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檜垣考-家集について-

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Academic year: 2021

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(1)

同歌合その他公的場の詠歌 寛弘四年宮仕を機会として、上東門院菊合︵二首﹀、弘 徽齢女御歌合︵二首︶内裏歌合︵五首︶、正子内親王絵合 ︵ 一 一 首 ︶ 、 祐 子 内 親 王 歌 合 ︵ 三 首 ︶ 、 皇 后 宮 歌 合 ︵ 四 首 ︶ に出席し、合計十八首を詠み、その他公的場での詠歌もあ り、歌人として空々しい生活を送ったようである。 伺 交 際 人 物 年 若 く

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て上東門院の女房として仕え、後宮に日を送 り、その問、上達部、殿上人、その他女房達等、多くの人 h と交際もあったようで、家集にも贈答歌がみられる。 次に伊勢大輔と贈答関係にあった人々をあげてみる o 家 経 ︵ 家 集 四 一 了 、 皇 ・ 五 O J 歪 ︶ 定 額 ︵ 家 集 宅 ・ 九 人 ﹀ 実 資 ︵ 家 集 完 ・ 一 品 0 ・ 三 六 一

3

正 光 ︵ 家 集 七 ・ ↓ 八 ・ 九 ・ 一 O 道 雅 ︵ 家 集 一 五 ・ 一 六 ︶ 師 実 ︵ 家 集 七 九 人 O ︶ 経 信 ︵ 家 集 二 一 ・ ニ ユ ﹀ 慶 遅 ︵ 家 集 二 一 一 八 ・ 三 九 ﹀ 紫 式 部 ︵ 家 集 一 七 ・ 一 八 ・ 一 九 ・ 一 一 O ︶ 和 泉 式 部 ︵ 家 集 二 ・ コ 一 ︶ 能 信 ︵ 家 集 会 ・ 八 七 ︶ 長 家 ︵ 家 集 八 八 ・ 入 。 慶 範 法 師 ︵ 家 集 一

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信 宗 ︵ 後 拾 五 九 五 ・ 五 九 六 ︵ 家 集 一 一 ゴ 一 ︶ ︶ 資 通 ︵ 家 集 三 八 二 一 一 九 ︶ 雅 通 ︵ 家 集 呈 よ 霊 ︶ 相 模 ハ 家 集 九 八 ・ 究 ・

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赤 染 衛 門 ハ 家 集 主 − m 一 一 ︶ 少 将 井 尼 ︵ 後 拾 二 一 角 ・ 二 一 一 己

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伺 総 括 作歌生活五十三年にわたり、その間歌合での詠歌・贈答 歌、その他いろいろな機会に歌を詠じた o 平安朝の才媛清 少納言、紫式部、和泉式部等にくらべ、それほど名をしら れていないが、当時にあっては歌人としての才能は認めら れていたらしく、贈答関係にあった人々も多く、それ等の 中には学問的に優れていた人、和歌に長じていた人があ り、それ等の人と対等に歌をよみかわしたものと思われ る 。 注 (1) ﹁保坂都 J f ﹁ 学 苑 ﹄ 昭 一 ニ

0

・ 一 、 平 安 朝 歌 合 大 成 三 ・ 四 萩 谷 朴 - 10

﹁ 伊 勢 大 輔 と そ の 周 辺 ﹂

1

1

家 集

し、

序 その家集や平安時代の勅撰集、物語等に描かれた檎垣 は、他の多くの平安朝女流歌人達と同様、その経歴や生活

(2)

のあとを明らかにたどる事はできない。 しかし彼女の和歌が清原元輔ら梨査の五人によって後撰 集に入れられた事は遊女としての彼女の名声にも増して世 の人々の心に強い印象を与えたようである。その後、勅撰 集に入集した遊女がいないわけではない、が、檎均一ほど世に もてはやされ、長く言い伝えられることはなかった。 彼女には一人の子供もなく晩年には淋しく静かな生活を 送ったらしい、が、その晩年の住いは、この肥後の白川のほ と り 、 蓮 台 寺 あ た り で あ っ た と 一 一 一 一 日 わ れ て い る 。 平 安 時 代 の 一女流歌人が一時なりとも肥時の国で生活を送ったという 事に大きな関心と魅方を覚えるのである o しかも櫓恒は遊女であったにもか L わらず家集が残され ている o 勅撰集中にみられる遊女には、古今集に﹁白女﹂ 仕どがある、が、家集 J d 残した者はいない。このことからも 彼女の名声の一端がうかがわれる。

︵ 苧

l ︶ 現在、檎坦胸中ぷ集の伝本は約十四種が知られているが、 その他に蓮台寺に一冊、比較的上質の伝木が残されてい る 。 こ L では、紙同の関係上、その蓮台寺本について、ま ず、それが他の合本の系列のうちでどのような位置にある か、叉、家集全体としての成立の一過程はどうであるか、の 二点にしぼって楠同一自身のことに関しては省略したいと思

ト ワ ︵ 注 ︶ ‘ 一 、 檎 垣 集 中 の 引 用 歌 は 蓮 台 寺 木 を 底 木 と し 、 番 号 は そ の 第 一 一 良 の 歌 を 引 と し て 以 下 順 次 符 し た も の と す る 。 二、その他の引用歌は、その資料による番号を用いる 一、蓮台寺本と諸本 蓮台寺に伝わる﹁檎垣掘集﹂は、茶褐色の桐の箱に納め られ、その周囲には虫喰のあとがいちじるしい。しかし箱 に納められていたせいか中の写本は汚損の跡、がほとんどな い。墨のあとも生々しいばかりの体を残し、奥書もはっき りしている。詳細は次に示すとおりである o 蓮令寺本一冊、縦十六・二一側、横十七・五初、胡蝶装。 烏子紙、表紙には土黄色に菊か唐辛かと思われる文様を施 した布地で、題余なし。︵箱のふた中央に﹁檎垣集写﹂と 墨書き︶紙数二十枚。前一枚、後五枚の一遊紙、墨付十四 枚。一一向十行和歌は二行書きで詞書より一字ないし二字下 る。奥書は次のとおり。 本 一 五 元久二年五月廿九日 校 合 周 平 以 右

下之

違 一 千 一 冊 時 字 者 寛 書 飛 文 写 鳥 七 皐 井 従 年 尤 前 三 六 後 大 位 月 代 納 治 下 可 言 部 旬 為 雅 卿 明 掌 平 法 鏡 駒l朝 橋 者 冥 匹 也 筆 判 在 ヲ

(3)

玄幸 在判 蓮台寺本は一応このようになっているが、他の多くの伝 ︵ 注 2 ︶ 本については高橋正治氏が解説されている。それによれば 伝本は四種に分類されており、 第一類本宮両庁書陵部本

A

第 二 タ タ

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D

群書類従本、先光清邦筆本 神宮文庫本 第三ク契沖自筆本、中島広足補註本扶桑拾葉集所収 本、清水浜臣旧蔵木 第 四 ク 東 大 図 書 館 本 、 冠 註 本 の よ う に な っ て い る 。 それでは蓮台寺本は右の分類中どの部類に入るのであろ うか。同氏は第一類本と第四類本は、他のものとは明らか に特殊な位置にある事を指摘されているが、この事は蓮台 寺本との比較に於ても明確にあらわれている。つまり、蓮 台寺本と比較すれば第一類本、第四類本には独自異文がい ちじるしく多い。従って蓮台寺本はこの二つの類には属せ ず他の二つの類のどちらかに入ると考えられる。 ところで第二類本と第三類本との区別は

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﹁元久二年云々﹂の奥書の有無 ︵ 注

3

︶ 大和物語一四一段中の﹁花す L き云々﹂の歌の有無 この二点が主な決め手となっているが、同氏は

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の 奥 書 が あ っ て

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の 歌 が な い も の を 第 二 類 本 、

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の奥書が欠けて

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の歌があるものを第三類本とされているので、このことか ら考えると蓮台寺本は﹁花す与き﹂の歌が見あたらないの で明らかに第二類本に入れられるものとなる。 さらにそれらの伝本の系統図をみると、高橋氏は、用字 の違いや、書式の相違、及び、共通異文の数などによって 次のように系統づけられている。︵第二類本と第三類本に 於 て ︶

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清 群 補 亡 コ | | 仁 ゴ 契

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-14-︵ 注 4 ︶ さて、蓮台寺本を底本として他の伝本との独自異文及び 共通異文の関係をみたが、これと同じ形にあらわれてき た 。 つまり、共通異文︵乙 L では蓮台寺本に対してある諸本

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聞では閉じ異なり方をしている︶ 上あ右ものをみると 的 契 補 清 帥 契 補 扶 付 契 扶 浜 村 扶 浜 的 清 群 付 契 補 ャ 川 川 神 補 それが二個以 に つ い て 、 浜 群 扶 浜 右のようになる。こ L に於て的によって契補清群扶浜の結 びつきが強く宮

B

C

D

とは明らかに区別されることが わかる。叉、的のグループの中でも伸との関係上、それが 契補扶浜のまとまりと清群のそれの二つに分かれることに なり、特に清群の場合は帥でも明らかなように、その結び つきは強く、契補扶浜とは別の一群をなすものと思われ る。次に、その分かれた契補扶浜のまとまりをみるとその 中でも付によって契扶浜としての一かたまり、か、さらに仲 に於て特に扶浜の関係の強いことがわかるから、扶浜と契 とはや L 離れてしまう。叉、的の神宮文庫本と中島広足補 註本との関係は、こ L では二つの共通異文をもってはいる が、これまでの経過のうち他の諸本の結びつきからみて、 契補扶浜の系統には入れられないと思われる。 このようなことから前に記した系統図はきわめて妥当性 のあるものと言えると思う。 それでは蓮台寺本はいったいその系統図のどこに位置す るであろうか。蓮ム口寺本は前記したとおり、分類上では第 二類本に入るものである。従って宮

B

C

− D 及び神・清 ・群の類に関係していることは明らかであるが、しかし前 者と後者の聞はすでに実証されたように区別される。そこ で前者についてみると、高橋氏、が指摘されたように、宮

B

は他の宮内庁書陵部本 A ・

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D

とはまた違った独自の位 置 に あ り 、

C

及び D はいちじるしく似ており密接な関係に あることから、こ与にわり込むことはできない。後者に於 ては、清・群が強い結びつきを持っているからこ与にも妥 当しなくなる。とすると、神宮文庫本の系列中以外に考え ら れ な く な る 。 そこで蓮台寺本に対する神宮文庫本の独官異文を見る と、その数は二ト五である。が、このうち単なる用字の相 違ゃ、意味は同じだが、ごく少傾、の助詞のちがい、あるい は神宮文庫本のみが異っているといった類のものが多く本 質的に異っているものは少ない。又、宮内庁書陵部本

A

・ B ・

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D

以外の諸本の中では蓮台寺本と神宮文庫本は、 共通異文を七個所持っており、かなり密接な関係であるこ とがわかる。しかも神宵文庫本の奥書にも蓮台寺本と同じ く﹁右之一冊者飛鳥井前大納言作市則一五々﹂が著されてい ることから、この二木の間の関係が強いことはいっそう明

(5)

!1111 らかである。しかし、宮

C

と宮 D 、扶と浜、及び清と群 と、各々密接な関係のあることから一つの列に結びつけた ように、はたして蓮台寺本と神宮文庫本とを並び加えるこ とができるか疑問である。独自異文二十五という数がどう しても納得いかないのである。従って、神宮文庫本は、雅 章卿自筆の系統をひくものが寺本の他にさらにあってそれ から派生しているのではないかと思われる。ム 7 は寺本を中 心に神宮文庫本を見てきたが、結局その二本の関係は系図 に 一 不 せ J ば 雅章卿自筆本

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蓮 1 台 本 寺 神 木 宮 文 庫 のようになるのではないだろうか。従ってこれを第二類本 と 第 三 一 類 本 間 の 系 統 図 と 合 わ せ て み る と 、

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神 浜 扶 1111 のようになる。蓮台寺本は寛文七年六月下旬︵一六六七 年︶の書写本を更に転写したものであり神宮文庫本は高橋 氏の解説︵私家集研究﹁槍垣集﹂︶によれば﹁天明四年 ︵一七八四年︶甲辰八月吉且奉納皇太神宮林崎文庫云々﹂ となっているので蓮台寺本の方が早い時期のものである。 これまで主に第二類本と第三類本との系統についてみた が 、 こ t A ですべての伝本についてみてみたいと思う o す で に高橋氏がその系統図を作っておられるのでちこ与では同 氏の要点だけを拾いながら、その一系統図の中に蓮台寺本を 加えて全体としての系統を一応記してみることにする。 前の図でもわかるように第三類本は第二類本の中に含ま れてしまっているが、第二類本にない﹁花す L き﹂の歌の 部分が、どのようにして第三類本中に入ってきたか立まず 問題になる。第二類本はすべて﹁元久二年云々﹂の奥書を も つ の で 純 粋 な 大 交 と み ら れ 、 作 甲 山 , i h A 7 Jホ統には元来﹁花す tふき﹂の歌の部分はなかったものと思われる。従って﹁花 す L き﹂の歌の部分のある第一二類本は本文として不純であ るかといえば、この部分は大和物語の第一四一段中にあっ て、これはその原木に於て既に含まれていたと思われるの で、檎垣家集が大和物語の影響を受けていると見るならば 当然この﹁花す L き﹂の歌の部分がある伝本が正しい本文 と一言われるだろう。しかも大和物語の古い伝本は、そのほ とんどが一四一段に﹁此四首司皆在檎掘集件女暫在京欺﹂

(6)

-14-の註があることからも、この﹁花す L き﹂の歌の部分を含 む檎垣市胆集も古くあったことがわかるのである。しかし、 第三類本がそのような本から﹁花す L き﹂の部分を取り入 れたか、あるいは、大和物語から取ったのかは不明であ ヲ 心 。

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何 れ み A 一 ﹁ さ y れ 石 の ﹂ の 一 一 歌 の あ る 本 一 雅章卿 自筆本 叉業兼本系統の本には最後に﹁さ tふれ石の﹂の歌があっ て、その後に﹁またある本にこの歌ありとぞ﹂とあるの で、この系統本には、元来この歌はなく、他の本によって 補足されたこと、がわかる。そこで全体としての諸本の系統 は次のように図示されよう。

(7)

二、家集の成立 家集の成立は、その中の歌や詞書、あるいはそれ以外で 関係している歌集や物語の中にみえる人物などから、お与 よそ見当がつくのであるが、檎垣集の場合では、例えば家 集︵お﹂番の歌は後撰集と大和物語にも載っているが家集の 歌と合わせて三本とも相手の人物をそれぞれ異にしている のである。この家集はだいたい本文からみると清原元輔、か 副主人公の位置を占めているように見えるが、一方前述し たような複雑な事情もあることから成立を考える上でも問 題 に な る 点 が 多 い 。 ここではまず、その三本の関係を明らかにしながらその 他の歌集などとも考え合わせ檎垣集全体としての成立の過 程や時期を考察してみたいと思う。 まず問題になる歌は おいにきはめて、すみかもなくなりててつから水く むきはになりて桶をひきさけて出にしも国のかみ志は し出らる L74 ちにさしあいてめのとなる物みつけて なとかくはなとみとむるに名たかきひかきと人の い へ は は た か く る 与 に よ ひ い は つ か し け れ と か くれ所もなくておけをきしにをきてゐたれはいか て い と か く は 有 し そ あ は れ な と あ れ は お も ひ わ ひ て 老 は て 1 ふかしらのかみは志ら河の 酒 諮 語 習 最 古 一 司 d会 V S μ 3 2 容 匂 鴇 災 均 磁 波 援 護 運 翁 母 会 式 首 羽 車 場 事 費 謀 議 論 叢 京 震 安 検 問 みつはくむまてなりにけるかな このように檎担の相手の男性は、家集が﹁国の守﹂とある の に 対

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、 後 撲 集 中 ハ 雑 一 ・ ご 一 一 一

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︶ で は つくしの志ら川といふ所にすみ侍りけるに大弐藤原興 範朝臣のまかりわたるついてに水たへんとてうちより てこひ侍けれは、水をもていてふよみ侍ける。総垣姫 年ふれはわか黒髪も白川の みつはくむまでなりにけるかな となって、藤原興範である。又、大和物語︵一二六︶で は、野大弐︵小野好古︶となっている。何故このように異 って一記されているのであろうか。檎垣瓶一人をめぐって、 し か も 同 じ 歌 で あ り な が ら 一 一 一 人 の 男 性 が 現 れ て い る の で 、 コ一本ともに事実を言っているとは思われない。いづれかは 虚構ということになるが、それらを明ちかにすることによ って家集成立の過程や時期もわかるのではないかと思う。 そこで交渉のあった三人、興範、好古、元輔についてみる こ と に す る 。 まず後撰集に見える興範は、大弐とよばれていた時期で あるから彼の官歴からみると、 - 16ー 延喜二年正月廿六日 七年二月廿九日 十 一 年 二 月 十 五 日 従四下、転大弐 右京大夫 任参議 ︵ 大 日 本 史 料 ・ 公 卿 補 任 よ り 抜 泰 ︶

議 翠 議 議 謹 嘩 諜 割 必 理 事 連 蝿 聾 審 議 選 謹 聾 聾 蟻 怒 鳴 唆 事 舗 曜 諸 説 謀 議 議

(8)

によってもわかるように延喜二年から七年までの間でその 問に起きた事件を後撰集では、とりあげていると思われ る 。 大和物語に見える好百についてみると、 天 慶 三 年 正 月 兼 追 捕 凶 賊 使 。七年二月廿一日兼山城守 タ八年十月十四日太宰大弐 天暦元年四月廿六日任参議 天徳四年四月廿コ一日任太宰大弐 ︵ 大 日 本 史 料 ・ 公 卿 補 任 よ り 抜 翠 ︶ のような官歴から、彼が討手の使いにさ L れたのは天慶三 年のことで、藤原純友の軍勢を筑前博多に撃破したのは大 日本史料によると天慶四年五月のことであるから、大和物 語 が 一 五 う の は こ の 時 期 の こ と で あ ろ う 。 文、家集でいう清原元輔についてみると、 安 和 二 年 十 月 任 河 内 権 守 天 延 二 年 正 月 任 周 防 守 天元三年三月十九日叙従五位下 寛 和 二 年 正 月 肥 後 守 永 昨 二 年 六 月 卒 ス ︵ 年 八 十 三 才 ﹀ ︵ 三 十 六 人 歌 仙 伝 よ り 抜 翠 ﹀ つまり元輔が肥後の守であったのは、 年までの約四年間であった。 寛和二年から永昨二 そこで家集を中心にして、それが正しいとすれば元輔戸 会った時、檎垣はすでに白髪の老女であるから、好古に会 ったのは、それから四十六、七年前で、袷垣もずいぶん若 く な る

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、叉、血ハ範とは八十年余りの隔りがあるのでこれ は、もはや考えられなくなってくる。 それでは、大和物語の話が正しいとすればとうなるか。 思うに後撰集は清

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輔もその撰者の一人である。従って そ の 中 の 歌 は 一

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を、通していると考えられるから、好古 との事件を知っていながら後撰集にはわざ/\興範と、人 物を代えて入れることもないと思われる。叉、家集にして も、好古との事件以後四十五年前後も経って再び元輔に会 ったとするとや L 托在が年をとりすぎてしまうし、同じ歌 を異った男性に詠むということも疑問である。 とすると、後摂長の歌が正しいといえそうであるが、こ t A では詞書についてみると、大和物語では、好古がわざ /\﹁檎垣の御とレひける人にいかであはん云々﹂といっ て尋ね歩いているし、家集でも﹁名たかきひかきなりと人 のいへは云々﹂あるいは﹁:・はせといふところにたつねき てこれや名たかき﹁口かきとはきこゆるととひしに云々﹂な どと云っている。勺まり、大和物語に書かれた時も家集に 入れられた時にもすでに檎垣は有名であった事がわかる の で あ る 。 これは、彼女が 遊女としてばかりでなく、歌道にもす

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ぐれていたことが原因となっているのではないかと思う o 従って大和物語のその部分も家集も、こうした背景の上に 執筆されたと思われるのである。 では何故、それらは形が変えられて書かれたのだろう か。これは檎垣が、きわめて伝説的な人物として考えられ ていた一面を示すもので、つまり大和物語によれば、檎垣 が九州にいたことはすでに大和物語の作者が一二六段を執 筆する時には知っていることになるから丁度その頃の大事 件であった﹁純友の自﹂のことをひきあいに出して、しか も好古は天暦四年までに三回も九州ヘ下っているので、そ こから槍垣との話を倉約したのではないか。そして後撰集 の歌を、大和物語へ彰仮語化して載せたのではないだろう か。大和物語には﹁首去の女﹂の昔物語や歌が多分に取り 入れられていることも之のことを示すものと考えられる。 叉、家集で元輔との豪州打として害かれているのは、槍垣 集の作者がそれを全告として強レて元輔と関係づけたから ではなかろうか。つまり、後撰集に袷桓の歌が入ったとい うことが彼女の名を手からしめ、その撰者の一人である元 輔が肥後の守として下℃てきているのであるから、その二 人のことを推量して言くのは考えられないこともないと回ゅ う 。 元 輔 と の 関 係 上 、 Z L れが檎垣の歌でもないのに家集に とり入れられたものさえある位である。拾遺和歌集︵五五 六︶の歌がそれである。 清原元輔、ひこの守にて侍りける時、かの国のつ t ふ み のたきといふ所を見にまかりたりけるにことやうなる 法師のよみ侍りける 音 に き く つ い ム み の 滝 を 打 見 れ ば た¥山川のなるにぞありける このように、こ与では﹁ことやうなる法師﹂が詠んだとあ るのに、家集では﹁つにみのたき﹂と題してちゃんと彼女 の歌として入っている。そのように強いて元輔と結びつけ ようとしたことがわかるのである。従ってこの元輔との事 件も虚構の上に成り立っていると忠われるのである。しか も 、 一 冗 輔 と の 関 係 が 事 実 な ら ば 拡 の 家 集 ﹁ 一 冗 輔 集 ﹂ に 一 首 ぐらい檎垣に関する歌もあってよさそうであるが、それら しいものは全く見あたらない。 一方、家集と大和物語との関係をみるに、解家集と同じ と思われるのは、二一六段から一三

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段迄の五段と、一四 一段であるが、それらをよくみると一二六段から一二八段 までは﹁袷垣の御﹂とはっきり註されているが、後の二段 と一四一段では、た H A ﹁ 筑 紫 な り け る 女 ﹂ と な っ て い る 。 家集ではその﹁筑紫なりける女﹂の歌をも槍担のものとし て入ってきてレるのである。これは家集の作者が、袷垣が 九州に住んでいたことを頭におレて、ある日発見した大和 物語の九州に関係のあるこの訟を、さっそく家集にも入れ たのであろう。そして一二九段以下も檎垣のものではなく

(10)

-18-とも﹁筑紫﹂ということからそのま L 加えたものと思われ る。並列の順も同じである。従って槍垣極集は大和物語の あとにできたものと思われるのである。 このようは一冊の檎垣一結集は、彼女の歌が後撰集に選ば れて有名になったあと、その後撰集の撰者である一万輔が九 州へ下ったことから彼らのことがいろ/\‘世に伝えられ、 作者もそれらを考えあわせて、残されていた彼女のいくつ かの歌を物語風に作りなしていったのではないだろうか。 そして大和物語中の彼女の住まいに関係のある筑紫の女達 の話までも拾いあげ、その後に作られた拾遺和歌集︵五五 六︶からは、元輔との関係上彼女の歌として記載したので ある。拾遺集は一

0

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0

年前後に成ったものであるから家 集もそれ以後ということになる o そして﹁元久二年云々﹂ の奥警のある伝本が見えることから、拾遺集成立以後、平 安の中期から鎌倉の初期の頃には既に成立していたと思わ れ る 。 ︵ 注 1 ︶ ︵ 注 2 ﹀ ︵ 注 3 ﹀ ︵ 注 ︶ ﹁ 私 家 集 研 究 ﹂ 第 三 輯 −

1

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一 輝 集 1 1 1高 橋 王 治 P 九 五 P

O 七 大和物語一四一段中 ハ を V さ て こ の お と こ 女 他 人 に も の い ふ と 聞 き て : ・ 云 ノ を 花 す L き 君 が 方 に ぞ な び く め る 思 は ぬ 山 の 風 は 吹 け ど も 官 B 宮内庁書陵部本 B 宮 C 宮内庁書陵部本 C 官 D W D 補 中 島 広 足 補 註 本 契 契 沖 自 筆 木 扶 扶 桑 拾 葉 集 所 収 本 浜 清 水 浜 医 旧 蔵 木 群 群 舟 L M 類 従 本 清 生 光 情 邦 筆 木 神 神 宮 文 庫 本 以 下 諸 本 の 名 称 は 略 し て 右 の も の 及 び 、 左 に 一 万 す も の を 以 っ て す る 。 宮 A 官内庁書陵部本 A 冠 冠 註 本 東 東 大 図 書 館 本 寺 蓮 台 寺 所 蔵 本 ︵ 注 5 ︶宮内庁警陵部 B の奥書に 元久二年五月廿九日校合了 従 三 位 治 郎 卿 平 朝 臣 判 私云業兼卿欺相模守業一房男 と あ る 。 ハ 高 橋 正 治 ﹁ 檎 垣 極 集 ﹂ 参 考 ︶ ︿ 注

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