Ⅰ.序
芸術作品の芸術性と美学的価値は Ingarden1)*1も 述べるように、芸術作品に対峙する鑑賞者の同時的 な存在なくして成立しない。舞踊作品においても同 様であり、その芸術的価値は観客の鑑賞体験を拠り 所としている。舞踊研究において、観客の作品享受 や作品解釈から舞踊作品の構造を探る試みがなされ る場合、舞踊の特殊な性質(反省的に捉えようと試 みた際には消え去り、次の新たな現象が眼前に拡がっ てしまうという性質)のために、動的現象を捉える ことに困難が生じる。本稿で取り上げたい問題は、
舞踊作品の鑑賞および鑑賞体験についてである。こ の舞踊作品の鑑賞体験については以下の2つのレベ ルで捉えることができる。1つは作品の進行と「同 時的なレベル」で為される鑑賞体験(鑑賞している その瞬間の動的現象を分析することは不可能な主客 未分な領域)、2つ目は作品の進行から遅れた「反省 的レベル」における鑑賞体験(分析可能な対象的な 領域)である。前者の鑑賞における分析不可能性に 関 し て は「 観 客(subject)vs 上 演 時 の 舞 踊 作 品
(object)の鑑賞構造」が「忘我状態、前―反省的体
験」である理由による。対して分析可能な後者の鑑 賞に関して、観客は鑑賞体験の結果として作品の「印 象」なり「感想」を持つ場合、上演時よりも終演後 から始まる作品の反芻(繰り返し考える事)、あるい は反省においてなされることが多いことも事実であ る。つまり上演された時点で舞踊作品は演者側から 離れ、観客側に託されると考えることができる。
Ingarden1)も言及しているように、作品とはモノで はなく出来事であり、芸術とは観客がその作品に関 わっていくプロセス(美的体験)である。舞踊を芸 術したらしめる要素として観客の舞踊鑑賞体験が位 置付けられると捉えて相違ないだろう。舞踊作品の 捉え方、鑑賞の仕方は鑑賞経験の多少や舞踊経験(舞 踊歴)の有無で異なるが、鑑賞後の反芻という行為 は、舞踊作品を存立させる関係にある観客に与えら れた唯一無二の特権であり、終演後から始まる舞踊 作品の反芻に視点を向けることは、舞踊鑑賞とは何 か、舞踊芸術とは何かという本質にアプローチする 一助となるのではないだろうか。
そこで本稿では、舞踊作品は振付家やダンサーが 構築し、それを観客が受け取るという一般的な舞踊
舞踊作品の鑑賞と再構築 望月崇博
帝京科学大学 教育人間科学部 こども学科 A dance appreciation and re-building
Takahiro MOCHIZUKI
Teikyo Univercity of Science Abstract
The purpose of this research is to consider the process when an object is re-built by the audience, and a dancer builds the dancing, and we reserve structure that the audience receive it once on this occasion. The method quoted an idea for dancing research at time in the phenomenology.
I settled below a result.
1)The dancer converts a physical body to physical representation by a dance.
2)The audience maintains physical representation of dancing that is dripped by the dancer
3)As for the re-remembrance, surfacing empty representation leads, it is ruminated by active intentionalness and it is rebuilt.
4)A dancer has the force dynamics of the dancing at the time of the presentation, a campaign for intentionalness in case of the re-remembrance of the audience has the force dynamics.
5)When the audience remembers physical representation of the dancing again in time for dancing by the audience, I come.
And it is an appreciation experience repeated many times. In other words it is 「an appreciation experience without the end」.
キーワード:舞踊鑑賞、舞踊の現象学、舞踊構造
Keywords: Dance appreciation, Dance phenomenology, Dance structure
の構造分析を一旦留保し、終演後から始まる観客の 反芻に焦点を当て、観客によって作品が再構築され るプロセスを考察することを目的とする。
Ⅱ.舞踊分析と現象学
本稿における舞踊分析で現象学を用いることは有 用であると考える *2。モーリス・メルロ・ポンティ
(以下:メルロ=ポンティ)の現象学2)は「生活世 界に視点を向けること」であり、これに倣えば、我々 が日常生活で様々なものを見たり、聞いたり、感覚 したりすることと無関係ではないことが理解できる。
現象学において「本質」*3が問題視される場合、現 象の向こう側にあるもの、我々が見たり聞いたりで きる個々の現象それ自体にあるものである。ここで 注意しなければならない事柄は我々が持つ客観的な ものの見方に反省的になり、それを留保することで ある。それによって可能となるのは対象のもつそれ までとは異なる様相を捉えることである。舞踊を現 象学的に考察するということは、「舞踊を観る」とき の様々な思い込みを受け入れ、それらを一旦留保す ることに意義がある。例えば観客の耳に入る創り手 についての前情報やプログラム等の媒体から入って くる作品の予備知識などといった具合である。それ らのものを一旦留保し得たとして「踊っている」と いう唯一の事実は残る。このように舞踊の周辺的な 事柄を留保し舞踊を1つの現象として捉えることに より「舞踊という単一的な現象」に立ち返って考察 することが可能となる。現象学的視点によって確保 されるものは、存在が自明のものとして語られる世 界(自然科学的世界観によって構成される世界)に 対する原点への回帰、組み直しである。この組み直 しとは、どのように意識しているかの分析ではなく、
意識してしまっているその志向性「我々の意識が対 象へ向かうベクトル」を分析するものである。世界 をすでにあるものとして捉えるのではなく、様々な 志向性によって構成される世界と捉えることである。
舞踊分析に置換してみれば「誰の目にも映る舞踊そ のもの」と「舞踊を観る者が各々持ちうる観方やそ の偏り」を分けて考えるにあたり、本研究ではとり わけその後者に注目する。これらにより着眼するの は、舞踊の創り手よりも鑑賞者となり、特に鑑賞者 が意識的に自分の観た舞踊内容を振り返る「反芻」
が論の中心となる。以上の指針により、現象学的時 間論を援用する形で舞踊鑑賞論を展開するものとす る。
Ⅲ.時間と再想起
ⅰ.時間の概念
本節では舞踊作品を反芻するという行為に視点を 当て、現象学的な視座から時間性と記憶に関する考 察をまとめる。そこで現象学の基盤を築いたエドム ント・フッサール(以下:フッサール)の時間論3、
4)を参考に論を進め、そこにフッサール現象学を参 考に独自の現象学的考察を確立させたメルロ=ポン ティの身体を基盤とした時間論*4を絡めてまとめる こととする。
フッサールの現象学においては度々時間に関する 問いが行われている。この時間論は、客観に関係づ けられている、架橋されている主観という志向性の 事態があり、この志向性は「意識作用と意識内容」
に分けられ分析される。そこで初めて主−客の関係 が成立し、時間についての問いが解明される。メル ロ=ポンティも主観と時間に関して内的に交流しあ える考え方の必要性に言及しており、時間分析は時 間を通して主観性の具体的構造に迫ることとしてい る。つまり現象学的時間論は意識の志向性の分析と いうことになる。その分析は過去、現在、未来とい う分け隔てた時間認識ではなく、現在を構成する意 識の志向性の分析が中心となる。この志向性をフッ サールは、直観される志向性と空虚な志向性という 2つに分けた。メルロ=ポンティの述べる「世界−
内−存在」*5もこの考え方を基盤としている。この 直観される志向性は能動的志向性、後者は受動的志 向性と呼ばれ、フッサールの時間論はこの受動的志 向性の分析にあると言える。この志向性は過去の地 平にある空虚な表象をもち、潜在力と力動性、それ に即した創造性を備え、現在の構成を積極的に条件 付けるという特性を持つ。能動的な志向性はこの受 動的志向性が前もって構成したものに気づくところ から始まる。つまり志向の基盤には受動的志向性が 前提としてあり、能動的志向性に対して前もって起 こっていると捉えることができる。
この志向性を基盤とした時間概念は数直線的なも の(「今」という核を持ち、「今」の連なりから過去 と未来が形成されているもの)ではなく、拡がりを 持った厚みのある現在、「生ける現在」3)であると いう。そしてこの「生ける現在」(厚みのある現在)
は、過去把持を伴う運動が未来へ次々と進展してい く。過去の深淵に後退していくのは、新しい「今」
が現れるに連れて「今」は過去へと変異し、それに 伴って過去の経過の連続性によってであると考えら れている。
ⅱ.現在を構成する要素と再想起
フッサールの時間論において重要となる考えが過 去把持と未来予持と呼ばれるものである。音楽を例 に出してみよう。例えばモーリス・ラヴェル作曲の
『ボレロ』を思い浮かべた場合、曲中に何度も頻出す る有名なメロディーがある。我々は記憶しようと意 識して記憶したわけではないにもかかわらず、この メロディーを口ずさむことができる。この意識せず してそれとなしに聞いているメロディーが保たれ、
残され、次第に感覚内容が薄れていく過程を過去把 持という。このように自分ではそれと気づかずに音 を聞き分けたり、物を見分けたり、特定の触覚や味 覚を感覚している。この気づかずに聞いていたメロ ディーという感覚素材(現印象)と過去把持は「い まの意識」を持たずに意味内容として与えられる。
この過去把持されたメロディーという枠組みをフッ サールは空虚表象 *6と呼び、これが再想起する際に
「生ける現在」の原印象と覚起し *7、能動的志向性に なるという。この過去把持は、想い出すという再想 起(フッサールは短期記憶を想起、一般的な想起を 再想起と呼んだ。)以外にも、現在から発する原印象 の持つ特定の意味内容が、まだ志向的性格を持って いない(過去把持されたまま残っている空虚表象に なりつつある)意味内容に働きかけ(覚起し)、連合 を通して能動的志向的性格を持つこともある。もち ろん我々は無限に空虚表象を蓄積するわけではなく、
遠くなった空虚表象は他の空虚表象の影に隠れて消 失することもある。絶えず過去への後退が行われ同 じ連続的複合が絶えず変容し消失する、さらには変 容によって微弱化が起こり、気づかれなくなる。つ まり各々の空虚になった表象が同じ強度で「生ける 現在」に覚起してくるとは限らない。過去の心理的、
生理的「痕跡」(ここでいう空虚表象)は過去の意識 を理解させてくれるものではないとメルロ=ポンティ
5)も言及している。そして過去となった空虚表象ど うしが覚起され、再想起されるが、直観にもたらさ れるのは1つの空虚となっていた表象のみである(こ の時点で空虚表象ではなくなり、直観にもたらされ ることで表象となる)。この空虚表象と原印象との間 に起こる複数の相互覚起が現在の幅で生じる直観さ れる志向性を巡って抗争する。過去地平の空虚表象 の意味が自我に対して触発的となる時、その力の決 定は「生ける現在」にある。著者がここで《ボレロ》
を引き合いに出したことは次のように分析できる。
強力な動機(何か適当な音楽のメロディーを思い出 そうとした自我)にメロディーが触発され「生ける
現在」を構成した。
このようにフッサールのいう時間は、過去地平に 眠る空虚表象が覚起し、「生ける現在」の感覚素材を 自分の関心に即して創造していくことで生成してく ることである。またメルロ=ポンティは意識が時間 をくり拡げ、現在を構成すると捉えている。その時 間の源泉は特定の感覚が去りゆき、別の感覚が立ち 現れてくることであると言える。
これまで時間論について大まかにまとめてきたが、
本稿で重要となるのは反芻という行為についてであ る。先述したが空虚表象は、気付かずに忘れ去られ るという受動的志向性を基盤にしている。そして「生 ける現在」において思い出そうとするときの能動的 志向性に対して、前もって構成されている。つまり 無数の空虚表象に満ちた過去地平は、決して過ぎ 去って、もはやないものではなく、いつでも「生け る現在」の原印象と対面しつつ、お互いに対化を競 いあいながら現在に居合わせている。過去地平を伴 う「生ける現在」は、原印象と過去地平に沈む空虚 表象との間で動的な力動性を持ち、原意識を構成し ていると考えられる。
ここで我々は、再想起という行為について、一つ の態度決定をすることができた。再想起とは「生け る現在」を構成、あるいは生成する運動であり、反 芻とは再想起を基盤としてそれが何度も繰り返し志 向される能動的活動(能動的志向性)である。
Ⅳ.舞踊作品の再想起
ⅰ.舞踊の鑑賞構造
ここからは先の時間論を舞踊作品に援用する形で 考察を進める。
舞踊作品は上演されているその時、客観的な時間(舞 踊家が創作した時間:本稿の態度として言及は避け ている)となる。それが終演後、観客の元に託され た瞬間から主−客〈観客(subject)- 上演時の舞踊 作品(object)〉の成立がなされる。先の時間の言説 に従えば舞踊作品鑑賞後、我々は作品の感想や印象 を持つ直観的な層と、まだ原意識に浮上してこない 空虚な層の2つが存在することになる。もちろんこ の段階に至るのは舞踊作品上演と同時的に観客がそ こに存在していたからという条件がある。それが終 演後、この空虚な層の志向性は今しがた観た作品や 遠い過去に観た作品の表象が基となっている。この 空 虚 な 表 象 が 舞 踊 作 品 に お け る 表 象(re- presentation:再現前)ということができるだろう。
舞踊作品を再想起する際には、この空虚な舞踊表象
の浮上が作品を反芻するという能動的志向性以前に 先行している。これが反芻している現在と覚起し、
空虚な舞踊表象を基盤とした能動的な志向性(反芻 行為)となる。このように舞踊作品を反芻する時間 は、過去地平にある舞踊表象が反芻する現在の感覚 素材を、自分の関心に即して構成される。つまり反 芻するという能動的意識が舞踊作品の2次的レベル の時間 *8をくり拡げ構成されることになる。この舞 踊表象の再想起は動的な力動性を持ち、常に現在を 構成している。集約すると、鑑賞者は舞踊作品を反 芻している瞬間、過去の鑑賞体験としての時間を思 い出しているのではなく、舞踊表象を基にした新た な時間を構成していると考えられる。
この再想起される空虚な舞踊作品の表象を考える 場合、振付家とダンサーの関係性を捉えることは重 要である。舞踊作品は振付家の持っている表象(振 付家のイメージ)をダンサーに共有させることで(振 付という行為によって)成立する。その意味でダン サーにとって舞踊は客体的である。つまり表象物で しかなく、振付家の持つ暫定的な完成型としての表 象が与えられると言える。この表象をダンサーは自 分の身体を通してパフォーマンスする。ここまでが 振付家、ダンサーが与える舞踊作品の構造である。
そのダンサーによってパフォーマンスされる舞踊 を観客は「観る」という行為において前−反省的に 共有し(1次的鑑賞)、対峙する。これが反省的に捉 えるレベルに移行する場合、「ここにはすでに存在し ない舞踊」「パフォーマンスなき舞踊」の表象として 反芻される材料となる(2次的鑑賞)。これが観客の 鑑賞体験の構造である。
ⅱ.舞踊の身体表象
舞踊とは一般的に身体表現であると言われている。
振付家の表したい世界をダンサーが文字通り身体に よって表現するわけであるが、観客が舞踊を観ると き、そこから舞踊の身体は表象される。村田6)は、
ある舞踊評論家の言葉を借りて舞踊における身体表 現を、「からだで表現する」というより「からだが表 現する」、もしくは「からだを表現している」と言及 している。換言すると、舞踊における身体は、物理 的なダンサーの身体が舞踊を表現するといった表現 の手段(媒体)なのではなく、その物理的なダンサー の身体が「舞踊の身体」を表現すると言える。つま りダンサーの物理的な身体が「舞踊の身体」=舞踊 の身体表象を出現させている。ダンサーは舞踊をす るときに自らの身体をさらけ出して観客に見せてい
るわけだが、観客が観るそれはダンサーの物理的な 身体ではなく舞踊に向かう身体表象である。例えば 舞台上において、ダンサー1人が走り回っているそ の瞬間、つまずき膝を抑えるとする(もちろんこれ は巧妙に振り付けられた演出だとする)。すると観客 は「転んだ」という事象に驚くが巧妙な演出だと気 づきその所作を見守る。ダンサーの物理的な身体を 捉えようとした場合、「走り回る」→「転ぶ」→「膝 を抑える」という動作の連続でしか捉えることがで きないが、「葛藤」を表すための舞踊に向かう身体表 象と捉えることができる。ここで我々はこの例に見 られるような舞踊の身体表象と呼べるものと、そう でないものを明確に分ける必要がある。舞踊か舞踊 でないかは本稿においては観客に委ねられるところ が大きいという見地からである。
先述したように観客が舞踊に観るものはダンサー の動く身体である。舞踊において立ち現れてくるダ ンサーの「動く身体」に焦点を当てて考察を進める。
観客が舞踊作品に身を投じ、得られる受動的志向性 における表象は、これまでの議論からダンサーの身 体の動きがもたらす身体表象である。音楽を例に 取った場合、前節の『ボレロ』の有名なフレーズが 過去把持を通して空虚表象となり、再想起され現在 を構成していく。舞踊に関しては身体の動きがなす 身体表象(空虚表象)となり、反芻の際に現在を構 成する。もちろん上演中の前−反省的意識での体験 全てを思い出すわけではなく、この『ボレロ』のフ レーズのように身体の動きがなす表象(断片もしく はフレーズ)を再想起するわけだ。この身体の動き がなす表象は動性を備えている場合もあれば、瞬間 が型取られたような静止画として浮上することもし ばしばである。この静止画として浮上する身体表象 にも動的な時間性があることはこれまでの議論から も明らかである。
またこの再想起し反芻する行為には、意識の層で 2つの次元が存在する。先のダンサーの例を出すと
「葛藤」という言葉で表す以前に浮かび上がる表象
(映像かイメージか)があることもまた事実である。
この純粋に浮かび上がった表象は言表作用によって 理解、解釈しやすくなる。例えばストーリーのはっ きりしたバレエ作品や歌舞伎等はまず演じられる役 柄があり、その役柄としての身体表象が存在する。
バレエの白鳥の湖においてはオデットとオディール、
ロットバルトという役柄の身体表象は言表作用によ るものである。また上演された舞踊作品の評論を先 に見たりすること(見方を規定するため純粋表象と
は呼べなくなる)や、終演後に友人(作品鑑賞の共 有者)と会話をしながら作品を反芻する場合も言表 作用によって表象は変換されると捉えられる。つま り浮上する舞踊の純粋なる身体表象を基に、言表す ることによって言語表象として変換していると捉え ることができる。ここでは舞踊の言表作用の詳細の 分析は避ける *9が、舞踊の純粋なる身体表象は言表 作用によって理解、解釈の地平が拡がることも事実 である。
Ⅴ.舞踊作品の再構築
ⅰ.舞踊の身体表象と舞踊作品の関係
これまでで明らかとなった舞踊作品を反芻する際 の空虚な表象(身体の動きによって成された舞踊の 身体表象)は、観客の2次的な鑑賞体験においてど のような役割を担っているのであろうか。
まずこの反芻するという現象の特徴は観客に依拠 しているところにある。舞踊作品を生成、構築する ための純粋なる身体表象は、舞踊か舞踊でないか、
また美的か美的でないかといった判断材料、美的価 値判断基準の素材として立ち現れることは明白だ。
さしあたって舞踊作品を振り返るということは浮上 する純粋なる身体表象を分析するところから始まる と考えられる。
ここからこの舞踊の身体表象と舞踊作品との関係 性について考察を進める。舞踊の身体表象は、身体 の動きが生成するものと捉えることができる。この ように考えた場合、舞踊の身体表象と舞踊作品との 関係性の議論においては、舞踊の身体表象は舞踊に よって成される表象であり、舞踊作品を規定する1 つの要素として捉えることができる。*10例えば、女 性ダンサーがバレエのパを寸分狂わず行っている横 で、男性ダンサーが居心地悪く何度も頭を掻く仕草 を繰り返すとする。次に女性ダンサーがターンを何 度も繰り返し、男性ダンサーは座り込む。これらの 振付を精巧にこなしたとし、A さんは再想起の際に 女性ダンサーの成した舞踊の身体表象を浮上させる。
また B さんは再想起の際に男性ダンサーが何度も頭 を掻く仕草の表象が浮上したと仮定する。B さんは その仕草の身体表象が幾度となく再想起され、A さ んはそのような表象があったことも忘れてしまう。
このように各鑑賞者によって反芻される表象は異 なってくるが、幾度も再想起されることで舞踊作品 をその都度決定する要素になりうると考えられる。
ⅱ.再構築という創造
舞踊の身体表象の覚起は何度も起こり、更新され
る。この舞踊の身体表象の再想起が2次的鑑賞体験 による舞踊作品構築の時間を継続させていくと捉え られるだろう。その表象が羅列され配置されていく プロセスが舞踊作品の2次的鑑賞の時間となり、舞 踊家に創造される芸術作品に随伴した2次的な芸術 行為であると捉えることができる。加えてこの終演 後に浮上する身体表象は、観客によってさえも未だ 規定できない(受動的志向性のもと)断片、舞踊作 品を再構築する際の断片(フラグメント)*11となる。
この舞踊表象のフラグメントが現在の原印象と結び つくとき、現在の意識として構成される=舞踊作品 の再構築となる。再想起とは常に変わりゆく現在を 積極的に構成するものであり、過去の痕跡としての 舞踊作品の記憶はそこには存在しない。常に生成、
構築され、そのたびに忘れ去られていくものなので ある。舞踊作品の再構築における独特な事柄は、固 定された建物である街の表象のように、動かずそこ に存在し、常にあるものではなく、常に消えゆく現 象(身体の表象)である。そしてそのフラグメント は空間と時間という動性を備えた表象なのである。
このような観客各々の反省的鑑賞を分析した場合、
舞踊作品に元々存在する、もしくは振付家が提示す る身体の動きとしての表象が再想起されるのではな くて、観客の「生ける現在」に立ち現れたフラグメ ントが舞踊によってなされる身体の表象と言える。
舞踊は片岡7)が述べるように「力動的時空間芸術」
である。舞踊作品には力動性(ダイナミズム)が内 在しているが、本稿のように観客の鑑賞体験に依拠 した場合、再想起の際の身体表象の覚起や結合、抗 争といった観客の志向性の運動にも力動性(ダイナ ミズム)が内在しており、この反省的鑑賞の力動性 によって舞踊作品は再構築されるのである。
まとめると、観客の鑑賞体験は1次的鑑賞後、客 観的時間が経過しても「生ける現在」と常に結びつ き、生きられる経験として、新鮮なままの舞踊の身 体表象として居続ける(1次的鑑賞体験時の身体表 象はそれ自体時間を内包しないという意味で)。観客 に与えられた唯一無二の時間は、鑑賞後から始まる フラグメントの構築、再構築、本稿でいうところの 2次的鑑賞体験によって訪れる。Ingarden の言う作 品に関わっていくプロセス(美的体験)は、終演後 から始まる観客のこの再構築にも適応される。つま り舞踊作品の芸術性を規定するのは、観客の2次的 鑑賞体験と捉えることができる。観客が身体を投じ て鑑賞する奇跡的な舞踊芸術との出会いは、観客に 対して芸術的創造物を構成するあらゆる要素を与え
てくれる。そのような意味で舞踊作品の鑑賞とはま だ見ぬ未来の構築、再構築であるし、絶えず未来に 向けて創造する芸術活動であると言えるのではない だろうか。また、その再構築は幾度も繰り返し可能 な終わりのない志向性であり、舞踊作品鑑賞という 行為は、絶えず続く舞踊の時間の始発点である。こ れは舞踊の身体表象を基とした「終わりなき鑑賞体 験」と換言でき、つねに観客の「生ける現在」、「生 ける舞踊作品」を再構築していく芸術的時間創造で あると言えるだろう。
Ⅵ.結語
これまで議論してきた舞踊鑑賞についてまとめる と以下のようになる。
1)ダンサーは踊ることによって物理的な身体を舞 踊の身体表象へと変換させている。
2)観客はダンサーによってもたらされる舞踊の身 体表象をそれとなしに空虚な表象として保持す る。
3)再想起の際に空虚な表象(舞踊の身体表象)の 浮上が先行し、能動的志向性によって反芻され、
再構築される。
4)舞踊作品の力動性(ダイナミズム)は上演時に おいては舞踊する側にあり、観客の再想起する 際の表象の浮上する志向性の運動にも力動性は 存在する。
5)観客による舞踊作品の時間は、舞踊の身体表象 を反芻する瞬間瞬間に訪れるものであり、幾度 となく繰り返される鑑賞体験、いわば「終わり なき鑑賞体験」、芸術的創造である。
本稿は終演後から成される舞踊の鑑賞構造につい ての美学的分析を試みた。観客が捉える舞踊の身体 表象とそれを基にした舞踊作品の再構築に焦点を当 ててきたが、観客各々の舞踊作品の捉え方、作品解 釈に至るプロセスに関しては言及を避けた。本論を 検証するにあたって観客による舞踊作品解釈につい ての記述を今後の課題とする。
註
1.Roman・Ingarden は、芸術作品とは芸術家と観 客の共通の産物であるとしており、作品とはモ ノではなく出来事として捉えている。
2.これまでの舞踊美学の研究として、スザンヌ・
ランガー8、9)に代表されるような舞踊を記号、
もしくは象徴として捉えるものや、観念論に移 行し論じるものが多い。本稿において舞踊を観
客の鑑賞の志向性に視点を向けること(観客の 鑑賞体験を現象として捉えること)で舞踊の芸 術性を拡張させる可能性があると考える。ゆえ に現象学的アプローチは有用であると考える。
3.ここでは観念的な領域の問題、いわゆるプラト ン的本質(イデア)ではなく、私が何かを見る、
聞くと言った日常の事柄として捉える。現象学 的研究においてプラトン的本質を問題にするの ではなく、事象それ自体に立ち返る(フッサー ルのいう現象学的還元をする)ことが重要であ る。
4.「知覚の現象学2」の時間性の議論の箇所(p305
〜)においてフッサールの時間論(過去把持や 未来予持)に言及している箇所が多く見られ、
メルロ=ポンティの現象学の裏付けにフッサー ルの考察が関連していることがわかる。
5.「世界−内−存在」は、意識する以前にすでに世 界に触れているという前−反省的レベルでの身 体のあり方と、世界に対して距離を持った反省 的レベルでの身体のあり方。
6.空虚表象とは、フッサールの時間論における受 動的綜合を規定するものであり、ある現在に知 覚されたり、判断されたりした意味内容が、過 去把持を経て、その鮮明さを失い、その直観の 度合いが減少していき、最後にその直観の充実 度がゼロになり、空虚になっていく。しかし、
空虚になっても、その意味の枠組みは残ってい る。この空虚な枠組みが空虚表象である。
7.覚起とは、空虚表象の意味内容と現印象の意味 内容が互いに意味を呼び覚ましあい、意味内容 が同一化すること。
8.舞踊作品上演と同時的に存在している観客は舞 踊作品の進行に則った時間性を生きていて、こ のレベルを本稿では舞踊の1次的レベルの時間 とし、鑑賞後から表象を配置する時間性を舞踊 の2次的レベルの時間とする。
9.言語と感覚について、言語以前の「感覚の変化 と持続」に過去と現在の時間意識の区別の源が あり、出発点である。また、なまの感覚が先行 し、言語はその表現(能動的志向性)であると いう現象学の立場があるというところと、舞踊 作品を反芻する際の純粋なる身体表象の組み替 え、構築のプロセスを本稿の主眼としていると いう理由から詳細の分析は避ける。
10.舞踊作品は音楽、照明、舞台美術を含めた複合 芸術と捉えられており、舞踊の身体表象はその
舞踊作品を規定する1つの要素でしかないとい う見解からである。
11.フラグメント(fragment)は破片、断片と和訳 される。本稿で積極的に用いた理由は、観客の 2次的鑑賞は散らばっている空虚表象を集めて 組み替え(構築)可能であるという見解からで ある。
参考引用文献
1)Roman Ingarden:
ARTISTIC AND AESTHET- IC VALUES
, Oxford University Press, 1971.2)M. メルロ=ポンティ(竹内芳郎・小木貞孝共 訳):
知覚の現象学Ⅰ
, みすず書房 , 東京 ,1967.3)E. フッサール(山口一郎訳):
受動的綜合の分 析
, 国文社 , 東京 ,1997.4)E. フッサール(立松弘孝訳):
内的時間意識の 現象学
, みすず書房 , 東京 ,1967.5)M. メルロ=ポンティ(竹内芳郎・木田元・宮本 忠雄共訳):
知覚の現象学Ⅱ
, みすず書房 , 東 京 ,1974.6)村田芳子 : 我々の時代にとって舞踊とは何か , 片 岡康子(編著),
舞踊学講義
, 大修館書店 , 東 京 ,1991.7)片岡康子 : 舞踊の意味と価値 , 片岡康子(編著),
舞踊学講義
, 大修館書店 , 東京 ,1991.8)S.K. ランガー :
芸術とは何か
, 岩波新書 , 東京 ,1967.9)S.K. ランガー :