大徳寺所蔵《水月観音図》の供養人物群像に関する 新解釈
著者 朴 銀卿, 金 正善
雑誌名 美術研究
号 391
ページ 40‑58
発行年 2007‑03‑26
URL http://id.nii.ac.jp/1440/00006145/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止
美 術
耳川 7r uF
究
九
Eコ 可
四
o
1 9 6
大徳寺所蔵︿水月観音図﹀の供養人物群像に関する新解釈
朴
銀
n H H F
h
ロ ド4H
句ノ
ノ~
E
正
善 訳
はじめに 一︑供養人物群像の再検討
( 1 )
供養人物群像の内容と表現技法
( 2 )
供養人物群像に関する従来の解釈と問題点
二
︑供養人物群図像の正体性とその象徴性
( 1 )
龍王と龍王婦人︑そして春属たち
( 2 )
鬼子母図像の受容︑龍女と摩尼珠
( 3 )
鐘埴図像の出現と役割
( 4 )
獣頭人物像の供養物︑沈香木と埋香信仰 おわりに
とりわけ高麗時代後期にあっては︑岩窟と竹を背景に水辺の岩上の草座に 坐っている姿をあらわした︑いわゆる水月観音図は︑現在︑四十点ほどが知
(1)
られており︑その信仰の高まりを窺い知ることができる
︒
高麗の水月観音図 では︑水辺の岩座に半蜘坐する観音像を画面全体に大きく配し︑足下の水面 を隔てる向かい側に︑ひざまずいて観音を敬拝する善財童子を配するという
構成
が︑
一つのパターンをなしている︒頭から透明なベ
l
ルを被り︑それが流れ落ちるようにして全身を包む観音の姿は︑とりわけ霊的で神秘的な感が
ある︒
観音の足下の水辺には︑蓮のつぼみや︑金砂︑紅珊瑚︑紅白丸珠︑宝 貨︑供養花などが描き込まれているが︑こうしたモチーフによって︑観音の
はじめに
秀麗さと敬慶さとがさらに深められている
︒
また高麗の水月観音図には︑こ 東アジアにおいて︑西洋の岩窟を背景とするマリア像の慈悲深いイメージ
うした共通する特徴をしめしながらも︑さらに﹃法華経﹄普門品の内容をあ に比すべき図像といえば︑まず間違いなく観音菩薩像があげられる
︒
自然を
らわす変相場面が画面下方に添景として挿入される作例も︑四点ほどが知ら
(2) れている︒ 背景にし︑岩上に坐
って穏やかにたたずんでいる慈愛に溢れた女性の姿は︑
世の人々のあらゆる煩悩に耳を傾け︑救済へと導く菩薩として︑韓国におい
高麗の水月観音図に見られる観音と善財の対面の構成は︑いうまでもなく
ても︑高麗・朝鮮時代をとおして深く信仰を集めてきた
︒
この事実は︑現存
﹃華厳経﹄入法界品の内容を忠実にあらわしたものであるが︑近年の研究に する数多くの観音像の作例が物語るところでもある
︒
よれば︑極楽浄土の七宝池を見るような周辺の描写は︑
四十巻本﹃華厳経﹂
(
3
) の内容とも深い関連性を持っていることも明らかにされている︒ 高麗の水月観音図には︑さらに︑こうした定型化されたパターンや﹃法華 経﹄にもとづく変相場面を挿入する事例の他に︑異例ともいえる図像を持つ作例も︑また知られている︒その一例が︑大徳寺所蔵︿水月観音図︾である︒
大徳寺本では︑画面下方︑つまり観音の足下に観音に向かって近づいていく
供養人物群像の一行が描かれており︑それによって画面に動きと豊かな物語
性が認められる︒この特異な図像は︑
メトロポリタン美術館所蔵︽水月観音 図︾(十四世紀)を含めて二例が知られているのみで︑他の高麗・朝鮮時代
の水月観音図には類品がない︒
大徳寺所蔵の︽水月観音図︾は︑画格が高いことで高麗仏画の代表作に数 えられるが︑それだけに描き込まれた供養人物像については︑研究者たちの 大きな関心が注がれ︑﹁洛山聖窟﹂説話による龍王や八部衆図像ではないか
(
4
)とする説をはじめとし︑これまでにさまざまな見解が提出されてきている
︒
本論文では︑大徳寺所蔵︽水月観音図︾に見られる供養人物群像について
再検討を行い︑群像を構成する一人ひとりについて︑その正体を明らかにし︑
さらにこの秀麗な画幅に込められた象徴性について言及していくことにす
る︒
供養人物群像の再検討 、
( 1 )
供養人物群像の内容と表現技法 大徳寺所蔵︽水月観音図︾(挿図
1)
は︑縦二二七・九センチ︑横一
二
五・八センチの絵絹に︑朱︑緑青︑群青︑白︑金泥などの顔料を用いて描い た繊細で品格の高い高麗時代の仏画である
︒
画面の安定した構図や︑色彩の 調和︑優れた描写力などがしめす作品の完成度からみて︑十四世紀初め頃に
大徳寺所蔵︿水月観音図︾の供養人物群像に関する新解釈 (
5
)宮廷周辺で制作された作例と判断することに異論はないだろう
︒
竪長の画面の右側にあって︑岩上の観音は︑右足を曲げながら左足上にか ける半伽坐の姿で︑画面の左前方をみつめている
︒
観音の周りには︑頭部を 包み込む頭円光と︑さらに身体全体をとりかこむ大円相状の奉身光があらわ
されている︒
観音の背後と頭部の上方には︑尖った形状の岩が︑あたかも天 然洞窟の鍾乳石のように下方に垂下する様子に描かれている
︒
半蜘坐する観 音の傍らには︑岩上に承盤と柳枝を挿した浄瓶が置かれている
︒画面右下の
水辺の土坂には︑双竹が︑画面の最上部まで幹を伸ばして並立し︑傘状に枝 葉をかざしており︑特色ある背景描写となっている
︒
さらに︑画面上段の左 端には︑満開の花枝をくわえた
一羽の青い鳥が枝にとまって観音をみつめて
いる
︒一
方
︑画面下の観音の足下から観音の背後に向か
って
︑水泡を立てながら
揺れ動く海水面があらわされているが︑その領域は︑画面下から遠景となる
水辺線に至るまで︑
ほぼ画面全体の三分の二を占めており︑広々とした海水 面が画面にあらわされていることがわかる
︒
向かって右の海水面では︑波間 に浮かぶ蓮葉の上で善財童子が観音を敬拝している
︒
また画面下の右から左
上に向かって︑一
連の瑞気が海水面上から勢いよく吹き上がる様子で表現さ れており︑供養人物たちは︑その中で列をなして観音の方へと進んでいる
︒
さて︑上述の供養人物の描写を確認した上で︑本稿が焦点とする供養人物
(
6
) 群(挿図2)の形姿とその特徴を具体的に見ていくことにしたい︒まず︑柄香炉を執
って観音の方へと向かう先頭の男性人物像(①)は︑ほ
かの人物に比べ多少大きく描かれているのを特徴とする
︒頭に楊柳冠に似た
冠を被っているが︑その冠の両端には白い角の装飾が認められる
︒
着衣
は︑
金泥の唐草雲紋で装飾された大袖の紅砲を着け︑その襟元と袖先には白色の
四
美
術 研 究
九
Eコ 可
2 2 7 . 9 x 1 2 5 . 8 c m
挿図1 {
水月観音図〉 絹本彩色大徳寺 挿図2
(
水月観音図〉部分 大徳寺四
下衣が見られる
︒
腰には帯を締めている︒
両手には︑蓮葉が施された金属の1 9 8
柄香炉を執るが︑執手にあたる柄の部分は紅布でくるまれている
︒
この男性人物像の着衣と︑やや細長い顔立ちゃひげは︑あたかも帝王を連想させる形
姿となっている
︒
次に︑男性人物像のあとをついて行く女性像
( ② )
は︑珊瑚と宝物が盛ら
れた盤を両手で捧げ持っており︑その顔は観音に向けられている
︒
高野
曹を
結
ったこの女性は︑大袖の上から鰭袖状の音山匠を凝らした上衣をつけ︑両肩に
は天衣状の雲肩をかけわたして︑さらに組紐を垂らしている
︒ 一
屑には幅の狭
い披錦の画錦をかけているが︑そのことから︑後続する侍女との身分の違い
を認めることができる
︒
つづいて︑男性
一
人
(
③
)
と侍女らしき女性二
人( ④
① )
が︑列をなして
いる
︒
まず男性
( ③ )
は︑直脚の帳頭を被り青色の砲を着用しており︑腰には玉帯状の帯を締めている
︒
官服姿で︑両手には忽を執り︑靴を履いていることから︑この男性は︑先頭の帝王らしき人物の春属と見て間違いないだろ
う
︒
次に︑侍女と考えられる二
人の女性であるが︑二
人の内で背の高い女性( ④ )
は︑玉装飾を施して高墨田に結い上げ
︑黄色の上
着と︑菊花唐草紋が施
された紅いスカートを着ており︑左腰あたりには上着から垂下する組紐と裾
が露出されている
︒
胸前に差し出されている手には︑団扇を執っている︒
方︑やや背が低い方の女性(
① )
は︑紅い布の上に菱形の盆を捧げ持っ
てい
る
︒
前者と同じく高警に結い上げているが︑その髪警部分は布で包んだ包警状となっている
︒
着衣は︑緑に小型の文様が施された深衣をまとっており︑腰には紅い紐を巻き付けている
︒
その次には︑幼少の男子を背負っている鬼頭人身形人物
( ①
⑦ )
と︑男性
一人(③)が続いている︒
まず︑男子を背負
っている鬼頭人身形人物(⑤)
は︑黄色の深衣の下にズボンを着用しており︑長靴を履いている
︒
その身体
は人と同じで
あるが︑風の勢いに飛ばされるようなまばらで短い髪︑大きく 見開いた目︑さらに突出されたその鼻と口は︑通常の人とは異なる鬼形の姿
となっている
︒
背中の男子
(⑦
) は︑膝まで包んだ緑色の深衣の下にズボン
を着け︑長靴を履いており︑右手には瑞気を吹き出す赤い宝珠を掴みながら︑
それを観音に差し出している
︒
また︑向かって左の帳頭を被り︑緑色の官服 と腰帯を着用し︑革靴を履いた人物
(③
) は︑その顔立ちと持物に︑特徴が
認められる
︒
この人物の黒い肌と大きく見開いた目︑丸く大きな鼻︑ひげと もみあげは︑きわめて印象的で︑その身体も頑強でさながら野獣のような形
姿となっている
︒
また左腕では︑何冊かの巻物をまるめてひと抱えにしてい
る点も見逃すことができない
︒
さら
に︑その後ろを前述したグループとは異なる︑半裸の鬼頭獣頭形の人 物が追
っていく
︒
まず︑手に幡の旗竿を持って前列グループについていく半 人半獣の人物
(③
) を見てみたい
︒
頭部は馬頭状に近く︑首には毛皮を巻き
つけている
︒
その上半身は裸で︑下半身には膝まで包み込む白の短袴をはき︑その上には赤地に金泥模様をあしら
った短裳を着けている
︒
その身体は︑淡
墨
と赤色で陰影があらわされており︑墨線で引かれた肉身線には︑肥痩線を 多用して︑この人物が具える動物に似た野生的な雰囲気を強調している
︒
つづ
いて
︑ やや距離をおいて追
っているグループを見てみたい
︒
このグループは︑半裸像
二人
( ⑮
O )
と動物形
一人
(⑫
)
の三
人によって構成されて
いる
が︑
いずれも珍しい図像である
︒
一番前の鬼頭形図像
(⑬
) は︑宝の入
った大査を背負
って︑顔を後方にそらし観音を眺めている
︒
髪の毛はやや長 く伸ばしていて顔の前方まで廃いており︑額には金属状の帯装飾を着けてい
るのが確認できる
︒
着衣は膝の上まで覆った白の短袴を着けており︑腰に巻
大徳寺所蔵︽水月観音図
︾の
供養人物群像に関する新解釈
いである帯は風にあおられて今にも飛ばされるような様子である
︒
その隣には獣頭人身形
(⑪
) の人物があらわされているが︑その上半身は裸で︑下半 身は白の短袴を着けているらしい
︒
その両肩には︑凹凸のある粗目の表面を なす供養物を背負っている
︒
最後部を進む図像
( ⑫ )は︑全身が海に棲む動 物のようにも見える
︒
緑青色をなす身体の表面は明らかに鱗状となって
おり
︑ その背中から尻尾に至っては︑赤色の突起物がさながら背鰭のように中央を 連続している
︒
この図像の頭上には︑火焔を発する巨大な海真珠を大型の貝 殻に載せており︑腰には︑大きな紅珊瑚を結びつけて︑前方のグループを追
いかけている
︒
以上︑大徳寺︽水月観音図︾の画面に︑瑞気とともに出現している供養人 物群像の描写について観察してきたが︑こうした図像は︑従来の岩窟を背景 に水辺の岩に坐る観音と善財童子を描いた典型的な高麗の水月観音図の構成
(
7)
とは明らかに性格を異にする異色の図像とい
ってよい
︒
次に︑これらの十
二
人の供養人物群像に関する従来の見解について︑確認しておくことにしたい
︒
( 2
)
供養人物群像に関する従来の解釈と問題点 大徳寺本に出現する供養人物群像については︑従来︑双竹︑青鳥の描写と
あわ
せて
︑
一九七0
年代から現在に至るまでさまざまな見解が提出されてき
ナクサンの洛山一
九七七年︑林進氏は︑大徳寺の図像的特徴を﹃
三
国遺
事﹂
ている
︒
イ デ ソ ン
二
大聖の記事と
一致する点に注目され︑大徳寺本には︑中国の経典には見ら
(
8)
れない高麗特有の創作がなされていると判断されたが︑それ以降︑本作品は︑洛山寺の観音聖窟の伝説による図像として広く知られるようにな
った
︒
この
一九八
0 1
九0
年代に至るまで国内外で刊行された大徳寺本の作品
ン ミ ョ ン デ
解釈において︑普遍的に受け入れられるようになる
︒
なかでも文明大氏は︑
見解
は︑
四
美 術
Eコ す
研
'7TI プL
九
﹃三国遺事﹄の洛山二大聖条に言及しながら︑さらに﹃益荘記﹄の洛山聖窟
ユ チ ャ リ ャ ン
条に記述されている痩資諒(一
一五
0 1
一 一 一 一 一 九)の逸話にも着目され︑林説に加えて︑慶資諒が洛山観音窟を参拝する際に見たという青い鳥までもが︑
(9)
大徳寺本の図像に取りこまれているという新解釈をしめされている
︒
こうした﹃三国遺事﹄における洛山聖窟の説話に典拠を求める考え方に対
して
︑
一九九三年︑林温氏によって疑問が提示されている︒氏は︑西夏期の
敦煙莫高窟第二三七窟前室西壁の︽水月観音図︾において︑善財童子のほか に︑龍と観音に向かって箱を持つ一人の人物が見られること︑またエルミタ
ージュ美術館所蔵のハラホト出土︽水月観音図︾(西夏十二世紀︑絹本)に王
子風の龍王とその侍者が登場していること︑また時代は下るが︑明代少林寺 の石刻画に大徳寺本の人物群像と類似する図像が確認できることを例にあ げ︑大徳寺本の供養人物像が︑中国で成立した図像を発展させた事例である
(
叩)
可能性について︑はじめて言及されている︒二
0 0 0年代になると︑大徳寺本供養人物群像についてより具体的な分析 を試みた論文が発表された
︒まず︑二
O
O
二年に台湾で開催された東洋絵画史学会において︑朴英淑氏は︑洛山説話の重要性を明らかにした上で︑文明 大氏がすでに提示した﹃益荘記﹄の記事を引用し︑大徳寺本の人物群像を慶
(
日)
資諒とその一行と推定している︒フ ァ ン グ ム ス ン
これに対して黄金順氏は︑先頭の男性人物が戴冠し︑龍袖を着用してい
る点に注目され︑この人物を龍王と高麗王のダブルイメージと見なしている︒
さらにその前提の上で︑隣で宝珠を持っている龍女を高麗王妃︑その背後の 人物を王と王妃の侍従︑残りの鬼形人物を龍王の春属に︑それぞれ当てられ
ている︒
また︑氏は東千仏洞第二窟︽水月観音図︾に見られる供養者一行の 図像と︑大徳寺本の類似性を指摘しながら︑大徳寺本の供養者群の表現が︑
四 四 宋代の水月観音図をはじめ道釈画に登場する供養者人物群と海の怪物図像を
2 0 0
借用し︑洛山関連の説話と発願者を合わせて絵画化した作品であることにつ( ロ )
いて︑簡略ながら言及している︒さらに︑瀧朝子氏は︑中国大陸の水月観音図を第一・二・三の三つの類型
に分類し︑その第三類型に属する供養人物像︑つまり雲上火焔人物群が描か
れた安西東天仏洞第二窟の南・北壁の︽水月観音図︾(西夏)が︑大徳寺本 の一部図像と類似していることを指摘している︒氏は︑大徳寺本には︑洛山 説話の重要人物である僧侶義湘が登場していないことから︑その典拠を義湘
(
日)
の説話のみで模索することは不可能であると主張している︒一方︑井手誠之輔氏も︑大徳寺本と共通するモチーフを盛り込んだ事例として︑時代はやや 降るものの︑十五世紀頃の台北国立故宮博物院所蔵︽紺紙金字仏頂心観世音 大陀羅尼経︾の変相図(明代)の存在を指摘し︑洛山説話との短絡的な結び
(
凶)
っきについて否定的な見解を示している︒以上︑簡略ながら大徳寺本供養人物群像をめぐる従来の研究成果をさぐっ てみると︑大徳寺︽水月観音図︾における供養人物群は︑従来の洛山説話に 基づく直接的な図像創出という観点から︑中国の水月観音図に見られる類似 図像の具体的な事例を紹介する方向へと大きく変化しているということがで
込C 7心
︒
しかし︑こうした傾向にもあっても︑供養者の列の最前列に登場する男女 の人物(①②)について︑それを龍王と龍女と見なすことにおいては︑研究 者の間でほとんど意見が一致しており︑この図像に高麗の国王と王妃︑また は慶資諒とその一群という特定の人物のイメージが重ねられる場合が少なく
(
日)
ない︒また︑その後を追う人物群については︑男性人物像(①③)と女性た ち(④⑤)を春属として︑その他(⑥⑦③⑮⑪⑫)を八部衆︑または龍王の
各属として解釈する傾向が大勢であり︑この十二名の図像に関する具体的な 分析や︑図像の象徴性︑観音菩薩像との関係などについては︑いまだほとん
ど明らかにされてないのが現況ではないだろうか︒
こうした点を念頭に置きながら︑従来広く知られてきた﹃三国遺事﹄の洛
山説話の一部を改めて紹介することにしたい︒
昔︑義湘法師が唐から戻ってきた時︑観音菩薩の真身が海辺の洞窟のな かにあるという話を聞いて洛山と呼んだが︑これは︑大抵西域に宝陀洛
伽山があるからであった︒一方で︑ここを
小白華とも呼んだが︑これは 白衣菩薩の真身が留まっている処であることから︑その名を借りて命名
した
︒義 湘が斎戒して七日になる日︑夜明けに座具を水に浮かせると︑
龍衆と天衆の八部侍従(原文﹁龍天八部侍従﹂)が彼を洞窟へ導いた︒空
中に向かって参札すると︑水精念珠の一束を与えてくれるから︑義湘は
それを持って退いた︒また︑東海の龍からも如意宝珠ひとつをもらって︑
それを持って退いた︒それから義湘法師は︑再び七日間斎戒した後︑観
音を見た︒その際︑観音菩薩から﹁座上の頂に一双の竹が出てくるので︑
その土に仏殿を建てるのが当然だろう﹂という言葉を聞いて︑洞窟から 出ていくと︑竹が土から出てきた
︒
義湘はここに金堂を建てて︑観音像 を安置すると︑その軟らかな顔立ちと美しい姿が︑自ら造られたようで
あった︒そ
して︑その竹がなくなると︑ようやく観音の真身が留まった
処であったことが分かった︒
こうして︑その寺の名を洛山寺とし︑法師
(
時)
は自らもらった二つの珠を聖殿に祭って去っていった
︒(以下略)
従来︑大徳寺本における供養人物群像は︑以上の内容の中︑傍線を引いた
大徳寺所蔵︽水月観音図︾の供養人物群像に関する新解釈 ﹁龍天八部侍従﹂の箇所と結びつけて解釈され︑最先端の人物を龍王と龍女︑その次を追う男女を侍従春属︑残りの人物たちを入部衆とみるのが大勢をなしてきたといってよい︒
しかし︑筆者は大徳寺本供養人物群像について再検討を行った結果として︑
﹂れまでの見解にいくつかの疑問を提示してみたい︒
第一には︑群像の最前列に位置する男女人物像(①②)についてである︒
一般的に龍王と龍女と解釈されてきているが︑女性像を龍女とみる意見に対
しては︑再考の余地があると思う
︒
第二には︑帳頭を被り︑官服姿でひげを伸ばし︑書巻を小脇に抱え込んで いる人物(③)を︑単に龍王の春属としてのみ解釈してよいだろうかという
疑問である︒
ほかの特定しうる人物の可能性はないだろうか
︒
第三には︑鬼頭人身形の人物像(⑤)が︑火焔宝珠を手にしている男子 (⑦)を背負っている図像についてである︒きわめて特徴的な図像であるに もかかわらず︑これまでほとんど触れられなかったこの人物の正体は何であ
ろう
か︒
第四には︑群像の中で最後のグループに属する三人の半裸姿の鬼頭人身︑
獣頭人身︑動物形の図像(⑬⑪⑫)と︑彼らが手に執っている供養物につい てである︒特に︑三名の真ん中に位置する獣頭人身形の人物(⑪)が持って いる供養物のモチーフと︑この供養物の意味を明らかにする必要があるので
はないだろうか︒
以上︑提示した四つの問題点を中心に︑さらに論を進めていくことにする︒
一 、
供養人物群図像の正体性とその象徴性
大徳寺本︽水月観音図︾のように善財童子とともに供養人物群像が登場す
四五
美 神
T
7.e プし
九
Eコ す
江 川ハ
7干
る水月観音図には︑中国の五代以後︑宋時代︑西夏時代の作品にいくつかの
事例がある︒
特に西夏時代以後の水月観音図に登場する一部の供養人物像と の類似性は︑大徳寺本の図像の正体を把握する上で重要な手がかりをあたえ
ている︒
また︑元・明時代の寺観壁画と︑経版画に登場する図像との関連性 も視野に入れると︑大徳寺本の供養人物群像に重ねられている図像の複合性
が︑かなり推測できるのである︒
( 1 )
龍王と龍王婦人︑そして春属たち 大徳寺本における供養人物群像のなかで︑最前列に位置する男女人物については︑これまで龍王と龍女と解釈するのが一般的であった︒事実︑先頭で︑
蓮葉で飾られた金属の柄香炉を観音の方に差し出している男性人物(挿図
3)
は︑海の底から海水面に出現した海龍王とみて問題がない
︒
高麗の水月観音
図のなかで龍王が現れる作例は︑大徳寺本をはじめ︑メトロポリタン美術館
本︑奈良国立博物館本が存在する
︒
ただし︑大徳寺本とメトロポリタン美術 館本では︑帝王姿の俗人として描かれているのに対して︑奈良国立博物館本
では
︑ 四足爪で如意宝珠を掴み︑鱗のある動物姿の龍王として出現している
点に大きな違いがある︒
しかし︑大徳寺本とメトロポリタン美術館本を詳し
く見ていくと︑この人物には龍の角を連想させる︑つまり両端に角のような
突起をあらわした冠を被っていることが確認され︑この人物が︑あく
までも
俗人姿とはいえ︑実際は︑龍王をあらわしていることが指摘できる
︒
水月観 音図のなかで︑海中から出現した龍王が観音を供養するという図像は
︑西夏
の都から出土し︑現在ロシア科学院東方研究所に所蔵されている︽法華経変
相図︾(挿図
4 )
をはじめ︑敦燈莫高窟泉河の東斜面における一番南側の小 塔婆から出土した敦煙研究院所蔵︽法華経観世音菩薩普門品変相図︾︑台北四六
202
大徳寺挿図
3
{水月観音図〉部分故宮博物院所蔵︽観世音菩薩大陀羅尼経変相図︾(明時代︑挿図
5)
など︑そ
のほかの水月観音図からも容易に確認できる︒
次は︑こうした龍王の後に︑宝物が盛られた盤を持っている女性(挿図
6)
について考えてみたい︒
従来︑この女性については︑龍女と解釈することが
一般的であった︒龍女は
︑法華経と陀羅尼経の変相図によ
って広く知られる
人物で︑図像上では︑摩尼宝珠の入った盤を捧げる少女のイメージを帯びる
のを常とする︒つまり︑龍女の図像は﹁龍女1
摩尼宝珠│少女イメージ﹂と いうひとつの図式のもとで説明されるほど︑特徴づけられていたといっても
よい
︒
この龍女については後述するが︑台北故宮博物院所蔵︽観世音菩薩大 陀羅尼経変相図︾のほか︑韓国・高麗大学所蔵︽仏頂心陀羅尼経変相版画︾
(一
四八
五年
︑挿図7)をはじめ
︑朝鮮前期の法華経変相図︑屋島寺所蔵
︽水
月観音図︾(十六世紀)においても確認できる︒
ところが︑大徳寺本の場合︑摩尼宝珠ではなく宝物の入った盤を持ってい
ること︑また少女というよりは成熟した女性のイメージとして描かれている
挿図
4
{妙法蓮華経観世音菩薩普門品変相版画〉西夏
( 1 1 ~
13世紀) ロシア科学院東方研究所ことから︑この女性を龍女と断定することは難しいように思われるのである︒
この図像がこれまで龍女と解釈されたのは︑おそらく龍王の隣に登場する女
性を龍女とみなす︑
つまり﹁龍王と女←龍王と龍女﹂というある種の対概 念にしたがってきたことに︑注意を払う必要がある
︑ だ
ろう︒より正しく︑こ
の対概念による解釈を働かせるとするならば︑むしろ︑大徳寺本の龍王の後 ろに描かれた女性を︑龍女と短絡的に解釈する前に︑龍王の婦人と見なすべ きではないだろうか
︒
龍王と龍王婦人が登場する高麗仏画には︑親王院所蔵
︿弥勤下生経変相図︾(一三五O年︑挿図8)︑知思院所蔵︽弥勤下生経変相図︾
(十四世紀)がある︒これらの弥勅下生変相図では︑弥動の前で︑ひざまず
く俗人姿の成人男女が描かれている
︒男性は戴冠執忽の姿であり︑一
方︑女 性は合掌姿で髪飾りをつける成熟した女性として︑弥勅を敬拝している
︒こ の男女には︑それぞれ五足爪の龍が隣に描き込まれていることから︑龍王と
紙本泥金写本
龍王婦人であることが判明する
︒
そして︑彼らの後の人物の内︑直角膜頭と禄色官服︑角帯を着用して革靴
明代
を履き︑忽を持っている人物(
③)
は︑龍王直属の春属と判断できる︒
また
︑
二人の女性(④⑤)(挿図
9)
も供養物を持ってついて行く侍女と見て間違
挿図
5
{観世音菩薩大陀羅尼経変相図〉台北国立故宮博物院
いないだろう︒
特に︑玉で装飾された高警に︑黄色上衣と菊花唐草紋が施さ れた赤のスカートをまとっている女性(④)は︑両手に扇を持っている
︒ま
た︑その隣で包髪形式の髪と緑の深衣を着用している若い侍女
(⑤ )は
︑赤 砲の上に菱形の金を置いて捧げている
︒この金の用途は明らかではないが︑
これと類似する供養具は︑洪洞水神廟・明応王殿の元代壁画に見ることでき
る︒
ここでは液体の入った器物として使用しており︑観音に捧げる供養物の
なかで香と茶の重要生を考えると︑先頭人物の龍王が持つ柄香炉は香供養を︑
大徳寺所蔵︽水月観音図︾の供養人物群像に関する新解釈
四
七美 柿
1
耳 パ
了刑ド
'7'c
7u
九
Eコ す
凹
j ¥ 、
2 0 4
大徳寺親王院
挿図6
{水月観音図〉部分1 7 8 . 0 x 9 0 . 3 c m
絹本彩色
韓国・高麗大学博物館1 3 5 0
年〈弥勤下生経変相図〉
1 4 8 5
年挿図
8
〈仏頂心陀羅尼経変相版画〉
またこの菱形の盆は茶︑もしくは浄水に関連する供養倶である可能性が高い
と 考
え ら
れ る
︒ ( 2
)
鬼子母図像の受容︑龍女と摩尼珠
挿図
7
次は︑鬼頭人神形像(⑥)と彼が背負っている幼い子供(⑦)(挿図日)に
ついて論じたい︒従来︑この図像の組み合わせは︑特徴的であるにもかかわ
らず︑あまり注目されてこなかった︒しかし︑元・明代の壁画と版画からこ
れと類似する図像を見ることができる︒
まず︑子供を背負っている鬼頭人身像は︑鬼子母の春属で︑これは山西省
稜山青龍寺の元代壁画(挿図日)及び明代の鬼子母像経版画(挿図
ロ)に同
一図像が確認できる︒さらに︑明代の水陸画からも類似図像が見られる︒
鬼子母は﹃法華経﹂陀羅尼品に登場する女神の内のひとりで︑安産と子供
の守護女神として宋・元・明代に至るまで広く拡散された図像である︒﹁法
華経﹄のなかで密教的性格を持つ陀羅尼品の鬼子母信仰は︑呪術的な加寺祈
祷との関連が指摘できるが︑子安・安山・育児の起源が除災・悪鬼退治・悪
(
幻)
魔退散と結びつくことで︑より流布された可能性が考えられる︒このように元・明代の水陸画︑または版画集に登場する幼い子供を背負っ
ている鬼頭人神像は︑鬼子母図像の春属と判断して間違いないだろう︒
これ
は︑大徳寺本の子供を背負う鬼頭人神像が︑高麗の水月観音図像に習合され︑
登場した子供を守る鬼子母図像の春属であることを物語ってくれる︒このよ
大徳寺
挿図
9 <
水月観音図〉部分大徳寺所蔵︽水月観音図︾の供養人物群像に関する新解釈 うに鬼子母関連図像が︑大徳寺本に吸収されることができたことに︑子供をめぐる信仰との深い関わりが考えられる︒
それでは︑鬼頭人神像(⑥)が背負っている男の子(
⑦)に注目してみよ
う︒まず︑観音の方に差し出している右の手のひらに︑光炎を発する摩尼珠
が置かれている事実に注視する必要がある︒鬼子母図像に登場する子供の内︑
手に摩尼珠を持っている事例は︑現在一切見られない︒つまり︑この持ち物
は︑大徳寺本が水月観音像ではあっても︑鬼子母図像ではないことを証明す
る︒ところが︑前章で摩尼珠を龍女の持ち物として特徴づけられたモチーフ
であると言及したが︑ここでは幼い子供がこの摩尼珠を持っている点を念頭
に置く必要がある︒
水月観音図に善財童子をはじめ︑龍王・龍女の図像が一緒に登場する早い
例として︑韓国・高麗大学博物館所蔵︽仏頂心陀羅尼経変相版画
﹀ ( 一
四八
五年)があげられる︒また中国の場合︑台北古宮博物院所蔵﹃仏頂心観世音
大徳寺 挿図 10
<水月観音図〉部分
四 九
美
術
仁
すコ
研
ゲ 巴 プじ
九
青龍寺 山西省稜山 元代の壁画
挿図11 {鬼子母衆〉
挿図
1 2
{鬼子母天菩薩}a
二十四諸天菩薩j巻ー)
r
明 (寓暦)雲南明清経本拓刻選』より
(
国)
菩薩大陀羅尼経﹄巻上写経画(明代)をはじめ︑﹁仏頂心一切疾病陀羅尼経﹂変相版画(明代︑
忽(または合掌)
を手にし︑龍女は摩尼珠の入った盤を持っており︑少なく
一 六
一
七年
で同じ図像構成が確認できる
︒ここで龍王は
五 O
とも明代十四・十五世紀ごろには︑こうした図像が常例として韓国に受容さ
2 0 6
れたと考えられる︒
観音と龍女︑そして摩尼宝珠の相関関係は︑陀羅尼経に観音が陀羅尼を啓
示するため龍宮を訪ねた際︑龍女が感謝の気持ちで観音に摩尼珠を捧げたと
(
叩)
いう記事によって知られている︒明らかにこの摩尼珠は︑水月観音図に描かれた龍女が両手で捧げている盤上の宝珠を意味するものであり︑﹁一切障碍
(
却)
消滅所救如意﹂の意味を持つものと記述されている︒ところが︑﹃法華経﹄巻四・提婆達多品によると︑裟渇羅龍王の娘である
龍女が八歳の時︑仏法を聞いて男の体に変身したという逸話は︑龍女成仏の
(
幻)
例として有名である︒ここで龍女が八歳の時︑男子の体として成仏するということに注意する必要がある︒つまり︑大徳寺本に登場する幼い男の子は龍
女を意味しており︑その手にする宝珠は龍女が観音に捧げた摩尼珠を指すと
考えられるからである︒逆にいえば︑摩尼珠が龍女であることを証明する重
要なモチーフといえよう︒
結局︑大徳寺本供養人物群像の内龍女は︑龍王の隣の女性ではなく︑鬼頭
人神像
(⑥
) が背負っている摩尼珠を手にしている男の子
(⑦
)
である可能
性が提示される︒また︑男の子︑つまり龍女を背負っている鬼頭人神像は︑
鬼子母が率いる子供を運搬する春属であると考えられる︒幼い子供を保護す
る鬼子母関連の図像は︑以後明代になると︑子供を授けて︑保護する送子信
仰とも関連がある西王母図像に融合される現状が見られる︒その端的な例と
(
幻)
して︑山西省扮陽后土聖母廟の明代の壁画があげられる︒この壁画は︑西王母の出宮から入宮に至るまでの場面が︑入口を除く殿閣内の三つの壁面に叙
事的に展開されている︒特に︑西王母の出宮場面に先立ち︑殿閣の前に幼い
子供と鬼頭人神像の姿を確認することができる︒これは︑西王母図像と送子
信仰との関連性を示す例であり︑鬼頭人神像と子供の組み合わせは︑鬼子母 図像だけではなく︑送子信仰とも関連がある西王母図像に吸収され︑安産と 送子︑救子信仰と関係深い観音図像にも︑自然に受容されたと考えられる
︒
さらに︑子供を守る鬼子母図像は︑観音の送子と救子信仰のなかで吸収され る一 方︑鬼子母が率いる鬼頭人神像の侍従もまた︑大徳寺本に吸収されたと 判断される︒
( 3 )
鐘燈図像の出現と役割
(
お)
ここからは︑大徳寺本に登場する供養人物像の内︑書巻を小脇に挟んで︑
帳頭に官服を着用してひげの生えた理形の人物(
③)(挿図日)について考え
てみたい︒この人物の正体は︑何であろうか︒
この男性人物ついては︑今ま で単に龍王の春属として言われてきたが︑人物の顔立ちと持物からは︑見逃 すことのできない個性が感じられる
︒
これに類似する図像は︑ほかの水月観音図にも見られる
︒
敦煙安西地区東
天例洞第二区の南道の南壁と北壁に描かれた︽水月観音図︾(西夏時代︑挿図
U
ーー︑
U12
)
には︑観音の向かい側に赤い光炎に包まれた四名の人物郡
(
M
) が確認できる︒ その内︑通天冠に大袖衣を着用し︑手に柄香炉を持っている 男性の後ろに登場する人物に注目したい︒帳頭に官服を着用して書巻を持つ ている壮健な体のこの人物は︑大徳寺本と同一性格を持つ︑鍾燈系図像と見 て間違いないだろう︒(
お)
鍾埴の起源と由来についてはさまざまな説話があるが︑鍾埴風俗の流行は︑一般的に唐の玄宗以後︑つまり九世紀頃宮廷を中心に始まったと知られてい
る︒ 宮廷では大臣たちに鍾墳の絵を年末の贈物にしたといわれており︑年初 に鍾埴の絵を門に貼って︑邪鬼を退ける僻邪の意味の鍾埴図は︑次代に広ま
大徳寺所蔵︽水月観音図︾の供養人物群像に関する新解釈
(
お)
り︑常例的な風俗として定着することになった
︒唐の玄宗(六八五
1
七六
二)
が呉道子に描かせた初期の鍾燈の絵は現存しないが︑北宋の郭若虚が書いた
﹃図画見聞誌﹂では︑﹁昔呉道子が描いた鍾埴の絵は︑青の服を着て︑
一足
を
一目が見えなくて︑乱れた髪の上に頭巾を被った鍾埴が︑左手で
(
幻)
邪鬼を掴み︑右手は邪鬼の眼を刺す姿であった(略)﹂と記述されており︑ 引
きず
る︑
鍾埴の姿をおおよそ推測することができる
︒
呉道子の絵は︑鍾雄図像として は先駆的な役割を果たしたと考えられる
︒
しかし︑現存する宋・元・明代の鍾埴図像を通じてその姿と服飾を整理し てみると︑ほぼ帳頭と官服︑革靴を着用した文人姿の鍾埴を確認することが
キムハツジユできる︒
この点に関して金皐主は︑中国の北方で鍾埠を冥府の閤魔大王の下 で死生簿を管理する判児︑または判官と呼んでいることを取り上げて︑宋代
の健札に判官と鍾埴が一
緒に登場しており︑外見と服装が類似することから 鍾旭図像を︑宋代にはすでに判官図像と混同していたと言及している
︒
また
︑ 氏は宋代以後︑鍾撞図像が判官と混同されると︑辞邪神の限界を越えて権能
大徳寺 挿図 1 3 { 水月観音 図〉部分
五
美
拝ハ
γh引戸
Eコ 万 究
九 術
敦
1
皇安西地区東千イ弗洞第二窟南道南壁 挿図14‑1 {
水月観音図〉た が こ 拡 と 大 を さ 明 れ
か ょ ら る
に う し に て ない(
り るきれ よ っ て 外 見 儀 イ 丈も 威 厳 を 持
つ
ょ
っ
な
っ
以上のように鍾埠の単独図︑又は鍾撞を主題とする図のほか︑仏教絵画に
習合された事例として先に言及した水月観音の壁画をあげることができる
︒
このほかにも︑鍾撞図像が仏画に習合された例として︑ボストン美術館所蔵
の︽三官像軸︾(南宋︑十
二世紀)があげられる︒天地水三官のなかで地官と
(
却)
水官に鍾埴の図像が見られる
︒その内︑地官像(挿図日
‑M
) には︑功過の
書かれた巻き物を抱えた鍾雄が
︑川の向かい側のふもとで鬼衆を率いて待機 している︒
一般的に新年の昨邪神として信
仰される鍾墳が︑地官の検察と関 連する部下のひとりとして登場する事例はきわめて少ないが︑功過を記述し
五
2 0 8
東 千 仰 洞 第二窟 南 道 南 壁
〈
水月観音図〉部分 挿図14‑2
た巻物を持物とする鍾埠図像が︑人々の日常の善悪功過を検察し︑天界に報
告する天・地
・水
三官図像に登場することは︑自然な成り行きであったと見
てよ
いだ
ろ︑
っ
︒
結局︑悪鬼や妖怪を追い払う鍾雄図像は︑新年の僻邪神として信仰され︑
また端午の節句
には悪鬼を追い出すということから︑民間でよく描かれるよ
うになった︒
さらに︑端午節に子供に鍾腫形の小袋を身につけさせると︑五
(
却)
毒がなくなるといわれるほど︑鍾埠図像は民間信仰にも広まっていた
︒こう
した鍾埴の機能は︑自然に仏教絵画にも反映され︑悪鬼を制圧しながらこれ を率いる判官のような姿として登場することになったと考えられる
︒さ
らに
︑ 元々剣や棒を持ち物とする鍾埴が︑判官や︑記録官の巻き物を持って登場す
ることも︑功と罪︑つまり功過を記録し︑懲戒する意味が強調された結果で
あったと言える︒
功過格というのは︑道教において社会倫理や︑民衆道徳を
規範化して︑悪を遠ざける一方︑善を勧奨するための方便としてつくられた︑
日々の善悪点検表である︒功過格は儒教と仏教の倫理道徳を道教に迎え入れ︑
(
出)
の一種である︒このような功過の概念は︑ 勧善懲悪のために記述された多様な善陰陽馬書(善書)
道教の計数的な功過思相心から始まったが︑仏教に受容さ
大徳寺所蔵︽水月観音図︾の供養人物群像に関する新解釈
挿図
1 5
{地官像} (三宮像軸)南宋
( 1 2
世紀) 絹本着色1 2 5 . 5 x 55.9cm
ボストン美術館ボストン美術館 挿図
1 6
{地官像} (三官像軸)部分れると︑善を積み重ねて悪を防ぎ︑罪を直し善に換える手段として使用され
た︒
明時代には善書と共に︑功過格が広く流布され︑朝鮮や日本にまで伝わ
(
泣)
れるよ︑つになったという︒ 以上のように鍾腫図像は︑唐代以後︑少なくとも九世紀頃には︑中国内陸 で流行し外に広まった可能性が高いと考えられる︒
宋代以後には︑その可能
性がより拡散し︑三
官像軸をはじめ東天仏洞第
二窟の︽水月観音図︾(西夏)
にも鍾埴図像が習合されたことが確認される
︒
大徳寺本のような仏画に鍾埴 図像が含まれることを可能にしたのは︑こうした鍾埠の機能と役割が︑信仰 の現場において︑より必要とされたからに他ならない︒
( 4
)
獣頭人身像の供養物︑沈香木と埋香信仰 ここからは︑大徳寺本供養人物郡像の内最後の群に属する︑半裸の鬼頭人 身像一名(⑬)︑動物形の頭と人の体で構成された獣頭人身像一名
( O )
︑そ
して動物形の図像
一名(⑫)
など︑あわせて三名の図像(挿図げ
)について
見て行く︒
これら人物については︑今まで八部衆といわれてきたが︑これま での各人物の比定を前提とすれば︑龍王の春属として観音に捧げる供養物を
運ぶ一
群とみてよいだろう
︒
そのことは︑彼らの手前で旗竿を手にしている 半 人 半 獣 の 人 物
(①
) や︑その前方の悪鬼を制圧し部下とする鍾埠図像が存 在することも偶然ではなく︑連続する意味の連関の中で解釈されるべきであ
ろ ︑ っ
︒
さて︑この供養物を運ぶ三
名の人物のうち︑人間らしい身体にあらわされ る人物は︑珊瑚と宝が盛られた大査を背負っている
︒そして︑最後尾の鱗が
見られる動物形は︑赤色の大ぶりの珊瑚を左腰につけ︑頭には光炎を発する 海真珠の入った大きな貝殻を載せている
︒こうした二
人の図像に見られる供
五
美 術
耳
γ m ハ
M F
九
すcl ゲ 巳 プし
右:韓国の沈香木 挿図
1 7
{水月観音図〉部分 大徳寺左:越南恵安水沈 挿図
1 8
養物は︑中国元・明代の水陸画に登場する龍王の春属らが持つ供養物と類似
しており︑海の宝を観音に捧げていたことが分かる︒
ところが︑ここでひとつ疑問になるのは︑これら二人の聞に位置する獣頭 人身像の右肩に背負っている供養物の正体である︒このモチーフを詳しくみ ると︑赤茶色でぼかした地色にあらわし︑墨線の輪郭にそって金線を引いて あり︑その縁は突き出ている様子である︒さらに︑その表面には︑古木など
五 四
で見られる節穴のような小さくて丸い形態が︑不規則的に配置されている︒
210 つまり︑この供養物は重量感のある木材である可能性が高く︑観音に捧げる ほどの貴重な木材といえば︑香木の可能性が考えられてよい
︒
実際︑仏像の
胎内納入品(腹臓遺物)として沈香︑丁香などの香木片らが納められた事例
(お
) ウ ィ ジ ョ ン
は 多 く
︑ 高 麗 の 毅 宗
(
一二一
七
1二七二一)の命によって︑香木を刻仏材と
(M)して造った観音像に関する記録もある
︒
仏教では沈香の匂いを嘆いで香物を
(
お)
五根が清浄され無量功徳を得るという
︒
こうした沈香の煙は︑ 体に塗ると︑
神と人間を繋ぐ重要な媒体であり︑これを通して祈願すると叶えられると信 じられ︑埋香に関わる信仰が広まっていた
︒
特に︑沈香木(挿図凶)は︑五十年もしくは千年以上埋もれていた香木で︑
不必要な部分は腐ってなくなり︑匂いのしみ込んだ筋だけが残るという
︒
こ
うした沈香木は︑海水と山谷水が出会う地点(浦の入口)に土を掘って香木 などを埋めることで生成される
︒
韓半島では︑各地に仏家で口伝される埋香 の最適地が知られており︑高麗後期より︑さまざまな埋香行為を碑と共に記
録して今日まで伝えている
︒こうした埋香と埋香意識に関する研究は︑近年︑
九十年代以後から活発になされ︑大量の成果が報告されている
︒
現在︑韓国
の埋香碑と埋香岩刻の事例は︑記録を含めて︑都合︑十八基が知られている
︒この事例(表
1 )
と地域別分布図(挿図印)は次頁の図のようになる︒
高麗後期の十四世紀から朝鮮初期の十五世紀前半期に埋香活動が集中的に
(
幻)
行われ︑地域的にも東・西・南海岸に分布していることが分かる
︒
こうした
埋香活動の背景としては︑内憂外患による弥勅信仰と︑倭冠の侵入や︑沿海
地域社会の共同体活動との関連︑僧侶らの勧進・勧善という結社活動の成就(
お)
記念など︑多様な角度からの研究が行われている
︒
名 材、 王 朝 時期
①
江原道高城郡三日浦埋香碑 忠宣王元年1 3 0 9
②
平安北道定州郡徳彦面沈香洞埋香岩刻 忠粛王4年1 3 3 5
① 全羅南道霊岩郡西湖面奄吉里埋香岩刻
忠恵王5年1344
④ 全羅南道霊光郡法聖面笠岩里埋香碑 ( A )
恭慰王20年1 3 7 1
⑤
慶尚南道酒川市昆陽面興士里埋香碑 網王1 3
年1 3 8 7
⑥
忠清南道雄山郡鳳山面孝橋里埋香碑 太宗3
年1 4 0 3
⑦ 全羅南道新安郡岩泰面松谷里埋香碑
太宗5
年1 4 0 5
③ 全羅南道海南郡馬
山面孟津里埋香岩刻 太宗6
年1 4 0 6
① 全羅南道霊光郡法聖面笠岩理埋香碑 (
B)
太宗1 0
年1 4 1 0
⑬
慶尚南道三川浦市香村洞埋香岩刻 太宗1 8
年1 4 1 8
⑪
忠清南道海美埋香碑(原:洪城郡西部面於沙里) 世宗9
年1 4 2 7
⑫ 全羅南道霊岩郡美岩面採芝里埋香碑
世宗1 2
年1 4 3 0
⑬
全羅南道長興郡蓉山面徳岩里埋香岩刻 世宗1 6
年1 4 3 5
⑭
全羅南道新安郡都面古蘭里埋香碑 世 祖3
年1 4 5 7
⑬
忠清南道唐津郡貞美面寄堂里安園寺埋香岩刻 (A) 庚戊年⑮
忠清南道唐津郡貞美面書堂里安園寺埋香岩刻 (B) 庚午年⑫
全羅南道新安郡八禽島 穆 宗5
年1 0 0 2
⑬
平安北道義州夜日浦 庚寅年※⑫⑬は『朝鮮王朝実録』の記録に見られる例
大徳寺所蔵︿水月観音図︾の供養人物群像に関する新解釈
以上のような事実を踏まえると︑大徳寺本の春属たちが観音に供養物とし て捧げる海の珍宝である香木は︑まさに沈香木を示唆しており︑これは高麗 の十四世紀から朝鮮初の十五世紀にかけて︑埋香活動が活発であったことと
無関係ではなかったといえるのではなかろうか︒
おわりに
大徳寺所蔵︽水月観音菩薩図︾は︑﹁観音と善財﹂
で構成される高麗時代 の一般的な図像から逸脱し︑画面に説話性の豊かな場面を盛り込むことで︑
通常の高麗の水月観音図の変化をしめす代表的な作品ということができる︒
表 1
埋香碑及び埋香岩刻の事例(
36)
全体の画面に比べて供養人物群像が占める場面の比率は低いが︑詳細に描写 された登場人物たちが持つ象徴性は︑かなり複雑的である︒画面下の添景に すぎない供養人物群像の列は︑画面を圧倒する観音の姿に一瞬吸収され︑強
烈な印象を与えるとはいえないかもしれない︒しかし︑一日つこれらの列に
目を向けると︑観音の足下に広がる︑揺れ動く激しい海が目前に広がってく るだろう︒穏やかな湖ではなく︑こうした荒波の海は︑海底から出没する龍
C 〉 二
王一行の出現という神変を代弁するかのようであり︑海底から海水面へと
挿図
1 9
埋香碑及び埋香岩刻の地域別分布図次々に登場してくる人物たちを︑画面右下から左上に向かうように設定する
ことで︑上昇する様子を効果的かつ視覚的に演出している︒
さて︑本論では︑
一連 の 供養人物群像が持つ象徴性は︑法華経と華厳経の 融合であり︑道仏習合の図像であることを確認してきた︒特に送子信仰をめ ぐる鬼子母図像の借用と︑摩尼珠を持つ龍女成仏図像の登場︑さらに悪を懲
戒し善を勧める一方︑悪い気運から子供を守護する役割を担う鍾燈の確認は︑
極めて興味深い事実であるといってよい︒また最後には︑本作品のモチーフ を通じて︑十四
i
十五世紀の沈香木と関わる当時の埋香信仰との結び付きに
五五
美
キ
" f
'7TI ブし
九
Eコ 可
耳 ハ
E引ド
ついて触れた︒
以上のさまざまな特徴は︑本作品に凝縮された直接的な要素
であるが︑その背景には︑洛山聖屈の聖なる気運︑つまり洛山信仰が高麗後
期︑水月観音図に間接的に反映されていたといえる
︒こうした観点に立つと
き︑大徳寺所蔵︽水月観音菩薩図︾は︑韓国の水月観音図が持つ意味と象徴 性をもっとも豊かに表象する先駆的な作品と評価してよいだろう
︒
午
十ム
( 1 )
現存する高麗の水月観音図の内︑三四点に関しては︑菊竹淳一・鄭子津(編)﹃高
麗時
代の
仏画
﹄
(時
空社
︑ 一九九七年)に詳しく紹介されている︒
(
2)
註1の菊竹淳一・鄭 子津
(編)前掲書(図版七三・七九参照
) ︒
鄭子津﹁新出高麗時代水月観音園﹂﹃東岳美術史民子﹄二号︑東岳美術史皐曾︑二
O O
一年 ︑
一
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三i
一 一 九頁︒
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(
3)
黄金順﹁高麗水月観音図に見られる︽四十華厳経﹀の影響﹂﹃美術史研究﹄一七 号 ︑美
術史
研究
会︑
二
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三 年 ︑ 三 一Ez
‑‑}七七頁を参照︒
(
4)
この供養人物群像をとりあげた先行研究については︑第三章で詳しく紹介する︒(
5)
制作時期に関して鄭子津氏は︑大徳寺本の基本的な描法が︑鏡神社所蔵︽水月観音菩薩図︾つ=二O年)︑泉屋博古館所蔵︽水月観音菩薩図︾ご二一二三)と類似
していることを指摘し︑本作品が鏡神社本と近接する時期に制作された可能性を論
じている(註1の菊竹淳一・鄭子津(編)前掲書︑八八1八九頁)︒
( 6 )
供養人物群像が着用しているさまざまな服飾に関しては︑次を参照した︒高春明﹁中国服飾名物考﹄上海文化出版社︑二
O O
一年︒
周汎・高春明(著)﹃中国歴代婦女批飾﹂学林出版社︑香港・三聯書庖有限公司︑
一九八八年︒
﹃中園工妻美術辞典﹄雄獅園書公司︑一九九一
年 ︑
二五一頁︒
(
7)
メトロポリタン美術館所蔵︿水月観音菩薩図︾(縦一一
一二
・七センチ︑横五五・
三センチ)には︑大徳寺本と同様の供養人物群像が表されている︒しかし︑メトロ
ポリタン美術館本の供養人物群像の中では︑大徳寺本に見られる帳頭を被り官服を
着て書巻を抱えている人物や︑肩に棒状の供養物を背負っている獣頭人身像が省略
されており︑そのほかの人物の描写や設彩法においても大徳寺本より粗略で︑緊密
さに欠けている︒こうした点から︑メトロポリタン美術館本は︑大徳寺本を祖本と して︑十四世紀中半頃に制作された可能性が高いと考えられる︒註1
の菊
竹淳
一
五六
鄭子津(編)前掲書︑九五頁参照︒
( 8 )
林進﹁高麗時代の水月観音図について﹂﹃美術史﹄七七
年︑
一一 一一 一1 一一 四頁︒
林進﹁新出の高麗水月観音図について﹂﹃悌教義術﹄
九七九年︑六O頁︒
( 9 )
李東州(監修)﹃韓
園の
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一高 麗悌
書一
﹄中
央日
報︑
一九八一
年 ︑
二
四八
頁 ︒ (叩)林温﹁建長寺蔵水月観音画像をめぐっ
て﹂
﹃悌
教塞
術﹄
一 一 一
O号︑毎日新聞社︑
一九九三年︑八
六
1八七頁︒
(日)朴英淑﹁洛山説話と高麗水月観音l仏教図像における奇蹟の役割
﹂ ﹃
台
湾 二 0 0
二年東洋絵画史学会﹄二
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二 年 ︑一
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5・(ロ)註3の黄金順前掲論文︑五 三1五四頁︒
(日)瀧朝子﹁水月観音像に描かれた人物群像について﹂
﹃大
和文
華﹄
一一 一
号︑大和
文華
館︑
二
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四O
年︑
三0 1= 二 頁︒ (日)井手誠之輔﹁高麗仏画の世界l東アジア美術における領分とその諸相﹂
﹃園
華﹄
一三 二二 号 ︑
二
O O
五年︑
三三 頁︒ (日)朴英淑氏は︑大徳寺本の供養人物群像が慶資諒
( 一 一
五01一二二九)とその一
行︑もしくはその親族である可能性を示唆している︒なお︑大徳寺本の制作時期に
ついて十三世紀であると考えられている(註日の前掲論文︑一O九
1一 一一
頁
) ︒
しかしながら︑大徳寺本の制作時期については遡っても十四世紀初頭であって︑十 三世紀にまで遡らせることは無理であると思われる︒慶資諒については︑次の文献 資料から確認できる︒
﹁高麗史﹂巻九九・列伝十
二 ︒
慶資諒﹃新増東園輿地勝陣見﹂巻四回︑江原道裏陽
都護府︑悌宇条︒
金龍善(編著)
﹃高
麗墓
誌銘
集成
﹄﹁
慶資諒墓誌銘﹂翰林大撃校亜世亜文化研究所︑
一九
九七
年︑
三
五五
1三 五七頁︒ ( 日 )﹁三園遣事﹄巻三・塔像第四︑洛山二
大 観 音 正 趣 調 信 条
︒
昔義湘法師始自唐来還聞大悲異身住此海遁窟内故因名洛山蓋西域賓陥洛伽山 此云小白華乃白衣大士虞身住慮故借此名之薪戒七日浮座具震水上龍天八部侍 従 引 入 窟 内 陀 櫨 空 中 出 水 精 念 珠 一貫給之湘領受而退東海龍亦献如意賓珠
一頼
師 捧 出 更 薪 七 日 乃 見 異 容 謂 日 於 座 上 山 頂 隻 竹 湧 生 嘗 其 地 作 殿 宜 突 師 聞 之 出
2 1 2
一O二号︑美術史学会一九 二二 二号︑毎日新聞社︑