博多萬行寺所蔵『甲戌通翰』翻刻
著者 鷺山 智英, 八嶋 義之, 小林 知美, 田鍋 隆男, 樋 口 すみ, 高松 麻美
雑誌名 人間文化研究所年報
号 28
ページ 25‑37
発行年 2017‑08‑31
URL http://id.nii.ac.jp/1219/00000938/
博 多 萬 行 寺 所 蔵 ﹃ 甲 戌 通 翰
﹄ 翻 刻
鷺 山 智 英 八 嶋 義 之 小 林 知 美 田 鍋 隆 男 樋 口 す み 髙 松 麻 美 は
じ め に
本 稿 で は 博多 萬 行 寺 所蔵
﹁ 甲 戌 通 翰﹂ の 翻 刻 を 紹介 す る
︒ 本資 料 は
︑ 萬 行 寺 住 職 の七 里 恒 順
︵一 八 三 五
〜一 九
〇
〇
︶ 宛書 簡 集 で あり
︑ 甲 戌 す な わ ち 明 治七 年
︵ 一 八七 四
︶ の 成立 と み な せ る︒ 体 裁 は
︑袋 綴
︵ 仮 綴
︶︑ 全 一 冊
︑ 不 分 巻
︑ 二 二 紙 の 写 本 で︑ 表 紙 に
﹁ 甲 戌 通 翰﹂ と 墨 書 さ れ て い る
︒本 資 料 は
︑福 岡 市 が 平成 二 四
〜 二 七年 度 に 国 庫補 助 事 業 に よ り 行 っ た福 岡 市 寺 社史 料 調 査 に おけ る 萬 行 寺調 査 に よ って 確 認 さ れ た も の で
︑﹃ 福 岡 市 内 寺 社 史 料 調 査 報 告 書 浄 土 真 宗 萬 行 寺 資 料
・ 浄 土 真 宗 光 専寺 資 料
﹄ では
︑ 萬 行 寺 資料
・ 典 籍 一八 九 番
︑ 七里 恒 順 関 係 書 の 写 本
・講 録 に 分 類さ れ て い る
︒本 山 の 執 行と し て 活 躍し
︑ 萬 行 寺 甘 露 窟 に て宗 門 教 育 を行 い
︑ 当 時
﹁仏 を 拝 も うな ら 本 願 寺 に詣 れ
︑ 法 を 聞 こ う な ら 萬 行 寺 に 行 け﹂
︵ 井 上 哲 雄
﹃ 真 宗 本 派 学 僧 逸 伝
﹄ 一 九
七 九 年
︑永 田 文 昌 堂
︶と い わ れ た七 里 恒 順 に 関す る 新 出 資料 と し て
︑ 近 世 末 期か ら 近 代 初 頭に か け て の浄 土 真 宗 教 学研 究 の 重 要な 素 材 と な り 得 る と考 え
︑ 翻 刻 を上 梓 す る
︒︵ 小 林
︶
︻ 解 説
︼
﹁ 甲 戌﹂ は 明 治 七年
︵ 一八 七 四
︶で あ る
︒ この 年 七 里 恒 順は 四
〇 歳
︒ 中 講 義 と な っ て い る
︵末 尾 年 表 参 照
︶︒ 中 講 義 と は 教 導 職 の 階 級 の 一 つ で あ る︒ 教 導 職 は 三条 教 則 に よる 民 衆 教 化の た め 明 治 五年 に 発 足 し た 教 部 省に お い て 設 置さ れ て い る︒ 一 級
︵ 大教 正
︶ か ら 十四 級
︵ 権 訓 導
︶ ま での 十 四 等 級 にわ か れ て おり
︑ 中 講 義は 九 級 で あ る︒ こ の 等 級 は 試 験 によ っ て 決 定 され て い た
︒恒 順 は 翌 明 治八 年 に は 大講 義︵ 七 級
︶ に 昇 進 して い る
︒
二五
﹁ 甲 戌 通 翰
﹂ は 明 治 七 年 に 七 里 恒 順 へ 宛 て ら れ た 手 紙 を 綴 っ た も の で あ る
︒ 手 紙 の 日付
︑ 宛 先
︑ 差出 人 は 次 のよ う で あ る
︒
①
﹁ 七 月 十六 日
﹂ 付
︑﹁ 七 里 和 尚 閣下
﹂ 宛
︑﹁ 重 松 蘭 英
﹂ 差し 出 し
②
﹁ 七 年 九月 廿 五 日
﹂付
︑﹁ 萬 行 寺様
﹂ 宛
︑﹁ 大内 祐 慎
﹂ 差し 出 し
③
﹁ 十 月 十八 日
﹂ 付
︑七 里 恒 順 の返 信 か
④ 日 付 不 明︑
﹁ 七 里 大和 上 下 座
﹂ 宛︑
﹁ 智 水
﹂ 差し 出 し
⑤
﹁ 三 月 三日
﹂ 付
︑﹁ 萬 行 寺 殿
﹂ 宛︑
﹁ 安 国 清
﹂差 し 出 し
⑥
﹁ 七 年 八月 六 日
﹂ 付︑
﹁ 七 里 先 生台 下
﹂ 宛
︑﹁ 正 木 護
・ 三浦 顕 夫
﹂ 差 し 出 し
① の 重 松 蘭英 は 大 分 県中 津 市 明 蓮寺 の 住 職 で ある
︒ 中 津 地域 の 中 教 院 分 局 役 人 と地 元 の 真 宗僧 侶 た ち の対 立 や 交 渉 など に つ い て詳 し く 述 べ ら れ て お り︑ 大 教 院 分離 運 動 を 真 宗が 進 め て いく 中 で の 地方 の 状 況 を 研 究 し て いく 上 に は 貴重 な 資 料 で ある と 思 わ れる
︒
② の 手 紙 も四 日 市 別 院な ど の 記 述 があ る の で 大分 県 で あ る︒
① 同 様 大 教 院 分 離 問題 に 関 連 する も の で あ る︒ 差 出 人 の﹁ 大 内 祐 慎﹂ は 専 想 寺
︵ 大 分 市
︶の 住 職 で ある
︒
③ は 七 里 恒順 が 返 翰 とし て 認 め た もの だ と 考 えら れ る
︒ 内容 と し て は 長 崎
︑ 佐 賀の 様 子 を 述べ た も の で ある
︒ 教 導 職 試 補に つ い て 田代
︵ 鳥 栖 市
︶遍 照 寺 毛 利知 海 を 試 補 に申 し つ け る に あ た って ど の よ うな 人 物 な の か管 長 閣 下
︵西 本 願 寺 門 主︶ か ら
佐 賀 県 令に 問 い 合 わ せが あ り
︑ さら に 県 庁 か ら願 正 寺
︵ 佐賀 市
︶ 熊 谷 氏 へ と 問い 合 わ せ が あっ た こ と など が 述 べ ら れて い る
︒
④ の 差出 人 は﹁ 智 水
﹂で あ る
︒文 中 に﹁ 願 正 廣隆
・ 長 専 好竪
・ 愚 夫
﹂ と あ り
︑愚 夫 が
﹁ 智 水﹂ で あ る と思 わ れ る
︒ 佐賀 県 内 の 僧侶 だ と 考 え ら れ る が所 属 す る 寺 院は 不 明 で ある
︒ 他 の 二 人は 願 正 寺
︑長 専 寺 の 僧 侶 だ と 思わ れ る
︒ 試 補 の件 に つ い て 兵役 対 象 者 を優 先 的 に 試 補に 申 し つ ける な ど と 記 さ れ て い る︒
⑤ の 差出 人
﹁ 安 国清
﹂ は 福 岡
︵市
︶ 明 蓮 寺の 僧 侶 で あ る︒ 父 は 安 国 淡 雲 で ある
︒ 淡 雲 は明 治 政 府 の もと 教 部 省 設置 に 伴 い 同 省に 勤 務 し て い る
︒ 安国 清 は 海 外開 教 使 と し てハ ワ イ な どに も 行 っ て いる
︒ こ の 時点 で は 東 京築 地 本 願 寺 に勤 務 し
︑ 興正 寺
︵ 京 都 市︶ の 独 立 の 企 て に 対す る 件 を 担 当し て い る と記 さ れ て いる
︒ 興 正 寺 は明 治 九 年 に 本 願 寺 派か ら 独 立 し
︑真 宗 興 正 派の 本 山 と なっ た
︒ 書 状 の前 半 に は 藤 岡 大 澄 から の 徴 兵 令 免役 の 条 項 と試 補 任 命 との 関 わ り に つい て の 質 問 を 紹 介 して い る
︒
⑥ は 長 崎 の 合 議 所 に 勤 務 し て い る
﹁ 正 木
﹂﹁ 三 浦
﹂ か ら の 手 紙 で あ る
︒ 三 浦は 大 光 寺
︵ 長崎 市
︶ の 僧侶 だ と 思 われ る
︒ 合 議 所が 細 々 な が ら 存 続 し て い る こ と や 合 議 所 の 講 師 の 依 頼 な ど に つ い て 記 さ れ て い る
︒ ま た興 正 寺 の 分 離独 立 の 件 につ い て も 触れ ら れ て い る︒ 明
治 政府 は 明 治 二 年︵ 一 八 六 九︶ 全 国 の 神官 を 宣 教 使 に任 命 し 国 民 教 化 に あた ら せ
︑ 神 道国 教 化 政 策を 進 め て いた が
︑ 仏 教 側か ら の 反 発
二六
甲 戌 通 翰
な ど も あ り うま く い か なか っ た
︒ その 後 真 宗 僧 侶島 地 黙 雷 らの 仏 教 を 国 民 教 化 に 活用 す る こ とを 提 案 し た建 議 が き っ かけ と な り 明治 五 年 に 教 部 省 が 成 立し て い る
︒そ の 後 宣 教使 に か わ っ て置 か れ た のが 教 導 職 で あ る
︒ 神 官︑ 僧 侶 が 教導 職 に 任 命さ れ た が
︑ のち に は 落 語家 や 講 談 師
︑ 演 劇 家 など も 選 ば れた
︒ 明 治 七 年に は 教 導 職試 補
︵ 七 級以 下 の 試 補 の 者
︶ 以 上で な け れ ば寺 院 の 住 職 とし て 認 め ない と さ れ た︒ こ れ に よ っ て 全 国 の神 官
・ 住 職が 教 導 職 と して
︑﹁ 三 条教 則
﹂︵ 一 敬神 愛 国 の 旨 を 体 す べ きこ と
︑ 一 天理 人 道 を 明 らか に す べ きこ と
︑ 一 皇上 を 奉 戴 し 朝 旨 を 遵 守 せ し む べ き
︶ を も っ て 国 民 教 化 を 担 当 す る こ と に な っ た
︒ 一 方
︑ 教 部省 設 立 直 後仏 教 側 は 各 宗派 連 合 で 大教 院 の 設 立を 願 い 出 て 許 可 さ れ た︒ 明 治 五 年七 月 に 東 京 に大 教 院 が 開設 さ れ
︑ 翌年 か ら 府 県 の 県 庁 所 在地 に 中 教 院が 設 置 さ れ てい く
︒ さ らに 各 神 社 や寺 院 も 小 教 院 と し て の役 割 を 与 えら れ た
︒ し かし
︑ 仏 教 側が 目 指 し て いた も の と 実 際 の 大 教院 の 内 容 が大 き く 相 違 して い た の で発 足 直 後 か ら真 宗 は 大教 院 分 離 に動 い て い くこ と に な る
︒そ し て 明 治八 年 五 月 に は大 教 院 は解 体 さ れ るこ と に な る︒
﹁ 甲 戌 通 翰
﹂ は 明 治 七 年 の 成 立 で あ る
︒ ま さ に 真 宗 教 団 が 大 教 院 分 離 運 動 を 展 開 し て い る 真 っ 最 中 の 時 期 で あ る
︒﹁ 甲 戌 通 翰
﹂ に は こ の 時期 の 地 方 の状 況 が 記 述 され て お り
︑貴 重 な 資 料で あ る と い える
︒
︵鷺 山
︶ 参
考 図 書
柏原 祐 泉
﹃日 本 仏 教史
近 代﹄ 吉 川弘 文 館 平 成 二 年
︻ 凡 例
︼
一
︑ 改 行は 原 則 と して 追 い 込 み とし た
︒ 一
︑ 旧 字・ 異 体 字 は常 用 漢 字 に
︑変 体 仮 名 は正 字 に 改 め た︒ 一
︑ 読 みや す く す るた め に 読 点
・並 列 点 を 付し た
︒ 一
︑ 踊 り字 は
﹁ 々
﹂﹁ ゝ
﹂﹁ ヽ
﹂﹁ 〳 〵
﹂ で 表し た
︒ 一
︑ 校 訂者 の 加 え た文 字 は
︵
︶で 表 し た
︒
︻ 翻 刻
︼ 七 里 恒 順
﹃ 甲 戌 通 翰
﹄ 博 多萬 行 寺 蔵
︵ 表 紙
︶﹁ 甲 戌 通 翰
﹂
︵ 健 ヵ
︶
暑 中 御 院内 皆 様 無 御障 御 継 栄 被 遊御 座
︑ 珍 々喜 々 奉 賀
︑ 三ニ 弊 宅 モ 老 僧 始 一 同ニ 無 異 罷 在候
︑ 御 休 慮 可被 下 候
︑ 小僧 も 追 々 生 長︑ 家 内 中 相 喜 ヒ 申 居 候○ 過 月 来 長 崎 表 へ 御 苦 労 之 由
︑ 其 後 御 帰 院 之 事 も 承 候 得 共
︑ 彼 此多 事 御 機 嫌も 不 奉 伺 失 敬万 々 御 寛 宥奉 願 上 候
○ 学寮 諸 先 生 は
︵ ママ
︶
日 々 御 出 精 羨 間 敷 奉 奉 存 候
︑ 乍 恐 宜 敷 御 鳳 声 可 被 下 候
○ 伯 東 寺 殿 御
︵ 験︶
試 検 ニ 相見 へ 候 趣
︑去 月 同 人 よ り銘 々 共 御 掛合 も 有 之 候
︑御 県 下 は 如 二七