明初刊行
の版本が広く流布していた事実に注目する必要がある。当時刊行された版本
は朝鮮にも積極的に受容され、〈名称歌曲変相版画〉を底本とする仏経の刊
行や、霊山会上図の制作などが大々的に行われた
(((
(。その結果、当時刊行され
挿図 (( 東方諸首菩薩(華厳変相図 部分)朝鮮時代((770 年)松広寺華厳殿
挿図 (( 四天王像(華厳変相図 部分)朝鮮時代((770 年)松広寺華厳殿